夜会唯一の男性ヴォーカリスト――宮下文一さんについて

「文さん、かっこよかったな~!」

2013年12月14日(土)、名古屋公演最終日の終演後のロビーの人波の中――連れに語りかける男性客の弾んだ声が耳に入ってきて、思わず、我が意を得たり、という思いがした。

今回の夜会工場VOL.1では、これまで舞台の下で、唯一の男性ヴォーカリストとして夜会を支えてきた「文さん」こと宮下文一が、初めて事実上のキャストとして舞台上にも登場したことが、見逃せない注目点のひとつになった。

 

彼の舞台上への登場は3度――それも重要な場面ばかりだ。

最初は、前半部の最終曲――もし休憩をはさんで2幕に分けたとすれば、第1幕のラスト曲になったに違いない――「NEVER CRY OVER SPILT MILK」

過去3回の『2/2』でのアレンジとは異なり、1番を宮下文一が、2番を中島みゆきがメインで歌い、それぞれのサビで互いがハーモニーをつける。そして――アルバム『日-Wings』と同じく――「NEVER CRY…」という美しく余韻を残す歌い終え方。

1番のサビで下手から登場する中島みゆきが、彼の坐る上手側の椅子の後ろを大きく回って彼の前を横切り、下手側の椅子に掛けるという、一連の動き――その途中で二人が右手を高く挙げて合わせるという、最後の大阪公演で追加された演出は、さらにその美しさに華を添えた。

この場面の意味は、「莉花と圭の後日譚のようでした」という、「夜会工場覚え描き」でのぴしわさんの的確なコメントに尽きるだろう。

 

未来の幸福への歩みの到達点――

しかし、初日のレビューで書いた通り、夜会工場というメタ物語の時間は――次の「明日なき我等」を転換点として――過去へと遡行しはじめるのだ。

彼が2度目に舞台上に登場するのは、それに続く「白菊」

ヴォーカルの分担は、「NEVER CRY…」とは逆に、1番を中島みゆき、2番を宮下文一が歌う。とりわけこの2番での、永遠に喪われた過去の幸福――「真白きあの日々」――への限りなき想いを歌う彼の声に、私は激しく胸を衝かれた。

VOL.10『海嘯』は、彼が初めて夜会にヴォーカリストとして参加した公演である。この曲では、中国人医師・梁先生役の張春祥に代わって――中国語歌詞の部分を除き――宮下文一が日本語の男性パートを歌った。

舞台上と舞台下――キャストとヴォーカリスト――の役割分担というこの手法は、彼が再び夜会に参加したVOL.13『24時着0時発』以降、より積極的に活用されるようになる。

これ以降、彼はいわば音楽面における〈鮭〉〈厨子王〉〈矢沢圭〉といった男性の役柄を――時にはサイドヴォーカリストではなくソロヴォーカリストとしても――歌声によって、文字通り「演じる」ことになるのだ。

その舞台下での「演技」を舞台上に移すという今回の試みは、舞台裏を表舞台に引き出し可視化するという「夜会工場」のコンセプトの、ひとつの必然的な帰結だったのではないだろうか。

 

彼が夜会工場VOL.1で3度目に――僧形の厨子王の姿で――舞台に立つ「都の灯り」 は、夜会VOL.15「元祖・今晩屋」、VOL.16「本家・今晩屋」での、そうした事実上のソロ曲のひとつ――それもおそらくは最も重要な一曲であった。

しかしそこに至る伏線として、前曲「らいしょらいしょ」の、あどけない手毬歌のリフレインが、いつのまにか悲劇的な未来を予示するかのように激しくクレッシェンドしてゆくときの彼の声の切迫した力――

この伏線があってこそ、彼が歩み入る扉の向こう側の世界、やがて舞台背面の全面を覆ってゆく炎と爆発に灼かれる未来――来生――のイメージもまた、重く逃れがたいリアリティをもって私たちに迫ってくるのだ。

 

――ところで「文さん」といえば、多くの中島みゆきファンには、上述のような夜会での歌唱だけでなく――劇場版や映像ソフトにもなった2007年のコンサートツアー『歌旅』での、「宙船」の1番をソロで颯爽と歌う姿をはじめとして――近年のツアーやアルバムでの活躍もまた、強く記憶に残っていることだろう。

ライヴでのあの場面ももちろん印象的だったが、私自身が彼の存在をはじめて意識したのは、1999年のアルバム『日-Wings』の収録曲「いつか夢の中へ」での中島みゆきとのデュエットによってである。

『2/2』の再演、夜会VOL.9でのみ――矢沢圭役の藤敏也とのデュエットで――歌われたというこの曲を、私は残念ながらライヴでは聴いていない。

しかし、このレコーディングでの宮下文一と中島みゆきとの、絶妙な距離を取りながら繊細に美しく織りなされてゆくハーモニーは、見通し難い未来を探しあぐねる圭と莉花のふたりの心の迷いと震えを、余すところなく歌いぬいていて忘れがたい。

いつか夢の中へ 1人あなたはさまよっている
(いつか1人 あなたなしにさまよっている)

