『MIYUKOLOGIE』第20号、1994年
ぼくらが耳を傾けるさまざまな声のなかには、
いまや沈黙した声のこだまが混じってはいないか?
(ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」)
昨年の「夜会VOL.5―花の色は……―」(以下、「夜会VOL.5」と略)が上演されていた頃から、「夜会は六年目で終わり」というまことしやかな噂がしばしば私のまわりでささやかれていた。しかしその不安を打ち消すかのように、最近のいくつかのインタビューのなかで中島みゆき自身が「夜会」は「十年計画」であるとはっきり表明したのを読み、ほっと胸をなでおろした人も多いのではないだろうか。いうまでもなく私もその一人であった。
昨年、「夜会VOL.5」について本誌に寄せた拙稿の中で書いたように、すでに「夜会」の記憶は「同時に私自身についての記憶として、今後も私の中から消えることはない」ものとなりつつある(1)。ただその私自身についての記憶は、厳密な意味で「記憶」と呼ぶにはまだあまりにも断片的で未完のままにとどまっている。なぜなら、「夜会」が私にくれたいくつかの問いは、まだ私自身にとっての答を見出せないまま、「夜会」が重ねた年数の分だけ、すでに私の中に降り積っているからである。もし噂どおり「夜会」がVOL.6で終わりを迎えていたとしたら、私は入試問題の半分も解けないまま試験官の終了の合図を聞かねばならなかった受験生のような気分に陥ったことだろう。
しかしそうした個人的な事情はさておき、「夜会」が十年計画として構想されていて、さらに全十回の中での大まかな構成も最初からできていたと中島みゆき自身が現在の時点ではっきり表明した(2)ことの意味は大きい。なぜなら、昨年の「夜会VOL.5」は「夜会」全体の前半のラストとして、今年の「夜会VOL.6―シャングリラ―」(以下、「シャングリラ」と略)は後半のスタートとしてそれぞれ位置づけられ、現在われわれは「夜会」のまさに折り返し点に立ち会っていることが明らかになったからである。中島みゆき自身も、「シャングリラ」が「折り返し地点からの第一歩」であることを肯定しているし(3)、「夜会」のステージを毎年観続けてきた人であれば、今年の「シャングリラ」が内容的にもひとつの大きな転換点を迎えた作品であるということは容易に納得していただけるのではないかと思う。
その点も含めて、以下この文章では、これまで「夜会」が辿ってきた歴史とその意義とを、「折り返し点」としての現在の時点から、いささか未整理なままではあるが、振り返ってみることにしたい。またその際、しばしば私の個人史的な思いにひきつけたかたちで振り返らざるをえないこともお許し願いたい(4)。その意味ではこの文章は客観的な「夜会」史というよりは、私の「夜会」史に近い。いかなる物語もその語り手の視点でしか語ることはできないのだから、と言い訳をしながら……
一
中島みゆきが「夜会」という「言葉の実験劇場」を開始した意図の根底には、最近のインタビューでの彼女自身の言葉を借りれば、「歌を自由にしてやりたい」という衝動が存在した。すなわち、自らの作品を、アルバムの中での位置づけなどからくる固定された意味から解放し、異なるシチュエーションの中に置き直してみることによって、作品を「『こういう意味でしょ』っていうピッタリ縛られた評価の中から解放してやりたい」(5)ということである。「演劇的」な手法をはじめ、それを実現するためのシアターコクーンという空間、午後八時という開演時刻、あるいはアレンジ・歌詞・歌い方の変更……等々は、すべてこの衝動を実現するための手段に過ぎなかったといえる。「言葉を表現するためだったら、邪道と言われようが何だろうが、やれることはみんなやったっていいんじゃないかと。最終的なところは言葉ね。演劇が最終目標なわけじゃない」(6)のである。
