中島みゆきのコスモロジー ――「虚構」と「現実」をめぐる試論――


『MIYUKOLOGIE』第25号、1997年

うそはほんとによく似てる
ほんとはうそによく似てる
うそとほんとは
双生児
うそはほんととよくまざる
ほんとはうそとよくまざる
うそとほんとは
化合物

うその中にうそを探すな
ほんとの中にうそを探せ
ほんとの中にほんとを探すな
うその中にほんとを探せ
(谷川俊太郎「うそとほんと」)

詩人・谷川俊太郎は中島みゆきにとって「言葉の師」ともいうべき重要な存在でありつづけてきた。そのことを示す多くのエピソードの中で、今ここでまず思い出してみたいのは、冒頭に引用した谷川の詩をめぐる二人のやりとりである。

谷川との対談の中で中島みゆきは「うそとほんと」について、「あそこまで言われちゃうと、私、ナンにもやることないんだけどさ」と言い、谷川は後に『中島みゆき全歌集』に寄せた解説の中で、「それは私の書いたものをほめてくれているというよりは、彼女自身の書き方、歌い方、ひいては人間観を語っているようで興味深かった」とコメントしている(1)。そして谷川は、やはり中島みゆきとの対談の中で、アルバム「生きていてもいいですか」に収録されている「うらみ・ます」をめぐって、次のようななやりとり(2)をしていたことを思い出す。

谷川 「あれ、本当に泣いてたの?」
中島 「おしえてあげないの。」
谷川 「そのへんは、自分の意識のなかでは分けてたんですか。これは本当に泣いてるわけじゃない、というふうに。」
中島 「おしえてあげないの。」
谷川 「じゃ、本気なんだ。泣きたくはなかったの?」
中島 「おしえてあげない。」
谷川 「だけど泣かずにはうたえなかったわけですか。」
中島 「おしえてあげない。」
谷川 「ありがとう。おしえてくれなくて。あなたの歌みたいにすてきな答えかただね。」

このやりとりを思い出しながら谷川は、次のように述べている。

うそとほんとが分かちがたく溶け合っている心とからだの一番奥深いところ、歌はそこに根を下ろしている。……泣きながら歌う中島みゆきの声はあまりにも私的だ。実際に彼女は特定の誰かをうらんでいて、その感情をまっすぐに歌っているのだと私たちは思いこむ。だが、同時に私たちはそれが演技なのではないかとも疑う。しかしそういういわば、うそかほんとかという二元論で語ることのできるのは、せいぜいが作者にまつわるゴシップくらいのもので、歌はそこからはみ出していく。(3)

この谷川の言葉にはあまりコメントを付け加える必要もないだろう。これは、中島みゆきの表現の方法論つまり「書き方、歌い方」をめぐる多くの議論が、あまりにもしばしば「うそかほんとかという二元論」に因われてその枠を出ることができなかった限界を見事に超えている。

そうした二元論の背景には、中島みゆきの活動の初期(一九七〇年代後半)が、いわゆる「私小説フォーク」の全盛期と重なっていたために、ともすれば中島みゆき作品もそれらと同一視され、作品を私的体験の反映とする方法論に沿って解釈されがちであったという事情もある。しかし、中島みゆきの作品や歌い方自体に、「うそかほんとか」という問いを呼び起こす要因がしばしば内在していたことも、やはり否定できないだろう。

近松の虚実皮膜論などを持ち出すまでもなく、一般に芸術表現における「虚構」と「現実」との関係をめぐっては、これまできわめて多くの議論がなされてきた。が、本稿で考察したいのは、そうした狭い意味での表現の方法論の問題ではない。

