『異界を旅する能』と夜会

夜会VOL.12「ウィンター・ガーデン」

「神話の解凍――「ウィンター・ガーデン」再考」で、「神話する身体」というエッセイを引用させていただいた能楽師・安田登氏の著書、『異界を旅する能――ワキという存在』 (ちくま文庫、2011年6月) を読んだ。

期待通り、とても興味深く、かつ刺激的な本だった。

「神話の解凍」でも書いたように、私は能――も含め日本の古典芸能一般――については、恥ずかしながらまったく不案内な人間である。その私にとって、この本はまず、「異界と出会う」物語としての能 (夢幻能) の世界への、わかりやすく、かつユニークな入門書として、とても勉強になった。

ユニークな、というのは、能それ自体 (演目や約束事など) についての解説にとどまらず、能の世界を、古今の日本文化の中に大きな広がりをもつものとしてとらえたうえで、現代の私たちにも「新たな生を生き直す」ためのヒントを呈示するという内容になっているからである。

その意味で、この本は、能をとおしてみた日本文化論として読むこともできる――とはいっても、これは決して堅苦しい内容の本ではない。わかりやすく軽妙な語り口で、かつ、思想的な「深み」をたたえた内容になっていて、そのバランス感覚が見事だ。

 

――さて、この本には 「能」的世界の表現者として、松尾芭蕉、夏目漱石、三島由紀夫なども登場するが、安田氏はさらに次のようにもいう。

人は異界と出会う物語を求めていて、それを提供する物語形式が実はたくさんあるということだ。
現代においてそれを継ぐのは、多分、村上春樹だったり、つげ義春だったりするのだろうが、彼ら以外にもそれこそあまりにたくさんい過ぎて、そんな話をしていると本題からどんどんそれてしまう……
(『異界と旅する能』 55-56頁)

――「彼ら以外」のひとりとして、ここで (「本題」からあえて外れて) 登場させたいのは、 (このブログのテーマ上) いうまでもなく、中島みゆきである。

『異界と旅する能』を読み、「能」という視点を通してみることで――『ウィンター・ガーデン』のみならず、他のいくつかの演目をも含めて――私は、夜会という舞台のもつ意味について、いくつもの新しい「発見」をさせられた。

念のために言っておけば、この本の中に、中島みゆきや夜会についての記述があるわけではまったくない。それらの「発見」は、あくまでも私の主観的な読み方によるものである。

この記事では、それらの「発見」――もしかしたら、中島みゆきと能の両方に詳しい人にとっては、言わずもがなのことばかりなのかもしれないが――について、思いつくままに綴ってみたい。

シテとワキ

まずは、本書の要点を簡単に紹介しておこう。

能の主要な登場人物にはシテとワキの二人がいる。シテを演じるのはシテ方という流儀に属する能楽師であり、かれらは一生シテを演じる。一方、ワキを演じるワキ方の能楽師は、一生ワキを演じる。

著者・安田登氏はワキ方の能楽師であり、ワキの視点から、ワキがシテと「出会う」物語としての能の世界を案内する。

ワキは漂泊する生者――典型的には、旅の僧――であり、ある「ところ」に通りがかった時に、異界の存在であるシテ――たとえば、源義経の亡霊や六条御息所の亡霊――と出会う。

ワキがシテと出会うことによって、「此岸」と「彼岸」が出会い、「順行する時間」と「遡行する時間」が交わりあう、聖なる時空がそこに現出する。

シテとは、その「ところ」に思いを残してこの世を去った霊魂である。その不可視の存在としてのシテの姿を観客に「分からせる」 (可視化する) のが、ワキの第一の役割である。

そして、ワキの第二の役割は、シテの「残根の思ひ」 (意識化されないトラウマ) を「分ける」 (分析する、分節化する) ことにより、その「成仏」 (昇華作業) を助けることである。

人は、このように「異界と出会う」ことによって、新たな生を生き直すことができる――

なお、上記のパターンに当てはまるのは、厳密には能の中でも「夢幻能」と呼ばれるジャンルであり、他に、現実世界を舞台に展開する「現在能」と呼ばれるジャンルもある。

「異界と出会う」物語

以上は、本書のごく「さわり」を紹介しただけであるが、中島みゆきの夜会の舞台に接し続けてきたファンの方なら、これだけでも、多くの「思い当たる節」があるのではないだろうか。