こうした「言葉」の「意味」への中島みゆきの強いこだわりの背後には、われわれ聴き手とのあいだの「一対一」の関係への強いこだわりが存在する。「私はステージ、ライヴってものは最初から1対1として成立するものだと思ってるから。たとえば3000人の客を相手にしても、1×3000じゃないんですよ、1×1が3000あるだけです。……私の場合、伝えるってことじゃなくて、交信して、そこからお互い何かを得るってことだと思う。こっちから発信するだけじゃなくて、それによって向こうからも返ってきて、交信することが肝心なの」(7)ということである。思い出してみれば、「私の声が聞こえますか」と問いかけながら彼女がわれわれの前に現われた時からずっと、この交信への意志こそは、彼女がわれわれに歌いかける理由でありつづけてきた。つねに自己の既存の成果に安住せず、新たな表現形式を求め続ける前のめりのラディカリズムもまた、この交信を既成の回路の中だけに限定された硬直したものにすることを避け、より自由な、開かれたものとするためにこそとられた姿勢だったといえよう。
従って、「歌を自由にしてやりたい」という衝動は、いうまでもなく「夜会」の開始以前から中島みゆきの中に強く存在していた。ただそれは、コンサートツアーという定型化された表現形式の中では、必ずしも満足のいくかたちでは実現されえなかった。「それをコンサートでやろうとしたこともあったんです、ツアーの時に。ところが、お客さんはアルバムに入っていたあの曲のあのイントロが出たら、立って拍手しようと楽しみに待ってくれてる。……そういう一般的な常識があったなかで、アレンジを変えてアルバムに入っているのと違う歌い方、意味合いが違うような歌い方、熱があったのを冷めた歌い方にしたら、やる気がないと取られたり、何をしようとしているのかわからない、ついて行けないっていうブーイングがものすごく多かったんです。……そのままツアーを十何年やってて、いつか切り離さなきゃならない時期が来るだろうと思ってたの。やるならどっちも徹底的にやりたいし、と。」(8)
この、「十何年」ものあいだある意味では抑圧され、ある意味では暖められてきた衝動をついに実現することのできる場を見出した喜びを、中島みゆきはまさに「夜会1989」のステージで表明し、その後もしばしば率直に語っている(9)。が、しかしその喜びと裏腹に、「夜会」が「もしかしたら一回でポシャるかもしれない」「三年持てばいい方」という大きな不安が当初には存在したこともまた、彼女は隠そうとしない。事実、「1回目の時は大混乱」で、「アンケート用紙にもかなり混乱した意見が目につきました」と語っている(10)。
しかしながらこの一年目の「夜会」の内容については、私はほとんど語る資格がない。なぜなら、まったく個人的な事情のため、私はこの公演に足を運ぶことができなかったからである。これは私にとって人生最大の痛恨事のひとつであり、友人・知人からその舞台の話を聞くたびに悔しい思いをしてきたものだが、今更どうなるものでもあるまい。周知のとおり、「夜会1989」はビデオソフトもシナリオ本も発売されていないので(11)、この記念すべき「夜会」の出発点について、私は語るための資料をほとんどもたないのである。従って、私の「夜会」史はいきなり空白の頁から始まることになる。
ただ、友人・知人の話を聞く限り、「夜会1989」のラストシーンの演出は、「十二月」のエンディングで、真っ赤なドレスを着た中島みゆきが奈落へとダイビングするという衝撃的なものであったという。「会場を出る客の足取りは重かった」という当時の新聞評は、この最初の「夜会」の観客が受けた衝撃と混乱とを物語っているといえよう。ところで、中島みゆき自身のいくつかの発言から推して、「夜会」にはその当初から「新たな(日本の)女性像の呈示」というライトモチーフが存在したことは明らかである。だとすれば、「夜会」は「古き女性像の死」で始まったといえるのではないだろうか。「何万人の女たちが私は違うと思いながら」十二月には「同じと気がついてしまう」、無意識のうちに強制されつづけてきた古き女性像の死。そして二年目の「夜会1990」から昨年の「夜会VOL.5」までの四年間は、「夜会1989」で死んだ女性の自己再生と自己再発見の旅だったのではないだろうか。(もっとも、この「死と再生」というモチーフは、個々の「夜会」のストーリーの中でもまた繰り返し変奏され再現されることになるのだが。)
