「野球」と「記憶」――夜会『ウィンター・ガーデン』と『博士の愛した数式』

「夜会ステージアートスペース」 (2008年 赤坂TBS 1階ロビー) より、夜会VOL.12『ウィンター・ガーデン』の舞台

夏の甲子園での高校野球が始まると、野球好きの血が騒ぐ。

私自身は生来の運動音痴で、もっぱら「観る」方の立場ではあるが――高校野球にせよプロ野球にせよ――野球にまつわるさまざまな記憶は、これまでの人生の節目節目に、かなり濃くその影を落としているような気がする。

どんなスポーツでも言えることなのかもしれないが、とりわけ野球というスポーツは、数字というかたちで記録されるデータの質や量の厚みとも相まって、そのように個人的な記憶と強くリンクする傾向があるようにも思う。

 

ところで、中島みゆきの歌詞に明示的に「野球」が登場するのは――「あたしの泣き顔」を見て見ぬふりで「野球の話ばかり」何度も繰り返す、苦労人の「タクシードライバー」を別にすれば――1988年のアルバム『中島みゆき』に収録された「ミュージシャン」が唯一の例である。

「人生は長過ぎて 僕の手に負えない」と、自らの生に踏み迷うミュージシャンを主人公とするこの歌の後半、いわゆる大サビで、彼は少年時代の記憶をよみがえらせる。

12歳の頃 野球選手になりたかった
今でも夢にみるさ マウンドにあがってる
……
だけど 8回の裏
投げ方を忘れてマウンドを降ろされる
やりきれぬ笑い話さ
かなしい夢さ

大詰めの9回の裏ではなく「8回の裏」――この表現には、野球好きの心に妙に響くリアリティを感じさせる。

少年時代の野球への夢とその挫折の記憶を忘れられずにいること――そのことこそを、ミュージシャンのこれからの長い生への励ましへと転化させて、この歌は結ばれる。

 

この「ミュージシャン」も「野球」と「記憶」との関わりということを強く印象づける歌だが、中島みゆきには、実はその関わりがより深く、ストーリーの根幹に据えられた作品がある。

それは、2000年に初演され、2002年に再演された夜会『ウィンター・ガーデン』である。

北限の荒野に立つ GLASSHOUSE でひとり暮らしながら、道ならぬ恋の相手である義兄――姉の夫――を待つ〈女〉(VOL.11では谷山浩子、VOL.12では香坂千晶) 、そしてその GLASSHOUSE の先住者の〈犬〉 (中島みゆき)

その〈犬〉がずっと大切そうに抱えている赤い CAP (野球帽) ――それこそは、〈犬〉をその前生の記憶へとつなぎとめている鍵だったのだ。

 

第2幕も後半の第4場、中島みゆきが「天使の階段」を歌う場面で、初めて〈犬〉の前生――GLASSHOUSE のかつての主人と、やはり道ならぬ恋にあった愛人――が明かされる。

妻と離婚し、ここで共に暮らそうと約束した男の姿を探して、彼女は氷の湖へとさまよい出る。その胸に大切そうに抱きしめられている赤い CAP――

暑い夏だったわ あの人がナイターに連れてってくれた
声を嗄らして応援して いっぱい笑って ナイスプレイに抱き合って喜んだ
あの日の CAP が あたしの宝物になったの
 (「CAP」)

「学校のグラウンドでボールを追っかけてた」というからには、彼自身、かつて野球の選手でもあったのだろう。真夏のナイターの興奮の記憶と、氷に覆われた真冬の光景とのコントラストは、あまりにも鮮やかだ。

――しかしその思い出の CAP は思いがけぬ突風にさらわれ、氷上に吹き飛ばされてしまう。それを追って彼女は、氷の割れ目の下に姿を消す――

 

『ウィンター・ガーデン』については、以前、「神話の解凍」と題した記事でかなり詳しく考察したので、ここではこれ以上は繰り返さない。

ただ、数年前、まったく別の方面から、この夜会のことを――とりわけ、「野球」と「記憶」との関わりという側面から――鮮明に思い出す機会があった。

それは、小川洋子の小説『博士の愛した数式』を読んだときである。

80分しか記憶が持続しない老数学者「博士」、シングルマザーの家政婦の「私」、その10歳の息子「ルート」という3人のあいだの、それぞれに危うさと傷つきやすさをかかえながら、そしてそれゆえに、この上なくきめ細やかな交感と交流の物語。

17年前 (1975年) の交通事故の後遺症で記憶の蓄積が止まり、もはや現在 (そして未来) には「人生」という物語を生きることのできない「博士」と、「私」「ルート」の母子とのコミュニケーションを取り持った二つの中心的なメディアは、「博士」の愛した「数」と「阪神タイガース」であった。

