夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』初日、11月15日(土)の公演を観てから、早くも1週間が過ぎた。
過去の夜会にも増して深い衝撃と問い――というよりも、過去の数々の夜会が私に与えた衝撃と問いをも改めて振り返らせ、それらすべてを、新たに凝縮しなおして一気に突き付けられたかような感覚――が、心と胸の奥底に残り、それはむしろ日が経つほどに、熾火のように熱を増している。
もちろん、やはりこれまでの夜会でもそうだったように、細部には、1回の公演を観ただけでは十分に咀嚼しきれない部分が――とりわけ前半の第1幕には――多く残った。
前の記事にも書いた通り、アルバム『問題集』収録の5曲をあえて聴かずに臨んだこともあって、初日ならではの緊張感と興奮は存分に味わい尽くすことができたが、そのことと引き換えに、未解決な部分が多く残ることは、いわば最初から織り込み済みのことでもあった。それらについては、次回に観るときのための課題として残しておきたい。
そうした演出や曲目の細部にわたる詳細なレビューは次回以降に譲り、この記事では、なるべく初日の余韻と第一印象が薄れないうちに、私が受け取った衝撃と問いの核心部分だけを、書き留めておくことにしたい。
第1幕
第1場 地下壕:冬
物語の主要な舞台となるのは、二重のアーチをもつ石造りの橋の下にある、地下壕 (かつての防空壕) の中につくられた古びた商店街である。
その多くはすでに店を閉じ、「シャッター街」と化した、うら寂れた街並み。右横書きで「クスリ」と書かれた看板もみられるのは、ここが戦前から存在することを示唆するのだろうか。「ボンカレー」「オロナミンC」「オロナイン」といったブリキの看板は、昭和30年代ぐらいのレトロな雰囲気を醸し出している。
まだ店を開いているのは、不思議にエキゾチックな衣装の占い師・橋元人見 (中島みゆき) が営む「水晶宮」と、代理ママ・豊洲あまね (中村 中) がひとりでやっているらしい「Bar ねんねこ」の2軒のみ。
そこへ、舞台中央の階段を降りてガードマン・高橋九曜 (石田 匠) が訪れ、この地下壕は集中豪雨時の雨水を放流するための地下水路に改修されるので、退去するようにと2人に勧告する――ここはもう「いらない町」になったのだと。
――都市機能の整備のための再開発、といえばそれまでだが、このようにして見捨てられていった「いらない町」が、戦後日本の経済発展の途上には、数限りなく存在したに違いない。
昨今のブームとしての「昭和レトロ」へのノスタルジアは、もしかしたら、そのようにして私たちが振り捨ててきた「過去」への、無意識の罪責感の反映でもあるのではないだろうか――そんなことをふと思ったりもした。
第2場 橋脚:天明2年
物語は、橋の下の地下壕がまだ実際に川であった過去――江戸中期、天明の大飢饉の時代――へと、一気にさかのぼる。
洪水から橋を守るため――川の怒りを鎮めるため――と称して、村長の命により、ひとりの村女・人身 (中島みゆき) が「人柱」に立てられる。
彼女を内部の空洞に入れた橋脚の扉が閉じ、増してゆく水嵩――その川に身を投げる、彼女の夫らしき村男・公羊 (石田 匠)。
――この悲痛なシーンは、夜会『今晩屋』第1幕の幕切れ――僧形の厨子王が炎上する縁切り寺に身を投じ、ついで〈禿〉と〈庵主〉が左右の滝壺に身を投げるあの場面を思い起こさせずにはおかない。
しかし、それ以上に胸に迫るのは、人身の愛猫〈すあま〉(中村 中)が幕切れの場面、猫籠の中で歌う「人間になりたい」だ。自分が人間でありさえすれば、人身を救うことができたのに――と。
この第2場で、やはり『今晩屋』の物語と同様に、3人の主要キャストの転生が明らかになる。人身は占い師・人見として、〈すあま〉はバーの代理ママ・あまねとして、そして公羊はガードマン・九曜として、それぞれ現代に転生し、あの地下壕の商店街で再会を果たしていたのだ。
