神話の解凍――『ウィンター・ガーデン』再考

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「神話する身体」

少々季節外れの話題になってしまうが、先日たまたま今年度の某国立大学の入試 (二次試験) の国語の問題を見ていて、能楽師・安田登氏の「神話する身体」という文章が目にとまり、とても興味深く読んだ。

出題部分を要約すると、次のような内容である (問題文の全文をご覧になりたい方は、このPDFファイルの大門[2]を参照)

新劇の人と一緒にやっていると、能との相違点の多さに驚く。

能の稽古の基本は「マネをする」ということで、メソッドは特にない。

それに対して近代演劇はさまざまなメソッドを生み出した。たとえばメソッド演技というものがある。悲しい場面の演技では、自分の体験の中から悲しい出来事を思い出し、これがうまくいくと本当に涙が流れたりする。

ただし、このメソッドには欠点がある。それは、役者の人生経験が演技の質を左右し、自分の人生経験以上の演技はできないということだ。

能では、稽古でも本番でも、解釈したり気持ちを入れたりはせずに、ただ稽古された通りの型を忠実になぞる。

が、師伝のとおりちゃんとできると、お客さんはそこに立ちあがってくる「何ともいえない感情」に心動かされる。それは、いわゆる演劇的な感情表現ではない。

[人間の] 「ココロ」の特徴は「変化すること」だ。昨日はあの人が好きだったというココロが、今日は違う人に移っている。しかし、能で立ち上がってくる感情は、そのようなころころ変化するココロではない。

対象がある「ココロ」は変化するが、そのココロを生み出す「思ひ」は変化しない。能で立ち上がってくるのは、この「思ひ」だ。

「思ひ」は演者の個人的な体験などは優に超越している。それが型によって実現される。

古人は舞や謡の「型」の中に、言葉にはできない「思ひ」を封じ込めて冷凍保存した。それは私たちの身体に眠る神話そのものである。神話というアイコンは、身体によるクリックを待っている。舞歌とは、その神話を目覚めさせ、解凍する作業である。

いささか長い紹介になってしまったが、中島みゆきの夜会VOL.11/12「ウィンター・ガーデン」 (2000年/2002年) の舞台に接したファンの方なら、私がこの文章に強い興味をひかれた理由を、直感していただけるのではないだろうか。

「ウィンター・ガーデン」では、その物語の舞台である、凍原に立つ GLASSHOUSE ――その傍らに立ち、そこに暮らした者たちをじっと見つめつづけてきた槲の〈樹〉の役を、能楽師/能役者が演じた (VOL.11では佐野登/波吉雅之/渡邊他賀男のトリプルキャスト、VOL.12では佐野登)

ちなみに、上記の文章の著者、安田登氏は、少し検索してみると、佐野登氏や波吉雅之氏とも何度か同じ舞台に立っているようだ。

私は、能――に限らず、日本の古典芸能一般――に関しては、恥ずかしながらまったく不案内な人間である。

また、中島みゆきが、『ウィンター・ガーデン』の上演当時のインタビュー等で、能楽師/能役者を共演者に招いた理由や意味について何か語っていたのかどうか、私は寡聞にして知らない。

が、上記の文章は、その理由や意味を考えるうえで、きわめて重大なヒントを与えてくれるような気がする。

この記事では、そのことを手掛かりにしつつ、『ウィンター・ガーデン』の舞台の記憶を辿りながら、上演から早や10年ほどが経つこの夜会の意味について再考してみたい。

 

「自然」と人間の生

『ウィンター・ガーデン』は、これまで16回にわたって上演されてきた夜会の中でも、おそらく最も特異で実験的な舞台である。

  • 台詞に代えて、約50篇もの詩を用いた朗読劇というスタイル
  • 中島みゆきが、普通の意味での物語の主役である〈女〉ではなく、最初は脇役のようにもみえる〈犬〉を演じたこと
  • そして上述のとおり、能楽師/能役者が共演者として招かれ、〈樹〉としてキャスティングされたこと

以上の3点だけをみても、他の14回の夜会には例をみず、この舞台の特異性が明らかに際立つ。

しかもVOL.11/12は、DVD「夜会の軌跡」に収録された数曲を除き映像化されておらず、また唯一の公式資料ともいえる詩詞集『ウィンター・ガーデン』 も、長らく品切れ状態で入手困難のままであり、直接に舞台を観た者でなければ、きわめて全貌がつかみにくい。その意味でも、謎や神秘に包まれた夜会でありつづけている。

