夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』再考――「Barねんねこ」と「緑の手紙」について――

Nenneko

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』が幕を閉じてから、早くも8ヶ月近くが過ぎた。その間もずっと、この夜会の記憶は私の胸の奥底に余熱を保ちつづけ、その舞台の光景――とりわけあのノスタルジアに満ちたシャッター街――は、繰り返し残像としてフラッシュバックしつづけてきた。

にもかかわらず、「中間報告」と題した記事を書いて以降、長らくブログの更新を怠ってきたのは、まったく私個人の散文的現実の制約によるものである。そうした現実から束の間ではあれ逃れるべきこの貴重な夏休みに、あの夜会について、これまでまだ言語化しきれていなかった記憶や思考のいくつかを、可能な限りまとめておきたい。

2014年12月16日の公演は、千秋楽にふさわしい、すべてのメンバーの思いと情熱がひしひしと伝わってくる素晴らしい舞台だった。

最後に上昇してゆく零戦は、幕が閉じる寸前に左旋回を開始する (この演出は、公演期間後半以降に追加されたらしい)。千秋楽では、この場面が見えやすい1階下手で観たせいもあってか、そのイメージがきわめて鮮烈に記憶に残っている。あの最後の瞬間の旋回によって、3人が橋の下の地下壕から脱出し、新天地――新たなるアルカディア――に向けて飛び立つというラストシーンの意味は、より強く鮮明に伝わってきたように思う。

カーテンコールでは、私にとってはこの夜会で最初で最後のスタンディングオベーション。舞台挨拶では、中島みゆき自身から、この作品の意図として「少しでも幸せな気持ちになってもらえたらと思って書きました」という趣旨の言葉があった。

優しいあなたの側にいて すべての月日はアルカディア

「呑んだくれのラヴレター」のこの歌詞を、そのまま客席から彼女に贈りたいと思った瞬間だった。

終演後、私にとっては十数年ぶりの出待ちにも参加。ミュージシャンたち、石田 匠、中村 中を次々と拍手で送り、最後についに中島みゆきが車に。窓を開け、にこやかに私たちに手を振ってくれる姿を見て、寒中の楽屋口での2時間は、熱い時間に変わった。

――舞台の記憶に戻ろう。

私にとって、考えるべき重要な問いは2つあった。1つは、高橋九曜 (石田 匠) の父・忠 (宮沢 崇) が書いた何通もの「呑んだくれのラヴレター」の受取人は誰だったのか――またそのことと関連して、「Barねんねこ」の「ママ」とはいったい誰だったのか――ということ、もう1つは、それらの手紙の中で示唆される救済へのキーワード「緑の手紙」とはそもそも何を意味したのか、ということである。

この2つの問いが重要なのは、それらが互いに絡まりあって、この夜会の世界観を根底で支えつつ、そこに魅惑的で謎めいた奥行きを与えてもいるからだ。

「呑んだくれのラヴレター」の受取人と「Barねんねこ」の「ママ」

前の2つの記事で私は、忠のラヴレターの受取人は――舞台には登場しない――「Barねんねこ」のママなのだと考えていた。が、この解釈は今や撤回しなければならないようだ。

私が観た最後の2公演 (楽前・楽日) では、第2幕で「呑んだくれのラヴレター」が2度目に歌われる場面、紙飛行機の折目のついた手紙を読みながら「あなたに明かして眠りたい」と歌うところで、天音 (中村 中) は、「あなた」とは自分のことなのだと人見 (中島みゆき) にジェスチャーで示していた――おそらくこれも、公演期間後半になって追加された演出なのだろう。

3年前に世を去る直前まで、忠は――「語るに及ばぬ呑んだくれ」と自らの名を秘しながら――天音に紙飛行機のラヴレターを送りつづけていたのだ。

――だが、そうだとすると、「Barねんねこ」の (代理ではない本来の) 「ママ」とは誰だったのか。

このことについては、これまでも参照させていただいてきた、ぴしわさんの「覚え描き」ブログに、第2幕大詰めの「国捨て」の場面について、次のような重要な指摘がある (私自身はこの場面を5回も観ていながら、認識できていないのが口惜しいのだが)

脱走兵の登場から怯えている天音ですが、
歌詞の一節からはっと気がついた顔で、
人見の方向を見てこみ上げるように「ママ!」と言っています。

だとすれば、隣の「水晶宮」の占い師・人見こそが実は「Barねんねこ」の本来のママでもあった――にもかかわらずその事実を、この瞬間まで天音は忘れていた――ということになるだろう。

このことは、人見の存在の意味について、また新たな問いを投げかける。

人見はなぜ――第1幕第2場で明かされる3人の前生という遠い過去だけでなく――自らが「Barねんねこ」の本来の店主でもあったという近い過去をも、天音 (や九曜) に対して封印しなければならなかったのか。

それはおそらく、「Barねんねこ」の存在こそが、前生において「捨てられた」悲しみの記憶から彼女たちを救い出し、この地下壕に安住の地――アルカディア――を見出させるための結節点だったからではないだろうか。

前の記事で書いたことの繰り返しになるが――「ねんねこ」という店名は、黒猫のイラストが描かれた看板とも相まって「猫」を連想させるが、本来は、赤子をくるむ綿入れ半纏の意味だ。だとすれば、ママ (人見) が命名したであろうこの店は、「捨て子」たちを救済し、癒す場としてのアルカディアの中心でもあったのだ。

だが、過去の悲しみの記憶は、たとえ封印され忘却されたとしても、消滅させることはできない。

近すぎる場所から見ると ここが橋だとは見えない
遠くから見える過去 ここは流れだった

「川の音が聞こえる」で彼女が歌う通り、ここが――かつて人身と公羊の二人の生命を呑み込んだ――流れであったという過去は、この地下壕、シャッター街という内部の視点 (「近すぎる場所」) からは隠蔽されている。

そのように、視点を内部ないし近傍にとどめようとするスタンスは、未来に対しても同様に向けられる。人見は、過去と未来を見通すことのできるはずの占い師でありながら、あえて――「水晶球」で歌われるように――「遠い先のこと」に対しては人びとの眼を閉ざそうとするのだ。

しかし、「未曽有の嵐」によってこの地が再び「流れ」に――「生け贄」を求める集団の暴力に――呑まれようとする未来は、実は間近に迫っていた。

この新たな危機に対して、人見は無力だった。その彼女自身を、そして天音と九曜を「未曽有の嵐」から救い出すべく、もうひとつの――彼女の知らない――過去から送られてきたメッセージこそが、「緑の手紙」だったのだ。

