「時代」という曲

2013年4月6日、NHK総合で放送された「SONGS」の「時代」特集を観た。

後半で流れた2010年ツアーの映像や、さまざまな人々によるこの曲のカバーをめぐるエピソードもさることながら、最も興味深かったのは、やはり中島みゆき自身によるこの曲についての語りである。

「時代」を書いたのがいつだったのか、はっきりとは覚えていない、と彼女は言う。

口が勝手に歌うにまかせた というような生まれ方をした曲なので
……
今でももしかしたら
もっと長い曲だったのかもしれない という気がする時もあります

「時代」の本来の(?)「もっと長い曲」バージョンを聴いてみたい――それはおそらくは叶わぬ夢ではあろうが、そうした夢を見させてくる言葉でもあった。

少し横道にそれるが、この語りを聴いてふと思い出したのは、以前、彼女が「夜会」のテーマ曲「二隻の舟」について、(いつのインタビューだったか思い出せないのだが) 「『二隻の舟』ばかり20分ぐらい歌いつづけるなんて舞台もやるかもしれない」というふうに語っていたことだ。

こちらの方も、今のところ実現してはいないが、「夜会」のさまざまな物語世界の中で、そのたびにさまざまな意味を新たにこめながら歌われてきた「二隻の舟」に、さらなる大きな世界の広がりを期待させてくれるような発言だった。

「時代」や「二隻の舟」に限らず、中島みゆきの――すべてとまでは言わないが――多くの作品は、そのような意味での、多様な文脈に応じて新たな意味を――「世界」を――生成する無限の可能性を感じさせてくれる。

多様な文脈、というのは、「夜会」の場合のように、中島みゆきの側が私たちに向けて提示してくれる物語だけを指すわけではもちろんない。

ひとつの曲を聴いてくださる方々が
その時々の環境や経験や いろいろな思いにもとづいて
さまざまなイメージをふくらませてくださるのは
書き手にとっては 時には意外な場合もあったりして
かなり 楽しみなことです

――その曲を聴く私たちの、「その時々の環境や経験や、いろいろな思い」。

それこそは、とりわけ「時代」という曲に――おそらくは中島みゆき自身さえ予想しえないようなかたちで――繰り返し新たな意味と生命を賦活してきたのではないだろうか。

私自身について言えば、「時代」は――おそらく多くの中島みゆきファンにとってもそうだったように――そもそも彼女の存在を意識し、その存在に惹きつけられてゆく最初のきっかけになった、重要な曲のひとつだった。

ファンになりたての頃は――アルバム『私の声が聞こえますか』版とシングル版とを、その時の気分に応じて選びながら――何度も繰り返し聴き、時には自分で下手糞なギターの弾き語りに挑戦してみることもあった。

――が、いつの頃からか、この曲は、彼女の最初期の代表曲として常に意識にありながらも、実際にレコードを再生して耳にすることは少なくなっていった。

それはおそらくは、私自身の生にとって「時代」が新たな意味をもったメッセージとして響くような「文脈」を、私が長らく見出しえないでいたからだろう、と思う。

その期間は、まったくの偶然ではあろうが、1989年の『野ウサギのように』ツアー以来、中島みゆき自身がライヴでこの曲を歌うことのなかった21年間と、ほぼ重なっている。

――その21年間を経てのコンサートツアー『TOUR2010』で、私もまた、この曲との久しぶりの再会を果たしたような気がする。

このツアーの初日および楽日についてのブログ記事でも書いたように、本編のラストで、

私から、あなたの人生に、拍手を送らせてください――

というMCと拍手とにつづけて、「今はこんなに悲しくて……」と、この上なく透明なア・カペラで彼女が歌い始めた瞬間、私の胸には、まるで初めてこの曲を耳にしたかのような「驚きの感覚」――自らの生を遥かな高みから俯瞰する視点へと浮揚する感覚――がよみがえってきた。

