「元祖・今晩屋」 – 物語の構造 (2)

物語の構造 (1) からつづく】

第2幕

「水族館」という空間

第2幕第1場「水族館」は、水族館と呼ぶにはまことに奇妙な構造物である。

第1幕の「縁切寺」の周囲にあった欄干と正面階段、舞台手前から奈落に降りる幅広い階段、および舞台左右の水が流れ落ちる崖はそのままに残っている。したがって、《舞台上の舞台》ともいうべき二重構造の空間もそのまま継承されている。

その《舞台上の舞台》の上に、丸みを帯びた半透明の屋根をもつ粗末な小屋がある。小屋の正面の扉の左には電源スイッチと配電盤らしきものが、右には「消火栓」の赤い扉がある。小屋の左裏手には、ポンプ設備らしきものも見える。そして何より目を引くのは、小屋の周囲・上空、すなわち舞台上の空間いっぱいに浮かぶ、たくさんのカラフルな魚たちである。

一般に水族館とは、魚介類の棲息する水中環境を地上の水槽の中に移設・再現した施設を意味するはずである。しかしながらこの「水族館」はどうやら水底に位置し、小屋を中心とする施設は、水中に構築された地上の世界の「飛び地」のごとき空間であるらしい。だとすれば、この空間はいわば、内部と外部とが位相的に反転した「水族館」とでもいうべきものなのである。

 

第2幕第1場に登場する人物は、

  • 〈暦売り〉       (転生した母)      [中島みゆき]
  • 〈水族館の飼育員〉  (  〃  姥竹)   [香坂千晶]
  • 〈左官〉       (  〃  厨子王)  [コビヤマ洋一]
  • 〈脱走した花嫁〉     (  〃  安寿)   [土居美佐子]

の4人。ただし転生した安寿の役割は、やはり場面に応じて、〈暦売り〉と〈飼育員〉にも割り当てられる。

〈飼育員〉を除く3人は、「水族館」あるいは「消火栓」の扉から出入りする。「水族館」が水底にあるとすれば、これらの扉は、地上の世界、あるいは登場人物たちの前生とつながる通路であるらしい。

冒頭、その「水族館」の扉から、薄紅色の着物を着た〈暦売り〉が登場する。両足には、第1幕のラストで彼女自身が《舞台上の舞台》に置いたものと同じ藁沓を履いている。これは、安寿の記憶の継承を意味するのだろうか――しかし彼女は、地上から長い道を歩いてきたのか、ひどく疲れた様子でその藁沓を脱ぎ捨て、「水族館」の前に転がしてしまう――。

ついで「水族館」の扉から登場するのは、ウェディングドレス姿の〈脱走した花嫁〉である。彼女の登場とともに〈暦売り〉が歌う「安らけき寿を捨て」は、その文字の組み合わせによって、〈花嫁〉が――第1幕における〈脱走した禿〉と同様に――やはり転生した安寿であることを示唆する。

ウェディングドレス姿の〈花嫁〉と彼女が捨てた花飾りは、現世的な幸福の典型的な象徴である。だとすれば、「水族館」の扉の向こう側にあり、〈花嫁〉がそこから「脱走」してきた世界とは、人びとが現世的な幸福を追求しながら生を送る地上の世界――おそらく、われわれが生きているこの「現実」の世界――なのだろう。

「水族館」の世話役ともいうべき〈飼育員〉の役割をも含めて、キャスティングおよび登場人物たちとその前生における役柄との対応関係をみるかぎり、この第2幕は第1幕の反復であるようにもみえる。

しかし、第2幕は第1幕の単なる反復でも延長でもない。それは後半の展開で明らかになるのだが、すでに山上の「縁切寺」と水底の「水族館」という空間的な対称関係によって予示されていたともいえる。山上から水底へという垂直軸の降下――これが第1,2幕を貫く空間的構造をなす。

なぜこの「水族館」は「水の底」にあるのだろうか――

 

