「元祖・今晩屋」 – 物語の構造 (1)

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夜会VOL.15「夜物語~元祖・今晩屋」(以下、「今晩屋」) 大阪公演が千秋楽を迎えて1週間が経った頃に書き始めたこの記事も、その後、多くの改稿を重ねた。

今回の夜会は、当初は東京公演1回、大阪公演2回と、計3回の観賞の予定だったのだが、昨年11月に初めて東京公演を観てから、その――これまでのどの夜会よりもさらに――謎めいた幻想世界に強く心惹かれ、できることならすべての謎を解き明かしたいとの思いが深まり、結局、東京公演 (赤坂ACTシアター) には、2008年11月24日(日)、12月 6日(土) の2回、大阪公演 (シアターBRAVA!) には2009年 2月 2日(月)、2月11日(水)、そして千秋楽の2月15日(日)の3回と、合計5回も足を運ぶこととなった。

これほどの回数の参加は、1991年のVOL.3「邯鄲」以来だから、実に18年ぶりのことである。

しかしすべての公演が幕を閉じた現在でも、すべての謎が解き明かせたとはとても言えない。これまでの夜会にも増して、今回の演目「今晩屋」については、考えるべきことが多すぎて、少しでも早く、舞台の記憶がまだ鮮明なうちに考えを整理しておきたいと気は焦るのだが、いざそれらを言語化しようとするとなかなか明確なかたちにはならない。あるいは、無理に言語化しようとすれば、むしろ本質的な部分が抜け落ちてしまうような不安もある。

 

とはいえ、やはりまず最初におこなうべきなのは、この物語の構造を整理・確認しておくことだろう。

「今晩屋」は、事前に予告されていたとおり、森鴎外の「山椒大夫」をモチーフとしている。

九州にいる父を尋ねてゆく旅の道中で人買いに攫われ、母と生き別れになった安寿と厨子王の姉弟、そして奴婢として隷属していた荘園領主・山椒大夫のもとから、姉の自己犠牲によって脱出した弟は、母との再会を果たす――

日本中世の説話に由来し、家族愛と自己犠牲を主題とした悲劇としてもっぱらイメージされてきたこの物語を今回、モチーフとして選んだ意図について、公演パンフレットの「まえがき」で中島みゆきは次のように述べている。

お気掛かりではございませんでしたか。
あの時、姉を犠牲にした弟の心は、めでたしめでたしで済んだものかと。
あの時、姉を犠牲にしたと囁かれ続ける弟を、姉はどんな気持ちで振り返ったかと。
あの時、母は何ゆえ、あれほど愚かに子を攫われたかと。

「山椒大夫」に描かれることのなかったこれらの素朴でかつ本質的な問いへの答を見いだすために、舞台は「安寿と厨子王」の「何十年も、何百年も経った、その後の物語」として設定される。

第1幕は、その登場人物たちが転生した来生の物語として、そして第2幕は第1幕の登場人物たちが再び転生した次の来生の物語として、それぞれ位置づけられている。

以上のことを念頭に置きながら、以下、第1幕、第2幕の順に、物語の構造を――とくに空間構造と時間構造を中心として――考察していきたい。全体が長くなるので、第1幕を中心としたこの記事と、第2幕を中心とした次の記事に分割する。

なお、これらの記事は、舞台のレビューを兼ねてはいるが、物語の背後にある構造を析出することに重点を置くので、記述は必ずしも舞台の進行順には沿っていない。進行順の演出の詳細やその解釈については、 「演出進行表」を参照されたい。


第1幕

「縁切寺」という空間

冒頭、鐘の音が3回鳴り、舞台がしだいに明るくなるとともに、周囲に欄干をめぐらせた六角堂が姿を現わす。

幕開けを飾るインストルメンタル曲「十二天」は――2001年のアルバム「心守歌」のタイトル曲にも少し似た――ヴァイオリンのG線 (最低弦)が奏で始める、心地よい揺れを繰り返す郷愁に満ちた旋律によって、聴く者を舞台の世界に引き込んでゆく。