――だとすれば、今生でこそ3人は、集団のための犠牲とされた前生の運命から解放され、救済されうるのだろうか。
この問いが、第2幕へと私たちを導いていく――
第2幕
第1場 地下壕:夏
舞台は再び地下壕の商店街。
ガードマンは、「水晶宮」の左隣の店、今は閉店した「模型のタカハシ」の (3年前に他界した) 店主の息子であるらしく、その亡父の供養のためにたびたび店を訪れる――彼の役名「九曜」には、前生の村男の名「公羊」とともに、明らかに同音の「供養」の意味が重ねられているのだ。
その模型店店主、高橋忠は、かつて「Bar ねんねこ」の (舞台には登場しない) ママに恋心を抱いていたらしく、多くのラヴレターを彼女に送っていた――それらは、代理ママのあまねが今も保存しているようだ。
この忠の視点で歌われる「呑んだくれのラヴレター」は――後述する同じ旋律の「国捨て」とともに――この夜会VOL.18の物語の核となる、最も重要な曲である。
未曽有の嵐が来る時は この地は川へと還るだろう
二度と生贄にならぬよう 緑の手紙を開けなさい
「未曽有の嵐」は、「毎時200ミリ」の集中豪雨として、すでにこの「いらない町」に迫っていた――第1幕で九曜が警告していたように、集中豪雨時の放水路としてこの地下壕が水に呑まれる瞬間が、刻一刻と近づいてきたのだ。地上への扉は、すでに閉ざされている。
3人はその前生と同じように、再び流れに呑まれ、生贄となる運命を辿るのか――「生贄にならぬ」ための「緑の手紙」を、人見とあまねは必死に探そうとするが、それはどこにも見つからない。
「緑の手紙」とは、いったい何なのか、それはいったいどこに存在するのか――
第2場 格納庫
この絶体絶命の危機の中、あまねに前生の猫としての能力が、奇跡のようによみがえる。彼女は「猫にだけ見える」道を辿り、舞台中央の石造りの橋脚の中心に植物に覆われて隠された、巨大な両開きの扉を存在を明らかにする。この扉が「緑の手紙」なのか――
やがて巨大な扉が開き、その隙間からまばゆい光が漏れてくる――この場面は、夜会初期の演目『金環触』の天岩戸が開くあのシーンを、やはり想起させずにはおかない。
扉の隙間からは、古めかしい飛行服に身を包んだ男のシルエット。その背後には小型機のプロペラが覗く――そして、格納庫の扉が全開したとき遂に姿を顕わすのは――
零戦――旧日本海軍の零式艦上戦闘機。
その機体の上面は緑に、下面は灰白色に塗装されている。この零戦こそが「緑の手紙」だったのか――
飛行服の男は、忠の父であり九曜の祖父である〈脱走兵〉高橋一曜だ。かつて「国を捨てながら逃げた臆病者」と謗られた彼が、この地下壕の格納庫に隠した零戦を、忠はひそかに守り続けてきたのか――
「呑んだくれのラヴレター」と同じ旋律で歌われる「国捨て」――それは、一曜から忠を経て、九曜の世代へと託されたメッセージである。
私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった
緑の手紙に託します
緑の手紙に託します
しかし、この零戦こそが地下壕から――そこで再び生贄となる運命から――脱出するための、3人を「幸せにする翼」であったとしても、1人乗りの零戦に3人が乗ることはできない。
前生の〈すあま〉としての記憶がよみがえったあまねは、自ら――第1幕の幕切れと同じ――猫籠 (に見立てられたケージ) の中に入る。今度は自らがこの地に残り、犠牲になることによって、人見を救おうというのだ。だが人見はその自己犠牲を拒否し、自らも猫籠の中に入る――
九曜は、2人が入った猫籠をワイヤーで零戦にくくりつけ、操縦席に搭乗し発進させる――終曲「India Goose」とともに、ゆっくりと垂直に上昇してゆく機体――
このラストシーンを、リアリズムの観点で理解してはならないだろう。