なお、詩詞集『ウィンター・ガーデン』 については、 「復刊ドットコム」に復刊リクエストが出されており、私も賛同した一人である。このブログの読者の方々にも、できればご賛同いただけると大変ありがたい。

しかしそうした特異性の一方で、VOL.11/12『ウィンター・ガーデン』は、 それにつづくVOL.13/14『24時着0/00時発』、 VOL.15/16『~夜物語~元祖/本家・今晩屋』とともに、 明らかに「転生」を中心的なモチーフとした三部作をなしている。その三部作の劈頭をなすという意味でも、『ウィンター・ガーデン』はきわめて重要な作品なのである。

私自身は、VOL.11, 12 それぞれ1回ずつの観賞をしただけであり、10年ほど前のことでもあるので、舞台の細部の記憶は必ずしも鮮明ではない。しかし、その舞台から――とりわけ、初演のVOL.11で――受けた衝撃の核心部分は、今でも色褪せることなく、私の記憶の深層に響きつづけているように思う。

それは、人間の存在の意味が、そのすべてを無に帰すかのような圧倒的な自然――雪と氷におおいつくされた白色と透明の世界――の中で、根底から揺さぶられ、問い直されるという体験がもたらす衝撃である。

 

勤め先の漁協の金を横領し、北限の荒野に立つ GLASSHOUSE を手に入れて、そこでひとり暮らしながら、道ならぬ恋の相手である義兄――姉の夫――がやってくるのを待つ〈女〉 (VOL.11では谷山浩子、VOL.12では香坂千晶)

その GLASSHOUSE で〈女〉を出迎える、先住者の〈犬〉 (中島みゆき) ――かつて GLASSHOUSE の持ち主であった既婚男性とやはり道ならぬ恋に走り、その地を訪れて湖で命を落とした「愛人」の転生した姿である〈犬〉は、前生の記憶を失いながらも、ずっとそこで「誰か」を待ちつづけている。

――彼女たちの愛も哀しみも、希望も絶望も、人間としての心と記憶のすべては、時の流れとともに、雪と氷の世界、白色と透明の世界の中に吸い込まれ、「過去」という透明な層の中に沈んでゆく。

かつて GLASSHOUSE の持ち主が妻に殺害される(?)という惨劇のあった1階が、今は凍原の地下に沈んでいることに象徴されるように、この世界では、「過去」という時間の層は、地上に対する「地下」――地上からは隠された、目に見えぬ場所――という空間的層として沈下し、堆積してゆくのだ。

 

過去を地下へと堆積させてゆく、悠久の「自然」の営み――

その「自然」のいわば代弁者として、繰り返す季節と時の流れの中で、変転してゆく人間の生をその傍らからじっと見つめつづけ、記憶しつづける役目を果たしてきたのが、槲の〈樹〉である。

この「樹」の視点――それは「自然」の視点でもある――は、終盤で朗読される詩「空からアスピリン」に、とりわけ集約的に表現されている。

この辺りでは 空からアスピリンが降るので
すべての痛みの上に アスピリンが降るので
山も谷も真っ白に掻き消されて
……
一生は本当だったのか 嘘だったのか 何があったのか 何もなかったのか
なんにもわからなくなる
……
何を哀しんでいたのだろう 何を痛んでいたのだろう

この辺りでは 空からアスピリンが降りしきるので
すべての痛みの上に アスピリンが降りしきるので

変わりゆく人間の心が生み出す哀しみも痛みも、そしてその繰り返しとしての一生も、すべてを癒し鎮めるアスピリン――純白の一面の雪によって浄化され、忘却されてゆく。

能楽師・佐野登による朗読――VOL.11を私が観賞したのは千秋楽で、その公演での〈樹〉のキャストは、VOL.12と同じく佐野氏であった――は、一切の演劇的感情移入を排して客観的に、ゆっくりと穏やかに、この詩を語ってゆく。

そしてそれゆえにこそ、この詩は限りないやすらぎと優しさをもって、私の胸の奥底に響いた。

ちなみにこの詩を〈樹)が朗読するのは、VOL.11では〈犬〉の前生の記憶――湖で最期を遂げるまで――が再現され、中島みゆきと谷山浩子のデュエットで「記憶」が歌われた後である。

