『橋の下のアルカディア』劇場版を観て

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すでにライブで5回、BDでも数回は観ている夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』だが、奇しくもロードショー4日目に当たるこの日――2016年2月23日――に、どうしても劇場版で改めて観なおしてみたくなり、最寄りのMOVIX京都へと足を運んだ。

やはり大画面の迫力は素晴らしく、とりわけあの大詰めのシーン (第2幕第2場) では――高橋一曜を演じる宮川崇を含めた――4人のキャストそれぞれの全力の歌唱と演技、ミュージシャンたちのうねりと滾りに満ちた演奏、舞台装置と照明の美しいビジュアル、そしてそれらすべてが織りなすことによって具現される世界観の衝撃力の深さと激しさに、改めて圧倒されつくしてしまった。

この日、新たに気づかされたのは、「思い出す」ということのもつ意味について――

VOL.11『ウィンター・ガーデン』で〈転生〉というモチーフが前面に出てきて以来、夜会では、前生の記憶の再生ということが、しばしば物語の重要な転換点をなしてきた。しかし『橋の下のアルカディア』では、それに加えて、もっと近い――いわば〈今生〉の中での――記憶の再生ということもまた、重要な意味をもっている。

たとえば、「一夜草」から (2度目の) 「呑んだくれのラヴレター」にかけて、天音 (中村 中) が高橋忠 (宮川崇) から送られた何通もの手紙を読みながら、何か重要なことを思い出してゆく、劇的な表情の変化――そしてその直後、九曜 (石田匠) が天音から、忠の紙飛行機の手紙を見せられ、やはり何かを思い出したように店の奥に駆け込む場面――それらはいずれも、あのラストシーンの救済へと物語を導くための、重要なステップになっている。

思い出しかけてる 誰かが呼んでいる

「ペルシャ」のこの歌詞のように――あるいは昨年秋のNHK『SONGS』での中島みゆきの、「時の流れが落っことしていったものを、一番後ろから拾いながらトボトボと行く」という言葉のように――時の流れの中で忘れられ、捨てられかけた記憶の一片一片を拾い上げ、愛おしんでゆくこと。

そのようにして「思い出す」べき記憶とは、「人柱」「生け贄」として集団の犠牲になった者たちのことは言うまでもなく、それよりももっと些細な――またそれゆえに忘れられがちな――一人ひとりの無名の人間や生き物たち、あるいはそれらが存在していた町の記憶といったものまでをも含んでいる、とみるべきだろう。

そのような中島みゆきの視点こそが、あの橋の下の捨てられかけたシャッター街を、幸福な記憶に彩られた「アルカディア」として想起させ、現出させてくれるのだろうし、第2幕で、乱入してきたチンピラたちを店が動き出して追い払う、痛快かつユーモラスな「シャッター街は生きている」の場面もまた、そうした視点の反映であるように思う。

「橋」と「アルカディア」の意味

今更ながらだが、この夜会の題名でもあり、物語の舞台をも意味している、「橋 (の下)」と「アルカディア」という二つの言葉の意味について、改めてここで考えてみたい――なお、以下の考察は、Facebookでの友達のひとり、Hさんから投げかけられた問いへの答として考えた内容を、まとめ直したものである。貴重な問いを与えてくれたHさんに、この場を借りて謝意を表したい。

第1幕冒頭で、いきなり提示される「なぜ橋の下」という、物語の背景そのものへの問いかけ――その答を探ることから始めよう。

「橋の下」という場所の設定については、公式サイトに掲載されたインタビューで中島みゆき自身が明言していたように、最初の発想としては、「捨て子が捨てられる場所」という通俗的なイメージが出発点ではあったのだろう。

その上で――第1幕第2場の「人柱」でとりわけ強調されているとおり――「橋」には、いわば「個」の上位に存在し、君臨するものとしての集団、社会ないしは国家の象徴という意味が、明らかに付加されている。

ただ重要なのは、集団や社会から「捨てられた」者たちが暮らす場所、あるいはその暮らしの記憶に対して、理想郷を意味する「アルカディア」という言葉が、逆説的にも与えられていることだ。

そこで暮らしてきた者たちの「歴史」ともいうべき時間的な意味を、この言葉が含んでいることは、

優しいあなたの側にいて
すべての月日はアルカディア

という『呑んだくれのラヴレター』冒頭の歌詞でも表現されているとおりである。

この「アルカディア」は――「貧しいながらも幸福な生活」といった、やや通俗的なイメージも含んでいるのかもしれないが、おそらくそれ以上に――「優しいあなた」が側にいた懐かしい過去の時間が、いつの日か、「捨てられた」者たちが救済されるべき未来へとつながっていくという予感、あるいは希望を含んだ言葉でもあったのではないだろうか。