と同時にそれは、「時代」が新たなメッセージとして、私自身の中に鳴り響く「文脈」を再発見した瞬間でもあったのだ、と思う。

その「文脈」とは、私がその時まで――とりわけ、1990年代前半以来、パソコン通信を中心とする中島みゆきファンのコミュニティの中で――出会った仲間たちとの「別れ」の記憶である。

そのことについては、上記のツアー楽日のブログ記事にも書いたので、詳しくは繰りかえさない。

ただ、「時代」というととりわけ強く思い出されるのは、そうした仲間たちの中でも、かつて私を中島みゆきファンの「濃く」「熱い」コミュニティの中へと、半ば強引に引きずり込んでくれたひとりの友人のことである。

オフラインミーティングのカラオケで「時代」を歌うとき――だいたいは参加者全員の大合唱になるのだが、彼の声はその中でもよく通った――「まわるまわるよ……」からのサビで、私だけがコーラスパートを歌うと、なぜか彼の声とよくハモって、「狩人」みたいだな、などと周りに笑われたことも思い出す。

彼が世を去ったのは2003年11月、その翌年1月に夜会『24時着0時発』がスタートする直前のことだった。

駆けつけることも叶わなかったその葬儀で「時代」が流れたという時間、私もアルバム『私の声が聞こえますか』の「時代」を聴きながら、心の中で彼を送った――

個人的な述懐が長くなってしまった。

その次のツアー「縁会2012~3」で中島みゆきが再び「時代」を歌ったことについては、まだ記憶にも新しく、最近の記事でも書いた。

その理由について、憶測を語ることはやめておこう。

私が自分で歌う時には
いっそ もう何の意味も込めずに
「無」といった気持で歌う方がいいのかもしれないと
最近 思うのですが
思ってはみても いざ歌うと 何かと思わくが入り込んでしまいまして
まだまだ ほど遠いなと反省するばかりです

中島みゆき自身もまた、この曲の中に、たえず新たな意味を――それが鳴り響く文脈を――探しつづけてきたのではないか、と思わせる発言でもある。

そして、「無」こそは、そうした個々人の「思わく」を超えて、この曲を聴くすべての人びとの生という無限の文脈の中に、この曲がたえず新たな意味とともに鳴り響くことを可能にするのではないか――

彼女にこう語らせたのも、そのような思いだったような気がする。

「オールナイトニッポン」ふたたび

2月23日(土) 深夜 (正確には24日(日)の早朝) 3~4時に放送された「中島みゆきのオールナイトニッポン」。

「オールナイトニッポン」の45周年記念スペシャルに「伝説のパーソナリティ」の一人として登場した彼女の久しぶりの深夜ラジオ生放送を、多くの古参ファンは、懐かしい思いとともに耳にしたのではないだろうか――もちろん、私もその一人である。

とはいえ、30数年前の学生時代のように、この時間帯まで起きてリアルタイムでラジオを聴くのは、もはやとうてい不可能であり――やはり多くの同輩の方々もそうしたであろうように――インターネット放送をPCに録音しておいたのを、先ほど聴き終わったところだ。

30数年という時を隔てての「懐かしさ」への期待は、いい意味で裏切られた。

年齢とともに気力・体力の衰えを痛感する当方とはきわめて対照的に、中島みゆきのあのハイテンションのしゃべりは、まったく年齢というものを感じさせない。というよりも、30数年前のレギュラー時代以上のハイテンションぶりである。

2月23日はいうまでもなく彼女の61回目の誕生日だったわけだが、その話題がまったくスルーされてしまったのも、宜 (むべ) なるかな――という感がある。

その上、なんと4月からは、月1回ではあるが、日曜深夜 (月曜早朝) 3~5時に「中島みゆきのオールナイトニッポン」が復活するという「重大発表」には驚かされた。

かつて、1979年4月から1987年3月までの8年間、ほとんど毎週、月曜の深夜に放送されていたあの伝説の名番組は――現在ではコンサートツアーのMCか、たまのラジオ出演でしか触れることのできない――彼女のコミカルな側面が大きく前面に出ると同時に、シリアスな「最後の葉書」コーナーに代表されるように、ファンとのあいだの貴重なコミュニケーションの回路としても機能していた。