この曲は、次の記事で後述するように、第2幕終盤で歌われるとき、この物語の全体を包む世界観を開示するという、きわめて重要な役割を果たす。その世界観が、すでにこの冒頭で予示されているのだ。

 

六角堂の正面には、舞台床に降りる5段の階段がある。さらに舞台正面、客席に向かっては、舞台の幅いっぱいに近い、奈落に降りる幅広い階段がある。六角堂の正面階段にも、舞台から奈落に降りる階段にも、欄干と同じデザインの青緑色の木製の手摺がついている。

欄干の上の六角堂は、舞台に対していわば《舞台上の舞台》ともいうべき二重構造の空間をなしている。この二重構造は、第2幕にも継承され、舞台の構成上、重要な役割を果たすことになる。

水が流れ落ち続ける左右の崖の深山幽谷を思わせる風景、および〈暦売り〉(中島)が舞台下手の奈落から階段を上りながら姿を現すところなどからみて、この「縁切寺」はかなり人里離れた山上にあるらしい (この点は、水底にあるらしい第2幕第1場「水族館」との空間的な対比をなしている)。

「縁切寺」とは、伝統的な共同体、家族や主従の「縁」から人々を解き放つアジール (避難所) である。それは聖なる空間であるがゆえに、世俗的な世界において人びとを束縛するルールを無効化する異空間なのだ。

 

ここに登場する人物は、

  • 〈暦売り〉        (転生した母)         [中島みゆき]
  • 〈縁切寺の庵主〉       (  〃  姥竹)   [香坂千晶]
  • 〈元・画家のホームレス〉 (  〃  厨子王)     [コビヤマ洋一]
  • 〈脱走した禿(かむろ)〉    (  〃  安寿)   [土居美佐子]

の4人。ただし転生した安寿の役割は、場面に応じて、〈暦売り〉と〈庵主〉にも割り当てられる。

彼女たち4人はいずれも前生の記憶を喪失しているが、前生の「縁」に引き寄せられるかのように、「縁切寺」で再会する。前生において「縁」あった者たちが、「縁」無き者たちとして初めて再会を果たすという逆説――。

この逆説は、彼女たちが前生において「縁」ある者たちであったがゆえに――再会の約束を果たせなかった姉弟として、あるいは子を攫われた母として――罪責と悔恨を背負わなければならかったことの反映であろう。「縁切寺」は、それらの罪責と悔恨の根底にあった「縁」を断ち切る空間である。第1幕の舞台が「縁切寺」に設定されている理由はここにある。

 

六角堂の周辺にたびたび姿を現わすらしいおかっぱ頭の少女〈脱走した禿〉について、〈庵主〉はこう語る。

売られた子供が逃げようならば、ここまで自ら駆け込めば
縁切寺になるものを

「ここまで」と語りながら、〈庵主〉は自ら、六角堂の正面の階段を上がってみせる。してみれば、アジールとしての「縁切寺」の空間は、厳密には六角堂をめぐる欄干――《舞台上の舞台》――を境界として画定されているということなのだろう。

〈禿〉は、六角堂の裏手から取り出した赤白縦縞の紙風船で、「らいしょらいしょ」の曲に合わせて鞠つきを始め、〈ホームレス〉もそこに加わる。転生した安寿と厨子王が、「縁切寺」の境内で束の間の再会を果たし、童心に帰って遊ぶ場面だろうか。

 

