「異国」から「EAST ASIA」へ ――中島みゆきにおける「故郷」の変容――


『MIYUKOLOGIE』第17号、1993年

一 はじめに

一九九二年秋にリリースされたアルバム「EAST ASIA」から、同年末に上演された「夜会VOL.4-金環触-」をはさんで、一九九三年春に行なわれたコンサートツアー「EAST ASIA」までの一連の創作活動は、中島みゆきが自らの表現のテーマとして初めて、アジアという具体的な空間を鮮明に呈示したものとして永く記憶されることになるだろう。中島みゆきがアルバムと同一タイトルのコンサートツアーを行なうのはこれが初めてのことであり、そのことからもこの「EAST ASIA」というテーマに対する彼女の強いこだわりを感じ取ることができる。

くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
むずかしくは知らない ただEAST ASIA

流れる雲を背景に、羽衣のような薄いスカーフを風にはためかせながら、「汎アジア的民族衣装」(1)を身にまとった中島みゆきが、このシンプルで力強いフレーズを一段とテンポを落とし確信をこめて歌った「EAST ASIA」ツアーのラストは、まだその鮮烈な印象とともに記憶に新しい。

私が最初にアルバム「EAST ASIA」の冒頭に置かれたこのタイトル曲を聴いたとき、それとの鮮明な対比をなして心に浮かべたのは、一九八〇年のアルバム「生きていてもいいですか」のラストに置かれていた「異国」だった。

くにはどこかと聞かれるたびに
まだありませんと うつむく

この決して終ることのないと思われた極北の旅から十二年を経て、もし「くにはどこか」と聞かれれば「くにの名はEAST ASIA」と確信をもって答えられる地点に、彼女は到達したのだろうか。

以下、この文章では、「異国」を終着点とする初期と、中期以後から「EAST ASIA」に象徴される現在までのスタンスとの比較を通じて、中島みゆきが(帰り)行こうとした場所としての「故郷」が彼女自身の中でどのように変容してきたか、そしてその変容が、中島みゆきの創造の全体的スタンスの変化とどのように関わりあってきたかを、いささか素描的にではあるが考察してみたい。

二 「いつか出会う」べき「故郷」

中島みゆきの歌詞の中に最初に「故郷」という言葉が登場するのは、最初期の代表作としてあまりにも有名な「時代」においてである。

旅を続ける人々は いつか故郷に出逢う日を
たとえ今夜は倒れても きっと信じてドアを出る

この「故郷」は、言うまでもなく、過去に自分がそこで生まれ育った場所という意味での現実の故郷ではない。それは、いつか出会うべき場所、いわば未来に辿り着くべきユートピア(その語源通り、今は「どこにもない場所」)であり、それゆえにこそ、「たとえ今日は果てしなく冷たい雨が降っていても」旅立つことを諦めない旅人たちの希望の拠り所となるのである。

もうひとつ「時代」で注目すべきは、歌の冒頭での「今はこんなに悲しくて涙も枯れ果て」た絶望の底にいる主人公の主観的視点が、歌詞の展開の中で第三者の客観的視点へと転換され、そしてこの転換こそが希望への鍵になっているという点である。「そんな時代もあったねといつか話せる日が来るわ」という(根拠のない)主観的な希望は、「まわるまわるよ時代はまわる」という客観的な視点への飛躍によってはじめて根拠と保証を得る。この歌がわれわれに与える感動のポイントは、まさにこの視点の飛躍が呼び起こす眩暈のような衝撃にあるといっていい。(「まわるまわるよ時代はまわる」という繰り返しの効果がこの眩暈をさらに強めていることは言うまでもない。)この、主観的視点から客観的視点への、あるいは個人的視点から社会的視点への飛躍ないし転換は、未来に辿り着くべき場所としての「故郷」とともに、これ以後の中島みゆきの作品を貫く重要なモチーフとなってゆく。

