「灯り」が意味するもの

街路樹は都会のクリスマス・ツリー
冬も夏も灯りを身につけて
街路樹は都会の澪標
寄せて返す人の流行りを見送って
(「街路樹」)

日本中の都市のメインストリートの街路樹がイルミネーションで飾られるようになったのは、いつの頃からだっただろうか。

夜会VOL.11/12「ウィンター・ガーデン」 (2000/2002年) で、北限の荒野に立つグラスハウスの中で「あの人」を待ちつづける〈女〉が、彼と都会で過ごした日々を回想しながら、部屋にクリスマスの飾りつけをする場面で歌われる「街路樹」は、彼女とその記憶とを隔てる時間的・空間的距離のゆえにこそ、なおさら眩い記憶として、灯りをまとう街路樹のイメージを美しく浮かび上がらせていた。

中島みゆきの作品において、都市の夜景を彩るさまざまな灯りは、つねにそうした距離の彼方に、都市という空間がかきたてる夢や希望や憧れの表象として、瞬きつづけてきたように思う。

この記事ではそれらの「灯り」の意味について、いくつかの作品を辿りながら再考してみたい。

ネオンライトの瞬き

たそがれには 彷徨う街に
心は 今夜も ホームに たたずんでいる
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券

中島みゆき初期の代表作のひとつ「ホームにて」 (1977年) の主題は、いうまでもなく「空色の汽車」と「空色の切符」に象徴される「ふるさと」への断ち切りがたい――しかし決して実現されることのない――思いにある。「ネオンライト」はその思いと対比されつつ、この歌の主人公が現実に暮らしてゆこうとする都市の表象として、背景に浮かび上がる。

「ネオンライト」という日本語としてはあまりなじみのない言葉の採用は――これは「ホームにて」を初めて聴いたときから漠然と思っていたことだが――もしかしたらサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」 (1965年) からヒントを得たものかもしれない。

When my eyes were stabbed by the flash of
A neon light
That split the night
And touched the sound of silence.

夜を切り裂くネオンライトの閃きが私の目を射たとき、私は静寂の響きに触れた――

「サウンド・オブ・サイレンス」の主題は――一般的な解釈としては――「静寂の響き」すなわちコミュニケーションの空白の拡大への警告にあり、だとすれば「ネオンライト」とは、その眩い光の乱舞の裏側でコミュニケーションの空白が拡大してゆく空間としての大都市の禍々しい表象なのであろう。

しかし「ホームにて」での「ネオンライト」は、「サウンド・オブ・サイレンス」の文脈と決して無関係とはいえないにせよ、そうした禍々しい表象というよりははるかに、主人公を――「ふるさと」への断ち切りがたい思いにもかかわらず――都市という空間になおひきとめつづける魅力の表象として、優しく美しく瞬いているようにみえる。

「ふるさと」へ向かう「空色の汽車」とその「灯りともる窓」が過去への郷愁の表象であったとすれば、「ネオンライト」は、未来への希望の表象であった――といえるかもしれない。

ポール・サイモンの怜悧な知性とシニカルな批判的まなざしの対象としての「ネオンライト」とは対照的に、中島みゆきにおける都市の「灯り」は、つねにそうしたアンビヴァレンスに揺れ動くまなざしの中に見いだされるのだ。

このようなアンビヴァレンスを秘めた都市の「灯り」は、ずっと最近の作品、とりわけ2000年以降の夜会にも、印象的な場面でくりかえし登場する。

作業灯

冒頭でふれた「街路樹」につづく場面で、「ウィンター・ガーデン」の〈女〉は、やはり都会で「あの人」と過ごした日々を回想しながら、「作業灯」という詩を朗読する。

あの人に逢いにゆく 夕暮れの高速道路から
建築中の大きなビルが見えたの
鉄骨の中に 作業灯がまぶしく幾つも並んでいて
すごく いきいきと見えたの

無限に発展してゆくかのようににみえる大都市、その未来へと突き進むエネルギーの象徴としての「作業灯」に、〈女〉は「あの人」との未来への希望を重ね合わせる。

しかし、その「大きなビル」の向こうには、「どの階の窓にも灯りはひとつも点っていない」暗く古いマンションも見えた。まぶしい作業灯とその暗闇――都市の光と闇――とのコントラストは、「あの作業灯は今、いったい何のためにあんなに輝いているんだろう」という疑いを、〈女〉の心に兆させた。その疑いはやがて、〈女〉の心を全面的に支配する。

