4分の3拍子の子守歌

一般に4分の4拍子の曲が大多数を占めるポピュラーソングの世界の中で、中島みゆきほど4分の3拍子を――ほとんど偏愛していると言っていいほどに――多く書いてきたソングライターも珍しいのではないだろうか。

たとえば、これまで39枚のオリジナルアルバムのラスト曲のうち実に8曲――「時は流れて」「断崖―親愛なる者へ―」「かもめの歌」「人待ち歌」「思い出だけではつらすぎる」「ララバイSINGER」「走」「月はそこにいる」――が、4分の3拍子である。

ただし、「断崖―親愛なる者へ―」は途中から4分の4拍子に変わる。このことについては、後で触れる。

ここで、他のアーティストとの比較の上での統計的データを示すことまではできないが、アルバムのラストという重要な位置づけを与えられた曲での2割強という比率は、明らかに高いと言っていいように思う。

一方、他の歌手への提供曲でも、研ナオコの「あばよ」と加藤登紀子の「この空を飛べたら」という、初期の提供曲を代表する2つのヒット曲があり、また最近では、まだ記憶に新しい『縁会2012~3』の大阪フェスティバルホールでの追加公演で、ゲストの中島美嘉が歌った「愛詞」もまた4分の3拍子だった。

子守歌のリズム

そのツアー『縁会2012~3』の曲目の中でも、個人的にとりわけ懐かしく、聴くたびに胸を衝かれたのが、「泣きたい夜に」である。

1980年のアルバム『生きていてもいいですか』は、私が中島みゆきファンになりたての頃、初めて買ったアルバムだった。

その2曲目――あの「うらみ・ます」の慟哭を粛然として聴き終えた後――郷愁を誘うようなカントリー調のアレンジをバックに、「暗い時代を泳ぐひな魚」に向けて優しく優しく歌われるこの子守歌に聴き入るとき、まだ若かったその頃の私はいつも、自らを「ひな魚」になぞらえつつ、「私の胸においで」と歌う彼女の歌声に心を抱き取られていた。

子供の頃に好きだった歌の名前を言ってごらん
腕の中できかせてあげよう 心が眠るまで

現実のすべての悲しみや苦しみを忘れさせ、幼い日のやすらぎに満ちた眠りへと誘う子守歌――それは、揺り籠を優しく揺らすような4分の3拍子でなければならなかったのだと思う。

――4分の3拍子の子守歌。

「アザミ嬢のララバイ」でデビューして以来、中島みゆきは繰り返しそれを歌ってきた。

上記の「泣きたい夜に」や、2007年のツアーで「アザミ嬢のララバイ」へとつながる絶妙なメドレーで歌われた「ララバイSINGER」――それ自体、自らのデビュー曲へのアンサーソングでもある――のような、明示的で典型的な子守歌のことだけを言っているのではない。

中島みゆきにおいては、いわば歌詞の内容以前に、4分の3拍子のリズムそのものが「子守歌」の役割を果たしてきたのではないか――聴く者の心を、この「現実」の時間の流れから解き放ち、「夢」に象徴される、もうひとつの時間の流れへと誘うという意味で。

たとえば――

これもまだ記憶に新しい、夜会『2/2』の再々演VOL.17の大詰めで、ヒロイン梨花に (彼女が生まれる前に世を去った) 姉・茉莉が歌いかける「幸せになりなさい」――そして、それにかぶせるように、彼女を「古い記憶」の呪縛から救い出そうとして駆けつけた恋人・圭が歌う「旅人よ我に帰れ」。

この重唱は、梨花をこれまでの「現実」の時間から解放し、茉莉の存在する過去――あるいは異界――への遡行を経由して、新たな未来への転生へと誘うという意味で、やはりひとつの「子守歌」だったのではないか、と思う。

あるいは、最近の2枚のアルバム『荒野より』『常夜灯』のラスト曲である、「走」と「月はそこにいる」――後者は言うまでもなく、ツアー『縁会2012~3』の本編ラストでもあった――の2曲もまた、「現実」の時間からの離脱あるいは浮揚を誘う歌である。

どこまでもどこまでも続く「荒野」としての、あるいは「日々の始末に汲汲として」閉じてゆく1日の繰り返しとしての、この「現実」の生の時間を俯瞰し、過去から未来へと茫々と流れる「時」を見晴るかすことのできる、遥かな高みへの浮揚。

「夢」から「現実」へ

――しかしながら、「現実」の時間からの離脱あるいは浮揚は、当然のことながら永遠にはつづかない。私たちは、その束の間の「夢」のような時間を経て、また「現実」の時間へと戻ってゆくほかはない。

(このような図式を一般化することの危険性をあえて承知の上で言えば、ポピュラーソングの世界のマジョリティである) 4分の4拍子とは、中島みゆきにとって、その「現実」の時間を刻むリズムだったのではないか。

4分の3拍子と4分の4拍子、「夢」と「現実」という対比――

この対比の意味に――半ば無意識のうちに――最初に気づかされたのは、彼女の5枚目のアルバムのラスト曲、「断崖―親愛なる者へ―」を聴いたときのことだったと思う。

扉をあけて 出てくる人は
誰も今しも 旅に出る仕度、意気も高く

――「意気も高く」のところで曲は、それまでの伸びやかに踊るような4分の3拍子から、激しく疾走する4分の4拍子に、一瞬で切り替わる。この鮮やかな転換は、初めてこの曲を聴いた時から――そして何度聴きかえしても――とても印象的だった。

1984年のスペシャルコンサート「月光の宴」のラストでこの曲を歌ったとき、中島みゆきは4分の3拍子の前半部は歌わず、その代わりに、アルバムにはない――詞・曲ともオリジナルの――導入部から歌いはじめた。

ここから出て行きゃ あんたも現実
あたしも化粧を落とせば現実
だけど会えたよね 確かに見たよね
覚えてておくれよ

――それは、コンサートという束の間の「夢」の時間を共有し、そして「現実」の時間へと帰ってゆく客席の私たちへの、彼女からのエールだった。

4分の3拍子と4分の4拍子の対比を鮮やかに示しているもうひとつの曲が、夜会『ウィンター・ガーデン』の終盤で歌われる「六花」である。

六花の雪よ 降り積もれよ
すべてを包んで 降り積もれよ

初演VOL.11での、降り積もる雪がすべての痛みと哀しみとを癒し鎮めてくれることを祈りながら、〈女〉と〈犬〉とが互いに向けて歌う子守歌のような4分の3拍子。

しかし再演VOL.12では、〈犬〉は、自らの前生と同じ愛憎の悲劇へと〈女〉を導こうとする絶望的な運命に必死に抗い叫ぶかのように、激しく疾走する4分の4拍子のロックのアレンジでこの曲を歌う。

 

――もちろん、「夢」から「現実」への帰還とは、「夢」を否定し、かつてと同じ「現実」に舞い戻るという意味ではない。

むしろ「夢」の時間を経ることではじめて、中島みゆきの歌の主人公たちも、そして客席の私たちも、かつてとは異なる新たな「現実」へと転生することができる――

中島みゆきの4分の3拍子とは、その転生へと至るための「夢」の時間のリズムなのだ。


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