このような意味での「故郷」のイメージは、「時代」とともにファーストアルバム「私の声が聞こえますか」に収められてる作品「海よ」にもみることができる。

海よ わたしが泣いてる夜は
遠い故郷へ舟を運べよ

ここでも「故郷」は、単に「わたし」の郷愁の対象としてではなく、「故郷の島を離れ今日もさまよう「「若い舟乗り」への共感の拠り所として歌われている。

こうした視点は、やはり初期の最重要作品のひとつである「世情」にも生きている。

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

この作品には「故郷」という言葉は登場しないが、「流れ」の果てに求められる「変わらない夢」が、「時代」に歌われる「いつか出会う」べき「故郷」と同質のものを表現しているのは明らかだろう。

そして、中島みゆきにおける「故郷」といえば誰しも思い浮かべるであろう作品が「ホームにて」である。

ふるさとは 走り続けたホームの果て
叩き続けた 窓ガラスの果て
そして 手のひらに残るのは
白い煙と乗車券

この郷愁もやはり、どこか具体的な場所や記憶への郷愁ではなく、自己(とその直接経験できる世界)を超えたなにかへの根源的な郷愁とでもいうべきものを感じさせる。ただしこの作品では「時代」のような客観的視点は弱まり、主観的視点が支配的となる。「ふるさと」はホームの果て、薄青いたそがれに包まれたレールの果てにあって決して辿り着くことはできず、しかしそれゆえにこそ、耐え難いほどの郷愁をかきたてる場所となる。「街」に別れの挨拶をしようとする主人公の背後で、「ふるさとへ向かう最終」のドアは閉まり続け、それでもなお彼女は「ふるさと行きの乗車券」を決して燃やすことはできない。ここでは「故郷」は、希望の拠り所というよりは、決して辿り着けない、そしてそれゆえにこそなおさら郷愁をかきたてる場所へと変質しているのである。

この「決して辿り着けない場所」としての「故郷」というモチーフが極限まで追及された作品が「異国」である。

百年してもあたしは死ねない
あたしを埋める場所などないから
百億粒の灰になってもあたし
帰り仕度をしつづける

ここでは郷愁はもはや決して辿り着けない場所へのせつなく甘美な憧れなどではない。「やさしいやさしい」駅長の声も聞こえず、故郷へ向かう「空色の汽車」も見えない。ここにあるのは、現実の世界はいうまでもなく、現実の外にある「あの世」や「地獄」さえも「あたしには異国」でしかないという冷厳な認識である。この曲のラストで、いつ終わるともなく血を吐くように繰り返される上記のフレーズは、帰る場所はどこにもないと知りつつ永遠に「帰り支度をしつづけ」なければならない自己の宿命への呪いのように、聴く者の胸に突き刺さる。

この作品を含むアルバム「生きていてもいいですか」で、「時代」から(あるいはアルバム「私の声が聞こえますか」から)ずっと追及されてきた、生きること、愛することの意味への問いが、まさに極限まで追及された地点で、徹底的に否定される。「この後、中島みゆきには歌う歌があるのだろうか」という衝撃に似た思いを、当時の私自身を含めて、このアルバムを聴いた多くの人が抱いたのは当然であった。

そして、ここで中島みゆきの「初期」は終わる(2)

「故郷」というテーマに関してのみならず、中島みゆきの「初期」全体を考えるうえで、呉智英の次のような見方はきわめて示唆的である。「中島の歌う恋の苦しみ、愛の悲しみは、まさしく〈この私〉のものである。〈この私〉のものであるならば、あらゆる〈この私〉が誰かによって代替されることが本来不可能であるように、その恋の苦しみも愛の悲しみも代替不可能なはずだ。それをなお代替可能なように中島は歌い得た。この衝撃はほとんど宗教的な衝撃であった。人間の持つ根本的な不条理に対抗すべきものを歌の中に築いたとさえ感じさせたのである」(3)

他者によっては代替不可能な〈この私〉の苦しみを代替可能なものとしうるのは、〈この私〉をも他者をも俯瞰し包摂しうる超越的な第三者、すなわち〈神〉の視点しかない。(その意味で「宗教的な衝撃」という呉の表現はきわめて正確である。)この視点を、いかなる既存の宗教やイデオロギーの言語によってでもなく、彼女自身の言語によって表現しえた点に、中島みゆきの天才の本質があった。そして、「時代」での主観的視点から客観的視点への転換を可能にしたのも、「いつか出会う」べき場所としての「故郷」への希望をもたらしたのも、この超越的第三者の視点であった。