 

この小説に登場する、数や数学をめぐるさまざまなエピソードもとても印象的なのだが、このブログの性格上、それについては割愛しよう。

ただ、熱狂的な阪神ファン――とりわけ、彼の記憶の中ではいつまでも現役でいる江夏豊の大ファン――でありながら、「博士」が野球の試合を一度も (TVでさえも) 見たことがないということに驚く「ルート」に対して、彼はこう語る――

野球ほど多彩な数字で表現できるスポーツは他にないからね。
阪神の選手の打率や防御率のデータを分析するんだ。
0.001の変化を読み取って、試合の流れを頭の中でイメージするのさ

もちろん打率や防御率だけではなく――後で紹介するナイター観戦の客席で――マウンドの高さやホームに向かってのその傾斜、あるいは盗塁時の投手、走者、捕手それぞれのコンマ何秒単位のタイミングでの熾烈な争い等々、実に細々とした――しかし野球にとって本質的に重要な――数字について「博士」は次々と語り続け、尽きることがない。

要するに、「博士」の「数」への愛と「阪神タイガース」への愛とは、互いに強く織りなされたものだったのだ。

 

母子は、思い切って「博士」を野球観戦に誘う。1992年6月2日、3人が初めてプロ野球公式戦 (阪神・広島戦) に出かけるこの場面は、とりわけ印象的だ。

三塁側特別内野へ続く階段を登りきった瞬間、私たちは同時に声を上げた。
不意に開けた視界の先には、柔らかく黒々としたグラウンド、
まだ誰の足跡もついていないベース、真っすぐにのびる白線、
そして丁寧に手入れされた芝生の広がりが見えた。
……
その時、私たちの到着を待ち望んでいたかのように、照明に灯がともった。
カクテル光線を浴びた球場は、天から舞い降りてきた宇宙船だった。

この上なく世俗的な喧噪と興奮の空間でありながら、それゆえにその場にいる人々を世俗のあらゆることどもから離脱し浮遊させる夢と祝祭の空間。

 

この年、1992年のペナントレースの行方は、3人のその後の転機とも重なるかのように展開していく。(とりわけ阪神ファンであれば、よくご存じのように) 野球も人生も、いつだって「ドラマ」や「物語」のようになんか行きはしない――阪神はヤクルトとの優勝争いに敗れ、2位に終わった。束の間の夢と祝祭を共有した3人も、またそれぞれの現実の中に戻ってゆき、現実の問題と直面するほかはなかった。

しかし3人を結びつけた「数」と「阪神タイガース」と、そしてそれらを取り囲むささやかな日常の中で各々が受けた祝福の記憶は、この小説に設定された時間の線分を超えて、消えることなくこだましつづけているような気が、私にはした。

 

この小説を読み終えて私の胸に浮かんだのが、『ウィンター・ガーデン』のテーマ曲ともいうべき「記憶」である。このとき私は、この曲はまるで「博士」のために書かれたような気さえした。

もしも過ぎた事を 総て覚えていたら
何もかもが降り積もって 辛いかもしれない
 ……
思い出すなら 幸せな記憶だけを
楽しかった記憶だけを 辿れたらいいけれど
……
1人で生まれた日に 誰もが掌に握っていた
未来は透きとおって 見分けのつかない手紙だ

「博士」がつねに(「ルート」をはじめとする) 子どもたちに限りない慈しみを注いだのも、子どもたちこそ、自らには失われた「未来」という「透きとおった手紙」を遥かに運んでゆくことのできる存在だったからなのかもしれない。

(追記)
なお、『ウィンター・ガーデン』と『博士の愛した数式』との間には、「野球」と「記憶」以外に、実はもうひとつ、やはりストーリーの根幹にかかわる重要な共通項がある。しかしこれについては、小説のいわゆる「ネタバレ」になってしまうので、ここでは伏せておこう。

『明日を撃て!』ツアーの記憶――30年の時の往還

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中島みゆきの1984年のコンサートツアー『明日を撃て!』は、その前年の『蕗く季節に』ツアーにつづいて、私が観た2度目の中島みゆきのコンサートである。それから今年でちょうど30年の時が経つわけだが、いまだにこのツアーは、私にとって最も印象深いライブ経験のひとつでありつづけている。

最近、このツアーのことを改めて懐かしく振り返る機会があり、その際に思い出したことや、新たに考えたことを、この記事にまとめておきたいと思う――とはいえ、なにぶん30年前の (学生時代の) 古い記憶に頼らざるをえないので、不正確な記述が含まれている可能性があることは、ご容赦願いたい。