それにつづけて〈暦売り〉が歌う「ちゃらちゃら」は、「縁切寺」という空間のもつ意味を端的に表現している。

縁のない者に なりたい人は
罪のない者に なりたい人は
駆け込んで来られ 逃げ込んで来られ
縁切りの寺は 身の上をちゃらにしよ

〈暦売り〉がこの曲を歌い続けるうちに、六角堂の裏側から正面階段を伝って舞台床へと、鞠つきに使われたのと同じ赤白縦縞の紙風船が、最初は数個ずつ、やがて無数に転がり出てくる。紙風船はまるで自らの意志をもっているかのように転がり、舞台床全体に広がってゆく。

この無数の紙風船は、縁切寺に封じ込められていた、そこに駆け込んだ人々が捨てた過去の「縁」を意味するのだろうか。この恐怖さえ覚えるような幻想的な光景は、全2幕の中でも最も印象的な場面のひとつであった。

 

大晦日という時間

「縁切寺」が上記の様な意味で空間的な特異点であったとすれば、除夜の鐘が鳴る「大晦日」――1年を次の1年へとつなぐ時間――は、時間的な特異点であるということができる (この点は、第2幕にも共通している)。

〈暦売り〉が売る暦には、日付も曜日も入っていない。 「暦売りの歌」に歌われるように、この暦には、過ぎ去りし日であれまだ知らぬ日であれ、自らが望む日付を書き込むことで、「今日の日」をその日へと自在に運んでゆくことができるのだろうか。

ああ一日を どこへ運ぼうか
過ぎ去りし過去の日へ 暦を直すため
ああ一日を どこへ運ぼうか
まだ知らぬ先の日へ 暦を先取るため

この物語の世界は、時間を自在に行き来すること――誰もが一度は望んだであろう、この素朴で空想的な願い――が、実現されうる世界であるらしい。しかし、そこに還りたい時間がある一方で、その記憶を――さらには時間それ自体を――消し去りたい時間もあるだろう。さらには、その両方がひとつの時間に重なり合っている場合さえあるかもしれない――人の生は、つねにそうした矛盾に満ちている。

 

大晦日に鳴る、一年間の百八個の煩悩を払うとされてきた百八回の除夜の鐘の音は、新たな一年への「リセット」を可能にしてくれる信号のはずだった。しかし「百九番目の除夜の鐘」が鳴るとき、逆に、かつて「リセット」されたはずの過去、前生が、再びよみがえりはじめる。

百九番目の除夜の鐘 鳴り始めたならどうなろか
百九番目の除夜の鐘 鳴り止まなければどうなろか
このまま明日になりもせず このまま来生になりもせず
百と八つの悲しみが いつまで経っても止みもせず
百九番目の鐘の音が 鳴り止まなければどうなろか

第1幕では3回歌われるこの曲は、曲の始まりと終わりに鳴る鐘の音とともに、前生から転生してきた人物の登場、あるいは前生の記憶の再生を促す信号の役割を果たす。

最初の「百九番目の除夜の鐘」では〈庵主〉が欄干の上に登場し、2度目には六角堂の裏手から〈禿〉が登場する。そして3度目にこの曲が歌われた後には、後述するように、〈ホームレス〉に厨子王としての記憶が、また〈暦売り〉には安寿としての記憶が、それぞれ再生しはじめるのである。

 

逃走の意味

〈ホームレス〉は最初は、六角堂の縁の下の暗がりに身を潜めながら、密やかに登場する。それは彼が、絶えず何かから逃走しつづけている存在であることをすでに示している。

彼は、自分がどこから、どこへ逃げようとしているのかさえ記憶していない。 「逃げよ、少年」で、着物や座布団を渡して世話を焼こうとする〈庵主〉に追われて六角堂の周囲を逃げ回るコミカルな場面にせよ、(後述する) 第1幕ラストの「旅仕度なされませ」から「都の灯り」に至るシリアスな場面にせよ、――幼い頃の姉弟に戻ったかのように〈禿〉と鞠つきに興じる「らいしょらいしょ」の場面をほぼ唯一の例外として――ただ、絶えず何かから逃げつづけなければならないという衝動と焦燥だけが、彼を駆り立てている。