「緑の手紙」

上述の「国捨て」の場面、とうに世を去っているはずの高橋一曜 (宮川 崇) が飛行服姿で格納庫から登場し、孫・九曜に飛行帽を手渡す場面は、高橋家三世代に受け継がれてきた「緑の手紙」のメッセージが、今も生きていることを示唆している。

このメッセージによって、3人の悲しみの根底にあった「集団が個を捨てる」という行為のヴェクトルは、逆向きに――「個が集団を捨てる」ことによる「個の救済」という方向に――反転されるのだ。(なお、この点に関する考察は、Facebookでの友だち K さんからの示唆に多くを負っている。この場を借りて謝意を表したい。)

第1幕第2場、天明の時代の場面で「集団が個を捨てる」行為のそもそもの発端となったのは、人身を人柱として差し出せという村長の命令だった。その村長を演じた宮川 崇が、第2幕では、「緑の手紙」の送り主の一曜として、またそれを託された息子・忠として再登場するというキャスティングは、このヴェクトルの反転を正確に反映してもいる。

そして同様の反転は、公羊=九曜と人身=人見のあいだでも、また人身=人見とすあま=天音のあいだでも、「自己犠牲」とその否定による救済という形式で反復される。

すなわち、天音は自らケージの中に残ることによって人見を、人見は天音とともにケージの中に残ることによって九曜を、それぞれ救おうとするが、それらの「自己犠牲」は、人見によって、九曜によって、相次いで否定されるのだ。

これらの反転の構造の全体を文章で逐一説明すると煩雑になるので、代わりに次のような図を描いておこう。

――しかし、救済へのメッセージは、なぜ「緑の」手紙でなければならなかったのだろうか。

「緑」という色彩は――これも前の記事で書いたように――植物で覆われた格納庫の扉や、零戦の機体上半部の塗色として視覚化されてはいた。だが、「緑」が救済を意味する理由や、その手紙には「何が」書かれていたのかという根本的な問いは、依然として謎のままである。

この問いに応えるための、きわめて重要な手がかりとなりそうなのが、作家・五十嵐勉が1999年に発表した小説『緑の手紙』である――もとよりこの作品への言及は、公演パンフレットその他、公式のメディアではまったくなされていないので、この点は、まったく私個人の解釈であることを、ここでお断りしておかなければならない。

しかし、この夜会の最も重要なモチーフである「緑の手紙」の原型の少なくともひとつが、この小説にあることは、ほぼ間違いないと私は思っている。

以下、小説のあらすじを――少々長くなるが――紹介しておこう。

1980年代、日本語教師・五十嵐は、カンボジア難民の青年ポ・シティと知り合う。彼は、クメール・ルージュ (ポル・ポト派) の支配によって失脚した元文部大臣の息子で、同派による残虐な強制労働下から脱出し、ベトナム介入による戦火を潜り抜け、日本に亡命したのだった。

五十嵐は、しだいに彼と親しくなるうちに、かつて太平洋戦争時、南方戦線に動員された一兵士であった亡父から聞かされた地獄のような戦場体験を、繰り返し回想するようになる。

その頃、五十嵐は知人の戦場カメラマンの事務所で、カメラマンがカンボジアの難民キャンプで僧侶から託されたという、緑色の封筒に入った手紙を見る。緑の封筒に何の意味があるのか、とカメラマンに尋ねると――

カンボジアのある地域には国家の危急存亡のときや、逃れえない大きな災厄に襲われたとき、緑の手紙に願いを書いて天に訴えると、それが神に聞き入れられる伝説があるという。封筒だけでなく、正確には記す紙も緑を使う。本来は鳥の足に付けて空に放つというものだった。……それは一つの希求であり、最後の願望なのだということだった。

大多数のカンボジア難民が日本社会に適応し職を得ていくのと対照的に、ポ・シティは、祖国を救うべく、シハヌーク派への軍事支援を得るための政治活動に奔走する。が、その活動は日本社会にはまったく受け入れられなかった。その結果、彼は精神に障害をきたし、収容された精神病棟から、なおも各方面に軍事支援を要請するための手紙を、緑色の封筒に入れて出しつづける。

ポ・シティの協力要請を拒否しつづけてきた五十嵐だったが、「緑の手紙」を読んだ後、彼はついに日本語教師の職を辞し、知人の戦場カメラマンとともに「国境へ行き、難民と戦乱との現実を自分の目で確かめる」ことを決意して、闇夜の中、インドシナ半島へ向かう翼に身を委ねる。

世界のどこか戦争のあるところに、人間の叫びのあるところに、この「緑の手紙」はさまよい続ける。戦乱の中に圧殺される者の希求として、その手紙はどこかに届かなければならない。だれかが、何かが汲み取ってくれるまで、それは一つの祈りとして存在し続ける……

以上のように、この小説のストーリーは、『橋の下のアルカディア』とは直接の関係はない。唯一の――両作品の根幹をなす――共通項は、「緑の手紙」というキーワードである。

「緑の手紙」はこの小説では、危急存亡の中にいる者自らが、最後の希求として送るものであったのに対して、夜会『橋の下のアルカディア』では、危急存亡の中にいる者が、そこからの脱出ための鍵として受け取るものだという点で、明確な対比をなしてはいる。

だが、いずれにせよ、それが「戦乱 [危機] の中に圧殺される者の希求」であるという根本的な点では、共通しているのだ。

さらにいえば、「緑の手紙」を「鳥の足に付けて空に放つ」というイメージと、零戦の脚にワイヤーで結びつけられたケージの視覚像、また闇夜の中を異国へと飛び立つラストシーンと「India Goose」のラストの「飛び立て、夜の中へ」という歌詞など、両作品のあいだに、偶然とは思えない複数の暗合が存在することも無視できない。

これまで、中島みゆき作品の中で「戦争」というモチーフが前面に登場することは――「阿壇の木の下で」のような少数の例外を除いて――ほとんど例がなかった。それはおそらくは、聴き手のイメージを限定したくないという彼女の昔から変わらぬ姿勢とも相まって、戦後日本社会の中で「戦争」というテーマの背後に頑として存在しつづけてきたイデオロギー的な磁場の中に引き寄せられることを慎重に忌避するが故だったのではないか、とも私は想像している。

