夜会VOL.20『リトル・トーキョー』――その1

夜会VOL.20『リトル・トーキョー』の初日1月30日、ついで中日 (なかび) 2月12日の公演を観た。

中日のカーテンコールの最後に、声だけの特別キャスト・泉谷しげるがこの日の客席に来ていることを中島みゆきが告げ、周囲から万雷のスタンディング・オベーションを浴びるという幸運なサプライズがあった。私は2階席だったので、1階席の興奮がよく見えた。

その喝采は、彼がこの作品の中のネガティブな要素を一手に引き受け、声と歌のみで堂に入った悪役ぶりを見事に演じきったことにも向けられていたように聴こえた。それは裏返してみれば、舞台に登場するメインキャストたちの演技が、総じてポジティブな善意に満たされていたこととの、強烈なコントラストの反映でもあったのかもしれない。

 

そのことからも示唆されるように、『リトル・トーキョー』は、とにかく、これまでになく「明るく愉しい夜会」というのが偽らざる第一印象だ。初日を観おわった時のわくわくした幸福感が、今も胸中にそのままに弾んでいる。

ただそれは、この演目がこれまでの演目に比べて、単純であるとか平板であるとかいうことを意味するわけではない。

「新しいのに懐かしい」――Twitterのフォロワーでもある長年のファン仲間のひとりは、初日の印象を的確にそう表現してくれたが、それに倣えば、「愉しいのに哀しい」「わかりやすいのに謎めいている」……というふうにも言えそうだ。もともと夜会にはそうした多面性があったが、それがもう一段更に高いレベルで実現された、というべきだろうか。

観終えたあと、なかなか言葉にしきれない千々の想いが胸の奥底に残るのは、これまでの演目でも同様だったが、今回はそうした明るく愉しい印象の分だけ、胸に残る余韻はむしろ深い。

 

公演はまだ折り返し点を過ぎたところであり、上記のような複雑な印象は、まだ私の中で十分には整理しきれていない。今は、とりあえず現時点での覚書として、とりわけ重要に思えることを中心に、その印象の内容を可能な限り言葉にしておくことにしたい。

なお以下の記述は、基本的には2回の公演を観た私自身の記憶に基づくが、パンフレットに記載された情報を適宜補完している。また、必ずしも舞台の進行順の記述にはなっておらず、ストーリーの説明は、文脈上最低限必要な範囲にとどめている。

 

「リトル・トーキョー」という場所

夜会VOL.20のタイトルが発表されたとき、その意味について、さまざまな想像をめぐらせて楽しんだ。「リトル・トーキョー」とは一般的には――最も有名なロサンゼルスのそれに代表されるように――海外各地につくられた日本人街の通称である。だとすれば今回は、海外に流浪した日本人の物語なのだろうか――そんな単純な予想は、少なくとも表面上は、見事に覆された。

 

初日の第1幕の緞帳が上がったとき、まず目に飛び込んできたのは、舞台中央に設えられたライブスポットの木造のステージ――その上部には、古典的な書体のアルファベットで “Little Tokyo” と書かれた大きな看板が掲げられている。

ステージの背後は、峨峨たる雪山が視界のすべてを覆う。

この場所、北海道に建つ「ホテル&パブ・オークマ」の女将である大熊杏奴[あんぬ] (中島みゆき) は――メインビジュアルのとおりの――ワインレッドのクラシカルな英国風ドレスを身にまとい、下手にある、これも古風で立派なデスクのあたりで3曲の新曲を歌ったあと、中央のステージに上がり、スタンドマイクの前に立つ。

その曲のイントロが始まった瞬間、私の背中に電流のような衝撃が走った。

――「野ウサギのように」!

