夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』中間報告――「名前」と不在の人物について――

11/25(火)、11/29(土)と、2度目、3度目の公演を観た。

いずれも初日よりも全体に柔軟さを増した印象があったが、とりわけ29日の公演は、中島みゆき初めキャストたちの歌唱と演技、ミュージシャンたちの緊密かつ――牛山玲名さんの言葉を借りれば――「たぎり」に満ちた演奏、そしてビジュアルと音響等々、すべての構成要素が有機的に呼応しあって、客席に圧倒的なエネルギーとメッセージを伝えてくる素晴らしい舞台だった。

この2回の鑑賞で、予想通り、初日には気づかなかったさまざまな発見があったが、それらのすべてをブログ記事に詰め込んだのでは、あまりにも煩雑になり、まとまりを欠いてしまうだろう。

ここでは夜会VOL.18のいわば中間報告として、現段階でとくに気にかかっていること――それも部分的な演出等ではなく、むしろ、舞台では直接には描かれない――しかしながら、全体にかかわる重要な意味をもつと思われる――事柄について、2点だけ記しておきたい。

(1) 「名前」の意味について

主要キャスト3人を初めとする登場人物の命名には、高度な言葉遊びとでもいうべき、重層的な意味づけがされているようだ。が、そのことについても、詳細に書くと煩雑になりそうなので、別の機会に譲りたい。

しかしそれ以外にも、この夜会では「名前」というモチーフへの強いこだわりが随所にみられる。

「名乗りたくない一族の名」

ガードマン・高橋九曜 (石田 匠) が、占い師・橋元人見 (中島みゆき) から「九曜さん」と名前で呼ばれるのを嫌がり、「高橋です」と言い直す場面が、第1幕にも第2幕にもある。

これはおそらく、彼の前生の「公羊」が、妻を人柱に立てなければならなかったことに対する (無意識の) 悔恨・罪責からくるものだろう――このあたりも『今晩屋』との共通性を感じさせる。

第1幕の中ほど、第2場「橋脚:天明2年」へと場面が変わる直前で、彼は歌う――

名乗りたくない一族の名 この人生は誰のものだ

――「一族」のこの歌詞にも、彼の自らの「名」に対する嫌悪が表現されている。

「一族の名」というと、現在は苗字のことをイメージしがちだが、江戸期以前の庶民は一般的には苗字を公に名乗ることは許されなかったから、この場合は「家族から人柱を出した一族という汚名」というぐらいの意味だろう。

「名前」と「苗字」といえば、「アンテナの街」(1994年のアルバム『LOVE OR NOTHING』所収) にあった次のような歌詞を思い出す。

私を呼んでください 名前で呼んでください
苗字の流れの中にしか 見当たらない者じゃなく

この曲は、集団 (共同体) の「個」に対する抑圧と、そこからの脱出という点で、『橋の下のアルカディア』のテーマ全体とも共通性をもつ。

今回の夜会の場合、「高橋」という苗字――この一見ふつうの苗字はおそらく、シャッター街の背後にある「高い橋脚」を意味するのだろうが――が、むしろ九曜にとって望ましい呼び名になっている点で、ひとつの屈折が生じてはいる。

が、「個」のアイデンティティを表現する記号としての「名」へのこだわりという点では、やはり両者は通底しているというべきだろう。

「捨て子になる名前」

第1幕第2場「橋脚:天明2年」の冒頭、「昔々あるところに」で、「人柱」となる人身 (中島みゆき) は歌う――

その理由は名前 捨て子になる名前

彼女の「人身」という名は文字通り「人身御供」を表しているのだが、この歌詞はより一般的に、「名前」というものがもつ魔力というか言霊のようなもの――この場合はネガティブな意味での――を示唆している。

つづく「捨て子選び」での次のような歌詞も同様だ。

どの子を捨てよう  あの子を捨てよう
あの子じゃわからん  名前で決めよう

――以上のように、今回の夜会は、「名前」に対するこだわりが重要な底流として存在することは明らかだ。

だが、なぜ「名前」が重要なのか――

命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

「命の別名」 (1998年) のこの歌詞を想起すれば、「名前」とは、生きとし生けるものすべてが、この世界の中にそれぞれの「心」をもった「個」として存在していることの証しであるから、ということになるのだろうか――

このように考えてくると、「名前」というテーマは、今回の夜会の解釈にとどまらない、大きな広がりをもつようにも思えてくる。

(2) 不在の人物について

第1幕、「失せ物探し」の場面で、「Barねんねこ店主、豊洲天音様」に退去を命じるガードマン・九曜に対して、天音 (中村 中) は「店主じゃないもん、ママが帰ってくるまで代理だもん」と言い返す。

パンフレットに記されている通り、彼女はこのバーのママではなく「代理ママ」なのだ。

「帰ってくるまで」と言うからには、ママは亡くなったわけでなく、この地下壕ではないどこかへ行っているようだ。だが、なぜ彼女は、今、ここにはいないのか――

第2幕で天音が手紙を読み上げながら歌う「呑んだくれのラヴレター」の受け取り手は、(「代理ママ」の天音ではなく) この不在の「ママ」だったのではないか、と私は思っている――この点は、初日のレビューでも書いた通りだ。

この点は、舞台上の歌詞や演出でも、またパンフレットでも、まったく明示されてはいない。ラヴレターの送り主、高橋忠との年齢バランスという点さえ考慮に入れなければ、その受け取り手が「代理ママ」の天音であるという解釈も成り立つだろう。

――私がその解釈を採らない理由は、形式的には、もし天音が受け取り手だったとすれば、わざわざ彼女を (ママではなく)「代理ママ」として設定する意味が見いだせないことにあるが、それだけではなく、より実質的な理由がいくつかある。