こう考えてくると、中島みゆきの作品史をアルバムに沿って見たときの、「生きていてもいいですか」での死と「臨月」での再生というパターンが再び繰り返されているように見えるのも興味深い(12)。ただ「夜会」においてはやはり、その出発点にいきなり「死」がおかれたことの意味を重視する必要があろう。それはまた、アルバムとコンサートツアーと(ついでに言えば、「オールナイト・ニッポン」でのDJと)いう形式に閉じ込められてきた、古き「中島みゆき」像の死をも意味したのかもしれない。
二
二年目の「夜会1990」には、幸いにして私は足を運ぶことができた。現在の時点から振り返ってみると、この公演はいくつかの点で、現在の演劇的スタイルが確立される前段階の過渡的な作品として位置づけられるといえよう。「過渡的」というのは、演劇的スタイルの萌芽がすでに至るところに認められるということである。中島みゆきはこの公演のテーマを「女のアイデンティティー」と規定し、パンフレットの巻頭では次のようにストーリーの概略を語っていた。
女は恋と一緒に、アイデンティティーまでをも失ってしまうものらしい。
やけっぱちな夜を送り
子供に戻ってしまいたい夜を送り
装いを凝らす夜を送り……。
こんどこそ こんどこそと自分を肯定してくれるものを求めて
肩をいからせ 奮闘しては疲れてゆく女たち。
彼女たちが 本当に見つけたかったものは何処に……?
舞台は、船の甲板に置かれた三脚のデッキチェアから始まった。アイデンティティーの再発見、すなわち自己の再生の船旅への出発である。「夜会1989」ではラスト(アンコール)に歌われた「二隻の舟」が、今回は冒頭で歌われる。前者では、「古き女」の死を見据え乗り越えようとする意志を示すかのように、決然とした調子で歌われたのとは対照的に、後者では、「新たな女」への旅の始まりの不安と期待とに震える心を示すかのように、きわめて繊細な歌声で。
「夜会1990」での多くの注目すべき演出の中でも私にとって最も印象深かったのは、「子供に戻ってしまいたい夜」の場面、すなわち、中島みゆきが胎児の姿勢をとり、スモークと逆光の効果で「胎内回帰」(13)を演出した「月の赤ん坊」の場面である。このとき舞台上空に浮び上がったクレーターもあらわな巨大な月は、恐怖に近い感情を呼び起こした(LD/ビデオソフトでは、この月がほとんど再現されていないのは残念であるが)(14)。
この「胎内回帰」が、自己の「再生」への転換点を意味していることはすでに明らかだろう。(ちなみに、「月の赤ん坊」は公演時間のなかでもほぼ中間点に置かれていた。)しかしその「再生」を経て、「本当に見つけたかった」アイデンティティーが最終的に何処にあったのかは、具体的には示されないまま、「夜会1990」は幕を閉じた。ラスト曲「ふたりは」でバンドメンバーは舞台の下に隠れ、中島みゆきと二人のコーラスだけが衣装を変えて舞台に登場する(これは、翌年の「夜会VOL.3―邯鄲―」以降の上演形態の前触れといえよう)。「コーラス二人は一般市民というものの持つ、いやらしさ→弱さ→仕方なく流されていく→哀れさ→本当は心のなかに誰にだってある愛→春の精へと変わってゆきます。」(15)「誰からも聞こえない胸の奥のため息」を「私」に聞かせ、「緑為す春の夜」に「ふたり」をめぐりあわせる「春の精」に、「一般市民」がどうすれば変容することができるのか。「私」はどうすれば「春の精」に、そして「あなた」にめぐりあうことができるのか。それらの問いは、彼女たちが舞台から去った時、われわれ観客一人一人の心へとゆだねられたのだ。
