ボブ・ディランと中島みゆき

 

「いつか、みゆきさんにも!」

2016年10月、ボブ・ディランへのノーベル文学賞授与のニュースが世界を駆け巡ったとき、私も含めて多くの中島みゆきファンが――いくらかは冗談交じりに、いくらかは真剣に――SNSでこのようにつぶやいた。それは、ファンどうしの、ごく素朴な意味での「連帯感」のようなものを感じさせるできごとでもあった。

そうした素朴な願望の当否について、ここで語ることはやめておこう。その代わりに、これを機に、ディランと中島みゆきとの関係について――いささか断片的にではあるが――いくつか思い出すことを綴っておきたい。

 

「賞」を与えること/受けること

授賞側のスウェーデン・アカデミーがなかなかディラン本人と連絡が取れず、選考委員長が「無礼で傲慢だ。でもそれが彼ってものだ」と苦言を呈したり (『朝日新聞』電子版 2016/10/22) 、その後、ようやくディランがアカデミーに受賞の意志を伝え、自らの沈黙について「ノーベル賞のニュースに言葉を失っていた」と語ったといったニュースが話題を呼んだ (同 10/29)

こうした紆余曲折は、かつて1960年代、カウンター・カルチャーの旗手として称揚された彼に、約半世紀を経て世界で最も権威ある賞が与えられるという事実がはらむ、一種の逆説を象徴しているようにも思えた。

 

――と同時に、中島みゆきファンのひとりとして連想するのは、次のようなエピソードだ。

彼女がデビュー直前の時期、ポピュラーソング・コンテストの主催者ヤマハに対して、音楽に賞を与えることの意義を問う手紙を書き、それに対して「賞が欲しいのなら出ないで下さい」という返事を受け取ったという。彼女はその言葉に納得し、出場を決意する (こすぎじゅんいち『魔女伝説』、1982、90-91頁)

このエピソードの事実関係については、上記『魔女伝説』にも異説が併記されており、また他の資料も少なく、詳細ははっきりしない。が、おそらく本質的なポイントは、「賞を与える/与えられる」という関係が、「与える」権威をもつ側と、「与えられる」側がその権威に依存することとの、いわば共依存の関係に陥ることへの明確な拒否――ということだろう。

「賞が欲しいのなら出ないで下さい」という返事を書いたのが、当時のヤマハのトップ川上源一氏本人だったのかどうかについても、明確な資料は存在しない。が、中島みゆき自身も何度か語っているように、彼女の才能を見出した川上氏と彼が率いるヤマハが、プロデビュー以降の彼女に、自由に創意を発揮しうる活動の場を提供してきたことは間違いない。その自由は、上述のような共依存からの自由を出発点としたものでもあったのだろう。

 

「多くのことがそこから始まった」世代

先月の記事「コーヒーハウス「ミルク」訪問記 」で、マスターの前田重和さんの言葉を通して少し触れた中島みゆきの学生時代について、珍しく彼女自身がシリアスに語っている小篇がある。「初めての書下ろし小説(ストーリイ)」と題して1986年に出版された『女歌』の中の一篇「もう一人のmiss M.」である。

8年ぶりに再会した札幌の旧友、中島みゆきの学生時代の音楽仲間のひとりで、当時は「とあるバンドのリーダーの女」との噂もあったという「M」との会話――

「……あたしは。男の影響でビートルズを歌ってたけど。あんたはボブ・ディラン歌ってたわよね」
「我ながら、あんなすさまじいジャパニーズイングリッシュでよく人前で歌えたもんだと思うわ。思い出すと赤面ものね」

いつも日本語のオリジナルしか歌わなかったという「M」が、唯一、ビートルズの Fool on the Hill を英語で歌っていたのと同じように、アマチュア時代の中島みゆきは、やはり多くのオリジナルに加えて、ボブ・ディランを英語で歌っていたようだ。

「中島みゆき研究所」のデータによれば、デビュー約1年前の1974年10月15日、北海道音更町でのコンサートの1曲目に「風に吹かれて」(Blowin’ in the Wind) を彼女は歌っている。

おそらくアマチュア時代としても例外的な、このカバーからもうかがわれるように、中島みゆきにとって――吉田拓郎をはじめ、その前後の世代の多くのフォーク・ロック系ミュージシャンたちと同様に――ディランがきわめて大きな存在だったことは間違いないだろう。

もし、あの時にボブ・ディランがいなかったら、と考える。
ボブ・ディランがいたから今日があるような気もする。
多くのことがそこから始まったと僕は思うのだ

吉田拓郎のこの談話 (『日本経済新聞』2016/10/14 など) は、おそらく中島みゆきも含めて、その世代の人々の共通の感慨でもあったのではないだろうか。

 

やはりディランから大きな影響を受けた「関西フォーク」の担い手のひとり大塚まさじは、「親戚が受賞したような喜び」と、より率直に自らの思いを語っている (『朝日新聞』大阪版 2016/10/14 朝刊)

その大塚まさじが率いたユニット、その名も「ザ・ディランII」の「男らしいってわかるかい」 (1972年のアルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』収録) は、ディランの I Shall Be Released の日本語カバーである。

この曲を中島みゆきが1980年頃、ラジオDJ番組 (おそらくMBSミュージックマガジン) で紹介し、それに強い印象を受けたことが、そもそも私が彼女とディランとの接点らしきものを知った最初のきっかけでもあった (その後も中島みゆきは、いくつかのラジオDJ番組で何度かこの曲をかけている)。

 

オマージュあるいは「本歌取り」

中島みゆきにおけるディランとの接点といえば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのが、1983年のアルバム『予感』に収録された「ばいばいどくおぶざべい」のことだろう。

オーティス・レディングが飛行機事故により26歳の若さで世を去る、そのわずか3日前に録音したという Dock of the Bay と並んで、ディランの Like a Rolling Stone が、同じくひらがな表記で、この曲の歌詞に登場する。