そのようなスタンスを中島みゆきは現在も基本的には変えてはいない。だからこそこの夜会でも、「戦争の記憶」を伝える「緑の手紙」というモチーフは終盤で突然のように出現するのだし、そこに書かれている内容は、最後までわかりやすく呈示されることはないのだ。

ただ重要なのは、「緑の手紙」によって過去から伝えられきた記憶――ラストシーンで零戦として具現化される「戦争の記憶」――が、再び「生け贄」とされる危機から3人を救出し、新たなる未来へと導くという大いなる逆説がもつ意味だ。

初日のレビューでも書いたとおり、この逆説がもたらす衝撃の深さと激しさこそは、この夜会のメッセージの根幹をなすものである。

また、この逆説のゆえにこそ、戦後日本の光と影とを象徴した空間のようにもみえる、あの橋の下のシャッター街の光景は――中島みゆきの千秋楽の舞台挨拶での言葉のとおり――幸福感に彩られたアルカディアの記憶として、私の中に残りつづけてもいる。

そして、「緑の手紙」の真の受取人――そこに託された「一つの祈り」を受け取り、読み取るべき者――は、実はあの時客席にいた私たち自身だったのではないか、という思いが、むしろ時間が経つにつれて、私の中ではしだいに強まっている。

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』中間報告――「名前」と不在の人物について――

11/25(火)、11/29(土)と、2度目、3度目の公演を観た。

いずれも初日よりも全体に柔軟さを増した印象があったが、とりわけ29日の公演は、中島みゆき初めキャストたちの歌唱と演技、ミュージシャンたちの緊密かつ――牛山玲名さんの言葉を借りれば――「たぎり」に満ちた演奏、そしてビジュアルと音響等々、すべての構成要素が有機的に呼応しあって、客席に圧倒的なエネルギーとメッセージを伝えてくる素晴らしい舞台だった。

この2回の鑑賞で、予想通り、初日には気づかなかったさまざまな発見があったが、それらのすべてをブログ記事に詰め込んだのでは、あまりにも煩雑になり、まとまりを欠いてしまうだろう。

ここでは夜会VOL.18のいわば中間報告として、現段階でとくに気にかかっていること――それも部分的な演出等ではなく、むしろ、舞台では直接には描かれない――しかしながら、全体にかかわる重要な意味をもつと思われる――事柄について、2点だけ記しておきたい。

(1) 「名前」の意味について

主要キャスト3人を初めとする登場人物の命名には、高度な言葉遊びとでもいうべき、重層的な意味づけがされているようだ。が、そのことについても、詳細に書くと煩雑になりそうなので、別の機会に譲りたい。

しかしそれ以外にも、この夜会では「名前」というモチーフへの強いこだわりが随所にみられる。

「名乗りたくない一族の名」

ガードマン・高橋九曜 (石田 匠) が、占い師・橋元人見 (中島みゆき) から「九曜さん」と名前で呼ばれるのを嫌がり、「高橋です」と言い直す場面が、第1幕にも第2幕にもある。

これはおそらく、彼の前生の「公羊」が、妻を人柱に立てなければならなかったことに対する (無意識の) 悔恨・罪責からくるものだろう――このあたりも『今晩屋』との共通性を感じさせる。

第1幕の中ほど、第2場「橋脚:天明2年」へと場面が変わる直前で、彼は歌う――

名乗りたくない一族の名 この人生は誰のものだ

――「一族」のこの歌詞にも、彼の自らの「名」に対する嫌悪が表現されている。

「一族の名」というと、現在は苗字のことをイメージしがちだが、江戸期以前の庶民は一般的には苗字を公に名乗ることは許されなかったから、この場合は「家族から人柱を出した一族という汚名」というぐらいの意味だろう。

「名前」と「苗字」といえば、「アンテナの街」(1994年のアルバム『LOVE OR NOTHING』所収) にあった次のような歌詞を思い出す。

私を呼んでください 名前で呼んでください
苗字の流れの中にしか 見当たらない者じゃなく

この曲は、集団 (共同体) の「個」に対する抑圧と、そこからの脱出という点で、『橋の下のアルカディア』のテーマ全体とも共通性をもつ。

今回の夜会の場合、「高橋」という苗字――この一見ふつうの苗字はおそらく、シャッター街の背後にある「高い橋脚」を意味するのだろうが――が、むしろ九曜にとって望ましい呼び名になっている点で、ひとつの屈折が生じてはいる。

が、「個」のアイデンティティを表現する記号としての「名」へのこだわりという点では、やはり両者は通底しているというべきだろう。

「捨て子になる名前」

第1幕第2場「橋脚:天明2年」の冒頭、「昔々あるところに」で、「人柱」となる人身 (中島みゆき) は歌う――

その理由は名前 捨て子になる名前

彼女の「人身」という名は文字通り「人身御供」を表しているのだが、この歌詞はより一般的に、「名前」というものがもつ魔力というか言霊のようなもの――この場合はネガティブな意味での――を示唆している。

つづく「捨て子選び」での次のような歌詞も同様だ。

どの子を捨てよう  あの子を捨てよう
あの子じゃわからん  名前で決めよう

――以上のように、今回の夜会は、「名前」に対するこだわりが重要な底流として存在することは明らかだ。

だが、なぜ「名前」が重要なのか――

命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

「命の別名」 (1998年) のこの歌詞を想起すれば、「名前」とは、生きとし生けるものすべてが、この世界の中にそれぞれの「心」をもった「個」として存在していることの証しであるから、ということになるのだろうか――

このように考えてくると、「名前」というテーマは、今回の夜会の解釈にとどまらない、大きな広がりをもつようにも思えてくる。

(2) 不在の人物について

第1幕、「失せ物探し」の場面で、「Barねんねこ店主、豊洲天音様」に退去を命じるガードマン・九曜に対して、天音 (中村 中) は「店主じゃないもん、ママが帰ってくるまで代理だもん」と言い返す。

パンフレットに記されている通り、彼女はこのバーのママではなく「代理ママ」なのだ。

「帰ってくるまで」と言うからには、ママは亡くなったわけでなく、この地下壕ではないどこかへ行っているようだ。だが、なぜ彼女は、今、ここにはいないのか――

第2幕で天音が手紙を読み上げながら歌う「呑んだくれのラヴレター」の受け取り手は、(「代理ママ」の天音ではなく) この不在の「ママ」だったのではないか、と私は思っている――この点は、初日のレビューでも書いた通りだ。

