「『夜会』工場」Vol.1

 

しばらく前からでじなみ・なみふくで予告されていた、今秋からの「夜会ガラコンサート」の正式タイトルと日程・会場が発表され、FC先行予約もスタートした。

「『夜会』工場」Vol.1――

「工場」という言葉の意味といい、二重鍵括弧の使い方といい、”Vol.1″ がシリーズ化を意味するのかどうかという点といい、さまざまに想像をそそられるタイトルではある。

 

しかしまずは、チケット取りの算段をしなければならない。

4都市12公演という公演数の少なさに加え、東京・大阪の会場が、これまで夜会が上演されてきた小ホール (赤坂ACTシアター・シアターbrava!) であること、さらには金・土を多く含む遠征者に優しい(?)日程であること等々、多くの要因から、今回はこれまでにも増して、チケット争奪戦の激しさが予想されるからである。

それはさておき――

オペラやミュージカルでいうところの「ガラコンサート」というのは、典型的なイメージとしては、複数の出演者が、それぞれの得意とする持ち歌――オペラであれば有名なアリア――を歌うオムニバス形式のコンサート、といったものだろう。コンサート形式である以上、個々の演目のストーリーに沿った演出や舞台装置の再現などはなされないのがふつうだ。

しかしながら、ちょっと検索してみたところ、たとえば、2012年に3回目の公演を迎えたという宝塚歌劇の「エリザベート ガラ・コンサート」についての記事には、「回を重ねるごとに衣装が加わり、演技に厚みが加わり、より本公演に近いスタイルに」なってきた、という記述がある。

こうした例をみると、ガラコンサートと本公演との境界は、必ずしも明確ではないのかもしれない。

 

――とはいえ、中島みゆきの夜会の場合、これまで17回の公演の蓄積があり、それらを踏まえての初めてのガラコンサートである以上、「エリザベート ガラ・コンサート」のような特定の演目の再現ではなく、複数の演目から、さまざまな楽曲を選んで歌う、という形式になるのは、まず間違いないだろう。

コンサートツアーで夜会曲が歌われた例はすでに少なくないし、アルバムでの夜会曲のオムニバスは、1995年の「10WINGS」以来、数作がすでにリリースされている。

その上で、「『夜会』工場」と題して、新形式のライヴを上演するからには、そうした既存の作品にはない新しい「何か」を、中島みゆきは呈示してくるはずだ。

何よりも注目されるのは――曲目や共演者もさることながら――個々の楽曲に、どのような新たな演出が――新たな文脈が――与えられるのか、ということである。

個々の楽曲は、いわばこれまでの夜会のさまざまな演目という「完成品」の中に、その構成要素として組み込まれてきた「原料」あるいは「素材」である。それらがかつての文脈から自由に解き放たれることで、どのような新たな生命を吹き込まれ、新たな世界観を提示してくれるのか――

それこそが、「工場」見学の最大の楽しみとなることだろう。

4分の3拍子の子守歌

一般に4分の4拍子の曲が大多数を占めるポピュラーソングの世界の中で、中島みゆきほど4分の3拍子を――ほとんど偏愛していると言っていいほどに――多く書いてきたソングライターも珍しいのではないだろうか。

たとえば、これまで39枚のオリジナルアルバムのラスト曲のうち実に8曲――「時は流れて」「断崖―親愛なる者へ―」「かもめの歌」「人待ち歌」「思い出だけではつらすぎる」「ララバイSINGER」「走」「月はそこにいる」――が、4分の3拍子である。

ただし、「断崖―親愛なる者へ―」は途中から4分の4拍子に変わる。このことについては、後で触れる。

ここで、他のアーティストとの比較の上での統計的データを示すことまではできないが、アルバムのラストという重要な位置づけを与えられた曲での2割強という比率は、明らかに高いと言っていいように思う。

一方、他の歌手への提供曲でも、研ナオコの「あばよ」と加藤登紀子の「この空を飛べたら」という、初期の提供曲を代表する2つのヒット曲があり、また最近では、まだ記憶に新しい『縁会2012~3』の大阪フェスティバルホールでの追加公演で、ゲストの中島美嘉が歌った「愛詞」もまた4分の3拍子だった。