 

私が観たのは、このツアーの4公演目、3月14日(水)の和歌山県民文化会館での公演である。席は2階のほぼセンター、ステージを真正面から見下ろす位置にあり、全体を見渡しやすい良席だった。

このツアーで何よりも鮮烈な印象を残したのは、そのオープニングである。

スタンドマイクの置かれた中心部の周囲に、ミュージシャンが演奏するための雛壇を兼ねた白い氷山のようなセットが積み上げられた、白一色で構成されたシンプルなステージ。

風が吹き抜ける音のようなSEの中、舞台奥の階段から、白っぽいドレスを身にまとった中島みゆきが静かにゆっくりと降りてくる。マイクのそばに置かれたアコースティックギターを抱えると、こんなイントロをリズミカルに奏で始める――

Gコードのアルペジオを変型した、シンプルではあるがとても印象的な音形。これを4小節反復したのち、弾き語りが始まる――

 僕は青い鳥
 今夜も誰か捕まえに来るよ 銀の籠を持ち

この年、1984年の秋にリリースされるアルバム『はじめまして』の冒頭に収められることになる「僕は青い鳥」――しかしこの時点では、それはまだ私にとって未知の曲だった。

「新曲」を今まさに耳にしつつあるという心の震え、メジャーとマイナーとを行き来する変則的なコード進行、そしてどこまでも真っ直ぐに透明に伸びてゆく中島みゆきの歌声――それらがないまぜになって、私の心は、「自分」という「青い鳥」を追いかけてさまよう幻想世界の中に、一気に引き込まれていった。

かなり後になって、「僕は青い鳥」の初演はこのツアーではなく、さらに5年をさかのぼる1979年秋のツアーで演奏されていたことを知った。彼女の最初期の曲の中には、アルバムやシングルに収録される前に (アマチュア時代も含めて) ライブで初演された曲が多いが、この曲は、そうした例としてはおそらく最も遅いものだろう――もちろん、後の「夜会」オリジナル曲はまた別として。

 

続く「悪女」「泣きたい夜に」では、以前から中島みゆきをライブやレコーディングでサポートしてきた吉川忠英がギター/マンドリンで加わり、心地よいアコースティックな響きとともに、懐かしさに満ちた歌の中に浸らせてくれる。

一転して、4曲目「友情」以降は、ドラム、ベース、エレクトリック・ギター、キーボードを含めたフル編成のバックが、彼女の歌を力強く支えてゆく――この流れはまさに、初期のフォーク色を脱し、いわゆる「御乱心時代」を経て、サウンドへの志向を強めていく中島みゆき自身の歩みを象徴しているかのようだ。

 

セットリストの中盤では、(松坂慶子、古手川祐子への) 提供曲「海と宝石」「煙草」、自らのシングル曲「悲しみに」「あの娘」「おもいで河」「ひとり」といった、どちらかといえば地味な曲目が並ぶ。しかし、これらの1曲1曲それぞれに秘められた多彩なミクロコスモスの色彩感と情感の移ろいの魅力に、それらを通してライブで聴くことで、私は初めて気づかされたような気がする。

とりわけ14曲目、当時の新曲「ひとり」――後にアルバム『はじめまして』に収録されたバージョンではなく、シングルと同じ3連バラードのゆったりしたリズムに乗って歌われる、情感に満ちた歌。

ねぇ 歳をとったら もう一度会ってよね
今は心が まだ子供すぎます
謝ることさえも できぬほど

――この曲の中でもとりわけ印象的な、自らの生の時間の遠い先までを見はるかそうとするこのフレーズは、実際に「歳をとって」しまった現在の私の視点から振り返ると、さらに新たに胸に迫ってくるものがある。

 

さて、「友情」からスタートしたサウンド志向への歩みは、15曲目「カム・フラージュ」で、さらにステップアップする。

中島みゆきは、このツアーのチケットの写真でも予告されていた黒い革ジャンの衣装を身にまとい、自らクリスタルのエレクトリック・ギターを抱えて登場する。曲のアレンジは、後にアルバム『御色なおし』に収録されたリメイク版とは違い、柏原芳恵への提供バージョンと同じく3連リズムのロック。

この曲のサビで盛り上がるところで、ステージにいくつものカップ麺が投げ込まれていた情景を鮮明に思い出す――現今のライブではちょっと考えられないことだが、当時、「オールナイト・ニッポン」で中島みゆき自身がファンに催促(?)したために、この時期のライブではカップ麺などが飛び交う光景が常態化していたことは、当時からのファンにとっては懐かしい記憶だろう。

