世界が違って見えた日――歌会VOL.1に寄せて

 

[注意]
このブログ記事は、2024年1月~5月に上演される、中島みゆきのコンサート「歌会VOL.1」の内容に関する「ネタバレ」を多く含みます。これからこのコンサートに行かれる予定のかたは、よくご注意ください。


 

中島みゆきのライヴから帰ってくると、世界が違って見える。

――それは1983年に、私にとって最初のライヴであるコンサートツアー「蕗く季節に」に行って以来、彼女のライヴに出かけるたびに、繰り返し感じてきたことのはずだった。しかし、今回ほどそのことを、より深い意味で再認識させられたことはなかった。世界を見る私と、私が見る世界との関係そのものが、まったく新たな地平の中に再発見される――そのことへの新鮮さに満ちた驚き――とでも表現すればいいのだろうか。

コンサート「歌会 VOL.1」の初日1月19日、第2公演1月21日には仕事の都合でどうしても足を運ぶことが叶わなかった。SNSでのネタバレ情報にはなるべく目をふさぐ一方で、初日と第2公演を観た人びとの興奮と感動とを綴る熱気に満ちた言葉たちから、この1ヶ月を待つ熱量を充填した。

そしてようやく2月20日と22日、東京国際フォーラム(ホールA)での、「歌会 VOL.1」の第3、第4公演に足を運ぶことができた。第3公演は、私にとってこれまでで最後の中島みゆきのライヴであった、ラストツアー「結果オーライ」の金沢公演(2020年1月20日)から4年と1ヶ月ぶりである。

20日、東京へと向かう新幹線の車中では、4年ぶりの再会への渇望の高まりに、私はずっと武者震いにも似た感情に襲われつづけていた。

 

伏線としてのアルバム『世界が違って見える日』

2022年12月にリリースされた「俱に」についてはこのブログで記事を書いたが、この曲を冒頭曲として2023年3月にリリースされたアルバム『世界が違って見える日』については、書くことをこれまで怠っていた。しかしこのアルバムは、当然ながら「歌会 VOL.1」に至る重要な伏線である。ここでその印象を簡潔にまとめておこう。

このアルバムは、コロナ禍による活動中断をはさんで、前作『CONTRALTO』から約3年ぶり、通算44作目のオリジナルアルバムだった。その3年の時間、デビュー以来48年の時間、そしてもっと遠く見通しがたい歴史的過去から堆積してきた時間――それらのすべての時間の意味への彼女なりの応答のように、このアルバムは響いた。

終盤になるほど深まる昏い闇の底から、終曲「夢の京(みやこ)」では、遙か上方の眩い明るみへと解き放たれる。そこには、彼女自身の過去の諸作品の残響と、それらが響いてくる/響いてゆく時間軸のさらに先にある、まだ見ぬ未来への意志が聴こえた。

そしてこのアルバムは、アルバムという形式の意味を再認識させつつも、夜会を含むライヴへの彼女の押さえきれない思いを感受させられる作品でもあった。

――それから1年弱、ようやくその思いが解き放たれる日が来たのだ。

 

4年という時間の意味

東京国際フォーラムのホールAの客席に入るのは、8年前のコンサート「一会」(2016年1月29日公演)以来である。約5000人収容の巨大ホールだが、幸い2公演とも、ホール中央付近のステージが観やすい席に恵まれた。

薄暗いステージには緞帳はなく、楽器類が並んでいる。開演18:30、ミュージシャンたちが下手から登場して各ポジションに就き、ピアノのA音からストリングスのチューニングが始まる――そしてやはり下手から、白いジャケット姿の中島みゆきが颯爽と登場。万雷の拍手が鳴りやまぬうちに、力強いイントロがスタートする。

 

第1曲「はじめまして」――4年前の2020年2月26日、大阪フェスティバルホールでの公演をもって中断したラストツアー「結果オーライ」のアンコール最後の曲。それはまるで、4年という時間を一瞬で飛び越える、音楽のジャンプカットのようだ。

つづくMCでも、その公演でツアーを中断せざるをえなかったことを――例によってコミカルな語り口ではあるが――隠しきれない悔しさの記憶として、中島みゆきは語った。

 