中島みゆきが――主にその作品を通して――われわれに呈示してくる「世界」のありかた、いわば中島みゆきのコスモロジー(宇宙論、世界観)について、ここでは考えてみたいのである。それは、中島みゆきについてしばしば語られる思想性や社会性という点にも大きく関わってくる。本稿ではこのような視角から、中島みゆきのコスモロジーについて、「うそとほんと」あるいは「虚構」と「現実」という軸を用いて――例によって未整理な「試論」の域を出ないままではあるが――考えてみたい。

唐突だが、「仮想(ヴァーチャル)」という言葉が現代社会の様々な現象を語るためのキーワードとしてしばしば用いられるようになったのは、ここ数年の現象であるように思われる。その背景にはいうまでもなくコンピュータやデジタル技術の急速な発達・普及があり、それらを利用したパソコン通信やインターネット上の「仮想社会」の出現、あるいは(リアルな3Dグラフィックスを用いた)コンピュータ・ゲームのブームがある。

ここで注目したいのは、このキーワードを用いてマス・メディア上でなされる「識者のコメント」の類の大半が、(最近神戸で起こったあの事件での例を思い出すまでもなく)「仮想」という言葉をもっぱらネガティブに意味づけているという点である。いわく、「仮想世界にのめりこむあまり、仮想と現実との区別がつかなくなった」「現実の世界の人間や生命に対する感受性を失った」というふうに。(そしてこうした見方の源流には、いうまでもなくあのかつての宮崎勤事件の際にマス・メディアを席巻した「オタク」叩きの言説がある。)

そうしたコメントのステレオタイプ性を批判すること、ましてやそうしたコメントのきっかけとなった社会的事件について論評することは本稿の目的から外れるが、ここで唯一指摘しておかなければならないのは、それらが「仮想」と「現実」という二元論をあまりにも素朴に前提としているという点である。つまり、そうしたコメントをする「識者」にとっては、自分自身はあくまで「現実世界」の住人であり、そのリアリティ(確からしさ・本当らしさ)は疑いのないものである。それに対して、コンピュータやゲームあるいはビデオやアニメの中に構築される「仮想世界」は、(かれらにとっての)「現実世界」とは無関係な単なるまがい物あるいは「遊び」の世界にすぎない。しかしそうした見方の背景には、実は「現実世界」のリアリティが「仮想世界」によって侵食されることへの敵意、ひいてはそのことによって、「仮想世界」に対する「現実世界」の至高性が崩壊していくことへの恐怖さえもが見えかくれすると言えば、うがちすぎた見方だろうか(4)

そして(またしても唐突だが)、とりわけマスメディアの一部にいまだに根強く存在する「中島みゆき=暗い歌うたい」という偏見の底にも、同質の敵意や恐怖が存在するのではないかというのが筆者の考えである。中島みゆきの作品に一般的な意味で「暗い」歌が比較的多いことは、たしかに事実であろう。が、かれらの敵意や恐怖は、実はそれらの歌が「暗い」こと自体に向けられているのではない(実際、たとえば演歌の歌詞がいかに暗くとも、演歌にマスメディアの敵意が向けられることはない)。敵意は、中島みゆきの「暗い」歌が、かれらの住む「明るい」世界のリアリティ(それ自体が虚構のものであることはいうまでもないが)を侵食しかねないことにこそ向けられているのである。中島みゆきの「暗い」歌が、そうした既存のリアリティを打ち崩す力をはらんでいることに、かれらは直感的に気づいているのかもしれない。こうした対立関係の根底にあるのは、やや大げさに言えば、二つの世界観のあいだの対立であると言ってもよい(5)

中島みゆきの構築する世界と、(とりわけコンピュータによって構築される)「仮想世界」との共通性を指摘したのは、情報人類学者の奥野卓司である。奥野は著書『パソコン少年のコスモロジー』で、いわゆる「パソコン少年」たちとつきあってみた結果、なぜかかれらの中に中島みゆきのファンが多いことに気づいたという。