――この距離感、近づきたいと願うがゆえの遠さの悲しみを歌うふたりの声は、およそ一度でも誰かとふたりで未来を探そうとしたことのある人ならば、誰もが記憶の奥底に隠しているはずの琴線に触れてくるのではないだろうか。

 

中島みゆきが、夜会唯一の男性ヴォーカリストとして彼に信頼を置きつづけている理由は――

中島みゆきのオクターブ下という深々とした低音から、艶やかな高音に至るまでを楽々とカバーする声域の広さ――あるいは『24時着0時発』の「遺失物預リ所」のような繊細さをきわめた歌唱から、上述の「らいしょらいしょ」や「都の灯り」のような、迫力あるフォルティシモに至るまでのダイナミックレンジの広さ。

――しかしそういった技術的な理由に加えて、おそらくより重要なのは――上述の「いつか夢の中で」のように――中島みゆき自身が演じる「女」たちにとって、永遠に交わることのない平行線のように、つねに一定の距離の向こうに存在しつづける「他者」としての「男」の役柄を、自らの「声」によって演じ表現する力を、彼が備えているからなのだろう。

そしてその距離のゆえにこそ、ふたりの声は互いに美しく響きあうことができるのだ。

夜会工場VOL.1 千秋楽

2013年12月22日(日)、大阪シアターBRAVA!で、夜会工場VOL.1は千秋楽を迎えた。

初日、11月22日の東京公演から、あっという間のひと月だった。それはまるで、この夜会工場の1回の公演、2時間を全速力で駆け抜ける工場ツアーのトラムが、1ヶ月という公演期間全体の間も、私を乗せて走りつづけていたかのようだ。

この間、私は11月26日(火)の東京追加公演、そして12月4日(土)の名古屋公演最終日にも足を運んだ。そのたびごとに、それぞれに新たな発見、新たな思いがあったが、それらをゆっくりブログ記事にまとめる時間が持てないまま、千秋楽まで来てしまった。

これまで、夜会でもツアーでも、千秋楽を迎えた後にはいつも、「まつりの終わり」のような寂しさに襲われた。それは今回ももちろん例外ではないのだが、その寂しさ以上に、まだトラムに乗って走りつづけているかのような疾走感が、私の中には残っている。

その疾走感が薄れないうちに――千秋楽のレビューを兼ねて――夜会工場VOL.1について感じ、思い、考えたことをまとめておきたい。

――といいつつも、私ひとりの印象や記憶に頼る限り、書けることはごく限られる。

かつて同人誌に書いた記事や、このブログの記事もすべてそうであるように、ともに中島みゆきを見つめつづけてきた友人・知人たち、そしてネット上で縁あった――あるいは見知らぬ――多くの人びとが語ってくれる感想や情報、あるいは彼女たち・彼らとの対話を抜きにして、中島みゆきについて考え、書くことはほとんど不可能だ。

これはかつて――今から四半世紀前に――パソコン通信に参加した時以来、インターネット時代に入ってからも同様に、それらの人びとへの感謝の思いとともに、ずっと感じつづけてきたことだ。

今回の夜会工場VOL.1では、ぴしわさんという方の「夜会工場覚え描き」というブログを、そうした感謝の思いとともに新たに発見した。

中島みゆきやキャストたちの多彩な表情や動きや衣装、あるいは舞台装置のビジュアルを、正確に、鮮やかに再現してくれるその画力には――とりわけ私のような、ビジュアル面の記憶力が悪く、とくに衣装には疎く、いわゆる「絵心のない」人間は――驚嘆するばかりだ。

以下では、ぴしわさんの「覚え描き」を随所で参照 (リンク) させていただきながら、ビジュアル面を中心に、夜会工場VOL.1から私が受け取ったものについて書いていきたい。

ビジュアルの印象(1)――前半

まず全体を通じて重要なのは、「夜会工場」というコンセプトそのものを見事に可視化した舞台全体のセットだ。

頻繁な場面転換の必要上、夜会のように凝った舞台装置を使えないことをむしろ逆手に取り、「夜会を生産する工場」という――通常の意味では――舞台裏であるはずのラフな空間をあえて舞台に、前面に押し出すという発想の転換。

この発想の卓抜さゆえに、普通であれば「チープ」に見えてしまいかねない――夜会に比べれば簡易な――各場面の舞台装置も、むしろ独特のリアリティをもって見えてくる――その具体例は後で述べる。

初日のレビューに書いた、前半での悲しみからの再生と未来への希望、後半での過去への遡行と転生という「メタ物語」の構造は、基本的には修正の必要を感じなかった――というより、観るたびに、よりその印象を強くした。

このメタ物語の前半の核になる曲の中で、とりわけビジュアル面で強く記憶に残ったのは、「月の赤ん坊」である。

夜会1990でのこの曲の、膝を抱えた胎児のような中島みゆきのシルエットと、その上空に浮かぶ巨大な月も印象的だったが、夜会工場では彼女は、鉄の階段の上で青い月光を浴び、同様の姿勢を取りつつ――胎児を包む羊膜のような――半透明のシートに身を包んで歌う。