誰もおいらを覚えていないだろうな らいかろうりんすとうん

波止場に座り込み、船を眺めながら空しく時を過ごす男、帰る家を失くし「転がる石」のように落ちぶれた、かつての上流階級の女――それらの行き場のない思いは、自らの分身ともいうべきギターの弦を押さえる左手の力を奪われたロックシンガーの悲痛と共鳴しながら――いわば暗黙の曲中曲として――歌われる。

 

同じく『予感』の収録曲「誰のせいでもない雨が」には、ディランの A Hard Rain’s A-Gonna Fall「はげしい雨が降る」に触発されたと思われる一節がある。

1962年のキューバ危機を背景に、核戦争への怖れを歌ったともいわれるこの曲では、

Oh, what did you see, my blue-eyed son?
「何を見たんだい、青い目の息子よ」

という父親の問いかけに対して、

I saw a black branch with blood that kept drippin’
「黒い枝から血がしたたりつづけるのを見たよ」

と子どもが答える。

黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく

という「誰のせいでもない雨が」の一節は、明らかに上記のディランのフレーズの「本歌取り」の如きものである。

ただしこの曲では、したたり落ちる「雨」は、現在の危機への怖れというよりも、かつて「怒りもて石を握」り「罪を穿った」闘いの時代の記憶を容赦なく過去へと遠ざけてゆく時間の流れの暗喩とみるべきだろう。そのような幻滅感に満ちた時間感覚は、上述の「もう一人のmiss M.」で語られているものとも同質である。

 

もう1曲、より初期にさかのぼるが、1977年のサード・アルバム『あ・り・が・と・う』に収録されている 「勝手にしやがれ」にも、ディランの Don’t Think Twice, It’s All Right「くよくよするなよ」と呼応しあう一節がある。

And it ain’t no use in turing on your light, babe
I’m on the dark side of the road
「そう、明かりをつけるなんて無駄なことさ
俺は道の暗がりを歩いてゆくのだから」

部屋を出てゆくなら 明かり消していってよ
後ろ姿を見たくない

「明かり」とは、いま袂を分かとうとする二人が、それまで共有してきた記憶の比喩なのか――そんなふうに考えてくると、「勝手にしやがれ」は、「くよくよするなよ」で男性の視点から歌われた別れの情景を、女性の視点から歌い直した一種のオマージュとも呼べるような気がするのだ。

 

――もとより、私が知っているディランは、膨大な彼の作品世界のごくごく一部に過ぎない。したがって、中島みゆきにおける彼の作品からの反響――あるいは、彼女からのディランへのオマージュと言っても同じことだが――は、実は私が知らないだけで、まだまだ多く隠れているのかもしれない。

 

熱狂からの距離

日本とは大きく異なり、ミュージシャンにも政治的な旗幟を鮮明にすることが常に求められるアメリカ社会にあっては、今回のディランの受賞もまた、メディアの言説によって、今まさしく終盤を迎えつつある大統領選の政治的対立に巻き込まれつつあるようだ。

しかしそうした渦中にありながら、受賞発表後のライブでもディラン自身はそれについて一切コメントすることなく――MCさえもなく――「声と曲が強調される「歌が全て」という演出」で一貫していたという (「ボブ・ディラン氏、ノーベル賞の熱狂と距離」、日経電子版 2016/10/14)

上述のように、かつてカウンター・カルチャーの旗手として称揚されたこととは裏腹に、むしろ彼自身には、「基本的には特定の思想信条や政党に深入りすることにはずっと懐疑的な立場を取り続けてきた一面」があり、それゆえに音楽的にも、「政治色の強いフォークを離れ、ロック、ブルース、ゴスペルなどが入り交じる音楽に、旧約聖書の詩篇、シェイクスピアなどエリザベス朝文学から影響を受けた抽象的なモチーフを乗せる独自の様式を築き上げてきた」という指摘がある (上記記事)

 

――熱狂から距離を置こうとする、こうした冷静な態度に、中島みゆきが長年にわたって貫いてきたスタンスと共通するものを感じるのは、おそらく私だけではないだろう。

また、とりわけ夜会の世界の構築において、記紀万葉から近代に至る日本語と日本文学の広大な世界から多様なモチーフを引き出し、自在に織り成す彼女のスタイルにも、ディランの独自の様式と通じるものがあると言えるかもしれない。

しかしその一方で、間もなく再演がスタートする夜会『橋の下のアルカディア』、そしてまだ記憶に新しいコンサート『一会』などでは、明確にラディカルな政治的メッセージが打ち出されているではないか――そこには、現代のこの国の現実に対する、彼女の切迫した危機意識が反映しているのではないか――そのように感じる向きもあるかもしれない (私も、そうした感じ方自体を否定するつもりはない)。

が、むしろそうであればこそ、彼女はそれらのメッセージの意味を、私たちの頭越しに「解説」するような態度からは、ますます慎重な距離を取っているように私には見える。

前の記事で、「ミルク」のマスター前田さんの言葉に託して書いたように、自己や人間や社会についての中島みゆきの問いかけは、最初から一貫して、根底的なものでありつづけてきた。そして、その問いかけが根底的なものであればあるほど、それに答えようとする私たちは、いかなる権威からも熱狂からも、より自由でいなければならないだろう。

――そのような自由への希求こそは、中島みゆきがディランから受け継いだ多くのものの中でも、最も貴重なものだったのではないかと、私には思える。

コーヒーハウス「ミルク」訪問記  ―中島みゆきからの「問い」の再発見―

昨年末の『一会』年内最終公演のレポート以来、またしても長らく開店休業状態が続いていたこのブログ――だが、その怠惰から私を覚醒させる不意の一撃ででもあるかのように、つい先日、私の30数年間にわたる中島みゆきファン歴の中でも真にエポックメイキングな出来事に遭遇した。そのことを書きたい。

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9月上旬、札幌への出張の最終日の日曜、幸い少しだけ時間ができたので、当地にお住まいのFacebookの友達Uさんのお誘いで、コーヒーハウス「ミルク」を訪れた。

