昨年末の『一会』年内最終公演のレポート以来、またしても長らく開店休業状態が続いていたこのブログ――だが、その怠惰から私を覚醒させる不意の一撃ででもあるかのように、つい先日、私の30数年間にわたる中島みゆきファン歴の中でも真にエポックメイキングな出来事に遭遇した。そのことを書きたい。
9月上旬、札幌への出張の最終日の日曜、幸い少しだけ時間ができたので、当地にお住まいのFacebookの友達Uさんのお誘いで、コーヒーハウス「ミルク」を訪れた。
今から24年前、みゆきファンの友人二人と北海道へ、いわゆる「聖地巡礼」をしたときにも、この店の前までは行ったのだが、そのときはまだ開店前で、シャッターの前に立った私の間抜けな写真が残っている。
中島みゆきの熱心なファンのあいだでは、このコーヒーハウスは、「ミルク32」 (1978年のアルバム『愛していると云ってくれ』収録曲) の舞台のモデルとしてよく知られているだろう。マスターの前田重和さんは、学生時代、宮越陽一さん (札幌の喫茶店、宮越屋珈琲の現社長) 、そして中島美雪と3人でフォーク・グループを組み、音楽活動をしていたかたである。
この日は、営業時間 (14時開店) を前もって調査し、Uさんと15時に現地で待ち合わせることにした。定刻少し前に到着すると、お店はまだすいていて、マスターに「長年の中島みゆきさんのファンなので……」と正直に打ち明けると、学生時代当時のことをはじめとして、色々な興味深いお話をゆっくり伺うことができた。
それらの貴重なお話の中でも、とりわけ強く印象に残ったのは、中島みゆきは、40数年前のアマチュア時代からずっと変わることなく、心の奥底に直接に響くように、「あなたは、人は、社会はこのままでいいのか」という問いを鋭く突きつけてきた――ということ。
当時、「彼女の歌には社会性が足りない」などという批評もあったが、今から思えばそれはとんでもない的外れで、彼女ほど社会の本質を深く、鋭く捉えていた者はいなかった――というお話もあった。
前田さんご自身は、最近はあまり頻繁に彼女のライブに出かけるわけではないけれど、2,30年ほど前のコンサートで、学生時代と同様、中島みゆきと1対1で向き合っているかのように、その問いかけの迫力に圧倒され、客席にいながら、まるで飛行機が離陸するとき加速で座席に強く押し付けられるかのような圧迫感を感じた、と率直に語られた。
この店は、隣接する「スタジオ・ミルク」と連携しながら、北海道・札幌の若いミュージシャンたちの活動拠点ともなっていて、私たちがいるあいだも、重そうな機材や楽器をかかえた人たちが時折、訪れていた。
前田さんは、そうした若いミュージシャンたちを育てることで、学生時代に中島美雪から突きつけられた問いに今も答えようとしているのかもしれない。
私自身、今から36年前に彼女の存在を最初に意識した時以来、まだ記憶に新しい夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』、そしてスペシャルコンサート『一会』に至るまで、中島みゆきからは幾度も、そうした――直ちに応えることの困難な――自己や人間や社会についての根底的な問いかけを突きつけられてきた。それらの記憶が、今も私にとって、中島みゆきという存在がもつ意味の原点になっている。
――が、若き日の彼女を直接に知る前田さんの言葉で、改めてそれが彼女の変わらぬ姿勢であると証言されたことは、私にとってきわめて重く、その原点を鮮明に、新たな光の中に再発見させられる思いだった。1対1の関係の中で、中島みゆきから渡された問いというバトンを、未来へと引き継いでゆこうとする意志を――まるで中島みゆき自身の肉声で呼びかけられたかのように――これまでになく強く鼓舞される思いでもあった (Uさんも同じ思いだったと、後から聞いた)。
なお、少し補足しておくと、前田さんと私たちは、何も上記のようなシリアスで重い話ばかりをしていたわけではない。前田さん――そして、コーヒーハウスとスタジオを共同で切り盛りされている奥さんの彰子さんも、途中で話に加わっていただいたが――ご夫妻お二人とも、とても気さくで明るく、かつ穏やかな方々だった。
そういえば、中島みゆきの、あのシリアスな歌とコミカルなトークでバランスを取ろうとする独特のスタイルも、学生時代からまったく変わっていない――というのも、前田さんの貴重な証言のひとつであった。
私もUさんも、中島美雪がいつも坐っていたというカウンター席に坐らせてもらい、その頃から降り積もった時間が堆積しているこの空間の心地よさと懐かしさの中に、ひとときのあいだ身を委ねることができた。