第2曲「歌うことが許されなければ」――アルバム『CONTRALTO』の第4曲。糸井重里との対談で、中島みゆきは、この曲は「国を追われた難民の人たちの歌」だと率直にその意図を語っている。

繰り返す戦いの日々
言葉は閉じこめられてゆく

――しかし、とりわけこのフレーズは、どうしても、「歌うことが許され」なかったこの4年間の彼女自身の思いの表明でもあるように聴こえてしまうのだ。

 

「病院童」のまなざしに映るもの

つづくMCで彼女は、コロナ禍の間、海外ニュースでも国内ニュースでも、これほど病院の映像を目にしたことがあっただろうかと語り、つづく3曲は「医療関係の歌」だと予告する。たしかに、このブログの前の記事でも書いた通り、「医療もの」と中島みゆきには、必然的とも言えそうな縁がある。

第3曲「俱に」――2022年10月から12月まで放送されたフジテレビ系月9ドラマ『PICU 小児集中治療室』の主題歌。

独りずつ 独りずつ 僕たちは全力で共鳴する

――このフレーズを歌うとき彼女のヴォーカルは力強くクレッシェンドし、♪全力で共鳴する♪では、まさに全力のフォルティシモが響き渡る。私たち独り独りの心と全力で共鳴しようとするかのように。

 

第4曲「病院童」――救急車の赤色灯の点滅を思わせる背景のライティングとともに、リズミカルなイントロがスタートする。そして歌いだされるヴォーカルでは、まず冒頭、♪痛い苦しいときにゆく……♪から始まるフレーズでの、中島みゆきならではの力強いコントラアルトに魅了される。

一見コミカルな表情をしながら、患者たちの痛みや苦しみや孤独に密やかに寄り添う病院童のまなざし。それはおそらくは彼女自身が、幼いころから培ってきたまなざしでもあったのではないだろうか。

病院で産まれて 病院で育った
この頃は 消毒のあの匂いが やや物足りない

――転調する大サビのこのフレーズは、そんな個人的な記憶の反映でもあるような気がする。先ほどのMCでは、産婦人科医だった父・眞一郎氏のことなど、彼女自身のファミリーヒストリーについては何も語られなかった。が、それはおそらく「病院童」に十二分に歌いこまれていて、語る必要がなかったからなのだろう。

 

第5曲「銀の龍の背に乗って」――2003年からフジテレビ系列で放映されていたドラマ『Dr.コトー診療所』の主題歌。

命の砂漠を潤すために、雨雲の渦を運ぶ「銀の龍」――それは、中島みゆき自身が21世紀ベストセレクション『前途』のリーフレットでコメントしていたように、孤独に患者の命に向き合う医師を空から援護する「命の水の化身」である。

――そうした超越的な存在への祈りを歌うとき、とりわけ中島みゆきの声は、限りなく遙かに届けよと、限りなく力強くどこまでも伸びてゆく。

そして――この曲には限らないのだが、とりわけこの曲では――間奏やアウトロでの古川望のギターソロが、彼女自身にさえ歌いきれない思いをさらに引き継いで空高く飛翔させるかのように、言葉にならない歌をどこまでも激しく狂おしく歌う。

 

変わる街と変わらぬ思い

第6曲「店の名はライフ」と第7曲「LADY JANE」は、ともに中島みゆきの記憶の中に織り込まれた、行きつけの店についての歌である。

かつて札幌にあった、喫茶店とも飲み屋ともつかない店「ライフ」をモデルとした「店の名はライフ」は、今回のセットリストでは最初期、1977年のアルバム『あ・り・が・と・う』の収録曲だ。それゆえの聴き手の私にとっての懐かしさと、中島みゆき自身にとっての懐かしさとが、たゆたうように交錯する。

店の名はライフ 三階は屋根裏
あやしげな運命論の 行きどまり

このフレーズは、「屋根裏」という言葉を経由して、ラストツアー「結果オーライ」で歌われた「齢寿天任せ」の次のフレーズと遙かに呼応し、若き日の記憶と、自他の齢を意識せざるを得ない現在とが響き合う。