上記の「呑んだくれのラヴレター」につづく、宮下文一が歌う「一夜草」の場面、九曜が「模型のタカハシ」の店内で仏壇に向かっている、その裏手、やや上方の暗がりの中に――これは九曜の記憶の再現だろう――寝間着姿の父・忠 (宮川 崇) が登場する。

忠は、手紙を次々と折って紙飛行機にしては、舞台中央の石段をはさんだ上手、「Barねんねこ」の裏手の暗がりへと飛ばす。この場面で、シャッター街の裏手の暗がりが、「過去の記憶の存在する場所」として意味づけられているとすれば、紙飛行機の手紙が届く場所は、やはり、「Barねんねこ」をママが切り盛りしていた過去だと解するべきではないだろうか。

やや余談ながら、この「一夜草」は、甘やかな旋律やワルツのリズムとも相まって、まるで昭和時代の歌謡曲のような、何ともいえない懐かしさを感じさせる曲だ。忠の青年・壮年時代が昭和戦後の高度成長期――このシャッター街がまだシャッター街ではなかった頃――だとすれば、その時代背景ともぴったり合う。

――それにしても、「Barねんねこ」の右隣の薬屋をはじめ、今は閉じてしまった店には、かつてどんな人々が暮らし、また買い物に訪れていたのだろうか。それらの人々が共有していたであろう、シャッター街がまだシャッター街ではなかった過去の記憶は、まるで舞台の無意識の背景として存在しつづけているかのようだ――その記憶は、店が動いて、地下壕に乱入してきたチンピラ (暴走族) たちを追い払う「シャッター街」の場面にも反映しているようにも思われる。

「Barねんねこ」のママは、舞台に登場する3人 (忠を含めれば4人) 以外の、かつてこのシャッター街に暮らしていたそれらの人々――「橋の下」にあって「いらない捨て子」となった人々――すべてを代表する存在、とは考えられないだろうか。

「ねんねこ」という店名は、黒猫のイラストが描かれた看板とも相まって「猫」を連想させるが、本来は赤子をくるむ綿入れ半纏の意味だ。だとすれば、ママが命名したであろうこの店名は、「捨て子」を象徴する記号と解することもできる。

おそらくあなたの悲しみが あなたをこの地に縛るだろう

「呑んだくれのラヴレター」に歌われている「悲しみ」とは――前生で人柱となった人身=人見や、彼女と別れなければならなかったすあま=天音だけではなく――この地下壕を安住の地としたすべての人々の、「捨てられた」者としての悲しみを意味しているのではないか――

――だとすれば、「緑の手紙」とは、それらの人々すべてを、その悲しみから解放するためのメッセージだったのではないだろうか。

以上の解釈には、繰り返すようだが、明示的な根拠はない。ただ、このように考えたほうが、ラストシーンでの「個が集団を捨てる」ことによる救済という結論に、より強い普遍性が付与されるようにも思われるのだ。

いずれにせよ、『橋の下のアルカディア』は、その一見ストレートなメッセージの背後に、さまざまな魅惑に満ちた「謎」を秘めた作品であることは間違いない。

それらの「謎」に迫っていく愉しみと期待とを胸に、私は、約1週間後に迫った千秋楽を、今、待っている――

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』初日

20141115171453

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』初日、11月15日(土)の公演を観てから、早くも1週間が過ぎた。

過去の夜会にも増して深い衝撃と問い――というよりも、過去の数々の夜会が私に与えた衝撃と問いをも改めて振り返らせ、それらすべてを、新たに凝縮しなおして一気に突き付けられたかような感覚――が、心と胸の奥底に残り、それはむしろ日が経つほどに、熾火のように熱を増している。

もちろん、やはりこれまでの夜会でもそうだったように、細部には、1回の公演を観ただけでは十分に咀嚼しきれない部分が――とりわけ前半の第1幕には――多く残った。

前の記事にも書いた通り、アルバム『問題集』収録の5曲をあえて聴かずに臨んだこともあって、初日ならではの緊張感と興奮は存分に味わい尽くすことができたが、そのことと引き換えに、未解決な部分が多く残ることは、いわば最初から織り込み済みのことでもあった。それらについては、次回に観るときのための課題として残しておきたい。

そうした演出や曲目の細部にわたる詳細なレビューは次回以降に譲り、この記事では、なるべく初日の余韻と第一印象が薄れないうちに、私が受け取った衝撃と問いの核心部分だけを、書き留めておくことにしたい。

第1幕

第1場 地下壕:冬

物語の主要な舞台となるのは、二重のアーチをもつ石造りの橋の下にある、地下壕 (かつての防空壕) の中につくられた古びた商店街である。

その多くはすでに店を閉じ、「シャッター街」と化した、うら寂れた街並み。右横書きで「クスリ」と書かれた看板もみられるのは、ここが戦前から存在することを示唆するのだろうか。「ボンカレー」「オロナミンC」「オロナイン」といったブリキの看板は、昭和30年代ぐらいのレトロな雰囲気を醸し出している。

まだ店を開いているのは、不思議にエキゾチックな衣装の占い師・橋元人見 (中島みゆき) が営む「水晶宮」と、代理ママ・豊洲あまね (中村 中) がひとりでやっているらしい「Bar ねんねこ」の2軒のみ。

そこへ、舞台中央の階段を降りてガードマン・高橋九曜 (石田 匠) が訪れ、この地下壕は集中豪雨時の雨水を放流するための地下水路に改修されるので、退去するようにと2人に勧告する――ここはもう「いらない町」になったのだと。

――都市機能の整備のための再開発、といえばそれまでだが、このようにして見捨てられていった「いらない町」が、戦後日本の経済発展の途上には、数限りなく存在したに違いない。