直接に彼女の歌からではなく、あのDJ――とりわけコミカル/シリアスの強烈なコントラスト――に魅かれ、いつの間にかファンになっていたという人も、おそらく少なくはないだろう――というか、私自身がその一人である。

4月から復活するオールナイトニッポンが、ふたたびそうしたコミュニケーションの回路としても機能するようになるのかどうか――できることなら、その可能性も含めて、放送の開始を大いに楽しみに待ちたいところだ (やはり、インターネット放送の録音で聴くことにはなるだろうが)

――1時間はあっという間に過ぎてしまい、午前4時からの谷山浩子の担当時間にも、予想通りというか、中島みゆきが乱入した。交代時間の4時直前から始まったこの二人のやりとりは――30数年前のオールナイトニッポンでもそうだったように――長年の朋友どうしの気の置けない関係が、とてもよく伝わってきて楽しい。

2000年の夜会「ウィンター・ガーデン」で共演した時についてのちょっとした話題も、おもしろかった。ちなみに、この舞台は、谷山浩子にとっても非常に印象に残る仕事だったようで、彼女の当時の個人ホームページにも、多くの興味深い記述がある。

かつて、木曜深夜 (3~5時) に放送されていた谷山浩子のオールナイトニッポン第2部も、学生時代の私は、眠い目をこすりながら (時には半ば意識朦朧としながら) 楽しみに聴いていたものだった。

この人もやはり「年齢不詳」というべきか、谷山浩子のあの可憐な声も、その頃の記憶とまったく変わっていない。

今回の放送の録音を、ベッドに寝転びながらイヤホンで聴いていると、その頃、昼夜逆転生活を送っていた自堕落な学生時代の記憶が、思わずじわじわとよみがえってきた。

――と同時に、未来が見えない紆余曲折の中にいたその頃と比べて、今の自分は果たしてどれだけ「進歩」したのだろう――形の上では仕事を得、家族を得たとしても――本質的には何もあの頃と変わってはいないのではないか、などと、とりとめのないことを考えたりもした。

中島みゆきがコンサートツアー「縁会」で、「世情」の前のMCで語っていたように、30数年前と現在とでは、道具やシステムという面では、この国は別の国かと思うほどに変わってしまった。あの頃、深夜ラジオの彼女たちの声を伝えてくれた、ノイズの多いAM放送やカセットテープは過去のものとなり、ラジオもインターネットで聴く時代になった。

――しかし、「声」という唯一の回路を通じて、パーソナリティとリスナーとをつなぐラジオというメディアの本質は、今も変わらない。その独特の魅力を、久しぶりに再発見させられたような、二人の番組だった。

「十二天」の世界像

京都国立博物館の特別展「国宝十二天像と密教法会の世界」を観てきた。

第一展示室に、この展覧会の最大の眼目である、同博物館蔵の国宝・十二天画像(平安後期、1127年)の十二幅の掛軸が展示されている。

これらは、正月八日から七日間、宮中の真言院で執り行われた後七日御修法(ごしちにちのみしほ)において、道場を守護するために掛けられていたものである。

後七日御修法は、平安初期の835年、天皇の健康と国家の鎮護を祈るための修法(密教の儀礼)として、空海の奏請によって開始された。正月七日までの宮中節会(せちえ)の後に引き続いて七日間行われるため、この名がある。現在もなお、東寺の灌頂院に場所を移してつづけられている (同博物館ホームページより)

1127年、東寺宝蔵が火災にあい、それまでこの修法に使用されてきた十二天画像も焼失してしまう。この時に新調され、東寺に伝えられてきたのが、今回展示された画像である(特別展図録より)

この特別展では、他にも、密教法会に使用された絵画や曼荼羅、仏具、関連文書等が豊富に展示され、その世界像に触れることができる。それは、上記の後七日御修法の由来からもうかがわれるように、日本中世に重きをなした鎮護国家の思想としての密教の世界像そのものである。

