中島美雪の3人の師――藤の花咲く頃に――

 

藤女子大学 キノルド資料館

中島みゆきの母校、藤女子大学を、私はこれまで2回訪れている――「訪れている」といっても、正式に意を通じて訪問したという意味ではなく、単なる観光客・部外者としてキャンパス内を暫時散策したということに過ぎないが。

1回目は、もう四半世紀も前の1992年7月、パソコン通信でのみゆきファン仲間2人とともに北海道へ――今でいうところの――「聖地巡礼」に出かけたときのことである。札幌では、都心に近い南三条交差点から、北十三条のコーヒーハウス「ミルク」などを経て、北十六条にある藤女子大学へと足を運んだ。

赤い屋根とタマネギ形の尖塔が趣き深い木造三階建ての校舎「キノルド記念館」が、キャンパス外からもよく見えた。正門脇の受付のシスター姿の女性に「古い西洋建築に興味があるので、キャンパスを見学さていただけませんか」と――今から思えば少々わざとらしい理由で――許可を得て、「みゆきさんもこのキャンパスを歩いたんだなぁ」などと3人でたわいのない会話をしながら、美しい木漏れ日の下、キノルド記念館の側まで歩を進めた。

このキノルド記念館は1925年に建築され、札幌藤高等女学校の校舎として使われたのち、戦後の1961年からは文学部の校舎として使用されていた。だから、中島美雪もこの校舎で学んでいたことは間違いない。

ちなみに「キノルド」という名は、藤女子大学の設立者であるカトリック札幌教区初代教区長ヴェンセスラウス・キノルド司教に由来している。

残念ながらこの校舎は老朽化のため2001年に解体され、2003年、その外観の一部を再現して「キノルド資料館」へと改築された。この記事のトップの写真がそれである (以上の記述は、藤女子大学「キノルド資料館」のページ等による)

私が2回目に藤女子大学を訪れたのは、一昨年2016年9月にコーヒーハウス「ミルク」を訪問する途上でのことだった。この日は日曜のためキャンパスはほぼ無人で、上述の「キノルド資料館」の周囲を含め、キャンパス内をゆっくり散策することができた。四半世紀前と較べるとずいぶん新しい建物が増え、近代化された印象があった。

――さて、例によって前置きが長くなってしまったが、この記事では、中島美雪が1970年4月から1974年3月まで、藤女子大学文学部国文学科での4年間の学生時代に師事した (であろう) 3人の師について書くことにしたい。

基本的には公開されている情報に基づいているが、部分的に私の個人的な記憶に頼ったり、さらには自由に想像をめぐらせた箇所もあることはご了解願いたい。また、参照した資料の多くは、古くからの中島みゆきファン仲間のかたがたから提供していただいたものである。ひとりひとりお名前を記すことはできないが、ここに謝意を表したい。


家郷隆文氏――宗教的寛容と自律

「家郷先生お元気でしょうか!」――かつて「中島みゆきのオールナイトニッポン」で、藤女子大の学生つまり後輩からの葉書の中にその名があり、彼女が思わず懐かしそうにそうコメントしていたことを、よく覚えている。

家郷隆文氏は、中島美雪が所属するクラスの「担任」を4年間務めている。大学での「クラス担任」、それもひとりの教員が4年間担任を務めるという制度は――私の知る範囲では――かなり珍しいように思う。それだけに、氏は彼女にとって学生時代の記憶に強く結びついた存在だったのだろう。

家郷氏は1930年、浄土真宗本願寺派の隆王寺 (北海道、現岩見沢市) の住職の長男として生まれ、1956年に北海道大学大学院文学研究科を修了、1959年に藤女子大学に着任した。その後――後述するように――1984年に龍谷大学に異動したのち、1998年に定年退職、2013年9月16日に逝去している (藤女子大学『広報 藤』No.57 2014年)