雲の上 星の上 浮世の屋根裏へ
愛しさも はかなさも 手に負えぬ 天任(そらまか)せ

 

「LADY JANE」は、東京・下北沢にある、曲名と同名のジャズバーをモデルとした歌である。この曲では、終わり近くに出てくるこのこのフレーズに意表を突かれる。

時流につれて国は変わる
言葉も通じない国になっても この店は残ってね

この国が「言葉も通じない国」になる未来――それは必ずしもSF的想像力の産物とは限らず、意外にも近未来にありうることなのかもしれない。ここには、現代という時代の不確かさへの透徹したまなざしと、それでも変わらぬものへの揺るがぬ希望とがある。

 

――そしてこの曲には、2020年10月に世を去ったキーボード奏者で、中島みゆきバンドのバンマスをも務めていた小林信吾の記憶が重ねられる。彼自身による録音が残っていた間奏のピアノソロが流れるとき、彼女は下手のピアノの方へ、名残惜しげなまなざしを向けつづける。

小林信吾は、コンサートツアー「カーニヴァル1992」に参加して以来、名キーボード奏者として彼女をサポートしつづけてきた。個人的には、夜会VOL.20「リトル・トーキョー」千秋楽 (2019年2月27日) のカーテンコールでの、バンドを代表するバンマスとしての元気な舞台挨拶も思い出される。

しかしそれ以上に、ビジュアル面も含めて強く印象に残っているのは、コンサートツアー「縁会」2012~3での「悲しいことはいつもある」だ。ファーストアルバム『私の声が聞こえますか』に収録されていた懐かしいこの曲を、オリジナル以上にジャジーなアレンジで小林信吾が弾く。キーボードにもたれかかるように、彼と向き合いながらアンニュイな調子でしっとりと歌う、黒いドレス姿の中島みゆき。

 

〈愛〉というメディア

――そんな記憶をも織り交ぜながら「LADY JANE」が曲を閉じると、間髪を入れず第8曲「愛だけを残せ」が、アカペラの男性コーラス (宮下文一、石田匠) が歌う力強いサビ、♪愛だけを残せ 壊れない愛を……♪からスタートする。

この曲については、少し曲順が前後するが、第14曲「慕情」と合わせて、〈愛〉というキーワードのもつ意味について考えたい。その際に手掛かりになるのは、1989年にシングルとしてリリースされた「あした」である。

形のないものに 誰が
愛なんて つけたのだろう 教えてよ

〈愛〉には形がない――〈愛〉をその外側から支えてくれるような確かなものは何もない。〈愛〉を支えるものは〈愛〉だけしかない。しかし、だからこそ、人は〈愛〉を追い求める。人と人を、人と世界をつなぐメディアとしての〈愛〉を。

――偶然ながら、日本語の五十音の最初の2つの母音だけから成るこの短い言葉を、中島みゆきが繰り返し歌いつづけてきた理由もそこにある。

愛だけを残せ 名さえも残さず
生命の証に愛だけを残せ  (「愛だけを残せ」)

愛より急ぐものが どこにあったのだろう
愛を後回しにして何を急いだのだろう  (「慕情」)

人が生きた証であり、「手放してならぬ筈の何か」としての〈愛〉――それは「形のないもの」だからこそ、限りなく追い求められる。

――やや蛇足ながら、ここでの〈愛〉の意味を「恋愛」だけに限定する必要はもちろんない。それは、友愛でも家族愛でも、さらには世界への愛でもありうるのだ。

 

インターミッション

――ここまでの前半を終えての休憩に入る前、恒例の「おたよりコーナー」に先立って、「中島のわがままコーナー」が新設された。客席からステージは (照明のおかげで) よく見えるが、ステージから客席は真っ暗なのでほとんど見えない。どんな人が客席にいるのか知りたいので、10秒間だけ客電をつけさせてほしい、と――

中島みゆきはこれまで、私たちファンとのあいだの関係のありかたを、しばしば「1対1の対話」という言葉で表現してきた。10秒間だけ明るくなった客席は、そうした対話への彼女の意志にわずかでも応えるべく、束の間、照らし出されたのだろう。