子守歌のリズム

そのツアー『縁会2012~3』の曲目の中でも、個人的にとりわけ懐かしく、聴くたびに胸を衝かれたのが、「泣きたい夜に」である。

1980年のアルバム『生きていてもいいですか』は、私が中島みゆきファンになりたての頃、初めて買ったアルバムだった。

その2曲目――あの「うらみ・ます」の慟哭を粛然として聴き終えた後――郷愁を誘うようなカントリー調のアレンジをバックに、「暗い時代を泳ぐひな魚」に向けて優しく優しく歌われるこの子守歌に聴き入るとき、まだ若かったその頃の私はいつも、自らを「ひな魚」になぞらえつつ、「私の胸においで」と歌う彼女の歌声に心を抱き取られていた。

子供の頃に好きだった歌の名前を言ってごらん
腕の中できかせてあげよう 心が眠るまで

現実のすべての悲しみや苦しみを忘れさせ、幼い日のやすらぎに満ちた眠りへと誘う子守歌――それは、揺り籠を優しく揺らすような4分の3拍子でなければならなかったのだと思う。

――4分の3拍子の子守歌。

「アザミ嬢のララバイ」でデビューして以来、中島みゆきは繰り返しそれを歌ってきた。

上記の「泣きたい夜に」や、2007年のツアーで「アザミ嬢のララバイ」へとつながる絶妙なメドレーで歌われた「ララバイSINGER」――それ自体、自らのデビュー曲へのアンサーソングでもある――のような、明示的で典型的な子守歌のことだけを言っているのではない。

中島みゆきにおいては、いわば歌詞の内容以前に、4分の3拍子のリズムそのものが「子守歌」の役割を果たしてきたのではないか――聴く者の心を、この「現実」の時間の流れから解き放ち、「夢」に象徴される、もうひとつの時間の流れへと誘うという意味で。

たとえば――

これもまだ記憶に新しい、夜会『2/2』の再々演VOL.17の大詰めで、ヒロイン梨花に (彼女が生まれる前に世を去った) 姉・茉莉が歌いかける「幸せになりなさい」――そして、それにかぶせるように、彼女を「古い記憶」の呪縛から救い出そうとして駆けつけた恋人・圭が歌う「旅人よ我に帰れ」。

この重唱は、梨花をこれまでの「現実」の時間から解放し、茉莉の存在する過去――あるいは異界――への遡行を経由して、新たな未来への転生へと誘うという意味で、やはりひとつの「子守歌」だったのではないか、と思う。

あるいは、最近の2枚のアルバム『荒野より』『常夜灯』のラスト曲である、「走」と「月はそこにいる」――後者は言うまでもなく、ツアー『縁会2012~3』の本編ラストでもあった――の2曲もまた、「現実」の時間からの離脱あるいは浮揚を誘う歌である。

どこまでもどこまでも続く「荒野」としての、あるいは「日々の始末に汲汲として」閉じてゆく1日の繰り返しとしての、この「現実」の生の時間を俯瞰し、過去から未来へと茫々と流れる「時」を見晴るかすことのできる、遥かな高みへの浮揚。

「夢」から「現実」へ

――しかしながら、「現実」の時間からの離脱あるいは浮揚は、当然のことながら永遠にはつづかない。私たちは、その束の間の「夢」のような時間を経て、また「現実」の時間へと戻ってゆくほかはない。

(このような図式を一般化することの危険性をあえて承知の上で言えば、ポピュラーソングの世界のマジョリティである) 4分の4拍子とは、中島みゆきにとって、その「現実」の時間を刻むリズムだったのではないか。

4分の3拍子と4分の4拍子、「夢」と「現実」という対比――

この対比の意味に――半ば無意識のうちに――最初に気づかされたのは、彼女の5枚目のアルバムのラスト曲、「断崖―親愛なる者へ―」を聴いたときのことだったと思う。

扉をあけて 出てくる人は
誰も今しも 旅に出る仕度、意気も高く

――「意気も高く」のところで曲は、それまでの伸びやかに踊るような4分の3拍子から、激しく疾走する4分の4拍子に、一瞬で切り替わる。この鮮やかな転換は、初めてこの曲を聴いた時から――そして何度聴きかえしても――とても印象的だった。

1984年のスペシャルコンサート「月光の宴」のラストでこの曲を歌ったとき、中島みゆきは4分の3拍子の前半部は歌わず、その代わりに、アルバムにはない――詞・曲ともオリジナルの――導入部から歌いはじめた。