毘沙門天
風天 西北(乾)
水天 西
羅刹天 西南(坤)
焔魔天
火天 東南(巽)
帝釈天
伊舎那天 東北(艮)
梵天 天(上)
地天 地(下)
日天
月天

十二天が、全世界のすべての方位の――垂直軸の天と地、時間軸の日と月を含めた――守護神として、密教的世界像の中でとりわけ重要な位置を占めていたことは想像に難くない(十二天と方位との対応関係は右の表を参照)

それゆえ、十二天は平安初期から室町時代に至るまで、繰り返し図像化されてきた。この展覧会でもその掛軸や屏風の何点かを観ることができたが、やはり圧巻だったのは、第一室の国宝の画像である。縦横ともに1メートル強の大画面に、繊細な描線と芳醇な色彩によって、十二天それぞれの姿が、きわめて表情豊かに描き出されている。

とくに印象に残ったのは、十二天の最後に展示されている月天の、白を基調とした清澄な色彩と、吸い込まれるような静かで穏やかな表情――そして、その顔の向かって左に浮かぶように描かれた、白い蓮の花である (この特別展は、残念ながら2月11日(月・祝)で終了してしまうが、「e国宝」というサイトで、全12幅の精細なデジタル画像を観ることができるので、できれば画像を拡大してご確認いただけるとありがたい)

 

この絵を観て即座に連想したのは、中島みゆきの夜会VOL.15/16『今晩屋』での、「十二天」から「紅蓮は目を醒ます」への一連の場面だった――蓮の花の、白と紅という色の違いはあるにせよ。

以前、この夜会のレビュー「物語の構造」(2)でも書いたように、この場面は、『今晩屋』の物語の最大の転換点である。

罪責と悔恨の果ての絶望に打ちひしがれ、床に倒れ臥した〈母〉を少しずつ包み込むように、地と天とを往還する無数の救済の光――そして、長い年月を泥の中で種子として過ごしてきた蓮がひそかに花開く、再生への覚醒の瞬間。

北の天から 南の天へ
乾の天から 巽の天へ

この歌の視点は、地平から天頂を経て180度反対の方角の地平へと、天空を振り仰ぐように往還しながら、反時計回りに回転していく。そして、

梵の天から 地の天へ
日の天から 月の天

天から地へという垂直軸の往還、日から月へという時間軸の往還――

このめくるめくような視点の往還による、全宇宙を見はるかす遠心的な世界像の開示こそが、救済への扉を開く。

上記特別展の解説にも書かれていたが、十二天は当初は、東西南北と乾坤巽艮を守護する八天が仏教思想に導入され、それに天地の二天を加えた十天、そして日月の二天を加えた十二天という順序で、全方位の守護神として、密教的世界像の中に組み込まれていったという。

中島みゆきの「十二天」の歌詞の展開は、まさにその世界像の構築の過程を如実に再現しているようにもみえるのが興味深い。

 

『今晩屋』は、以前、「『山椒大夫』と森鴎外」でも書いたように、日本の宗教的世界像の古層に分け入ることを糸口として、「過去の救済」という壮大なビジョンを提示した物語だった。

十二天を、その物語の最大の転換点をなす救済者として、またそれのみならず――第1幕がこの曲のインストルメンタルによって幕を開けることからもうかがわれるように――物語全体の枠組みをなす世界像として、中島みゆきが導入したこと――

その理由のひとつは――これはいうまでもなく、まったく私の個人的な想像にすぎないが――天地という垂直軸と、日月という時間軸をも、十二天がその構成要素として含むからではないだろうか。

『今晩屋』のみならず――たとえば以前に「神話の解凍」でも書いたように、『ウィンター・ガーデン』も含めて――これまでの多くの夜会において、地上と天空という垂直軸は、過去から未来へという時間軸と重ね合わされることによって、転生と救済の物語の基本構造をなしてきた。

『今晩屋』の「十二天」の場面での、地上から天空へ、天空から地上へと交錯する照明のすばらしい効果も――舞台と客席の全体を包みこんだ、あの圧倒的な「救済」の感覚は、映像ソフトでは残念ながら十分には再現されていないが――その世界像の表現の一端であったと思う。

 