今から24年前、みゆきファンの友人二人と北海道へ、いわゆる「聖地巡礼」をしたときにも、この店の前までは行ったのだが、そのときはまだ開店前で、シャッターの前に立った私の間抜けな写真が残っている。

中島みゆきの熱心なファンのあいだでは、このコーヒーハウスは、「ミルク32」 (1978年のアルバム『愛していると云ってくれ』収録曲) の舞台のモデルとしてよく知られているだろう。マスターの前田重和さんは、学生時代、宮越陽一さん (札幌の喫茶店、宮越屋珈琲の現社長) 、そして中島美雪と3人でフォーク・グループを組み、音楽活動をしていたかたである。

 

この日は、営業時間 (14時開店) を前もって調査し、Uさんと15時に現地で待ち合わせることにした。定刻少し前に到着すると、お店はまだすいていて、マスターに「長年の中島みゆきさんのファンなので……」と正直に打ち明けると、学生時代当時のことをはじめとして、色々な興味深いお話をゆっくり伺うことができた。

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それらの貴重なお話の中でも、とりわけ強く印象に残ったのは、中島みゆきは、40数年前のアマチュア時代からずっと変わることなく、心の奥底に直接に響くように、「あなたは、人は、社会はこのままでいいのか」という問いを鋭く突きつけてきた――ということ。

当時、「彼女の歌には社会性が足りない」などという批評もあったが、今から思えばそれはとんでもない的外れで、彼女ほど社会の本質を深く、鋭く捉えていた者はいなかった――というお話もあった。

前田さんご自身は、最近はあまり頻繁に彼女のライブに出かけるわけではないけれど、2,30年ほど前のコンサートで、学生時代と同様、中島みゆきと1対1で向き合っているかのように、その問いかけの迫力に圧倒され、客席にいながら、まるで飛行機が離陸するとき加速で座席に強く押し付けられるかのような圧迫感を感じた、と率直に語られた。

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この店は、隣接する「スタジオ・ミルク」と連携しながら、北海道・札幌の若いミュージシャンたちの活動拠点ともなっていて、私たちがいるあいだも、重そうな機材や楽器をかかえた人たちが時折、訪れていた。

前田さんは、そうした若いミュージシャンたちを育てることで、学生時代に中島美雪から突きつけられた問いに今も答えようとしているのかもしれない。

私自身、今から36年前に彼女の存在を最初に意識した時以来、まだ記憶に新しい夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』、そしてスペシャルコンサート『一会』に至るまで、中島みゆきからは幾度も、そうした――直ちに応えることの困難な――自己や人間や社会についての根底的な問いかけを突きつけられてきた。それらの記憶が、今も私にとって、中島みゆきという存在がもつ意味の原点になっている。

――が、若き日の彼女を直接に知る前田さんの言葉で、改めてそれが彼女の変わらぬ姿勢であると証言されたことは、私にとってきわめて重く、その原点を鮮明に、新たな光の中に再発見させられる思いだった。1対1の関係の中で、中島みゆきから渡された問いというバトンを、未来へと引き継いでゆこうとする意志を――まるで中島みゆき自身の肉声で呼びかけられたかのように――これまでになく強く鼓舞される思いでもあった (Uさんも同じ思いだったと、後から聞いた)。

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なお、少し補足しておくと、前田さんと私たちは、何も上記のようなシリアスで重い話ばかりをしていたわけではない。前田さん――そして、コーヒーハウスとスタジオを共同で切り盛りされている奥さんの彰子さんも、途中で話に加わっていただいたが――ご夫妻お二人とも、とても気さくで明るく、かつ穏やかな方々だった。

そういえば、中島みゆきの、あのシリアスな歌とコミカルなトークでバランスを取ろうとする独特のスタイルも、学生時代からまったく変わっていない――というのも、前田さんの貴重な証言のひとつであった。

私もUさんも、中島美雪がいつも坐っていたというカウンター席に坐らせてもらい、その頃から降り積もった時間が堆積しているこの空間の心地よさと懐かしさの中に、ひとときのあいだ身を委ねることができた。

――このような貴重な、まさに一期一会の機会をつくっていただいた前田さんご夫妻とUさんに心より感謝するとともに、いつか再びこの場所を訪れる時がめぐってくることを、強く願っている。

『橋の下のアルカディア』劇場版を観て

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すでにライブで5回、BDでも数回は観ている夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』だが、奇しくもロードショー4日目に当たるこの日――2016年2月23日――に、どうしても劇場版で改めて観なおしてみたくなり、最寄りのMOVIX京都へと足を運んだ。

やはり大画面の迫力は素晴らしく、とりわけあの大詰めのシーン (第2幕第2場) では――高橋一曜を演じる宮川崇を含めた――4人のキャストそれぞれの全力の歌唱と演技、ミュージシャンたちのうねりと滾りに満ちた演奏、舞台装置と照明の美しいビジュアル、そしてそれらすべてが織りなすことによって具現される世界観の衝撃力の深さと激しさに、改めて圧倒されつくしてしまった。

この日、新たに気づかされたのは、「思い出す」ということのもつ意味について――

VOL.11『ウィンター・ガーデン』で〈転生〉というモチーフが前面に出てきて以来、夜会では、前生の記憶の再生ということが、しばしば物語の重要な転換点をなしてきた。しかし『橋の下のアルカディア』では、それに加えて、もっと近い――いわば〈今生〉の中での――記憶の再生ということもまた、重要な意味をもっている。

たとえば、「一夜草」から (2度目の) 「呑んだくれのラヴレター」にかけて、天音 (中村 中) が高橋忠 (宮川崇) から送られた何通もの手紙を読みながら、何か重要なことを思い出してゆく、劇的な表情の変化――そしてその直後、九曜 (石田匠) が天音から、忠の紙飛行機の手紙を見せられ、やはり何かを思い出したように店の奥に駆け込む場面――それらはいずれも、あのラストシーンの救済へと物語を導くための、重要なステップになっている。