言うまでもなく、この予感ないし希望は、ラヴレターの送り主であった高橋忠の父、「脱走兵」高橋一曜が、格納庫の中に隠されていた零戦とともに登場し、3人を救済するラストシーンで成就されることになる。

過去への遡行から新たな未来の発見を経て、救済に至るという道筋は、これまでの多くの夜会――『2/2』『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』『今晩屋』――でもストーリーの根幹をなしていた。が、(以前の記事で書いたとおり) 『橋の下のアルカディア』では、その道筋が、近現代日本が辿った現実の歴史を背景として再提示されている点が、決定的に重要だ。

そのように考えてくると、「橋」のもつ意味もおそらくは大きな逆説を含んでいて、かつて「個」を「生け贄」として捨てた集団・社会あるいは国家が、いつか遠い未来には、「生け贄」を必要としないものへと変容していくことへの遥かな希望もまた、そこには含まれていたのではないか、と思われてくる。

あの零戦が――かつて人身が人柱に立てられた――「橋脚の根元」の格納庫に隠されていたことは、まさにその変容への希望を象徴しているのではないだろうか。

思い出してみれば、「橋」のもつそのような時間的イメージ――いわば「未来の救済への懸け橋」というイメージ――は、 (まだ記憶に新しい、コンサート『一会』でも歌われた) 初期の曲「友情」の

時代という名の諦めが
心という名の橋を呑み込んでゆくよ

というフレーズにも――ネガティブな文脈においてではあるが――すでに予示されていた。

「橋の下」に「アルカディア」が存在する (存在した) という設定は、上述のような意味で、常識的に考えれば、きわめて逆説的である。

しかし、「捨てられた」者たちこそが、新たな未来への希望を見出すという、その逆説こそは――かつて「人を殺す道具」として造られた零戦が、「捨てられた」3人を救済するという、もうひとつの大いなる逆説とも呼応しあいながら――この夜会が私たちに与える衝撃の根底に存在しているのではないだろうか。

『橋の下のアルカディア』は、まさにそのような意味で、忘れられ、捨てられかけた記憶の数々を「思い出す」ことによって、私たちを新たな未来へと導く物語なのだ。


「『橋の下のアルカディア』劇場版を観て」への3件のフィードバック

  1. 九曜(ガードマン)が暴走族のようなならずモノに追いかけられて、橋の下で逃げ回る場面が、いまひとつ、しっくりきません。なぜ、ガードマンの制服の上に汚れたジャケットを着ているのでしょうか?天音が脱がせようとすると、九曜は拒みます。あの場面はナニを意味するのでしょうか?

  2. オリーブさん、コメントありがとうございます。私自身、あの場面の解釈にはいまひとつ自信が持てないせいもあって、レスポンスが遅くなってすみません。
    あそこは、第1幕で九曜が銀行強盗をつかまえる場面と対になっていて、その仲間たちによるお礼参りという設定なのでしょうが、それにしても、ご指摘の汚れたジャケットなどの演出の意味は今までよくわかりませんでした。季節は「夏」のはずなので、その意味でも不思議ですね。
    ひとつの解釈としては、あの暴走族グループも橋の下の地下街の出身で、だからあの場所をよく知っていて、グループの何人かは九曜とも顔見知りだったのではないでしょうか (第1幕の銀行強盗犯人は別として)。九曜は、あの場面ではガードマンとしてではなく、かつての仲間(?)との争いの当事者であることにこだわって、ジャケットを脱がなかったのではないかと (やや苦しいですが)。
    その後、人見と天音が九曜をかばい、お店が動き出して暴走族たちを追い払う痛快な場面は、あの地下街が文字通りアンダーグラウンドな無法地帯ではなく、今でも自治自律の空間であることを表現しているような気がします。
    以上、あまりすっきりした解釈にはなっていませんが、今のところはこれぐらいでご勘弁ください。今年の再演で、両場面の意味がよりすっきりと理解できるようになることを期待しています。

  3. いつも自分の中でスッキリしない事柄がJUNさんの記事で、あぁそうだったのかもと目からウロコを落とさせて頂いております(感謝)
    今回の橋アル再では、風鈴に頭をぶつけるシーンでおりんを連想したので同じように感じた方が尊敬するJUNさんで嬉しかったのと近年の夜会の集大成的な事を言われていたのが
    個人的に2400、今晩屋、橋アルは陸・海・空の三部作的に見ていましたので共感。
    暴走族のシーンですが 天明の村の一族と暴走族の族をかけていたのかなと。。。
    村人vs公羊と暴走族vs九曜さんの動き演技動きに重なる部分があったような?
    守りたい気持ち=ガードマンの制服をよごれ仕事=よごれた上着で表しているのかな?
    と思いながら見ていました。
    橋アルとは別に2/2再々演のアオザイがピンクになった事、橋アル初のザル、橋アル再の花束
    2/2再々のザルを編むシーン、海に花束のシーンとなぜか2/2が気になっている今日この頃です。

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