VOL.7『2/2』以降、夜会の初演の演目は、テーマ曲「二隻の舟」を除くすべてが新曲で構成されてきた。この瞬間、その慣例に終止符が打たれたのだ。

ちょうど30年前のアルバムのタイトル曲を中島みゆきは、まるでアイドル歌手のような可憐な振付で、楽しげな笑顔を絶やさずに歌う。

野に棲む者は 一人に弱い
蜃気楼(きつねのもり)へ 駈け寄りたがる

このフレーズは、この場所が――パンフレットに掲載されたテーマ曲「リトル・トーキョー」の歌詞を借りていえば――「帰る先を失くした」人びとが集まってつくりだす仮初めの住処、あるいは「幻の場所」であることを示唆しているのだろうか。

だがそのこと以上に強く印象づけられるのは、この曲のアウトロでの振付、スカートの裾を両手でつまんでステップを踏みながら中島みゆきが踊る姿だ。それは否応なしに30年前のコンサートの記憶――1989年の『野ウサギのように』ツアーではなく翌年の『Night Wings』ツアーでの「野ウサギのように」だったかもしれないが――を、私の中にありありと蘇らせた。

もしかしたら、「帰らないすべてが ここだけに有る」リトル・トーキョーとは、私たちファンにとって、過去の中島みゆきのすべてのライブの記憶が保存され再生される場所でもあるのではないか――もちろんこれは、ファン目線からの深読みのしすぎだろうが、そのようにさえ錯覚させてくれるのも、この夜会の大きな愉しみのひとつとなった。

 

――ただ、それは深読みのしすぎとしても、このライブスポット「リトル・トーキョー」が、この夜会の中に設えられた一種の劇中劇のステージであることは明らかだろう。

セットリストの中で、「野ウサギのように」に始まる第1幕の5曲の既出曲は、いずれも「リトル・トーキョー」のステージ上で歌われる。更に、第2幕で宮下文一が歌う「紅灯の海」も、東京・新橋の料亭『華乃屋』の奥座敷という設定になってはいるが、そこは舞台装置の配置としては「リトル・トーキョー」のステージと同じ場所である。この事実は、上述の印象をより強める。

元ロックミュージシャンの農場主・「おいちゃん」こと笈河修身 (石田匠) がこのステージでギター片手に歌う姿は、はまり役として見事に決まっている。第1幕の後半で、「テキーラを飲みほして」を歌いおえての「サンキュー、リトル・トーキョー!」というノリの良い挨拶には――今回のセットリストでも最も初期、1983年のこの曲への懐かしさも相まってか――客席から間髪を入れぬ拍手が沸いた。

夜会の舞台進行の途中での拍手は、これまでにも例がなかったわけではないが、今回は明らかにその意味が違う。ライブスポット「リトル・トーキョー」とは、さまざまな夢が歌われ、演じられる舞台そのものの比喩であり、拍手はそのような夢の記憶への拍手でもあるのだ。

 

――劇中劇のステージ「リトル・トーキョー」の盛り上がりは、第2幕も中盤、舞台前縁の上のミラーボールが回転し、舞台も客席も華やかな光に包まれる中、5人のキャストが声を合わせて歌い舞うタイトル曲「リトル・トーキョー」で最高潮に達する。

そのアウトロが閉じたときの万雷の拍手の中、中島みゆきは――杏奴という役柄をあえて離れて――喝采に応え、「それでは、そろそろお話を進めてまいりましょう」と、舞台を物語の流れの中に引き戻す。このように、彼女が役柄から離れて客席に語りかけるのは、VOL.3『邯鄲』で演劇的形式が導入されて以来、夜会ではおそらく初めてのことだ。

それほどに、「リトル・トーキョー」という劇中劇のステージは、この夜会の舞台の全体を強い磁場によって意味づけているということだろう。

 

群像劇

さて、「リトル・トーキョー」は、杏奴の姉で、18歳のときにミュージカル歌手を目指して上京し、渡米したあと長く行方不明となっていた朝倉李珠[りず] (渡辺真知子) の帰りを待ち受けるための場所でもあった。

第1幕中盤、その李珠の思いがけぬ帰還によって、物語は動き出す。

――事実上の準主役である渡辺真知子の存在は、冒頭で強調したこの夜会の明るさ、愉しさの光源に位置している。彼女が登場しただけで、舞台はまるで暖色系の光に隈なく染められるかのように見えた。

李珠は修身と幼馴染だったようで、妹の杏奴さえすぐには気づかなかった彼女に、彼は一瞬で気づき「りっちゃん、おかえり!」と快活に告げる。その二人が第1幕の終盤で歌う「後悔はないけれど」の美しいハーモニーは、ともに音楽への夢を経めぐったあと、故郷での再会を果たした二人のあいだに交わされる想いの共鳴のようだ。