中島みゆきの初期作品全体を貫くライトモチーフを一言で抽象化して言えば、「自己を超えたなにかへの憧れ」ということになるだろうか。すなわち、愛の対象として、生きる意味の源泉として、絶えることなく求められながら、ついにそこに完全に到達することはできない、自己ならざる者としての絶対的他者。この他者が、ときには失われた愛の対象として、ときには喪われた(あるいは、未だ到達されていない)故郷として表象されたのである。

この愛への渇望、生きる意味への問い、故郷への夢が「生きていてもいいですか」において徹底的に否定されたことは、それらを(「今、ここ」の現実には存在しなくても未来の希望として)保証していた超越的第三者の視点が、まさにそこで消滅したことを意味する。

この消滅の理由をここで明確に述べるのはあまりにも困難である。それは、中島みゆき自身の内的な自問自答の果てしない旅の結果であったのかもしれないし、あるいは(「エレーン」の背景を明らかにした小説「街の女」(4)に語られているような)彼女の遭遇した個人史的事件のもたらした衝撃によるものであったのかもしれないし、またあるいは、(「世情」「誰のせいでもない雨が」「ローリング」に暗示されているような)中島みゆきの世代に固有の、政治的な挑戦と挫折の経験がリアリティを喪失し、歴史的記憶へと変容したことによるのかもしれない。ただ確かなのは、中島みゆきの追及した「他者」への憧れが比類なくラディカルなものであったがゆえに、結局はそれが挫折せざるをえないという認識もまた根源的なものとしてもたらされたという点である。

いずれにせよ「異国」は「未だ到達されていない故郷」というモチーフの終着点にあった。そして、文字通りどこにもなかったユートピアへの憧れを根底から断ち切ることによって、中島みゆきは「今、ここ」の現実の自己という原点から、心の赴くべき場所、求めるべき他者をもう一度探しはじめる、自己の再生への旅に再出発することになる。(次のアルバムのタイトルが「臨月」であるのはきわめて象徴的である。)

三 新たなる旅へ

「臨月」以後の中島みゆきの作品からは、「いつか出会う」べき場所、行くべき場所としての「故郷」というモチーフは姿を消す。そして、不在のユートピアとしての「故郷」に代わって登場しだすのが、かつて現実に生きてきた場所(あるいはそこから脱出するべき場所)としての「田舎」であり、今生きている場所としての「都会」であり、さらにはそれらを包む日本という「国」である。

田舎からの手紙は 文字がまた細くなった
今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう

(「時刻表」)

薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京ゆき

(「ファイト!」)

この国は 美貌の都
芝居ばかりが 明るい
この国は 美貌の都
言葉ばかりが 明るい

(「美貌の都」)

日本中このごろ静かだと思います
日本中秘かに計画してます

(「ショウ・タイム」)

これらの作品で明らかなように、「田舎」や「国」はかつての「故郷」とは正反対に、辛辣な批判の、時には皮肉な眼差しの対象となり、さらにそのローカリティを超えて、よりグローバルなものへと乗り越えられるべきものとなる。

ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく
諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく

(「ファイト!」)

もちろんこうしたグローバルなものへの志向は、すでに述べたように初期の作品にも、主観的視点から客観的視点への飛躍として存在してはいた。しかしその飛躍は、あくまで超越的第三者の視点の導入によってのみ保証されたのであり、自己と他者との関係を具体的な場の中で模索し、そのことによって自己の認識や実践をよりグローバルなものへ広げていくという、本来の意味での社会性によってもたらされたものではなかった(5)。初期においては「自己」と「自己ならざるもの」との間に横たわっていた抽象的・絶対的な距離こそが問題であり、それゆえに、自己あるいは他者の属する具体的な場所は問題となりえなかったのである。初期の中島みゆきの作品にローカルな具体性をおびた場所がほとんど登場しない理由はここにある。

そして、ローカルなものからグローバルなものへと広がってゆくこうした視点は、われわれの住む世界としての地球全体をも宇宙の中のひとつの「星」として対象化するような視点へとつながっていく。