それは、胎内への回帰と再生というこの曲の――ストーリーの中での――意味を、より鮮明に印象づける。

前半のハイライト「泣かないでアマテラス」では、エンディングで舞台背面の背の高い扉が――天岩戸のように――かすかに開き、眩い光がもれる。それは、未来への希望の光なのか。

この扉の使い方は――後の曲についても触れるように――とても効果的だ。

ただ、上記のメタ物語に必ずしもぴったり当てはまらない曲――とくに前半での「笑わせるじゃないか」、「SMILE, SMILE」、「女という商売」――については、そうしたストーリーにはこだわらず、もっと素直に、それぞれの夜会の場面と文脈を思い出しながら聴き、観たほうが大いに楽しめ、堪能できたのも確かだ。

とくに「SMILE, SMILE」での、中島みゆきの可愛らしくコミカルな恐竜の着ぐるみと、舞台後方の大きな一匹の恐竜、手前の三匹の小さな恐竜たちとの組み合わせは、なんとも言葉にしがたい強烈なインパクトを残した。

ついでながら、大きな恐竜と小さな恐竜のセットは、「昔、大きな恐竜も 昔、小さな恐竜も……」という、あの「昔から雨が降ってくる」の印象的な歌詞をも思い出させる。

「女という商売」では、花魁風の衣装を身にまとった香坂千晶と植野葉子の妖艶な動きもさることながら、その背後に降りてくる、遊郭の赤い格子窓をデフォルメしたような大きな枠組も印象的だ。

この曲と演出は、中島みゆきがこれまでさまざまなかたちでこだわり、歌ってきた〈娼婦〉という重要なモチーフ――これについて、ここで詳しく述べる余裕はないが――の、また新たなひとつの表現というべきだろう。

ビジュアルの印象(2)――後半

前半から後半への転換点――あるいは後半の出発点――となる「明日なき我等」では、2番の歌詞を舞台中央で歌う中島みゆきを真上から照らすライトの細長い円錐形が、まさに過去と未来との境目に立つ「やじろべえ」の軸のようにも見えて、きわめて印象的だった。

――もっともこれは、11月26日の東京追加公演で、たまたま2階最前列中央という、ビジュアルの全体を見渡すには最高の席に恵まれたがゆえの偶然だったのかもしれないが。

舞台背面に投影される、窓の向こうに広がる青く美しい海――「渦巻く時の波間」――といい、夜会工場VOL.1全体のストーリーの中での、この曲の重要な意味――それはおそらく、夜会全体の中で『海嘯』という演目のもつ意味でもある――を、回を重ねるたびに再認識させられた。

つづく「白菊」では、舞台背面のあの扉が、ふたたび重要な意味をもつ。

開かれた扉の中に立ち、大きなむく犬と一緒にこちら側(舞台)を眺めている、中国人医師・梁先生 (宮下文一) ――『海嘯』の物語の中で彼は、殺された妻子の姿を幻視しつつ、この曲を歌う。

――だとすれば、中島みゆきが演じ歌う舞台の上の世界は、死者の住む異界――あるいは、生者からみた「前生」の世界――なのではないか。

この見方は、「天使の階段」でも裏付けられる。

『ウィンター・ガーデン』でのこの場面は、中島みゆきが演じる〈犬〉が、唯一、前生の姿――GLASSHOUSEの主人の愛人――で登場する場面である。

あの場面の、真紅のドレスと赤い野球帽が、純白のウェディングドレスと紫の新郎の上着に置き換えられたのは、映像ソフトがリリースされていないこの演目、この場面の意味を、少しでもわかりやすく表現するという意図もあってのことかもしれない。

しかしこの置き換え――とりわけ、ウェディングドレス姿の中島みゆきの、息をのむような美しさ――によって、取り戻しようのない過去、喪われた前生の幸福の意味が、より深く痛切な哀しみとともに可視化されているのも間違いないのだ。

終盤近い「都の灯り」で、舞台背面の扉が三たび開かれる。

『今晩屋』の第1幕ラスト、僧形の厨子王が、炎上する縁切寺の扉の向こうへと脱出する場面の再現だ。だが今回、炎は舞台背面の全体に広がり、やがて戦火をも思わせる爆発が目を射る。

扉の向こうの世界は、こちら側の世界、すなわち前生からみた今生なのか、それとも今生からみた来生なのか――

いずれにせよ、炎に包まれた未来を予示する「都の灯り」を、転生への希望を歌う「命のリレー」よりも後にあえて歌ったことの意味――

また、「泣かないでアマテラス」を、前半のハイライトの場面でいま改めて歌うことの意味 (アマテラスが象徴するものについては、説明するまでもないだろう) ――

そして新曲「産声」のこの歌詞の意味――

「産まれは何処の国」「心は何処の国」
それだけで聞き終える 何もかも聞き終える

これらの意味を考えれば考えるほど、この夜会工場VOL.1には、この時代への――あるいはこの国への――中島みゆきの強い危機感が反映しているのではないか、という思いが深くなる。

しかしこのことについては、これ以上具体的に想像を展開するのはやめておこう。中島みゆきがいつもそうするように、この種の問いへの答を探す作業は、私たちひとりひとりに委ねられるほかはないのだから。