上記の夢幻能のパターンに最もぴったりあてはまるのは、やはり『ウィンター・ガーデン』だろう。

〈女〉 (ワキ) が、凍原の GLASSHOUSE という「ところ」で、〈犬〉 (シテ) と出会い、やがて〈犬〉の前生――氷の湖で命を落とした、かつての GLASSHOUSE の主人の愛人――が明らかにされる。終局において、〈犬〉の魂は、「天使の階段」を伝い昇り、救済される――

そういえば、『ウィンター・ガーデン』の初演 (VOL.11) のとき、この夜会は「夢幻能の約束事」に則っている、と指摘してくれた――今は亡き――友人がいる。今にしてようやく、私は彼の言葉の意味がよく理解できる。

しかし、「異界と出会う」ことを通じての救済の物語、というふうに夢幻能の枠組みをもう少し広く理解すると、最近の夜会の演目の大半がこのパターンに当てはまる、と言っても過言ではないことに気づく。

たとえば――

(今秋から再々演が上演される) 『2/2』 (初演 VOL.7) では、ヒロイン梨花は、海外旅行先のベトナムで、自らが生まれる前に世を去った双子の姉・茉莉と出会うことによって、自らの無意識の罪責感から解放される。

『24時着0時発』のヒロインあかりは、やはり海外旅行先のミラージュ・ホテル (=廃墟堰という異界) で、故郷への道を見失った〈鮭〉たちと出会い、やがて彼らとともに自らの生をも救済する。

そして、最近作『今晩屋』では、「此岸」と「彼岸」とが出会う「聖なる時空」――縁切寺と水底の水族館――で、転生し再会を果たした安寿・厨子王・母・姥竹に、前生の記憶が再生し、罪責と悔恨からの救済がなされる。

「無為」の旅人としてのワキ

こうしたプロットの外形上の類似は、おそらく単なる偶然ではない。

これらの夜会の登場人物たちは、いずれも安田氏がいうところの、「無為」の旅人としてのワキの条件を――期せずして――備えることになった存在であることに注意したい。

ワキが異界と出会うためには、まず「旅をする」必要がある。

それも、世を捨て、身を捨てて、自らを「無力」で「無用」な存在と思いなして、「無為」の旅をしなければならない。

「たび」の語源は「賜 (た) ぶ」だという説がある。道行く人に「もの賜べ」と、食事や宿を乞いながら旅をする。すなわち「乞う旅」、物乞いの旅だ。
(『異界を旅する能』86頁)

ベトナムで日本への帰路を絶たれ、その日の糧のために航空券を売り歩く梨花の姿 (「竹の歌」の場面) が、たちどころに思い浮かぶ。

しかし、これほど典型的ではなくとも、ミラージュ・ホテルからの帰路を絶たれたあかり、前生の記憶を失った〈元・画家のホームレス〉こと厨子王、そして GLASSHOUSE で不倫の恋人 (義兄) を無為に待ちつづける〈女〉は、いずれも、上記のような意味でのワキ的な存在者たちである。

「乞い」と「恋」

それゆえに、彼女たちは、つねに何かを、あるいは誰かを、「乞い」=「恋い」つづける者たちでもある。

「乞い」と「恋」が同源であることに、安田氏は注意を惹く。

「乞ふ」や「恋ふ」を英語で言えば「want」でも「need」でもなく、「beg」だろう。ただ何かがほしいのではなく、絶対必要なものが欠落している状態だ。
(同書 101頁)

――ここでただちに思い出されるのは、『ウィンター・ガーデン』の再演、VOL.12の終盤で、〈樹〉 (佐野登) が、義兄の視点で〈女〉に向けて朗読する詩篇、「乞 (こい) 」だ。

僕はもう、今までのようにはいかなくなったんだ
子どものためには、他人に頭を下げなきゃいけない時もある、ってわけさ
love の「恋」より beg の「乞い」が、人生には必要な時もある、ってやつかな
乞い願うなら、たとえば君に、「早く誰かを見つけて幸せに」ってことを乞い願う
……

