空ゆく数多の翼には (2)――零戦のリアリティとファンタジー

零戦52型 (復元、海上自衛隊鹿屋航空基地史料館)

夜会VOL.20『リトル・トーキョー』の初日が目前に迫った。チケットもすでに手元にある。

そんな今になっても、すでに初演の初日から4年と少しが過ぎた『橋の下のアルカディア』の舞台の記憶は、新鮮で懐かしい。あの世界の隅々までは、まだまだ探索しきれていないのに……という焦燥感のようなものが胸に迫る (まあ、それを言ってしまえば、さらにそれ以前の数々の演目も、すべて基本的には同様なのだが)

だが、時間は有限だ。昨年8月の記事で予告したように――『橋の下のアルカディア』の多面的な構成要素の中でも、とりわけ重要でかつ個人的な気がかりでありつづけてきた――零戦をめぐるリアリティとファンタジーについて、これまで気づいたり考えたりしたことをいま可能な限りまとめておくことで、とりあえずの区切りとしよう。

なお、一部これまでに書いた記事と重複する部分もあること、また内容の性質上ややマニアックな記述を含まざるを得ないことは、ご容赦願いたい。

 

零戦――零式艦上戦闘機――は、よく知られている通り、第二次世界大戦期の日本海軍の主力戦闘機である。1万機以上が生産され、戦線に投入された。大戦初期にはその優れた空戦性能等によって敵機を圧倒したが、米英の新型機の開発・投入が進むとともに次第に劣勢となり、戦局全体が著しく悪化した大戦末期には、多くが特攻機としても使用されるという、悲劇的な運命を辿った。

その栄光から悲惨への道筋は、日本にとって、先の大戦の記憶そのものを象徴していると言っても過言ではないだろう。『橋の下のアルカディア』のラストシーン――破局からの脱出と救済への飛翔――に、零戦が登場する基本的な理由もそこにある。

 

4年前、初演の初日のレビューでも書いたように、『橋の下のアルカディア』は――とりわけ、あの巨大な逆説と衝撃に満ちたフィナーレは――究極的にはひとつのファンタジーである。

しかし同時に、その中心に位置する零戦の表現には、実は周到なリアリティへの配慮がなされてもいるということに、ここで注目したい。そのリアリティとファンタジーとの不思議な均衡こそが、戦争の記憶という、舞台の終盤になってようやく明かされる主題の重みを支えているのだ。

 

造形のリアリティとファンタジー

ラストシーンの零戦の造形については、以前、Facebookで知り合ったベテラン航空機技術者であり、零戦の復元にも携わったことがあるHさんというかたから、数々の貴重なご教示をいただいた。ずいぶん時間がたってしまったが、ここに深く謝意を表したい。

以下、本節の内容は、そのHさんからの示唆に基づき、まとめなおしたものである――

 

まずプロペラについて。プロペラブレードの臙脂色の塗色と、その先端の危険識別のための黄色のライン、そして3枚のブレードが反時計回りに回転するのは、いずれも実機の忠実な再現になっている。

機体前部のエンジンカウルの黒の塗色や、その下部にある吸気口の造形も同様だ。

主翼両端に輝くナビゲーションライト――左舷が赤、右舷が緑――は、実機や航空法に準拠したものである。再演VOL.19で追加された演出だが、第2幕で高橋九曜 (石田匠) が「水晶宮」を歌うところで、祖父・一曜と父・忠の遺影を収めた仏壇の脇から取り出す零戦の模型にも、このナビゲーションライトが印象的に輝いていた。

――Hさんは子どものころ、星を観察していると、この赤と緑のナビゲーション・ライトを灯した旅客機が上空を何機も通過するのを飽きずに眺め、空への憧れを抱いたという。

空ゆく数多の翼には 憧れ抱かせる光がある

という「国捨て」の歌詞は、そのようにして空に憧れた少年たちの記憶にも裏づけられているのだろう。

 

その両主翼の、胴体から1/3ぐらい離れたところに、実機では零戦の主兵装である20mm機銃が搭載されている。

――が、『橋の下のアルカディア』のラストシーンでは、エンジンが起動し上述のプロペラの回転が始まるとき、その位置に2つの前照灯が点る。さらにエンジンがフル回転し、いよいよ機体が上昇し始めるとき、前照灯はまばゆく輝きを増す。

