「本家・今晩屋」 – 「元祖」と「本家」

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現在公演中の、中島みゆきの夜会VOL.16「~夜物語~本家・今晩屋」(赤坂ACTシアター)に、11/19(木)、22(日)、23(月・祝)、それに12/5(土)の4回、足を運んだ。

この夜会は、2008年11月から2009年2月にかけて上演されたVOL.15「~夜物語~元祖・今晩屋」の再演である。

再演ではあるが、「本家・今晩屋」は過去の夜会の再演とはかなり性格を異にし、外形的な――キャストや曲目などの――変化の少なさや、初演から再演までの間隔の短さということなどから考えると、これはむしろ2008年11月からつづく「今晩屋」ロングラン公演の後半篇として位置づけるべきなのかもしれない。

とはいえ、演出の細部や歌詞・台詞の一部には、やはりいくつかの重要な変更が施されていることも見逃せない。それらはまさに、「元祖」と「本家」というタイトルの差異が示唆しているとおり、(中島みゆき自身の言葉を借りれば)「隠し味」的な変化というべきなのだろう。

「元祖」のときに私が受けた言葉にしがたい衝撃――それがそもそも、このブログを書き始めた直接の動機でもあったのだが――が、「本家」ではやや薄らいだことは否定できない (それは、過去の夜会の再演でも同様であった)。しかしその代わりに、「今晩屋」という一見謎めいた物語と舞台の細部の意味をより深く玩味し、その魅力の核心に迫ることができたという実感も間違いなくある。

「元祖」との細かい変更箇所のすべてをここで列挙するとあまりに煩雑になるので、それは近日中に作成予定の演出進行表に譲ることとし、この記事では、とりわけ重要と思われる変更箇所を中心として、「本家・今晩屋」の意味するところ、そのメッセージの核心について、現時点での考えと印象をまとめておきたい。

第一幕 「縁切寺」と「公界

「元祖・今晩屋 – 物語の構造 (1)」で考察したように、第一幕の舞台となる「縁切寺」とは、世俗的な世界において人びとを束縛する家族や主従の「縁」から人びとを解き放つアジール(避難所)であり、聖なる異空間であった。

安寿・厨子王たちは、前生において互いに「縁」ある者たちであったがゆえに、転生したのちも、互いへの罪責の記憶に苦しみつづけなければならなかった。「縁切寺」が彼女たちの再会の場となったのは、そこがまさに、苦しみの根源にある「縁」を断ち切る空間であったがゆえである。

この「縁切寺」の役割は、第一幕中盤で、寺の周辺に出没するらしい〈脱走した禿〉(土居美佐子)について、〈縁切寺の庵主〉(香坂千晶)が語る長い台詞――ここが第一幕最大の変更箇所である――に、より明瞭に表現されている。

売られた子どもは 苦界 (くがい) の淵に 禿となって身を沈め
前生 今生 来生と 逃げては戻る籠の鳥
一縷の糸は 縁切りの寺の内こそ 結界の掟によりて
生名を捨てて 身を捨てて 憂き世ばなれとなるほかはなし
……
あと少し あと一足で 縁切りの寺の内にというときに
あの子は憂き世を振り返り 前生 今生 来生と
当てにならない約束を 信じて待って 出るんです

〈禿〉は、あと一歩のところで「縁切寺」という「結界」にたどり着けず、前生の「縁」を断ち切ることができずに、前生・今生・来生のはざまを彷徨いつづけている存在だ、というのである。

「苦界」とは、一般的には遊女の境遇を意味するが、鴎外の「山椒大夫」にも、説経節「さんせう太夫」にも、安寿が遊女として売られたというくだりはない。ここは安寿の転生後の境遇を示すオリジナル設定とみることもできるし、あるいは「苦界」はより一般的に、「苦しみに満ちた (世俗的) 世界」すなわち「憂き世」を意味するとみることもできるだろう。

 