さあ これから先は あなたも旅を……。
「夜会1990」のパンフレットの冒頭の言葉は、そう締めくくられている。ここから、中島みゆきと私との、またわれわれとの、新たな交信の旅は始まったのである。
三
翌一九九一年の「夜会VOL.3―邯鄲―」(以下、「邯鄲」と略)が、現在まで続いている「夜会」の演劇的スタイルの出発点を画したことは誰の目にも明らかであろう。そして一九九二年の「夜会VOL.4―金環触―」(以下、「金環触」と略)、一九九三年の「夜会VOL.5」とあわせて、この三作は色々な意味で三部作を構成するものと見ることができる。前述の「死」と「再生」というモチーフが、この三作においても――さらには一九九四年の「シャングリラ」においても――それぞれのかたちで再現されていることは、本誌の読者には改めてくだくだしく説明する必要もないと思われる。
しかしそれよりもさらに注意を惹くのは、中国あるいは日本の古い説話・神話・物語がこの三作のストーリーの素材として用いられた点である。このことはもちろん、近年の中島みゆきに顕著な「アジア」への志向の一環をなすものとも見ることができ(16)、それは「シャングリラ」にも形を変えて続いているといえる。しかしそれ以上に重要なのは、この三部作が単なる現代に舞台を借りた古典の再現などではなく、素材となった「物語」を歴史的・社会的文脈の中でもたされてきた意味から解放し、中島みゆき自身の視点から批判的に再解釈したという点である。そこには、自身の作品を固定された解釈・評価から解放し「自由にしてやる」という意図と重なって、われわれにとって自明であった古来の「物語」をも、その固定された解釈の自明性から解放してやろうという意志が明確に存在するのである。それは、やや一般化して言えば、われわれ日本人・アジア人が自明視してきた文化的遺産の批判的再解釈とさえ言えるかもしれない。
「邯鄲の夢枕」の力は、「望みなんか持ってもむなしいものだ」と夢を諦めさせることなどではなく、「その人間の奥底にある本音」、すなわち「本当の願い」を解き明かすことなのだということ。アマテラスが天の岩戸から再び姿を現わすのは、最終的にタヂカラヲの腕力によって引きずり出されるのではなく、あくまでウズメのおおらかなコミュニケーションの力によってであるということ。そして、「雨月物語」の宮木が、死んだ後もなお夫・勝四郎を待ちつづけたのは、儒教的家族思想に基づく美徳として讃えられるためなどではなく、いかに「美談」の主人公になったところで、それは決して「待ち人に逢う」ことの代わりにはならないのだということ。
言葉にしてみれば簡単であるが、こうした「物語」の再解釈のために、「夜会」三部作はいずれも「物語の物語」ともいうべき複雑な多重構造をもつことになった。「邯鄲」では、何重もの「夢のまた夢」という入れ子構造の物語が語られ、われわれ観客は、「夜会」の舞台さえもが一場の夢であったかのような不思議な思いを抱いて、会場を後にした。「金環触」では、白衣の天体観測者が物語の語り部として登場するが、彼女もまた物語の単なる第三者・客観的観察者ではありえず、雷に撃たれて倒れアマテラスに死を悼まれる、物語の一登場人物となる。これは、「物語の客観的観察者」という近代主義的な視点自体がひとつの虚構でしかありえないことを示しているのかもしれない。また、前半では中島みゆきがアマテラス、コーラス二人がウズメを演じ、後半ではそのキャストが逆になるという転換も、われわれ観客の誰もが、時には悲しみに心を閉ざすアマテラスに、時にはその心を開くウズメになりうるということを示唆していたようにも思われる。