「パソコン少年はネクラだから、共通の影をもつ中島みゆきが好きなのだろうか。ぼくには、そうは思えない」と、まずステレオタイプな解釈を否定した後、奥野はパソコン少年が中島みゆきを好む理由について、次のような仮説を立てている。(なお、奥野が本書を出版したのは一九九〇年、現在のようにヴァーチャル・リアリティや仮想世界という言葉が一般化するよりも少し前のことである。)

恋人と別れた女性が、同姓の友人に電話して恋人との楽しい話を聞かせる。もちろん、嘘である。が、実は友人に電話しているということ自体が嘘で、女性はひとりで電話するふりをしているにすぎない。自分自身をだまして、自分の嘘の世界のなかに生きている。中島みゆきの歌の多くは、おおよそこのような仕組みでできている。
パソコン少年が、中島みゆきにひかれるのは、ネクラだからではなくて、実はこの仕組みゆえではないだろうか。後述するように、パソコンのなかには、一般に嘘といわれる世界、仮構の世界がある。が、それを嘘の世界のことと突き放さないで、そのなかで自分を遊ばせる。自分の嘘に自分がだまされてみる。つまり、共犯で仮構世界を構築していく。そのメディアが、中島みゆきではたいてい電話であるのだが、パソコン少年の場合は、それがパソコンというだけなのである。(6)

この前半部分の、中島みゆきにおける「嘘」のとらえ方(ここで奥野が念頭に置いているのは、おそらく「悪女」「元気ですか」といった作品の歌詞なのであろう)は、ここだけをみれば表現の方法論の問題に限定されており、先述の谷川俊太郎の(「うそとほんと」をめぐる)コメントをそのままこれに対する批判として対置することも可能かもしれない。また、中島みゆきが「仮構世界を構築していく」ためのメディアが存在するとすればそれは、歌詞の小道具の一つにすぎない「電話」というよりも、むしろ歌あるいは言葉そのものだというのが、おそらくはより正確な見方であろう(言うまでもなく、ここでは「メディア」という言葉をあえて拡大解釈しているのだが)。

しかしこの奥野の仮説で何よりも重要なのは、後半部分での「自分の嘘に自分がだまされてみる」ことによって「共犯で仮構世界を構築していく」という仕組みの指摘である。この仕組みは、実は(奥野は明示的には述べていないが)歌詞の表現の方法論やパソコンによる仮構世界の構築といった個別のレベルを超えた普遍性をもっている。あえて抽象的に言えば、われわれがなんらかのかたちで「世界」を解釈し、その「世界」の中に「自分」を位置づけ、さらにはその「世界」に対して「自分」がなんらかのしかたでかかわってゆこうとするときには、つねに(意識するとしないとに関わらず)この「共犯」関係が成立するのである。

事実、奥野は先の引用箇所の直後で次のように述べている。

 中島みゆきなら、こうした批評にも仕返しをするだろう。彼女に「世情」という歌がある。
『世の中はとても臆病な猫だから/他愛のない嘘をいつもついている/包帯のような嘘を見破ることで/学者は世間を見たような気になる』
少なくともぼくは、パソコン少年の嘘を見破ったつもりはない。パソコン少年の嘘とつき合い、嘘のおもちゃ箱をあけてその仮構世界をともにみてみたかっただけなのだ。(7)

ここで言及されている「嘘」は、明らかに表現の方法論のレベルを大きく超えて、「世の中」という「臆病な猫」がつく「他愛のない嘘」、つまり社会そのものを構築する「嘘」にまで普遍化されている。(念のために言えば、社会そのものを構築する「嘘」とは、「社会には多くの嘘がある」とか「嘘も方便」とかいう通俗的な意味ではなくて、われわれが自明視している「社会」の存在そのものが究極的にはひとつの虚構にすぎないという意味である。別の言い方をすれば、「裸の王様」が身にまとう華麗な衣装を幻視させるシステムこそ「社会」なのだ、と言ってもよい。)