エピローグ

ビジュアル面を中心に、と言いながら、肝心の中島みゆきの衣装を含めたビジュアルについては――上記のウェディングドレスのことを除けば――何も書いていないではないか、とのお叱りを受けるかもしれない。

それは、言い訳をすれば、(上に書いたように) 私が衣装に関する知識に疎いせいでもあるのだが、それ以上に、彼女のビジュアルについて、その歌や言葉や演技――あるいは彼女の存在そのもの――から切り離して語ることが、あまり意味がないように思えるせいでもある。

ネット上でしばしば話題となった、高いピンヒールを彼女が終始履きつづけていたことの意味についても、結局私にはよくわからない――というのが正直なところだ。

夜会の様々な役柄を演じる案内役の工員、そしてその工員を演じるひとりの女性――その女性を可視化しているのがピンヒール、という見方もできるかもしれないが、それがピンヒールである必然性はあまりないようにも思える。

 

と言いつつ――節操なく前言を翻すようだが――今回の夜会工場VOL.1では、中島みゆきのビジュアルの「力強い美しさ」とでも呼ぶべきものに、改めて何度も魅惑されたことを告白しておこう。

実年齢と比較して云々、といった下世話な話はあまりしたくはないが、7歳も年下の我が身と引き比べると――もちろん比べる方が間違っているのだが――やはり彼女の輝きには驚嘆するほかはない。

ただ、年齢とは別の問題かもしれないが、千秋楽では、彼女もまた生身の身体をもつひとりの人間であることも痛感させられた。

今回の夜会工場では、東京公演でも名古屋公演でも、限りなく力強く伸びてゆく声に圧倒され、彼女の声の調子は絶好調のように思えたのだが、最後の大阪公演に来て、不覚にも風邪をひいたのか――とくに高音がかすれ気味の――苦しそうな発声に、聴いている私も、心配交じりの声援を心の中で送りつづけずにはいられなかった。

後でネット上でも同様の感想をいくつか目にして、「保護者目線」のファンの思いが同じだったことに、意を強くしたりもした。

 

が、それにもかかわらず、舞台の上から放射されてくる彼女のエネルギーは――上述のビジュアルからくるものとも相まって――むしろ終盤になるほど力強さを増し、私を圧倒しつくした。

有限の生命を、時の流れを超えてゆくエネルギーとでもいうべきものを、私は今回の夜会工場VOL.1ではこれまでにも増して強く、彼女から受け取ることができたような気がする。

千秋楽のカーテンコールでの、1階席総立ちのスタンディングオベーションは、そのことへの心からの感謝のようにも、私には聴こえた。

終演後は、恒例の歌暦ネットを中心とした仲間たちとの飲み会。余韻に浸りつつ、中島みゆきによって結ばれた「縁」を実感する、懐かしくかつ愉しいひとときだ。

中島みゆきの最後のMCでのメッセージと同じく、「良いお年を」の挨拶とともに、次のツアーで、夜会で、あるいは夜会工場VOL.2で(?)の再会を約して、私たちは家路に就いた。

追記

今回の夜会工場では、夜会唯一の男性ヴォーカリストである「文さん」こと宮下文一の大活躍――事実上の男性キャストとしてのそれも含めて――が特筆に値する。このことについては、単独の記事として別に書きたい。

公演期間中に、夜会の振り付けをずっと手がけてきた演出家、竹邑類さんの訃報が飛び込んできた。この夜会工場のスタッフでもあるので、事実上、これが遺作となるのではないだろうか。これまでの夜会のさまざまな演目での、中島みゆきやキャストたちの多彩な身体動作が目に浮かぶ。心よりご冥福をお祈りしたい。

最後に、この夜会工場VOL.1を観たことで、これまでの17回の夜会を、新たな視点から捉えなおすというテーマも浮上してきた。が、それを実行に移すのは、もちろん今後の課題である。

夜会工場VOL.1 初日

11月22日(金)、赤坂ACTシアターにて、夜会工場VOL.1の初日を観てきた。まだその興奮と余熱が冷めやらぬ今のうちに、第一印象を記しておきたい。

初日の数日前から――前の記事に書いたことの繰り返しになるが――ツアーとも夜会とも異なる新形式のライヴ、それもその初日を目撃するということへの胸騒ぎまじりの期待が、私の中でいやが上にも高まってきた。

私にとって初めての中島みゆきのライヴは1983年の「蕗く季節に」ツアーだったから、それからちょうど30年目になるわけだが、こんな感覚を味わうのは、もしかしたらその時以来、実に30年ぶりのことかもしれない。

開場後、ロビーでシャンパンを求め、ひとり祝杯をあげた後――何人か友人・知人が来ているはずだが、残念ながら見つからず――早めに席に着く。今回、この会場では初めての2階席、それも後方だが、幸いにもほぼセンターに位置しているため、舞台の全体をとてもよく見渡すことができる、その意味では良席である。

舞台はまだ暗いが、緞帳は降りていない。「工場」をイメージした灰色の石造りの壁面・床面と、黒い金属製の階段や機械類のオブジェで構成された、ラフでシンプルな舞台装置。