思い出しかけてる 誰かが呼んでいる

「ペルシャ」のこの歌詞のように――あるいは昨年秋のNHK『SONGS』での中島みゆきの、「時の流れが落っことしていったものを、一番後ろから拾いながらトボトボと行く」という言葉のように――時の流れの中で忘れられ、捨てられかけた記憶の一片一片を拾い上げ、愛おしんでゆくこと。

そのようにして「思い出す」べき記憶とは、「人柱」「生け贄」として集団の犠牲になった者たちのことは言うまでもなく、それよりももっと些細な――またそれゆえに忘れられがちな――一人ひとりの無名の人間や生き物たち、あるいはそれらが存在していた町の記憶といったものまでをも含んでいる、とみるべきだろう。

そのような中島みゆきの視点こそが、あの橋の下の捨てられかけたシャッター街を、幸福な記憶に彩られた「アルカディア」として想起させ、現出させてくれるのだろうし、第2幕で、乱入してきたチンピラたちを店が動き出して追い払う、痛快かつユーモラスな「シャッター街は生きている」の場面もまた、そうした視点の反映であるように思う。

「橋」と「アルカディア」の意味

今更ながらだが、この夜会の題名でもあり、物語の舞台をも意味している、「橋 (の下)」と「アルカディア」という二つの言葉の意味について、改めてここで考えてみたい――なお、以下の考察は、Facebookでの友達のひとり、Hさんから投げかけられた問いへの答として考えた内容を、まとめ直したものである。貴重な問いを与えてくれたHさんに、この場を借りて謝意を表したい。

第1幕冒頭で、いきなり提示される「なぜ橋の下」という、物語の背景そのものへの問いかけ――その答を探ることから始めよう。

「橋の下」という場所の設定については、公式サイトに掲載されたインタビューで中島みゆき自身が明言していたように、最初の発想としては、「捨て子が捨てられる場所」という通俗的なイメージが出発点ではあったのだろう。

その上で――第1幕第2場の「人柱」でとりわけ強調されているとおり――「橋」には、いわば「個」の上位に存在し、君臨するものとしての集団、社会ないしは国家の象徴という意味が、明らかに付加されている。

ただ重要なのは、集団や社会から「捨てられた」者たちが暮らす場所、あるいはその暮らしの記憶に対して、理想郷を意味する「アルカディア」という言葉が、逆説的にも与えられていることだ。

そこで暮らしてきた者たちの「歴史」ともいうべき時間的な意味を、この言葉が含んでいることは、

優しいあなたの側にいて
すべての月日はアルカディア

という『呑んだくれのラヴレター』冒頭の歌詞でも表現されているとおりである。

この「アルカディア」は――「貧しいながらも幸福な生活」といった、やや通俗的なイメージも含んでいるのかもしれないが、おそらくそれ以上に――「優しいあなた」が側にいた懐かしい過去の時間が、いつの日か、「捨てられた」者たちが救済されるべき未来へとつながっていくという予感、あるいは希望を含んだ言葉でもあったのではないだろうか。

言うまでもなく、この予感ないし希望は、ラヴレターの送り主であった高橋忠の父、「脱走兵」高橋一曜が、格納庫の中に隠されていた零戦とともに登場し、3人を救済するラストシーンで成就されることになる。

過去への遡行から新たな未来の発見を経て、救済に至るという道筋は、これまでの多くの夜会――『2/2』『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』『今晩屋』――でもストーリーの根幹をなしていた。が、(以前の記事で書いたとおり) 『橋の下のアルカディア』では、その道筋が、近現代日本が辿った現実の歴史を背景として再提示されている点が、決定的に重要だ。

そのように考えてくると、「橋」のもつ意味もおそらくは大きな逆説を含んでいて、かつて「個」を「生け贄」として捨てた集団・社会あるいは国家が、いつか遠い未来には、「生け贄」を必要としないものへと変容していくことへの遥かな希望もまた、そこには含まれていたのではないか、と思われてくる。

あの零戦が――かつて人身が人柱に立てられた――「橋脚の根元」の格納庫に隠されていたことは、まさにその変容への希望を象徴しているのではないだろうか。

思い出してみれば、「橋」のもつそのような時間的イメージ――いわば「未来の救済への懸け橋」というイメージ――は、 (まだ記憶に新しい、コンサート『一会』でも歌われた) 初期の曲「友情」の

時代という名の諦めが
心という名の橋を呑み込んでゆくよ

というフレーズにも――ネガティブな文脈においてではあるが――すでに予示されていた。

「橋の下」に「アルカディア」が存在する (存在した) という設定は、上述のような意味で、常識的に考えれば、きわめて逆説的である。

しかし、「捨てられた」者たちこそが、新たな未来への希望を見出すという、その逆説こそは――かつて「人を殺す道具」として造られた零戦が、「捨てられた」3人を救済するという、もうひとつの大いなる逆説とも呼応しあいながら――この夜会が私たちに与える衝撃の根底に存在しているのではないだろうか。

『橋の下のアルカディア』は、まさにそのような意味で、忘れられ、捨てられかけた記憶の数々を「思い出す」ことによって、私たちを新たな未来へと導く物語なのだ。

「一会」年内最終公演

2015121715511年以上も開店休業状態が続いたこのブログだが、さすがにこの記事だけは、いま書いておかなければなるまい (41枚目のニューアルバム『組曲 (Suite)』のレビューをはじめとして、他にもいろいろ書くべきことはあるのだが……)

12月17日(木)、大阪オリックス劇場でのコンサート「一会」に行ってきた。思い出してみるとこの日はちょうど、昨年の夜会『橋の下のアルカディア』の千秋楽から、1年と1日後にあたる。もうあれから1年が過ぎたのかと思うと、様々な意味でとても感慨深い。