昨今のブームとしての「昭和レトロ」へのノスタルジアは、もしかしたら、そのようにして私たちが振り捨ててきた「過去」への、無意識の罪責感の反映でもあるのではないだろうか――そんなことをふと思ったりもした。

第2場 橋脚:天明2年

物語は、橋の下の地下壕がまだ実際に川であった過去――江戸中期、天明の大飢饉の時代――へと、一気にさかのぼる。

洪水から橋を守るため――川の怒りを鎮めるため――と称して、村長の命により、ひとりの村女・人身 (中島みゆき) が「人柱」に立てられる。

彼女を内部の空洞に入れた橋脚の扉が閉じ、増してゆく水嵩――その川に身を投げる、彼女の夫らしき村男・公羊 (石田 匠)。

――この悲痛なシーンは、夜会『今晩屋』第1幕の幕切れ――僧形の厨子王が炎上する縁切り寺に身を投じ、ついで〈禿〉と〈庵主〉が左右の滝壺に身を投げるあの場面を思い起こさせずにはおかない。

しかし、それ以上に胸に迫るのは、人身の愛猫〈すあま〉(中村 中)が幕切れの場面、猫籠の中で歌う「人間になりたい」だ。自分が人間でありさえすれば、人身を救うことができたのに――と。

この第2場で、やはり『今晩屋』の物語と同様に、3人の主要キャストの転生が明らかになる。人身は占い師・人見として、〈すあま〉はバーの代理ママ・あまねとして、そして公羊はガードマン・九曜として、それぞれ現代に転生し、あの地下壕の商店街で再会を果たしていたのだ。

――だとすれば、今生でこそ3人は、集団のための犠牲とされた前生の運命から解放され、救済されうるのだろうか。

この問いが、第2幕へと私たちを導いていく――

第2幕

第1場 地下壕:夏

舞台は再び地下壕の商店街。

ガードマンは、「水晶宮」の左隣の店、今は閉店した「模型のタカハシ」の (3年前に他界した) 店主の息子であるらしく、その亡父の供養のためにたびたび店を訪れる――彼の役名「九曜」には、前生の村男の名「公羊」とともに、明らかに同音の「供養」の意味が重ねられているのだ。

その模型店店主、高橋忠は、かつて「Bar ねんねこ」の (舞台には登場しない) ママに恋心を抱いていたらしく、多くのラヴレターを彼女に送っていた――それらは、代理ママのあまねが今も保存しているようだ。

この忠の視点で歌われる「呑んだくれのラヴレター」は――後述する同じ旋律の「国捨て」とともに――この夜会VOL.18の物語の核となる、最も重要な曲である。

未曽有の嵐が来る時は この地は川へと還るだろう
二度と生贄にならぬよう 緑の手紙を開けなさい

「未曽有の嵐」は、「毎時200ミリ」の集中豪雨として、すでにこの「いらない町」に迫っていた――第1幕で九曜が警告していたように、集中豪雨時の放水路としてこの地下壕が水に呑まれる瞬間が、刻一刻と近づいてきたのだ。地上への扉は、すでに閉ざされている。

3人はその前生と同じように、再び流れに呑まれ、生贄となる運命を辿るのか――「生贄にならぬ」ための「緑の手紙」を、人見とあまねは必死に探そうとするが、それはどこにも見つからない。

「緑の手紙」とは、いったい何なのか、それはいったいどこに存在するのか――

第2場 格納庫

この絶体絶命の危機の中、あまねに前生の猫としての能力が、奇跡のようによみがえる。彼女は「猫にだけ見える」道を辿り、舞台中央の石造りの橋脚の中心に植物に覆われて隠された、巨大な両開きの扉を存在を明らかにする。この扉が「緑の手紙」なのか――

やがて巨大な扉が開き、その隙間からまばゆい光が漏れてくる――この場面は、夜会初期の演目『金環触』の天岩戸が開くあのシーンを、やはり想起させずにはおかない。

扉の隙間からは、古めかしい飛行服に身を包んだ男のシルエット。その背後には小型機のプロペラが覗く――そして、格納庫の扉が全開したとき遂に姿を顕わすのは――

零戦――旧日本海軍の零式艦上戦闘機。

その機体の上面は緑に、下面は灰白色に塗装されている。この零戦こそが「緑の手紙」だったのか――

飛行服の男は、忠の父であり九曜の祖父である〈脱走兵〉高橋一曜だ。かつて「国を捨てながら逃げた臆病者」と謗られた彼が、この地下壕の格納庫に隠した零戦を、忠はひそかに守り続けてきたのか――

「呑んだくれのラヴレター」と同じ旋律で歌われる「国捨て」――それは、一曜から忠を経て、九曜の世代へと託されたメッセージである。

私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった
緑の手紙に託します
緑の手紙に託します

しかし、この零戦こそが地下壕から――そこで再び生贄となる運命から――脱出するための、3人を「幸せにする翼」であったとしても、1人乗りの零戦に3人が乗ることはできない。

前生の〈すあま〉としての記憶がよみがえったあまねは、自ら――第1幕の幕切れと同じ――猫籠 (に見立てられたケージ) の中に入る。今度は自らがこの地に残り、犠牲になることによって、人見を救おうというのだ。だが人見はその自己犠牲を拒否し、自らも猫籠の中に入る――