 

その一方、第2幕ではもうひとつの再会が果たされる。

杏奴の夫「ふうさん」こと大熊文夫 (宮下文一) は、1年前、東京・新橋の料亭で、異母兄の不動産会社社長・権作 (声・泉谷しげる) から、朝倉家の広大な土地を乗っ取るため、杏奴を暗殺しようという謀略を聞かされ憤る――ここが、冒頭で触れた泉谷の声による名演技、迫真力ある悪役ぶりが見事に発揮される場面だ。

この密談を立ち聞きした芸妓・梅乃 (植野葉子) ――文夫と東京で暮らしていた愛人――は危険を察知して失踪し、北海道の笈河修身の農場で獣医助手として働きながら、杏奴の身辺の状況を探っていたようだ。

第2幕の中盤、杏奴の遺体が雪崩の下から見つかったという警察の情報を受けて「ホテル&パブ・オークマ」に戻ってきた文夫は、思いがけず梅乃と再会する。

 

――この二組の再会の外に、ヒロイン杏奴はいる。

文夫との結婚は、両親の死後――それも大熊家の陰謀であったことが上記の密談で示唆されている――広大な家屋敷の相続に窮した杏奴に、権作と文夫の父である大熊不動産の先代社長がもちかけたものだった。「動物好きな温和しい性格ですから、新しいホテルの代表に」と。

そうした計略結婚の経緯から、二人のあいだには、最初から大きな距離感が存在していたようだ。第1幕の冒頭、支配人に促されてしぶしぶ文夫と電話で話したときの杏奴の声は、およそ夫との会話とは思えぬ、よそよそしいものだった。

ところが――おそらくは電話が切れた後のひとり芝居で――「裏山の山犬の”つらら”が仔犬を産んだのよ! 三匹もよ~」と語りかける杏奴の声は、それまでとはうって変わって甘やかで親しげで、動物たちへの思いのみが二人の遠い距離をつないでいたのだろうか、とも思わせる。

後述する第2幕のラストで、既にこの世にいない杏奴は、「あたしだって、ふうさんのこと、ずーっと大好きだったんぞ」と想いを告げるが、それが今生で叶えられることはない。

 

――再会を果たした二組と、その外にいる杏奴、そして (後述する) 小雪の6人全員のキャストによって歌われる「二雙の舟」は、彼女たち、彼らのあいだでそれぞれに交錯する想いが響きあい、力強く胸に迫ってくる。

「二雙の舟」は、最初の2つの夜会でフルバージョンで歌われたのち、VOL.3『邯鄲』以降は、さまざまな物語の文脈の中で、さまざまな部分が取り出されて歌われてきた。今回、中島みゆきが「時流を泳ぐ海鳥たちは……」から歌い始め、やがて6人の大合唱となってエンディングに至るアレンジは、これまですべての「二雙の舟」の中でも、最も激しく心を揺さぶるものになった。

 

この「二雙の舟」に集約的に表現されているように、これまでの夜会でも最大の6人というメインキャストが起用され、その一人ひとりが個性を発揮する群像劇となっていることも、『リトル・トーキョー』の新境地のひとつだ。

そして、この群像劇の中心に位置し、それぞれに個性的なキャストたちを導いていく中島みゆきの強靭な求心力は、より力強さを増したと言うべきだろう。

 

「自然」の呼び声

「帰る先を失くした」人びとによってつくりだされた「夢の国」リトル・トーキョーとは、いわば「都市」という人工の世界の縮図であり、その外側には、舞台背景の雪山に象徴される「自然」が広がっている。

だが都市は、その背後にある自然なしには存立しえない。第1幕の中盤、修身が持ち込んだ血の滴る鹿のアラに杏奴は恐れをなし、「外に出して!」と叫ぶが、そのようにして血なまぐさい自然を視界の外に追いやり、かつそれに依存せざるをえないという矛盾によってはじめて、人工の世界は維持されているのだ。

 