著書『百人一首・その隠された主題―テキストとしての内的構造―』(櫻風社 1989年) などからみて、専攻は日本中世文学であったと思われる。

「いわゆる「秀歌撰」、秀歌百首の素朴な堆積としてみる見方、とは別の角度から、首尾一貫した、一つの主題をもつ「百首歌」としてみる見方」を提示し、「『百人一首』を、一つの完結した意味世界を構築する構造体として捉える」 (29頁) という同書のテーマも興味深いのだが、かなり専門的な内容と思われるので、ここではそれに代えて、短い文章を紹介したい。

それは、家郷氏が1984年、藤女子大学から龍谷大学に異動したとき、龍谷大学宗教部報『りゅうこく』34号 (1984年6月) に寄せた「私と宗教 これまでとこれから」という一文である。

その冒頭近くに、「中島美雪は、昭和49年3月国文学科を卒業、4年間私の担当クラスの一人でした」とある。が、個人的により興味をひかれるのは、氏の藤女子大学への着任時の面接の様子について書かれた、次のような一節である――

僧籍をもち現職の副住職である身分、いわば「異教徒」の聖職者であることが障りになるのではないかと、私自身少なからず気にしておりました。面接時にそのことを再確認しましたら、当時の学長H修道女は、「お西のお坊さまならば、ぜひお願いしたい」と申されました。「でもよい」ではなくて、「ならばぜひ」という文脈なのです。この一言が以後25年間の私の、教職者としての行動すべてを完全に拘束してしまうことになります。

――この後、H修道女自身も富山の西本願寺門徒の信仰厳しい家に生まれたという来歴や、財物の私有がほとんど許されないという修道女たちの厳しい規律、そして「このような他律的な掟が私自身の場合にはないということは、掟が定められてある以上に、自律的な自己規制が厳しく要請されてくる」という述懐へと展開して、文章は閉じられる。

私がこのエピソードに強く興味をひかれたのは、藤女子大学という環境がもつ――カトリックの修道女たち自身の厳しい規律と表裏一体ともいうべき――「宗教的寛容と自律」を端的に示唆しているように思われたからである。「異教徒」への寛容と、それゆえの自律。

藤女子大学中庭のマリア像

中島みゆきと宗教――というのはあまりにも大きすぎ、かつセンシティブなテーマなので――ここでそれを本格的に論じることはとてもできない。ただ、たとえば夜会『今晩屋』で物語の骨格をなしている――「十二天」に象徴される――仏教的世界観の壮大さ、そしてそこからもたされる転生と救済のイメージの力強い包容力の少なくともひとつの源泉は、彼女が学生時代に享受したであろう「宗教的寛容と自律」にあったのではないか、とあえて想像してみたくもなるのだ。


藪禎子氏――品格と健全な批判精神

藪禎子氏の名が中島みゆき関係の資料に登場するのは、私が知る限りでは、『ラジオマガジン』1983年10月号の「中島みゆき青春の軌跡」という特集においてのみである。この記事は――現在では掲載困難かとも思われる――彼女の少女時代から学生時代にかけての種々のプライベートなエピソードに触れているのだが、その資料のひとつとして、中島美雪が提出した「昭和48年度卒業論文題目」の写真が掲載されている。そこには、彼女の手書き文字による次のような記載が読み取れる。

昭和48年5月11日提出
学生氏名 中島美雪  担任氏名 家郷隆文
題目   現代詩 ――谷川俊太郎――

摘要  おだやかな変化を見せる谷川俊太郎のいくつかの作品群
その生命観の推察と 音の聞き取り
谷川俊太郎の「今」 そして 今の谷川俊太郎
その他 谷川俊太郎にみる 現代詩の現代性

指導者(希望) 藪 禎子

中島美雪が谷川俊太郎に私淑するに至った経緯は――「谷川俊太郎とプロテストソング(2)~中島みゆきにデビューのチャンスを辞退させた詩「私が歌う理由」」という音楽サイトの記事などにも書かれているとおり――ファンのあいだではよく知られたエピソードなので、ここでは省略しよう。