この点は、舞台上の歌詞や演出でも、またパンフレットでも、まったく明示されてはいない。ラヴレターの送り主、高橋忠との年齢バランスという点さえ考慮に入れなければ、その受け取り手が「代理ママ」の天音であるという解釈も成り立つだろう。

――私がその解釈を採らない理由は、形式的には、もし天音が受け取り手だったとすれば、わざわざ彼女を (ママではなく)「代理ママ」として設定する意味が見いだせないことにあるが、それだけではなく、より実質的な理由がいくつかある。

上記の「呑んだくれのラヴレター」につづく、宮下文一が歌う「一夜草」の場面、九曜が「模型のタカハシ」の店内で仏壇に向かっている、その裏手、やや上方の暗がりの中に――これは九曜の記憶の再現だろう――寝間着姿の父・忠 (宮川 崇) が登場する。

忠は、手紙を次々と折って紙飛行機にしては、舞台中央の石段をはさんだ上手、「Barねんねこ」の裏手の暗がりへと飛ばす。この場面で、シャッター街の裏手の暗がりが、「過去の記憶の存在する場所」として意味づけられているとすれば、紙飛行機の手紙が届く場所は、やはり、「Barねんねこ」をママが切り盛りしていた過去だと解するべきではないだろうか。

やや余談ながら、この「一夜草」は、甘やかな旋律やワルツのリズムとも相まって、まるで昭和時代の歌謡曲のような、何ともいえない懐かしさを感じさせる曲だ。忠の青年・壮年時代が昭和戦後の高度成長期――このシャッター街がまだシャッター街ではなかった頃――だとすれば、その時代背景ともぴったり合う。

――それにしても、「Barねんねこ」の右隣の薬屋をはじめ、今は閉じてしまった店には、かつてどんな人々が暮らし、また買い物に訪れていたのだろうか。それらの人々が共有していたであろう、シャッター街がまだシャッター街ではなかった過去の記憶は、まるで舞台の無意識の背景として存在しつづけているかのようだ――その記憶は、店が動いて、地下壕に乱入してきたチンピラ (暴走族) たちを追い払う「シャッター街」の場面にも反映しているようにも思われる。

「Barねんねこ」のママは、舞台に登場する3人 (忠を含めれば4人) 以外の、かつてこのシャッター街に暮らしていたそれらの人々――「橋の下」にあって「いらない捨て子」となった人々――すべてを代表する存在、とは考えられないだろうか。

「ねんねこ」という店名は、黒猫のイラストが描かれた看板とも相まって「猫」を連想させるが、本来は赤子をくるむ綿入れ半纏の意味だ。だとすれば、ママが命名したであろうこの店名は、「捨て子」を象徴する記号と解することもできる。

おそらくあなたの悲しみが あなたをこの地に縛るだろう

「呑んだくれのラヴレター」に歌われている「悲しみ」とは――前生で人柱となった人身=人見や、彼女と別れなければならなかったすあま=天音だけではなく――この地下壕を安住の地としたすべての人々の、「捨てられた」者としての悲しみを意味しているのではないか――

――だとすれば、「緑の手紙」とは、それらの人々すべてを、その悲しみから解放するためのメッセージだったのではないだろうか。

以上の解釈には、繰り返すようだが、明示的な根拠はない。ただ、このように考えたほうが、ラストシーンでの「個が集団を捨てる」ことによる救済という結論に、より強い普遍性が付与されるようにも思われるのだ。

いずれにせよ、『橋の下のアルカディア』は、その一見ストレートなメッセージの背後に、さまざまな魅惑に満ちた「謎」を秘めた作品であることは間違いない。

それらの「謎」に迫っていく愉しみと期待とを胸に、私は、約1週間後に迫った千秋楽を、今、待っている――

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』初日

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夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』初日、11月15日(土)の公演を観てから、早くも1週間が過ぎた。

過去の夜会にも増して深い衝撃と問い――というよりも、過去の数々の夜会が私に与えた衝撃と問いをも改めて振り返らせ、それらすべてを、新たに凝縮しなおして一気に突き付けられたかような感覚――が、心と胸の奥底に残り、それはむしろ日が経つほどに、熾火のように熱を増している。

もちろん、やはりこれまでの夜会でもそうだったように、細部には、1回の公演を観ただけでは十分に咀嚼しきれない部分が――とりわけ前半の第1幕には――多く残った。

前の記事にも書いた通り、アルバム『問題集』収録の5曲をあえて聴かずに臨んだこともあって、初日ならではの緊張感と興奮は存分に味わい尽くすことができたが、そのことと引き換えに、未解決な部分が多く残ることは、いわば最初から織り込み済みのことでもあった。それらについては、次回に観るときのための課題として残しておきたい。

そうした演出や曲目の細部にわたる詳細なレビューは次回以降に譲り、この記事では、なるべく初日の余韻と第一印象が薄れないうちに、私が受け取った衝撃と問いの核心部分だけを、書き留めておくことにしたい。

第1幕

第1場 地下壕:冬

物語の主要な舞台となるのは、二重のアーチをもつ石造りの橋の下にある、地下壕 (かつての防空壕) の中につくられた古びた商店街である。

その多くはすでに店を閉じ、「シャッター街」と化した、うら寂れた街並み。右横書きで「クスリ」と書かれた看板もみられるのは、ここが戦前から存在することを示唆するのだろうか。「ボンカレー」「オロナミンC」「オロナイン」といったブリキの看板は、昭和30年代ぐらいのレトロな雰囲気を醸し出している。

まだ店を開いているのは、不思議にエキゾチックな衣装の占い師・橋元人見 (中島みゆき) が営む「水晶宮」と、代理ママ・豊洲あまね (中村 中) がひとりでやっているらしい「Bar ねんねこ」の2軒のみ。

そこへ、舞台中央の階段を降りてガードマン・高橋九曜 (石田 匠) が訪れ、この地下壕は集中豪雨時の雨水を放流するための地下水路に改修されるので、退去するようにと2人に勧告する――ここはもう「いらない町」になったのだと。

――都市機能の整備のための再開発、といえばそれまでだが、このようにして見捨てられていった「いらない町」が、戦後日本の経済発展の途上には、数限りなく存在したに違いない。

