11/25(火)、11/29(土)と、2度目、3度目の公演を観た。
いずれも初日よりも全体に柔軟さを増した印象があったが、とりわけ29日の公演は、中島みゆき初めキャストたちの歌唱と演技、ミュージシャンたちの緊密かつ――牛山玲名さんの言葉を借りれば――「たぎり」に満ちた演奏、そしてビジュアルと音響等々、すべての構成要素が有機的に呼応しあって、客席に圧倒的なエネルギーとメッセージを伝えてくる素晴らしい舞台だった。
この2回の鑑賞で、予想通り、初日には気づかなかったさまざまな発見があったが、それらのすべてをブログ記事に詰め込んだのでは、あまりにも煩雑になり、まとまりを欠いてしまうだろう。
ここでは夜会VOL.18のいわば中間報告として、現段階でとくに気にかかっていること――それも部分的な演出等ではなく、むしろ、舞台では直接には描かれない――しかしながら、全体にかかわる重要な意味をもつと思われる――事柄について、2点だけ記しておきたい。
(1) 「名前」の意味について
主要キャスト3人を初めとする登場人物の命名には、高度な言葉遊びとでもいうべき、重層的な意味づけがされているようだ。が、そのことについても、詳細に書くと煩雑になりそうなので、別の機会に譲りたい。
しかしそれ以外にも、この夜会では「名前」というモチーフへの強いこだわりが随所にみられる。
「名乗りたくない一族の名」
ガードマン・高橋九曜 (石田 匠) が、占い師・橋元人見 (中島みゆき) から「九曜さん」と名前で呼ばれるのを嫌がり、「高橋です」と言い直す場面が、第1幕にも第2幕にもある。
これはおそらく、彼の前生の「公羊」が、妻を人柱に立てなければならなかったことに対する (無意識の) 悔恨・罪責からくるものだろう――このあたりも『今晩屋』との共通性を感じさせる。
第1幕の中ほど、第2場「橋脚:天明2年」へと場面が変わる直前で、彼は歌う――
名乗りたくない一族の名 この人生は誰のものだ
――「一族」のこの歌詞にも、彼の自らの「名」に対する嫌悪が表現されている。
「一族の名」というと、現在は苗字のことをイメージしがちだが、江戸期以前の庶民は一般的には苗字を公に名乗ることは許されなかったから、この場合は「家族から人柱を出した一族という汚名」というぐらいの意味だろう。
「名前」と「苗字」といえば、「アンテナの街」(1994年のアルバム『LOVE OR NOTHING』所収) にあった次のような歌詞を思い出す。
私を呼んでください 名前で呼んでください
苗字の流れの中にしか 見当たらない者じゃなく
この曲は、集団 (共同体) の「個」に対する抑圧と、そこからの脱出という点で、『橋の下のアルカディア』のテーマ全体とも共通性をもつ。
今回の夜会の場合、「高橋」という苗字――この一見ふつうの苗字はおそらく、シャッター街の背後にある「高い橋脚」を意味するのだろうが――が、むしろ九曜にとって望ましい呼び名になっている点で、ひとつの屈折が生じてはいる。
が、「個」のアイデンティティを表現する記号としての「名」へのこだわりという点では、やはり両者は通底しているというべきだろう。
「捨て子になる名前」
第1幕第2場「橋脚:天明2年」の冒頭、「昔々あるところに」で、「人柱」となる人身 (中島みゆき) は歌う――
その理由は名前 捨て子になる名前
彼女の「人身」という名は文字通り「人身御供」を表しているのだが、この歌詞はより一般的に、「名前」というものがもつ魔力というか言霊のようなもの――この場合はネガティブな意味での――を示唆している。
つづく「捨て子選び」での次のような歌詞も同様だ。
どの子を捨てよう あの子を捨てよう
あの子じゃわからん 名前で決めよう
――以上のように、今回の夜会は、「名前」に対するこだわりが重要な底流として存在することは明らかだ。
だが、なぜ「名前」が重要なのか――
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも
「命の別名」 (1998年) のこの歌詞を想起すれば、「名前」とは、生きとし生けるものすべてが、この世界の中にそれぞれの「心」をもった「個」として存在していることの証しであるから、ということになるのだろうか――
このように考えてくると、「名前」というテーマは、今回の夜会の解釈にとどまらない、大きな広がりをもつようにも思えてくる。
(2) 不在の人物について
第1幕、「失せ物探し」の場面で、「Barねんねこ店主、豊洲天音様」に退去を命じるガードマン・九曜に対して、天音 (中村 中) は「店主じゃないもん、ママが帰ってくるまで代理だもん」と言い返す。
パンフレットに記されている通り、彼女はこのバーのママではなく「代理ママ」なのだ。
「帰ってくるまで」と言うからには、ママは亡くなったわけでなく、この地下壕ではないどこかへ行っているようだ。だが、なぜ彼女は、今、ここにはいないのか――
第2幕で天音が手紙を読み上げながら歌う「呑んだくれのラヴレター」の受け取り手は、(「代理ママ」の天音ではなく) この不在の「ママ」だったのではないか、と私は思っている――この点は、初日のレビューでも書いた通りだ。