九曜は、2人が入った猫籠をワイヤーで零戦にくくりつけ、操縦席に搭乗し発進させる――終曲「India Goose」とともに、ゆっくりと垂直に上昇してゆく機体――

このラストシーンを、リアリズムの観点で理解してはならないだろう。

集団のため、社会のため、国家のために犠牲にされ、見捨てられてきた「個」が、まさに最終的にその運命の抑圧から解き放たれて飛翔し、救済されるということ――

この救済のイメージこそを、このラストシーンは――あえて言えば、ひとつのファンタジーとして――開示するのだ。

――『ウィンター・ガーデン』のときと同じく、堆積した過去としての地下から、まだ見ぬ未来としての天空への飛翔。

天明の時代に橋を守るために沈められた人柱、戦後の経済成長の陰で寂れていったシャッター街、集中豪雨の雨水を放流するために犠牲になる地下壕――

それらすべて「捨てられたものたち」を救済するのが、かつて「人を殺す道具」としてつくられ――そして、この点は明示的に表現されてはいないが――「特攻」という究極の自己犠牲のために用いられた武器であったという、巨大な逆説がもたらす衝撃。

この衝撃の深さと激しさは比類がなく、ここには中島みゆきの徹底的にラディカルな歴史意識が反映しているのだと私は思う。

『今晩屋』をも貫いていた「過去の救済をめざす歴史意識」はさらに鋭さを増し、近現代日本という現実をも、その射程の中に捉えようとしているのだ――

昨年の夜会工場VOL.1初日のレビューでも書いたように、さらなる転生と救済の物語を、これからもまた夜会は紡ぎ織りなしてゆくだろうという期待と予感は、この『橋の下のアルカディア』で、期待をはるかに超える高さで実現されたというべきだろう。

テーマ

今回の夜会のテーマについて中島みゆきは、すでに夜会の公式サイトに掲載されたインタビュー の中で、「集団が個を捨て、個が集団を捨てる。そんなお話かな(笑)」と語っている。

言うまでもなく、「集団が個を捨て」ることは歴史上果てしなく繰り返されてきたが、その逆に「個が集団を捨てる」ことは、現実にはきわめて困難なことだ――それは、かつて「国を捨てながら逃げた」一曜に与えられた、「御国の恥」「身内の恥」という烙印からも明らかだろう。

そのきわめて困難な問いを、今まさに提示しなければならないという抑えがたい衝動が、いま彼女の中には存在するのだろうか。だとすればそれは、来るべき「未曽有の嵐」への危機感なのだろうか――

だがこうした問いは――これまでのすべての中島みゆき作品においてそうであったように――私たち自身の心に委ねられるほかはない。これ以上、ここで具体的な想像を展開するのは控えておこう。

キャスト

今回初めてキャストとして起用された二人、中村 中と石田 匠は――前の記事に書いた通り――期待以上の歌唱力と演技力とによって、すでに四半世紀の歴史を重ねた「夜会」に清新な風を吹き込み、新たな1ページを開いてくれたと感じる。

とりわけ中村 中は、上記の「人間になりたい」での悲痛や歌唱と演技をはじめとして――気紛れさとしなやかさと神秘性とによって人を惹きつけてやまない――「猫」という存在のもつ魔性ともいうべき魅力を、十二分に表現しつくして余すところがない。

おそらく中島みゆき自身がそのことを念頭に彼女を起用したのだろうが、『橋の下のアルカディア』は、彼女の存在抜きには考えられない作品になった。

ビジュアルイメージ

今回の夜会でも、中島みゆきをはじめキャストたちの衣装や、上記のような大がかりな舞台装置を効果的に用いた演出等、ビジュアル面のすばらしさについても言うまでもない。

が、以前にも書いたように、視覚的な記憶力・表現力いずれもが著しく乏しい私には、それらについてはほとんど語る資格がない。

その代わりに、と言っては何だが、昨年の夜会工場VOL.1でも数々のすばらしいビジュアルイメージを見せてくれたぴしわさんの「覚え描き」ブログに、さっそく今回も見事なイラスト群が掲載されている。ぜひこちらをご参照いただきたい。

【補足】零戦の緑の塗色について

「緑の手紙」の「緑」には上記以外にも、いくつかの意味が重ね合わされているようにも思われるが、少なくともそのひとつが、ラストに登場する零戦の塗色であることは明らかだろう。

ただ、(ここから少しマニアックな話になるが) 零戦の初期型は灰白色の塗色がほとんどであり、緑の塗色 (厳密には機体上部が緑で下部は灰白色) が一般化するのは、戦局が悪化した昭和18年以降である。その後期型を代表するのが、零戦52型という機種だ。

戦後、緑色の零戦のイメージが一般化したのは、プラモデルの影響が大きかったらしく、Q&Aサイトにある「零戦の塗装について」という質問への解答には、「零戦=緑色と言うイメージを植えつけたのは、過去の零戦プラモが殆ど52型をキット化していた為」との説明がある。

このような歴史的経緯を踏まえると、「緑の手紙」には、「脱走兵」(元特

攻隊員?)だった祖父・高橋一曜から、模型店店主の父・忠を経て、九曜へと受け継がれた「戦争の記憶」という意味が含まれているようにも思えてくる。

なお、今回の零戦のセットは、塗装の細部の特徴からみて、遊就館 (靖国神社境内にある資料館) に展示されている零戦52型をベースにしたものとも思われる。

【キャスト】

  • 中島みゆき …橋元人見(占い師) 人身(村女)
  • 中村 中   …豊洲天音(Barの代理ママ) すあま(猫)
  • 石田 匠   …高橋九曜(ガードマン) 公羊(村男)
  • 松崎建ん語 …村人 チンピラ
  • 宮川 崇   …警官 村長 高橋 忠(父:模型飛行機店主) 高橋一曜(祖父:脱走兵)
  • 森尻斗南  …警官 村人 チンピラ
  • 井上裕朗  …緊急無線の声 