「十二天」といえば、そのやすらぎと懐かしさに満ちた旋律の魅力も忘れ難い――ご想像通りというか、国宝十二天像の鑑賞の際にも、心の中にずっと流れていたのは、あの旋律である。

上述の『今晩屋』第1幕のオープニングのインストルメンタル、とりわけその最初の、牛山玲名がヴァイオリンのG線(最低弦)で、ノンヴィブラートの素朴な音色を生かしながらゆったりと奏ではじめる旋律は、いつも私を『今晩屋』の夢のような世界へと一瞬で誘ってくれる――初めてそれを耳にした時から、今も変わることなく。

『今晩屋』の舞台であの演奏に魅せられた人は少なくないようで、当時、彼女のブログに寄せられた多くのコメントからも、そのことがうかがわれる。

言葉と音と光(照明)と舞台――それらのすべてが一体となって織り成される広大な世界像こそは、「十二天」という曲の本質である。数ある「夜会」のオリジナル曲の中でも、とりわけ特別な思いを私がこの曲に対して抱くのも、そのゆえだ。

「縁会2012~3」金沢公演と大阪公演 (2)

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さて、年が改まって、初日の神戸以来、約3ヶ月ぶりの関西公演。会場は、大阪のビジネス街の中心にあるオリックス劇場 (旧・大阪厚生年金会館) である。このホールも、学生時代に大学オケの公演を聴きにきて以来、数十年ぶりだ。

オープニングでは、昨年末の金沢公演に比べて、やや抑え気味かな、と思っていたら、「化粧」あたりから、ステージも客席も徐々に雰囲気がシフトアップし、後半になるほど盛り上がっていくという、いかにもライヴらしい展開になった――

 

「縁」への思い

前半 (第1幕) でとりわけ印象に残ったのは、「過ぎゆく夏」「縁」「愛だけを残せ」の3曲の流れである。

「過ぎゆく夏」の前のMCで中島みゆきは、この曲の由来――コンサートツアーでともに旅をし、憎からぬ思いさえ抱きかけた仲間との別れを惜しむ思い――について、冗談めかして語ってはいたが、それは実はこの後につづく2曲――今回のツアーのタイトルにもまつわる「縁」を歌う2曲――への伏線でもあったのだな、と今頃になって気がついた。

アルバム『短篇集』 (2000年) で発表されて以来、ライヴでは今回初めて演奏されるこの曲は、これまでファンのあいだであまり話題になることがなかったような気がするが、私は初めて聴いたときから、この曲がとても好きだった。とりわけ、

過ぎゆくものよ 清 (すが) しきものよ
横顔だけを見せつけて
帰らぬものよ 袖振るものよ
熟さぬ酒を酌みかわせ

この”サビ”の素晴らしい疾走感と昂揚感、そしてそれゆえの寂しさとせつなさ。

――この不思議な感覚の共存の理由が、今にしてよくわかる。それは、コンサートツアーという「夏」をともに過ごした仲間たちとの束の間の「縁」への、中島みゆきの熱い想いのゆえだったのだ。

MCをはさまず、つづけて歌われる「縁」は、かつてアルバム『予感』 (1983年) で聴いたときには、私には今ひとつピンとこない曲だった。それはおそらく、「縁」という言葉を――当時の中島みゆきに対する一般的なイメージにひきずられてか――あまりにも「男女の縁」という意味に限定してとらえすぎていたせいではないか、と思う。

だがそのようなとらえかたでは、「万里の道」という言葉の意味や、この言葉のイメージともつながる、大陸的ともいうべき雄大な風景の中を旅するかのような曲調とアレンジのもつ意味が、うまく理解できないだろう。

河よ教えて 泣く前に
この縁はありやなしや

「河」とは、遥かな時の流れの暗喩である。

男女の縁にとどまらず、家族の縁、仕事の縁、そして、人生の中で出会う、すべての人びととの数限りない縁――長い時の流れの中で、結ばれ、ほどけ、そしてまた結ばれてゆく、それらすべての「縁」のかけがえなさへの思いこそは、これら3曲に――そして、このコンサートツアーの「縁会」というタイトルに――中島みゆきがこめた思いだったのではないだろうか。