ここで義兄が語る「乞い」は、表面上は「恋」とは別物の、もっと世俗的な「必要 (need)」を意味しているようにもみえる。

しかし決定的に重要なのは、この義兄の「乞」が、彼への「恋」のみによって自らの存在をつなぎとめてきた〈女〉にとって、その存在の根拠を根底から断ち切る――「絶対必要なものの欠落」をもたらす――言葉であったということだ。

その意味で、義兄の「乞」は〈女〉の「恋」と同値であり、この「乞」によって、〈女〉はより厳密な意味でのワキ的存在――「無為」の旅人――となる。

「思ひは同じ、恋路なれば」

「絶対必要なものの欠落」の対象は、恋人だけではない。「たとえば能では子もその対象だ」と、安田氏は指摘する。

……我が子を亡くした母親が、京の都から遠く東国の隅田川まで、狂乱しながら我が子を求めて旅する能は、名曲『隅田川 (角田川) 』だ。
…… (中略) ……
武蔵の国と下総の国の境に流れる隅田川は、『伊勢物語』で有名になった。都を追われて東国放浪の旅に出た在原業平が、隅田川原に群れ飛ぶ都鳥を見て、都に残してきた恋人を思い出し、
「名にし負はば いざ言とはむ都鳥 わが思ふ人は 有やなしやと」
という歌を詠んだ名所だ。
『隅田川』の狂女もその故事をふまえて謡う。

ワキ「昔にかへる業平も、
シテ「ありやなしやと言問ひしも、
ワキ「都の (に) 人を思ひ妻、
シテ「わらはも東に思ひ子の、行方を問ふは同じ心の、
ワキ「妻を忍び、
シテ「子を尋ぬるも、
ワキ「思ひは同じ、
シテ「恋路なれば、

ここでは「妻を忍ぶ」のも「子を尋ぬる」のも、「思ひ」はおなじであるといい、それを「恋路」だと結んでいる。
(『異界を旅する能』102-104頁、下線部は原文では傍点)

――長々と引用してきたのは、『隅田川』のこの同じくだりを、中島みゆきも、自らが編集した詩歌集『日本の恋歌 その3 涙が出ないのはなぜ』 (作品社、1985年) で――万葉集から現代のフォークやロックに至るまでの――古今東西の「恋歌」の中のひとつとして、選んでいたことが思い出されるからである。

おそらくは、『隅田川』の、とりわけこのくだりは、中島みゆきがごく若い頃から親しみ、傾倒してきた「恋歌」のひとつであったに違いない。

 

――そして、「我が子を亡くした母親の狂乱」といえば、夜会の最近作『今晩屋』、とりわけその終盤で〈母〉が歌う「ほうやれほ」である。

もちろん、『今晩屋』は「山椒大夫」を素材とした物語であり、『隅田川』と直接の関係はない。しかし、あの場面での〈母〉の限りない慟哭は、森鴎外の「山椒大夫」の結末に登場する母よりも、むしろ『隅田川』の狂女のそれに近い。

「ほうやれほ」で中島みゆきが歌い、演じるのは、子を攫われた自らの愚かさへの限りない自責と悔恨と絶望である。

しかし、その絶望の果てに、突然の啓示のように、「十二天」の救済の光が訪れる――

――〈女〉においても〈母〉においても、「思ひは同じ」である。

そして、何よりも重要なのは、彼女たちにとって、「絶対必要なものの欠落」こそが、逆説的にも、救済への道を開くということだ。

この逆説性の構造は――これ以上、詳説はしないが――『24時着0時発』にも『2/2』にも、はっきりと共通して存在するものである。

小野小町と夜会『花の色は…』

上記の『隅田川』の例でもわかるように、「絶対必要なものの欠落」を抱え、「恋し乞う道行き」を旅するのは、ワキではなくシテである場合もある (その場合のシテは死者ではなく生者である)

『隅田川』の狂女もそうだが、安田氏がその典型としてあげるのは、『卒都婆小町』『通小町』『関寺小町』など、いわゆる「小町もの」のシテ、小野小町である。

それは、容色美麗の象徴であり、華やかな恋愛遍歴を重ねた若き日の小町ではなく、容色も衰え乞食 (こつじき) となって諸国を放浪する、九十九歳の老婆となった小町である。