こうした祝祭的ともカオス的とも形容しがたい、ステージと客席が一体となった盛り上がり方もまた、この年に始まる「御乱心時代」を象徴する風景だったというべきだろうか。

 

続く16曲目「ばいばいどくおぶざべい」――自らの分身ともいうべきギターを弾く左手の力を奪われるロックシンガーの悲痛は、繰り返し重苦しく踏みしめられるレゲエのリズムとともに、いつまでも名残惜しげに歌われる――「幕を引かないでくれ 明かりを消さないでくれ」と。中島みゆき自身が刻むエレクトリック・ギターのリズムが、その悲しみに呼応する。

 

17曲目「傾斜」では、さらなる驚きが待っていた。2番の歌詞の後半――

炊ぎの煙が昇っていますね
そこで誰かが たぶん幸せなのですね
どこまで行くのか忘れてしまって
登り坂を探し 彼女はただ登る

アルバム『寒水魚』には収録されていない――このツアーでのみ歌われた――この歌詞を耳にした瞬間、反射的に私は『古事記』『日本書紀』にある仁徳天皇の「民の竈」の逸話を連想した。記紀では聖帝伝説の一場面として語られる、庶民の「炊ぎの煙」が立ち上るのを見て帝が安堵したという情景が、ここでは、老女が自らの孤独な生と対照させる、見知らぬ人々の日常的な幸福の象徴として読み替えられているのだ。

中島みゆきが国文学科の出身であることを知識としては知っていても、それまで実際に歌詞の中に古典からの明示的な引用がなされることがまだなかった当時としては、この歌詞は大きな衝撃だった――が、今にして思えばそれは、後に「夜会」で展開される記紀あるいは万葉のモチーフへの伏線だったのかもしれない。

 

ラスト、18曲目は「夜曲」。月光のような青い照明のもと――このツアーのパンフレットで自らを「『夜曲』に賭ける男」と称している――松田幸一が奏でる透明なハーモニカの響きと呼びかけあうかのように、いつまでも、どこまでも夜の風景の中を静かに流れ、広がってゆく歌声。

遥かな時の流れを経ても変わることのない想いを歌うこの曲を、私はこの後、2つのライブ――1993年の夜会VOL.5『花の色は……』と、2010~11年のコンサートツアーで――聴いたが、そのたびごとに、積み重ねられた時間の分だけさらに深まった想いが、私の中には響いた。

 

このコンサートは「夜曲」の静かで深い余韻とともに幕を閉じ、アンコールはなかった。

そのことも含めて、『明日を撃て!』は、それまでのコンサートツアーの「お約束」を、いくつかの点で打ち破っている。とりわけ、前年までのツアーのように、新作アルバムの紹介を中心としたセットリストを組んでいないことが重要だろう。上で書いたように、アルバム『はじめまして』がリリースされるのは、このツアーが千秋楽を迎えた4ヶ月後、10月24日のことである。

さらに、未発表曲「僕は青い鳥」をあえてオープニングに持ってきたことや、上述の「傾斜」の新歌詞なども考え合わせると、このツアーで中島みゆきは、自らが本当に「やりたいこと」をやり始めたのだ、ということに気づかされる。

このツアーの43本という公演数は、これまでのところ、コンサートツアー、「夜会」を通じて最大の記録である。この数字にも、このツアーに賭けた中島みゆきの意気込みが反映されているとみるべきだろう。

この年、1984年の秋には、東京・大阪限定のスペシャルコンサート「月光の宴」が、翌年・翌々年の秋には、やはり東京・国技館での「歌暦」が開催される。こうした実験的なライブへの傾斜の深まりは、やがて1989年にスタートする「夜会」へとつながってゆくことになる。

30年前のこのツアーで中島みゆきが撃とうとした「明日」という時間の中に、2014年の中島みゆき自身も、あの時客席にいた私たちも、ともに生きている。そして、その「明日」への射線は、今日からまた次の「明日」へと、さらに遥かにつながっているのだ――

【曲目】

  1. 僕は青い鳥
  2. 悪女
  3. 泣きたい夜に
  4. 友情
  5. 悲しみに
  6. 海と宝石
  7. 煙草
  8. 海よ
  9. 朝焼け
  10. あの娘
  11. タクシードライバー
  12. 捨てるほどの愛でいいから
  13. おもいで河
  14. ひとり
  15. カム・フラージュ
  16. ばいばいどくおぶざべい
  17. 傾斜
  18. 夜曲