悲しいことの記憶は この星の裏表 溢れるはずだ

(「幸福論」)

こんな小さな星では
きっと出会ってしまう

(「FU-JI-TSU」)

私たちは幾たびも幾たびも
この エデンならぬ星に生まれ
おぼつかない糸を今日も紡ぐ

(「エデンの乳房」)

とはいえローカルな場所は、つねに批判や乗り越えの対象としてのみ登場するわけではない。ここ数年、集中的に発表された「北の国の習い」「サッポロSNOWY」「南三条」といった中島みゆきの(現実の)故郷を舞台とした作品群には、自らの生まれ育った場所に寄せる彼女の(いささか屈折して表現されてはいるが)深い愛を感じ取ることができる。

そして、ローカルな空間とグローバルな空間との間のまさに媒介的な位置に、最初に「アジア」という空間が登場したのは、一九八九年の工藤静香への提供曲「黄砂に吹かれて」であった。この作品は周知のように同年十一月にリリースされたアルバム「回帰熱」に収められ、またこのアルバムのプロモーションビデオとしても映像化された。

この作品の歌詞で直接にアジアをイメージさせるのは「黄砂」(主として黄河流域に発し、中国やモンゴルで黄色い砂塵となって天空をおおう砂)という単語だけだが、後藤次利作曲によるエスニックなプロローグ(これは一九九〇年のコンサートツアー「Night Wings」でも効果的に再現された)や旋律、そして何よりも、実際にモンゴルで撮影されたプロモーションビデオの鮮烈な映像は、この作品の中の「アジア」を強く印象づけるのに十分であった。(ビデオの撮影スタッフいわく「アラビアのロレンスのような」)白い布を身にまとった中島みゆきがモンゴルの果てしない大地を馬に乗って駆けてゆく映像、そしてその上空をどこまでも流れてゆく白い雲。

そして歌詞では、初期の作品以来久しぶりに、メタファーとしてではない「旅」が中心的モチーフとして登場する。

遠くへ向かう旅に出たいの
あなたから遠い国まで
誰にも会わない国まで
黄砂よ何故 嘘 見破るの

中島みゆき自身の(「回帰熱」)バージョンでのみ歌われるこの歌詞は、その旅の背景としての「アジア」をもう一度強く印象づけて曲を閉じる。

翌一九九〇年にリリースされたアルバム「夜を往け」では、冒頭のタイトル曲、そしてラストの「with」の二曲で、再び「旅」のモチーフが重要な役割を演ずる。

走らずにいられない 行方も知れず
夜を往け 夜を往け 夜を往け 夜を往け

(「夜を往け」)

旅をすること自体おりようとは思わない
手帳にはいつも旅立ちとメモしてある
けれど
with…そのあとへ君の名を綴っていいか
with…淋しさと虚しさと疑いとのかわりに

(「with」)

旅の目標は旅人自身にもわからない。重要なのは「旅をすること自体」であり、そして「with…」のあとに名を綴られるべき旅のパートナーである。

ここで「他者とのコミュニケーション」という、現在の中島みゆきを語る上でおそらく最も重要なテーマが浮上してくる。コンサートツアー「Night Wings」のラスト「with」の直前のナレーションで彼女が表明した、言葉をもいかなるハンディキャップをも超えたコミュニケーションへの力強い意志は、おそらくあのときコンサートホールにいた全ての人々の胸に、自らに突き付けられた問いとして残っていることだろう。そして、サンド・ベージュの明るい光をバックに純白のドレスに身を包んだ彼女が歌う「with」は、たとえ「遠い砂漠」をゆく旅であっても、それは決して永遠に孤独な旅ではないのだとわれわれに告げていた。