そうした虚構としての「社会」を構築している様々な「嘘」を単に「見破る」こと、いわば「王様は裸だ」と叫ぶことが「学者」の役割だとすれば、奥野は(少なくとも「パソコン少年」に対しては)「学者」の役割を放棄する。「パソコン少年の嘘」とつき合い、かれらと「共犯」することによって、その「仮構世界」の構築に参加しようというのである。

では、中島みゆきの「嘘」あるいは「社会」に対するスタンスは、どのようなものなのだろうか。

「世情」で「シュプレヒコールの波」に参加するのは、「嘘」を見破る「学者」でも、「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる者たち」でもなく、「変わらない夢を流れに」求ようとする者たちである。求めるものを「嘘」と呼ぶか「夢」と呼ぶかは、単なる視点の違いにすぎない。だが、中島みゆき自身の共感は、ここでは明らかに「変わらない夢を流れに」求める者たちの側に寄せられている。

それはなぜなのだろうか。

先述の「共犯関係」の図式に戻れば、「だます自分」と「だまされてみる自分」との共犯関係の背後には、実はこの自分が「だまされている」と認識している第三の自分の視点が存在しなければならない(そうでなければ「仮構」と「現実」を区別する基準は存在しなくなる)。この客観的視点の存在こそが、「自分の嘘に自分がだまされてみる」という「仮構世界」の構築を可能にするのだといってもよい。

この第三の冷静な観察者、あるいは超越者の視点の存在こそが、中島みゆきの作品にその独特の「思想性」ないし「社会性」を賦与してきたのである(8)

ここで「思想性」と言うのは、山内亮史が次のように述べているのとほぼ同じ意味である。「この場合、思想的存在という意味は彼女をあるイデオロギー体系の表現者としてみることでは勿論ない。私の考える意味は、思想というのはもっと素朴に、『世界あるいは人間とは何であるのか、どうなることが望ましいのか、そのためにはなにを為すべきなのか』を考える営為を指している。」(9)

山内の言うこの素朴な思想的営為こそは、まさに最も一般化された形での「仮構世界」の構築にほかならない。なぜなら、「世界とは何であるのか」「どうなることが望ましいのか」という定義は、その世界に対する自己の視点の確立によって初めて可能になるのであり、そして自己は「なにを為すべきなのか」という定義は、その世界の中に自己を位置づけ客観視することによって初めて可能になるからである。この循環関係によって、「世界」と「自己」とは互いに意味ある存在となる。

ついでに言えば、歴史の中でしばしばみられたように、当初そうした素朴な思想として登場したものが、やがて硬直した「イデオロギー体系」へと変質していった過程は、まさにこの客観的視点が見失われ忘れられてゆく過程、すなわち「虚構」と「現実」とを区別する基準が失われてゆく過程であったともいえる。中島みゆきの「誰のせいでもない雨が」や「ローリング」には、日本の学生叛乱・学園闘争が辿ってきたそうした歴史へのアイロニカルな眼差しがある。

そうした歴史を経てなお、次のように歌う中島みゆきの視点は、やはり「世情」のときと同様に、あえて「自分の嘘に自分がだまされて」みようとする者たちと共にある。

嘘をつけ永遠のさよならのかわりに
やりきれない事実のかわりに

君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ
出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

この歌がわれわれに与える感動のポイントは、おそらくこの歌が二人称「君」への呼びかけによってのみ成立しているという点にある。というのも、「世界」と「自己」とを互いに意味ある存在として構築しようとする「素朴な思想的営為」は、(これはここまであえて伏せてきた点であるが)実は二人称=他者との出会い、他者への/他者からの呼びかけによって初めて可能になるものだからである。この他者とのかかわり合いこそは、「仮構世界」が「仮構」のままで自閉するか、それとも「現実」とかかわりあい「現実」を変容させうるかのキャスチングボートをも握っている。

