海の中の国境を越えて ――LOVE OR NOTHINGツアー香港公演によせて――

『MIYUKOLOGIE』第21号、1995年

中島みゆきのライヴにゆくことは、いつも旅をすることに似ている。それはたとえ物理的には「旅」と呼ぶほどの移動距離を要するものではない場合でも、私という存在が、ある新しい世界を通り抜けることによって新しい私に変容するという経験をもたらしてくれる。旅を終えて住処に帰ってきたとき、歩き馴れ見馴れたはずの風景がどこか初めて訪れる場所であるかのように新鮮に感じられるのは、そこを歩き眺める私が、旅に出る前の――私自身にとって慣れ親まれてきた――「私」とはどこかが変っているからだ。そうした世界と私との相互変容の過程こそは、すぐれた意味で旅をするということの本質である。そのとき、物理的な旅は精神的な旅のメタファーとなる。

 

私が初めて観ることができた中島みゆきのコンサートは、一九八三年の「蕗く季節に」ツアーの富山公演であった。

その頃の私は、自分が世界の中でどこにいるのか、またどこへゆくべきなのかという問いへの答を、現実的な意味でも精神的・抽象的な意味でも、まったく探しあぐねていた。そうした私にとって中島みゆきは、その「真っ白な霧の中」のように見通し難い世界の中で、ほとんど唯一の座標軸を示してくれる存在として機能していた。一九八〇年頃から、そうした意味で中島みゆきはレコードとラジオとを通してつねに私の意識の中心にあったが、ライヴにこそ出かけてその存在をこの眼で確かめたいという衝動は、いつも地元(関西)でのチケットの競争率の高さという散文的な現実に阻まれて実現できずにいた。

その年、一九八三年も状況は同様だったのだが、ついにどうしても諦めきれなくなり、関西を離れてもなるべく時間と費用とをかけずに行ってこれる公演を必死で探した結果、ようやく手にすることができたのが五月九日の富山公演の立見チケットであった。電話で予約を終えた後もその到着を毎日心待ちにしていた私のメールボックスにようやく送られてきたのは、現在のようなコンピュータ発券ではない、中島みゆきの顔写真が印刷された白いチケットであった。封筒を開いてそれを手にしたとき、私はおおげさでなく、ひとつの未来への切符を手に入れたような気がした。

当日は幸いにも好天に恵まれ、北陸本線を走る特急列車の車窓には明るい春の風景が広がっていた。富山駅から会場の富山市公会堂まではそう遠い距離ではなかった。その道をひとりで歩きながら眺めた富山の街並の、北国らしく爽やかで小綺麗なたたずまいとそれを包む透明な空気は、今でも鮮明に記憶に残っている。午後四時頃コンサートホールの前に着いてみると、二階最後列の席が立見チケットを買った客のために用意されているとのことで、私は急いで早い夕食をすませ、立ち見券の客の行列に加わった。それゆえ、最近のように開場後にゆっくりロビーでパンフレットやグッズを物色する暇もなく、開場と同時に二階席にかけ上がり、その甲斐あってか、私は最後列の席に坐ることができた。

こうして、双眼鏡無しでは彼女の顔も見分けられないような遥か彼方からではあったが、私は初めて中島みゆきのステージに接する機会に恵まれたのだった。開演を待つうちに、「いよいよ来たんだ」という緊張と期待のないまぜになった思いが私の中でしだいに高まってゆき、それは開演ベルが鳴って客電が落ち客席が闇に包まれた瞬間に最高潮に達した。やがて「忘れな草をもう一度」のイントロが流れだし、ぼうっと明るくなったステージにはまだ中島みゆきの姿は見えないようなのに、まぎれもない彼女の声が歌い始めた。その声は、レコードに聴く凛とした歌声とはかなり違って、音程も声量もおぼつかず(今にして思えば体調が良くなかったのもしれないが)、私は思わず不安にかられる一方で、中島みゆきもやはり私と同じように生身の肉体をもった存在なのだということを認識していたのだと思う。