集団のため、社会のため、国家のために犠牲にされ、見捨てられてきた「個」が、まさに最終的にその運命の抑圧から解き放たれて飛翔し、救済されるということ――
この救済のイメージこそを、このラストシーンは――あえて言えば、ひとつのファンタジーとして――開示するのだ。
――『ウィンター・ガーデン』のときと同じく、堆積した過去としての地下から、まだ見ぬ未来としての天空への飛翔。
天明の時代に橋を守るために沈められた人柱、戦後の経済成長の陰で寂れていったシャッター街、集中豪雨の雨水を放流するために犠牲になる地下壕――
それらすべて「捨てられたものたち」を救済するのが、かつて「人を殺す道具」としてつくられ――そして、この点は明示的に表現されてはいないが――「特攻」という究極の自己犠牲のために用いられた武器であったという、巨大な逆説がもたらす衝撃。
この衝撃の深さと激しさは比類がなく、ここには中島みゆきの徹底的にラディカルな歴史意識が反映しているのだと私は思う。
『今晩屋』をも貫いていた「過去の救済をめざす歴史意識」はさらに鋭さを増し、近現代日本という現実をも、その射程の中に捉えようとしているのだ――
昨年の夜会工場VOL.1初日のレビューでも書いたように、さらなる転生と救済の物語を、これからもまた夜会は紡ぎ織りなしてゆくだろうという期待と予感は、この『橋の下のアルカディア』で、期待をはるかに超える高さで実現されたというべきだろう。
テーマ
今回の夜会のテーマについて中島みゆきは、すでに夜会の公式サイトに掲載されたインタビュー の中で、「集団が個を捨て、個が集団を捨てる。そんなお話かな(笑)」と語っている。
言うまでもなく、「集団が個を捨て」ることは歴史上果てしなく繰り返されてきたが、その逆に「個が集団を捨てる」ことは、現実にはきわめて困難なことだ――それは、かつて「国を捨てながら逃げた」一曜に与えられた、「御国の恥」「身内の恥」という烙印からも明らかだろう。
そのきわめて困難な問いを、今まさに提示しなければならないという抑えがたい衝動が、いま彼女の中には存在するのだろうか。だとすればそれは、来るべき「未曽有の嵐」への危機感なのだろうか――
だがこうした問いは――これまでのすべての中島みゆき作品においてそうであったように――私たち自身の心に委ねられるほかはない。これ以上、ここで具体的な想像を展開するのは控えておこう。
キャスト
今回初めてキャストとして起用された二人、中村 中と石田 匠は――前の記事に書いた通り――期待以上の歌唱力と演技力とによって、すでに四半世紀の歴史を重ねた「夜会」に清新な風を吹き込み、新たな1ページを開いてくれたと感じる。
とりわけ中村 中は、上記の「人間になりたい」での悲痛や歌唱と演技をはじめとして――気紛れさとしなやかさと神秘性とによって人を惹きつけてやまない――「猫」という存在のもつ魔性ともいうべき魅力を、十二分に表現しつくして余すところがない。
おそらく中島みゆき自身がそのことを念頭に彼女を起用したのだろうが、『橋の下のアルカディア』は、彼女の存在抜きには考えられない作品になった。
ビジュアルイメージ
今回の夜会でも、中島みゆきをはじめキャストたちの衣装や、上記のような大がかりな舞台装置を効果的に用いた演出等、ビジュアル面のすばらしさについても言うまでもない。
が、以前にも書いたように、視覚的な記憶力・表現力いずれもが著しく乏しい私には、それらについてはほとんど語る資格がない。
その代わりに、と言っては何だが、昨年の夜会工場VOL.1でも数々のすばらしいビジュアルイメージを見せてくれたぴしわさんの「覚え描き」ブログに、さっそく今回も見事なイラスト群が掲載されている。ぜひこちらをご参照いただきたい。
【補足】零戦の緑の塗色について