「水の底」の意味

「水の底」という場所は、すでに第1幕で〈暦売り〉が歌った「私の罪は水の底」をはじめとして、歌詞や台詞でたびたび言及され、あるいは演出によって表現される。第1幕でも第2幕でも「私の罪は水の底」が歌われるとき、舞台全体が水底のように美しく青くゆらめく照明に包まれる (この場面に限らず、各場面の意味を表現しきった照明の効果の見事さは、今回の夜会でとりわけ印象的だった)。

「山椒大夫」では、姥竹は人買い舟から海中に身を投げ、安寿は厨子王を逃走させた後、山のふもとの沼に入水する。いずれの意味でも「水の底」とは、彼女たちがそこに身を沈めた場所であり、母や厨子王にとっては、過去の罪責や悔恨の記憶が存在する場所である。しかし「水の底」には、原作に由来するこの意味に重層して、次のような場面でうかがわれるように、もう一つの重要な意味が与えられている。

たとえば第2幕の最初のほうで、客に配りきれず余った暦を欄干の下に捨てようとして、〈暦売り〉は言う。

隠し事なら、水の底
水の底には誰も無し 見ている人は誰も無し

その瞬間、〈暦売り〉のいる場所の真下から上方へと急角度で魚が飛び出し、やはりこの空間が水中にあることを意識させる。しかしそれにも増して重要なのは、ここで「水の底」とは、誰もそこにいない、誰もそこを見ていない場所、何かを隠すのにふさわしい場所として意味づけられている点である。

また第2幕の中盤、〈左官〉とのコミカルな言葉遊びのやりとりの最後に、〈飼育員〉はこう語る。

焚き付けて、追いやって、隠れた私は、水の底
そこ、水漏りますよ

その途端、〈暦売り〉は「水族館」の屋根の一角を手に持った暦で押さえようとするが、そこから真横に向けて細い水がほとばしり出る。ここでは〈飼育員〉に前生の――第1幕で炎上する「縁切寺」へと厨子王を追いやった――安寿の記憶が再生しかけているのだが、それと同時に、「水の底」が「私」が「隠れた」場所として語られている点が重要である。

コミカルなやりとりの直後だけに、このシリアスな場面への急転換は強く印象に残る。とりわけ「そこ、水漏りますよ」のところで私はいつも、思わず背筋がぞくりとするような感覚に襲われた。それは、とうに忘れてしまったはずの遠い記憶が、何かの拍子に不意に意識の表面に浮かび上がってくるかのような感覚であった。

「水の底」とは、隠したい何かを、あるいは「私」自身を、隠すための場所である。すなわちそこは、意識から抑圧された――「忘れてしまった」――記憶、とりわけ悔恨や罪責の記憶――「私の罪」――が保存される、無意識の領域を意味しているのだ。

だとすればこの「水族館」という大道具は、それ全体が、そこに登場する人々の前生 (過去) の記憶を封じ込め、保存しておくための装置なのではないかと考えられる。

 

「有機体は過去を喰らふ」

過去の記憶を保存する「水族館」の機能は、それに付随する消火栓や消火器という小道具によって補強されている。ウェットスーツ姿の〈飼育員〉が あたかもアクアラングのように背負っている赤い消火器や、「水族館」正面の消火栓の大きな赤い扉は、第1幕最後の「縁切寺」の炎上を否応なく想起させる。それらはまるで、あの炎上を決して繰り返させまいとする意志の表現であるかのようだ。

「物語の構造 (1)」で考察したように、「炎」が過去を否定・忘却し未来へと突き進むエネルギーの象徴であったとすれば、消火栓と消火器にはそのエネルギーを打ち消すこと、すなわち過去の記憶が失われないよう、「炎」から過去を守る役割を果たすことが期待されていると思われる。

第1幕の最後で、炎上する「縁切寺」の中に姿を消した、前生における厨子王=〈元・画家のホームレス〉 (コビヤマ洋一) が、第2幕では消火栓の赤い扉から〈左官〉として姿を現すのは、その意味できわめて象徴的である。