その後約二時間のステージの記憶は、しかしながら実は必ずしも細部までは鮮明ではない。それは席が遠かったせいもあろうが、それよりもむしろ、そのときの私が、演出の細部に集中する以前に、それまではメディアを通してしか知らなかった中島みゆきが、生身の肉体を持った存在として、今ここに、私と同じ空間と時間とを共有しているのだという事実を受け止めることにこそ精一杯だったからであろう。

中島みゆきの声の調子は数曲を歌ううちにもち直し、深い情感や激しい意志を十二分に私に伝えるようになった。ラスト曲「誰のせいでもない雨が」では、過去の闘いの中で流された血の色の記憶のように、あるいは倒れた者たちを鎮魂する残照のように、ステージが真紅のライトに染められ、その中で中島みゆきは、レコードとはうってかわって激しくほとばしる声でそのレクィエムを歌い切った。それに続くアンコールで幕が上がり、「ファイト!」のドラムのイントロ(これもレコードとは違う激しい音であった)が始まったとき、私には過去の闘いに倒れた者たちの思いを、現在へ、そして未来へとつなげてゆこうとする中島みゆきの意志が見えたような気がした。「ああ小魚たちの群れきらきらと……」で転調して以降のエンディングでは、ステージのみならず客席までもが眩いばかりの白色光で照らし出され、私も含む客席のひとりひとりは、中島みゆきと共に「ファイト!」を叫んだのだった。

帰りの夜行列車(寝台などという贅沢は当時学生であった私には許されなかったから、急行の硬い普通座席であった)の中で、車窓を流れてゆく夜景を眺めるともなく眺めながら私の心をしきりによぎったのは、「これは新しい旅の始まりなんだ」という思いであった。ライヴでの中島みゆきとの出会いは、彼女の存在がメディアの中での虚構ではなく、私と同じ世界と時代に生きている肉体をもった存在なのだということを――知識としてではなくほとんど身体的な実感として――気づかせてくれたのだと思う。そしてそれは私にとっては、富山という場所で、中島みゆきと私が「旅人どうし」として出会ったということでもあった。それはいうまでもなく、(彼女にとってはコンサートツアー、私にとっては京都から富山への小旅行という)物理的な意味での旅という意味だけではなく、この世界と時代のなかで、共に「ゆくべき場所」を探して旅する者として、という意味でである。

改めて思い出すまでもなく、かつての「時代」から最近作「旅人のうた」に至るまで、「旅人」はほとんどつねに中島みゆきの作品の主人公でありつづけてきた(1)。聴き手としての私はそれらの「旅人」に自らをアイデンティファイすると同時に、中島みゆき自身もまた「旅人」として自らを提示し、いわば「旅人」どうしとして私達ひとりひとりとの「一対一の対話」(2)を続けてきたのだった。

その後、現在に至るまで、中島みゆきのライヴに出かけることは、私にとって本質的な意味で旅をすることでありつづけている。いや、より正確に言えばそれは、中島みゆきと同様にこの私自身も、つねにこの世界と時代とを歩き続けている旅人のひとりであることを、改めて気づき直させてくれるのだ(このとき、中島みゆきと私とは三重の意味での旅人となる――第一に個々の物理的な旅という意味で、第二に個々の精神的な旅という意味で、第三にこの世界と時代とを生きてゆくことそのものが旅であるという意味で)(3)。それらの(個々の)旅の途上で出会う街並やコンサートホールの風景は、いつも私の旅の記憶の忘れ難い数頁となり、そしてそこから帰ってきたとき、いつも私の中のどこかある部分が変容し、私はまた新しい風景の中に自らを見いだしてきたのだった(それが私にとってつねに、第三の長い旅の中で「前に」進むことを意味したかどうかは、今はまだわからないが)。

 