そしてこの多重構造は、「夜会VOL.5」ではさらに複雑なかたちをとった。「待ち死んだ」宮木の亡霊は、まず現代の日本のカフェテラスを背景に、四人の「待つ」女たちに姿を変え、春・冬・秋・夏の四つの風景の中で自らの物語を変奏していく。しかし、「伝説の中に封じ込められ」、叶えられなかった彼女たちの思いは、後半では「己れの意志の向かうところに存在する」時間泥棒へと再び化身する。(もっともこの時間泥棒は、「金環触」の天体観測者と同様、物語の語り部という役割をも同時に担っているのだが。)そしてこれらの物語全体が、さらに「花の色は……」の詠み人小野小町の、「伝説の中にはいない本人」を探す旅として位置づけられる(17)という、いわば三重の入れ子構造がかたちづくられているのである。「夜会VOL.5」の場合、事前に公演案内などでわれわれに知らされていた実質的なテーマは「待つこと」だけであり、「邯鄲」や「金環触」のように素材となるストーリーが前もって提示されることはなかった。「雨月物語」が「夜会VOL.5」の背後の重要なモチーフとなっていることは、(夏の場面で歌われる「雨月の使者」のみならず、)何よりも時間泥棒が「愛よりも」の歌詞に替えて激しく語る(「銀河は秋を告げ……」で始まる、あの素晴らしい)台詞の内容を十分に吟味して初めて、察知しうることであった。ましてや、サブタイトルと直結しているはずの、小野小町の本人探しの旅というテーマは裏の裏に隠され、ほとんどシナリオ本の出版をまって初めて明らかにされたと言っても過言ではないのである。
中島みゆき自身、ここまで複雑な構造をもつに至った「夜会VOL.5」を振り返って「頭使い過ぎてショートしちゃった」(18)とやや自嘲的に語っているが、そこまで「頭を使う」作業が、単なる「構成の妙」、あるいは思考パズルの自己目的のためになされたのではないということは、彼女に代わってつけくわえておく必要があろう。その作業は、「物語」というものがそれを語る視点によって、またそれが語られる枠組によって、いかに多様な意味を帯びるものであるかということを如実に示すためにこそ、言い替えると「物語」を「自由にしてやる」ためにこそ、なされたのである。
多くの「言葉」によって織り成される「物語」は、それが語られる様々な歴史的・社会的枠組の中で、しばしば強い抑圧性・イデオロギー性を帯びたものとなりかねない。ときには「夢は虚しいものだ」と人々を説き伏せる説話となり、ときにはナショナリズムの起源を正統化する神話となり、またときには「耐えて待ち死んだ」女を「烈女」として讃える美談となる、というふうに。そのイデオロギー性を批判し解体するための唯一の拠り所は、それらの「伝説」に口出しできないその「本人」の思い、「夜会VOL.5」でいえば「宮木の個人としての迷いや孤絶」(19)である。ただ、それを発見するのは、いうほど易しいことではない。なぜなら、「伝説・説話・美談・訓話といったものの中には、その語り手の目的のために都合の良い人形が、目に見える行動をとることだけが必要なのであって、その主人公の個人的な思いのゆくえなど、握りつぶされてしまう」(20)からである。従ってその主人公たちの思いは、多様な視点・枠組のなかで「物語」が語り直されることによって生まれてくる多様な意味の乱反射の中で、一瞬の輝きとして析出する結晶として、見出されるほかはないのである。「邯鄲」では舞台の背面の巨大な扉が開かれ、シャンデリアの輝く部屋がかいま見えた瞬間、「金環触」では「DIAMOND CAGE」の祝祭的な興奮の後に、まばゆい光が客席を照らし出した瞬間、そして「夜会VOL.5」では時間泥棒が登って行く階段の上方に巨大な月が現われた瞬間こそ、そうした結晶の瞬間だったのではないだろうか。