――そうした都市と自然との対比は、この夜会全体の構成上は、第1幕と第2幕との対比に反映されているようにもみえる。

第1幕のラスト近く、雪山に響く密猟者の銃声を聞き、杏奴は「つらら!」と叫んで裏の雪山へ飛び出してゆく――その直後、地鳴りのような轟音とともに、雪山を襲う雪崩。

そして幕切れ寸前、「リトル・トーキョー」のステージの下という不思議な場所から彼女は突然姿を現し「つららが撃たれた!」と叫ぶが、この時の衣装は上述のワインレッドから純白に変わっていて、すでに彼女がこの世の者ではないことを鮮明に可視化する。

李珠が「いつ帰ってくるの」と歌い、ホテル&パブの人びとが杏奴の帰りを沈痛な様子で待つこのシーンは、第2幕の冒頭でもリピートされるが、床に敷かれた絨毯の色は、第1幕の暖色系から寒色系に変わり、そして舞台下手の窓や扉の枠には、多くのつららが下がっている――撃たれた山犬が自らの名によってこの世に思いを残そうとするかのように。

すでに自然は、第2幕の冒頭で、この人工の世界を侵食しはじめているのだ。

 

――その自然の世界からの使者として、杏奴はつららの忘れ形見の次女・小雪 (香坂千晶) を連れ帰る。

彼女は人間の女の子の姿をし、人間の言葉を話し、そして人間として「リトル・トーキョーのスター」を目指して「新人研修」を受ける。最初は歌の音程さえまったくの調子外れだった彼女が、やがて歌も踊りも上達し、成長していく様子は、自然・野生の世界から人間・文明の世界への移行を意味しているかのようにも見える。

前述の、ミラーボールが回転する「リトル・トーキョー」は、そんな彼女の最高の晴れ舞台となった。

 

――だが、第2幕の終盤、再び裏の雪山に地鳴りのような轟音が響く。雪山の下手側には何匹もの山犬の眼が光り、かすかな遠吠えが聞こえてくる――それは「自然」の呼び声でもあるかのようだ。それを耳にして、野生がよみがえったかのように、キャン、キャンと鳴きはじめる小雪。

父さんだ、父さんが迎えに来た!

「リトル・トーキョー」のステージに駆け上った小雪は、下手に向かって座りながら顔を上げ、魂の震えるような長い長い遠吠えで父犬に応える。

この小雪の見事な遠吠えは――おそらく前作『橋の下のアルカディア』での零戦の登場と同様に――今作の大詰めでの最大の転換点である。あるいはもっと以前、『花の色は……』の終曲「夜曲」のさらにアウトロで、月に向かって歌うかのような杉本和世のスキャットの絶唱とも、比肩しうるかもしれない。

 

――動物を擬人化して描くという方法は、演劇も含めてさまざまなジャンルで定番化した表現方法ではある。だが、この夜会での小雪の存在は、そうした演劇的表現という以上に、人間と動物、文明と自然との越えがたい境界線が、まるで奇跡のように越境されることを意味しているように見える。

そして、まさしくその越境――いったん雪山へ走り出たあと、「リトル・トーキョー」に駆け戻ってきて、山崩れの危険を告げる小雪――によって、人間たちもまた救済されるのだ。

山崩れによって半ば崩壊した「リトル・トーキョー」のステージで、杏奴が力強く歌う、終曲「放生」――

さあ悲しみを超えて
ゆくべき世界へ

解き放て 解き放て
輝いていてくれるように

――それは、文明と自然との境界を越えて、生きとし生きるものすべてが、あらゆる呪縛から解き放たれ、新たな世界で新たな輝きを獲得することへの讃歌だ。とりわけこの歌のエンディングで、「さあーーーーーーーー!」と4小節以上もつづく中島みゆきの素晴らしいロングトーンが、その解放の意味を再確認し、舞台は閉じられる。

 

追記1 「山犬」について

「山犬」という言葉について、少し補足しておこう。『日本国語大辞典』には、「山犬」は「にほんおおかみ(日本狼)の異名。また、野生化して山に住む犬」とある。

パンフレットのあらすじ「序」には、杏奴と李珠の祖父、英国人動物学者ヘンリー・アダムスは「狼の生きてゆける自然を護るため……この地に永住を決めた」とあるので、実質的には「山犬」は「狼」を意味しているとも取れる。

