『MIYUKOLOGIE』第19号、1994年
一 はじめに
現代の日本のポピュラー音楽の世界において、中島みゆきほど「語りたい」あるいは「語らずにはいられない」という衝動をわれわれに呼び起こすアーティストはいないだろう。しかもその衝動が呼び起こされる場は、本誌のようなミニコミ誌であれ、パソコン通信に代表される新しいメディアであれ、あるいは(活字を中心とする)マスメディアであれ、メディアとしての形態や規模を問わない広がりをみせている。およそ人々がなんらかのかたちで言葉を発信することのできる場で、中島みゆきほど多くの言説ないし「批評」を生み出しているアーティストはいないように思われるほどである。
こうした状況について呉智英は次のように述べている。「老いも若きも、難解な言葉を使う人も稚拙な言葉しか使えない人も、中島の魅力を知ると、せきたてられるように語り出す。……中島みゆきと並ぶ人気を誇る松任谷由実にしても、聞くファンは多いだろうが、語るファンは決して多くない。」(1)
しかしそれはなぜなのだろうか。
それはわれわれにとってはおそらくは自明すぎて、あえて問うことも少なかったと思われる問いかもしれないが、実はこの問いは、中島みゆきという表現者の魅力の本質に、それも根底的な部分でかかわってくるように思われるのである。この小論でその最終的な解答を見出すことはとてもできないが、ここではせめてもの端緒として、「語らずにはいられない」何人かの人々の言説を手がかりとしながら、中島みゆきについて「語る」ことの意味を考えてみたい。
二 呉・勢古論争をめぐって
前掲の呉智英の文章は、評論家・勢古浩爾の著書『中島みゆき あらかじめ喪われた愛』(宝島社)へのコメントとして書かれたものであり、それに対する勢古の反論(2)も同じ全国紙に掲載された。まずは、紹介の意味も兼ねて、両者の論点を整理しておこう。
呉の文章の要点は次の三点にまとめられる。
- 勢古の著書は、(「喪愛」といった)私(呉)には理解困難な難しい言葉で書かれているが、そうした難解な言葉を使う人物でさえ、平凡な若者と同様に、中島みゆきについて語らずにいられないという意味で、中島みゆきは「衝撃的な現代性」を持っている。
- このように語らずにいられないファンを多く持つのは、中島みゆきがファンとの間に宗教的とも言える一対一の関係を成立させるからである。
- 中島みゆきがこの関係のなかでファンに対して歌うのは、愛の逆説性である。それは、愛が現代において至上の価値として神聖視される反面、(それを得ることのできなかった者が見下されるという意味で)差別でもあるという逆説である。
[1]は勢古への批評というかたちをとってはいるが、むしろ中島みゆきについて語りたがる多くの「知識人」が、難解な言葉を用いながら、必ずしも「平凡な若者」よりも高度なことを言っているわけではないという、しばしばみられる状況への皮肉のようにも聞こえる。勢古はたまたまその代表として槍玉にあげられているだけなのである。それは逆に言えば、こんにちの知識人の多くが(意識的・無意識的を問わず)依拠している近代主義的な枠組では、中島みゆきの本質が捉えがたいものであることを意味しているのかもしれない。(これは後に述べることとも関連するが)
[2][3]は、これも後で述べるように、呉の中島みゆき論のごく単純な要約となっている。これに対する勢古の反論は、実は呉の論点の[1]の、それも前半にしか答えていないという意味で、厳密には「反論」と呼ぶべきものではない(勢古自身も「弁明ならぬ返信」と言っている)のだが、その要点は次の二点に尽きる。
- 私の著書への揶揄や皮肉は、爽快さとユーモアを信条としてきたはずの呉には似つかわしくないが、「よくわからない」という言い分は、半分だけ謙虚に受け止める。
- 私が本の中で書きたかったことの一つは、失恋を巧妙に忌避した、臆病な恋の計算しかできなくなっている時代風潮の中にあって、中島みゆきは唯一、愛を「喪う」ことを正面から歌うことによって、愛の意味を最も根底的に提示しているということである。その古典的な失恋を私は「喪愛」と呼ぶ。
この二点、特に[2]を様々なレトリックで言い替えながら繰り返していく勢古の文体ははっきり言って読みづらく、少なくともこの文章だけから想像する限り、呉が勢古の著書に皮肉や揶揄を飛ばしたくなった気持ちも理解できなくはない。(もっとも私自身はこの本を読んではいないので、これはフェアな論評とは言えないかもしれないが。)