【ミュージシャン】

  • 渡嘉敷祐一 (Drums)
  • 岡澤章 (Bass)
  • 吉川忠英 (A.Guitar, F.Mandolin)
  • 作山功二 (E.Guitar)
  • 倉田信雄 (Keyboards)
  • 松田幸一 (Harmonica)
  • 杉本和世 (Chorus)
  • 勅使川原由美 (Chorus)
  • 鈴木智佳 (Chorus)

「泣いてもいいんだよ」というメッセージ

いつも以上にブログ更新の間が空いてしまったが、いま中島みゆきにまつわる話題と言えば、やはりこれだろう。

「ももクロ」こと、ももいろクローバーZへの曲提供のニュースを目にした瞬間は、正直言ってかなり虚を衝かれる思いがした。

しかしふりかえってみれば、中島みゆきはこれまで数々の「アイドル」と呼ばれる歌手たちに多くのヒット曲を提供してきたし、またそれらの大半を中島みゆき自身がセルフカバーしていることも、みゆきファンには周知の事実だろう。

1970年代の桜田淳子、80年代の柏原芳恵、80年代末から90年代にかけての工藤静香――こうしてみると、提供曲一般の中でもとりわけアイドルへのそれは、中島みゆきのキャリアの中でもかなりのウェイトを占めてきたことに改めて気づく。

だが、実際に今回の提供曲「泣いてもいいんだよ」を耳にして、私は再び強く虚を衝かれた――というよりも、より正直に「胸を衝かれた」というべきか。

それは――とりわけマイナーのAメロ、Bメロ部分の――歌詞のもつ強烈なメッセージ性に対してである。それは、少なくとも歌詞だけを読む限り、およそアイドルへの提供曲にはそぐわない「重さ」をさえ感じさせた――その「重さ」が、Cメロ(サビ)での突き抜けるようなメジャーへの転調と、「そりゃ!」という陽気な掛け声(?)によって救われているのは確かなのだが。

そのメッセージは、最近のアルバム『常夜灯』に収録され、「縁会」ツアーでも歌われた「風の笛」と同質のものを感じさせなくもない。

言葉に出せない思いのために  お前に渡そう風の笛
言葉に出せない思いの代りに  ささやかに吹け風の笛

「大切な総てが傷つく」ことを恐れるがゆえに、言葉に出すことの許されない、ひとりひとりが孤独に抱え込むことしかできない悲しみ、苦しみ、痛み――そのひとりひとりへの共感を伝える「風の笛」の音色を、もっとストレートな表現に置き換えたときに出てくるのが、「泣いてもいいんだよ」というメッセージなのかもしれない。

ただ、「泣いてもいいんだよ」の場合、そのメッセージは聴き手に対して、あるいは歌っている彼女たち自身に対してのそれだけではなく、中島みゆきから彼女たちに寄せられたメッセージでもあるように聴こえてくる。

それはあえて強引に一般化すれば、「アイドル」という存在そのものに向けられたメッセージ、と言ってもいいかもしれない。

 

「アイドル」とはどのような存在なのか――

それを社会学者や評論家たちは、1990年代以降、アイドルに対するファンたちの「アイロニカルな没入」という言葉で説明してきた (大澤真幸『電子メディア論』1995 など) 。つまり、アイドルという存在の虚構性に対して、冷静な批評的まなざしを向けつつも、同時に――とりわけライブやイベントの場で――彼女たちに熱狂的に没入していく――ファンたちのそのような両義的なスタンスそのものが、アイドルという存在を成立させている、ということだ。

こうした議論をみると、私はどうしても――これはずっと以前、同人誌に書いた記事でも触れたことだが――情報人類学者・奥野卓司が著書『パソコン少年のコスモロジー』(1990)の中で、中島みゆきの作品世界の構造と、「パソコン少年」の世界観との共通性について、次のような指摘をしていたことを思い出す。

自分自身をだまして、自分の嘘の世界のなかに生きている。中島みゆきの歌の多くは、おおよそこのような仕組みでできている。
パソコン少年が、中島みゆきにひかれるのは……実はこの仕組みゆえではないだろうか。……パソコンのなかには、一般に嘘といわれる世界、仮構の世界がある。が、それを嘘の世界のことと突き放さないで、そのなかで自分を遊ばせる。自分の嘘に自分がだまされてみる。つまり、共犯で仮構世界を構築していく。

奥野自身は「元気ですか」や「悪女」を例に挙げて述べているのだが、ここで、かつて1977年に桜田淳子に提供された (最近では2010~11年のツアーで中島みゆき自身が久しぶりに歌ったことも記憶に新しい) 「しあわせ芝居」を思い出してみてもいいだろう。それは、まさにそのような「嘘」とその終焉を歌う歌だった。