しかし再演のVOL.12では、この詩はより終盤、〈女〉が義兄から電話で別れを告げられ、グラスハウスが氷の中に沈んでゆく場面、中島みゆきが義兄の視点で歌う新曲「氷を踏んで」につづき、ロックバージョンにリアレンジされた「六花」を歌った後に移されている。

VOL.11とVOL.12の差異について論じるとあまりに煩雑になるので、その詳細についてはこの記事では省略するが、この「空からアスピリン」の位置づけの変更に関しては、明らかにこの詩の意味――雪という「自然」による、哀しみや痛みの浄化――が、物語全体の中でより重きをなすように意図されている、とみることができる

この詩の意味が、さらに終盤で歌われる「粉雪は忘れ薬」によって、反復・強調されていることは、言うまでもない

 

空からの/空への「透きとおった手紙」

前節で述べたように、『ウィンター・ガーデン』の世界では、「過去」という時間的層は、「地下」という空間的層として表象されている。

だとすれば「未来」は――そう、地下とは逆の垂直軸の上方、「天空」として表象されるのだ。

 

『ウィンター・ガーデン』の物語は、通常の意味では――〈女〉にとっても〈犬〉にとっても――決してハッピーエンドの物語ではない。

彼女たちの望みが現生で叶えられることは決してない――〈女〉がグラスハウスで待ちつづけた義兄は決してそこを訪れることはなく、すべての過去を記録した帳簿を持ち出し、自らの罪を暴露しつつ彼に復讐を遂げようという絶望的な試みも成就することはなく、結局彼女は、〈犬〉の前生と同じ運命――雪と氷の世界の中で最期を遂げるという運命――を辿ることになる。

しかし、『ウィンター・ガーデン』は――『24時着0時発』や『今晩屋』とまったく同じく――最終的には、「救済」の物語である。

ここで救済されるのは――冒頭の文章での安田登氏の言葉を借りれば――対象によって変わってゆく人間の心ではなく、その心を生み出す根源にあるものとしての、変わることのない「思い」である。

そしてこの救済は、垂直軸の上方としての「未来」=「天空」の方向から、もたらされる。

VOL.11での、〈犬〉が天使の階段を登ってゆこうとしながら「粉雪は忘れ薬」を歌うラストシーンは、VOL.12では、〈犬〉と〈女〉が天空近くの槲の樹の枝に腰掛け、手を携えて「記憶」を歌うラストシーンへと変更されていたが、いずれにせよ、天空からもたらされる救済という結論を強調していることには変わりはない。

 

この天空と地上――未来と現在――とをつなぐメディアは、「雪」である。

「雪」は「自然」の使者として、人間のすべての哀しみと痛みを鎮め浄化する「アスピリン」、「忘れ薬」として、この地上に降り積もる――それはすでにみたとおりだ。

しかし、それと同時に「雪」は――中島みゆきが詩詞集『ウィンター・ガーデン』の「まえがき」で、物理学者・中谷宇吉郎博士の言葉を引用して述べているとおり――「天から送られた手紙」でもある。

広い空の上では 手紙がつづられる
透きとおる便箋は 六つの花びらの花

「六花」のこの詩節で歌われる「透きとおる便箋」としての「雪」のイメージは、さらに (VOL.12では終曲となった) 「記憶」の最も印象的な次の詩節へとつながってゆく。

1人で生まれた日に 誰もが掌に握っていた
未来は透きとおって 見分けのつかない手紙だ

――もちろん「記憶」では、直接に「雪」のイメージが歌われているわけではない。しかし、ここで歌われる「未来」という「透きとおった手紙」が、「雪」という「天から送られた手紙」の、より純化されたイメージであることは明らかだろう。

地上と天空――現在と未来――とを往還する、この「透きとおった手紙」に書かれているのは――再び、安田氏の言葉を借りれば――変わりゆく人間の「心」の根源にあるものとしての、変わることのない、そして言葉にはならない「思い」である。

だからこそ、その手紙の文面は「透きとおって」読み取ることができないのだ。

 