それはともかく、私が勢古の議論に強い違和感を覚えるのは、何よりも彼が中島みゆきの本質に「古典性」をみようとする点である。勢古は「古典的な」愛の意味が現代には見失われていることを惜しみ、その回復を中島みゆきの中に求めるわけだが、そこでの「愛」意味や価値自体は自明のものとして前提とされているのである。勢古自身は「いや、その意味こそは『喪愛』によって初めて逆説的に開示されるのだ」と言いたいのかもしれないが、そのように愛を不在であるがゆえの絶対的価値として称揚する態度は、(呉の批判する)恋愛の神聖さに疑いをさしはさむことを許さない「恋愛至上主義」の単なる裏返しにすぎない。そこに共通して欠けているのは、「愛」の意味や価値そのものを問い直す批判的姿勢なのである。
いかなる概念の意味も、個人ないしその織り成す社会によってのみ定義される。呉がこれまでの中島みゆき論において展開してきたのも、まさに現代の個人さらには社会にとって「愛」がもつ意味についての議論なのである。それゆえ、その議論は「愛」の自明性を疑うことから出発せざるをえない。
これまでの呉の中島みゆき論をも踏まえながら要約すると、彼の議論の要点は二つある。
ひとつは「近代的自我」としてのわれわれ個人にとって、愛が根底的にはらむ矛盾、あるいは逆説性ということである。「愛は、近代において自明なこととしてある。何故ならば、愛を成立させる個人が既に自明なものとしてあるからだ。……だが、自明なものとしての自我をもう一歩進めたとき、条理としての愛は突然、残酷なまでの不条理性を示す。何故〈あたし〉は愛してもらえないのか、と(3)。」近代個人主義の枠組の中では、愛は、それを得る者にとっては、自我の最高の肯定となり祝福となる一方で、それを失う者にとっては、自我を根底から否定する呪いとならざるをえないのである。またそれは、たとえば「恋愛結婚をした人たちが見合結婚しかできなかった人たちを、何か劣った人たちでもあるかのように見下す」(4)という「差別」にもつながる。
思想史や文学史をひもとけば、日本古来の「愛」などという古典的概念は存在せず、明治初期に西欧から輸入された「愛」の概念が「恋愛至上主義」というフィクションの母胎となったことは明らかである。ただしこの輸入は、キリスト教という背景を捨象したいびつなかたちで行われたものだった。西欧的な「愛」が先述の逆説に陥らずにすんでいる(かに見える)のは、それがキリスト教的な「神の愛」によって根底のところで保証されているからである。この支えを欠いた日本では、「愛」は必然的に解き難い逆説の中へと落ち込まざるをえない。
そしてこの点が、呉の中島みゆき論の第二の要点とつながってくる。すなわち、中島みゆきは聴き手との間に「宗教的とも言える一対一の関係」を成立させることによって初めて、西欧的・近代的自我が自らに対して隠蔽していた愛の逆説性を表現する回路を開いたということである。
「中島の歌う恋の苦しみ、愛の悲しみは、まさしく〈この私〉のものである。〈この私〉のものであるならば、あらゆる〈この私〉が誰かによって代替されることが本来不可能であるように、その恋の苦しみも愛の悲しみも代替不可能なはずだ。それをなお代替可能なように中島は歌い得た。この衝撃はほとんど宗教的な衝撃であった。人間の持つ根本的な不条理に対抗すべきものを歌の中に築いたとさえ感じさせたのである(5)。」
他者によっては代替不可能なはずの〈この私〉の苦しみを代替可能なものとなしうるのは、〈この私〉をも他者をも俯瞰し包摂する超越的第三者、すなわち〈神〉の視点によってのみ可能なことである。この視点はしばしば指摘されてきたように、中島みゆきの歌の中では、愛の不条理に苦しむ〈私〉を客観的に見つめているもう一人の〈私〉の視点として表現されている。この視点を、いかなる既存の宗教によってでもイデオロギーによってでもなく、彼女自身の言語によって確立しえたからこそ、中島みゆきはその聴き手との間に、〈この私〉どうしの共感を可能にする「一対一」の関係を創り出すことができたのである。もちろん「一対一」の関係という意味ではそれは恋愛と同型だが、排他的でも専有的でもないという点で、恋愛とも(むろんアイドル歌手の演出する疑似恋愛とも)異なるものである。