いささか長い前置きになってしまったが、中島みゆきの初の海外公演となった一九九五年四月二十四~二十六日の香港公演(私が観ることができたのはその第一夜だけであるが)を思うとき、以上のような「旅」をめぐる記憶は、私にとってのその前史として、否応なくよみがえってくる。とりわけ、私にとって最初の中島みゆきのコンサートとなった「蕗く季節に」富山公演の記憶はそうである。そして香港公演は、私の「旅」にまた新たな、そして重要な一頁を付け加えることとなった。以下では(公演の忠実なレポートはより適任の方に任せることとして)、香港公演とその前後の旅の記憶を辿りながら、重層的に浮かび上がってくる中島みゆきと私との「旅」をめぐるいくつかの思いを、断想風に綴ってみることとしたい。

中島みゆきの初の海外公演がアジア、具体的には香港で行なわれるというかなり信憑性の高い噂は、その前年の一九八四年頃からわれわれファンの耳に入っていた。その年の秋、音楽評論家小倉エージとの対談で、「アジアでの公演の計画や実現の可能性は?」と訊ねられて中島みゆきは「今、検討中で、実際に動いてるって感じ。かなり具体的には進んでます」と答えている(4)。香港という具体的な地名こそあげていないものの、この対談そのものが、香港でのカヴァー曲のヒットに端を発した中島みゆきの人気を主題にしている以上、誰もが香港公演の実現を予想するのは当然であった。

またそうした外的な理由以前に、アジアという空間への近年の中島みゆきの内的関心の高まりは、一九九二年のアルバム「EAST ASIA」や同名の一九九三年のコンサートツアー、そして一九九四年の夜会VOL.6「シャングリラ」などにきわめて明瞭に示されている(5)。こうした関心のヴェクトルが、やがて現実のアジアという空間の中で、聴き手との一対一の対話の場としてのコンサートを実現することへと向うのは、今から思えば必然ともいえた。

それから間もなく、一九九五年のコンサートツアー「LOVE OR NOTHING」のファイナルとして、三日間の香港公演の日程が発表されたとき、私を含め多くの熱心な(日本の)ファンは、ついに来るべきものが来たという思いでそれを聞いたようである。私自身は色々と仕事の都合や個人的な事情もあり、ぎりぎりまで決断をためらっていたのだが、最後の一歩を踏み出させたのは、(やはりいつものように)パソコン通信での友人の熱心な誘いであった。かくして私は、同行者のT君、G嬢とともに、四月二十二日土曜日の夕方、成田空港のゲートをくぐることになったのである(6)

このとき、私と同じように決断をためらい、結局は最後の一歩を踏み出すことなく日本に留まることになった某氏宅に空港から電話をしてみようということになった。そのこと自体はファンどうしのいわばちょっとした「優越感」を材料にしたゲーム的コミュニケーションに過ぎず、あえてここで語るべきことでもないのだが、たまたまわれわれ三人の直前にその電話機で話していた人物が大江健三郎氏であったという事実は、ここに書き留めておく価値がありそうである。

言うまでもなくこれはまったくの偶然に過ぎなかったのだが(帰国後に読んだ新聞によると、大江氏はアトランタで開かれる文学者の国際会議に出席する途上だったらしい)、私としては不思議な暗合を感じざるをえなかった。というのも、少し前にあるパソコン通信ネットワークでちょうど香港公演の噂が話題となり、その文脈で「中島みゆき作品の翻訳可能性」というテーマについて議論になったときに、私が大江氏の名を引き合いに出していたからである。ネットワークでの友人K氏が、「中島みゆきの歌は日本語に特化しているので、日本語のわからない人に彼女の歌のメッセージが伝わるとは思わない」と主張したのに対して私は、ノーベル賞というかたちで国際的評価を受けた大江作品を引き合いに出し、中島みゆき作品においても「テーマのグローバルさや普遍性が、『翻訳』を可能にしている」はずだと反論した。そのとき私がその普遍性との対照として心に浮かべていたのは、日本語・日本文化の特殊性に根差した文学を「美しい日本の私」という自己定義のうちに表出した川端康成であり、中島みゆき作品は決してそうした意味でのローカリティのうちに閉ざされたものではないはずだと主張したのだった。(もちろん、大江氏が川端康成を批判し、そのパロディとして「あいまいな日本の私」という自己定義を対置したことも私の頭にあった。)