諸般の事情で、この公演が私にとっての「初日」となる。ここ数年は、夜会でもコンサートでも、なるべく「ネタバレ」なしのまっさらの状態で臨みたいために、無理をしてでも (本当の) 初日の公演に出かけるようにしていたのだが、今回ばかりは散文的な事情のためどうしようもなかった。その代わりにというべきか、(ずっと以前にもそうしたように) ネット上各所で「ネタバレ」情報を仕入れ、十分に「予習」したうえで臨むことにした。

が、実際に接するライブでは、想像を遥かに超える中島みゆきとミュージシャンたちの「たぎり」に満ちたエネルギーの放射に、冒頭から圧倒され尽くすばかりだった。年内最終公演ということもあってか、ヴォーカルもバンドも思いの丈のすべてをほとばしらせるかのような激しい全力疾走で、私たちオーディエンスを巻き込みながら、一気にラストまで走りきったという印象だった。今もその心地よい余韻の中に浸りながら、この記事を書いている。

今回もまた、数々の魅惑的なイラストによって舞台の記憶を見事に再現してくれる、ぴしわさんの『覚え描き』ブログを参照させていただきながら、いま心に掛かっていることを書き留めていきたい。

サブタイトルの意味するもの

第1部、第2部それぞれの ~Sweet~, ~Bitter~ というサブタイトルは、第2部冒頭のお便りコーナーでかかるANN (オールナイト・ニッポン) のテーマ曲 “BitterSweet Samba” にちなんでもいるのだろうが、それと同時に、(過去の)「甘い」夢への追憶と、(現在から未来への)「苦い」現実の認識という意味をも、含んでいるような気がした。

第1部の舞台背景、廃墟と化した(?)海辺の遊園地の影絵は、冒頭の「もう桟橋に灯りは点らない」の歌詞とも相まって、喪われた過去の夢の象徴のようでもあり、「ピアニシモ」「ライカM4」では、中島みゆき自身の過去への思いをも織り交ぜながら、ラストの「MEGAMI」の「夢とも知らぬ夢」をみせる夜への誘いへとつながってゆく。

ここで話がいったん横道にそれるが、「ライカM4」の前、デビュー当時の自身の「写真嫌い」のことを語る中島みゆきのMCを聴いて、、ずっと以前に書いた記事のことを思い出した。その記事で私は、ファーストアルバム『私の声が聞こえますか』のモノクロームのジャケット写真、高い空の下に広がる白い雪原をうつむき加減に歩いてくる中島みゆきの姿を、中島みゆきと――私たちオーディエンスを含む――世界との関係の視覚的表象の記憶として言及した。

あのファーストアルバムの制作には、アレンジ等も含め多くの点で、中島みゆき自身の意志が必ずしも反映されていないことは、熱心なファンにはよく知られている事実だろう。ジャケット写真もその例外でないことは、今回のMCで、よりはっきりしたと言ってもいい。だが、むしろそうであればこそ、あのジャケット写真は――いわば、自らが踏み込もうとする世界への中島みゆき自身の「違和」の視覚的表象として――現在も意味を持ちつづけているように思う。

――とはいえ、そのような違和を脱して、自らの姿を風景の中に透明に写し出してくれる写真家、タムジンこと田村仁氏に出会えたこと、そして彼がいまも、彼女の視覚的表象を私たちに届け続けてくれていることが、中島みゆき自身にとっても私たちにとっても、幸福な出会いであったことは、改めて強調するまでもないことだ。

第2部冒頭のANNの再現は、懐かしくかつコミカルではあるが、その「深夜」のイメージが一転して「ベッドルーム」の「闇」へと移る衝撃は、まるでANNの「最後の葉書」での徹底的にシリアスな語りへの転換のようでもある。

そして、それ以降の強烈なメッセージに満ちた曲の連続は、やはり通常のコンサートツアーとは明らかに異質な何か――中島みゆきが「一会」と名付けたこのコンサートにこめた思いの強さと深さ――を強く感じさせた。

それらの「苦さ」に満ちたメッセージの中でも、おそらく最も核心に位置しているのが「阿壇の木の下で」。凄まじい爆音のSEの中から、それをなお突き抜けて、眩くほとばしる輝きのように、優しく力強くどこまでも伸びてゆく声――

この曲の内容の解釈めいたことは、ここでは控えたい。ただ、この曲で中島みゆきが初めて手にする赤い紐――両手の間に架け渡そうとしては、繰り返し片手を離し、片方を垂れ下がらせるというパフォーマンス――は、まるで、人と人、地域と地域、あるいは国と国とのあいだに「届かない」思い――それが「届かない」ことのもどかしさ、口惜しさ、そして憤ろしさ――の象徴のようにも見えた。

それ以降、「Why&No」まで中島みゆきがその赤い紐を首にかけつづけるのは、それらの「届かない」思いを、自らへの問いとして引き受け続ける覚悟の表明でもあったのだろうか。

深夜に始まった第2部は、ラストの「麦の唄」での朝の光の訪れで幕を閉じる。この曲の最大の聴きどころ、遥かな時空を超えてゆくかのように転調を繰り返す3番――

どんなときも届いてくる 未来の故郷から

「故郷から」の最後の音を伸ばし、5小節も続くロングトーン――そしてそれを歌いきる中島みゆきの素晴らしい輝きに満ちた表情。それは、すべての現実の「苦さ」を超えてなお、ゆくべき未来に辿り着こうとする強靭な意志と希望との表現でもあるように見えた。

第3部 ~Sincerely Yours~ と題されたアンコールは、その名のとおり、私たちオーディエンスへの結びの言葉。

ラストの優しい軽みに満ちた「ジョークにしないか」には予想以上に意表を衝かれたが、本編とりわけ第2部のメッセージがあまりにも苦い重みに満ちていたからこそ、語りきれない、伝えきれない「きりのない願い」は、それを正面から語る代わりに「ジョークにしてしまおう」といなすことで、私たちの肩の荷を軽くしてくれたような気もした。