それらの「思い」の基層は、過去の中にある。

「記憶」に歌われているとおり、人間は、過去/前生の記憶を忘却するほかはない。

しかし、忘却するということは、消滅するということではない。変わりゆく「心」は消滅したかにみえても、その根源にあった、変わらぬ「思い」は消滅しない。

『ウィンター・ガーデン』の舞台が、水の上、あるいは氷の上に浮かぶ湿原に設定されている理由は、ここにある。地下に沈んでゆく過去の層は、しかし永遠に光の届かない暗黒の中にではなく、水/氷の透明な層の中で、いつか再び、光を当てられる日を待っている。

――「大切なものから順にみんな 氷室に隠されてしまう」 (「氷室守」) としても、氷室に隠された「大切なもの」はいつか再び必ず、氷室守の手によって明るみに出される時を待っているのだ。

だからこそ、「転生」は「救済」へとつながってゆくことができる――

 

「空鏡」に映るもの

以上のように『ウィンター・ガーデン』を振り返ってみれば、この記事の冒頭で触れた問い――中島みゆきがこの舞台の共演者として、能楽師/能役者を招いた理由や意味――も、すでに明らかだろう。

「転生」と「救済」の物語としての夜会――この2つのモチーフは、VOL.10以前の夜会でもたびたび予示されてはいたが、VOL.11以降、中心テーマとしてはっきりと前面に出ることになる――を紡いでゆくためには、演者個人の人生経験に制約された演劇的表現だけでは不十分だった。

――そのためには、個人の人生経験を超えた表現、すなわち変わってゆく心の基層にある、変わることのない「思い」を表現しうる形式が必要だった。

そのような表現形式として選ばれたのが、「能」だった――ということだ。

『ウィンター・ガーデン』でこの挑戦に成功することによって、中島みゆきは、「24時着0時発」を経て「今晩屋」へとつづく、「転生」と「救済」の物語をスタートさせることができた――とみることができるかもしれない。

 

VOL.16までの夜会を観た現在の視点から振り返ってみると、改めてクローズアップされてくるのは、『ウィンター・ガーデン』の基本的な世界観を表現する詩である「凍原楼閣」、とりわけ次の詩節である。

そびえるのは空鏡
望みの意味を解き明かす

この詩は、VOL.11の舞台では朗読されることなく――同じ題名のインストルメンタル曲として演奏されはしたが――公演パンフレットの最後に、第50番目の詩として収録されていた。が、VOL.12では歌詞付きの曲として、杉本和世によって歌われた。この歌唱での、とりわけ「空鏡」の部分の透きとおるような高音は、今も私の耳にはっきりと残っている。

すでにみたように、『ウィンター・ガーデン』における「空」とは、「未来」の表象である。

「未来」へと向けられた人間のすべての「望み」の意味を解き明かす「空鏡」――このイメージは、「今晩屋」の終曲「天鏡」に、直接につながってゆく。

その鏡は 人の手には 触れることの叶わぬもの
その鏡は 空の彼方 遥か彼方
涙を湛えた瞳だ

人の手が触れることの叶わぬ、空の遥か彼方にある「鏡」――

――「神話」とは、その「鏡」に映し出される、世界の始原から遥かな未来へとつながる永遠の旅路を、そしてその中で無限に受け継がれてゆく「思い」を、紡ぎつづける物語である。

『ウィンター・ガーデン』は、そのような意味での「神話」を解凍し、夜会という形式を借りて、この現代によみがえらせたのだ。


「神話の解凍――『ウィンター・ガーデン』再考」への2件のフィードバック

  1. すばらしい内容のブログですね。あの11回夜会を見たときの衝撃がよみがえります。いまだに私のなかではあの11回が最高の夜会。あのテーマのまわりをずっとまわっているようなみゆきさん。記憶は谷山浩子さんとのデュエットでまた聞きたいです。

  2. もじゃさん、コメントありがとうございます。
    記事に書いた通り、私はVOL.11は千秋楽の1回だけしか行ってないのですが、観終わってから、せめてあと1,2回は観たかった、と後悔しました。
    谷山浩子さんとのデュエットの「記憶」は、DVD『夜会の軌跡』に収録されているVOL.12の香坂千晶さんとのとはかなりアレンジが違っていて、転調の多い複雑な構成だったように記憶しています。私も、あの「記憶」をもう一度聴きたいと強く思います。
    (叶うことなら、今秋からの「夜会ガラコンサート」で、浩子さんとのデュエットでと……まぁ可能性は低いでしょうが)

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