ただ各種資料によると、彼女が最終的に提出した卒論のタイトルは「現代詩 ――谷川俊太郎と日本語――」となっているので、サブタイトルに「日本語」というキーワードが追加されたという事実は、注目してよいことかもしれない。

その卒業論文を指導した (であろう) 藪禎子氏は、1930年、北海道・芦別に生まれ、1960年3月に北海道大学大学院文学研究科博士課程を単位修得中退、同年4月に藤女子短期大学国文科専任講師に着任した。その後、文学部国文学科専任講師などを経て、1973年――ちょうど中島美雪が上記の卒業論文題目を提出した年――教授に昇任し、1996年に退職、2008年10月26日に逝去している (以上は、遺作と思われる著書『野上彌生子 (女性作家評伝シリーズ3) 』(新典社 2009年) による)。専攻は日本近代文学である。

藪氏は定年退職後の1997年以降、北海道の地域誌『月間クオリティ』にエッセイを連載しており、それらは没後、『十字路 女の視角』(2009年 くま文庫 全4巻)にまとめられている。

その第1巻の巻頭に、「リラの花咲く頃」と題したエッセイが収録されている。

家ごとにリラの花咲き
札幌の人は楽しく生きてあるらし

この吉井勇の短歌を冒頭に、リラの花の咲き香る五月への想い、そして「人と自然の和み」を日々の生活の中に感じさせる札幌という街への想いが、詩情豊かに綴られる。

中島みゆきの「リラの花咲く頃」を収録したアルバム『常夜灯』がリリースされたのは2012年である。「馴染みなき異郷」にありつつ「時が来れば花は香る」と、リラの花に託して遥かな祖国への想いを歌うこの歌は、もしかしたら亡き恩師へのオマージュでもあったのではないか――と想像をふくらませたくもなる。

『十字路 女の視角』は、そのように札幌の街角の風景を――時にはその無秩序な都市化を憂いながら――描く一方で、政治情勢や経済問題といった世情への、きわめて率直かつ辛辣な批判をつらねている点も興味深い。それも、その種の言説がともすれば囚われがちなイデオロギー的磁場の歪みを感じさせることがまったくなく、むしろ健全な生活感覚と現実感覚に根ざした批判になっていることが心地よい。

総じて、近代文学研究者らしい品格ある言葉の運び、そして健全な批判精神から世界を見つめるまなざしが印象的なエッセイ群である。こうした美質はやはり、中島みゆきの言語的世界にも遥かに共鳴するものを感じさせる。


青木正次氏――言語表現への飽くなき探求

「大学の頃、とってもおもしろい雨月物語の解釈をする先生がいた」と、中島みゆきは何かのラジオ番組で語っていたという――これは私自身の記憶ではなく、かつてのパソコン通信のログでの友人の書き込みからの引用である。

この「先生」が青木正次氏である。藤女子大学の機関リポジトリを検索すると、青木氏は1973年から1978年まで5回にわたって、『藤女子大学・藤女子短期大学紀要』に「「雨月物語」:その闇と光」と題した論文を連載している。その第1回は中島美雪が4年のときであり、この連載はおそらく、それまでの講義内容をベースとしているものと思われる。

青木正次氏は、1935年横浜に生まれ、1965年に東京大学大学院人文科学研究科を中退したのち、藤女子大学助教授・教授を経て2006年に定年退職、2008年12月9日、海外 (タイ) でロッククライミング中の転落事故により逝去している (はてなダイアリー等)

専攻は日本近世文学であるが、上述のリポジトリに収録されている論文のタイトルをみると、たとえば「プロト・タイプ論 : 自己表出の史的段階像」と題した連載では『楚辞』『荘子』『論語』に、プラトン『国家』やソポクレス『オイティプス王』など東西の古典が縦横に論じられ、その一方で、森鴎外『高瀬舟』についての論文もある。