その〈左官〉が歌い始める「有機体は過去を喰らふ」は、それまでの過去の罪責と悔恨に深く染められた舞台の空気を一気に吹き払うかのような、底抜けの明るさと楽天性という点で、「今晩屋」のすべての曲目の中でも際立った特異性を示している。

そういうものなんじゃないですか 流れてゆく水のように
過去を喰ろうて 骨を喰ろうて 罪を喰ろうて生きてゆく
過去を受け取り 骨を受け取り 罪を受け取り生きてゆく
新しき赤子たちの 掌には昔がある
有機体は過去を喰らう 有機体は己を喰らう
思い上がっていたんだね
思い上がっていたんだね

「有機体」とは人間を含む生命だけでなく、すべての生命を包含する環境・生態系の比喩、あるいは人間がかたちづくってきた社会や文明の比喩でもあろう。そう考えると、この歌は重層的な意味のひろがりをもって聴こえてくる。

人間も含むあらゆる生命は、有限の環境・生態系の中で、過去の生命の遺骸(「骨」)を糧としながら生きてゆかざるをえない存在であり、またその意味で、自らの過去をたえず自らの上に累積させながら、新たな生命を得て再生していく存在である。

過去を喰らい、己を喰らうことによってしか生きることのできない有機体としての己の姿を忘れ、過去を否定し、忘却することによって無限の未来への前進がかなうかのように「思い上がっていた」者とは、社会でも文明でもあり、それをかたちづくってきた個々の私たちでもある――ということなのだろう。

男声 (コビヤマ洋一・宮下文一) から引き継いで、この曲を《舞台上の舞台》で歌うときの〈暦売り〉(中島みゆき) のパフォーマンスは、その弾むような歌いぶりも、まるで「はないちもんめ」のような軽快なダンスも、全2幕を通じて最も明るい歓びに満ちあふれていた。その希望の源は、いったいどこからやってくるのだろうか――

ここではその謎はまだ隠されたままで、舞台は次の場面に移ってゆく。

 

再浮上する過去

二度目の「有機体は過去を喰らふ」を歌い終わった後に、上述の〈左官〉と〈飼育員〉とのコミカルなやりとりの場面がくる。

「そこ、水漏りますよ」と〈飼育員〉が告げると、「水族館」の裏から、再びあの赤白縦じまの紙風船が飛んでくる。第1幕と同様に、「らいしょらいしょ」の曲に乗って〈飼育員〉〈花嫁〉〈左官〉の3人が赤白紙風船で鞠つきに興じ、欄干の上に立つ〈暦売り〉も合わせて鞠つきの身振りをする。やはり第1幕と同様に、安寿・厨子王らの幼時の記憶の再生であろうか。

しかしこの、前生において縁あった者たちの束の間の平和な再会は、その直後、1・2幕を通して5回目の――そして最後の――「百九番目の除夜の鐘」によって中断される。「消火栓」の上の赤ランプが点滅を開始するのは、それまで「水族館」に封印されていた登場人物たちの前生の記憶の全面的な再生が始まることの予告であろうか。

またこのとき、周囲上空のたくさんの魚たちが上方に消えていく。これは、むしろこの「水族館」全体が、魚の住まないより深い水底へと下降していくとみることもできる。すなわち、無意識のより深い奥底への下降――それは同時に、より奥深くに隠されていた罪責と悔恨の記憶が再浮上することをも意味するのだろう。

この曲のエンディングでは、第1幕冒頭と同じく3回の鐘の音が鳴り、前生への回帰と記憶の再生への回路が、ここで一順し完成したことを示す。

 

ここからは、各曲・各場面ごとに少し詳細に、物語の流れを辿ってゆくことにしたい。

〈飼育員〉〈花嫁〉は前世における安寿として、〈左官〉は前生における厨子王として、3人は《舞台上の舞台》の上に立つ〈暦売り〉を振り返り、書面を示しながら、声を合わせて叫ぶ。これが第2幕最後の台詞となる。

この十字路は、十文字、裏切る手筈の、姉・弟の !
額を灼かれよ、十文字 !

