出会いの記憶――「中島みゆきのオールナイトニッポン」のこと

Annこの記念すべき日には、この腰の重いブログも、やはり久々に更新しなければならないだろう。

私が中島みゆきファンになった最初のきっかけのことを書きたい――それは、私と同年代の多くのファンのご多聞に漏れず、かの伝説の名番組「中島みゆきのオールナイトニッポン」との出会いのことである。

大学2年の1979年秋頃――ということはこの番組がスタートして半年ぐらいの頃、ということになるが――手持ち無沙汰な深夜に、ラジオのチューニングをあれこれといじっていると、たまたま聞こえてきたハイテンションのけたたましい女性DJの声に、まず度肝を抜かれた。

やや茫然としながら、しばらくのあいだ聞くともなしに聞いていると、DJは「中島ぺったん」と自称――まさかと思って新聞のラジオ番組欄を見ると「中島みゆき」の文字が。

それまでは中島みゆきといえば「時代」ぐらいしか知らず、あまり若い女性らしくなく、真面目でしかつめらしい曲を歌う歌手というぐらいの漠然としたイメージしか持っていなかったので――その認識の浅さについては、まったく私の不明を恥じるしかないのだが――再び驚かされた。

番組の最後に読むシリアスな葉書と、その後にかかる彼女自身の曲とで、この番組のDJが中島みゆき本人であることは頭では理解できたが、それからもしばらくは、DJとしての彼女と歌手としての彼女とのあいだに存在する巨大なギャップに戸惑いつつも、どちらかといえば前者のコミカルな側面にしだいに惹かれて、私はこの番組を毎週、月曜深夜に聴くようになっていった。

 

歌手としての中島みゆきのシリアスな側面、その重みにも気づくようになったのは、翌1980年2月にシングル「かなしみ笑い」がリリースされた頃からである。

番組内で時々かかるこの曲の――タイトルの意味するとおり――自らの悲しみを徹底的に客観視しようとするアイロニカルなまなざしの鋭利さにも惹かれたし、またB面 (当時) 「霧に走る」の、限りなく繊細な心の震えと、その背景として広がる「深い霧」の抒情も印象的だった。

総じて、それまでの歌謡曲やフォークソング――その頃の私の年代では、まだこう呼ぶのが一番しっくりきた――と、表面上は連続していながら、しかし深層ではまったく異質な、本当に驚嘆すべき何かが、このひとには存在するのではないか――そんな漠然とした予感が、その頃の私の中で育ちつつあったような気がする。

そしてその予感は、その年の春にリリースされたアルバム『生きていてもいいですが』によって、予想を遥かに上回る巨大な衝撃として、実現されることになる。

ただ、私がこのアルバムを購入したのは、リリースの4月5日の1箇月少しあと、5月15日のことだった。その前後に、やはり「オールナイトニッポン」の番組中で、決定的に重要な2つのエピソードに、私は遭遇している――『生きていてもいいですか』については別の機会に譲り、ここではその2つのエピソードについて書きたい。

 

1つめのエピソードは1980年5月5日、この年の春のコンサートツアー中止のアナウンスを、中島みゆき自身が番組の最後におこなったときのことである。

いったん発表したツアーのスケジュールをキャンセルするのは、彼女にとって、非常な苦渋の決断であることは明らかだった。この夜の放送では、冒頭からいつものハイテンションが影を潜め、コミカルな葉書を読むときにさえも、声がとても沈んでいたのをよく覚えている。

そして、ツアー中止を知ったファンやリスナーからの葉書の数々――たとえば、「プロなんだろう?」と中止を非難する葉書、あるいは「失恋ぐらいで何だ!」といったキャンセル理由を憶測する葉書――をあえて読み、それらの辛辣な言葉に対して一切の言い訳も反論もせず、ただ――プロだからこそ、納得できないコンサートはやれない、納得のゆかない仕事でお金をもらうわけにはいかない――と、どこまでも真摯に答える彼女の言葉に、当時まだお気楽な学生だった私は、粛然とした。

 

2つめは、1980年5月19日の放送。最後の葉書のコーナーで、恋人を病気で失ったという少女の葉書が読まれ、「世情」がかかった時のことだ。

その彼とコンサート (1979年のツアー) に行き、ラスト曲「世情」を一緒に泣きながら聴いたという思い出が、葉書には綴られていた。

――私は、「世情」をその時初めて聴いたわけではなかったのだが、おそらくその時初めて、この曲の真の意味が胸の底に届いたという気がした。聴きながら、自分の世界が根底から変わっていくような感覚を味わったことを、今でもはっきりと思い出す。

その「世情」の意味は、とても単純なことのようで、簡潔に言葉にするのが難しい――

「世情」には最初は、学生運動の時代を歌った歌なんだろうな、という漠然とした認識と、私自身はその世代からは隔たったところにいる、という醒めた距離感しか感じられなかった――ここでもまた、私は自らの不明を恥じるしかないのだが。

が、その夜、今はこの世にいない恋人と二人で泣きながらコンサートで「世情」を聴いたという少女の言葉から、私はそうした自分の認識の浅薄さを徹底的に暴かれたような気がした。

そのとき気づかされた「世情」の意味とは――

「シュプレヒコールの波」に象徴される「社会」や「政治」の問題とは、結局は私たち一人ひとりの孤独な「心」の問題でしかありえないということ、私たち一人ひとりが、ほんとうに真摯に自らへの問いとして考えることによってしか、近づくことのできない問いなのだということ――とでも言えばいいのだろうか。