昨今のブームとしての「昭和レトロ」へのノスタルジアは、もしかしたら、そのようにして私たちが振り捨ててきた「過去」への、無意識の罪責感の反映でもあるのではないだろうか――そんなことをふと思ったりもした。

第2場 橋脚:天明2年

物語は、橋の下の地下壕がまだ実際に川であった過去――江戸中期、天明の大飢饉の時代――へと、一気にさかのぼる。

洪水から橋を守るため――川の怒りを鎮めるため――と称して、村長の命により、ひとりの村女・人身 (中島みゆき) が「人柱」に立てられる。

彼女を内部の空洞に入れた橋脚の扉が閉じ、増してゆく水嵩――その川に身を投げる、彼女の夫らしき村男・公羊 (石田 匠)。

――この悲痛なシーンは、夜会『今晩屋』第1幕の幕切れ――僧形の厨子王が炎上する縁切り寺に身を投じ、ついで〈禿〉と〈庵主〉が左右の滝壺に身を投げるあの場面を思い起こさせずにはおかない。

しかし、それ以上に胸に迫るのは、人身の愛猫〈すあま〉(中村 中)が幕切れの場面、猫籠の中で歌う「人間になりたい」だ。自分が人間でありさえすれば、人身を救うことができたのに――と。

この第2場で、やはり『今晩屋』の物語と同様に、3人の主要キャストの転生が明らかになる。人身は占い師・人見として、〈すあま〉はバーの代理ママ・あまねとして、そして公羊はガードマン・九曜として、それぞれ現代に転生し、あの地下壕の商店街で再会を果たしていたのだ。

――だとすれば、今生でこそ3人は、集団のための犠牲とされた前生の運命から解放され、救済されうるのだろうか。

この問いが、第2幕へと私たちを導いていく――

第2幕

第1場 地下壕:夏

舞台は再び地下壕の商店街。

ガードマンは、「水晶宮」の左隣の店、今は閉店した「模型のタカハシ」の (3年前に他界した) 店主の息子であるらしく、その亡父の供養のためにたびたび店を訪れる――彼の役名「九曜」には、前生の村男の名「公羊」とともに、明らかに同音の「供養」の意味が重ねられているのだ。

その模型店店主、高橋忠は、かつて「Bar ねんねこ」の (舞台には登場しない) ママに恋心を抱いていたらしく、多くのラヴレターを彼女に送っていた――それらは、代理ママのあまねが今も保存しているようだ。

この忠の視点で歌われる「呑んだくれのラヴレター」は――後述する同じ旋律の「国捨て」とともに――この夜会VOL.18の物語の核となる、最も重要な曲である。

未曽有の嵐が来る時は この地は川へと還るだろう
二度と生贄にならぬよう 緑の手紙を開けなさい

「未曽有の嵐」は、「毎時200ミリ」の集中豪雨として、すでにこの「いらない町」に迫っていた――第1幕で九曜が警告していたように、集中豪雨時の放水路としてこの地下壕が水に呑まれる瞬間が、刻一刻と近づいてきたのだ。地上への扉は、すでに閉ざされている。

3人はその前生と同じように、再び流れに呑まれ、生贄となる運命を辿るのか――「生贄にならぬ」ための「緑の手紙」を、人見とあまねは必死に探そうとするが、それはどこにも見つからない。

「緑の手紙」とは、いったい何なのか、それはいったいどこに存在するのか――

第2場 格納庫

この絶体絶命の危機の中、あまねに前生の猫としての能力が、奇跡のようによみがえる。彼女は「猫にだけ見える」道を辿り、舞台中央の石造りの橋脚の中心に植物に覆われて隠された、巨大な両開きの扉を存在を明らかにする。この扉が「緑の手紙」なのか――

やがて巨大な扉が開き、その隙間からまばゆい光が漏れてくる――この場面は、夜会初期の演目『金環触』の天岩戸が開くあのシーンを、やはり想起させずにはおかない。

扉の隙間からは、古めかしい飛行服に身を包んだ男のシルエット。その背後には小型機のプロペラが覗く――そして、格納庫の扉が全開したとき遂に姿を顕わすのは――

零戦――旧日本海軍の零式艦上戦闘機。

その機体の上面は緑に、下面は灰白色に塗装されている。この零戦こそが「緑の手紙」だったのか――

飛行服の男は、忠の父であり九曜の祖父である〈脱走兵〉高橋一曜だ。かつて「国を捨てながら逃げた臆病者」と謗られた彼が、この地下壕の格納庫に隠した零戦を、忠はひそかに守り続けてきたのか――

「呑んだくれのラヴレター」と同じ旋律で歌われる「国捨て」――それは、一曜から忠を経て、九曜の世代へと託されたメッセージである。

私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった
緑の手紙に託します
緑の手紙に託します

しかし、この零戦こそが地下壕から――そこで再び生贄となる運命から――脱出するための、3人を「幸せにする翼」であったとしても、1人乗りの零戦に3人が乗ることはできない。

前生の〈すあま〉としての記憶がよみがえったあまねは、自ら――第1幕の幕切れと同じ――猫籠 (に見立てられたケージ) の中に入る。今度は自らがこの地に残り、犠牲になることによって、人見を救おうというのだ。だが人見はその自己犠牲を拒否し、自らも猫籠の中に入る――

九曜は、2人が入った猫籠をワイヤーで零戦にくくりつけ、操縦席に搭乗し発進させる――終曲「India Goose」とともに、ゆっくりと垂直に上昇してゆく機体――

このラストシーンを、リアリズムの観点で理解してはならないだろう。

集団のため、社会のため、国家のために犠牲にされ、見捨てられてきた「個」が、まさに最終的にその運命の抑圧から解き放たれて飛翔し、救済されるということ――

この救済のイメージこそを、このラストシーンは――あえて言えば、ひとつのファンタジーとして――開示するのだ。

――『ウィンター・ガーデン』のときと同じく、堆積した過去としての地下から、まだ見ぬ未来としての天空への飛翔。

天明の時代に橋を守るために沈められた人柱、戦後の経済成長の陰で寂れていったシャッター街、集中豪雨の雨水を放流するために犠牲になる地下壕――

それらすべて「捨てられたものたち」を救済するのが、かつて「人を殺す道具」としてつくられ――そして、この点は明示的に表現されてはいないが――「特攻」という究極の自己犠牲のために用いられた武器であったという、巨大な逆説がもたらす衝撃。