「この縁はありやなしや」という問いで閉じられる「縁」に対して、つづく「愛だけを残せ」は、この問いへのより肯定的な答を探そうとする歌である。

縁は不思議 それと知らぬ間に探し合う
縁は不思議 それと知りながら迷い合う

縁とは、そのように不確かな目に見えないものとして、生命と時間の流れの中をたゆたいつづけるほかないものだからこそ、

激流のような時の中で
愛だけを残せ 名さえも残さず
生命 (いのち) の証 (あかし) に 愛だけを残せ

この結びのリフレインは、生命のたしかな「証」を残すことを、力強く求めつづけるのだ。

時の流れへの祈り、そして驚き

第1幕の「縁」に対して、第2幕で印象づけられるモチーフは「夜」である。

「夜」といえば、中島みゆきはかつて、アルバム『夜を往け』を中心としたコンサートツアー「Night Wings」(1990年) のMCでも、おおよそ次のような意味のことを語っていたのを思い出す。

私はデビューの頃から夜っぽい曲が多いけど、
この際、「夜」をもっと思い切って前面に出そうと思ったの。
「夜」というとネガティブなイメージがあるかもしれないけれども、
夜には、昼の疲れを癒してくれたり、
明日へのエネルギーを与えてくれたりするような、
そんな不思議な力がある――
そんなポジティブな夜を歌おう、と思ったんです。

――そんな「ポジティブな夜」への志向は、その頃以降の中島みゆきの作品や活動、とりわけ (その前年の1989年にスタートした) 「夜会」に、繰り返し投影されてきたように思う。

最近 (2008~2009年) の夜会『今晩屋』でも、「夜」は、1日を次の1日へとつなぐ時間――そうであるがゆえに、人の運命の分岐点となり、またそれゆえに、悔恨の出発点ともなりうるような特別な時間――として位置づけられていた。

今日を明日へとつなぐ時間としての「夜」――そう考えると、「縁」と「夜」とをつなぐ共通項、すなわち「時間」というモチーフの存在も浮かび上がってくる。

――とはいえ、中島みゆきのすべての作品は「時間」を共通のモチーフとしていると言っても過言ではないので、これはあまり意味のない言い方かもしれない。ただ、そのように考えると、今回のツアーの、とくに本編のラスト4曲の流れの意味が、より鮮明にみえてくるような気もするのだ。

この1月26日の大阪公演では、とりわけその4曲、 「時代」「倒木の敗者復活戦」から「世情」「月はそこにいる」にかけての感動の高まりがすばらしく、これまで私が聴いた3回の中でも、間違いなく最高のパフォーマンスだった。

とくに「倒木の敗者復活戦」と「月はそこにいる」については、私は今回のコンサートで、はじめてこの2曲の真の意味に気づいたと言ってもいいくらいだ。

「時代」と「倒木の敗者復活戦」とをつなぐのは、「転生」あるいは「復活」への祈りである。

叩き折られたら 貶(おとし)められたら
宇宙はそこ止まりだろうか

この問いは、生きとし生ける生命を「次の宇宙へと繋ぐ」転生への希望を歌った「命のリレー」、そして夜会『24時着0時発』のテーマでもあった。

叩き折られた倒木の傷口から、それでも芽を出そうとする新たな生命の復活への祈り――

――この曲のエンディングで、まぶしさを増しながら降りそそぐライトの中、天空に向けて高々と両手を差し上げ、そして深々と首 (こうべ) を垂れる中島みゆきの姿――夜会『今晩屋』第2幕の「十二天」の場面をも彷彿とさせる――その熱く激しく深い祈りを、私は全身が震えるような圧倒的な感覚で受け止めつづけるしかなかった。

つづく「世情」の前のMCで、中島みゆきは、おおよそ次のような意味のことを語った。

この曲を書いた頃、30年以上前と比べると、道具とかシステムとかは、
日本は別の国かと思うぐらい変わってしまったと思います。
でも、いい意味でも悪い意味でも、その頃となんにも変らないものもある、
ということに気づくと、驚いてしまいます。