だが、「苦界」は「公界」とも書くことに、ここで注意しておきたい。

「公界」という言葉を人口に膾炙させた歴史家・網野善彦の著書『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』 (初版1978年) によれば、中世の遍歴する職人や芸能民――その中には遊女も含まれる――の世界には、世俗的な所有や支配から切り離されたという意味での「無縁」の関係原理が存在した。「公界」とは、そのような「無縁」の原理に基づく「自由と平和」の空間を意味し、それは近世の縁切寺にも痕跡をとどめているという。

それまで歴史の表舞台には登場することのなかった――それは、かれら彼女たちが近世以降、被差別民として排除されていった歴史と表裏一体をなしている――遍歴する職人や芸能民の世界、いわばそれまでの歴史像においてはネガティブでしかなかった存在をポジティブに反転し前景化させた点に、この研究の決定的意義があるといえる。

網野の研究によって明るみに出された「公界」という言葉のもつ両義性――世俗的世界からの排除と自由という両義性――を参照すれば、〈庵主〉の台詞にある「苦界の淵」は「公界の縁 (ふち) 」と読みかえることもでき、〈禿〉とは、まさにこの両義性の境界線上を漂泊する存在なのだ、とみることも可能であろう。

やがて〈禿〉は、「縁切寺」から転がり出てくる無数の手鞠 (赤白縦縞の紙風船) と戯れながら、その正面階段を自らの足で登り、「結界」に足を踏み入れ、 「憂き世ばなれ」を成就する――「禿は自ら駆け込んで 縁を切らねばなりませぬ」という〈庵主〉の台詞を裏書するように――。この点も、「元祖」での、〈禿〉が〈庵主〉に手を引かれて正面階段を登るという演出からの重要な変更点であり、「結界」としての「縁切寺」の意味を、より鮮明に浮かび上がらせている。

ところで、あの無数の紙風船が何を意味するかについては、「元祖」以来、多くのブログや掲示板でさまざまな解釈がみられたが、私には、あれらは「縁切寺」に駆け込んだ人びとが断ち切った過去の「縁」、あるいは封印された過去の記憶を意味するように思えた。

もしそうだとすれば、やがて紙風船が舞台手前の階段を転がり落ち、奈落へと消えていくのは――この演出は「元祖」でも同様だったが――、第二幕への伏線、すなわち山上の「縁切寺」から水底の「水族館」へという垂直軸の降下を予示していると考えられる (後述するように、この予示は、第二幕に新たに追加された演出によっても裏づけられることになる)。紙風船に封印された過去の記憶は、「縁切寺」の炎上を予知して脱出し、来るべき救済の日を待つための新たなアジールとして、未来の「水族館」に棲み処を移すのではないか。

「縁切寺」が炎上し燃え落ちる「都の灯り」のエンディングで、〈暦売り〉が――冒頭での舞台下手の奈落からの登場とは逆に――舞台上手の階段から奈落へ降りていくのも――これは「元祖」でも同様だったのか、正確な記憶がないのだが――同じく第二幕への伏線であることは明らかだろう。

「縁切寺」の炎上と、そこに身を投じることによる〈元・画家のホームレス〉=転生した厨子王の「都」への脱出という第一幕の結末の意味については、「元祖・今晩屋 – 物語の構造 (1)」で詳しく考察したので、ここでは繰り返さない。

ただ、あえて付け加えれば、上述の『無縁・公界・楽』でも述べられているように、ポジティブな意味での「無縁」の原理は、近世以降、中央集権的権力の浸透とともに、急速に衰退していく運命を辿る。「縁切寺」は、近世におけるその例外的な痕跡とでも呼ぶべき空間だったわけだが、過去を否定し未来へと突き進む「近代化」の象徴としての「炎」がその痕跡さえをも焼き尽くしてしまう結末は、まさに歴史が現実に辿った道筋を反映してもいるのである。