この逃走は、直接には、前生における厨子王としての、山椒大夫のもとからの逃走の記憶の (当初は不完全な) 再生を意味するのだろうが、そこにはもうひとつの重要な意味が隠されている。その手がかりとなるのは、〈暦売り〉が歌う「私の罪は水の底」の、次のような不思議な歌詞である。

逃げてゆく身の危うさ
逃げてゆかせる者の方がすぐ追い抜いて
さて どちらが逃げ遂げた

「逃げてゆかせる者」とは、直接には安寿を意味しているのだろうが、彼女が厨子王を「追い抜く」とは、いったいどういう意味なのだろうか。

「逃げてゆかせる者」とは、厨子王にとって、「迎えに戻る約束」を果たせず置き去りにした姉の記憶、自らの罪責と悔恨の根源であるがゆえに意識から抑圧され、「忘れてしまった」前生の記憶を意味するのではないか――このように考えることができるとすれば、それが「すぐ追い抜いて」ゆくというのは、前生の記憶が、最終的には逃れ難いもの、決して「逃げ遂げる」ことのできないものであるということを予告しているのではないだろうか。

事実、第1幕後半の展開は、この予告を裏づけるかのように進んでゆく。

 

「夜」と「昼」の意味

前生で縁あった者たちの「縁切寺」での束の間の再会は、すでにみたように、前生の「縁」を捨て去ることを代償にして実現されたものだった。それは、「憂き世ばなれ」での次の歌詞に象徴されるように、諦念と裏腹の静かなやすらぎにみちた再会であった。

大切なものなんて 端 (はな) からないと思い込もう
失くすにも 壊すにも 何ひとつ なかったと
(中略)
どうせ嘘なら葦ひと夜 あとは野となれ山となれ

 

しかしこの再会は、「夜いらんかいね」と呼びかける、〈暦売り〉を代理人とする〈今晩屋〉の意志の介入を契機として中断され、諦念は破棄される。そして、彼女たちが忘れ捨てたはずの過去、前生の記憶が再びよみがえり始めるのだ。

“若しも この夜が買えるものならば
何を代わりに払ってもいい”
願う人もあろう 探す人もあろう
お代は代わりに あなたの昼を
一つならず一つならず いただきましょう

〈今晩屋〉が売る「夜」とは、人々にとって過去の悔恨の出発点、運命の分岐点であり、そこから生を再出発させることを人々が望むであろう特別な時間を意味している。その時間が「昼」ではなく「夜」であるのは――「山椒大夫」において、一行が人買い・山岡太夫に出会った一夜が運命の分岐点であったことにも由来しているのだろうが――本質的には、「夜」こそが一日を次の一日へとつなぐ時間であるからだろう。

だとすれば、〈今晩屋〉が「夜」の「お代」として要求する「あなたの昼」とは、悔恨の出発点=運命の分岐点としての「夜」の後、人々が現在まで積み重ねてきた生の時間を意味すると考えることができる。それらを引き渡すことと引き換えに、運命の分岐点へと連れ戻されること――それが、「夜」を「買う」ということの意味なのだろう。

 

3度目の「百九番目の除夜の鐘」が歌われた後、〈ホームレス〉に前生の厨子王としての記憶が再生しはじめる。彼が連れ戻された悔恨の出発点=運命の分岐点は、姉・安寿に促され、山椒大夫のもとから逃走しようとした「門出」の時点であった。赤白の紙風船をつぶした「椀」を右手に持ち、〈ホームレス〉はこう独白する。

木の椀に、清水を汲んで汲みかわし
門出を祝う水杯を汲みかわし
ごきげんよう、ごきげんよう
逃げも隠れもいたします

「逃げも隠れもいたします」という台詞はコミカルなようでもあるが、姉・安寿を置き去りにして逃走しようとすることへの自責がすでに含まれている点に注意したい。これに応じる〈暦売り〉の台詞には、この厨子王の自責がより鮮明に表れる。