まだ開演前、1ベルが鳴り場内アナウンスが終わると、シンセの自動演奏 (録音?) による静かでゆったりとしたテンポの「二雙の舟」が流れはじめ、ミュージシャンたちが上手・下手に分かれたステージの上に登場し、黒い作業服姿のスタッフたちが、床の上にあった雑多な機械類(?)を片付け始める――

――この、日常から非日常への静かで段階的な移行は、私の中でいやが上にも高まってくる期待を確実に受け止め、やがて始まる異界への旅に、私を見事に誘ってくれた。

――さて、この調子で開演から終演までをフォローしてゆくときりがなくなるので、時系列順の流れはこの記事末尾の曲目表に、また演出や衣装等の詳細は他の方々が書かれているサイトやブログでのレポートに譲ることとする。

以下では、できるだけ簡潔に、私の印象や記憶の中でも、とくに重要と思われることだけに焦点を絞ってまとめておきたい。

全体的印象

まず、初日を観終っての全体的な印象として――やや月並みな表現ではあるが――「極上のエンターテインメント」を息つく暇もなく、これでもかというほどに体感し堪能しきった、という実感がある。

中島みゆき自身の歌の、どこまでも伸びてゆく声と言葉の力強さ、15着もの多彩な衣装も相まってのビジュアルの美しさ、共演者を含めたパフォーマンスの見事さ、ミュージシャンたちの繊細・柔軟かつパワフルなアンサンブル、上記のシンプルな舞台装置を巧妙に活かした演出――

それらのすべてが有機的に結合し、「猛スピードで駆け抜ける工場ツアーのトラム」に運ばれてゆく疾走感が、見事にひとつの流れとして構築されていた。最近の夜会やツアーのように休憩をはさまず、一気に駆け抜ける2時間の工場ツアーは、あっという間に過ぎ去ってしまった感もあった。

例によって歌詞忘れや歌詞間違いと思われる箇所は何度かあったが、それらは全体の感銘を傷つけるようなものでは決してなく、むしろそれさえも、初演という緊張感を高めてくれる要素となったような気さえした。

案内役の工員に扮した中島みゆき自身が冒頭のMCで述べていた通り、今回の「夜会工場VOL.1」は、これまでの17作の夜会を「制作年代順に一周する」、「初心者向けコース」とのことだ。

しかし、これが「初心者向け」だとすると、中島みゆきの私たちオーディエンスに対する要求水準は、かなり高いものだと言うべきかもしれない。

夜会のライヴや映像ソフトに接したことのない本当の「初心者」が、この「夜会工場」からどんな印象を受けるかはちょっと想像がつかない。が、これまでの大半の演目をライヴで――一部を映像ソフトで補完しながら――観てきた私にとって、各演目から抽出された1曲ないし2曲と、それぞれの場面との再現は、各演目のテーマやストーリー、さらにはそれらにまつわる個人的な記憶をも含めた、広い意味での「文脈」から切り離しては、決して聴くことの、また観ることのできないものだ。

事実、とくに冒頭の数曲、初期の夜会の曲目と場面の再現では、その頃の個人的記憶が思わず再浮上し、何度も感極まることを禁じ得ない瞬間があった。

だが、この「夜会工場VOL.1」は、これまでの夜会を単に回顧するための「総集編」でも「集大成」でもない。

「溶鉱炉に溶かしてさらに次のものを作る」、「集大成ではなくて別の子が1人生まれた感じ。区切りではない」という (下記、新聞記事の一覧にもある「スポーツ報知」の記事のインタビューでの) 中島みゆき自身の言葉も、そのことをはっきりと裏付けている。

――だとすれば、少なくとも、これまでの夜会の演目を記憶している (私を含めた) オーディエンスに今回要求されているのは、VOL.1からVOL.17までの夜会の物語群を――私たち自身のそれらにまつわる記憶をも含めて――俯瞰しつつ、それらの「原料」あるいは「部品」であった個々の曲目や場面を、さらに新たな物語――「製品」――へと組み立てなおすという作業なのだろう。

それは、夜会という物語についての物語――いわば「メタ物語」――を構築する想像力、と言い換えてもよいかもしれない。

さらなる転生の物語へ

以下では、私なりのその組み立て直し作業のひとつの試みとして、「夜会工場」VOL.1がその全体を通して私に語りかけてきた――あるいは語りかけようとしていた――物語を再構成してみたい。

ただしこれはあくまでもひとつの「試論」であり、後日の公演を観ることで修正される可能性もある。

今回の曲目を振り返ってみると、前半――夜会VOL.1からVOL.9まで――の流れが意味していたのは、あらゆる悲しみや挫折を超えて、「未来」へと向かってゆく希望であったように思う。

悲しみから希望への転換点となるのは、「地上に悲しみが尽きる日は無くても……それに優る笑顔がひとつ多くあればいい」と歌う、「泣かないでアマテラス」である。

植野葉子と香坂千晶の、あのアメノウズメの衣装での見事なパフォーマンス――やがてそこに中島みゆきが加わる――とも相まって、この曲と場面は、夜会VOL.4『金環蝕』の記憶を正確に再現しつつ、今回の「夜会工場」VOL.1前半の最大のハイライトともなっている。

