ボブ・ディランと中島みゆき

 

「いつか、みゆきさんにも!」

2016年10月、ボブ・ディランへのノーベル文学賞授与のニュースが世界を駆け巡ったとき、私も含めて多くの中島みゆきファンが――いくらかは冗談交じりに、いくらかは真剣に――SNSでこのようにつぶやいた。それは、ファンどうしの、ごく素朴な意味での「連帯感」のようなものを感じさせるできごとでもあった。

そうした素朴な願望の当否について、ここで語ることはやめておこう。その代わりに、これを機に、ディランと中島みゆきとの関係について――いささか断片的にではあるが――いくつか思い出すことを綴っておきたい。

 

「賞」を与えること/受けること

授賞側のスウェーデン・アカデミーがなかなかディラン本人と連絡が取れず、選考委員長が「無礼で傲慢だ。でもそれが彼ってものだ」と苦言を呈したり (『朝日新聞』電子版 2016/10/22) 、その後、ようやくディランがアカデミーに受賞の意志を伝え、自らの沈黙について「ノーベル賞のニュースに言葉を失っていた」と語ったといったニュースが話題を呼んだ (同 10/29)

こうした紆余曲折は、かつて1960年代、カウンター・カルチャーの旗手として称揚された彼に、約半世紀を経て世界で最も権威ある賞が与えられるという事実がはらむ、一種の逆説を象徴しているようにも思えた。

 

――と同時に、中島みゆきファンのひとりとして連想するのは、次のようなエピソードだ。

彼女がデビュー直前の時期、ポピュラーソング・コンテストの主催者ヤマハに対して、音楽に賞を与えることの意義を問う手紙を書き、それに対して「賞が欲しいのなら出ないで下さい」という返事を受け取ったという。彼女はその言葉に納得し、出場を決意する (こすぎじゅんいち『魔女伝説』、1982、90-91頁)

このエピソードの事実関係については、上記『魔女伝説』にも異説が併記されており、また他の資料も少なく、詳細ははっきりしない。が、おそらく本質的なポイントは、「賞を与える/与えられる」という関係が、「与える」権威をもつ側と、「与えられる」側がその権威に依存することとの、いわば共依存の関係に陥ることへの明確な拒否――ということだろう。

「賞が欲しいのなら出ないで下さい」という返事を書いたのが、当時のヤマハのトップ川上源一氏本人だったのかどうかについても、明確な資料は存在しない。が、中島みゆき自身も何度か語っているように、彼女の才能を見出した川上氏と彼が率いるヤマハが、プロデビュー以降の彼女に、自由に創意を発揮しうる活動の場を提供してきたことは間違いない。その自由は、上述のような共依存からの自由を出発点としたものでもあったのだろう。

 

「多くのことがそこから始まった」世代

先月の記事「コーヒーハウス「ミルク」訪問記 」で、マスターの前田重和さんの言葉を通して少し触れた中島みゆきの学生時代について、珍しく彼女自身がシリアスに語っている小篇がある。「初めての書下ろし小説(ストーリイ)」と題して1986年に出版された『女歌』の中の一篇「もう一人のmiss M.」である。

8年ぶりに再会した札幌の旧友、中島みゆきの学生時代の音楽仲間のひとりで、当時は「とあるバンドのリーダーの女」との噂もあったという「M」との会話――

「……あたしは。男の影響でビートルズを歌ってたけど。あんたはボブ・ディラン歌ってたわよね」
「我ながら、あんなすさまじいジャパニーズイングリッシュでよく人前で歌えたもんだと思うわ。思い出すと赤面ものね」

いつも日本語のオリジナルしか歌わなかったという「M」が、唯一、ビートルズの Fool on the Hill を英語で歌っていたのと同じように、アマチュア時代の中島みゆきは、やはり多くのオリジナルに加えて、ボブ・ディランを英語で歌っていたようだ。

「中島みゆき研究所」のデータによれば、デビュー約1年前の1974年10月15日、北海道音更町でのコンサートの1曲目に「風に吹かれて」(Blowin’ in the Wind) を彼女は歌っている。

おそらくアマチュア時代としても例外的な、このカバーからもうかがわれるように、中島みゆきにとって――吉田拓郎をはじめ、その前後の世代の多くのフォーク・ロック系ミュージシャンたちと同様に――ディランがきわめて大きな存在だったことは間違いないだろう。

もし、あの時にボブ・ディランがいなかったら、と考える。
ボブ・ディランがいたから今日があるような気もする。
多くのことがそこから始まったと僕は思うのだ

吉田拓郎のこの談話 (『日本経済新聞』2016/10/14 など) は、おそらく中島みゆきも含めて、その世代の人々の共通の感慨でもあったのではないだろうか。

 

やはりディランから大きな影響を受けた「関西フォーク」の担い手のひとり大塚まさじは、「親戚が受賞したような喜び」と、より率直に自らの思いを語っている (『朝日新聞』大阪版 2016/10/14 朝刊)

その大塚まさじが率いたユニット、その名も「ザ・ディランII」の「男らしいってわかるかい」 (1972年のアルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』収録) は、ディランの I Shall Be Released の日本語カバーである。

この曲を中島みゆきが1980年頃、ラジオDJ番組 (おそらくMBSミュージックマガジン) で紹介し、それに強い印象を受けたことが、そもそも私が彼女とディランとの接点らしきものを知った最初のきっかけでもあった (その後も中島みゆきは、いくつかのラジオDJ番組で何度かこの曲をかけている)。

 

オマージュあるいは「本歌取り」

中島みゆきにおけるディランとの接点といえば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのが、1983年のアルバム『予感』に収録された「ばいばいどくおぶざべい」のことだろう。