音楽的印象

ミュージシャンたちの中で、とりわけ個人的に印象に残ったのは、杉本和世・宮下文一・石田匠のコーラス3人と、ストリングスのトップの牛山玲名。

「超音波和ちゃん」の面目躍如ともいうべき「やまねこ」、繊細な輝きに満ちた「MEGAMI」のハーモニーでの杉本和世の美しい高音。そして「Why&No」で中島みゆきがいったん退場した後を引き継ぎ、3人が次々に歌うところでの、それぞれの個性と表情に満ちた力強い歌声。

牛山玲名のバイオリンは「ピアニシモ」などでのソロの繊細な演奏も印象的だったが、「一会ストリングス」の7人を見事にリードし、オーケストラでいうところのコンサートマスター役を果たしていたように感じた。

トリプル・キーボードとツイン・ギター、久しぶりに参加するパーカッション、そして上述の7人のストリングスを加えたバンドの音の厚みは、通常のライブでの編成をはるかに上回る。にもかかわらず、一糸乱れぬ緊密・繊細かつパワフルなアンサンブルが、島村英二・富倉康生の盤石のリズムセクションに支えられながら、中島みゆきの力強いヴォーカルに鋭敏に呼応し、揺るぎなくサポートしつづけるのは、見事というほかはない。

余韻

終演後は、約四半世紀ぶりの参加メンバーも含め、古くからのみゆきファン仲間である「歌暦ネット」の懐かしい面々と再会。杯を傾け、パソコン通信時代の懐かしい話に花を咲かせつつ、痺れるようなライブの余韻に浸ることができた。かつて、ともに中島みゆきを追いかけて旅をし、いまはもう「会えない相手」となった何人かの仲間たちもまた、コンサートの時からずっと私たちと一緒にいて、笑っていてくれたような気もした。

「阿壇の木の下で」の前のMCで中島みゆきが語っていたように、数十年も前から「何も変わっていない」もの――現実の「苦さ」や「届かない」思い――が、私たちの暮らすこの国にはいまも確かにある。志半ばで「会えない相手」となった彼ら、彼女たちにとっても、おそらくは心残りだったであろう、それらの「届かない」思いの数々を――中島みゆきとともに――自らへの問いとして受け継いでゆくことが、この国の現在を、そして未来を生きてゆく私たちが引き受けるべき課題でもあり、そして希望でもあるような気が、私にはした。

セットリスト

  1. 「もう桟橋に灯りは点らない」
  2. 「やまねこ」
  3. 「ピアニシモ」
  4. 「六花」
  5. 「樹高千丈 落葉帰根」
  6. 「旅人のうた」
  7. 「あなた恋していないでしょ」
  8. 「ライカM4」
  9. 「MEGAMI」
  10. 「ベッドルーム」
  11. 「空がある限り」
  12. 「友情」
  13. 「阿檀の木の下で」
  14. 「命の別名」
  15. 「Why & No」
  16. 「流星」
  17. 「麦の唄」
  18. 「浅い眠り」
  19. 「夜行」
  20. 「ジョークにしないか」
ミュージシャン
  • 小林信吾 (Conductor, Keyboards)
  • 中村 哲 (Keyboards, Saxophone)
  • 飯塚啓介 (Keyboards, Manipulation)
  • 古川 望 (Guitars)
  • 福原将宜 (Guitars)
  • 富倉安生 (Bass)
  • 島村英二 (Drums)
  • 三沢泉 (Percussion)
  • 杉本和世 (Vocal)
  • 宮下文一 (Vocal)
  • 石田匠 (Vocal, Guitar)
  • 牛山玲名 (Violin)
  • 田島華乃 (Violin)
  • 中島優紀 (Violin)
  • 民谷香子 (Violin)
    越川歩 (Violin)
  • 友納真緒 (Cello)
  • 関口将史 (Cello)
※Violinの越川さんのお名前が抜けていました。大変失礼しました。お詫びして訂正します (本文でも、ストリングスの人数を「7人」に訂正しました)。

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』再考――「Barねんねこ」と「緑の手紙」について――

Nenneko

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』が幕を閉じてから、早くも8ヶ月近くが過ぎた。その間もずっと、この夜会の記憶は私の胸の奥底に余熱を保ちつづけ、その舞台の光景――とりわけあのノスタルジアに満ちたシャッター街――は、繰り返し残像としてフラッシュバックしつづけてきた。

にもかかわらず、「中間報告」と題した記事を書いて以降、長らくブログの更新を怠ってきたのは、まったく私個人の散文的現実の制約によるものである。そうした現実から束の間ではあれ逃れるべきこの貴重な夏休みに、あの夜会について、これまでまだ言語化しきれていなかった記憶や思考のいくつかを、可能な限りまとめておきたい。

2014年12月16日の公演は、千秋楽にふさわしい、すべてのメンバーの思いと情熱がひしひしと伝わってくる素晴らしい舞台だった。

最後に上昇してゆく零戦は、幕が閉じる寸前に左旋回を開始する (この演出は、公演期間後半以降に追加されたらしい)。千秋楽では、この場面が見えやすい1階下手で観たせいもあってか、そのイメージがきわめて鮮烈に記憶に残っている。あの最後の瞬間の旋回によって、3人が橋の下の地下壕から脱出し、新天地――新たなるアルカディア――に向けて飛び立つというラストシーンの意味は、より強く鮮明に伝わってきたように思う。

カーテンコールでは、私にとってはこの夜会で最初で最後のスタンディングオベーション。舞台挨拶では、中島みゆき自身から、この作品の意図として「少しでも幸せな気持ちになってもらえたらと思って書きました」という趣旨の言葉があった。

優しいあなたの側にいて すべての月日はアルカディア

「呑んだくれのラヴレター」のこの歌詞を、そのまま客席から彼女に贈りたいと思った瞬間だった。

終演後、私にとっては十数年ぶりの出待ちにも参加。ミュージシャンたち、石田 匠、中村 中を次々と拍手で送り、最後についに中島みゆきが車に。窓を開け、にこやかに私たちに手を振ってくれる姿を見て、寒中の楽屋口での2時間は、熱い時間に変わった。