そして、この前半の――未来の希望への――流れの到達点は、夜会VOL.9『2/2』からの「NEVER CRY OVER SPILT MILK」に置かれている。

クリスマスツリーを思わせる、電飾された機械のようなオブジェ――それは「幸福」の象徴でもあるのだろう――の前で、まず紫のタキシードのような上着を着た宮下文一がソロで歌い、ついで同じく紫のドレス姿の中島みゆきが加わり、デュエットとなる。

過去のすべてが私の邪魔をしても
あなたとならば明日がある気がしてくるの

――それは、『2/2』のヒロイン莉花の、過去と訣別して未来の幸福へと向かう決意を表明する歌だった。しかし、やはり『2/2』においてもそうであったように、莉花のその決意も、「過去」の呪縛を振りほどくことはできなかったのだ。

後半――夜会VOL.10からVOL.17まで――の視点は、その「過去」へと向かってゆく。

転換点となるのは、「過ぎた日々と明日とは支え合う弥次郎兵衛」と歌う、「明日なき我等」である。この場面で、背後の窓の向こうに広がる青く美しい海は、「我等」がさすらう「渦巻く時の波間」――過去と未来とのあわい――をも意味していたのかもしれない。

ついで、同じく夜会VOL.10『海嘯』の「白菊」では、取り戻すことの決して叶わない日々への、限りなく悲痛な想いが歌われる。

雪よ返せ すべてを真白きあの日々に
雪よ返せ 私を別れの前の日に

夜会VOL.11/12『ウィンター・ガーデン』の舞台となったのは、まさに真白き雪と氷の世界であった。

『天使の階段』で、純白のウェディングドレスにつつまれて登場する中島みゆきの姿は、思わず息をのむほどに、そして哀しいほどに美しい。

その哀しみは、『ウィンター・ガーデン』でのこの場面――〈犬〉の前生、GLASSHOUSEの主人を訪ねてきて、氷の湖で命を落とした愛人――の記憶からくるものでもある。あの時、彼女が大事そうに抱えていた彼との思い出の赤いCAP (野球帽) は、今回の場面では、紫色の男性の上着――上記の「NEVER CRY OVER SPILT MILK」で宮下文一が着ていたのと同じもの(?)、あるいは披露宴の新郎の衣装(?)――に変わっている。

ウェディングドレスと紫の上着は、喪われた過去――あるいは前生――の幸福の、まさに象徴なのであろう。

そして、やはりあの赤いCAPと同じように、紫の上着も強風で氷の上に飛ばされ、それを追ったウェディングドレスの中島みゆきは、氷の間に姿を消す――

取り戻しようのない過去――あるいは前生――の救済への希望は、夜会VOL.13/14『24時着0時発』『24時着00時発』の「命のリレー」で歌われる、「次の宇宙」すなわち「来生」への転生へと託される。

しかし、いま私が生きているこの生――「今生」――も、もしかしたら、忘れてしまった「前生」からみた「来生」だったのかもしれない――夜会VOL.15/16『今晩屋』の不思議な手鞠歌「らいしょらいしょ」は、この、さらにめくるめくような視点の転換をもたらす。

――だとすれば、いまこの「今生」を生きている私は、自らの「前生」の願いを引き継ぎ、その救済への希望を、果たして叶えることができるのだろうか。

『今晩屋』第1幕の終曲であった「都の灯り」――炎の中に崩れ落ちる「来生」への、僧形の厨子王の、絶望的とさえ思える脱出――は、この答の出ない問いを改めて思い出させ、私に突きつける。

夜会VOL.17『2/2』「竹の歌」は、「ただまっすぐに光のほうへ」伸びてゆく、勁くしなやかな生の象徴として、この問いへの答を、私に与えてくれているのだろうか――

異界への旅、転生、そして救済の物語としての夜会――

その旅はまだ未完であり、さらなる転生の物語を、これからもまた夜会は紡ぎ織りなしてゆくだろうという期待と予感を、「夜会工場」という「メタ物語」は、私に与えてくれるような気がする。

「産声」を歌うこと

終演後、玄関前で再会した、古くからのみゆきファン仲間の知人から、「最後に、これまでの夜会のような、もう一段上のどんでん返しがなかったことが物足りなかった」という意味の感想を聴いた。

その感想は――各演目のラスト曲やそれに準ずる代表曲をもっと聴きたかったとか、中島みゆき自身の歌をもっと堪能したかったとかの、ネット上に散見される不満よりも――はるかに正確に、「夜会工場」という新たな試みの本質を射抜いているような気が、私にはした。

「もう一段上のどんでん返し」は、これまでの夜会では、個々の夜会の中で語られる物語の全体をさらなる高みから俯瞰し意味づけなおすような曲や場面――たとえば最近では、VOL.17『2/2』の第3幕や、VOL.13/14『24時着0時発』『24時着00時発』のラストの「サーモンダンス」「命のリレー」――として、基本的には中島みゆき自身が、私たちに提示してくれていた。