「緑の手紙」の「緑」には上記以外にも、いくつかの意味が重ね合わされているようにも思われるが、少なくともそのひとつが、ラストに登場する零戦の塗色であることは明らかだろう。
ただ、(ここから少しマニアックな話になるが) 零戦の初期型は灰白色の塗色がほとんどであり、緑の塗色 (厳密には機体上部が緑で下部は灰白色) が一般化するのは、戦局が悪化した昭和18年以降である。その後期型を代表するのが、零戦52型という機種だ。
戦後、緑色の零戦のイメージが一般化したのは、プラモデルの影響が大きかったらしく、Q&Aサイトにある「零戦の塗装について」という質問への解答には、「零戦=緑色と言うイメージを植えつけたのは、過去の零戦プラモが殆ど52型をキット化していた為」との説明がある。
このような歴史的経緯を踏まえると、「緑の手紙」には、「脱走兵」(元特
攻隊員?)だった祖父・高橋一曜から、模型店店主の父・忠を経て、九曜へと受け継がれた「戦争の記憶」という意味が含まれているようにも思えてくる。
なお、今回の零戦のセットは、塗装の細部の特徴からみて、遊就館 (靖国神社境内にある資料館) に展示されている零戦52型をベースにしたものとも思われる。
【キャスト】
- 中島みゆき …橋元人見(占い師) 人身(村女)
- 中村 中 …豊洲天音(Barの代理ママ) すあま(猫)
- 石田 匠 …高橋九曜(ガードマン) 公羊(村男)
- 松崎建ん語 …村人 チンピラ
- 宮川 崇 …警官 村長 高橋 忠(父:模型飛行機店主) 高橋一曜(祖父:脱走兵)
- 森尻斗南 …警官 村人 チンピラ
- 井上裕朗 …緊急無線の声
【ミュージシャン】
- 小林信吾 (Conductor, Keyboards)
- 矢代恒彦 (Keyboards)
- 中村 哲 (Keyboards, Saxophone)
- 古川 望 (Guitars)
- 富倉安生 (Bass)
- 島村英二 (Drums)
- 杉本和世 (Vocal)
- 宮下文一 (Vocal)
- 牛山玲名 (Violin)
- 民谷香子 (Violin)
- 友納真緒 (Cello)
【曲目】
- なぜか橋の下
- 水晶球
- 謎な女
- 問題集
- いらない町
- 失せ物探し
- 恋なんていつでもできる
- いちど会ったらどうかしら
- 大きな忘れ物
- 猫なで声プリーズ
- 川の音が聞こえる
- 一族
- 昔々あるところに
- 捨て子選び
- すあまの約束
- 男の仕事
- 身体の中を流れる涙
- 男の仕事
- みのむし(鬼の捨て子)
- 私と一緒に
- 猫籠
- 人柱
- 人間になりたい
- 問題集
- 身体の中を流れる涙
- どうしてそんなに愛がほしいの
- 雨天順延
- ペルシャ
- 袋のネズミ
- シャッター街
- 恋なんていつでもできる
- 雨天順延
- 二雙の舟
- 水晶球
- 一族
- 呑んだくれのラヴレター
- 一夜草
- 毎時200ミリ
- いらない町
- 呑んだくれのラヴレター
- 猫にだけ見えるもの
- 国捨て
- India Goose
- 私と一緒に
- India Goose
- なぜか橋の下
26日の公演を拝見しました。
今回は大阪公演がなく、一度しか観ることができないため
解説を有難く拝読しました。(関西在住です)
ありがとうございます。
「今晩屋」と「24時発00時着」の要素も含んでいると思いながら
観劇しました。愛する人を守るために別れる(中さんとみゆきさん)場面は、
前回の「2/2」にも通じますね。
2階席B列という席だったので、舞台全体がよく見えました。
オーケストラピット及び和ちゃん・文さんも拝見できて
幸せでした。中村中さんの歌唱力に、脱帽です。
「一夜草」を歌い上げた文さんのソロや「人間になりたい」に
涙しました。
中島みゆきという存在のすごさを改めて感じる「橋の下のアルカディア」でした。