ただ、現実には、ニホンオオカミ (本州に生息) もエゾオオカミ (北海道に生息) も、20世紀前半には絶滅しているので、この夜会の時代設定、2000年12月に北海道に野生のオオカミが生息していたとは考えられない。もし「山犬」が「狼」を意味しているとすれば、それはやはりひとつのファンタジーとみるべきなのだろう。

舞台上の台詞でも、(上記のあらすじ「序」を除く) パンフレットの記述でも、「狼」ではなく「山犬」という言葉が使われているのは、そうしたリアリティとファンタジーとの微妙なバランスの上に立った表現なのかもしれない。

 

ちなみに、北海道標茶町には、アラスカから連れ帰ったオオカミが2017年まで生息していた「オオカミの森」という施設があるとのことだ。この記事の最後の方にある「オオカミの目を通して自然をみつめる」という言葉は、この夜会のメインビジュアルの画像を連想させる。

 

追記2 さまざまな気がかり

上記以外にも、『リトル・トーキョー』について語るべきことは、まだまだ数多くありそうだ。

形式上の新機軸については、30年の夜会の歴史の中で、VOL.3『邯鄲』での演劇的形式の導入、VOL.7『2/2』での全新曲による構成についで、VOL.20『リトル・トーキョー』は3度目の大きな飛躍をなした、というべきだろう。その理由の一端――とりわけ、既出曲の挿入――については、この記事でも少し触れた。

内容的には、VOL.11『ウィンター・ガーデン』以降ずっと踏襲されてきた「転生と救済」という基本モチーフのうち、「転生」が――少なくとも表面上は――外れたことは、やはり大きな転換であるように思う。しかし、上述のとおり、すべての生を新たな「ゆくべき世界」へと解き放つラストシーンの解放感はこれまでに比類がなく、まったく新たな次元での「救済」を感じさせてくれる。

 

ところで『ウィンター・ガーデン』といえば、この演目と今回の『リトル・トーキョー』のあいだには――表面上の印象はきわめて対照的であるにもかかわらず――いくつかの不思議な暗合のようなものが存在していることも気になる。一点だけ挙げれば、20世紀の終わりという『リトル・トーキョー』の時代設定は、VOL.11『ウィンター・ガーデン』がBunkamuraシアターコクーンで実際に上演されていた時期と、ほぼ重なっているのだ。

さらに、個々の曲――新曲、既出曲を含めて――や、個々の場面の演出の細部の意味については、私の記憶力や筆力の限界ということもあるが、この記事ではほとんど触れることができなかった。

そうしたさまざまな気がかりについては、次の記事――おそらく千秋楽よりも後になるだろうが――に譲ることとし、いったんこのあたりで記事を閉じることにしたい。

 

(「夜会VOL.20『リトル・トーキョー』――その2」につづく)

【コメントは、上記「その2」にお願いします】


「夜会VOL.20『リトル・トーキョー』――その1」への9件のフィードバック

  1. こんばんは。

    まだ本編を観ていないにもかかわらず、読んでみました。
    今回の夜会では脈々と受け継がれてきたメインテーマ「転生と救済」のうち「転生」が外れている、とのこと。
    ただ私は「転生」らしきものを既にみつけたような気がしています。
    それはやはり本編を観て、確認する必要があるでしょう。
    どこかでそれをご披露できればいいな、と思います。

    • 増田さん、さっそくコメントありがとうございます。
      「転生」が外れた、というのは、その前に「少なくとも表面上は」という保留をつけておいたほうがよかったかもしれませんね。たしかに、これまでの演目とは異なる意味での「転生」を読み取ることもできるのではないか、という気もします。

      ぜひ、生の舞台を楽しみにしてください。

  2. こんばんは。思わずメールさせていただきました。

    二幕の終盤で小雪があの遠吠えをす前、小雪はキャンキャンから何度も声にならない遠吠えをします。
    傍でみゆきさんは小雪に向かい腰をかがめ両の手のひらを上に向けながら、小雪の遠吠えを促します。
    なかなか上手くいかない。山から太い遠吠えが聞こえた時、小雪は舞台に上がり若く美しい遠吠え。