唐突だが、かなり以前から私は中島みゆきについて考えるとき、今世紀前半のドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンのいくつかの言葉を時折思い出していた。もとより本稿はベンヤミンについて語るべき場所ではないし、第一私自身、彼についてまともに「語れる」ほどの知識があるわけでもない。ドイツ観念論、ユダヤ神秘思想、西欧マルクス主義、そしてフランスのシュールレアリスムといったきわめて多様な源泉をもつ彼の芸術理論について語るには、少なくとも一冊の本を書くことが必要であろう。にもかかわらず私がここであえてベンヤミンの名前を持ち出すのは、彼の(おそらくは、ナチス・ドイツからの亡命に失敗しての自殺とみられる)死の直前の絶筆となった、「歴史の概念について」と題された一連のテーゼが、近年の中島みゆきの作品、とりわけ「物語の物語」というべき「夜会」三部作を考えるときに多くのヒントを提供してくれるように思われるからである。たとえば、本稿の冒頭に引用した一節を含むテーゼのなかで、ベンヤミンは次のように述べている。
過去という本にはひそかな索引が付されていて、その索引は過去の解放を指示している。じじつ、かつてのひとたちの周囲にあった空気の、ひとすじのいぶきは、ぼくら自身に触れてきてはいないか? ぼくらが耳を傾けるさまざまな声のなかには、いまや沈黙した声のこだまが混じってはいないか? ……もしそうだとすれば、かつての諸世代とぼくらの世代とのあいだには、ひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。ぼくらには、ぼくらに先行したあらゆる世代にひとしく、〈かすか〉ながらもメシア的な能力が付与されているが、過去はこの能力に期待している。(21)
ここで「過去」を「物語」に、「かつての諸世代」を「物語の主人公」に置き換えてみれば、私の言いたいことが理解していただけるだろうか。「物語Geschichte」も「歴史Geschichte」も、つねにその語り手に都合よく語られるものであることに変わりはない。「歴史」とは典型的には「勝者の歴史」であり、「敗者の歴史」が語られることは少なかった。だがベンヤミンが語ろうとするのは「敗者の歴史」であり、叶えられなかった過去の人々の夢はいかにすれば救済されうるのか、ということである。
「邯鄲」の盧生少年も、クリスマス・イブに恋に破れたOLも、「金環触」のアマテラスも、白衣の天体観測者も、「夜会VOL.5」の四人の女たち(宮木)も、小野小町も、そうした意味ですべて「夢破れた者たち」であった。そしてその彼女たちと彼らは、われわれ自身の中にも存在している。その意味で、われわれ自身の叶えられなかった過去の夢を救済できるのは、やはりわれわれ自身だけなのである。「返される愛は無くても」なお愛することこそ「本当の願い」だということに気づいたとしても、その願いはいかなる未来に結びつくというのか。対象を欠いた愛は、結局は虚しいものに過ぎないのではないか。「打てる限りの信号を打ち続け」「泣いて終わらないで」と訴えたところで、岩戸の陰に隠れたアマテラスが再び姿を現わすかどうか。「待つこと」をやめ「逢いに出かけた」ところで、待ち人に必ずめぐり逢えるのかどうか。それらの問いは、「夜会1990」のときと同様に、結局はわれわれの心にゆだねられたままである。それが、「夜会」が中島みゆきとわれわれとの「交信」であるということの意味なのだ。
四
この原稿を書いている一九九四年十二月六日現在、「夜会」の折り返し後の第一作となる「シャングリラ」はまだ楽日を迎えていない。それゆえ、「シャングリラ」について結論めいたことはまだいえないが、とりあえず現在の時点で指摘できることを二、三述べて、本稿を締めくくりたい。