原作「山椒大夫」では、安寿・厨子王の姉弟は逃走を企てた罰として、額に十文字の烙印を押される悪夢をみる。このエピソードがモチーフとなってはいるが、ここでは「十文字」の意味は大きく転換されている。

「裏切る手筈」とは、第1幕でもすでに表現されていたように、弟が姉を「迎えに戻る」という約束を、また姉が弟の「迎えを待つ」という約束を、ともに果たせなかったこと――その約束が果たせないことを前提として、厨子王の脱出がなされたこと――を意味する。

それを「裏切り」と呼ぶ倫理的な要求水準は、あまりにも高いものにみえるかもしれない。しかしそれをあえて「裏切り」と呼ばざるをえないのは、物語の構造 (1) で述べた、「愛」に基づく「自己犠牲」という行為がはらむ根源的な矛盾――その「愛」が純粋なものであればあるほど、より深い罪責と悔恨を互いの記憶に残さざるをえないという矛盾――のゆえであろう。

しかしここからは、前生における母としての〈暦売り〉が、家族のすべての罪責と悔恨を一身に集約する役割を担うことになる。

彼女は、舞台床上に赤いライトの交差によって描かれた「十文字」の上を前後左右に辿りながら歌う。

今いる陸は掌の上
その掌に焼き付いている
その十文字は何だ

この歌詞の意味は難解だが、「陸」とは、「水族館」のある水底と対比され、日常的な生活の場としての現世――われわれ自身の住む現実世界――を意味するとすれば、「十文字」とは、安寿と厨子王の「裏切り」によって象徴される、あらゆる人間にとって普遍的な罪責――互いに「縁」ある存在として生きようとするときに、背負わざるをえない罪責――を意味するのではないか。「その十文字は何だ」と歌うとき、客席正面を指さす彼女の身振りも、そのことを示唆している。

 

「十文字」を歌い終えると、〈暦売り〉――ここではすでに〈母〉とみるべきか――は、赤い目隠しをして舞台手前中央に坐り、長い葦を右手に持って「ほうやれほ」を歌いはじめる。〈母〉の記憶が全面的に再生し、子を攫われたこと――すべての悲劇の出発点となった、自らの愚かさ――への限りない自責と悔恨が切々と歌われる。

欄干の上には、もはや記憶の保存という役割を終えた「水族館」は姿を消し、赤く光るたくさんの灯籠が浮かんでいる――「十文字」においてと同様、ここでも「赤」は罪責を象徴する色である。ここは原作「山椒大夫」の最後の場面の再現ではあるが、厨子王との再会による救済という結末はやってこない。

ほうやれほ ほうやれほ
私の罪は水の底
ほうやれほ ほうやれほ
赦されまいぞ、消せまいぞ

「私の罪は水の底」と歌うとき、〈母〉は手に持った葦を奈落に落とす。記憶の最深部への下降とともに露になった、いくたび転生しようとも消すことのできない、無限の罪責と悔恨への絶望――。

エンディングで繰り返される「ほうやれほ」の無限の慟哭のようなリフレインに、やがて宮下文一が歌う「百九番目の除夜の鐘」のリフレインが重なりながら、クレッシェンドしてゆく。

絶望の極点へ向けて全世界が収斂していくかとさえ思われたそのクレッシェンドの頂点で、「今晩屋」の物語の最大の転換点が訪れる。

 

救済

暗転した舞台の中央に、絶望の果てに倒れ臥した〈母〉を――そして彼女の絶望を目の当たりにした客席のわれわれを――少しずつ、少しずつ照らし出し、無限の悲しみを癒すかのように、舞台の前後上下左右に交錯しながら、スポットライトが灯ってゆく――ひとつ、またひとつと。