門出の誓いは、その場の気持ち
迎えに来ますも、待ちますも、
門出の誓いは、その場の気持ち

頭を抱えながら「忘れてしまった!」と繰り返し、自責の記憶を振り払おうとする〈ホームレス〉に対し、〈暦売り〉は――安寿としての記憶を再生させながら――六角堂の正面の扉を指さしながら、こう告げる。

都へ逃げよ、都は夜のないところ、目もくらむ眩きところ
それが都ぞ、疾う逃げよ

「夜」が過去の悔恨の出発点=運命の分岐点であったとすれば、「夜のないところ」としての「都」とは、もはや過去に立ち戻ることなく、過去を忘却し否定しつづけることによって、未来へと突き進んでゆく場所、その意味での「近代化」の最尖端のごとき場所を意味するのではないか――この予想は、後述の「都の灯り」によって裏づけられることになる。

〈暦売り〉は、 「迎えに来ますと、約束を……」と、安寿への別れの言葉を告げようとする〈ホームレス〉を六角堂のほうへ突き飛ばしながら、こう叫ぶ (これが第1幕の最後の台詞となる)。

置き去りにせよ、骨肉 (こつじく) を!

間髪を入れず、第1幕2回目の「旅仕度なされませ」のイントロが始まる。1回目のときの軽快なアップテンポ、明るくコミカルな長調から一転して、重い足取りのミディアムテンポ、悲しげな短調で。

〈庵主〉は、笠と白装束、黒の衣を取り出し、〈ホームレス〉に着せていく。この「旅」は、今生においても何かから逃走しつづけた彼の最後の脱出の旅、あるいは死出の旅なのだ。

 

「縁切寺」の炎上

〈ホームレス〉が旅仕度を終えると、第1幕2回目の「らいしょらいしょ」が始まる。中島みゆき自身が歌うこの曲は、杉本和世・香坂千晶が歌うときのあどけない表情の手鞠歌とはうってかわり、原初的な恐怖と情念と深い悲しみに満ちた歌に変貌する。

六角堂の《舞台上の舞台》の上に〈禿〉が現われ、再び鞠つきを始めるが、左右の崖の上に赤い光が閃くと、彼女はおびえたように裏手に消える。赤い光は前生の恐怖の記憶の象徴なのか。

やがて再登場した〈禿〉が手にした松明の火によって、「縁切寺」は内部から炎上しはじめる。宮下文一が歌う「らいしょらいしょ」のエンディングのリフレインがクレッシェンドするにつれて、炎は激しく燃え上がり、堂が燃え落ちる音が響き始める。

「都の灯り」の激しいイントロとともに、錫杖と数珠を手にした僧形の〈ホームレス〉は、ついに炎上する六角堂の正面階段をゆっくりと昇り始める。それまで決して開かれることのなかった正面の扉が〈庵主〉と〈禿〉の二人の手によって、彼を迎え入れるために開かれるとき、扉の向こうには、ステージ奥のライトがまさに「都の灯り」のように彼方に輝くのが見える。

都の灯りが彼方に浮かぶ そこまで逃げよと運命 (さだめ) が示す
裏切って 見限って 骨肉分けた人を捨て
従って 逆らって 明日のために今日を捨て
都の灯りが彼方に浮かぶ 都の彼方に来生が浮かぶ

〈ホームレス〉=転生した厨子王の「都」への脱出、すなわちその彼方にある「来生」への脱出が、なぜ炎上する「縁切寺」に身を投じることと同義なのか――。

 

「縁切寺」とは、家族や主従の「縁」から人びとを解放するアジールであり、伝統的な共同体の秩序が支配する世界の中で、唯一その秩序を無効化する異空間であった。しかし、伝統的な秩序そのものが解体し、「縁」に縛られることのない世界が出現すれば、もはや「縁切寺」は必要なくなる。