「シャングリラ」では、昨年までの三部作とは異なり、古典に材をとるのではなくオリジナルのストーリーが用いられている。その意味で、「物語の物語」としての多重構造はここにはみられない。しかし、それとは別の意味で、「物語を語る視点」という問題についての中島みゆきの強いこだわりが「シャングリラ」には現われているように思われる。というのも、「シャングリラ」ほど、ストーリーについて多様な、それも互いに矛盾した解釈を許容するような舞台は珍しいと思われるからである。事実、私の参加しているパソコン通信ネットワークでも、そのストーリーの解釈については議論が百出し、いまだ収拾がつかないほどなのである。だとすれば、むしろその多様性、矛盾の許容自体が狙いだったと考える方が、むしろすっきりするのではないか、というのが私の考えである。
ある一つの「事実」(であるはずのもの)が、それを語る立場の違いによって、いかに多様な、時には矛盾さえした「語られ方」をするかということ。これは、「夜会VOL.5」での時間泥棒の台詞「正確な伝説は他人が記さなくてはなりません」「もちあげるのも他人の都合なら……突き落とすのも、他人の都合」を思い出すまでもなく、前述のとおりまさに「夜会VOL.5」全体のテーマであった。さらに最近、忠臣蔵伝説を再解釈した映画「四十七人の刺客」に寄せたエッセイのなかで中島みゆきは、「復讐劇」が「復讐する側」の視点によって「美談」に仕上げられることを批判している(22)。(私はこのエッセイが「シャングリラ」のストーリーのひとつのヒントになったのではないかと想像する。)
ストーリーを構成する三人の中心人物のうち、メイの義母だけがすでにこの世にいない。「死人に口無し」ではないが、彼女だけが自分について「正確な伝説」を語ることができないのである。美(メイ)が語る物語の中では、彼女の義母は美齢(メイリン)への憎しみに燃え、美齢の語る物語の中では、自分は親友と我が子への愛のために身を投げ出したことになっている。どちらの物語のどの部分が真実なのか、それは観客の想像に委ねられたままである。
もちろん、ストーリーの一応の結末としては、美の憎しみは美齢の愛によって否定され、子を思う母の愛が肯定されて終わることになっている。しかしそれで、美の物語が100%誤謬で、美齢の物語が100%真実だったということには必ずしもならないのもまたたしかなのである。その割り切れなさを、美齢の愛の真実を曇らせるものだととるか、それともむしろそうした不純な部分をも踏まえ乗り越えてこそ、美齢の愛の真実が際立つのだととるかも基本的には自由だろう。(私自身の感じ方は後者に近いが……)ただ、そうして残された割り切れない部分、不純な部分が、復讐劇に必然的に存在する二つの視点、二つの物語(「復讐する側」と「復讐される側」)のあいだの矛盾とせめぎあいから生じたものであることだけは確かだろう。メイの復讐が誤謬として否定されることよりもむしろ、この矛盾こそは、事前に予告されていた「復讐の虚しさ」というテーマの本当の意味だったのかもしれない。
ただ、こうした微妙な問題点をはらむとはいえ、「シャングリラ」が昨年までの三部作に比べればシンプルで「わかりやすい」作品となったのは、前記のような物語の構造上、当然のこととも言える。しかしながらその「わかりやすさ」の代償というべきか、三部作のような強烈なメッセージ性が薄れたかのような印象を最初に受けたのもたしかである。それはおそらくは、美の「復讐心」「憎しみ」というネガティブな感情が、ストーリーを主導する力として働いていることにもよるのだろう。しかし、「復讐の虚しさ」というテーマはどちらかといえば表面的なものであり、より本質的なテーマは「長い時の流れを越える人の思いの深さ・強さ」といったところにあるのではないかと現在は考えている。その深く強い思いは、愛というポジティブな方向にではなく、憎しみ(あるいは嫉妬)というネガティブな方向に向かうこともある。そのネガティブな面を徹底的に追求することによって、逆説的にその裏面としてのポジティブな面を最終的に浮かび上がらせること、言い替えると、愛による憎しみの救済、さらに言い替えれば未来による過去の救済こそ、「シャングリラ」の本当のテーマといえるのかもしれない。