だが、「夜会工場」ではその作業は、基本的には私たちオーディエンスに委ねられているのではないだろうか――

そのように感じる大きな理由のひとつは、冒頭とラストの2度歌われる――「夜会工場」のテーマ曲とも思われる――新曲「産声」にある。

開演の挨拶の後、「Aトーンが聴こえてきます。あらゆる民族の新生児が、産声として最初に発する声が……」という中島みゆきの言葉が導入となり、ピアノのA (ラ) の単音の繰り返し――オーケストラやバンドの最初のチューニングの時に使われるあの音――が、この曲のイントロへとつながってゆく。

それは、「誕生」あるいは「再生」という、これまで中島みゆきが、夜会も含めたさまざまな作品の中でくりかえし歌い語ってきたテーマ――そのことについては、ずいぶん昔にも同人誌の記事に書いた――の反復であるようにもみえる。

また、同時にこの曲は、中島みゆき自身がこれまでの夜会のために産み出してきた、さまざまな歌たち――あるいは、それらを通じて語られた物語たち――に寄せる想いを歌った歌でもあるのだろう。

――しかし、その二重の意味を踏まえたうえで、さらにこの歌は、私たちオーディエンスへの中島みゆきからの希望と期待をこめたメッセージであるようにも聴こえてくる。

誰か私のために あの歌を歌ってください
まだ息をするより前の 産まれながらに知っていた歌を
誰か私のために あの歌を歌ってください
産まれくる総ての人が 習いもせずに歌える同じ歌

産まれながらに知っていた「産声」を、もう一度歌いなおすこと――

それは、私たち自身が自らの生の中で新たな生へと「産まれなおす」こと――そしてそのことによって、転生の物語としての夜会を、私たち自身がさらに新たな転生へと導くための力になるということ――を意味しているようにも、私には聴こえた。

【キャスト】

  • 中島みゆき
  • 植野葉子
  • 香坂千晶

【ミュージシャン】

  • 小林信吾 (Conductor, Keyboards)
  • 矢代恒彦 (Keyboards)
  • 中村哲 (Keyboards, Saxophone)
  • 古川望 (Guitars)
  • 富倉安生 (Bass)
  • 島村英二 (Drums)
  • 杉本和世 (Vocal)
  • 宮下文一 (Vocal)
  • 牛山玲名 (Violin)
  • 民谷香子 (Violin)
  • 友納真緒 (Cello)

【曲目】

  1. 二雙の舟 Inst.
  2. 産声
  3. 十二月
  4. 月の赤ん坊
  5. キツネ狩りの歌
  6. さよならの鐘
  7. 泣かないでアマテラス
  8. 笑わせるじゃないか
  9. シャングリラ
  10. TOURIST
  11. SMILE, SMILE
  12. 女という商売
  13. NEVER CRY OVER SPILT MILK
  14. 明日なき我等
  15. 白菊
  16. 街路樹
  17. 天使の階段
  18. ミラージュ・ホテル
  19. 命のリレー
  20. らいしょらいしょ
  21. 都の灯り
  22. 竹の歌
  23. 産声
  24. 二雙の舟

「2/2」から夜会工場VOL.1へ

夜会VOL.17「2/2」大阪公演の千秋楽 (2012年2月21日) から、早くも1年9ヶ月近くが経った。

できれば現在ロードショー中の劇場版を観に行きたいところだが、残念ながらその時間が取れそうになく、自宅で――家族が出かけた休日の午後、大型TVでじっくりと――ブルーレイディスクを鑑賞することにした。

評判どおり、映像ソフトとしての完成度は非常に高い。舞台の記憶が忠実に、鮮明に再現されるだけでなく、ライヴでは観ることが困難な細部のクローズアップがうまく挿入され、記憶を補完してくれるのは、映像ソフトならではの大きなメリットだ。

自宅に居ながらにして、ワインのグラスを傾けながら、夜会の舞台を堪能する贅沢な時間を過ごすことができた。

 

この演目の内容や解釈に関しては、一昨年に書いた東京公演のレビューに付け加えるべきことは、基本的にはあまりない。

ただ、とくに第1幕第2場、コビヤマ洋一演ずる日本画家・矢沢圭のアトリエの場面を観ていてふと思い出したのは、もうひとつ前の夜会、VOL.15/16「今晩屋」で、同じく彼が演じた〈元・画家のホームレス〉(転生した厨子王) のことだ。

「海に絵を描く」の場面での、意志に反して動く右手の絵筆 (VOL.16では左官のコテ) に引っ張られるかのように、苦しげに空中に絵を描く身振り。それは――この夜会のすべての登場人物が苦しめられることになる――前生の記憶による呪縛の表現のひとつだった。

VOL.17「2/2」では、中島みゆき演ずる上田莉花が、やはり鏡の中のもう一人の莉花に操られるかのように絵筆をとり、圭が描いた自らの肖像画を描き変えてしまう。

――いずれの場合も、「絵を描く」ということは、自らの生を自らの意志によって生きるということの暗喩なのだろう。

そのように考えると、このVOL.17で追加された新曲「遠近法」の次のような歌詞も――この段階では、まだそのことをはっきりと認識できているわけではないが――抑圧された過去の記憶に苦しめられている莉花を目の前にして、どうすることもできない圭の焦燥の表現として聴こえてくる。