第二幕 記憶の保存装置としての「水族館」

第二幕の舞台となる水底の「水族館」は、 「元祖・今晩屋 – 物語の構造 (2)」で考察したように、人びとの過去の記憶――とりわけ、無意識の領域に抑圧された (「忘れてしまった」) 罪責と悔恨の記憶――を保存する装置である。

「元祖」との明らかな違いとしてまず目に入るのは、 その「水族館」の背後に位置する、舞台天井まで達する巨大なパイプやバルブらしき装置だろう。「元祖」でも同種の装置はあることはあったが、はるかに小さなものだった。

この巨大な舞台装置は、「水族館」が水底深くにある人工的な構築物であることを強調する役割を果たしているのだろうが、あるいはそれと同時に、地上の世界から水底の「水族館」の扉へとつながる「通路」を意味しているとも考えられる。第二幕中盤、「水族館」が魚の住まないより深い水底へと降下し始めるとき、〈暦売り〉は必死に扉を開こうとするが、押しても引いても開かない。この場面は、彼女の地上への退路が断たれたことを意味するのではないだろうか。

それより前、第二幕の2曲目、 「幽霊交差点」の後半で、舞台下手階段下の奈落から、海草を表現していると思われる緑色の布――あの赤白の紙風船がいくつか貼りついている――が風に吹き上げられて出現する。これは、時間的には短いが、やはり強く印象に残る新演出である。

紙風船が上述のように、かつて「縁切寺」に駆け込んだ人びとが断ち切った「縁」、あるいは封印された過去の記憶を意味するとすれば、この「水族館」は、やはり周囲の水中空間をも含めて、4人の登場人物だけでなく、かつて「縁切寺」に駆け込んだすべての人びとの記憶を保存しているのだろう。

「幽霊交差点」は、「元祖」では私にとってそれほど強く印象に残る曲ではなかったのだが、「本家」では――「百九番目の除夜の鐘」「暦売りの歌」「ほうやれほ」と並んで――歌詞が追加されたただ4曲のうちの1曲であることや、ニューアルバム「DRAMA!」にも収録されたこと、そして上記の新たな演出を考え合わせると、その意味をもう少し深く考えてみるべきかもしれない。

幽霊交差点は 名残の化身
幽霊交差点は 移ろい知らず
逃げた後ろに置き去りの眺め
進む行く手に待つのが見える

「移ろい知らず」、すなわち長い時間を経ても変わることなく、過去に置き去りにしたはずの記憶が、行く手に繰り返し再浮上してくる空間、そしてその空間を漂いつづける、おそらくはこの世の者ではない存在たち――このイメージは、夜会の前作「24時着0[0]時発」での、故郷に辿り着けない鮭 (魚) たちの仮の住処であった「ミラージュ・ホテル」とも相似的である。

そのこととあわせて、とくに「幽霊」という言葉から連想されるのは――これは「元祖」のときに気づいていてしかるべきだったのだが――宮沢賢治の「春と修羅・序」の冒頭の詩節である。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電灯の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電灯は失はれ)

第二幕序盤から中盤にかけての視覚的イメージ、とりわけ「水族館」の丸みを帯びた半透明の屋根に灯るあの照明の意味は、この詩節が喚起するイメージとオーバーラップする。

冒頭で〈暦売り〉が灯すその照明こそは、そこで彼女との再会を果たす〈飼育員〉〈花嫁〉〈左官〉という「透明な幽霊の複合体」を「現象」させるための装置だったのではないか。「百九番目の除夜の鐘」の途中で、突然「水族館」の屋根の照明が消え、〈暦売り〉が「おぉ~」と驚いて歌を中断する新演出の意味も、あの照明こそが〈飼育員〉たちの「有機」的あるいは「因果」的な存在の前提だったとすれば、納得できるものがある。