加奈子さん、コメントありがとうございました。このブログ記事が多少なりともご参考になっていれば幸いです。
私も25日に2度目の鑑賞をしましたが、同じく2階C列で、舞台の全体やミュージシャンの演奏の様子がよく見えました。初日には気づかなかったさまざまな発見がありましたが、それらについては、近いうちに記事にまとめたいと思います。今回、歌のほとんどを3人のメインキャストが歌う中で、文さんの「一夜草」は、高橋忠というもう一人の重要な役柄を的確に表現していて、非常に印象的でした。
また今回、『今晩屋』や『24時着00時発』を含め、過去の夜会のさまざまな要素や場面が含まれているのもご指摘のとおり重要なポイントですね。そのテーマだけでも記事をひとつ書いてもいいぐらいと思っています。
初めて書き込みをします。
僕は18日の公演を観ました。
地方に住んでいるため、 加奈子さん同様、一度しか観に行くことが出来ませんのでこちらのブログの解説は、自分の解釈や記憶を補うのにとても役に立ちました。
2幕で九曜がチンピラに襲われる場面、最初は「どういう意味があるのだろう???」と思いながら観ていました。
ところが、天音が九曜のおでこに巻いた包帯が徐々に血で赤くなり、日の丸のように見えた時、「そういうことだったのか!!」と閃光のような衝撃を受けました。
包帯=特攻隊員の皆さんが巻いていた鉢巻を意味しているからこそ、九曜が包帯を自ら取る姿に「個が集団を捨てる」というテーマがより際立ったように感じました。
夜会は登場人物の名前や細かな場面にも色んな意味がありますので、ほんと奥が深いですよね。
ネイビーさん、コメントありがとうございました。
ブログ記事がお役に立って良かったです。
九曜の包帯が日の丸鉢巻きのようになるのは、私は実は初日にははっきりとは気づかず、25日に2回目を観てようやく認識しました。
ただ、チンピラに襲われた直後ではなく、模型店に入って亡父の仏壇の前に来た場面でそうなるのは、あそこで、祖父・一曜から受け継がれてきた戦争の記憶が再生されはじめることを意味しているのでしょうね。
九曜が包帯を自ら取る場面は、『今晩屋』の大詰めの「赦され河」で、3人が赤い目隠しを取る場面も思い出させました。
まだまだ各場面や歌詞には重要な意味が隠されているようで、(私はあと、楽前・楽日も鑑賞しますので) じっくりと確認したいと思います。
適当な段階で次の記事をまとめたいと思いますので、またご覧いただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
緑の手紙、というのが、非常に重要なモチーフであることは思っていたのですが、なんなのかわからずにいました。
私は「赤紙」=「戦争へ導くもの」 その対称である「緑紙」=「戦争に反対する道」ということなのかと思っていたのですが。
それと、最初は、紙飛行機が飛ばされているシーンの意味がわからなかったのですが、これも、恋文であると同時に、未来に託した手紙を紙飛行機として折って飛ばした、ということだったと考えると合点がいきますね。実は、その証拠として、あまねが読んでいる、「緑の手紙を開けなさい」と書かれた紙には、実は飛行機型に折った跡が付いていました。
いろいろな謎が絡まりあっているところが面白いと同時に、完全に謎が解けるわけでもなく、見る人のイメージにも委ねるあたりが作品としても素晴らしいです。
最後の挨拶で、今回は聞いたことのある曲が全然なかったという人もいたと思いますが、、ということでしたが、確かにそうでしたけれど、全部を通して音楽的に見ると、すべての曲の「調」のつながりが、ちゃんとその場の情景、心理描写さえをも含んでいることに感心しました。こういうことは、普通に曲を集めただけではできない、こんなことができるのはみゆきさんしかいないという思いを新たにしました。
コメントありがとうございます。