心地よい揺れと郷愁に満ちた「十二天」の旋律を、宮下文一のヴォーカルが、ついで杉本和世と香坂千晶のデュエットがひきついで、優しく歌ってゆく。

北の天から 南の天へ
乾 [北西] の天から 巽 [南東] の天へ
西の天から 東の天へ
坤 [南西] から 艮 [北東] へ
上の天から 下の天
日の天から 月の天

視点は、まず地平から天頂を経て180度反対の方角の地平へと、天空を振り仰ぐように回転しながら、太陽や月が沈む方角から、それらが昇ってくる方角へと――すなわち過去から未来へと振り向けられる。ついで、天頂から地上へと、そして、昼から夜へと。

この曲では、登場人物たちの内面はいっさい歌われることがない。歌われるのは、彼女たちが転生してきた世界のすべてを、あるがままに一望のもとに見はるかす遠心的な世界観である。

彼女たちが束の間の再会を果たした山上の「縁切寺」も、水底の「水族館」も、忘れ捨てた前生も、前生の記憶に苦しんだ今生も、脱出しようとした来生も――それらの空間と時間のすべてをつつみこむ、はるかに広大な全宇宙が、このときはじめて全貌を現わすのだ。

このめくるめくような世界観の開示こそが、すべての救済への転換点となる――

救済の光に照らされて目覚めたかのように、〈母〉は上半身を起こし、この全宇宙を守護する十二天の名を絶唱する。

毘沙門天から 焔魔の天へ
風の天から 火の天へ
水の天から 帝釈天へ
羅刹天から 伊舎那天
梵の天から 地の天へ
日の天から 月の天

 

つづく「紅蓮は目を醒ます」で、前曲で開示された広大な世界観の中に、〈母〉は微小な存在としての自己の位置を再発見する。

泥から生まれて 泥に住み
泥を喰ろうては 生きてゆく
誰が悪いじゃないけれど
私はここにいる

蓮の種子は、泥の中できわめて長い年月――数百から数千年も――発芽能力を保持することで知られる。「泥」は、有機体としての己が「喰ろうて」きた、「過去」や「骨」や「罪」のすべてを含むのだろう。 「目を醒ます」とは、そうしたきわめて長い時間――「泥」の中で過ごす苦悩の時間――を経ての覚醒を意味すると考えられる。

この覚醒を経て、〈母〉は過去の限りない苦悩と悔恨を、家族の来生(未来)を救済するためのエネルギーに転化させてゆく。この曲を歌い終えると、〈母〉は目隠しを外し、薄紅の着物を脱ぎ、白装束となる。すでに次曲「赦され河、渡れ」のイントロが始まっている。

 

客席に正面を向けた巨大な帆船が舞台上方から降りてくる。奈落から――すなわち過去の記憶の最深部から――這い上がってきた、やはり白装束の〈厨子王〉〈安寿〉〈姥竹〉が、〈母〉に促され、揺れる船縁に次々とよじ登る。〈母〉はさらに客席にも向い、乗船を促すかのような身振りを繰り返す。

もう十分に泣きました
もう十分に散りました
過去は拭っても消えません
一足先は 闇の中
裁く力も 赦す力もない

甲板の上に立った3人は、すべてから解放されたかのような晴れやかな表情で、上空を見上げている。帆に貼られた多くの紙風船は、第1幕の「縁切寺」に封じ込められていた多くの人々の「縁」が、〈安寿〉たちとともに救済されることを意味するのだろう。

「赦され河」とは、ひとりひとりには互いを「裁く力も、赦す力もない」、無力な存在としての人間が、他者――とりわけ縁あった人びと――とともに、生きてゆく時間そのものの暗喩ではないか。