    瞬時にみゆきさんは外へ通じるドアを開け、小雪を外に促します。
    そして、放生の頭を歌いだします。
    一幕中盤で歌われる曲ーねえ、つららー。アンヌがつららの身を案じて歌う歌と、見事に反してたと感じました。

    山崩れを知らせるために戻った小雪が山に戻る時、小雪は、アンヌありがとうーと言ってました。
    小雪には、アンヌだったのでしょう。
    でも私には、小雪をひとりで歩けるようにするために、つららがアンヌの身を借りたように、また、アンヌもそう了解していたようにかんじました。

    初日と11日目の感想でした。

    ネタバレですみません。

    • Santaさん、コメントありがとうございました。

      2幕大詰めのあの場面、そうした細部の演出にまでは気がつきませんでした。人間の世界から自然の世界への小雪の帰還と、それを励ます杏奴との姿が、息詰まるような緊迫感で描かれていることがよくわかります。ちょうど今日が3度目の鑑賞ですので、じっくり観なおしたいと思います。

      また、あの場面が1幕の「ねえ、つらら」と対比をなしているのはご指摘の通りですね。例年にない大雪の中、つららを人間の世界につなぎとめて保護するべきなのか、それとも自然の中で自由のままにさせておくべきなのか、という杏奴の逡巡は、第2幕のラストへの伏線にもなっていると思います。

      それから、第2幕ではたしかに杏奴は小雪の母代わりであり、つららも杏奴もすでにこの世のものではなくなっていることを考え合わせると、第2幕では実質的には両者はすでに一体となっていて、その意味でも、人間と自然との境界が越境されている、ということも言えるかもしれません。

  3. リトルトーキョー、1回目を見たときと、それ以降で大きく印象が変わりました。1回目は同じ曲の繰り返しが多く、テンポが良すぎる演出のため、みゆき先生ご乱心?あるいは忙しすぎて手を抜いたかなという浅はかな捉え方をしました。しかし、2回目以降、プロットの理解が深まるにつれ、徹底して理詰めで作り込んだ作品であるとの印象が強まりました。

    またこのブログを拝読して、より理解が深まり大変感謝をしております。
    特に群像劇、出演者それぞれが帰る場所に帰っていく、という視点は私だけでは思い至らなかったため、それを理解した瞬間に「いつ帰ってくるの」の意味が深く変わりました。

    細かい点ですが、まだ私が理解できていない演出がありますので、勝手ながら書かせて頂きます。
    ・終盤、いつ帰ってくるのを歌い終わって、山崩れが来る直前、杏奴が山崩れを呼び寄せていると思われる演技があります。そのように解釈をすれば、亡霊?となった杏奴はつららを含めて自然と一体化した状態であり、個人的な意思でだけでは無く、リトルトーキョー周辺の自然の総意として、ホテルを破壊し、自然を守っていると解釈ができますが、その他の出演者とのバランスを考えると、短絡的で、いささか浅すぎる解釈と言えなくもありません。

    ・1幕の後半で密猟者が入って来る際、密猟者が杏奴のマフラー?を意味ありげに確認をしながら盗んでいく演出があります。これにどういう意味があるのか理解できていません。

    全体として、杏奴の視点でみても大変面白く、群像劇として見ても意味深く、小雪の成長物語としても楽しく、笑いが多い演出をみても気持ちが明るくなる、これまでの夜会の中で最も完成度が高く、何度見ても見尽くした感のない素晴らしい作品であると思います。中島みゆきは、67歳という年齢ではありますが、創造力の力強さに、ただただ感服した次第です。

    • 部長さん、コメントありがとうございます。このブログ記事が、多少なりとも鑑賞のお役に立ったのであれば幸いです。

      ご疑問の点ですが、

      ・山崩れの直前の場面、舞台下手に立つ杏奴が両腕を高く差し上げて、眩しいスポットライトを浴びる場面ですね。あそこはたしかに、山崩れを呼び寄せているようにも見えますが、その少し前の、小雪が駆け戻ってきて「父さんがね、大きいお家にいちゃだめだって、杏奴の小さいお家にいなさいって。」と告げる場面とも考えあわせると、次のようには解釈できないでしょうか。