私の主張の当否も含めて、この「翻訳可能性」という問題はそれ自体非常に大きなテーマであり、稿を改めて論じるべき問題でもあろう。ただ、中島みゆきが初めて「日本語」という世界の外へコミュニケーションの場を求めようとし、またその現場を目撃すべく私たち日本の聴き手も参加しようとしたまさにその瞬間にたまたま大江氏の姿に接したことは、単なる偶然を越えた何かを私に感じさせたのだった。

 

さて、私達三人を乗せ成田を一八時一五分に発った日航機は、四時間二五分の飛行を経て、無事香港啓徳空港に二一時四〇分に到着した(日本と香港のあいだにはマイナス一時間の時差がある)。私達の宿は、コンサートの会場となる香港文化中心と同じ九龍半島のリーガル・カオルーン・ホテルであった。

翌二十三日(日曜日)は、午前は香港島観光、午後は九龍半島観光とショッピングというツアースケジュールが組まれていて、私達は同じツアーの一行(ただし中島みゆきファンは私達三名のみ)とともに、観光客よろしくバスで各所を回ることになった。季節はもうすっかり初夏であり、上着を着ていては汗ばむような陽気である。私達のガイドさんは、日本語はやや覚束ないものの、あかぬけたオフィス・レディという雰囲気の魅力的な女性だった。しかも彼女はなんと中島みゆきのファンであり、コンサートの最終日、四月二十六日のチケットも取っているのだ話してくれたのはうれしい驚きだった。同行のG嬢は、「私達は二十四日だけ行くんですよー。なんとかチケットを取って、一緒に行きません?」と誘ったが、残念ながらガイドさんは仕事の都合で二十六日以外は無理なのだと言う。とはいえ、香港での中島みゆきファン層の広がりの一端に触れた思いであった。

バスは九龍半島から海底トンネルをくぐって香港島へ渡り、ヴィクトリア・ピークをめぐる山道へと入ってゆく。海と香港市街中心部を見下ろすその中腹には、多くの大邸宅が緑の中に点々と見え隠れし、昨年の「夜会」の舞台となった「丘の上のシャングリラ」もかくやという思いで私達はそれらの邸宅群を眺めていた。が、ガイドさんの話によると、二年後の一九九七年に迫った香港の中国返還に備えて、大富豪たちの多くは家族や資産を海外へ脱出させており、それらの大邸宅の中にはすでに空き家となっているものも少なくないのだと言う。

ところで、お決まりの観光コースを辿っていたためか、私達は行く先々で何度となく「なみふく」(ヤマハの中島みゆきファンクラブ)主催のツアーの一行と一緒になり、その中には言うまでもなく何人かの中島みゆきファンの友人・知人たちがいた。彼らも同様のツアースケジュールを組まれているとのことだったが、相談の結果、午後の九龍半島観光・ショッピングは早々に切り上げ、連れだって明日のコンサート会場の下見にゆくことになった。

香港文化中心(ホンコン・カルチュラル・センター)は九龍半島の南端、尖沙咀(チムサアチョイ)の海べりに位置し、すぐ隣には巨大なドームが目を惹く香港太空館(ホンコン・スペース・ミュージアム)が並ぶ。いずれも新しくモダンな外見の建築である。それらの建物の裏手は直接海に面した広場になっていて、やがて夕刻ともなると対岸の香港島にそびえる摩天楼群が、数え切れない星々をちりばめたように輝きはじめる。ゆるやかな初夏の汐風に吹かれつつ、少しずつ濃くなってゆく夕闇の中で輝きを増してくる対岸の夜景を視界におさめながら広場を歩くとき、私はこの地を訪れることができた幸福を思った。

香港文化中心の玄関からロビーに入ると、日本の同種の新しいコンサートホールがしばしば与える無機質なだだっ広さの印象とは異なり、広々とした中にも調和と落ち着きを感じさせる空間が広がっている(その意味で、私も含め多くの人が、Bunkamuraの雰囲気と通じるものを感じていたようだ――もっとも、Bunkamuraの内部はこれほど広くはないが)。その一角にある売店では、今回の中島みゆき香港公演を記念した四枚組限定盤CDが売られていた。曲目はいずれも日本でリリースされているものの編集盤ではあるが、私はやはり記念にと買い求めた。この建物全体は二つのホールを含む広大な空間であり、二一〇〇席のコンサートホールと一七五〇席のグランドシアターのうち、中島みゆきのコンサートが開かれるのは後者の方である。