 

つづく「おたよりコーナー」では、かつて月曜深夜オールナイトニッポンで構成作家を務めていた「ポチ」こと寺崎要氏がステージに登場し、厳選した「おたより」を次々と中島みゆきに手渡す。あの頃と変わらぬ、息の合った名コンビぶりである。

――が、私が観た2公演で読まれた「おたより」については、記憶が鮮明ではないので、ここではそれに代えて、2月20日公演に出した(当然ながらボツの)私の「おたより」を、恥ずかしながら公開することにしよう (「ちょうど4年ぶり」というのは私の勘違いで、正しくは上記のとおり、4年1か月ぶりである)

 

異界への旅の記憶

20分の休憩を経て、20:00。ミュージシャンたちがスタンバイし、中島みゆきのやや上手に立つコンダクター瀬尾一三がタクトを振り始める。トゥッティ(全楽器合奏) のフォルティシモで、重々しくイントロが始まる――第9曲「ミラージュ・ホテル」!

――夜会VOL.13「24時着0時発」、VOL.14「24時着00時発」のテーマ曲とも言うべきこの曲を、中島みゆきはピンクと黒のツートンカラーのスーツを身にまとってアカリとカゲを一身に体現しながら歌う。右手には――夜会ではホテルマンの〈鮭〉が手に持っていた――光る鍵板と鍵、そして背景のホリゾントには、ミラージュ・ホテルのいくつものドアが並ぶ。

――ここからの5曲は、間隔を挟まずに連続的に演奏されるが、中島みゆきの衣装とホリゾントに映る背景は、以下にみるように、曲間の一瞬ごとにめまぐるしく転換していく。

第10曲は、重々しい鐘の音で始まる「百九番目の除夜の鐘」。これも夜会VOL.15「元祖・今晩屋」、VOL.16「本家・今晩屋」の中心的なモチーフをなす曲――中島みゆきは、襟に「今晩屋」と染め抜いた青い法被をまとい、ホリゾントには暗い六角堂が映る。やがて六角堂は赤い光に包まれて、この演目・第1幕ラストでの六角堂炎上を再現する。

第11曲「紅い河」――夜会VOL.7, VOL.9, VOL.17「2/2」の、やはり重要なモチーフとなる曲。変則的な5拍子は、ヒロイン莉花の心の揺れをそのままに音にしたかのようだ。中島みゆきはピンクのアオザイを身にまとい、ホリゾントには涼しげな竹林。

第12曲「命のリレー」――これも夜会VOL.13「24時着0時発」、VOL.14「24時着00時発」から、終盤で反復して歌われる重要な曲だ。中島みゆきは星がきらめくような青い衣装を身にまとい、ホリゾントにも一面の星々。エンディングでは、下手から上手へと、重々しい汽車の響きと叫ぶような汽笛が流れてゆく――VOL.13の冒頭では、客席の上空に星々がきらめき、客席後方から前方、舞台の方へと、汽車の響きと汽笛が流れたのを思い出す。

そして第13曲「リトル・トーキョー」――まだ記憶に新しい、夜会VOL.20「リトル・トーキョー」のテーマ曲。中島みゆきは、第2幕でのヒロイン杏奴と同じ白いドレスを身にまとい、舞台天井からは――おそらくは夜会で使われたのと同じ――クラシクカルな字体で “Little Tokyo” と書かれた大きな看板が降りてくる。

――夜会では渡辺真知子が歌った歌いだしを、今回は石田匠が担当し、そして中島みゆきがヴォーカルを引き継ぐ。ダンサブルなリズムをさらに前のめりさせるサビのメロディのシンコペーションに、客席も裏拍の手拍子で小気味よくレスポンスする。

 

――ここまでの夜会からの5曲は、いずれも夜会/夜会工場以外のコンサートでは初演となる。中島みゆきの背後には、たくさんの舞台衣装が吊り下げられたハンガーラックが置かれ、曲の変わり目ごとに彼女はその後ろに隠れて一瞬で衣装変えをする。