あるはずの銃もなく あるはずの武器もない
見るがいい その場所には 輝く何かが見える

この『国捨て』の再演での追加歌詞は、リアリティからファンタジーへの上記の転換を正確に反映している。

 

さらに「武器」については、機体下部も見逃せない。零戦の実機では、下部に増槽 (航続距離を延ばすための追加燃料タンク、約400kg) がぶら下げられることがあり、また特攻機の場合は、500kg爆弾を搭載するのが一般的だった。

――『橋の下のアルカディア』で、それらの代わりに零戦がぶら下げるのは、いうまでもなく人見と天音の二人が乗ったケージである。垂直上昇はともかくとして――これはこの場面の最大のファンタジー要素であろう――機体が懸架しうる荷重という観点からみれば、零戦が二人の乗ったケージを吊り下げることには、十分にリアリティの裏付けがあるのだ。

私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった

初演時から歌われた『国捨て』の核心をなすこの歌詞もまた、そのようなリアリティからファンタジーへの転換――爆弾から人を乗せるケージへ、機銃から行く手を照らす前照灯へ――と正確に呼応している。

 

そして、リアリティとファンタジーとの均衡という点で、おそらく最も視覚的に重要な意味をもつのは、機体そのものの塗色だろう。

これも初演 (VOL.18) の初日のレビューで書いたことだが、零戦の機体上面が濃緑色、下面が灰白色という塗り分けが一般化するのは「52型」に代表される後期型からであり、初演ではこの塗色が再現されていた。機体上面の濃緑色が「緑の手紙」を可視化する一方で、下面の灰白色――この塗色は、下から見上げた時に空に溶け込む保護色の意味があったとも考えられる――は、リアリティを担保していた。

しかしながら、再演 (VOL.19) では――零戦が上昇してゆくにつれて必然的に目に入ってくる――機体下面もまた、上面と同じ濃緑色に塗装されていた。これは実機には存在しない塗色であり、リアリティからファンタジーへと大きく舵を切った転換とも言えよう。

そして言うまでもなく、破局からの救済へのメッセージである「緑の手紙」の意味は、この転換によって、より強烈かつ鮮明に表現されることになったのだ。

 

吹きつづける風

さて、『橋の下のアルカディア』で零戦のリアリティを支えているのは、上述のような機体の視覚的造形だけでは実はない。

艦上戦闘機の「艦上」とは、空母 (航空母艦) 上で運用される――空母の飛行甲板から発艦し、またそこに着艦する――という意味である。実際には陸上基地で運用されることもあったが、艦上で運用されることを前提として設計されている。

『橋の下のアルカディア』にはもちろん空母は登場しない――が、その代わりに艦上機であることの意味を示唆しているのは、終曲「India Goose」の全編を吹く「風」である。

 

第二次大戦期の空母の全長は、日米ともにおおむね200~270mぐらいであり、陸上基地の滑走路 (通常、最低でも1kmはあった) よりも遥かに短い。当時、アメリカ海軍の空母は、その滑走距離の短さを補うため、カタパルト――油圧等の強い力によって艦上機を前方に射出する装置――を装備しつつあったが、日本海軍の空母にはカタパルトはなかった。

そこで、戦争映画等でしばしば描かれるように、艦上機の発艦時には、日本の空母は風上に向かって全速で航行する――これを「艦首を風に立てる」という。向かい風と空母の速力、そして機自身の速力との合成風力によって、翼はようやく十分な揚力を得、甲板から飛び立つ。

いつの風か約束はされない いちばん強い逆風だけが
高く高く峰を越えるだろう 羽ばたきはやまない

「India Goose」のこの歌詞は、そのように逆風を突いて飛び立つ零戦の姿を彷彿とさせる。また、

小さな小さな鳥の列が なぎ払われる
小さな小さな鳥の列が 組み直される

このフレーズは、戦場の大空を舞い、闘い、そしてその多くが散っていった零戦の映像と二重写しになっては見えないだろうか。

 