翌二十四日、月曜日はいよいよコンサートの初日である(と同時に、私達三人にとっては残念ながら最終日でもあるのだが)。この日は終日自由行動であり、午前中から昼過ぎにかけて、私達は三々五々、買い物などの用事をすませた。途中、例によってパソコン通信関係の友人たちと、電器店街(いわば東京の秋葉原に相当する)を目当てに九龍半島の旺角(モンコク)と呼ばれる市街を訪れた。ここは庶民が生活を営む古びた街並でもあり、高層アパート(地震のない香港には新旧を問わず高層住宅が実に多い)の窓に干された満艦飾の洗濯物の光景は、再び私達に昨年の夜会の一場面――貧しかった頃の美齢の記憶の再現――を思い出させた。夕方、開場までの数時間は、会場から程近い九龍公園の中にある香港歴史博物館を訪れ、古代から中世にかけての漁民や農民の生活をしのぶさまざまな遺品、近代に入ってのイギリス植民地時代および第二次大戦時の日本の軍政期の展示を経て、現代へと駆け足で香港の歴史を辿った。

さて、いよいよ開場時刻も近づき、香港文化中心のロビーに入ってみると、日本語で談笑している見知った顔がやはり多い。しかしながら、今まで何度となく日本中のコンサートホールで互いに顔を合わせたときとは、やはり何かが違っている。もちろん私も含めて、その輪の中にいる誰もが、ついに海を――国境を越えて中島みゆきを追い、この場所へやってきたんだという興奮混じりの喜びと、一種の連帯感とに包まれているようだった。

やがて開場とともに、香港版のツアーパンフレットを手にした私達はホールに入った。ホールの内部も、やはりロビーと同様に、文化的創造の場にふさわしく洗練された空間である。すでにほぼ満員の客席の中で、日本人は雰囲気から推して四分の一ぐらいであろうか(私達のすぐ後ろの席からも、関西弁の夫婦の会話が聞こえた)。O列二十三番という私の席は客席のほぼ中心部に位置し、ステージ全体を見渡すのに絶好の席であった(日本でもなかなかこういう席は取れない。はるばる香港にやってきて、この席で観ることのできる幸運に私は感謝した)。

開演時刻の午後七時三十分、客電が落ち、ミュージシャンたちの試奏の音が一段落すると、すでに聴きおぼえた「流星」のイントロが流れ出す。私の中に急激に高まってくる緊張と期待は、十二年前に二十三歳の私が富山で感じたそれと似ていて、しかしやはりどこかが違った――自己の存在の不安を、中島みゆきの存在だけを頼りに支えようとするかのようなせっぱつまった緊張は、三十五歳の私にはなかった。歌い出した中島みゆきの声にも、明らかに緊張が聴きとれた。しかしそれはやはり、「蕗く季節に」のときのような不安を感じさせるものではなかった。

二曲目の「泣きたい夜に」を歌い終えた彼女は――その言葉が通じるはずのない相手に向って――はっきりとした発音の日本語でこう告げた。

「はじめまして、中島みゆきです」

その声にこめられた緊張は、慣れ親しんできた世界のぬくもりを捨て、初めて眼にする世界の清々しい冷気の中へと一歩を踏み出そうとするときの、あの期待にみちた緊張であった。この声を聴くことができただけで、私は香港まで来た甲斐があったと、この時強く思った。

三曲目「もう桟橋に灯りは点らない」以降は広東語への通訳の女性が登場し、中島みゆきの語りもうってかわった滑らかなトークになった。日本でのMCとは明らかに違い、初めて出会う香港の聴き手とのコミュニケーションの糸口をつかむことを目的とした、おそらくはシナリオに沿った語りであった(もっとも、二日目以降の公演を観た人の話によると、例の調子のアドリブが少しずつ出るようになったそうではあるが)。