【ミュージシャン】

  • 小林信吾 (Conductor, Keyboards)
  • 矢代恒彦 (Keyboards)
  • 中村 哲 (Keyboards, Saxophone)
  • 古川 望 (Guitars)
  • 富倉安生 (Bass)
  • 島村英二 (Drums)
  • 杉本和世 (Vocal)
  • 宮下文一 (Vocal)
  • 牛山玲名 (Violin)
  • 民谷香子 (Violin)
  • 友納真緒 (Cello)

【曲目】

  1. なぜか橋の下
  2. 水晶球
  3. 謎な女
  4. 問題集
  5. いらない町
  6. 失せ物探し
  7. 恋なんていつでもできる
  8. いちど会ったらどうかしら
  9. 大きな忘れ物
  10. 猫なで声プリーズ
  11. 川の音が聞こえる
  12. 一族
  13. 昔々あるところに
  14. 捨て子選び
  15. すあまの約束
  16. 男の仕事
  17. 身体の中を流れる涙
  18. 男の仕事
  19. みのむし(鬼の捨て子)
  20. 私と一緒に
  21. 猫籠
  22. 人柱
  23. 人間になりたい
  24. 問題集
  25. 身体の中を流れる涙
  26. どうしてそんなに愛がほしいの
  27. 雨天順延
  28. ペルシャ
  29. 袋のネズミ
  30. シャッター街
  31. 恋なんていつでもできる
  32. 雨天順延
  33. 二雙の舟
  34. 水晶球
  35. 一族
  36. 呑んだくれのラヴレター
  37. 一夜草
  38. 毎時200ミリ
  39. いらない町
  40. 呑んだくれのラヴレター
  41. 猫にだけ見えるもの
  42. 国捨て
  43. India Goose
  44. 私と一緒に
  45. India Goose
  46. なぜか橋の下

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』初日を待ちながら

20141103_183929_edited1_2

夜会VOL.18のタイトルが『橋の下のアルカディア』と発表され、事務局サイトが開設されたのは、7月10日のことだった。2008年の『夜物語 元祖~今晩屋~』以来6年ぶりとなる、この新作夜会について何か書かねばと思っているうちに、たちまち4ヶ月あまりが過ぎ、早くも初日2日前となってしまった。

このタイミングでブログ記事を書くのも何だか間が抜けているが、とりあえずは、(Twitter や Facebook に書いた内容も含めて) これまで考えたり調べたりしたことをまとめなおしておきたい。

まず、今回の夜会が新作であるからには、曲目のほとんどが新曲になることは間違いない。

初期の夜会 (VOL.6『シャングリラ』まで) は、既発表曲を新たな文脈の中で歌いなおすことによって、作品の新たな意味を追求してゆく「言葉の実験劇場」をコンセプトとしていたが、その時期でも、とりわけ重要な場面で、いくつかの重要な新曲が挿入されていたことは忘れ難い (夜会のテーマ曲となった「二隻の舟」自体、1989年の最初の夜会で発表された新曲でもあったのだ)

VOL.7『2/2』以降は、新作のたびに十数曲もの新曲が発表され、それらがストーリーの根幹を構成するようになったことはいうまでもない。中島みゆきの尽きることのない創造力には改めて驚くほかはないが、一方、VOL.9『2/2』以降、これまで5演目が上演された再演 (あるいは再々演) においても、やはり重要な場面でいくつかの新曲が挿入されたことは見逃せないポイントだ。

――これまでいったい、どれぐらいの数の新曲 (および既発表曲) が夜会の各演目で演奏されてきたのか。それを明らかにするため、いつもお世話になっている「中島みゆき研究所」のデータを参照させていただいた上で、データを整理したのが下記の表である (「夜会工場VOL.1」のデータも含む)

Yakai_3

さて、今回の『橋の下のアルカディア』では、これまでも増して多くの新曲が歌われるという情報がある――もっと具体的な曲数の情報もあるのだが、それについては「ネタバレ」をできるだけ避ける意味で、ここでは触れないでおこう。

それと、夜会VOL.18初日直前の11月12日にリリースされたニューアルバム『問題集』の収録曲中、後半の5曲が、今回の夜会で歌われるということも発表されている。上記の表にもあるように、これまでも直前リリースのアルバムからの曲が夜会で歌われたケースは何度かあるが、今回のように、そのことがあらかじめ明示的に発表されたのは初めてのことだ。

が、これらの5曲についても、私は――別の記事 にも書いたような理由で――夜会初日の舞台に接するまでは、一切聴かないでいるつもりだ――少々こだわり過ぎと思われるかもしれないが。

次に、『橋の下のアルカディア』というタイトルについて。

「アルカディア」といえば、同じく「理想郷」を意味する『シャングリラ』 (夜会VOL.6) が思い出される。が、辞書 (『リーダーズ英和辞典』) をひくと、”Shangri-La” がイギリスの作家 J.ヒルトンの小説『失われた地平線』に登場する、高度な技術を駆使した人工的な理想郷の名であったのに対して、”Arcadia” は古代ギリシアの伝承に由来する「静かで質朴な生活の営まれる田園的理想郷」を意味するようで、この2つの言葉のあいだには、かなり対照的なニュアンスがあるようだ。

もちろん、そうしたニュアンスが今回の夜会の内容に反映されているのかどうかは、実際に観てみるまでは何とも言えないのだが――

それと「橋の下」の意味についても、中島みゆき自身へのインタビュー等で、すでに多少の情報が示されている。が、これについても「ネタバレ」を避ける意味で…… (以下略)

そして、今回の夜会でおそらく最も注目されるポイントである、キャストについて。

準主役と目される中村 中は、VOL.11『ウィンター・ガーデン』での谷山浩子以来、シンガーソングライターのキャスト起用としては二人目となる。あの時は、谷山浩子が歌と演技との両面で、圧倒的な存在感を示した。