おそらく彼女は、これまでの4年間のうちに、できることなら夜会工場VOL.3を開催したかったのだろう。叶わなかったその希望に代えて、夜会への溢れる情熱が、コンサートの中での――これまで例のない――夜会ハイライト曲の5曲連続演奏という予想だにされない形式をとって実現したのではないだろうか。

そして、上記の演目を含め、夜会の物語の多くは、「異界との出会いを経ての救済」という形式をとってきた。ミラージュ・ホテル、縁切寺の六角堂、紅い河、銀河鉄道、そしてリトル・トーキョーは、それぞれの物語上の位置づけは異なるとはいえ、いずれも、この世にはない異界――あるいは異界への通路――であった。そしてヒロインたちは、それらの異界との出会いを経て、自らを――あるいは自らにとって大切な人びとを――救済へと導く。

コンサート内でのこの夜会コーナー――あるいは中島みゆきひとりが演じ歌うミニ夜会工場――は、それらの異界への旅と救済の記憶たちを、思いがけず凝縮してよみがえらせてくれた。

 

日常から戦場へ、まぼろしから現実へ

第14曲「慕情」を経て、メンバー紹介。22日の第4公演は、中島みゆきの誕生日イブとあって、ミュージシャンたちが ”Happy Birthday” を演奏するという嬉しいサプライズがあった。

 

第15曲「体温」は、アルバム『世界が違って見える日』のレコーディングでは、吉田拓郎がコーラスとギターで参加したことが話題になったことが記憶に新しい。彼の飛び入りというサプライズはさすがになかったが、この曲で宮下文一が弾くアコースティックギターは、彼からの預かりものだそうだから、古川望とのツインギターは――少なくとも楽器のレベルでは――レコーディングの再現ということになるのだろうか。

――それはともかく、この曲の歌詞は、やや謎めいていると言えなくもない。もちろん常識的に考えれば「体温」とは身体や日常性の象徴であり――「ボディ・トーク」でも歌われていたように――身体的コミュニケーションの象徴なのだろうけれども。むしろ印象深いのは、次のフレーズである。

生者必滅さとっても さみしさは羅針盤

「生者必滅」と歌われると、反射的に「会者定離」とつづくかと思いきや、♪…さみしさは羅針盤♪と切り返されるのが、見事としか言えない。 諦観を未来への進路に反転してしまう力技、とでも言えようか。

 

――そのような日常への祝福を歌った「体温」が曲を閉じると、第16曲「ひまわり “SUNWARD”」のイントロが静かに始まる――ホリゾントには、遠い夜明けのような薄青い薄明。ライヴでは1995年の「LOVE OR NOTHING」ツアー以来29年ぶりに演奏されるこの曲に、私は歌会VOL.1のセットリストの中でも最大の衝撃を受けた。

あの遠くはりめぐらせた 妙な柵のそこかしこから
今日も銃声は鳴り響く 夜明け前から

「柵」とは、人と人、人びとと人びととの間の分断の象徴である。中島みゆきがこの曲をレコーディングした30年前と変わることなく――あるいはその頃よりもより多く、より深く、世界中いたるところに、あるいは身近な日常世界の中さえ――「柵」は存在し、「銃声」は鳴り響いている。

――この歌は、それらの柵がはりめぐらされた世界へのアンチテーゼである。

この曲のアウトロで、中島みゆきは、ひまわりの花のような黄色のリストバンドを巻いた左手首と、右手首とを顔の前で組み合わせ、その姿勢のままで深く首を垂れる――「だれにでも降り注ぐ愛」への深い祈り。

――エンディングではステージ照明が消えて漆黒に包まれ、島村英二のドラムだけが残ってクレッシェンドし、軍楽隊風のリズムを奏でる。このリズムは、コンサート「一会」でも歌われた「阿壇の木の下で」をも思い出させるが、あの時以上にこの演出は、「戦場」が私たちの日常に近づきつつあることを示唆するのだろうか。

 