その語りを別にすれば、それからの曲目と演出はほぼ日本でのコンサートと同じように進んでいったが、ストリングスが登場し、アルバム「LOVE OR NOTHING」のジャケットと同じあの白いドレスに身を包んだ中島みゆきが「未完成」を歌い終えた後、彼女と香港の人々とのあいだを取り持つもう一人の媒介役が紹介され登場した。香港の音楽事情にも詳しい作詞・作曲家、ジェームズ・ウォン氏である。彼の中島みゆきとの軽妙なトークは、明らかにそれまでよりも打ち解けた笑いを客席から引き出すことに成功した。

日本では「店の名はライフ」が歌われた場所で、ウォン氏のリクエストにより、香港でのカヴァー・ヒットの三曲「ルージュ」「最愛」「with」が歌われる。おそらく時間の都合であろう、歌詞の一部が省略されていたのは残念だったが、日本から来た私達にとっては最高のプレゼントとなった。とりわけ、香港の女性歌手フェイ・ウォンのカヴァー「容易受傷的女人」が日本でも話題になった「ルージュ」は、ライヴでは初めて耳にする曲であったが、アルバム「おかえりなさい」でのそれを遥かに越えて、繊細な感受性と情感の深さをたたえた歌となっていた。ちなみに中島みゆきはその前年の対談でフェイ・ウォンのカヴァーについて「彼女が書いて彼女が歌ってるみたいに聴こえる」(7)とまで激賞していたが、このコンサートでは彼女に対抗して、作者自身による「ルージュ」の解釈を提示しようとしたのだ、というのは考え過ぎであろうか。

ここでウォン氏はいったん退場し、アンコールまでは再び日本でのコンサートと同様に進行する。「夢だったんだね」を歌い終わると、中島みゆきはこう告げた。

 「それではお別れにもう一曲歌わせてください。この歌は、ぜひ香港の皆さんに、香港の言葉で歌詞をわかっていただきたかったので、先ほどのミスター・ジェームス・ウォンさんに歌詞を読んでいただきます。」

ウォン氏は再び上手から登場し、広東語による「ひまわり “SUNWARD”」の訳詞を、一語ずつ噛みしめるように朗読した。もちろん私にはその言葉はわからないが、朗読を聞く香港の聴衆たちが、少しずつその言葉に強くひきつけられていく気配は私にも感じとれた。朗読が終わり、あの静かなイントロが漂うように流れ出す。曲が進むとともにステージバックの壁面は、夜明け前の暗赤色からしだいに夜が明けていくかのようにオレンジ色に、そして最後には降り注ぐ陽光をあらわすライトイエローへと変わっていく(日本でも同様だったこの演出は、単なる外面的な効果ではなく、歌の内的な意味を見事に表現しきっている)。少しずつ、少しずつ明るさを増してゆく空と呼応するかのように、中島みゆきの歌声も限りなく力強く伸びてゆく――いかなる国境をも越えて「誰にでも降り注ぐ愛」に向って。

幕が降りた後、激しく続くカーテンコールに呼び出された中島みゆきは、手に一杯のひまわりの花束を持ってステージを走りながら、素晴らしい笑顔とともにひまわりを客席にふりまいた。私はとてもそれが届く距離にはいなかったが、降り注ぐその輝きは、十二分に私にも届いた。

翌四月二十五日火曜日、私達は一一時五分発の日航機で香港を後にし、一六時に再び成田の土を踏んだ。

 

日本でアンコールの最後に歌われた「ファイト!」は、香港では歌われなかった。「LOVE OR NOTHING」ツアーの曲目の構成としては、おそらくは「ひまわり “SUNWARD”」で完結していて、「ファイト!」はツアー開始直前になって――おそらくは中島みゆき本人の強い意向で――つけくわえられたのだろうという見方をする人が多かったし、私も多分そうなのだろうと思う。あえてそうするだけの内的理由が中島みゆきにあったことは、日本でのツアーの「ファイト!」の前の語りからも想像がつく。