ここで「都」とは そうした世界――すなわち、「骨肉分けた人を捨て」て脱出した人びとが集まり暮らす世界を意味するのではないか。またそれは、すでにみたように、絶えず過去を忘却しながら未来へと突き進んでゆく世界――「明日のために今日を捨て」つづける世界――でもあるのではないか。

「縁切寺」を焼く炎は、過去のすべての「縁」を焼き尽くし、もはや「骨肉」のしがらみに縛られることのない世界への脱出をもたらすエネルギーの象徴であり、またそのことによって、過去を否定し未来へと突き進むエネルギーの象徴なのだ。

 

残された問い

〈ホームレス〉=転生した厨子王の「都」への脱出という第1幕の結末は、形式上は、「山椒大夫」のストーリーを反復しているようにもみえる。しかしそれは次のような意味で、単なる反復ではない。

ここで、冒頭に引用した公演パンフレットの「まえがき」にある、中島みゆきの問いを思い出したい。

弟は、なぜ「姉を犠牲にした」という自責と悔恨に苦しまなければならなかったのか。

それは、安寿の自己犠牲が、「骨肉分けた人」としての自らへの純粋な「愛」のためになされた行為であったがゆえではないか――。その「愛」が純粋なものであればあるほど、弟の自責と悔恨――そして、弟にそれを強いたという姉の自責と悔恨――はより深くなる。

「愛」に基づく「自己犠牲」という行為がはらむこの根源的な矛盾こそは、彼が炎上する縁切寺に身を投じることによって、「都」へと再び脱出しなければならなかった真の理由ではないか。この根源的矛盾から脱出する道がもしあるとすれば、それは、「愛」に基づく「自己犠牲」そのものをもはや必要としない世界――すなわち、「骨肉」の「縁」そのものが存在しない世界への脱出しかありえないからだ。

 

しかしこの脱出は、過去からの――〈今晩屋〉が売ろうとした「夜」からの――真の解放と救済をもたらしたのだろうか。

〈ホームレス〉=転生した厨子王が身を投じた「縁切寺」が燃え落ちた後、転生した安寿の分身であった〈庵主〉と〈禿〉は、舞台左右の滝壷に身を投じる――これはいうまでもなく、前生における安寿の入水の再現である。

しかしながら、転生した安寿の第三の分身ともいうべき〈暦売り〉は、すべてが終わったかにみえたその後になってようやく、焼け跡の《舞台上の舞台》の裏手から、赤い消火器を背中に背負って再登場する。「縁切寺」の火を消し止めることが彼女の意志だったのだろうか――。

また、すべてが終わったことを知った〈暦売り〉は、入水した〈庵主〉と〈禿〉が片方ずつ残した藁沓を一足に揃え、《舞台上の舞台》の正面、階段の上に置く。これは、安寿の記憶をさらなる来生へと引き継いでいこうとする意志の表現なのだろうか――。

これらの残された問いは、すべて第2幕へと引き継がれてゆくことになる。

 

第1幕を観終えた後に残る悲痛な重苦しさは、その悲劇的なラストシーンによるものばかりではない。

それは、〈ホームレス〉=転生した厨子王が脱出しようとした「都」――絶えず過去を忘却しながら未来へと突き進んでゆく世界――こそは、いまわれわれが現実に生きているこの世界なのかもしれない、という予感のためでもある。この予感への応答も、やはり第2幕で与えられることになる。

 

中間考察――輪廻転生というモチーフ

第2幕の考察に移る前に、ここで「今晩屋」の物語の縦軸をなす、前生-今生-来生という輪廻転生というモチーフについて考えておきたい。

〈禿〉と〈ホームレス〉が、「縁切寺」の境内で、前生における姉弟の幼い頃に帰ったかのように鞠つきに興じる場面で歌われる「らいしょらいしょ」は、この輪廻転生というモチーフのもつ本質的な意味を、直感的に表現している。