ここから出て行きゃ あんたも現実
あたしも化粧を落とせば現実
だけど会えたよね 確かに見たよね
覚えてておくれよ

――それは、コンサートという束の間の「夢」の時間を共有し、そして「現実」の時間へと帰ってゆく客席の私たちへの、彼女からのエールだった。

4分の3拍子と4分の4拍子の対比を鮮やかに示しているもうひとつの曲が、夜会『ウィンター・ガーデン』の終盤で歌われる「六花」である。

六花の雪よ 降り積もれよ
すべてを包んで 降り積もれよ

初演VOL.11での、降り積もる雪がすべての痛みと哀しみとを癒し鎮めてくれることを祈りながら、〈女〉と〈犬〉とが互いに向けて歌う子守歌のような4分の3拍子。

しかし再演VOL.12では、〈犬〉は、自らの前生と同じ愛憎の悲劇へと〈女〉を導こうとする絶望的な運命に必死に抗い叫ぶかのように、激しく疾走する4分の4拍子のロックのアレンジでこの曲を歌う。

 

――もちろん、「夢」から「現実」への帰還とは、「夢」を否定し、かつてと同じ「現実」に舞い戻るという意味ではない。

むしろ「夢」の時間を経ることではじめて、中島みゆきの歌の主人公たちも、そして客席の私たちも、かつてとは異なる新たな「現実」へと転生することができる――

中島みゆきの4分の3拍子とは、その転生へと至るための「夢」の時間のリズムなのだ。

「縁会2012~3」追加公演

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新生フェスティバルホール

2013年5月23日、新生・大阪フェスティバルホールでの「縁会」追加公演。チケット確保は予想以上に困難を極めたが、直前になってようやく、幸運にも手にすることができた――涙をのんだ多くの友人、知人たちに対して、少々うしろめたい気持ちさえ抱きながら。

当日は初夏を思わせる快晴のもと、これまで何度も歩き慣れた中之島の土佐堀川沿いの道を、これまでとはまた異なる新たな期待を胸に、新しいホールへと足を運んだ。

かつてのフェスティバルホール側面を飾ったレリーフ「牧神、音楽を楽しむの図」が再現されているのも、うれしく懐かしい。

関西出身・在住の私にとって、フェスティバルホールは、若い頃から (クラシックなどの公演も含めて) なじんできた、ホームグラウンドとでもいうべきホールだ。1984年秋の「月光の宴」から2007年のツアーまで、2回の「歌暦」と夜会を除くほとんどの中島みゆきのコンサートを、私はこのホールで聴いた。

1990年代以降、パソコン通信への参加をきっかけに、多くのファン仲間の誘惑に負けて「追っかけ」の真似ごとをしはじめてからは、東京や各地方の多くのホールにもずいぶん遠征したが、そうすればするほどかえってフェスティバルホールは、帰るべき場所――最も無心な状態で、彼女の歌に浸りきれる場所――としての懐かしさを増していったような気がした。

 

そのフェスティバルホールが改築されることが明らかになったとき、別れの寂しさと、新しいホールへの期待と不安とがないまぜになった気持ちを味わったのは、おそらく私だけではないだろう。

そうした気持ちは、私のような1オーディエンスなどよりも、このホールのステージに登場してきたアーティストたちにとってはなおさらのことだったようで、中島みゆきを含む4人のアーティストが新生フェスティバルホールに寄せたメッセージ (『朝日新聞』2013年4月4日付記事) からも、それはよくうかがわれる。

 

――しかし、新しいホールのエントランスにはじめて足を踏み入れた瞬間、 (やはり上記記事のアーティストたちも語っているように) なんともいえない懐かしさが、私の身を包んだ。

かつてこのホールで何度も味わってきた、開演前から胸に高まる期待を優しく受け止めてくれるような独特の空気感が、よみがえってくる。

その空気感を味わいながら、開場前の短い時間、同じく幸運にもこの追加公演に来ることのできた少数の友人たちと、ホール2階のビヤホールでささやかな祝杯をあげた。

「縁会」の大団円

さて、前置きがずいぶん長くなってしまった。

座席につき、前後左右、そして上方を見回してみる。3階まで満席のホール内――その内装のデザインや色調は当然新しくなっているのだが、その空気感は、やはり上記の第一印象を裏切らない。