「春と修羅・序」のもう少し後には、次のような詩節もある。

これらについて人や銀河や修羅や海膽 (うに) は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

「有機体は過去を喰らふ」の歌詞、とりわけ中島みゆき自身が歌う二番とこの詩節は、見事に共鳴しあう。

そういうものなんじゃないですか 新たなるものってなんですか
水を残して 石を残して 風を残して 旅に出る
水を喰ろうて 石を喰ろうて 風を喰ろうて 旅を継ぐ
新しき赤子たちの 掌には昔がある

「有機体」としての人間の生、およびその累積としての人類の歴史を、それをとりまく無限の宇宙の中に、また過去から未来へと積み重なってゆく透明な時間の集積――「新世代沖積世の/巨大に明るい時間の集積」――の中に、「せはしくせはしく明滅」する「現象」として見はるかすまなざし。この世界観こそは、賢治から中島みゆきに継承されたものであるように私には思われる。

さて、第二幕で――というより全編を通じて――「元祖」から「本家」への最も重要な変更箇所は、第二幕最後の台詞、すなわち〈左官〉と〈飼育員〉とが、「逃げる手筈を企てし者…」と、彼女たちの前生の「裏切り」を告発するところから始まる場面である。

このとき、〈脱走した花嫁〉 を含む3人が、赤い布の巻物を広げて告発文を読むかのような身振りをするが、彼女たちが声を合わせて叫ぶ「額を灼かれよ、十文字!」という最後の台詞の直後、 「十文字」の激しいイントロが始まる瞬間に、彼女たちが手にしていた赤い巻物が翻るようにして体に巻きつき、3人は苦しみ悶えながら階段下の奈落に転がり落ちてゆく。

「元祖」では、3人の告発は最終的に〈暦売り〉=〈母〉に向けられ、〈母〉がすべての罪責を一身に負う一方で、3人はいったん消火栓の扉の中に消えてゆくのだが、「本家」でのこの衝撃的な新演出は、登場人物たちが等しく罪責を負った存在であることを、より明瞭に示している。

さらにこの場面は、大詰めの「赦され河、渡れ」で3人が再登場する場面への伏線ともなっている。奈落から這い上がってくる白装束の3人は、「ほうやれほ」に始まる直前の場面での〈母〉と同じく赤い目隠しをしており、それを外してから、やはり白装束の〈母〉に促されて、「赦され河」を渡る船によじ登るのだ。

4人の眼をひとしく覆っていた赤い目隠しは、彼女たちが過去の自責の念に苦しむあまり、それ以外のすべての世界、とりわけ未来へのまなざしをひとしく閉ざされいてた状態を意味するのだろう。「元祖・今晩屋 – 物語の構造 (2)」 で考察したように、「赦され河、渡れ」の場面が、過去の罪責の記憶の最深部 ( 「ほうやれほ」 ) から――「十二天」「紅蓮は目を醒ます」での救済を経て――未来へと出帆する船が浮かぶ水面への急浮上を意味すると考えれば、目隠しを外すという行為の意味も、より鮮明になる。

「赤」は罪責を象徴する色である。そのことは「元祖」「本家」を通じて、第一幕で〈禿〉がおびえる崖の上の赤い光で予告され、第二幕では、消火栓の赤ランプの点滅 (先述の「水族館」が降下しはじめる場面) にはじまり、舞台上にライティングされる赤い十文字、そして「ほうやれほ」での〈母〉の赤い目隠しとその背後の灯篭によって、何度も繰り返し強調されていた。上述のような、「本家」での赤い巻物と赤い目隠しの新演出は、「赤」という色のもつ意味を、さらに鮮明に可視化したといえる。

「赦され河、渡れ」のエンディングが確信に満ちたメジャーコードで締めくくられると――これも注目すべき新アレンジのひとつである――、暗転の中、二度の拍子木の音が響き、物売りの口上のような節回しで〈今晩屋〉が「夜いらんかいね」とゆっくりと語り始める。