――「なんにも変らないもの」とは何だろうか。

「世情」のエンディングで、ホリゾントに映し出される歌詞の一節を手がかりにして考えれば、それは、「変わらない夢を流れに求め」る者たちと、「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる」者たちとの戦い――そしてその戦いとともに織りなされてゆく、時代の流れとでもいうべきもののことなのだろうか。

そうした意味では、「シュプレヒコール」の中身やスタイルは大きく変わったとしても、30年以上昔と変わらない戦いやせめぎあいの風景を、私たちはつい最近も、テレビやインターネットの中で繰り返し目にしてきた――未来への見通し難さや閉塞感、そしてそれと表裏一体の不確かな希望という構図も、そのままに。

「月はそこにいる」で上空に浮かび上がる巨大な月は――初日の記事に書いたことの繰り返しになるが――どれほど時が流れても「変わらないもの」の象徴である。

日々の始末に汲汲として また1日を閉じかけて
ふと 立ちすくむ
凛然と月は輝く そこにいて月は輝く

――ここに歌われているのは、巨大な時間の流れの中に、自らの矮小な存在を再発見するときの「驚きの感覚」(sense of wonder) とでもいうべきものだ。

「日々の始末に汲汲と」する中で、とうに忘れかけていた遠い過去の記憶――灼熱の砂漠や「鳥よりも高い岩山の上」での戦いと敗北の記憶――がふとよみがえる。その時に遥かな高みにあって「天空の向きを示した」あの月が、今も変わることなく、この私の上に凛然と輝いている――

――ただ単純に、そのことへの驚き。

それは、この私をも全世界をもつつんで遥かに流れる、時の流れそのものに圧倒される「驚きの感覚」とでも呼ぶしかないものだ。

繰り返しになるが、月が輝く夜は、今日を明日へとつなぐ時間でもある。

「月はそこにいる」という驚きの感覚が、具体的にどのような明日につながるのかは、ひとりひとりの人生の歩みによって答えていくしかない問いだ。

ただ、アンコールのラストに歌われた「ヘッドライト・テールライト」、とくに次の一節は、「まだ終わらない」その旅――遥かな過去から遥かな未来へとつづく旅――の歩みを、繰り返し励ましつづけてくれるような気が、私にはした。

行く先を照らすのは まだ咲かぬ見果てぬ夢
遥か後ろを照らすのは あどけない夢


ところで、「縁会2012~3」は、この大阪公演が私にとっては楽日だったはずなのだが、 すでに周知のとおり、5月23日、新生フェスティバルホールでの追加公演が発表された。

この千秋楽で、中島みゆきがいったいどのような「結論」を私たちに提示してくれるのか
(チケットが取れればの話ではあるが^^;)
、楽しみなような怖いような気もする。

その不思議な期待感の高まりを胸に感じつつ、その日を待ちたい――

 

「縁会2012~3」金沢公演と大阪公演 (1)

中島みゆきのコンサートツアー「縁会2012~3」、前の記事に書いた初日(2012年10月25日神戸公演)につづけて、12月22日の金沢公演、ついで2013年1月26日の大阪公演に行ってきた。

金沢公演――疾走感と一体感

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金沢は当初は予定外だったのだが、古くからの「歌暦ネット」の友人Kさんからの「チケットあるよ~」という誘惑に結局負けてしまい、久しぶりに北陸まで足を伸ばすことになった。しかし、これが大正解だった (Kさんに感謝^^;)

金沢公演に出かけるのは、「EAST ASIA」ツアー (1993年4月27日) 以来、実に約20年ぶりのことである。

それ以前の北陸遠征は、さらにその10年前、「蕗く季節に」ツアーの富山公演 (1983年5月9日) であり、これが私が初めて行った中島みゆきのコンサートだった (その時の記憶は、以前、同人誌の記事「海の中の国境を越えて」に少し書いた)