――やがて客電が落ち、「空と君のあいだに」のイントロが静かに流れ、石橋尚子のヴァイオリンが、この曲のサビの旋律をゆったりと奏ではじめる。それは、これまで3回経験したこのツアーのオープニングと音楽的にはまったく同じであるはずなのだが、しかし、やはり何かが違う。

2月の本来の千秋楽から3ヶ月を隔てて、1日だけの追加公演という異例のスケジュールということも相まってか、PAのバランスも、また中島みゆき自身の声の調子も、出だしは必ずしも万全ではないように聴こえた――しかし、そんなことはすぐに、まったく問題ではなくなった。

生命力溢れるリズムを叩き出す島村英二のドラムをはじめとして、ミュージシャンたちの伸びやかで力強く、かつ繊細な演奏もさることながら、やはり何といっても、ツアーの大団円に向けて、思いのたけのすべてをほとばしらせるかのような中島みゆきのヴォーカルが、胸を熱くする。

――たとえば、「化粧」のラストの激しい慟哭、「過ぎゆく夏」のサビの素晴らしい疾走感と昂揚感。

あるいはがらりと趣を変えて、第2幕前半の「夜」のムードの3曲――「真直な線」「常夜灯」「悲しいことはいつもある」――での、この上なく繊細でアンニュイな声の表情の魅力。そしていうまでもなく、本編ラスト4曲――「時代」「倒木の敗者復活戦」「世情」「月はそこにいる」での、遥かな時の流れに寄せる、祈りにも似た深く熱い想い。

それらは、過去3回の公演での表現と基本的に違いはないはずなのだが、ただそれらのすべての表現の幅、あるいはダイナミックレンジが極限にまで拡大され、客席に押し寄せてくるのだ。

 

異例の追加公演ならではのサプライズは、2回だけあった。

1回目は、第1幕ラストの「風の笛」の前のMC。中島みゆきは上記の記事が載った新聞をスタッフから受け取り、 (まるでオールナイトニッポンの葉書を読むかのようなコミカルで巧みな表情をつけながら) 自らのメッセージを朗読する――

ただいま。新しいフェスティバルホール。
恐~~いヌシたち、健在。
新しくなろうと何だろうと、フェスティバルは温かい。

――そして、「では、現物をご覧いただきましょう。ヌシのかた、どうぞこちらへ!」と、下手袖から、黒っぽい衣装を着た3人の男性スタッフをステージ中央に呼び出す。その代表者から彼女への「おかえりなさい」という返礼に、大きな拍手がわいた。

 

そして2回目は、大詰め近いアンコールの2曲目「パラダイス・カフェ」のエンディングのあとだった。間髪を入れず、ピアノによる聴きなれない3拍子のイントロが流れだし、周囲の客席から静かなどよめきが起こる――

――前日、5月22日にリリースされたばかりの、中島美嘉への提供曲「愛詞 (あいことば)」。もしやこの歌が曲目に加えられるのではないか、というかすかな予感がなかったわけではないが、実際にそのイントロを耳にした瞬間、やはり私の中に驚きが走った。

やや抑え気味の声で1番を歌い終わった中島みゆきは、舞台下手に向かって右腕を差し伸べる――間奏が流れる中、袖から登場する、黒いワンピースのドレスをまとった小柄で華奢な女性――中島美嘉本人だ。

客席のどよめきはさらに高まって拍手へと変わり、2番からは彼女がソロで、声を振り絞るように歌う――さらにラストのサビでは、中島みゆきが低音部のハーモニーをつける。

このゲスト出演のために仙台からかけつけてきたという中島美嘉のストレートで懸命な熱唱に、彼女の歌を初めてライヴで聴く私は率直に胸を打たれ、客席からはさらに大きな拍手がわいた。

――このサプライズをレポートした記事にもあるように、中島みゆきのコンサートに、他の歌手がゲストとして登場するのは、実に初めてのことだ。

それも、今回はじめて曲の提供を受けた、中島みゆきからみれば娘のような年齢の中島美嘉が――「北のナカジマと南のナカシマ」という準同姓(?)のよしみがあるとはいえ――その記念すべきゲストになったのは、さらなる驚きというほかはない。

 

――このサプライズの余韻、そして今夜の特別なコンサートの余韻、さらには、「縁会」ツアー全体の余韻が重層する中で、終曲のイントロが静かに流れだす。

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夜明けが近づいてくる空を背景に、中島みゆきはこれまでにも増して万感の思いをこめぬいて、「ヘッドライト・テールライト」を歌いきる。