だとすれば、「赦され河」を「渡る」というのは、ひとりひとりが自らのすべての過去の記憶を、罪責・悔恨も含めてあるがままに自らに引き受け、それらを抱えたままで、互いの生を見守りあい、認めあいながら、無限の未来へと歩んでいくことを意味するのではないだろうか。

この場面では、舞台上に残っていた欄干をめぐらせた空間――《舞台上の舞台》――が、船の甲板の役割を果たす。だとすればここでは、船は上方から降りてきたというよりも、むしろ《舞台上の舞台》が、水底――過去のすべての罪責の記憶が沈んでいた無意識の最深部――から、水面――未来へと出帆する船が存在する空間――へと再浮上したとみるべきなのかもしれない。

この場面で、船の帆の向こう側には巨大な満月が浮かぶ。このとき月は、第2幕で初めて空に現われるのであり、このことも、《舞台上の舞台》がそれまで水底にあったことを傍証しているようである。

 

劇中劇

暗転後、再び照明が明るくなると、舞台中央には欄干に囲まれた《舞台上の舞台》だけが
残り、その床には紅毛氈が敷き詰められている。舞台手前の床上には、白い着物の上に濃藍色の印半纏を羽織った〈今晩屋〉が、左横顔を客席に向けて座っている。ポスター写真と同じ構図である。

このとき、「安寿と厨子王のその後の物語」はすでに幕を閉じ、その物語のすべてが、〈今晩屋〉が《舞台上の舞台》の上でわれわれに見せた劇中劇であったことが明らかになる。ここで〈今晩屋〉が「夜いらんかいね」と歌いかける相手は、今度は客席にいるわれわれなのだ。

このとき〈今晩屋〉は、二重の意味を帯びた役柄として立ち現れる。すなわち彼女は、劇中劇の内部の視点からみれば、その事実上の主人公であった〈母〉の限りない思い――「若しもこの夜が買えるものならば」――に応えるために具現化された存在であるようでもあり、客席にいるわれわれの視点からみれば、夜会という実験劇場のなかにさまざまな世界を構築してきた中島みゆき自身が、その自らの役割を劇中に化身させた存在であるようにも見えるのだ。

 

「夜いらんかいね」を歌い終えた〈今晩屋〉は正面階段を昇って《舞台上の舞台》の中央に立ち、終曲「天鏡」を歌いはじめる。

その鏡に映るものは 隠しきれぬ愚かさと
その鏡に映るものは 拭いきれぬ哀しみと
その鏡に映るものは 失くしてから気がつく愛しさ
その鏡に映るものは 置き忘れた約束と
その鏡に映るものは 通り過ぎて気がつく過ち

「天」の「鏡」という言葉は、直ちに「月」を連想させる。第1幕では「夜をくだされ」とそれに呼応する「夜いらんかいね」の場面で、第2幕では「赦され河、渡れ」の船の場面で、空に鮮やかな満月が浮かんでいた。それらは、 「十二天」の最後に歌われる「月の天」の化身であったのかもしれない。

「天鏡」とは、人間の手の届かない遥かな天空の高みにあって、地上の人間のあらゆる愚かさや哀しみや愛しさ、約束と過ち――救済されるべき過去のすべてを映し出す鏡である。

「天鏡」を手にすること――すなわち、人間の運命のすべてをコントロールし、いかなる罪責も悔恨も残すことのない、完璧な過去と完璧な未来を手に入れること――は、人間には決して叶わないことである。それまでの穏やかな歌いぶりとは一転して、〈今晩屋〉(中島みゆき)が深い怒りをこめた声と表情で歌う次の歌詞は、そのような無際限な欲望あるいは「思い上がり」への警告を意味しているのだろう。

その鏡を 手にすることに焦がれ
戦を起こす 心を捨てる
手にするものは 砕け散る道標

人間は、限りない苦悩と悲しみを過去から背負ってこざるをえない存在であるからこそ、限りない希望と喜びに胸踊らせながら未来へと歩んでゆくことのできる存在でもありうるのだ。そのことを忘れてはならない――と。