私みんな気づいてしまった
しあわせ芝居の舞台裏

しかし、(「世情」に登場する「学者」のように) 「包帯のような嘘を見破ること」ではなく、あえて「自分の嘘に自分がだまされてみる」こと――それこそは、中島みゆきの作品世界と当時の「パソコン少年」に、そして (奥野自身は直接は触れていないにせよ) 「アイドル」とそのファンたちとにも通底する世界観だったのではないか――もちろん、没入や熱狂の対象はさまざまであるにせよ。

そのような世界観への中島みゆき自身の基本的な共感は、「世情」だけでなく、たとえば「永遠の嘘をついてくれ」にもはっきりと表明されている。

君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ

しかし、「永遠の嘘」をつきつづけること――「いつまでもたねあかしをしないで」いること――は、現実には決して容易なことではない。

その困難さは、「泣いてもいいんだよ」の歌詞の中でもひときわ重い、次のフレーズにも反映されている。

どんな幻滅も 僕たちは超えてゆく
でもその前にひとしきり痛むアンテナもなくはない

「ひとしきり痛むアンテナ」とは、「風の笛」にも歌われているように、この現実世界の中で「大切な総てが傷つく」ことを恐れ、「警戒」する心のアンテナにほかならないだろう。

もちろんこの困難さは、「自分の嘘に自分がだまされてみる」ことをあえて選ぶすべてのひとに共通するものではある。しかしとりわけ、生身の身体をもって「アイドル」という存在そのものを演じつづけなければならない彼女たち自身にとって、その困難さが常人を超えたものであろうことも、想像に難くない。

私がももクロの歌う「泣いてもいいんだよ」に胸を衝かれるのも、まさにその困難さへの共感――そして、「幻滅」を「超えてゆく」ことへの共感のゆえだ。

「虹と雪のバラード」と「根雪」

札幌冬季五輪会場があった手稲山

スポーツに関しては、知識も関心も平均的一般市民の域をまったく出ない私のような人間にとっても、オリンピックという巨大イベントは、色々な意味で気にかかる対象ではある。

いま、間もなく幕を閉じようとしているロシアのソチでの大会もさることながら、私の世代にとって冬季オリンピックといえばまず思い出されるのは、1972年2月に札幌で開かれた、日本で最初の大会のことだ。

戦後日本の高度経済成長時代の終盤――その8年前の東京での夏季大会の記憶はすでに遠ざかりつつあったが、2年前のもうひとつの巨大イベント、大阪万博の余熱はまだ冷めやらなかったその時代――

当時、小学校卒業直前だった私の記憶の中にも、「日の丸飛行隊」の異名を取ったスキージャンプの笠谷、金野、青地3選手のメダル独占をはじめとして、TVの映像が伝えた興奮は、その時代の雰囲気とないまぜになって残っている。

 

そうした記憶を思い返すとき、必ずそのBGMとしてよみがえるのが、札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」 だ。

この曲が、札幌オリンピックをリアルタイムに記憶している人びとにとって持っているであろう意味を軽妙に伝えるエピソードが――中島みゆきファンのあいだでは、なぜかとりわけ人気の高い――漫画『動物のお医者さん』の中にある (単行本第9巻所収、第83回)

この作品のヒロイン(?)、菱沼聖子に思いを寄せる男子高校生に、彼女が出す条件が――

「じゃ、『虹と雪のバラード』歌ってみて ♪虹の~地平を~ 1 2 3 ハイッ」
「…………」 (←かわいそうだよ 生まれてなかったんだから)

――トボトボと雪の中を去ってゆく男子高校生。

ちなみに、この回の初出は1992年なので、当時20台後半と思われる菱沼さんが札幌オリンピックを経験したのは、小学校低学年の頃ということになろうか。

この漫画の作者・佐々木倫子も含めて、とりわけある世代の北海道人にとって、「札幌オリンピックを知らないんじゃアタシの相手ではない」という菱沼さんの台詞は、リアルな感覚の率直な表明でもあるのだろう。

 

中島みゆきもまた、その世代の北海道人のひとりである。

当時、20歳になる直前の大学2年生の彼女が、札幌オリンピックの会場整理アルバイトをしてギターを買ったというのは、彼女の熱心なファンには比較的よく知られているエピソードだろう。

寒かったよ~お。朝の5時にバスが迎えにくるの。
……なんたって冬季オリンピックだから、吹雪の朝があるわけよ。
朝の5時だから真っ暗で吹雪がビューンよ。ハハハ…。
(こすぎじゅんいち『魔女伝説――中島みゆき』、1982年、166頁)