      ホテル本棟には、三井さんはじめ、まだ従業員たちがおり、ふうさんが電話はしたものの、脱出には間に合いそうにない。そこで杏奴は、人間界と自然界(異界)との狭間にいる存在として自然界に対して呼びかけ、自らの存在とひきかえに、「リトル・トーキョー」のみならずホテル本棟をも完全な崩壊から救った。その結果として、杏奴は人間界から完全に姿を消すことになった。

      ・密猟者が杏奴のマフラーを盗むのは、ごく単純に考えれば、杏奴の匂いによってつららをおびき寄せるためなのでしょうが、さらにそこに含まれている、さまざまな意味を考えることもできそうです。このことについては、私よりもこのブログで詳しく考察されているので、ご参考にしてください。
      https://ameblo.jp/ave-blo/entry-12443497223.html

      たしかに『リトル・トーキョー』は、多くの視点を含む群像劇であることに加えて、人間と自然、ローカルとグローバル、愉しさと哀しさ、既出曲と新曲、といったいろんな面で多元的・多層的で、にもかかわらずそれらが混乱することなく、ひとつの作品として結晶化していることが稀有な作品であると思います。私も舞台を4回観はしましたが、まだまだ観たりない感が深く、あとは映像ソフトのリリースを楽しみに待つのみです。

  4. JUNさんこんばんは。私は神奈川県に住むみゆきさん大ファンの主婦です。

    いつもJUNさんのブログ、ツイッターを拝見しております。今回の夜会、三回足を運びました。そのうち一回が2月21日でしたがJUNさんのツイッター、カフェの写真になんと私が飲み物をオーダーしているのが写っているのを見つけました。夫も間違いないと言っており、ビックリしたと同時に大変記念になりました。偶然とはいえとてもうれしくメールさせて頂いた次第です。

    私も北海道の生まれで短大ですが藤出身です。以前のブログに家郷先生、藪先生のことが出てきて興味深く拝見しました。私も国文科でしたのでもちろんお二方の授業を受けました。私はみゆきさんより二学年上でしたので残念ながら卒業した年にみゆきさんが入学され一緒になることはありませんでしたが、みゆきさんより一学年下の従姉妹はよく知っているようです。従姉妹は学園祭の実行委員でみゆきさんに歌ってもらう交渉をしたと言ってました。なにせ凄く綺麗な声だったとしか記憶はないそうですが、、、

    いまではあまりにもビックになり北海道のとか藤出身の歌手などと軽々しく言えませんが、やはりみゆきさんは北海道の誇りですし同じ藤出身が誇りです。でももちろん同窓会になんて出るわけもありません。

    長々とりとめもないことを書いてしまい申し訳ありません。かんぜんにアナログ世代なのでパソコンが苦手、ましてやツイッターをするなど遠い話です。
    夜会についても皆さんのように読み解いたりなどはしません。でも今回の夜会はとても楽しい舞台を見たという感じで幸せでした。いつもの少々暗く重たい夜会も私は大好きですが。もう次の夜会やコンサート、夜会工場を楽しみに健康に注意していこうと考えている私がいます。これからもJUNさんのブログやツイッターを楽しみにしています。お体に気お付けてお仕事にお励み下さい。
    偶然とはいえご縁を感じメールさせてもらいました。失礼いたしました。

    • 雪虫さん、コメントありがとうございました。

      まず、2/21のACTカフェでの写真にお姿が映っていたとのこと、偶然とはいえ驚きました。ちょうどお客さんの列が途切れた時に撮ったつもりでしたが、不思議なご縁ですね。

      藤女子短大のご出身で、家郷先生、藪先生の授業を受けられたとのこと、また従姉妹さんは直接みゆきさんと学園祭の出演交渉をされたとのこと、私のような異郷の1中島みゆきファンにとっては、非常に貴重なご経験に見えます。

      3年前、「ミルク」のマスター前田さんのお話を伺ったときにも感じましたが、間接的とはいえ、舞台上でもメディアを通してでもない「素」のみゆきさんに触れたような気がして、心が震えます。

      このブログやTwitterでのお付き合いのほど、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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