ご指摘のとおり、最も重要なモチーフである「緑の手紙」の意味が多層的で、観る者の想像に多くをゆだねている点が、今回の夜会の世界にとりわけ深い奥行と厚みを与えていると思います。
ただ、このモチーフの原型の少なくともひとつに、この小説の内容 (残念ながら現在は入手しにくいようですが) があるのは、ほぼ間違いないと思っています。この件については、次に記事を書くときに言及するつもりです。
https://twitter.com/jun__1959/status/540681665379446784
忠が紙飛行機を飛ばす場面も重要ですね。あまねが読んでいる手紙に織り目がついているのには気づきませんでした。次に観るとき(楽前)に、ぜひ注視したいと思います。
音楽面の充実ぶりもご指摘のとおりで、この点は、(最近ラジオでもご本人が語っていましたが)瀬尾一三さんの経験と力量も、大きく貢献しているように思います。
こんばんは。私の夜会はもう終わりました。楽前・楽日と行かれるとは、羨ましいい限りです。
さて、「国捨て」の歌が私には引っ掛かったままです。
「国捨て」の歌詞について、パンフレットの抜粋部分とは別に、JUNさんは以下の部分を掲載されています。
私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった
緑の手紙に託します 緑の手紙に託します
これは、夜会Vol.18に関わる重要な歌詞ではないでしょうか。しかも、幸せの翼「だった」と歌っています。
私は二幕二場のラストで、零戦が人殺しの道具から幸せの翼に変わる(生まれ変わる、転生)と、舞台を観て理解していました。
しかし、歌詞は「翼だった」。
一曜は、特攻隊を脱走し幸せの世界へ行こうとして零戦で飛び立った。零戦を「幸せにする翼」だと信じていた。それは叶わず、緑の手紙に託した。
このことですが、見方を変えれば、戦争が始まってしまった段階で、しかも敗戦濃厚のときに、一曜は「敵前逃亡」を断行したということになってしまいます。
ここで、戦争観を議論するつもりではありません。
幸せの翼「だった」という歌詞に間違いはありませんか。
めんとれさん、コメントありがとうございます。
今回は新作ですし、大阪公演もないので、できるだけ複数回観て、心と胸に舞台の記憶を焼き付けたいと思っています。
さて、「国捨て」の歌詞のその部分は、(これまで3回観た)私の記憶ではそのとおりです。ご指摘のとおり、ここはパンフレットには書かれていませんが、おそらく最も重要な部分と思います。
零戦が「(人を)幸せにする翼」であってほしいという一曜の願いは、彼の生の中では、また彼が生きた時代の中では、叶いようがなかった。だからこそその願いは「幸せにする翼だった」と過去形で書かれており、未来における転生への希望として、「緑の手紙」によって子へ、孫へと託されるほかはなかった。
本文で書いた通り、この夜会が、(『今晩屋』のときと同じく)「過去の救済」を志向していると強く感じるのは、以上のような理由からです。
歌詞の件、ありがとうございます。
救済のことは置くとして、特攻隊の脱走兵という設定が、非常にsensitiveな話題であり、しかもbeyond myselfです。戦時下の国捨てという場面作りは、何がみゆきさんをしてそうさせたのか、興味があるところです。
研究所のサイト掲示板には、特攻隊に関する「一夜草」のスレが立ちました。どう進展するのか、楽しみです。
たしかに、特攻隊 (と明示されてはいませんが) の脱走兵という設定は、センシティブという以前に、歴史的知識を踏まえたリアリズムの観点からは、ちょっと理解しがたいかもしれませんね。
私は、本文でも書いたように、この夜会のストーリー・世界観は基本的にファンタジーであり、リアリティを云々するのはあまり意味がないと思っています。
とはいえ、あえてそうしたセンシティブな設定をしたことには当然意味があるとも思います。