この点は、舞台上の歌詞や演出でも、またパンフレットでも、まったく明示されてはいない。ラヴレターの送り主、高橋忠との年齢バランスという点さえ考慮に入れなければ、その受け取り手が「代理ママ」の天音であるという解釈も成り立つだろう。
――私がその解釈を採らない理由は、形式的には、もし天音が受け取り手だったとすれば、わざわざ彼女を (ママではなく)「代理ママ」として設定する意味が見いだせないことにあるが、それだけではなく、より実質的な理由がいくつかある。
上記の「呑んだくれのラヴレター」につづく、宮下文一が歌う「一夜草」の場面、九曜が「模型のタカハシ」の店内で仏壇に向かっている、その裏手、やや上方の暗がりの中に――これは九曜の記憶の再現だろう――寝間着姿の父・忠 (宮川 崇) が登場する。
忠は、手紙を次々と折って紙飛行機にしては、舞台中央の石段をはさんだ上手、「Barねんねこ」の裏手の暗がりへと飛ばす。この場面で、シャッター街の裏手の暗がりが、「過去の記憶の存在する場所」として意味づけられているとすれば、紙飛行機の手紙が届く場所は、やはり、「Barねんねこ」をママが切り盛りしていた過去だと解するべきではないだろうか。
やや余談ながら、この「一夜草」は、甘やかな旋律やワルツのリズムとも相まって、まるで昭和時代の歌謡曲のような、何ともいえない懐かしさを感じさせる曲だ。忠の青年・壮年時代が昭和戦後の高度成長期――このシャッター街がまだシャッター街ではなかった頃――だとすれば、その時代背景ともぴったり合う。
――それにしても、「Barねんねこ」の右隣の薬屋をはじめ、今は閉じてしまった店には、かつてどんな人々が暮らし、また買い物に訪れていたのだろうか。それらの人々が共有していたであろう、シャッター街がまだシャッター街ではなかった過去の記憶は、まるで舞台の無意識の背景として存在しつづけているかのようだ――その記憶は、店が動いて、地下壕に乱入してきたチンピラ (暴走族) たちを追い払う「シャッター街」の場面にも反映しているようにも思われる。
「Barねんねこ」のママは、舞台に登場する3人 (忠を含めれば4人) 以外の、かつてこのシャッター街に暮らしていたそれらの人々――「橋の下」にあって「いらない捨て子」となった人々――すべてを代表する存在、とは考えられないだろうか。
「ねんねこ」という店名は、黒猫のイラストが描かれた看板とも相まって「猫」を連想させるが、本来は赤子をくるむ綿入れ半纏の意味だ。だとすれば、ママが命名したであろうこの店名は、「捨て子」を象徴する記号と解することもできる。
おそらくあなたの悲しみが あなたをこの地に縛るだろう
と「呑んだくれのラヴレター」に歌われている「悲しみ」とは――前生で人柱となった人身=人見や、彼女と別れなければならなかったすあま=天音だけではなく――この地下壕を安住の地としたすべての人々の、「捨てられた」者としての悲しみを意味しているのではないか――
――だとすれば、「緑の手紙」とは、それらの人々すべてを、その悲しみから解放するためのメッセージだったのではないだろうか。
以上の解釈には、繰り返すようだが、明示的な根拠はない。ただ、このように考えたほうが、ラストシーンでの「個が集団を捨てる」ことによる救済という結論に、より強い普遍性が付与されるようにも思われるのだ。
いずれにせよ、『橋の下のアルカディア』は、その一見ストレートなメッセージの背後に、さまざまな魅惑に満ちた「謎」を秘めた作品であることは間違いない。
それらの「謎」に迫っていく愉しみと期待とを胸に、私は、約1週間後に迫った千秋楽を、今、待っている――
私自身が拝見したのは約2週間前ですが、観劇直後は物語の反復に気を取られていたので、今の方が解釈に思いを巡らせます。
今回重要なのは、間違いなく“名前”ですね。名前そのものも勿論ですが“名付け”あるいは“名を奪う”ことが意味を持つと思います。
人見と名付けられた故に人身(人柱)にされた、固有性が抜かれた女として扱われた。
国を捨てた裏切り者には個人の唯一性など不要だと言わんばかりに、集団が名前を奪う。
集団が個を捨て、個が集団を捨てる話だとインタビューにありましたが、みゆきさんの中には哲学が流れていると、私は解釈しています。
今作以外でも、茉莉花を表す茉莉と莉花,ニマンロクセンエン,水上繭/山科繭(字が違いますね)…。名前が表す意味(力)を突きつけられます。
加奈子さん、コメントありがとうございます。
たしかに、ご指摘のとおり、これまでの夜会の登場人物の命名にも、さまざまな意味がこめられていたことに改めて気づかされます。
(『海嘯』のヒロインの本名は「山階繭」でしたね。パンフレットには役名が書かれていないので、本を見なければわからないのですが……)
名を呼ぶこともも名を奪うことも、個が自らの力でおこなうことはできず、集団によってしかなされえないものですよね。「ひまわり "SUNWARD"」のこの歌詞は、そのような集団の力に対するアンチテーゼであるようにも聞こえます。
たとえ どんな名前で呼ばれるときも 花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも 花は香り続けるだろう