来生 来生 前生から 今生見れば 来生
彼方で見りゃ この此岸も彼岸

私たちがいまこうして生きている「現実」としての今生は、もしかしたら、私たちの記憶していない前生からみた来生だったのかもしれないし、まだ知らぬ来生からみた前生なのかもしれない――いま、ここの「現実」を、無限の時間軸の中に宙づりにしてしまうかのような、夢のような浮遊感。

私たちの日常の経験のなかで、このような浮遊感に満ちた世界感覚に最も近かったのは、おそらく幼い頃の記憶であろう。「らいしょらいしょ」は日本古来の手鞠歌を素材としているが、同じように、わらべうたに垣間見られる原初的な世界感覚は、夜会VOL.3「邯鄲」で歌われた中島みゆきの最初期の作品「ひとり遊び」や、前作「24時着0時発」で歌われた (童謡「通りゃんせ」をモチーフとする) 「DOORS TO DOORS」にも共通するものだった。

 

輪廻転生あるいは「死と再生」というモチーフは、「今日は倒れた旅人たちも/生まれ変って歩き出すよ」という、最初期の代表作「時代」のよく知られた一節を思い出すまでもなく、中島みゆきの作品世界を、現在に至るまで一本の赤い糸のように貫いているモチーフである (そのことについては、かなり以前にも、活字媒体の同人誌への寄稿で論じたことがある)。

近代的な直線的時間のなかでは、個人の生は、誕生を始点とし死を終点とする有限の長さの線分としてしか、時間軸上に存在しえない。その始点と終点は――個人を他の誰でもない「一者」として他者から隔てる、根源的孤独という檻と同様に――個人の生を有限の時間のなかに閉じこめる時間的な檻でもある。この檻を打ち破り、誕生という始点よりもさらに以前の過去、あるいは死という終点よりもさらに向こう側の未来へとまなざしを振り向け、そこでしか出逢えない他者の姿を探し求めようとするときに浮上してくるのが、転生というモチーフであった。

このモチーフが、〈夜会〉の前々作「ウィンター・ガーデン」および前作「24時着0時発」でも物語の基軸をなしていたのはまだ記憶に新しいところである。その意味でそれら二作と今回の「今晩屋」とは、三部作を構成しているとみることができるかもしれない。また、「24時着0時発」のオリジナル曲で構成された2005年のアルバムが「転生(TEN-SEI)」と題されていたことも、このモチーフを近年の中島みゆきがとりわけ重視していることを反映しているといえよう。

ただし、これら三作における輪廻転生のモチーフの意味ないし位置づけは、もちろん同一ではない。そのことについては、三作の比較を踏まえ、いずれ稿を改めて論じたいと思うが、ここで一点だけ指摘しておこう。

前作「24時着0時発」での輪廻転生は、 「命のリレー」の歌詞に象徴されるように、「この一生」という限界を越えて、「願いを引き継いで」ゆくことを可能にする世界観を意味するものだった。

虫も獣も人も魚も
透明なゴール目指す 次の宇宙へと繋ぐ
この一生だけでは 辿り着けないとしても
命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ

だからそれは、「願い」の達成を阻むネガティブな壁――鮭たちの故郷への遡上を阻む廃墟堰に象徴される――を打破することにより、新たな世界への「転轍」を図り、「願い」を未来へと引き継いでゆくポジティブなエネルギーを導く水路でもあった。

それに対し、 「今晩屋」においては、ネガティブな壁は登場人物たちの外部に打破すべき対象としてあるのではなく、彼女たち自身の過去の内部に存在している。それは彼女たちが、互いに「縁」ある存在であるがゆえに負わなければならなかった悲しみ、苦悩、罪責そして悔恨であり、輪廻転生は、それらのネガティブな記憶を導く水路でもあったということが、しだいに明らかになってくるのだ。

物語の構造 (2) につづく】


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