この衝撃の深さと激しさは比類がなく、ここには中島みゆきの徹底的にラディカルな歴史意識が反映しているのだと私は思う。

『今晩屋』をも貫いていた「過去の救済をめざす歴史意識」はさらに鋭さを増し、近現代日本という現実をも、その射程の中に捉えようとしているのだ――

昨年の夜会工場VOL.1初日のレビューでも書いたように、さらなる転生と救済の物語を、これからもまた夜会は紡ぎ織りなしてゆくだろうという期待と予感は、この『橋の下のアルカディア』で、期待をはるかに超える高さで実現されたというべきだろう。

テーマ

今回の夜会のテーマについて中島みゆきは、すでに夜会の公式サイトに掲載されたインタビュー の中で、「集団が個を捨て、個が集団を捨てる。そんなお話かな(笑)」と語っている。

言うまでもなく、「集団が個を捨て」ることは歴史上果てしなく繰り返されてきたが、その逆に「個が集団を捨てる」ことは、現実にはきわめて困難なことだ――それは、かつて「国を捨てながら逃げた」一曜に与えられた、「御国の恥」「身内の恥」という烙印からも明らかだろう。

そのきわめて困難な問いを、今まさに提示しなければならないという抑えがたい衝動が、いま彼女の中には存在するのだろうか。だとすればそれは、来るべき「未曽有の嵐」への危機感なのだろうか――

だがこうした問いは――これまでのすべての中島みゆき作品においてそうであったように――私たち自身の心に委ねられるほかはない。これ以上、ここで具体的な想像を展開するのは控えておこう。

キャスト

今回初めてキャストとして起用された二人、中村 中と石田 匠は――前の記事に書いた通り――期待以上の歌唱力と演技力とによって、すでに四半世紀の歴史を重ねた「夜会」に清新な風を吹き込み、新たな1ページを開いてくれたと感じる。

とりわけ中村 中は、上記の「人間になりたい」での悲痛や歌唱と演技をはじめとして――気紛れさとしなやかさと神秘性とによって人を惹きつけてやまない――「猫」という存在のもつ魔性ともいうべき魅力を、十二分に表現しつくして余すところがない。

おそらく中島みゆき自身がそのことを念頭に彼女を起用したのだろうが、『橋の下のアルカディア』は、彼女の存在抜きには考えられない作品になった。

ビジュアルイメージ

今回の夜会でも、中島みゆきをはじめキャストたちの衣装や、上記のような大がかりな舞台装置を効果的に用いた演出等、ビジュアル面のすばらしさについても言うまでもない。

が、以前にも書いたように、視覚的な記憶力・表現力いずれもが著しく乏しい私には、それらについてはほとんど語る資格がない。

その代わりに、と言っては何だが、昨年の夜会工場VOL.1でも数々のすばらしいビジュアルイメージを見せてくれたぴしわさんの「覚え描き」ブログに、さっそく今回も見事なイラスト群が掲載されている。ぜひこちらをご参照いただきたい。

【補足】零戦の緑の塗色について

「緑の手紙」の「緑」には上記以外にも、いくつかの意味が重ね合わされているようにも思われるが、少なくともそのひとつが、ラストに登場する零戦の塗色であることは明らかだろう。

ただ、(ここから少しマニアックな話になるが) 零戦の初期型は灰白色の塗色がほとんどであり、緑の塗色 (厳密には機体上部が緑で下部は灰白色) が一般化するのは、戦局が悪化した昭和18年以降である。その後期型を代表するのが、零戦52型という機種だ。

戦後、緑色の零戦のイメージが一般化したのは、プラモデルの影響が大きかったらしく、Q&Aサイトにある「零戦の塗装について」という質問への解答には、「零戦=緑色と言うイメージを植えつけたのは、過去の零戦プラモが殆ど52型をキット化していた為」との説明がある。

このような歴史的経緯を踏まえると、「緑の手紙」には、「脱走兵」(元特

攻隊員?)だった祖父・高橋一曜から、模型店店主の父・忠を経て、九曜へと受け継がれた「戦争の記憶」という意味が含まれているようにも思えてくる。

なお、今回の零戦のセットは、塗装の細部の特徴からみて、遊就館 (靖国神社境内にある資料館) に展示されている零戦52型をベースにしたものとも思われる。

【キャスト】

  • 中島みゆき …橋元人見(占い師) 人身(村女)
  • 中村 中   …豊洲天音(Barの代理ママ) すあま(猫)
  • 石田 匠   …高橋九曜(ガードマン) 公羊(村男)
  • 松崎建ん語 …村人 チンピラ
  • 宮川 崇   …警官 村長 高橋 忠(父:模型飛行機店主) 高橋一曜(祖父:脱走兵)
  • 森尻斗南  …警官 村人 チンピラ
  • 井上裕朗  …緊急無線の声 

【ミュージシャン】

  • 小林信吾 (Conductor, Keyboards)
  • 矢代恒彦 (Keyboards)
  • 中村 哲 (Keyboards, Saxophone)
  • 古川 望 (Guitars)
  • 富倉安生 (Bass)
  • 島村英二 (Drums)
  • 杉本和世 (Vocal)
  • 宮下文一 (Vocal)
  • 牛山玲名 (Violin)
  • 民谷香子 (Violin)
  • 友納真緒 (Cello)

【曲目】

  1. なぜか橋の下
  2. 水晶球
  3. 謎な女
  4. 問題集
  5. いらない町
  6. 失せ物探し
  7. 恋なんていつでもできる
  8. いちど会ったらどうかしら
  9. 大きな忘れ物
  10. 猫なで声プリーズ
  11. 川の音が聞こえる
  12. 一族
  13. 昔々あるところに
  14. 捨て子選び
  15. すあまの約束
  16. 男の仕事
  17. 身体の中を流れる涙
  18. 男の仕事
  19. みのむし(鬼の捨て子)
  20. 私と一緒に
  21. 猫籠
  22. 人柱
  23. 人間になりたい
  24. 問題集
  25. 身体の中を流れる涙
  26. どうしてそんなに愛がほしいの
  27. 雨天順延
  28. ペルシャ
  29. 袋のネズミ
  30. シャッター街
  31. 恋なんていつでもできる
  32. 雨天順延
  33. 二雙の舟
  34. 水晶球
  35. 一族
  36. 呑んだくれのラヴレター
  37. 一夜草
  38. 毎時200ミリ
  39. いらない町
  40. 呑んだくれのラヴレター
  41. 猫にだけ見えるもの
  42. 国捨て
  43. India Goose
  44. 私と一緒に
  45. India Goose
  46. なぜか橋の下