この第二幕最後の新演出も、〈今晩屋〉の上演した劇中劇が「赦され河、渡れ」で幕を閉じ、それと同時に、今度は客席にいるわれわれが、彼女から「夜いらいかいね」と呼びかけられているのだということを、より鮮明に印象づける。

 

「天鏡」の後半で舞台から客席に向けて流れる河は、「元祖」のときよりもさらに心なしか水量を増したようだ。その流れは、私たちの過去に存在したすべての「愚かさ」や「哀しみ」や「愛しさ」の記憶を、それらが沈んでいた水底――抑圧されていた無意識の奥底――から救い出し、遥かな未来へと運びながら流れつづけるのだろう――幕が閉じてからもなお、私たちの生きてゆく時間の中で。

「元祖」から「本家」への「隠し味」的変化の方向性は、総じて、第一幕での「過去 (前生の記憶) からの逃走」から、第二幕での「記憶の再生」を経て「過去の救済」へという物語の大きな流れを、より鮮明に表現することに向けられていたように思う。

個々の公演の印象としては、私が最初に観た11/19(木) [公演二日目] では、キャストの演技にもミュージシャンの演奏にもまだ緊張感からくる硬さが感じられたが、日を追うごとにその硬さはほぐれてきた。とりわけ12/5(土)の公演は、中島みゆきをはじめ、各キャスト、ミュージシャンの乗りが非常に良く、舞台と客席がまさに一体となった感動的な一夜となった。

以上、とくに印象に残った点を中心に、思いつくままに「本家・今晩屋」のレビューを記してきたが、まだまだ書き残したことも多い。

そのなかでもとくに重要なのは、主として第一幕で、舞台背景のホリゾントに、さまざまな位置、大きさ、形、色で映し出される「月」の意味である。

終曲として歌われる「天鏡」が、「十二天」の最後の「月の天」の化身であり、救済されるべき過去と未来のすべてを映し出す鏡であるとすれば、それが第一幕から、さまざまな場面で登場人物たちを見下ろしてきたと考えるのは自然であろう。

ただ、「月」の意味については、過去の夜会やその他の中島みゆき作品との関係も含めて、考えるべきことがあまりに多い。このテーマについては、他日、別稿に譲ることにしたい。


「「本家・今晩屋」 – 「元祖」と「本家」」への2件のフィードバック

  1. JUN様
    はじめまして、とみんぐと申します。
    「本家・今晩屋」についてはブログ界でも「元祖」のようには議論百出というわけではなさそうな中、こちらに辿りつきました。
    過去ログも拝読させていただき、精緻な解読に感嘆いたしました。
    特に、水族館についての解釈は、私も似たようなことを感じておりました。
    さて、今回の変更点が二幕の十文字のところからというJUN様の解釈、まったく同感であります。
    (多くのブログでは、一幕の香坂さんの長台詞が着目されておりますが…)
    この変更が「わかりやすく」するためのものだったのか?
    夜会は(中島さんは)色々考えさせられるテーマを突き付けてくる人だなぁと思います。
    (いや、ライブは今晩屋しか観ておりませんが)
    良いものを読ませていただきました。ありがとうございました。

  2. とみんぐさん、はじめまして。
    作者のJUNです。
    過分なコメント、まことにありがとうございます。
    ニ幕の後半の変更点、とくに赤い布および赤い目隠しの意味の重要性については、
    他の方のブログでは、「真夜中にようこそ!」http://blogs.yahoo.co.jp/tubameyo/60724843.html
    で、指摘されているのを拝見しました。
    この変更で全体が「わかりやすく」なったかどうかは判断の難しいところですが、
    みゆきさん演ずる「母」だけでなく、他の3人もそれぞれが過去の罪責に苦しみつづけてきて、
    そして「赦され河」でようやく救済されるという流れを、より鮮明に表現しているのはたしかだと思います。
    他のポイントについても、いずれ考えをまとめる時間ができたら
    ブログを更新して行きたいと思います。
    気が向かれたら、また覗いてみていただければ幸いです。

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