「縁会」ツアーはこの大団円で幕を閉じても、「旅はまだ終わらない」。

この次には、どのような旅の風景の中で、私は中島みゆきと再会できるのだろうか――その時への期待と希望を胸に、私はまた日常の現実へと帰ってゆく。

植山和美 詩と写真展「行ってきます」

1990年代のパソコン通信「歌暦ネット」以来の中島みゆきファン仲間のひとり、植山和美さん (同ネット管理人だった故・植山哲男さんのご夫人でもある) の詩と写真展「行ってきます」が、6月から7月にかけて、川西市と和歌山市で開かれる。

[会期1]
2013年6月17日(月).~22日(土) 11:00~18:00 (最終日は16:00まで)
会場:画廊シャノワール
兵庫県川西市小花1-8-1
072-758-0811
http://chat-noir-asahiya.jimdo.com/

[会期2]
会期:2013年6月26日(水)~7月1日(月) 10:00~18:00  (最終日は16:30 16:00まで)
会場:ギャラリー半田
和歌山県和歌山市本町2-48
073-422-7779

[案内チラシ]

植山和美さんは、故郷・和歌山を拠点に、「いちかわかずみ」という筆名で活動してこられた詩人でもある。上記、詩と写真展の会期中の6月28日に、詩集「アオイカゲ」がリリースされるとのことだ (上記[案内チラシ]も参照)

私は彼女の作品のすべてを知っているわけではないが、詩を読むたびにいつも印象づけられるのは、絶えずうつろいゆく時の流れ――雲の流れ、季節の流れ――を愛おしみ、その流れゆく風景の中に、自らを再発見しつづける視点である。

うつろいゆく時の流れの中で私たちは、「別れと出会いを繰り返し」つづけるほかはない。そして――前の記事「『時代』という曲」に書いたこととも重なるが――およそ私たちが年齢を重ねるにつれて、「別れ」の記憶がしだいに比重を増していくのもまた、必然的なことだ。

――そのことも含めて、時の流れそのものを愛おしむ視点。

それこそは、中島みゆきに寄せる私たちの共感と、それに基づく「縁」との、ひとつの原点でもありつづけてきたのではないだろうか。

今回の詩と写真展が、その「縁」を結びなおし、また広げる貴重な機会になれば、と思う。

「時代」という曲

2013年4月6日、NHK総合で放送された「SONGS」の「時代」特集を観た。

後半で流れた2010年ツアーの映像や、さまざまな人々によるこの曲のカバーをめぐるエピソードもさることながら、最も興味深かったのは、やはり中島みゆき自身によるこの曲についての語りである。

「時代」を書いたのがいつだったのか、はっきりとは覚えていない、と彼女は言う。

口が勝手に歌うにまかせた というような生まれ方をした曲なので
……
今でももしかしたら
もっと長い曲だったのかもしれない という気がする時もあります

「時代」の本来の(?)「もっと長い曲」バージョンを聴いてみたい――それはおそらくは叶わぬ夢ではあろうが、そうした夢を見させてくる言葉でもあった。

少し横道にそれるが、この語りを聴いてふと思い出したのは、以前、彼女が「夜会」のテーマ曲「二隻の舟」について、(いつのインタビューだったか思い出せないのだが) 「『二隻の舟』ばかり20分ぐらい歌いつづけるなんて舞台もやるかもしれない」というふうに語っていたことだ。

こちらの方も、今のところ実現してはいないが、「夜会」のさまざまな物語世界の中で、そのたびにさまざまな意味を新たにこめながら歌われてきた「二隻の舟」に、さらなる大きな世界の広がりを期待させてくれるような発言だった。

「時代」や「二隻の舟」に限らず、中島みゆきの――すべてとまでは言わないが――多くの作品は、そのような意味での、多様な文脈に応じて新たな意味を――「世界」を――生成する無限の可能性を感じさせてくれる。

多様な文脈、というのは、「夜会」の場合のように、中島みゆきの側が私たちに向けて提示してくれる物語だけを指すわけではもちろんない。

ひとつの曲を聴いてくださる方々が
その時々の環境や経験や いろいろな思いにもとづいて
さまざまなイメージをふくらませてくださるのは
書き手にとっては 時には意外な場合もあったりして
かなり 楽しみなことです