――さらに、「India Goose」のイントロや間奏に繰り返される、弦による小刻みな三連符と大きな抑揚とが印象的なあの旋律もまた、強風にあおられる「小さな小さな鳥の列」を聴覚的に表現しているように、私には聴こえる。

『橋の下のアルカディア』の冒頭が、いきなりこのイントロで始まることを思い出したい。それはフェイントのように「なぜか橋の下」につながっていくのだが、もしかしたら「India Goose」の強風は、冒頭からフィナーレまで、この演目の全編にわたって吹きつづけていたのかもしれない。

再演で追加された風鈴の演出も、あえて深読みすれば、そのことを暗示していたようにも思える。「模型の高橋」の軒下に人見が吊るす5個の風鈴は、この世にいない者たちの思いをこの世に呼び戻すための信号であると同時に、「風」が過去から未来へ――あるいは、未来から過去へ――と絶えず吹きつづけていることを示す信号でもあったのではないか。

その「風」は、私たちの運命を翻弄してきた歴史の奔流でもあり、そして同時に、私たちを新たな未来へと飛翔させる揚力でもあるのだ。

 

追記: 映画『風立ちぬ』について

ところで零戦といえば、その設計者として有名な技師・堀越二郎を主人公のモデルとした宮崎駿監督のアニメーション映画『風立ちぬ』 (2013年) のことを思い出すかたもおられるかもしれない。

この映画では、冒頭の二郎の少年時代、大空を翔ける夢の中に、イタリアの航空技術者カプローニの姿を借りて、彼を誘惑する悪魔が登場する。

悪魔は二郎とどこかへ飛んでいく飛行機の編隊を見上げながら、「あの半分も戻ってこまい 敵の街を焼きに行くのだ」、「だが戦争はじきおわる」と語りかけ、「飛行機は戦争の道具でも商売の手立てでもないのだ」、「飛行機はうつくしい夢だ 設計家は夢に形をあたえるのだ」などと、甘い言葉で二郎を誘惑します。
(一ノ瀬俊也『昭和戦争史講義――ジブリ作品から歴史を学ぶ』人文書院 2018年, 23頁)

――「戦争の道具」という現実と、「空ゆく数多の翼」に憧れる少年の夢との両義性。

 

『風立ちぬ』という映画のタイトルは、サナトリウム文学の名作として知られる堀辰雄の同名の小説から取られており、そのモチーフは、二郎の婚約者・菜穂子の存在に投影されている。

残された僅かな生を愛とともに生きようとする菜穂子と、戦争へと突き進む歴史の中で「うつくしい飛行機」を創る夢にこだわり続ける二郎。ふたりの生を通して、個の生の意味と、その背後にある巨大な歴史の流れとが重ねあわされる。

繰り返し美しく呈示される風と飛行機とのイメージが、かれらの生きた風景を貫く時間の流れを可視化する。風に乗り、空を飛ぶこと――それは生の自由への希求なのか。

 

この映画と『橋の下のアルカディア』(2014年初演) との関係についても、確かなことは何も言えない。ただ、風と飛行機とのイメージ、そしてそれらに託される生の自由への希求は、文脈やジャンルの差異を超えて、両作品をつないでいるようにも思えた。

 

新たなるリアリティとファンタジーへ

「言葉の実験劇場」と銘打って30年前にスタートした夜会は、前作『橋の下のアルカディア』に至るまで、総じてファンタジーを基調としながらも、その背後には確固たるリアリティ――私たちが生きている、この現実の世界――への眼差しが存在してきた。

だからこそ、客席の私たちは、舞台上に構築され提示される世界が、劇場の外に存在している私たちの現実の世界を根底から揺るがし、そして「転轍」するかのような衝撃を、何度も味わうことができたのだと思う。

――30年目の演目、VOL.20『リトル・トーキョー』の初日は目前に迫った。

その舞台で、どのような新たなリアリティとファンタジーとに出会うことができるのか――とりわけ今回は、事前に公開されている情報がきわめて少ないこともあり――強い胸騒ぎにも似た期待とともに、今は待ちたい。


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