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』初日を待ちながら

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夜会VOL.18のタイトルが『橋の下のアルカディア』と発表され、事務局サイトが開設されたのは、7月10日のことだった。2008年の『夜物語 元祖~今晩屋~』以来6年ぶりとなる、この新作夜会について何か書かねばと思っているうちに、たちまち4ヶ月あまりが過ぎ、早くも初日2日前となってしまった。

このタイミングでブログ記事を書くのも何だか間が抜けているが、とりあえずは、(Twitter や Facebook に書いた内容も含めて) これまで考えたり調べたりしたことをまとめなおしておきたい。

まず、今回の夜会が新作であるからには、曲目のほとんどが新曲になることは間違いない。

初期の夜会 (VOL.6『シャングリラ』まで) は、既発表曲を新たな文脈の中で歌いなおすことによって、作品の新たな意味を追求してゆく「言葉の実験劇場」をコンセプトとしていたが、その時期でも、とりわけ重要な場面で、いくつかの重要な新曲が挿入されていたことは忘れ難い (夜会のテーマ曲となった「二隻の舟」自体、1989年の最初の夜会で発表された新曲でもあったのだ)

VOL.7『2/2』以降は、新作のたびに十数曲もの新曲が発表され、それらがストーリーの根幹を構成するようになったことはいうまでもない。中島みゆきの尽きることのない創造力には改めて驚くほかはないが、一方、VOL.9『2/2』以降、これまで5演目が上演された再演 (あるいは再々演) においても、やはり重要な場面でいくつかの新曲が挿入されたことは見逃せないポイントだ。

――これまでいったい、どれぐらいの数の新曲 (および既発表曲) が夜会の各演目で演奏されてきたのか。それを明らかにするため、いつもお世話になっている「中島みゆき研究所」のデータを参照させていただいた上で、データを整理したのが下記の表である (「夜会工場VOL.1」のデータも含む)

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さて、今回の『橋の下のアルカディア』では、これまでも増して多くの新曲が歌われるという情報がある――もっと具体的な曲数の情報もあるのだが、それについては「ネタバレ」をできるだけ避ける意味で、ここでは触れないでおこう。

それと、夜会VOL.18初日直前の11月12日にリリースされたニューアルバム『問題集』の収録曲中、後半の5曲が、今回の夜会で歌われるということも発表されている。上記の表にもあるように、これまでも直前リリースのアルバムからの曲が夜会で歌われたケースは何度かあるが、今回のように、そのことがあらかじめ明示的に発表されたのは初めてのことだ。

が、これらの5曲についても、私は――別の記事 にも書いたような理由で――夜会初日の舞台に接するまでは、一切聴かないでいるつもりだ――少々こだわり過ぎと思われるかもしれないが。

次に、『橋の下のアルカディア』というタイトルについて。

「アルカディア」といえば、同じく「理想郷」を意味する『シャングリラ』 (夜会VOL.6) が思い出される。が、辞書 (『リーダーズ英和辞典』) をひくと、”Shangri-La” がイギリスの作家 J.ヒルトンの小説『失われた地平線』に登場する、高度な技術を駆使した人工的な理想郷の名であったのに対して、”Arcadia” は古代ギリシアの伝承に由来する「静かで質朴な生活の営まれる田園的理想郷」を意味するようで、この2つの言葉のあいだには、かなり対照的なニュアンスがあるようだ。

もちろん、そうしたニュアンスが今回の夜会の内容に反映されているのかどうかは、実際に観てみるまでは何とも言えないのだが――

それと「橋の下」の意味についても、中島みゆき自身へのインタビュー等で、すでに多少の情報が示されている。が、これについても「ネタバレ」を避ける意味で…… (以下略)

そして、今回の夜会でおそらく最も注目されるポイントである、キャストについて。

準主役と目される中村 中は、VOL.11『ウィンター・ガーデン』での谷山浩子以来、シンガーソングライターのキャスト起用としては二人目となる。あの時は、谷山浩子が歌と演技との両面で、圧倒的な存在感を示した。

その再演のVOL.12以降は――これまでこのブログの記事でも何度か触れてきたように――キャストとサイドヴォーカルとの分業体制が確立されてきたわけだが、今回の中村 中には、おそらく久々に、歌と演技の両方という重責が課されることになるだろう。

私自身は、シンガーソングライターとして、あるいは演技者としての彼女について――幸か不幸か――ほとんど予備知識をもっていない。が、中島みゆきが (VOL.11当時の谷山浩子に比べても遥かに若い) 彼女をあえてキャストに起用したことには、十分な根拠があるはずだ。その重責を彼女が十二分に果たし、夜会の歴史に新たな1ページを開いてくれることを大いに楽しみにしたい。

もうひとりのキャスト、石田 匠については、私には中村 中以上に予備知識がない。が、この『Authentic Blue』というアルバムのトレーラーを聴く限り――少しだけ、最初期の中島みゆきを思い出させなくもない――素朴で真摯なヴォーカルとメロディが印象的だ。

中村 中と同じく、夜会には初登場となる彼が、舞台に清新な風を吹き込んでくれることを期待しよう。

ところで、上記のキャスト二人やミュージシャンの Twitter やブログをフォローし、その思いや意気込みを垣間見るのも、初日を迎える前から始まる、夜会の愉しみのひとつだ。

なかでも個人的に、以前から楽しみに読んでいるのが、ヴァイオリンの牛山玲名のブログ。  彼女の言葉からは――その演奏と同様に――ミュージシャンとしての鋭い感性の閃きと真摯な思いとがストレートに伝わってくる。

今回の夜会に触れた9月13日の記事での、

冷静に、眼を凝らして、俯瞰して。このたぎりをお届けする所存。

という言葉は、客席につく私たちもまた、目を凝らし耳を澄ませて、舞台の全容と彼女たちのたぎりを全身で受け止めなくては、という気持ちにさせてくれる。

――そのたぎりへの予感とともに、40数時間後に迫った初日の開幕を待ちたい。

「麦の唄」と『問題集』

いつものことながら、ブログの更新をサボっている間に、次々と新しいニュースが飛び込んできて、いったい何から書けばいいのか……と迷っているうちに、前回の記事から3ヶ月ほどもが過ぎてしまった。