――舞台の記憶に戻ろう。

私にとって、考えるべき重要な問いは2つあった。1つは、高橋九曜 (石田 匠) の父・忠 (宮沢 崇) が書いた何通もの「呑んだくれのラヴレター」の受取人は誰だったのか――またそのことと関連して、「Barねんねこ」の「ママ」とはいったい誰だったのか――ということ、もう1つは、それらの手紙の中で示唆される救済へのキーワード「緑の手紙」とはそもそも何を意味したのか、ということである。

この2つの問いが重要なのは、それらが互いに絡まりあって、この夜会の世界観を根底で支えつつ、そこに魅惑的で謎めいた奥行きを与えてもいるからだ。

「呑んだくれのラヴレター」の受取人と「Barねんねこ」の「ママ」

前の2つの記事で私は、忠のラヴレターの受取人は――舞台には登場しない――「Barねんねこ」のママなのだと考えていた。が、この解釈は今や撤回しなければならないようだ。

私が観た最後の2公演 (楽前・楽日) では、第2幕で「呑んだくれのラヴレター」が2度目に歌われる場面、紙飛行機の折目のついた手紙を読みながら「あなたに明かして眠りたい」と歌うところで、天音 (中村 中) は、「あなた」とは自分のことなのだと人見 (中島みゆき) にジェスチャーで示していた――おそらくこれも、公演期間後半になって追加された演出なのだろう。

3年前に世を去る直前まで、忠は――「語るに及ばぬ呑んだくれ」と自らの名を秘しながら――天音に紙飛行機のラヴレターを送りつづけていたのだ。

――だが、そうだとすると、「Barねんねこ」の (代理ではない本来の) 「ママ」とは誰だったのか。

このことについては、これまでも参照させていただいてきた、ぴしわさんの「覚え描き」ブログに、第2幕大詰めの「国捨て」の場面について、次のような重要な指摘がある (私自身はこの場面を5回も観ていながら、認識できていないのが口惜しいのだが)

脱走兵の登場から怯えている天音ですが、
歌詞の一節からはっと気がついた顔で、
人見の方向を見てこみ上げるように「ママ!」と言っています。

だとすれば、隣の「水晶宮」の占い師・人見こそが実は「Barねんねこ」の本来のママでもあった――にもかかわらずその事実を、この瞬間まで天音は忘れていた――ということになるだろう。

このことは、人見の存在の意味について、また新たな問いを投げかける。

人見はなぜ――第1幕第2場で明かされる3人の前生という遠い過去だけでなく――自らが「Barねんねこ」の本来の店主でもあったという近い過去をも、天音 (や九曜) に対して封印しなければならなかったのか。

それはおそらく、「Barねんねこ」の存在こそが、前生において「捨てられた」悲しみの記憶から彼女たちを救い出し、この地下壕に安住の地――アルカディア――を見出させるための結節点だったからではないだろうか。

前の記事で書いたことの繰り返しになるが――「ねんねこ」という店名は、黒猫のイラストが描かれた看板とも相まって「猫」を連想させるが、本来は、赤子をくるむ綿入れ半纏の意味だ。だとすれば、ママ (人見) が命名したであろうこの店は、「捨て子」たちを救済し、癒す場としてのアルカディアの中心でもあったのだ。

だが、過去の悲しみの記憶は、たとえ封印され忘却されたとしても、消滅させることはできない。

近すぎる場所から見ると ここが橋だとは見えない
遠くから見える過去 ここは流れだった

「川の音が聞こえる」で彼女が歌う通り、ここが――かつて人身と公羊の二人の生命を呑み込んだ――流れであったという過去は、この地下壕、シャッター街という内部の視点 (「近すぎる場所」) からは隠蔽されている。

そのように、視点を内部ないし近傍にとどめようとするスタンスは、未来に対しても同様に向けられる。人見は、過去と未来を見通すことのできるはずの占い師でありながら、あえて――「水晶球」で歌われるように――「遠い先のこと」に対しては人びとの眼を閉ざそうとするのだ。

しかし、「未曽有の嵐」によってこの地が再び「流れ」に――「生け贄」を求める集団の暴力に――呑まれようとする未来は、実は間近に迫っていた。

この新たな危機に対して、人見は無力だった。その彼女自身を、そして天音と九曜を「未曽有の嵐」から救い出すべく、もうひとつの――彼女の知らない――過去から送られてきたメッセージこそが、「緑の手紙」だったのだ。

「緑の手紙」

上述の「国捨て」の場面、とうに世を去っているはずの高橋一曜 (宮川 崇) が飛行服姿で格納庫から登場し、孫・九曜に飛行帽を手渡す場面は、高橋家三世代に受け継がれてきた「緑の手紙」のメッセージが、今も生きていることを示唆している。

このメッセージによって、3人の悲しみの根底にあった「集団が個を捨てる」という行為のヴェクトルは、逆向きに――「個が集団を捨てる」ことによる「個の救済」という方向に――反転されるのだ。(なお、この点に関する考察は、Facebookでの友だち K さんからの示唆に多くを負っている。この場を借りて謝意を表したい。)

第1幕第2場、天明の時代の場面で「集団が個を捨てる」行為のそもそもの発端となったのは、人身を人柱として差し出せという村長の命令だった。その村長を演じた宮川 崇が、第2幕では、「緑の手紙」の送り主の一曜として、またそれを託された息子・忠として再登場するというキャスティングは、このヴェクトルの反転を正確に反映してもいる。

そして同様の反転は、公羊=九曜と人身=人見のあいだでも、また人身=人見とすあま=天音のあいだでも、「自己犠牲」とその否定による救済という形式で反復される。

すなわち、天音は自らケージの中に残ることによって人見を、人見は天音とともにケージの中に残ることによって九曜を、それぞれ救おうとするが、それらの「自己犠牲」は、人見によって、九曜によって、相次いで否定されるのだ。