最後のMCで中島みゆきは、4年の空白を挟んで、「コンサートって何なんだろうって考えていたら、よくわからなくなった」と率直に述懐した。だが、深く考えるまでもなく、コンサートとは彼女自身がいま歌いたい歌を歌い、そしてそれらの歌を通じて、私たちと一対一の対話をする場だったのではないか――たとえ彼女自身はそうはっきり言葉にはしなくても、歌会VOL.1は、コンサートのそのような本質を、これまでのすべてのコンサートにも増して、私に深く体感させてくれた。

 

――そして、心音のSEの響きとともに、本編ラストの第17曲「心音」が始まる。

この曲を主題歌とするアニメ映画「アリスとテレスのまぼろし工場」は、ひとことで言えば、まるで「アニメ版夜会」のような作品という印象だった。それはもちろん、上記のように、「異界との出会いを経ての救済」の物語という意味においてである。

ただ夜会と1点異なるのは、ここでは「異界」と「現実」との関係が反転しているということだ。登場人物たちは、自分たちが生きている世界が「まぼろし」であると知るからこそ、現実世界を「夢」の世界として表象し、そこへの脱出が「希望」となる逆説のダイナミズムが生まれる――そして少女少年たちの「恋する」ことへのエネルギーが「未来へ」のエネルギーに転化してゆく終盤のアッチェレランドに至る。

――「心音」はその物語の世界に、言葉と音楽とによって、より重層的な意味の厚みを与える。たとえば、

でも聞こえてしまったんだ 僕の中の心音

――ここで音楽は微妙に転調し、内なる「心音」への気づき、「希望」と「未来へ」の衝動の気づきを音化する。中島みゆきのヴォーカルは、その気づきと胸の震えの高まりを余すところなく表現する。

この曲の後半で、ホリゾントにこの映画のシーンが次々と映し出されるのも、中島みゆきのライヴでは初めての試みだが、それだけ彼女にとってこの映画の世界と「心音」とは、不即不離の関係にあるということなのだろう。

 

高い空と地上――往還するまなざし

第18曲、アンコール1曲目は「野ウサギのように」。中島みゆきが身にまとうワインレッドのクラシカルなデザインのドレスは、夜会VOL.20「リトル・トーキョー」第1幕の再現だろうか。先ほどの本編・夜会コーナーでの「リトル・トーキョー」と合わせて、この演目から2曲目ということにもなる。

――ライブスポット「リトル・トーキョー」のステージ上に立つ杏奴さながらに、♪野ウサギのように 髪の色まで変わり……♪での(通称)「野ウサギダンス」、そしてアウトロでスカートの裾をつまんで、少女のように軽やかに楽しげに踊る中島みゆき。このアウトロでのフリの原型は――「リトル・トーキョー」のレビューで既に書いた通り――1990年のコンサートツアー「Night Wings」にあった。三たび、このフリで踊る中島みゆきの姿を目の当たりにすることができた嬉しさ。

 

第19曲、アンコール2曲目であり最後の曲となったのは「地上の星」

高い空と地上とを往還するこの歌のまなざしは、他の多くの中島みゆき作品にも共通する。が、とりわけこの曲が高いポピュラリティを獲得したのは――NHK「プロジェクトX」の主題歌として、高度経済成長時代の記憶と共鳴したという面もむろんあるだろうが――むしろより本質的なのは、それが単なる過去への讃歌ではなく、むしろ現在は忘れられ、地上から消え去ってしまった星たちへの挽歌として歌われるからなのではないだろうか。

ほぼオリジナル通りのアレンジだが、中島みゆきの思いのたけを込めたヴォーカル、そして一人ひとりのミュージシャンたちの滾りに満ちた熱演が、この終曲をいやが上にも盛り上げる。後半の間奏でAメロを立ち上がって弾く牛山玲名のヴァイオリン・ソロは、この楽器だけが歌うことのできる熱くしなやかな歌によって、忘れがたい記憶を残した。

――ただ1点、オリジナルのアレンジに加えて、エンディングのさらに締めにメジャーのコードが響き、大団円をくっきりと印象づけて、「歌会VOL.1」は閉じられた。

 

エピローグ

ここまであれこれと書いてきたが、冒頭で表明したように、「歌会VOL.1」から私がこれまでにない深い衝撃を受けた基本的な理由が、まだ十分には言語化できていないような気もする。