以上が呉の中島みゆき論の、私なりの要約である。それは、かつて中島みゆきを「女のうらみ節」として「昔からの歌謡曲や流行歌と全く同じ延長線上」にしか見ることのできない「完全な無理解や誤解」(5)から解き放ったことは言うまでもなく、近代個人主義=恋愛至上主義の枠組から抜け出ることができなかった旧来の(いまや死語となった「ニューミュージック」を主な対象とした)音楽評論をも越えた、まったく新しい批評の水準を切り開いたといえる。いわば中島みゆきは、呉智英の出現によってはじめて、その表現の水準にふさわしい批評家を得ることができたともいえよう。こうしてみると、勢古の議論が呉の切り開いた議論の水準を越えるものでは決してないことも明らかだろう。
呉の議論で物足りない点があるとすれば、それは、中島みゆきが「愛の逆説を見すえ、それでもなお愛の歌を歌う」(6)理由は何なのかという一点に尽きる。この問題についてこれ以上論じることは本稿の目的からは外れるので今後の課題としたいのだが、ただひとつだけ指摘しておきたいのは、特に近年顕著にみられるようになった、愛の逆説という廃墟の中から、新しい愛の意味を産み出していこうとする中島みゆきの強い意志である。
そのことは、例えば「さよならの鐘」や「孤独の肖像1st.」のような個々の作品にも示されている。「愛の意味」は最初から自明だったのではなく「あなたがくれた」のであり、それが失われた後は、「暗闇の中」で「もう一度初めから」探し出されるしかない。一九九一年の「夜会VOL.3―邯鄲―」の前半のラストを締めた「さよならの鐘」は、悪夢のさなかから「本当の願い」を探す「長い旅」へと向かう転換点となったし、一九九三年の「夜会VOL.5」の第一部のラスト、崩壊してゆく世界を背景に妊婦が切々と歌った「孤独の肖像1st.」は、世界とともに失われた愛が、いつか来るべき新たな世界のなかで転生することへの祈りのようにも聴こえた。
また、夜会のテーマ曲「二隻の舟」に始まり、「with」「炎と水」「糸」と続く一連の作品群にしても、愛の予定調和を祝福する古典的な意味でのラブソングではない。それらは「愛」の意味をその原点から問い直し、あるいはその新しいかたちを模索するという方向性をはっきりと打ち出しているのである。
すでに多くの人が指摘しているとおり、表現者としての中島みゆきの姿勢の根底には、つねに自己の既存の成果に安住することなく、絶えず新たな表現領域に挑戦していくいわば「前のめりのラディカリズム」が存在する(7)。それは、もちろん「愛」も含めて、いかなる既存・自明の意味や価値にも依存せず、「言葉の実験劇場」のなかから新たな「言霊」を見出していこうという「夜会」のコンセプトに最も典型的に示されているといえよう。さらにいえば、中島みゆきの初期から現在に至る彼女の歩み全体も、まさにこの再構築・再発見の、いまだその途上にある歩みだといえるかもしれない。
三 世界への眼差し
さて、このあたりで本題に戻るべきだろう。中島みゆきとわれわれ聴き手との関係が先述のような「一対一」の関係であるとすれば、なぜわれわれは中島みゆきについて「語らずにはいられない」のだろうか。
私自身にも、中島みゆきに魅せられてから十年もの間、親しい同好の友人を得ることもなく、彼女について語りたいという衝動を抑えながら悶々としていた時期がある。私の場合、その衝動をはじめて実現できたのはパソコン通信という場だったわけだが、そこで出会った多くの友人たちもやはり「長い間孤独なみゆきファンを続けてきた」けれども、「ここでは好きなだけみゆきさんの話ができてうれしい」といった感想を表明していた。
もちろん、自分の好きなアーティストについて語りあいたい、あるいはそれを共通の言語として成立するコミュニティに参加したいといった欲求を抱くのは、中島みゆきのファンに限ったことではないかもしれない(8)。しかし中島みゆきのファンを他のアーティストのファンから区別するのは、ファンの言説の(多様なメディアへの)広がりや規模だけではなく、彼女について語ることが、単なるコミュニケーションの手段を超えて、語り手自身のアイデンティティの確認作業であらざるをえないという点である。つまり、中島みゆきについて語る者は、そのことによって同時に自分自身についても語らざるをえなくなるのである。