そのせいもあってか、京都から北陸路を辿って彼女のライヴに出かける旅は、(東京や中国、九州への旅とはまた異なる) 特別な感慨を私の中に呼び起こすような気がする。

それは、北陸本線の車窓の風景によるところも大きいのかもしれない。とくに今回は、北陸トンネルを出たとたんに特急サンダーバードの車窓に広がった雪景色に、思わず、北国にやってきたのだ、という旅愁が湧いた。

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さて、会場の本多の森ホールは、1階席のみ (計1707席) の比較的こじんまりとしたホールである。席は1階L列、左ブロックではあるが通路の直後であり、ステージへの見通しのいい良席。

緞帳が上がって「空と君のあいだに」のイントロが始まり、下手から白いドレスの中島みゆきが登場した瞬間、しばらくぶりに全身に電流が走るような衝撃を覚えた。

年内最終ということもあってか、バンドの演奏も気合いが入りまくり、中島みゆきのヴォーカルも絶好調。その緊張感を (彼女もミュージシャンたちも、そして私を含む客席も) 途切れることなく持続したまま、ラストまで全力疾走のまま走り切ったという印象があった。

とりわけ、「過ぎゆく夏」「地上の星」「NIGHT WING」そして「パラダイス・カフェ」といったアップテンポの曲での疾走感が、今も身体の底に快く残っている。素晴らしいコンサートだった。

上述のとおりこじんまりとしたホールのせいもあってか、客席の一体感もとても熱く、アンコールでは「恩知らず」のイントロから「ヘッドライト・テールライト」のエンディングまで、ほとんど総立ちのスタンディング・オベーション。私も、思わず拍手と手拍子に力が入りすぎ、左の掌が内出血したほどだった。

ところで、この日は年内最終であるのみならず土曜日 (しかも3連休の初日) ということもあってか、私のように各地から遠征してきたファンも多かったようだ。MCで中島みゆきが「金沢市民の人~」と呼びかけた時の拍手よりも、「金沢市民じゃない人~」と呼びかけた時の拍手の方が、明らかに多かった (私はもちろん、両隣の席の人も後者だった) 。それだけ、この会場には多くの「コア」なファンが集結していた、ということかもしれない。

ヴァイオリンの歌とリズム

音楽的には――初日の神戸公演のレビューでは、島村英二のドラムについて書いたが――金沢でとくに印象に残ったのは、初参加 (かつメンバー最年少) の石橋尚子のヴァイオリンである。

クラシック音楽、とくにオーケストラでは主役であっても、ポピュラー音楽では必ずしも前面に出ることの多くないこの弦楽器を、中島みゆきと瀬尾一三は近年 (とくに2000年以降)、ツアーや夜会に積極的に起用してきた。最近では、夜会『今晩屋』での牛山玲名の、多彩な音色の変化に富んだしなやかな演奏が記憶に新しい。

ヴァイオリンはいうまでもなく高音部を担当する旋律楽器であり、今回のツアーでも、冒頭の「空と君のあいだに」のイントロの旋律に始まり、いわば「言葉にならない歌」を歌うことによって、中島みゆきのヴォーカル (言葉による歌) をサポートする役割を果たしつづける。「縁」のあの長い間奏で、歌の主旋律を (リズムを引き延ばしながら) ゆったりと奏でるところなど、まさに旋律楽器としてのヴァイオリンの面目躍如というべき聴きどころである。

――しかしそれにとどまらず、ヴァイオリンには実は、(厳密にはこういう言い方は正しくないのかもしれないが) リズム楽器としての側面もある。たとえば、「地上の星」の「名だたるものを追って……」の部分で、鋭い高音のスタッカートによって刻みこまれるリズム。それは、ヴァイオリン以外のいかなる楽器によっても表現しえない、心の奥底に突き刺さる叫びのようだ。

石橋尚子のヴァイオリンは、夜会での牛山玲名のような微妙な音色のニュアンスという点では、やや一歩を譲るかもしれないが――それは夜会とツアーとの性格の違いという要因にもよるものだろう――、その代わりに、ストレートに心に響く豊かな歌と、上記のような鋭いリズムの叫びによって、忘れがたい音楽的記憶を残した。

( (2)につづく )