――このような貴重な、まさに一期一会の機会をつくっていただいた前田さんご夫妻とUさんに心より感謝するとともに、いつか再びこの場所を訪れる時がめぐってくることを、強く願っている。
こんばんは。いい機会を持たれて羨ましい限りです。
拝読させて頂き、みゆきさんが3人のグループで歌っていたのは、何年間なのだろうか、又いつ頃なんだろうか、どんな曲を歌っていたのか、などなど興味が湧きます。
大学進学で札幌に出たのが、1970年4月。1972年1月にはソロで地区予選に出場。3人の活動期間は、大学1年2年の頃としたら、意外と短かかったんだなと。
人との繋がりを大切にされているようにお見受けするみゆきさんですが、こと音楽で接した人々に関しては客観的に対処されているように思えて仕方ありません。
学生時代に一緒に歌ったグループのメンバーからは、その後の交流の話題が漏れ伝わって来ません。そして、帯広時代のことと同様に、みゆきさん自身の口からも(曲を除いて)あまり話題が出てきません。
ミルクの話題から、ふと そんなことを感じました。
めんとれさん、コメントありがとうございます。
そう言われてみれば、グループの活動期間やレパートリーなど、当時の具体的なことはほとんどお聞きせず (というか、そうした質問自体を思いつかず)、もっぱら前田さんから見たみゆきさんの人物像についてのお話を伺うことに集中していました。
みゆきさんの藤女子大での学生時代は1970年4月から1974年3月までの4年間ですが、ちょうどその半ば、3年生の1972年にフォーク音楽祭全国大会に出場し、課題詞として提示された谷川俊太郎さんの「私が歌う理由」に大きな衝撃を受けた、という有名なエピソードがありますね。その前後の時系列については具体的にはお聞きしなかったのですが、お話のニュアンスでは、それ以降も札幌での3人の活動は続いていたような印象を受けました (次に訪問する機会があれば、確認してみます)。
一般論として、みゆきさんのアマチュア時代については (卒業後の帯広時代のことも含め)、ご指摘のとおり彼女自身があまり語っていませんし、ごく断片的な情報 (当時の少数の新聞記事など) しか手に入らないので、なかなかはっきりしたことを知るのは難しいですね。
ただ、「ミルク」が開店したのは、みゆきさんの卒業後の1974年9月のことで、「ミルク32」の歌詞から伺われるように、それ以降もずっと――おそらく現在に至るまで――前田さんとみゆきさんとのあいだには、若き日の仲間同士としての気の置けない信頼関係が続いていることが感じられました。そのことを確認できただけでも、この訪問は私にとって価値ある経験だったと思います。
追伸
このブログ記事によると、NHK北海道ローカルで2008年に放送された「北海道ひと物語」というドキュメンタリー番組に前田さんが出演し、1974年5月にみゆきさんや宮越さんが出演したライブのチケットを見せてくれた、ということです。
http://58447802.at.webry.info/200802/article_5.html
そうするとやはり、(必ずしもグループというかたちではなくても) 3人の音楽的つながりは、みゆきさんの卒業後も続いていたと言えそうですね。
ありがとうございます。紹介頂いた2008年の記事も参考になりました。
あるブログに、ミルクのマスターから聞いたことが書かれていました。
思い切ってマスターとみゆきさんが組んでいたバンド「壊れた蓄音機」の時代のこともうかがってみた。最初ボーカルは女性2名で始まったのだという。やがてみゆきさんだけになり、その活動期間は2年間ほどだった、ということがわかる。様々な有名バンドのコピーを演奏するバンドとして活動していた、とのこと。みゆきさんがオリジナルを披露するようになるのは、そのあとに研究会をするようになったときからだった。
http://blogs.yahoo.co.jp/m19520223/54588939.html
ところで、このブログの方をご存知でしょうか。
めんとれさん、追加情報ありがとうございます。このブログの著者は、内容から推察すると、放送当時のNHK札幌のスタッフ(ディレクター?)のかたのようですね。私は初見です。
この記述からすると、「壊れた蓄音機」として活動していたのはみゆきさんの学生時代前半の2年間ほどで、後半 (フォーク音楽祭出場以降) は、北大フォークソング研究会に参加する一方、ソロとしてオリジナル曲を歌うようになった、というような時系列が推測されますね。
前田さんのお話は、どちらかといえばその後半期の印象を中心に語っておられたのかもしれません。
なお、北大フォークソング研究会は現在も存続、活動しているようです。
http://hokudaifken.webcrow.jp/