その再演のVOL.12以降は――これまでこのブログの記事でも何度か触れてきたように――キャストとサイドヴォーカルとの分業体制が確立されてきたわけだが、今回の中村 中には、おそらく久々に、歌と演技の両方という重責が課されることになるだろう。

私自身は、シンガーソングライターとして、あるいは演技者としての彼女について――幸か不幸か――ほとんど予備知識をもっていない。が、中島みゆきが (VOL.11当時の谷山浩子に比べても遥かに若い) 彼女をあえてキャストに起用したことには、十分な根拠があるはずだ。その重責を彼女が十二分に果たし、夜会の歴史に新たな1ページを開いてくれることを大いに楽しみにしたい。

もうひとりのキャスト、石田 匠については、私には中村 中以上に予備知識がない。が、この『Authentic Blue』というアルバムのトレーラーを聴く限り――少しだけ、最初期の中島みゆきを思い出させなくもない――素朴で真摯なヴォーカルとメロディが印象的だ。

中村 中と同じく、夜会には初登場となる彼が、舞台に清新な風を吹き込んでくれることを期待しよう。

ところで、上記のキャスト二人やミュージシャンの Twitter やブログをフォローし、その思いや意気込みを垣間見るのも、初日を迎える前から始まる、夜会の愉しみのひとつだ。

なかでも個人的に、以前から楽しみに読んでいるのが、ヴァイオリンの牛山玲名のブログ。  彼女の言葉からは――その演奏と同様に――ミュージシャンとしての鋭い感性の閃きと真摯な思いとがストレートに伝わってくる。

今回の夜会に触れた9月13日の記事での、

冷静に、眼を凝らして、俯瞰して。このたぎりをお届けする所存。

という言葉は、客席につく私たちもまた、目を凝らし耳を澄ませて、舞台の全容と彼女たちのたぎりを全身で受け止めなくては、という気持ちにさせてくれる。

――そのたぎりへの予感とともに、40数時間後に迫った初日の開幕を待ちたい。

「麦の唄」と『問題集』

いつものことながら、ブログの更新をサボっている間に、次々と新しいニュースが飛び込んできて、いったい何から書けばいいのか……と迷っているうちに、前回の記事から3ヶ月ほどもが過ぎてしまった。

とりあえず、時系列順にこの間 (2014年夏~冬、予定も含む) の主なニュースをまとめてみると、

といったところだろうか。

このすべてについて書いていくと、あまりにも冗長になりそうだし、夜会関係については稿を改めたいので、ここれではとりあえず、ニューシングル「麦の唄」とニューアルバム『問題集』のことについてだけ、覚書程度のことを書いておこう。

「麦の唄」の歌詞については、朝ドラ「マッサン」の内容――とりわけ、ヒロインのエリーの視点――と絡めて、すでに多くのことが語られていて、私がそれに付け加えるべきこともあまりなさそうなので、ここでは音楽面についてだけ、少し書いておきたい。

バグパイプのイントロに導かれ、3連符のリズムに乗って歌い出される素朴で懐かしい旋律を耳にすると、おそらく多くの人が唱歌「故郷の空」、あるいはその原曲のスコットランド民謡“Comin’ Thro’ the Rye”を思い浮かべるのではないだろうか――そういえば、ドラマの中で、エリーが日本語で「故郷の空」を歌う場面も印象的だった。

ただ、その素朴さの第一印象とは裏腹に、旋律はAメロの反復 (9小節目、「嵐吹く大地も……」) からいきなり半音上に転調する。風景がぱっと切り替わるようなこの転調もまた、異国としての日本に嫁ぎ、そこで生きていこうとするエリーの決意を表現しているのだろうか。

そして、1番、2番の後にくる――ドラマ主題歌としては放送されない――いわゆる「大サビ」、「泥に伏せるときにも……」からの12小節では、さらにめくるめくような転調の連続に圧倒される。

| F# | B | C#7 | F# | D | A | C | G | Bm | D | C | F#7 |

この変転を経て、キーが再びメインの B (ロ長調) に戻り、冒頭の素朴な旋律を間奏のストリングスが奏ではじめるとき、長い旅を経て再び故郷に帰ってきたかのような懐かしさがあふれてくる。

やや余談になるが、このような複雑な転調の連続というと、「リラの花咲く頃」 (2012年のアルバム『常夜灯』収録曲) の中間部も思い出される。もちろん、コード進行も歌詞のシチュエーションも同じではないのだが、「馴染みなき異郷」にあって遥かな祖国を想う、その遥かな距離が、揺れ動く転調に託されて表現されている点は、両曲に共通しているようにも思うのだ。

――さて、上記の大サビと間奏を経て、「……麦は泣き 麦は咲き 明日へ育ってゆく」と歌い終えられた後のアウトロで、曲はさらに半音上の C (ハ長調) に転調し、再び冒頭のあの素朴で懐かしい旋律をストリングスが奏でて、ようやく名残惜しげに締めくくられる。このアウトロは、「麦」に託されたふたり――エリーとマッサン――のさらなる「明日」への予感でもあろうか。

アルバム『問題集』の内容については――公式トレーラーをリンクしておきながらこんなことを言うのもなんだが――前半の5曲 (既発表3曲を含む) はともかくとして、後半5曲については、今はできるだけ試聴などはせず、情報を遮断するようにしている。

というのも、後半5曲は夜会VOL.18の新曲であることが、あらかじめ発表されているからだ。

ライブでの新曲は、可能な限りその初日に「今この曲を生まれて初めて耳にしている」という緊張感とともに味わいたい。前回のツアー『縁会2012~3』のときも、初日の直前にニューアルバム『常夜灯』がリリースされるというパターンだったので、初日にはあえてアルバムを聴かずに「まっさら」の状態で臨んだ。今回も同様に、と目論んでいるわけである。