例によってユーモラスな語り口ではあるが、この「寒さ」の感覚には、とてもリアリティがある――こうした経験も含めて、北海道人ならではの厳しい冬の記憶は、おそらくは後に夜会『ウィンター・ガーデン』で展開される世界観の原型ともなったのだろうと思われる。

 

ところで、「虹と雪のバラード」について、彼女がインタビュー等の中で直接語っている記事は、残念ながら私は知らない。

ただ、「雪」を歌った数多くの中島みゆき作品の中でも、かなり初期に属する「根雪」 ――1979年、5枚目のアルバム『親愛なる者へ』のA面(当時)のラスト曲――に、私は「虹と雪のバラード」の残響をはっきりと聴く。

具体的にいえば、「いつか時が経てば/忘れられる あんたなんか……」というサビのコード進行 (読みやすいようにCに移調して表記) ――

| F  G7 | Em  Am | Dm7  E7 | Am  C7 |
| F  G7 | Em  Am | Dm7  G7 | C     |

キーは違っても、このコード進行は、「虹と雪のバラード」のサビ(2番)、「生まれかわるサッポロの地に……」のそれと、ぴったりと重なる。

3~4小節の「E7→Am」というマイナーの半終止――それは悲しみの記憶の再帰だろうか――そして7~8小節の「G7 → C」というメジャー終止による、記憶の救済への祈り。

「町に流れる歌」――「やさしすぎて なぐさめすぎて」余計なことを思い出させる「古い歌」――とは、もしかしたら「虹と雪のバラード」だったのではないか……

……まあ、この解釈は少し考え過ぎかもしれないが、札幌オリンピックと「虹と雪のバラード」の記憶が、中島みゆき個人の青春時代の記憶の中にもしっかりと織り込まれていることは、まず間違いないのではないかと私は思っている。

 

「根雪」のその美しい旋律、雪道をゆっくりと踏みしめながら歩むかのような静かなギターの弾き語りとともに、限りなく繊細な心の震えを切々と伝えるヴォーカル――そのスタイルは、同じく初期の名曲である「ホームにて」とも共通する。

そして、(上述のメジャー終止で) 「あんたなんか……」とフェルマータで歌い終えた途端、爆発するように入ってくるアウトロのフル編成のバンド。

――静から動へのこの鮮やかな転換については、詩人・天沢退二郎もまた、印象的に語っていたことを思い出す。

悲しみの記憶とは裏腹に、冬の祭典に浮かれる街――そして、その両者を等しくつつんで降り積もる雪。

言わずもがなのことだが、「根雪」とは、消えることの (融けることの) ない記憶の象徴である。

スポーツの祭典も――そこに登場するスタープレイヤーたちも――そうであるように、私たち一人ひとりの記憶もまた、喜びと悲しみに、叶えられた夢と叶えられなかった夢とによって織りなされてゆく。

「根雪」をはじめとして、中島みゆきが歌う数々の雪の歌は、そうした記憶のひとつひとつを、美しく白く降り積もる風景の中に、鮮やかによみがえらせるのだ。

夜会唯一の男性ヴォーカリスト――宮下文一さんについて

「文さん、かっこよかったな~!」

2013年12月14日(土)、名古屋公演最終日の終演後のロビーの人波の中――連れに語りかける男性客の弾んだ声が耳に入ってきて、思わず、我が意を得たり、という思いがした。

今回の夜会工場VOL.1では、これまで舞台の下で、唯一の男性ヴォーカリストとして夜会を支えてきた「文さん」こと宮下文一が、初めて事実上のキャストとして舞台上にも登場したことが、見逃せない注目点のひとつになった。

 

彼の舞台上への登場は3度――それも重要な場面ばかりだ。

最初は、前半部の最終曲――もし休憩をはさんで2幕に分けたとすれば、第1幕のラスト曲になったに違いない――「NEVER CRY OVER SPILT MILK」

過去3回の『2/2』でのアレンジとは異なり、1番を宮下文一が、2番を中島みゆきがメインで歌い、それぞれのサビで互いがハーモニーをつける。そして――アルバム『日-Wings』と同じく――「NEVER CRY…」という美しく余韻を残す歌い終え方。

1番のサビで下手から登場する中島みゆきが、彼の坐る上手側の椅子の後ろを大きく回って彼の前を横切り、下手側の椅子に掛けるという、一連の動き――その途中で二人が右手を高く挙げて合わせるという、最後の大阪公演で追加された演出は、さらにその美しさに華を添えた。

この場面の意味は、「莉花と圭の後日譚のようでした」という、「夜会工場覚え描き」でのぴしわさんの的確なコメントに尽きるだろう。

 