研究者データベース researchmapの「研究キーワード」欄――研究者自身が入力する項目――には、「自己表出史」「日本文学表現史」「言語表現を含む<表現>一般」とあるので、おそらく青木氏の学問的営為は、時代と洋の東西とを超えて、およそ言語による「表現」の可能性そのものへの飽くなき探求に導かれていたのではないか、と思われる。

そのような探求のひとつの結実が『雨月物語』全訳注 (1981年 講談社学術文庫 全2巻) である。一般的な古典への訳注の域を大きく超え、この異界の物語の言語的世界の奥の奥、裏の裏までを抉り出そうとするかのような、詳細で丹念な語注や考釈の迫力に圧倒される。

中島みゆきは、夜会VOL.5『花の色は…』のシナリオ本 (1994年 角川書店) で、師のこの労作を参考文献として明記している。夜会の多くの演目の中でも、とりわけ複雑な構造をもったこの作品には、そのような恩師の言語表現への飽くなき探求が反映されているのだ。

その反映のひとつひとつをここで取り上げることはとてもできないので、象徴的な一例だけを挙げよう。

第5場「時間泥棒」の終盤、「逢うを待つ」ことから「逢いに行く」ことへの、重大かつ劇的な転換点、「愛よりも」の伴奏に乗って、椅子――「待つ」ことの象徴――に片足をかけた時間泥棒が決意と確信とをこめて語り始める長台詞――

銀河は秋を告げ、冬を待ち、春を迎えて
旅人は、わすれ草にからめとられ
宵待ち草は、萱原に埋もれても

逢おうがための約束ならば
『逢ふを待つ間に恋ひ死』にに死んでなど、なるものか。

――この冒頭の5行だけで6箇所の語文注釈を中島みゆきはつけている。そのうち5箇所が『雨月物語』の「浅茅が宿」からの引用であり、それらの注釈には、青木氏による語注がほぼ正確に反映されている。

なかでもとりわけ重要なのが、上記引用の5行目、『逢ふを待つ間に恋ひ死』にに……と、二重鍵括弧で「浅茅が宿」からの引用が強調されている箇所である。ここへの中島みゆき自身の注釈を――少々長くなるが――みてみよう (上掲シナリオ本 178頁)

「逢を待間に恋 (ひ) 死なんは人しらぬ恨みなるべし」 (「浅茅が宿」) をさす。宮木のこの言葉は、「人知れず逢ふをまつ間に恋ひ死なば何に代へたる命とかいはむ」 (『後拾遺』巻11・平兼盛) を基にして、「人知れず」を「人知れぬ」に変えることによって、恋い死にをしようとも相手は知りようもないという隔絶を表わし、また「死なば」を「死なんは」に変えることによって、仮定ではなく死ぬことそのものに直接的にかかわっていることを表わしている。

――後拾遺集の平兼盛の元歌からの差異によって上田秋成が際立たせ、青木氏が抉り出した、宮木の絶対的な孤独と隔絶、そして死の現実性。それらの闇を踏まえてこそ、『逢ふを待つ間に恋ひ死』ぬことへの明確な拒絶、「荒野を越えて、銀河を越えて」「逢いに行く」ことへの決意という、中島みゆきがこの夜会の結末にこめたメッセージの光は、より鮮やかなコントラストをなして際立つのだ。


藤の花咲く頃に

上述の家郷隆文氏の「私と宗教 これまでとこれから」には、藤女子大学の「創立当時の現在地一帯は、まだ人家まばらな石狩平野の一角、あたりに野生の藤の花が咲いていたところから、学園名を「藤」と名づけ」たという一文がある。

この5月は、リラとともに、藤の開花する季節でもある。

――少々マニアックな内容になってしまったかもしれないが、中島美雪が3人の師から学んだものについて、上記のようにあれこれと想像を巡らしてみると、現在の中島みゆきの作品世界がもつ、途方もない深みと広がりとに、改めて瞠目させられる思いがする。

藤の花咲く頃は、そうした想像を巡らすのにふさわしい季節なのかもしれない――


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