かつて小町に恋した男――百夜通えば思いを遂げることができるという約束を得て、彼女のもとに九十九夜まで通い詰めながら、あと一夜というところで煩悶の末に死んだ深草少将――の霊が、彼女には取り憑いている。

そんな少将の怨念を身内に宿し、物狂いとなりながらも、小町は放浪の旅を続ける――

小野小町といえば――もう18年も前の演目になってしまったが――夜会VOL.5『花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に』である。

中島みゆきは、夜会VOL.5のシナリオ本の冒頭 (扉の次、目次よりも前) で、この夜会のタイトルとなった小野小町の歌について、長い〈語文注釈〉を書いている。

それによれば、この夜会は、数々の伝説に包まれた小野小町の「伝説の中にはいない本人」を探す旅の歌枕として、舞台は『雨月物語』の中の一篇、「浅茅が宿」 の姿を借りて始まる。

歌枕とは、ワキとシテが――世界と異界が、此岸と彼岸が、巡行する時間と遡行する時間が――出会う「聖なる時空」である。

――「浅茅が宿」で、帰らぬ夫を待ちつづけた末に死んだ妻・宮木の亡霊は、第一幕では、現代の日本のカフェテラスを背景に、四人の「待つ」女たちに姿を変えて、春・冬・秋・夏と遡行する時間の中で、自らの物語を変奏していく。

そして第二幕で、叶えられなかった彼女たちの思いは、「己れの意志の向かうところに存在する」時間泥棒へとさらに化身する――

――その終局、舞台上空に浮かんだ巨大な月に向かって、時間泥棒がつづら折りの階段を少しずつ、少しずつ昇ってゆく「夜曲」の場面は、これまでのすべての夜会の中でも、間違いなく、最も印象的かつ感動的な場面のひとつだった。

それは、「浅茅が宿」のヒロイン宮木の化身たる時間泥棒の姿を借りつつも、「伝説の中にはいない」――そして、この夜会にも表面上は登場することのない――ヒロイン小野小町の「思い」が、長い長い放浪の旅の果てに、最終的に救済される場面でもあったのだ、と今にして思う。

「リセット」と「救済」

――まだまだ重要なことで書き残したことも多いような気がするが、すでにかなり長くなってしまったので、この記事はこのあたりで締めくくることにしたい。

最後に一点だけ。

冒頭でも少し触れたように、安田氏は、「異界と出会う」ことが重要なのは、それによって人は、「新たな生を生き直すことができる」、すなわち「リセット」することができるからだ――それは、正月などの年中行事にもみられるように、日本民族の伝統でさえある――という。

このテーゼは、中島みゆきが『元祖・今晩屋』のパンフレットの「あとがき」で書いていたこと、

実は、何もリセットなんかされないのかもしれないと、お思いになりませんか。
今生で為した事は全部、次の生へと連なってゆくのかもしれないと。

と、表面上は正反対のことを言っているようにもみえる。

しかし、安田氏も、「単なる逃げ」としての安易な「リセット」を肯定しているわけでは決してない。

それどころか、真に (ワキとして) 「リセット」を可能にするには、自らを根底から変化させること――「『思いなす』ことによって、古い世界 (現状) を捨て、新しい世界に生き直す」こと――が必要だ、と言う。

これは言うほどたやすいことではない――それが本当にできる人は、現実にはきわめて稀だろう。

 

――今、この記事を書いている私自身にしてからが、古い世界 (現状) に如何に強く、がんじがらめに縛りつけられているかということを思うと、まさに忸怩たるものがある、と言わざるをえない。

これまで、夜会に関する記事で何度か書いてきたように、夜会の舞台に触れるたびに、私は、直ちに応えることのきわめて困難な新たな「問い」を、くりかえし突き付けられてきた。

それらの「問い」のほとんどすべては――おそらくは人生の折り返し点をとうに過ぎてしまった今となっても――いまだに答が出せないまま、私の中に、深く重く降り積もっている。

ただ、せめてそれらの「問い」を忘れずにいること――たとえ答は出なくとも、たゆみなく自らに問いつづけること――

――そのことだけが、やがて「新たな生」へと――そして「救済」へと――つながる遥かな道を歩むことであるはずだと、今は「思いなし」たい。


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