とりあえず、時系列順にこの間 (2014年夏~冬、予定も含む) の主なニュースをまとめてみると、

といったところだろうか。

このすべてについて書いていくと、あまりにも冗長になりそうだし、夜会関係については稿を改めたいので、ここれではとりあえず、ニューシングル「麦の唄」とニューアルバム『問題集』のことについてだけ、覚書程度のことを書いておこう。

「麦の唄」の歌詞については、朝ドラ「マッサン」の内容――とりわけ、ヒロインのエリーの視点――と絡めて、すでに多くのことが語られていて、私がそれに付け加えるべきこともあまりなさそうなので、ここでは音楽面についてだけ、少し書いておきたい。

バグパイプのイントロに導かれ、3連符のリズムに乗って歌い出される素朴で懐かしい旋律を耳にすると、おそらく多くの人が唱歌「故郷の空」、あるいはその原曲のスコットランド民謡“Comin’ Thro’ the Rye”を思い浮かべるのではないだろうか――そういえば、ドラマの中で、エリーが日本語で「故郷の空」を歌う場面も印象的だった。

ただ、その素朴さの第一印象とは裏腹に、旋律はAメロの反復 (9小節目、「嵐吹く大地も……」) からいきなり半音上に転調する。風景がぱっと切り替わるようなこの転調もまた、異国としての日本に嫁ぎ、そこで生きていこうとするエリーの決意を表現しているのだろうか。

そして、1番、2番の後にくる――ドラマ主題歌としては放送されない――いわゆる「大サビ」、「泥に伏せるときにも……」からの12小節では、さらにめくるめくような転調の連続に圧倒される。

| F# | B | C#7 | F# | D | A | C | G | Bm | D | C | F#7 |

この変転を経て、キーが再びメインの B (ロ長調) に戻り、冒頭の素朴な旋律を間奏のストリングスが奏ではじめるとき、長い旅を経て再び故郷に帰ってきたかのような懐かしさがあふれてくる。

やや余談になるが、このような複雑な転調の連続というと、「リラの花咲く頃」 (2012年のアルバム『常夜灯』収録曲) の中間部も思い出される。もちろん、コード進行も歌詞のシチュエーションも同じではないのだが、「馴染みなき異郷」にあって遥かな祖国を想う、その遥かな距離が、揺れ動く転調に託されて表現されている点は、両曲に共通しているようにも思うのだ。

――さて、上記の大サビと間奏を経て、「……麦は泣き 麦は咲き 明日へ育ってゆく」と歌い終えられた後のアウトロで、曲はさらに半音上の C (ハ長調) に転調し、再び冒頭のあの素朴で懐かしい旋律をストリングスが奏でて、ようやく名残惜しげに締めくくられる。このアウトロは、「麦」に託されたふたり――エリーとマッサン――のさらなる「明日」への予感でもあろうか。

アルバム『問題集』の内容については――公式トレーラーをリンクしておきながらこんなことを言うのもなんだが――前半の5曲 (既発表3曲を含む) はともかくとして、後半5曲については、今はできるだけ試聴などはせず、情報を遮断するようにしている。

というのも、後半5曲は夜会VOL.18の新曲であることが、あらかじめ発表されているからだ。

ライブでの新曲は、可能な限りその初日に「今この曲を生まれて初めて耳にしている」という緊張感とともに味わいたい。前回のツアー『縁会2012~3』のときも、初日の直前にニューアルバム『常夜灯』がリリースされるというパターンだったので、初日にはあえてアルバムを聴かずに「まっさら」の状態で臨んだ。今回も同様に、と目論んでいるわけである。

ただ、内容はともかくとして、ジャケットデザインや収録曲のタイトルからは、それが発表されたときから――いつもに増して――色々なことを考えさせられた。

まず、ピンク色のアルバムジャケットを縦に貫く一対の抽象的な二重螺旋は、どうしても――多くの人が生物の教科書などの図で目にしたであろう――DNA (とRNA?) を連想させずにはおかない。DNAはいうまでもなく、地球上の多くの生物において遺伝情報の継承をにない、RNAはDNAと対になって、(主として細胞の核の中で) 遺伝情報の一時的な処理をになう物質である。

結局は遺伝子以外の何ものでもないのなら
生物の一生は途方もなく永い間 (ま) という結論になり

という、「一生と一日」 (夜会『ウィンター・ガーデン』) の謎めいた詩節が思い出されなくもない。生、生命――そして転生――という、中島みゆきの全作品を貫いてきたモチーフに、このアルバムではまた新たな展開がなされるということだろうか。

次に、その背後にある √2 = 1.41421356… で始まる、終わることのない数列。「2の平方根」という、(たとえば「正方形の対角線の長さ」として現れる) きわめて単純な数が、実は小数では書き尽くすことのできない「無理数」であることを中学校の数学で初めて学び、不思議さや驚きにうたれた記憶のあるかたはおられないだろうか。

私たちが生きる「世界」は、一見単純な事柄の背後にも、そのように実に多くの謎や驚異――あるいは「難問」(Hard Problems) ――に満ちていて、だからこそ世界は魅力的で、生きるに値するのではないか――などと、とりとめもないことを考えさせらりたりもする。

最後に、アルバムのラスト曲「India Goose」のタイトルについて。

“India Goose” (和名「インドガン」) とは――私も調べてみて初めて知ったのだが――アジアに生息する雁の一種であり、「世界で最も高く飛ぶ鳥」として知られ、「わずか8時間でヒマラヤ山脈を飛び越える」という (ナショナルジオグラフィック ニュース「自力でヒマラヤを飛び越えるインドガン」より)

「世界で最も高く飛ぶ鳥」――もしかしたらこの事実から、中島みゆきは大いなるインスピレーションを得たのではないだろうか。

「鳥」という存在は――おそらくは、彼女が高校時代、初めての文化祭のステージで歌ったという幻の曲「鶫の唄」以来――さまざまな鳥の名と形象とによって、さまざまな「生」の姿を、彼女の作品の中に現してきた。

アルバムのラスト曲という重要な位置を占めるこの曲が、夜会VOL.18でも、重要な場面で歌われるであろうことは想像に難くない――だからこそなおさら、私はこの曲を、夜会の初日までは自らに封印しておきたいのだ。