「本当の愛」を見つける「シャングリラ探しの旅」は、われわれの心に潜むそのヤヌスを臆せず見据えることができたときに、ようやく始まるのだろう。叶えられなかった過去の夢をも道連れにしながら。
注
(1) 吉田純「月の光が肩に冷たい夜には―夜会VOL.5をめぐる断想―」 (『MIYUKOLOGIE』第十八号)、二四頁。
(4) 従って本稿は、もとより「夜会」論などという大それたものではありようがない。ただ、いつかは書かれるべき「夜会」論のための予備的なヒントのいくつかでもせめて提供できれば、というささやかな思いはある。また、各年の「夜会」の内容については、本誌の読者には周知のことと思われるので解説は省略する。必要に応じて、中島みゆき自身による三冊のシナリオ本『夜会Vol.3 KAN-TAN』『夜会Vol.4 金環触』『夜会Vol.5 花の色はうつりにけりな』(角川書店)、落合真司『中島みゆき観測日記』『中島みゆき・夢見の技法』(青弓社)、あるいは本誌のバックナンバーに掲載された各年の「夜会」の内容紹介などを参照されたい。なお、上記の三冊のシナリオ本は、特に注を記した箇所以外でも、本稿の中でしばしば参照している。ただし、中島みゆき自身によるシナリオも、厳密に言えば「夜会」の解釈の可能性のひとつに過ぎないのであって、それに縛られることはかえって中島みゆきとわれわれとの自由な「交信」を妨げることになるという点は、注意しておかなければならない。(7) 中島みゆき「スピリチュアル・メッセージ[伝説の彼方へ]」、『月刊カドカワ』一九九一年十一月号、三十一頁。なお、同様の趣旨の発言を、中島みゆきは(ライヴでの語りを含めて)しばしばおこなっている。なお、この「一対一の関係」という点については、拙稿「愛の逆説と世界への眼差し―呉・勢古論争、あるいは中島みゆきを『語ること』をめぐって―」 (『MIYUKOLOGIE』第十九号、一九九四年)をご参照いただければ幸いである。(9) たとえば、中島みゆき「『夜会』こぼればなし(1)(2)」(『愛が好きですII』新潮文庫)。なお、本文でも触れているように、残念ながら私は「夜会1989」の舞台を観ていない。従って、その舞台に関する記述はすべて友人・知人から聞いた内容に基づいたものである。(11) 唯一の例外は、一九九四年一月十一日のNHK-BS II 「もっとみゆきと深い仲」第二回で放映された、「二隻の舟」の場面である。この「夜会」のテーマ曲が中島みゆきの作品系列全体の中で占める位置、あるいは「夜会」の各公演での使われ方という問題はきわめて興味深いテーマであるが、これについては稿を改めて論じる必要があろう。また「夜会1989」のシナリオに関して言えば、公演に接した人の話を聞く限り、シナリオらしいシナリオは存在しなかったようである。(12) この点については、拙稿「『異国』から『EAST ASIA』へ―中島みゆきにおける『故郷』の変容―」 (『MIYUKOLOGIE』第一七号、一九九三年)も参照されたい。(14) 「夜会VOL.5」のLDではラストシーンの巨大な月が美しく再現されていることを考えると、この欠点はますます際立ってくる。全般に「夜会」のLD/ビデオソフトの映像作品としての完成度は、「1990」「邯鄲」においてはかなり低く、「金環触」では(問題はいくつかあるものの)一定の進歩を示し、「夜会VOL.5」に至ってようやく納得しうるレベルに達したといえよう。なお、中島みゆき作品における「月」の意味については落合真司『中島みゆき観測日記』(前掲)を、またとくに「夜会VOL.5」での月の意味については前掲拙稿「月の光が肩に冷たい夜には―夜会VOL.5をめぐる断想―」を参照されたい。しかしこのテーマもまた、さらに稿を改めて論じるべき魅力的なテーマであろう。