ただ、内容はともかくとして、ジャケットデザインや収録曲のタイトルからは、それが発表されたときから――いつもに増して――色々なことを考えさせられた。

まず、ピンク色のアルバムジャケットを縦に貫く一対の抽象的な二重螺旋は、どうしても――多くの人が生物の教科書などの図で目にしたであろう――DNA (とRNA?) を連想させずにはおかない。DNAはいうまでもなく、地球上の多くの生物において遺伝情報の継承をにない、RNAはDNAと対になって、(主として細胞の核の中で) 遺伝情報の一時的な処理をになう物質である。

結局は遺伝子以外の何ものでもないのなら
生物の一生は途方もなく永い間 (ま) という結論になり

という、「一生と一日」 (夜会『ウィンター・ガーデン』) の謎めいた詩節が思い出されなくもない。生、生命――そして転生――という、中島みゆきの全作品を貫いてきたモチーフに、このアルバムではまた新たな展開がなされるということだろうか。

次に、その背後にある √2 = 1.41421356… で始まる、終わることのない数列。「2の平方根」という、(たとえば「正方形の対角線の長さ」として現れる) きわめて単純な数が、実は小数では書き尽くすことのできない「無理数」であることを中学校の数学で初めて学び、不思議さや驚きにうたれた記憶のあるかたはおられないだろうか。

私たちが生きる「世界」は、一見単純な事柄の背後にも、そのように実に多くの謎や驚異――あるいは「難問」(Hard Problems) ――に満ちていて、だからこそ世界は魅力的で、生きるに値するのではないか――などと、とりとめもないことを考えさせらりたりもする。

最後に、アルバムのラスト曲「India Goose」のタイトルについて。

“India Goose” (和名「インドガン」) とは――私も調べてみて初めて知ったのだが――アジアに生息する雁の一種であり、「世界で最も高く飛ぶ鳥」として知られ、「わずか8時間でヒマラヤ山脈を飛び越える」という (ナショナルジオグラフィック ニュース「自力でヒマラヤを飛び越えるインドガン」より)

「世界で最も高く飛ぶ鳥」――もしかしたらこの事実から、中島みゆきは大いなるインスピレーションを得たのではないだろうか。

「鳥」という存在は――おそらくは、彼女が高校時代、初めての文化祭のステージで歌ったという幻の曲「鶫の唄」以来――さまざまな鳥の名と形象とによって、さまざまな「生」の姿を、彼女の作品の中に現してきた。

アルバムのラスト曲という重要な位置を占めるこの曲が、夜会VOL.18でも、重要な場面で歌われるであろうことは想像に難くない――だからこそなおさら、私はこの曲を、夜会の初日までは自らに封印しておきたいのだ。

「野球」と「記憶」――夜会『ウィンター・ガーデン』と『博士の愛した数式』

「夜会ステージアートスペース」 (2008年 赤坂TBS 1階ロビー) より、夜会VOL.12『ウィンター・ガーデン』の舞台

夏の甲子園での高校野球が始まると、野球好きの血が騒ぐ。

私自身は生来の運動音痴で、もっぱら「観る」方の立場ではあるが――高校野球にせよプロ野球にせよ――野球にまつわるさまざまな記憶は、これまでの人生の節目節目に、かなり濃くその影を落としているような気がする。

どんなスポーツでも言えることなのかもしれないが、とりわけ野球というスポーツは、数字というかたちで記録されるデータの質や量の厚みとも相まって、そのように個人的な記憶と強くリンクする傾向があるようにも思う。

 

ところで、中島みゆきの歌詞に明示的に「野球」が登場するのは――「あたしの泣き顔」を見て見ぬふりで「野球の話ばかり」何度も繰り返す、苦労人の「タクシードライバー」を別にすれば――1988年のアルバム『中島みゆき』に収録された「ミュージシャン」が唯一の例である。

「人生は長過ぎて 僕の手に負えない」と、自らの生に踏み迷うミュージシャンを主人公とするこの歌の後半、いわゆる大サビで、彼は少年時代の記憶をよみがえらせる。

12歳の頃 野球選手になりたかった
今でも夢にみるさ マウンドにあがってる
……
だけど 8回の裏
投げ方を忘れてマウンドを降ろされる
やりきれぬ笑い話さ
かなしい夢さ

大詰めの9回の裏ではなく「8回の裏」――この表現には、野球好きの心に妙に響くリアリティを感じさせる。

少年時代の野球への夢とその挫折の記憶を忘れられずにいること――そのことこそを、ミュージシャンのこれからの長い生への励ましへと転化させて、この歌は結ばれる。

 

この「ミュージシャン」も「野球」と「記憶」との関わりということを強く印象づける歌だが、中島みゆきには、実はその関わりがより深く、ストーリーの根幹に据えられた作品がある。

それは、2000年に初演され、2002年に再演された夜会『ウィンター・ガーデン』である。

北限の荒野に立つ GLASSHOUSE でひとり暮らしながら、道ならぬ恋の相手である義兄――姉の夫――を待つ〈女〉(VOL.11では谷山浩子、VOL.12では香坂千晶) 、そしてその GLASSHOUSE の先住者の〈犬〉 (中島みゆき)

その〈犬〉がずっと大切そうに抱えている赤い CAP (野球帽) ――それこそは、〈犬〉をその前生の記憶へとつなぎとめている鍵だったのだ。

 

第2幕も後半の第4場、中島みゆきが「天使の階段」を歌う場面で、初めて〈犬〉の前生――GLASSHOUSE のかつての主人と、やはり道ならぬ恋にあった愛人――が明かされる。