オーティス・レディングが飛行機事故により26歳の若さで世を去る、そのわずか3日前に録音したという Dock of the Bay と並んで、ディランの Like a Rolling Stone が、同じくひらがな表記で、この曲の歌詞に登場する。

誰もおいらを覚えていないだろうな らいかろうりんすとうん

波止場に座り込み、船を眺めながら空しく時を過ごす男、帰る家を失くし「転がる石」のように落ちぶれた、かつての上流階級の女――それらの行き場のない思いは、自らの分身ともいうべきギターの弦を押さえる左手の力を奪われたロックシンガーの悲痛と共鳴しながら――いわば暗黙の曲中曲として――歌われる。

 

同じく『予感』の収録曲「誰のせいでもない雨が」には、ディランの A Hard Rain’s A-Gonna Fall「はげしい雨が降る」に触発されたと思われる一節がある。

1962年のキューバ危機を背景に、核戦争への怖れを歌ったともいわれるこの曲では、

Oh, what did you see, my blue-eyed son?
「何を見たんだい、青い目の息子よ」

という父親の問いかけに対して、

I saw a black branch with blood that kept drippin’
「黒い枝から血がしたたりつづけるのを見たよ」

と子どもが答える。

黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく

という「誰のせいでもない雨が」の一節は、明らかに上記のディランのフレーズの「本歌取り」の如きものである。

ただしこの曲では、したたり落ちる「雨」は、現在の危機への怖れというよりも、かつて「怒りもて石を握」り「罪を穿った」闘いの時代の記憶を容赦なく過去へと遠ざけてゆく時間の流れの暗喩とみるべきだろう。そのような幻滅感に満ちた時間感覚は、上述の「もう一人のmiss M.」で語られているものとも同質である。

 

もう1曲、より初期にさかのぼるが、1977年のサード・アルバム『あ・り・が・と・う』に収録されている 「勝手にしやがれ」にも、ディランの Don’t Think Twice, It’s All Right「くよくよするなよ」と呼応しあう一節がある。

And it ain’t no use in turing on your light, babe
I’m on the dark side of the road
「そう、明かりをつけるなんて無駄なことさ
俺は道の暗がりを歩いてゆくのだから」

部屋を出てゆくなら 明かり消していってよ
後ろ姿を見たくない

「明かり」とは、いま袂を分かとうとする二人が、それまで共有してきた記憶の比喩なのか――そんなふうに考えてくると、「勝手にしやがれ」は、「くよくよするなよ」で男性の視点から歌われた別れの情景を、女性の視点から歌い直した一種のオマージュとも呼べるような気がするのだ。

 

――もとより、私が知っているディランは、膨大な彼の作品世界のごくごく一部に過ぎない。したがって、中島みゆきにおける彼の作品からの反響――あるいは、彼女からのディランへのオマージュと言っても同じことだが――は、実は私が知らないだけで、まだまだ多く隠れているのかもしれない。

 

熱狂からの距離

日本とは大きく異なり、ミュージシャンにも政治的な旗幟を鮮明にすることが常に求められるアメリカ社会にあっては、今回のディランの受賞もまた、メディアの言説によって、今まさしく終盤を迎えつつある大統領選の政治的対立に巻き込まれつつあるようだ。

しかしそうした渦中にありながら、受賞発表後のライブでもディラン自身はそれについて一切コメントすることなく――MCさえもなく――「声と曲が強調される「歌が全て」という演出」で一貫していたという (「ボブ・ディラン氏、ノーベル賞の熱狂と距離」、日経電子版 2016/10/14)

上述のように、かつてカウンター・カルチャーの旗手として称揚されたこととは裏腹に、むしろ彼自身には、「基本的には特定の思想信条や政党に深入りすることにはずっと懐疑的な立場を取り続けてきた一面」があり、それゆえに音楽的にも、「政治色の強いフォークを離れ、ロック、ブルース、ゴスペルなどが入り交じる音楽に、旧約聖書の詩篇、シェイクスピアなどエリザベス朝文学から影響を受けた抽象的なモチーフを乗せる独自の様式を築き上げてきた」という指摘がある (上記記事)

 

――熱狂から距離を置こうとする、こうした冷静な態度に、中島みゆきが長年にわたって貫いてきたスタンスと共通するものを感じるのは、おそらく私だけではないだろう。

また、とりわけ夜会の世界の構築において、記紀万葉から近代に至る日本語と日本文学の広大な世界から多様なモチーフを引き出し、自在に織り成す彼女のスタイルにも、ディランの独自の様式と通じるものがあると言えるかもしれない。

しかしその一方で、間もなく再演がスタートする夜会『橋の下のアルカディア』、そしてまだ記憶に新しいコンサート『一会』などでは、明確にラディカルな政治的メッセージが打ち出されているではないか――そこには、現代のこの国の現実に対する、彼女の切迫した危機意識が反映しているのではないか――そのように感じる向きもあるかもしれない (私も、そうした感じ方自体を否定するつもりはない)。

が、むしろそうであればこそ、彼女はそれらのメッセージの意味を、私たちの頭越しに「解説」するような態度からは、ますます慎重な距離を取っているように私には見える。

前の記事で、「ミルク」のマスター前田さんの言葉に託して書いたように、自己や人間や社会についての中島みゆきの問いかけは、最初から一貫して、根底的なものでありつづけてきた。そして、その問いかけが根底的なものであればあるほど、それに答えようとする私たちは、いかなる権威からも熱狂からも、より自由でいなければならないだろう。

――そのような自由への希求こそは、中島みゆきがディランから受け継いだ多くのものの中でも、最も貴重なものだったのではないかと、私には思える。


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