かつて「自己」と「自己ならざる者」との間に横たわっていた絶対的距離、越えることのできない壁は、もはや絶対的な、越えられないものではなくなったのである。

この「他者とのコミュニケーション」というテーマは、「夜会VOL.4-金環触-」で、全ステージを貫くものとなった。そして物語の後半、中島みゆき自身の演じるウズメが天の岩戸を押し開き、降り注ぐ光の下で舞い歌った「EAST ASIA」は、アマテラスの閉ざされた心を開くためのいわばブレークスルーとして、舞台の展開にきわめて重要な役割を果たした。この歌では、自らの精神的・文化的アイデンティティの拠り所としての「くに」に寄せる思いが、その「くに」を「どこかに乗せて」「くすくす笑いながら回ってゆく」地球というグローバルなパースペクティブの中に位置づけられ表現される。ローカルで特殊的なものをグローバルで普遍的なものへと媒介していこうとするこの意志こそが、この作品に強いコミュニケーションの力をもたらしているのである。

この意味で、中島みゆき自身がウズメについて「夜会」のパンフレットに次のように書いているのは示唆的である。「ウズメはアマテラスからの『異形の者に対面しても気おくれすることなく、これを和ませる力をもつ』という信頼を受けて、先陣をまかされて出かけてゆき、天と地のわかれるところにて不安を笑いに変えて、異民族とのつきあいの糸ぐちをつくります。」

この「夜会」でもうひとつ注目すべきは、かつて(ほんの五十年昔)には神話的歴史観の頂点にあり、ナショナリズムの文化的象徴としての役割を演じさせられていたアマテラスが、その超越的位置からみごとに地上へと降ろされ、われわれと同じように悲しみ、苦しみ、時には心を閉ざす一人の人間として描かれた点である。そしてアマテラスは、自らをさらに越える超越的な第三者の力によってでも、ましてや暴力によってでもなく、まさにウズメのコミュニケーションの力によって、心を開く。

「EAST ASIA」ツアーでも「他者とのコミュニケーション」は、後半部分を締めるテーマとなった。「言えばよかったこと」「言わなければ良かったこと」というコミュニケーションの失敗への後悔がナレーションで語られ、やがて「僕たちの将来」へとつながってゆく。そして、恋人達のきわめてプライベートな会話(およびその裏側に隠された将来への不安)が、テレビの中で語られる「暑い国の戦争」というきわめてグローバルな背景のなかに置きなおされる瞬間、個人的レベルのコミュニケーションの壁が、実は社会的なレベルでのそれにもつながっているという、衝撃的な視点の転換がなされる。「僕達の将来」のエンディングで、ステージが一気に明るく照らし出されると同時に、コーラスとバックバンドが爆発するように入ってくる演出は、まさにその視点の転換の衝撃を意味しているといえよう。それに続く「親愛なる者へ」「浅い眠り」から「ローリング」へ、さらに「糸」から「EAST ASIA」へという流れも、この視点の転換の反復として理解できる。(ここでの「糸」と「EAST ASIA」の位置づけ・意味づけをさらに解釈することは、もはや蛇足だろう。)

決して到達されない「自己ならざるもの」への絶望的憧れは「他者とのコミュニケーション」への意志にとって代わられ、「いつか出会う」べき(今はどこにもない)ユートピアとしての「故郷」は、今そこで自分自身が生きている場所としての「くに」へと変容した。そして、心の赴くべき場所は、具体的な場所というよりは、愛する者の心の中にこそ求められてゆく。

でも心は帰りゆく 心はあの人のもと
山より高い壁が築き上げられても
柔らかな風は笑って越えてゆく

(「EAST ASIA」)

これから先、中島みゆきは、そしてわれわれは、どんな旅をつづけてゆくことになるのだろうか。


(1) パソコン通信ネットワーク「歌暦ネット」への西戸俊彦氏の書き込み。(一九九三年四月二〇日)
(2) 中島みゆきの「初期」を、デビューからアルバム「生きていてもいいですか」までとする見方は、現在ではかなり一般的になっているように思われる。たとえば呉智英「神々なき時代に中島みゆきが『老醜』を歌う」、『サルの正義』(双葉社、一九九三年)所収、二五七頁。
(3) 同上。
(4) 中島みゆき『女歌』所収、新潮社、一九八六年
(5) この社会性への模索は、作品の素材・内容のレベルのみならず、それを具体的に音化するアレンジ・録音のレベルや、聴き手との関わり方を含む表現の方法論のレベルにおいても「臨月」以降の中島みゆきを特徴づけるものといえる。この点の指摘は、呉智英、前掲書二六〇頁。