それは単に中島みゆきのメッセージが、単にわれわれの「考え方」や「生きる姿勢」に影響を与えるという意味ではない。それだけなら、他のアーティストのファンにもしばしばみられる現象であろう。それにとどまらず中島みゆきとわれわれとの「一対一」の関係は、われわれが単に中島みゆきのメッセージの受け手ではなく、われわれもまた中島みゆきに対するなんらかのメッセージの発信者となることをも要求する。すなわちそこには「一対一」の対話が成立するのである。その対話の中でわれわれは、「考え」「生きる」主体としてのわれわれ自身がそもそも誰なのかを、すなわちわれわれ自身のアイデンティティを、問い直さずにはいられないのである。
中島みゆき自身、一九九〇年のコンサートツアー「Night Wings」のパンフレットに掲載されたインタビューで、次のように語っている。「聴いてくれる人に対して、ある意味で、あなたが流れている、流れていく、その姿を私に見せてくれ、と。私も見せるからあんたも見せてくれない?という語りかけはありますね。……『それなら私もどこへいってどう生きてるってことをあんたに返すからね、その時にあんたはどう生きててなんて答えるの?』っていうことですよね。」「問いかけに対して、何かの応答、交信、交感しようとする人と、私はできる限りマジに話を続けたいと思ってます」
こうした中島みゆきとわれわれとの関係のありようについて、山内亮史は次のように述べている。「私の受け取るメッセージは、自己了解だったり、自己処罰だったり、自己憐憫だったりしたが、多くの場合、『アンタやらなきゃダメじゃないの!』と叱咤される変革感覚の実践的蘇生の想いであった。」「私の中で彼女が次第に思想的存在になっていった。/この場合、思想的存在という意味は彼女をあるイデオロギー体系の表現者としてみることでは勿論ない。私の考える意味は、思想というのはもっと素朴に、『世界あるいは人間とは何であるのか、どうなることが望ましいのか、そのためにはなにを為すべきなのか』を考える営為を指している。」(9)
ここでまた個人的な記憶を語ることを許されるとすれば、私にとってもまた、中島みゆきとの出会いは、自己と世界との関係を根底から変革する経験であった。いやもっと正確に言えば、それは惰性的に慣れ親しんできた「自己」と「世界」とのありようを根底から突き崩し、まったく新しい輪郭線のなかに自己と世界とを析出しなおさせたのである。中島みゆきの声を最初に聞いたとき、振り向いた私の視界に映ったのは、高い空の下をうつむき加減に歩いてくる彼女の姿であり、そしてその高い空が私自身の上にも拡がっていることに気づいた眩暈のような認識であった。この世界への眼差しこそは、中島みゆきの声によって開かれたものだった。
そのときから私にとって、「自分は世界の中でどこにいるのか、そしてどこへ行くべきなのか」という中島みゆきから突きつけられた問いは、自己が世界の中で歩む軌跡によって答えていくほかはない課題となった。それがこれまでのところどれだけ成功しているかは別として、それでも「変らない夢を流れに求め」ながら。
既に述べたように、中島みゆきとの「一対一」の関係のなかにファンが求めてきたのは、最も典型的には、愛の逆説あるいは不条理からの癒しであった。しかしその訴求が呉智英のいう「現世利益」への訴求である限り、「一対一」の関係も一過性のものでしかありえない。「恋愛の不条理性には社会システムは何の効力も発揮できなかった。愛の不条理に悩む者は、中島みゆきの癒しに感泣したのだ。しかし、新しい恋人ができると、たちまち中島みゆきは不要になる。もう中島みゆきは聞かないわ、と笑う女を私は何人も知っている(10)。」
しかし、愛の逆説によってあらわになる、他者によって代替不可能な〈この私〉の苦悩は、実は世界の中での自己の根源的孤独、キェルケゴールのいう「存在の孤独」(11)を意味していたはずなのだ。この根源的孤独の認識、世界の中で〈この私〉は他の誰でもない〈一者〉にすぎないという認識こそが、世界への眼差しを開く。その認識を得たとき、われわれは必然的に、中島みゆきとの「一対一」の対話の中に入らざるをえない。もちろん、われわれの中島みゆきへの返信は、必ずしも中島みゆきについて語ることである必要はない。しかしわれわれにとって中島みゆきは、彼女によって開かれた世界への眼差しの中で、自己の位置を確認するためのいわば座標軸でありつづけている。だから、彼女について語ることは、同時にわれわれ自身について語ることであらざるをえないのだ。
注