日本の一九九五年は、一つは自然が、もう一つは人間の心がもたらした二つの大きな災厄によって記憶されるべき年となるだろう。それらについて中島みゆきは短く語り、そしてこう続けた。

「誰でも心の中にもっている大事な宝物、それが傷つくことがあるということを、心痛く思います。夢は、叶った方がいいです。でも叶わない夢もあります。姿を変えでもしない限り、叶いようのない夢もあります。だからどんなに、姿形を変えようとも、どんなに傷ついてでも、あなたの夢がいつか叶いますように」

そして歌われた「ファイト!」は、一九八三年の「蕗く季節に」ツアーのアンコールで歌われたときよりも、一九八九年の「野ウサギのように」ツアーのアンコールで歌われたときよりも、さらに遥かに激しく、血を吐くような叫びとなって私達にほとばしった。

「ファイト!」は、この日本という国の内部から、「海の中の国境」を越えてゆこうとする夢の歌である。逆に「夢」が「国境」の、さらには閉じた集団の内部に自閉したとき、それは他者の夢を傷つけ踏みにじる兇器となる。五十年という時を経て、まさにそのことを如実に示した事件が再び起こったことこそ、中島みゆきがこの日本という場所で「ファイト!」を叫ばざるをえなかった一つの理由なのではないだろうか。

香港では「ファイト!」は必要なかった。国境が歴史に翻弄され、住む国の名が変わろうともたくましく生きてゆこうとする人々に贈る歌としては、国境を越えて「誰にでも降り注ぐ愛」を歌う「ひまわり “SUNWARD”」こそが最もふさわしかったのだろう。

 

日本語という世界を越えて、中島みゆきの表現世界がこれからどういう広がりを見せてゆくかは予断を許さない。今はただ、その最初の瞬間に立ち会うことのできた幸運と幸福とを感謝するのみである――そして、できることなら、中島みゆきがさらなる旅に出るときには、私もまたその旅先で彼女に出会えることを願うのみである。


(1) 中島みゆき作品における「旅」の意味やその変容については、拙稿「『異国』から『EAST ASIA』へ――中島みゆきにおける『故郷』の変容」(『MIYUKOLOGIE』第十七号、一九九三年)も参照されたい。
(2) 「一対一の対話」の意味については、拙稿「愛の逆説と世界への眼差し―呉・勢古論争、あるいは中島みゆきを『語ること』をめぐって―」(『MIYUKOLOGIE』第十九号、一九九四年)を参照されたい。
(3) ライヴに出かけることが、私にとってしばしば第一の意味、つまり物理的な意味の旅であるというのは、多くの一般的な中島みゆきファンにとってはもしかしたら腑に落ちないことかもしれない(本誌の読者にとっては必ずしもそうではないだろうが)。地方から「夜会」に出かけるというケースは別として、コンサートツアーでは中島みゆきの方が自分たちの町にやってきてくれて、自分たちファンはその彼女を「迎える」のだというのがおそらく一般的な理解であろう。そうした一般性から私がしばしば逸脱し、遠隔地の公演に出かけるのは、正直に言えば(本文に書いたような大都市圏でのチケット事情によるものというよりはむしろ)できるだけ多くの公演に触れたいという欲求のなせる業である。こうした行為はいわゆる「追っかけ」と呼ばれて然るべきものであろうが、本稿はそれについて議論すべき場ではない。なお、「追っかけ」については西戸俊彦氏の軽妙なエッセイ(「おっかけ考」、『MIYUKOLOGIE』第十七号、一九九三年)がある。
(4) 中島みゆき・小倉エージ「香港音楽談義」、『月刊カドカワ』一九九四年十一月号、一七六頁。
(5) この点については前掲拙稿「『異国』から『EAST ASIA』へ――中島みゆきにおける『故郷』の変容」も参照されたい。
(6) このとき私を誘い、香港旅行での同行者となってくれたT君とG嬢にはこの場を借りて謝意を表したい。とりわけ、めんどうな旅行の手続きやチケットの手配をすべてやってくれたG嬢には、改めて深くお礼を言いたい。
(7) 前出「香港音楽談義」、一七四頁。