遠くにある 過去にある 遠すぎて描けない
そこにある 傍にある 近すぎて描けない

だとすれば、第2幕での「真実の灯をかざして」莉花の過去を明るみに出そうとする彼の旅は、ひとりの画家として、愛する者の真実の生を描き出すための旅でもあった、ということになるのだろう。

 

――さて、夜会工場VOL.1の初日まで、いよいよ1週間を切った。

キャストやミュージシャン、スタッフもすでに発表され、「――何の工場だろうか……」で始まる思わせぶりなコピーも気を持たせる。

厳密にはこれまでの夜会ともコンサートとも異なる、この新形式のライヴの具体的な内容については、まったく予断を許さないというほかはない。

「夜会VOL 17 2/2劇場版」公開記念トークショーに出演した香坂千晶と植野葉子のお二人も――当然のことながら――夜会工場については、リハーサル中という以上のことは何も語っていない。

ただ、ヴァイオリンの牛山玲名さんのブログ記事での、「五感のみならず第六感までを駆使するのが役者ならば、私も六感までを表現する奏者になろう」という言葉は、胸騒ぎ交じりの期待を大いに高めてくれる。

――その胸騒ぎを楽しみながら、初日を待ちたい。

それぞれの中島みゆき

いつものごとくブログ更新をさぼっている間に、次々と新しい中島みゆき関連ニュースが飛び込んできた。

ニューアルバム『十二単~Singles4』や、DVD/BD『夜会VOL.17 2/2』のリリースももちろん楽しみではあるし、同じく夜会VOL.17の劇場版の公開も近い。そして、予断を許さない新形式のライヴ「夜会工場 Vol.1」の初日も、約3週間後に迫った。

しかしまずは、一昨夜NHK-BSプレミアムで放送された「オール中島みゆきナイト」のことから。

4年前の2009年、同じくNHKのBS2(当時)で放送された「BS熱中夜話」が、多くの「コア」なみゆきファンをゲストに招いたマニアックな内容だったのに比べると、今回は全体に「ライト」層向けという感じかな……と思いながら観ていると、最後に思わぬどんでん返しが来た。

スナック「みゆき」に工藤静香の手紙を届けにきた郵便屋さんが、なんと中島みゆき本人!

思わず凍りつく(?)出演者たちに、ただ一言――

「力うどんは、天かす抜きでお願いします」

この飄々たる衝撃力――というのも変な表現だが――は、いかにも彼女らしい、というほかはない。

ちなみに、力うどんは彼女がコンサートの開演前に取る食事の定番だというエピソードがその少し前に出てきたのだが、その伏線抜きでは、まことに謎な発言にしか聴こえないだろう……

 

それはそれとして、番組の前半で印象に残ったのは、出演者たちや、街頭インタビューを受ける一般の人びとの語る中島みゆき像が、実に多様で「人それぞれ」であることだ。

それは、中島みゆきというアーティストの多面性の反映とみることもできるかもしれない。

しかしより正確にはそれは、ひとりひとりの聴き手にとって――それが「コア」なファンであろうと「ライト」な聴き手であろうと――中島みゆきがつねに自らと「1対1」の関係で向き合うしかない相手になってしまう、ということを意味しているような気が、私にはする。

この「1対1」の関係ということについては、かなり以前に同人誌の記事にも書いたが、私のくだくだしい説明よりも、中島みゆき自身が以前にインタビューで語っていた次のような言葉の方がはるかに、その意味をシンプルかつ的確に伝えてくれるだろう――

たとえ3000人のコンサートホールで歌っているときでも、1対3000じゃないんですよ。1対1が3000あるだけです。

――つまり、彼女の1枚のCDを100万人の人が聴いたとすれば、1対1が100万あるだけ、なのだ。

 

そうした意味で「1対1」で彼女と向き合ってきたファンの中には、いわゆる一般人だけでなく、著名人やミュージシャンも当然存在する。

10月30日にアルバム『W FACE』をリリースし、その収録曲「Winter Song」に中島みゆきが歌詞を提供したことで話題になった織田哲郎も、まさしくそうした「ファン」の一人であったようだ。

ラジオ番組のインタビューでの、「織田さんが、中島みゆきさんを長年、リスペクトしていると伺ったんですが……」という問いに対して、

リスペクトじゃないです。単に、ファンなんです

――この答は、とても格好よく、すがすがしい。

このインタビューで彼が語っていたように、かつて、いわゆるバブル前夜の頃、中島みゆきといえば「暗い」歌の代名詞であり、一般のファンはもちろん、ましてやミュージシャンにとって、彼女のファンであることを公言することがはばかられるような時代があったことは、最近の若いファンの方々には理解しがたいことかもしれない。

私自身、そうした「暗黒時代」をくぐり抜けてきたファンの一人として、「暗いのが何が悪いんだ、と思っていた」という彼の言葉には、個人的に思わず共感させられてしまう。

「Winter Song」は、そのたたみかけるようなアップテンポの曲調と、いかにも彼女らしい歌詞とのコンビネーションが魅力的だ。

Winter Song 冬は何か始まる
底の底まで冷えた心 はずみのように熱をもつ

――そんな「始まり」の季節としての冬への期待を、私もやはりひとりの中島みゆきファンとして、共有したくなる。