未来の幸福への歩みの到達点――

しかし、初日のレビューで書いた通り、夜会工場というメタ物語の時間は――次の「明日なき我等」を転換点として――過去へと遡行しはじめるのだ。

彼が2度目に舞台上に登場するのは、それに続く「白菊」

ヴォーカルの分担は、「NEVER CRY…」とは逆に、1番を中島みゆき、2番を宮下文一が歌う。とりわけこの2番での、永遠に喪われた過去の幸福――「真白きあの日々」――への限りなき想いを歌う彼の声に、私は激しく胸を衝かれた。

VOL.10『海嘯』は、彼が初めて夜会にヴォーカリストとして参加した公演である。この曲では、中国人医師・梁先生役の張春祥に代わって――中国語歌詞の部分を除き――宮下文一が日本語の男性パートを歌った。

舞台上と舞台下――キャストとヴォーカリスト――の役割分担というこの手法は、彼が再び夜会に参加したVOL.13『24時着0時発』以降、より積極的に活用されるようになる。

これ以降、彼はいわば音楽面における〈鮭〉〈厨子王〉〈矢沢圭〉といった男性の役柄を――時にはサイドヴォーカリストではなくソロヴォーカリストとしても――歌声によって、文字通り「演じる」ことになるのだ。

その舞台下での「演技」を舞台上に移すという今回の試みは、舞台裏を表舞台に引き出し可視化するという「夜会工場」のコンセプトの、ひとつの必然的な帰結だったのではないだろうか。

 

彼が夜会工場VOL.1で3度目に――僧形の厨子王の姿で――舞台に立つ「都の灯り」 は、夜会VOL.15「元祖・今晩屋」、VOL.16「本家・今晩屋」での、そうした事実上のソロ曲のひとつ――それもおそらくは最も重要な一曲であった。

しかしそこに至る伏線として、前曲「らいしょらいしょ」の、あどけない手毬歌のリフレインが、いつのまにか悲劇的な未来を予示するかのように激しくクレッシェンドしてゆくときの彼の声の切迫した力――

この伏線があってこそ、彼が歩み入る扉の向こう側の世界、やがて舞台背面の全面を覆ってゆく炎と爆発に灼かれる未来――来生――のイメージもまた、重く逃れがたいリアリティをもって私たちに迫ってくるのだ。

 

――ところで「文さん」といえば、多くの中島みゆきファンには、上述のような夜会での歌唱だけでなく――劇場版や映像ソフトにもなった2007年のコンサートツアー『歌旅』での、「宙船」の1番をソロで颯爽と歌う姿をはじめとして――近年のツアーやアルバムでの活躍もまた、強く記憶に残っていることだろう。

ライヴでのあの場面ももちろん印象的だったが、私自身が彼の存在をはじめて意識したのは、1999年のアルバム『日-Wings』の収録曲「いつか夢の中へ」での中島みゆきとのデュエットによってである。

『2/2』の再演、夜会VOL.9でのみ――矢沢圭役の藤敏也とのデュエットで――歌われたというこの曲を、私は残念ながらライヴでは聴いていない。

しかし、このレコーディングでの宮下文一と中島みゆきとの、絶妙な距離を取りながら繊細に美しく織りなされてゆくハーモニーは、見通し難い未来を探しあぐねる圭と莉花のふたりの心の迷いと震えを、余すところなく歌いぬいていて忘れがたい。

いつか夢の中へ 1人あなたはさまよっている
(いつか1人 あなたなしにさまよっている)

――この距離感、近づきたいと願うがゆえの遠さの悲しみを歌うふたりの声は、およそ一度でも誰かとふたりで未来を探そうとしたことのある人ならば、誰もが記憶の奥底に隠しているはずの琴線に触れてくるのではないだろうか。

 

中島みゆきが、夜会唯一の男性ヴォーカリストとして彼に信頼を置きつづけている理由は――

中島みゆきのオクターブ下という深々とした低音から、艶やかな高音に至るまでを楽々とカバーする声域の広さ――あるいは『24時着0時発』の「遺失物預リ所」のような繊細さをきわめた歌唱から、上述の「らいしょらいしょ」や「都の灯り」のような、迫力あるフォルティシモに至るまでのダイナミックレンジの広さ。

――しかしそういった技術的な理由に加えて、おそらくより重要なのは――上述の「いつか夢の中で」のように――中島みゆき自身が演じる「女」たちにとって、永遠に交わることのない平行線のように、つねに一定の距離の向こうに存在しつづける「他者」としての「男」の役柄を、自らの「声」によって演じ表現する力を、彼が備えているからなのだろう。

そしてその距離のゆえにこそ、ふたりの声は互いに美しく響きあうことができるのだ。