それゆえ「永遠の嘘をついてくれ」という呼びかけは、「世界」と「自己」とが初めて発見され、この両者を互いに意味あらしめようとする営みがまさに始まった瞬間の新鮮な感動を、絶えず新たに思い起こさせるのである。

虚構も演技も、うそもほんとも、どうにかして他とかかわりたいという望みを捨てない人間の生み出した方法論かもしれない。(10)

そのようにしてわれわれは、中島みゆきの世界に、そしてわれわれ自身の世界に、これからもかかわってゆくのだろう。


(1) 谷川俊太郎「大好きな『私』」(『中島みゆき全歌集』、朝日新聞社、一九八六年)、二二一頁
(2) 対談「あたし以上に、あたしを好きな人」(『中島みゆきミラクル・アイランド』、創樹社、一九八三年、一九-二〇頁) なお興味深いのは、この有名なやりとりが、実はリアルタイムの対談ではなく、校正刷の段階で完成されたらしいという事実である。「おもしろいのは実際の対談中には、彼女はたしかもっとあいまいな答えかたをしていて、校正刷に手を入れる段階で「おしえてあげないの」という、十分計算されたことばが出てきたことだ」と谷川は述べている(前掲「大好きな『私』」、二二二頁)。だとすれば谷川の(これも見事な)「ありがとう。おしえてくれなくて」という返答も、校正刷の段階で書き込まれたのものなのだろうか。
(3) 前掲「大好きな『私』」、二二二頁
(4) 筆者の見方では、現代社会における「仮想」と「現実」との関係をめぐる問題の本質は、両者の境界が限りなくあいまいになり「仮想」と「現実」とが浸透しあうこと(いわば両者が「双生児」となり「化合物」となること)、そしてそのことによって「現実世界」のリアリティも変容していくという点にこそある(ただしこのことは、「仮想」と「現実」とが同一になるという意味では決してない)。この点について本格的にこれ以上議論することはこの場にふさわしくないので遠慮しておくが、具体例をひとつだけあげれば、パソコン通信の熱心な利用者であれば、コンピュータ・ネットワーク上の社会が決して(「現実社会」と無関係という意味での)単なる「仮想社会」などではまったくないということがご理解いただけるものと思う。オンライン(ネットワーク上)でのコミュニケーションは、オフライン・ミーティングなどを契機に、いわゆる「現実世界」でのコミュニケーションとも密接にからまりあってゆくのである。
(5) マスメディア(とりわけTV)でのそうした偏見の具体例については、たとえば恵々碼潤「暗い歌特集はなぜ、おもしろいのか」(『MIYUKOLOGIE』第十七号、一九九三年)などを参照されたい。なお、中島みゆきがマスメディアに対して一貫して批判的視点をもちつづけてきたことは、彼女自身の著作や発言も含めて、夙に知られているところである。マスメディアの問題については本稿では詳しく触れている余裕がないが、この批判的視点の根底には、マスメディアの作り出す「現実」への中島みゆきの徹底的な不信があることはいうまでもない。それが作品レベルで最も集約的に表現されたのが、一九九六年の夜会VOL.8「問う女」であったといえよう。
(6) 奥野卓司『パソコン少年のコスモロジー』筑摩書房、一九九〇年、二九頁
(7) 同
(8) この点については、やや異なった視点からではあるが、以前に本誌に寄せた拙稿「『異国』から『EAST ASIA』へ――中島みゆきにおける『故郷』の変容」(『MIYUKOLOGIE』第十七号、一九九三年)、「愛の逆説と世界への眼差し――呉・勢古論争、あるいは中島みゆきを『語ること』をめぐって」(『MIYUKOLOGIE』第十九号、一九九四年)などで詳しく述べた。
(9) 山内亮史「望郷の眼差しと義への情熱」(『中島みゆきの社会学』青弓社、一九八八年)、一二頁
(10) 前掲・谷川俊太郎「大好きな『私』」、二二四頁