その少なくともひとつは、研究所のスレッドでも言及されていた「永遠の0」に対する、(はっきり言ってしまえば) アンチテーゼということではないでしょうか。
私もあの映画は観ましたが、家族のために生き残ろうとして「臆病者」と謗られていた祖父が、結局は部下 (それも、戦後、語り手たちの義理の祖父となる人物) の身代わりとなって、自ら特攻に赴いたことが明らかになる、という結末でした。
今回の夜会の結末は、そうではなくて、最後まで「臆病者」と謗られながら「息を殺すように」橋の下で世を去った一曜の遺志が、九曜たち孫の世代を救済することになる。しかもラストシーンで、天音の自己犠牲を否定するという念の入れようです。
『今晩屋』でも、「愛による自己犠牲」を否定するということが重要なモチーフになっていましたが、今回はそのことが、近現代日本が経験した歴史的現実に即して再度強調されているのだと、私は解釈しています。
JUNさん、はじめまして。
先日、劇場版を観た地方在住者のヤマと申します。
映画が好きで鑑賞作品の映画日誌をHPにアップしているのですが、
劇場版の拙日誌からの直リンクに、こちらの頁を拝借したので、
報告とお礼に参上しました。
非常に深く詳しく丁寧に御覧になっているばかりか、
かように資料的価値も非常に高いテクストを投稿しておいでで
すっかり感心してしまいました。
ブログ名も示しての拝借ではありますが、不本意でしたら、
すぐに取り下げますので、教えてください。
たいへんに読み応えのあるものをどうもありがとうございました。
ヤマさん、はじめまして。
「間借り人の映画日誌」への本記事のご紹介、ならびに丁寧なご挨拶をいただき、
まことに恐縮です。ありがとうございました。
「橋の下のアルカディア」劇場版のご感想でも書かれていた通り、
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2016j/04.htm
この演目は、(これまでの中島みゆき作品には例がないほどに)
色濃く「戦争の影」が差している点が、初日を観た時からずっと変わらない
深いインパクトとして、私の中に残り続けています。
それは、(このブログの別の記事でも書きましたが)
戦争の記憶というモチーフを最初から前面に押し出すのではなく、ましてや、
戦争というテーマをめぐる戦後日本のイデオロギー的磁場に依存するようなこともなく、
その歴史的記憶を、「捨てられた者たち」を救済へと導く重大な転換点として、
この物語の必然的な構成要素として位置づけているがゆえのことだったのだろう、
と思います。
(そうしたスタンスには、やはり昔からぶれることのない中島みゆきの視点を
再確認させられましたが)
「『ネットと愛国~在特会の「闇」を追いかけて』を読んで」も拝見し、
多くの点で共感しました。
またご縁がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。
JUNさん、こんにちは。
ご丁寧なコメント、ありがとうございます。
拙日誌のみならず、長大な読書感想のほうもお読みいただき、恐縮です。
戦争であれ、何であれ、人にとって最も重要な意味を持つものが“記憶”だと
常日頃、思っているので、レビューも含め、
「思い出し」を大切になさっておいでるところに僕も強い共感を覚えました。
中島みゆきさんは、'58年生れの僕にとっては、
どうこう言っても同時代を過ごしてきているシンガーですから、
JUNさんには及びもしない程度のファンであっても、
時々に強く心に残っている歌声があります。
どうもありがとうございました。
なぜか、この記事へのスパムコメントが最近非常に多いので、コメント欄を閉鎖します。『橋の下のアルカディア』に関するコメントは、これ以降のどれかの記事でお願いできれば幸いです。