――その曲を聴く私たちの、「その時々の環境や経験や、いろいろな思い」。

それこそは、とりわけ「時代」という曲に――おそらくは中島みゆき自身さえ予想しえないようなかたちで――繰り返し新たな意味と生命を賦活してきたのではないだろうか。

私自身について言えば、「時代」は――おそらく多くの中島みゆきファンにとってもそうだったように――そもそも彼女の存在を意識し、その存在に惹きつけられてゆく最初のきっかけになった、重要な曲のひとつだった。

ファンになりたての頃は――アルバム『私の声が聞こえますか』版とシングル版とを、その時の気分に応じて選びながら――何度も繰り返し聴き、時には自分で下手糞なギターの弾き語りに挑戦してみることもあった。

――が、いつの頃からか、この曲は、彼女の最初期の代表曲として常に意識にありながらも、実際にレコードを再生して耳にすることは少なくなっていった。

それはおそらくは、私自身の生にとって「時代」が新たな意味をもったメッセージとして響くような「文脈」を、私が長らく見出しえないでいたからだろう、と思う。

その期間は、まったくの偶然ではあろうが、1989年の『野ウサギのように』ツアー以来、中島みゆき自身がライヴでこの曲を歌うことのなかった21年間と、ほぼ重なっている。

――その21年間を経てのコンサートツアー『TOUR2010』で、私もまた、この曲との久しぶりの再会を果たしたような気がする。

このツアーの初日および楽日についてのブログ記事でも書いたように、本編のラストで、

私から、あなたの人生に、拍手を送らせてください――

というMCと拍手とにつづけて、「今はこんなに悲しくて……」と、この上なく透明なア・カペラで彼女が歌い始めた瞬間、私の胸には、まるで初めてこの曲を耳にしたかのような「驚きの感覚」――自らの生を遥かな高みから俯瞰する視点へと浮揚する感覚――がよみがえってきた。

と同時にそれは、「時代」が新たなメッセージとして、私自身の中に鳴り響く「文脈」を再発見した瞬間でもあったのだ、と思う。

その「文脈」とは、私がその時まで――とりわけ、1990年代前半以来、パソコン通信を中心とする中島みゆきファンのコミュニティの中で――出会った仲間たちとの「別れ」の記憶である。

そのことについては、上記のツアー楽日のブログ記事にも書いたので、詳しくは繰りかえさない。

ただ、「時代」というととりわけ強く思い出されるのは、そうした仲間たちの中でも、かつて私を中島みゆきファンの「濃く」「熱い」コミュニティの中へと、半ば強引に引きずり込んでくれたひとりの友人のことである。

オフラインミーティングのカラオケで「時代」を歌うとき――だいたいは参加者全員の大合唱になるのだが、彼の声はその中でもよく通った――「まわるまわるよ……」からのサビで、私だけがコーラスパートを歌うと、なぜか彼の声とよくハモって、「狩人」みたいだな、などと周りに笑われたことも思い出す。

彼が世を去ったのは2003年11月、その翌年1月に夜会『24時着0時発』がスタートする直前のことだった。

駆けつけることも叶わなかったその葬儀で「時代」が流れたという時間、私もアルバム『私の声が聞こえますか』の「時代」を聴きながら、心の中で彼を送った――

個人的な述懐が長くなってしまった。

その次のツアー「縁会2012~3」で中島みゆきが再び「時代」を歌ったことについては、まだ記憶にも新しく、最近の記事でも書いた。

その理由について、憶測を語ることはやめておこう。

私が自分で歌う時には
いっそ もう何の意味も込めずに
「無」といった気持で歌う方がいいのかもしれないと
最近 思うのですが
思ってはみても いざ歌うと 何かと思わくが入り込んでしまいまして
まだまだ ほど遠いなと反省するばかりです

中島みゆき自身もまた、この曲の中に、たえず新たな意味を――それが鳴り響く文脈を――探しつづけてきたのではないか、と思わせる発言でもある。

そして、「無」こそは、そうした個々人の「思わく」を超えて、この曲を聴くすべての人びとの生という無限の文脈の中に、この曲がたえず新たな意味とともに鳴り響くことを可能にするのではないか――

彼女にこう語らせたのも、そのような思いだったような気がする。