――が、それはおそらく、次のようなごく単純なことなのだろう。

中島みゆきが歌うさまざまな世界――たとえば現実世界と異界、日常と戦場、まぼろしと現実――は、一見、それぞれにまったく異質で、遠く隔たった場所にあるように見えるかもしれない。

だが、それは錯覚だ。現実世界と異界、日常と戦場、まぼろしと現実は、目には見えないがきわめて薄く脆弱な境界面を挟んで、すぐ近くに存在している――「アリスとテレスのまぼろし工場」で、ひびわれた空の向こう側に「現実」が垣間見えるように。

病院は戦場だ 病院は外国だ
普通の表通りから さほど遠くない

「病院童」のこのフレーズは、そのことを端的に示唆している。ここでは「戦場」や「外国」は「病院」の比喩であるかもしれないが、「病院」だけではなく――比喩としてではない――「戦場」も「外国」もまた、私たちの日常からさほど遠くはない――むしろそのすぐ隣に存在しているかもしれないのだ。

 

【追記】

とはいえ、上記のようなことをあれこれと考えたのは、コンサートを観終わってしばらく経ってからのことである。とりわけ私にとっての初日、2/20公演の直後には、とにかく、中島みゆきが明るく力強く、また楽しそうに歌っている、その場を俱にできることが最高に幸福だった、という感覚しかなかった。

彼女がMCで今回も語っていたように、明日のことは誰にもわからない。だが、いまこの時間を共有できたこと、その歓びの記憶こそが、明日へと向かう力を与えてくれる。そのことへの感謝を込めて。


【セットリスト】

  1. はじめまして
  2. 歌うことが許されなければ
  3. 倶に
  4. 病院童
  5. 銀の龍の背に乗って
  6. 店の名はライフ
  7. LADY JANE
  8. 愛だけを残せ
  9. ミラージュ・ホテル
  10. 百九番目の除夜の鐘
  11. 紅い河
  12. 命のリレー
  13. リトル・トーキョー
  14. 慕情
  15. 体温
  16. ひまわり”SUNWARD”
  17. 心音
  18. 野ウサギのように
  19. 地上の星

【ミュージシャン】

  • 中島みゆき (Vocal)
  • 瀬尾一三(Conductor, Arranger)
  • 島村英二 (Drums)
  • 富倉安生 (Bass)
  • 古川 望 (Guitars)
    十川ともじ (Keiboards)
  • 中村 哲 (Keyboards, Saxophone)
  • 坂本昌之 (Piano, Keyboards)
  • 中山信彦 (Manipulation)
  • 宮下文一 (Vocal, A.Guitar)
  • 杉本和世 (Vocal)
  • 石田匠 (Vocal, Guitar)
  • 牛山玲名 (Violin)
  • 坂元愛由子 (Violin)
  • 越川歩 (Violin)
    大嶋世菜 (Violin)
  • 友納真緒 (Cello)
  • 島津由美 (Cello)

In Memory of 小林信吾


 


「世界が違って見えた日――歌会VOL.1に寄せて」への4件のフィードバック

  1. ブログでのご報告、有難うございました。
    またお忙しい時期であるにもかかわらず、東京での滞在お疲れ様でした。
    私も初日の様子をネタバレしましたが、その時点ではきっとお読みにはならないだろう、と思い加筆・修正はサボっていましたが、今の時点では決定稿となっております。
    初日のわずか1回で全てを記憶力で伝えることは不可能と判断し、記憶ではなくコンサート中筆記する、という無謀な策でブログを書きましたが、後半になると中島みゆきの存在に夢中になり、筆記する手も止まりました。
    なのでブログを拝見することで改めておさらいができたと思います。

    他の方も指摘されていましたが、みゆきさんは「夜会工場」がやりたかった、という思いはあの早着替えの大変さもものかは、伝わってきます。
    そして私の結論としましては、コンサートでもミュージカルでもオペラでもないのが「夜会」、コンサートでもミュージカルでもオペラでも夜会でもないのが「歌会」。
    コンサートと呼ぶにはあまりに言葉が足りない、そんな公演だったと思います。
    あとは4月25日だけです(笑)