輪廻転生は――あるいはより端的に、人の生は――たしかに、過去の罪責と悔恨、ネガティブな記憶を無限に導く水路であったかもしれない。しかし、そうだからこそ逆説的にもそれは、ポジティブな「願い」を無限の未来へと導く水路でもありうるのだ。救済への鍵は、この逆説の中にこそある――。

〈今晩屋〉が《舞台上の舞台》で歌いつづけるうちに、やがて舞台奥から床上を客席方向に向かって、透明な水が河のように流れはじめる。

この水は、第1幕の最後で「縁切寺」を焼いた炎――過去を否定することによって未来へと突き進もうとするエネルギー――へのアンチテーゼである。

それは、遥かな過去という源泉から湧出しながら、過去のすべてをあるがままに――その河底に沈んでいた罪責や悔恨とともに――遥かな未来へと運びながら救済する時の流れなのだ。

その鏡は人の手には 触れることの叶わぬもの
その鏡は空の彼方 遥か彼方 涙を湛えた瞳だ

〈今晩屋〉は右手を高く天空へと差し上げながら、晴れやかな笑顔で、「瞳だ」の最高音を振り絞るように歌い切る。

エンディングの演奏が流れる中、彼女は《舞台上の舞台》の正面階段手前に坐ると、印半纏を脱いで丁寧に畳み、客席に向けて差し出すかのように、自らの手前に置く。ついで、おだやかな笑みをたたえて左右上方にまなざしを向けた後、正面に向かって深々と頭を下げる。

《舞台上の舞台》の下には、「涙を湛えた瞳」としての「天鏡」から溢れ出た涙のようにも見える流れが、まだ滔々と流れつづけている――

幕――

 

エピローグ

公演パンフレットの「あとがき」で、中島みゆきは次のように述べている。

一生は、終ってしまえばリセットされて、
次の、まっさらなところからやり直せるというふうに、
いつの頃からか、この国では誤解されているのかもしれないと、お思いになりませんか。
(中略)
実は、何もリセットなんかされないのかもしれないと、お思いになりませんか。
今生で為した事は全部、次の生へと連なってゆくのかもしれないと。

「転生」によっても決して生の「リセット」はなされず、「今生で為した事は全部、次の生へと連なってゆくのかもしれない」と考えることは、人は過去の罪責や悔恨を、未来永劫まで背負ってゆかなければならないと考えることだ。これはあまりにも「救い」のない、恐ろしい認識のようにみえるかもしれない。

しかし逆説的にもその冷厳な認識こそが、すべての過去の救済の可能性を開示するという、めくるめくような世界像の転換が最後に提示されて、「今晩屋」は幕を閉じた。


これまでの夜会においてもつねにそうであったように、今回も中島みゆきは私に、直ちに答えることの困難な問いを投げかけてきた。

「過去の救済」――それは私自身にとっても可能なことなのか。

今の私にはまだ、「赦され河」を渡る船に乗る資格はないように思えた。それは、私が自らの過去の罪責と悔恨に対して、これまで十分に真摯に向き合ってこなかったということを、まさに「今晩屋」の舞台を観ることによって、鋭い痛みとともに自覚させられたからだった。

客観的にみれば、「今晩屋」の登場人物たちが苦しんだ罪責と悔恨に比べれば、私の過去にあるそれらなどは、物の数ではないかもしれない。しかし私にとってもそれらが、逃れることのできない問いとして、現在の私の記憶の根底にありつづけていることには違いはない。

この問いへの答は、私自身がこの現実の生のなかで――現在から未来へと積み重ねてゆく時間のなかで――探しつづけてゆくほかはないだろう。その問いから逃げずに向かい合いつづけることだけが、かけがえのない過去という時間を――そこに存在した愚かさや哀しみや愛しさ、約束や過ちのすべてを――よりかけがえのない未来へとつづく一条の航路へとつなぐことを可能にするはずだ、という思いとともに。


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