妻と離婚し、ここで共に暮らそうと約束した男の姿を探して、彼女は氷の湖へとさまよい出る。その胸に大切そうに抱きしめられている赤い CAP――

暑い夏だったわ あの人がナイターに連れてってくれた
声を嗄らして応援して いっぱい笑って ナイスプレイに抱き合って喜んだ
あの日の CAP が あたしの宝物になったの
 (「CAP」)

「学校のグラウンドでボールを追っかけてた」というからには、彼自身、かつて野球の選手でもあったのだろう。真夏のナイターの興奮の記憶と、氷に覆われた真冬の光景とのコントラストは、あまりにも鮮やかだ。

――しかしその思い出の CAP は思いがけぬ突風にさらわれ、氷上に吹き飛ばされてしまう。それを追って彼女は、氷の割れ目の下に姿を消す――

 

『ウィンター・ガーデン』については、以前、「神話の解凍」と題した記事でかなり詳しく考察したので、ここではこれ以上は繰り返さない。

ただ、数年前、まったく別の方面から、この夜会のことを――とりわけ、「野球」と「記憶」との関わりという側面から――鮮明に思い出す機会があった。

それは、小川洋子の小説『博士の愛した数式』を読んだときである。

80分しか記憶が持続しない老数学者「博士」、シングルマザーの家政婦の「私」、その10歳の息子「ルート」という3人のあいだの、それぞれに危うさと傷つきやすさをかかえながら、そしてそれゆえに、この上なくきめ細やかな交感と交流の物語。

17年前 (1975年) の交通事故の後遺症で記憶の蓄積が止まり、もはや現在 (そして未来) には「人生」という物語を生きることのできない「博士」と、「私」「ルート」の母子とのコミュニケーションを取り持った二つの中心的なメディアは、「博士」の愛した「数」と「阪神タイガース」であった。

 

この小説に登場する、数や数学をめぐるさまざまなエピソードもとても印象的なのだが、このブログの性格上、それについては割愛しよう。

ただ、熱狂的な阪神ファン――とりわけ、彼の記憶の中ではいつまでも現役でいる江夏豊の大ファン――でありながら、「博士」が野球の試合を一度も (TVでさえも) 見たことがないということに驚く「ルート」に対して、彼はこう語る――

野球ほど多彩な数字で表現できるスポーツは他にないからね。
阪神の選手の打率や防御率のデータを分析するんだ。
0.001の変化を読み取って、試合の流れを頭の中でイメージするのさ

もちろん打率や防御率だけではなく――後で紹介するナイター観戦の客席で――マウンドの高さやホームに向かってのその傾斜、あるいは盗塁時の投手、走者、捕手それぞれのコンマ何秒単位のタイミングでの熾烈な争い等々、実に細々とした――しかし野球にとって本質的に重要な――数字について「博士」は次々と語り続け、尽きることがない。

要するに、「博士」の「数」への愛と「阪神タイガース」への愛とは、互いに強く織りなされたものだったのだ。

 

母子は、思い切って「博士」を野球観戦に誘う。1992年6月2日、3人が初めてプロ野球公式戦 (阪神・広島戦) に出かけるこの場面は、とりわけ印象的だ。

三塁側特別内野へ続く階段を登りきった瞬間、私たちは同時に声を上げた。
不意に開けた視界の先には、柔らかく黒々としたグラウンド、
まだ誰の足跡もついていないベース、真っすぐにのびる白線、
そして丁寧に手入れされた芝生の広がりが見えた。
……
その時、私たちの到着を待ち望んでいたかのように、照明に灯がともった。
カクテル光線を浴びた球場は、天から舞い降りてきた宇宙船だった。

この上なく世俗的な喧噪と興奮の空間でありながら、それゆえにその場にいる人々を世俗のあらゆることどもから離脱し浮遊させる夢と祝祭の空間。

 

この年、1992年のペナントレースの行方は、3人のその後の転機とも重なるかのように展開していく。(とりわけ阪神ファンであれば、よくご存じのように) 野球も人生も、いつだって「ドラマ」や「物語」のようになんか行きはしない――阪神はヤクルトとの優勝争いに敗れ、2位に終わった。束の間の夢と祝祭を共有した3人も、またそれぞれの現実の中に戻ってゆき、現実の問題と直面するほかはなかった。

しかし3人を結びつけた「数」と「阪神タイガース」と、そしてそれらを取り囲むささやかな日常の中で各々が受けた祝福の記憶は、この小説に設定された時間の線分を超えて、消えることなくこだましつづけているような気が、私にはした。

 

この小説を読み終えて私の胸に浮かんだのが、『ウィンター・ガーデン』のテーマ曲ともいうべき「記憶」である。このとき私は、この曲はまるで「博士」のために書かれたような気さえした。

もしも過ぎた事を 総て覚えていたら
何もかもが降り積もって 辛いかもしれない
 ……
思い出すなら 幸せな記憶だけを
楽しかった記憶だけを 辿れたらいいけれど
……
1人で生まれた日に 誰もが掌に握っていた
未来は透きとおって 見分けのつかない手紙だ

「博士」がつねに(「ルート」をはじめとする) 子どもたちに限りない慈しみを注いだのも、子どもたちこそ、自らには失われた「未来」という「透きとおった手紙」を遥かに運んでゆくことのできる存在だったからなのかもしれない。

(追記)
なお、『ウィンター・ガーデン』と『博士の愛した数式』との間には、「野球」と「記憶」以外に、実はもうひとつ、やはりストーリーの根幹にかかわる重要な共通項がある。しかしこれについては、小説のいわゆる「ネタバレ」になってしまうので、ここでは伏せておこう。