    • コメントありがとうございます。私は上演中のメモは取りませんが、今回は(1日挟んで)2つの公演をつづけて観ることができたので、ある程度記憶が鮮明になったという気はします。

      コンサートと呼ぶにはあまりに言葉が足りない、まさにその通りですね。その要因は、あのミニ夜会工場をはじめ、これまでのコンサートではあまりなかったような照明や音響(SE)、それに映像の演出などの総合的な効果によるものでもあるのかもしれません。そして何よりも、みゆきさん自身がこれまでのコンサートよりもさらにギアをシフトアップして、私たち一人ひとりに向き合ってくれたように感じたことが大きいのかも……

  2. Facebookのグループより参りました。詳細な報告ありがとうございます!私はここまで鮮明に覚えてられないです(^^;)
    「歌うことが許されなければ」は、難民の歌だったのですね。そうなると、短絡的ですが、どうしてもガザの人たちを思い浮かべてしまいますが、なんとなく中東っぽいイントロとメロディーはそのせいなのでしょうか・・・

    いろいろと気になっているのですが、今回のセトリの並びから考えると、今後の将来への心配を、どうしても感じざるを得ませんでした。特に、本割りのラスト3曲。未来は結局自分一人になる時が来るのか?と考えると不安ですが(アニメを見た人は、歌詞の解釈はまた違うのかもしれませんが)、前向きに考えれば、自分一人一人がしっかり自分の意志をもって行動していかないと、今の世の中の戦争も含めた諸問題も解決できない、ということを言いたかったのかも?と思うことにしました。
    それと、少しずれますが、セトリの並びから受けとれるメッセージとしては、自分の中では2010ー11のコンサートツアーと被ってきます。あのときの「翼をあげて」~「愛が私に命ずること」、そして後半の「Nobody is Right」~「顔のない街の中で」。今ほど不安な社会ではまだなかったと記憶してますが、みゆきさんの中には、今届けたい思いがあったのだろうと。
    そして、これは社会の動きとは関係ないのですが、何故か、ラストに「時代」。私が国際フォーラムで見たのは1月11日か12日だったと記憶してますが、その2か月後にあの震災・・・。もしかして、コンサートに来た人の中にも震災で命を落とした人もいるかもしれません。みゆきさんが震災の到来を予見していたとも思えませんが、あそこで「時代」を歌ったのは、(震災の前に)どうしても今歌って聴いてもらいたい、と思わせる何かが、みゆきさんの中にあったのかもしれない・・・などど考えております。
    そんな意味で、今回のラストの「心音」が、明るくない未来につながっていくことのないように、しっかりと生きていかねばと思わせられる次第です。
    長々と、いらぬ推測、すみません(^^;)

    • コメントありがとうございました。(FB公開グループの方に書いたような事情により) リプライが遅くなりました。

      今回ステージの記憶がかなり鮮明なのは、幸いにも2/20, 22の2つの公演を連続して観ることができたからかと思います。

      「歌うことが許されなければ」は、たしかにガザのことをも連想させますね。ただ、「ひまわり “SUNWARD”」とウクライナの関係にしてもそうですが、歌と現実の世界との関係については、みゆきさんはいつも私たち独りひとりの受け止め方に委ねるという態度で一貫しているように思います。(むしろそうだからこそ、メッセージがメッセージとして届くのだ、という気もします。)

      2010~11のツアーからつながる要素も、たしかにありますね。とくに「NOBODY IS RIGHT」の

        争う人は正しさを説く 正しさゆえの戦争を説く

      という歌詞変更に託されたモチーフは、夜会「橋の下のアルカディア」にも、「一会」(「空がある限り」や「阿檀の木の下で」)にも、そして今回の歌会VOL.1にも、つながっているような気がします。

      21世紀に入ってから現在まで、「未来」への見通しがますます暗さを増している現実がたしかにあり、むしろだからこそ私たち独りひとりは、よりしっかりした意志を持って生きてゆかねばならない。私もまったく同様に、そうしたメッセージをみゆきさんから受け取ります。

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