これらの反転の構造の全体を文章で逐一説明すると煩雑になるので、代わりに次のような図を描いておこう。

――しかし、救済へのメッセージは、なぜ「緑の」手紙でなければならなかったのだろうか。

「緑」という色彩は――これも前の記事で書いたように――植物で覆われた格納庫の扉や、零戦の機体上半部の塗色として視覚化されてはいた。だが、「緑」が救済を意味する理由や、その手紙には「何が」書かれていたのかという根本的な問いは、依然として謎のままである。

この問いに応えるための、きわめて重要な手がかりとなりそうなのが、作家・五十嵐勉が1999年に発表した小説『緑の手紙』である――もとよりこの作品への言及は、公演パンフレットその他、公式のメディアではまったくなされていないので、この点は、まったく私個人の解釈であることを、ここでお断りしておかなければならない。

しかし、この夜会の最も重要なモチーフである「緑の手紙」の原型の少なくともひとつが、この小説にあることは、ほぼ間違いないと私は思っている。

以下、小説のあらすじを――少々長くなるが――紹介しておこう。

1980年代、日本語教師・五十嵐は、カンボジア難民の青年ポ・シティと知り合う。彼は、クメール・ルージュ (ポル・ポト派) の支配によって失脚した元文部大臣の息子で、同派による残虐な強制労働下から脱出し、ベトナム介入による戦火を潜り抜け、日本に亡命したのだった。

五十嵐は、しだいに彼と親しくなるうちに、かつて太平洋戦争時、南方戦線に動員された一兵士であった亡父から聞かされた地獄のような戦場体験を、繰り返し回想するようになる。

その頃、五十嵐は知人の戦場カメラマンの事務所で、カメラマンがカンボジアの難民キャンプで僧侶から託されたという、緑色の封筒に入った手紙を見る。緑の封筒に何の意味があるのか、とカメラマンに尋ねると――

カンボジアのある地域には国家の危急存亡のときや、逃れえない大きな災厄に襲われたとき、緑の手紙に願いを書いて天に訴えると、それが神に聞き入れられる伝説があるという。封筒だけでなく、正確には記す紙も緑を使う。本来は鳥の足に付けて空に放つというものだった。……それは一つの希求であり、最後の願望なのだということだった。

大多数のカンボジア難民が日本社会に適応し職を得ていくのと対照的に、ポ・シティは、祖国を救うべく、シハヌーク派への軍事支援を得るための政治活動に奔走する。が、その活動は日本社会にはまったく受け入れられなかった。その結果、彼は精神に障害をきたし、収容された精神病棟から、なおも各方面に軍事支援を要請するための手紙を、緑色の封筒に入れて出しつづける。

ポ・シティの協力要請を拒否しつづけてきた五十嵐だったが、「緑の手紙」を読んだ後、彼はついに日本語教師の職を辞し、知人の戦場カメラマンとともに「国境へ行き、難民と戦乱との現実を自分の目で確かめる」ことを決意して、闇夜の中、インドシナ半島へ向かう翼に身を委ねる。

世界のどこか戦争のあるところに、人間の叫びのあるところに、この「緑の手紙」はさまよい続ける。戦乱の中に圧殺される者の希求として、その手紙はどこかに届かなければならない。だれかが、何かが汲み取ってくれるまで、それは一つの祈りとして存在し続ける……

以上のように、この小説のストーリーは、『橋の下のアルカディア』とは直接の関係はない。唯一の――両作品の根幹をなす――共通項は、「緑の手紙」というキーワードである。

「緑の手紙」はこの小説では、危急存亡の中にいる者自らが、最後の希求として送るものであったのに対して、夜会『橋の下のアルカディア』では、危急存亡の中にいる者が、そこからの脱出ための鍵として受け取るものだという点で、明確な対比をなしてはいる。

だが、いずれにせよ、それが「戦乱 [危機] の中に圧殺される者の希求」であるという根本的な点では、共通しているのだ。

さらにいえば、「緑の手紙」を「鳥の足に付けて空に放つ」というイメージと、零戦の脚にワイヤーで結びつけられたケージの視覚像、また闇夜の中を異国へと飛び立つラストシーンと「India Goose」のラストの「飛び立て、夜の中へ」という歌詞など、両作品のあいだに、偶然とは思えない複数の暗合が存在することも無視できない。

これまで、中島みゆき作品の中で「戦争」というモチーフが前面に登場することは――「阿壇の木の下で」のような少数の例外を除いて――ほとんど例がなかった。それはおそらくは、聴き手のイメージを限定したくないという彼女の昔から変わらぬ姿勢とも相まって、戦後日本社会の中で「戦争」というテーマの背後に頑として存在しつづけてきたイデオロギー的な磁場の中に引き寄せられることを慎重に忌避するが故だったのではないか、とも私は想像している。

そのようなスタンスを中島みゆきは現在も基本的には変えてはいない。だからこそこの夜会でも、「戦争の記憶」を伝える「緑の手紙」というモチーフは終盤で突然のように出現するのだし、そこに書かれている内容は、最後までわかりやすく呈示されることはないのだ。

ただ重要なのは、「緑の手紙」によって過去から伝えられきた記憶――ラストシーンで零戦として具現化される「戦争の記憶」――が、再び「生け贄」とされる危機から3人を救出し、新たなる未来へと導くという大いなる逆説がもつ意味だ。

初日のレビューでも書いたとおり、この逆説がもたらす衝撃の深さと激しさこそは、この夜会のメッセージの根幹をなすものである。

また、この逆説のゆえにこそ、戦後日本の光と影とを象徴した空間のようにもみえる、あの橋の下のシャッター街の光景は――中島みゆきの千秋楽の舞台挨拶での言葉のとおり――幸福感に彩られたアルカディアの記憶として、私の中に残りつづけてもいる。

そして、「緑の手紙」の真の受取人――そこに託された「一つの祈り」を受け取り、読み取るべき者――は、実はあの時客席にいた私たち自身だったのではないか、という思いが、むしろ時間が経つにつれて、私の中ではしだいに強まっている。