私たち  ついにはどこへゆくのだろう
私たち  結局どこへも着かないんじゃないのかしら
そんなふうに疑ってしまったの

どこへも着かないのに  身を焦がしている灯りなの

どこへも着かないのに、身を焦がしている灯り――それはまさに、都会から遥かに離れた北限の荒野で、今もなお「あの人」を待ちつづけている〈女〉自身の姿でもあった。

パーティー・ライツ

遠い灯りは いつだって輝いていた
届かぬ夢は いつだって輝いていた

夜会VOL.13「24時着0時発」/VOL.14「24時着00時発」 (2004/2006年) の第1幕で、主人公あかりが海外旅行先のホテルで歌う「パーティー・ライツ」もまた、「届かぬ夢」を歌う歌である。

この夜会は、主人公「あかり」とその分身である「かげ」の名前からも示唆されるように、光と影、現実と虚構という二つの世界が表裏一体をなし、互いにねじれ、反転しながら織り成す物語である。主人公あかりは、かつて自らが生きていた世界を――そこでともに暮らした人の記憶とともに――犠牲にすることによって、世界を転轍し、もうひとつの世界の救済を成就する。

この物語においても、「パーティー・ライツ」はやはり、あかりにとって最終的に辿り着くことのできない未来への憧れの象徴だったのだ。

都の灯り

辿り着くことのできない未来への希望の象徴としての「灯り」――このモチーフは、2008-2009年の夜会VOL.15「夜物語~元祖・今晩屋」で、第1幕の終曲「都の灯り」において、物語全体の重要な転換点をなすモチーフとして展開されることになる。

都の灯りが彼方で招く 姿を隠せとさだめが示す
踏み捨てて 振り捨てて 忘れの衣を身にまとい
急かされて あおられて 眩きものに身を任せ
都の灯りが彼方で招く 都の彼方で来生が招く

「今晩屋」 – 物語の構造 (1) で述べたように、〈元・画家のホームレス〉すなわち前生における厨子王が脱出しようとした「都」とは、過去を振り捨て、忘却することによって、絶えず急かされるように未来へと突き進んでゆく世界であり、それゆえに、姉・安寿を犠牲にしたという前生の罪責と悔恨から解放される「来生」へとつながるはずの世界でもあった。

「眩きもの」とは、そうした意味での未来、すなわち過去からの切断の先にある未来への希望の象徴である。

そして――やはり「ウィンター・ガーデン」や「24時着0時発」と同様に――その希望は成就されることはなかった。「今晩屋」 – 物語の構造 (2) で述べたとおり、第2幕の終曲「天鏡」では、「都の灯り」へのアンチテーゼとして、すべての過去を――罪責も悔恨も含めて――あるがままに未来へと運んでゆく川の流れによって、救済が表現された。

「ウィンター・ガーデン」「24時着0時発」そして「今晩屋」の三作は、「転生」を中心的なモチーフとしている点で共通している。

それは、最終的な救済が、舞台の登場人物たちが生き、観客席の私たちが共有した世界という意味での「現世」あるいは「今生」ではなく、もうひとつの新たな世界――「今晩屋」ではそれが「来生」という言葉でとりわけ明示的に表現されていた――の中で、はじめて成就されるということを意味していたとも解釈できる。

これらの夜会のメッセージを、私たちはどのように受け取ればいいのだろうか。もし、救済は「来生」においてしかなされないとすれば、私たちが今生きている世界としての「今生」には意味はないのだろうか。

――決してそうではないだろう。

 

夜会が幕を閉じ、劇場を後にして、私たちは「都会のネックレス」のごとき街路樹のイルミネーションの下を歩きながら、現実の世界へと帰ってゆく。

厨子王が脱出しようとした「目もくらむ眩きところ」とは、おそらくは私たちが今現実に生きているこの現代社会そのものであり、そこで私たちは、時にはパーティー・ライツに憧れながら、時には建築現場の作業灯に未来への夢を重ね合わせながら、やはり日々の生を送ってゆくのだろう。

「どこへも着かないのに身を焦がしている灯り」とは、その意味で、私たち自身の姿なのかもしれない。

さらには、「サウンド・オブ・サイレンス」に歌われた、禍々しい未来の表象としてのネオンライトも、私たちを取り巻く無数の光の中には含まれているのかもしれない。

それでも私たちは、それらの灯りの彼方に、未来を探しつづけるほかはない。そこにどのような未来を見いだすことができるのかという問いは、この現実の生の中で応えてゆくべき問いとして、私たち一人一人に委ねられたままである。

そして、その問いを問いつづけ、新たな未来を探しつづけることこそが、この現実の生の中で私たちが新たな生へと「転生」してゆくことを意味するのではないだろうか。都会の夜にさざめく無数の灯りは、その意味での「転生」への希望の灯でもあるのだ。


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