あるいは逆に、私たち一人ひとりの孤独な「心」の問題こそが、真の「社会」や「政治」の問題なのだ、と言っても同じことだ。

例の有名な『3年B組金八先生』の挿入歌としてのテレビ放送よりも、約1年前のことだが、私にとって、中島みゆきファンへの最後の決定的な一歩を踏み出させたのは、この夜の「世情」だったと言って間違いない。

昨年9月の記事で、「ミルク」のマスター前田さんの言葉に託して書いたこと――中島みゆきが私たちに投げかけつづける、容赦のない徹底的な問いかけ――は、そのようにして私たち一人ひとりの孤独な「心」と、「社会」や「政治」さらに「世界」とを、はるかにつなぎながら往還する、めくるめくような世界観によって基礎づけられているのだと思う。

 

――「オールナイトニッポン」の話に戻ろう。

おそらくこの時期、1980年の春頃に集中的に、上記のようなエピソードを通じて、中島みゆきの――あのコミカルなDJとバランスを取りながらでなくてはむしろ支えきれないような――限りなくシリアスな「重さ」を、私は本当に知ったのだと思う。

とりわけ、「最後の葉書」のコーナーで、口調や声のニュアンスからもはっきりと伝わってくる、私たち、顔の見えないリスナー一人ひとりに、徹底的に真摯に、誠実に関わってこようとする彼女の姿勢――その迫力に圧倒され、自らの世界観の根底的な変容を迫られ、そして自らの生への限りない励ましを受け取ったこと――それだけは、今も忘れようのない記憶として残っている。

あれから37年――

お気楽だった当時の学生は、今や中年も後期に差し掛かり、公私のあれやこれや――その中には、自らの子どもの受験などという頭の痛い懸案も含まれていたりする――に日々思い悩む、一職業人・家庭人となっている。

しかし、中島みゆきはこの37年間変わることなく、私に、究極的にはただひとつのこと――この私は、この世界の中で何処にいるのか、そして何処へゆくべきなのかということ――を歌い、語り、そして問いつづけてきた。

そのことへの限りない感謝をこめつつ――上記のような出会いの記憶を、今日この日に改めて噛みしめている。

夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』中間報告――初演VOL.18との差異を中心に

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夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』の初日11月17日(木)、および11月22日(火)の2公演を観た。

初演を前提としたうえで再演を観ることの醍醐味は、初演とのさまざまな差異――それが大きなものであれ、微細なものであれ――を通じて、その演目に中島みゆきがこめたであろうメッセージの多層性、あるいは世界観の深みや広がりを、より大きな振幅の中で体感できるということに尽きるだろう。

この演目の初演VOL.18については、すでに (劇場版の感想も含めて) このブログに5本の記事を書いてきた。しかし、かなりの字数を費やしてもまだ、この作品の世界の隅々までを知りえたという実感はない。むしろ、思い出し考えるほどに、言葉にしえない謎が自分の中で深まってゆくような感覚があった、というのが正直なところだ。

が、今回の再演は、それらの謎のすべてとは言わないまでも、少なくともいくつかをより明瞭な光の中に照らしだし、そしてそのことによって、この『橋の下のアルカディア』という演目がはらむ魅力と衝撃力を、初演とはまた異なる新たな視角から発見させてくれたように感じる。

この記事では、千秋楽を1週間後に控えた現時点での「中間報告」として、初演との差異――それもとくに重要と思われる部分――を思いつくままにピックアップしながら、現時点での印象や考えをまとめておきたい。

なお、今回もまたビジュアル面では、ぴしわさんの『覚え描き』ブログに掲載されている見事なイラスト群が、私の視覚的記憶の不完全さを補ううえで大いに助けになった。ぜひあわせてご参照いただきたい。

「模型の高橋」および九曜とその父・祖父について

第1幕が始まってすぐに注意を惹かれるのは、舞台下手にある模型店――高橋九曜 (石田 匠) の実家――の外見である。初演では水色のシャッターに左横書きで「模型のタカハシ」と店名が記されていたが、今回は右横書き・漢字で「模型の高橋」と大書された看板が店の上部に掲げられている。さらに看板の「模型の」と「高橋」との間に大きな零戦のレリーフ(?)があり、プロペラ部分は看板からさらに上部に大きくはみだしている。

店名が左横書きから右横書きに変更されたことは何を意味するのだろうか。この地下壕が防空壕として建設された戦前ないし戦中からすでに、この模型店はここに店を開いており、店主の息子だった一曜は、その頃にパイロットを目指して予科練に志願した――といった時系列が想定されるのだろうか。

だが、こうした時代考証めいたディティールにこだわることには、おそらくあまり意味はないだろう。それよりも本質的なのは、この模型店が、3世代を通じて戦争の記憶が継承されてきた場所であり、そのことが看板の右横書きによってより強調されている、ということなのだと思う。

ついで、第2幕の「水晶球」の場面では、九曜が歌いながら、模型店内の父と祖父の遺影の傍らから、かなり大きな零戦の模型を取り出す。この模型は――ラストシーンで登場する零戦と同じく――翼端灯 (右が緑、左が赤) が輝いている。

看板に掲げられたレリーフとこの模型はともに、明らかにラストシーンへの伏線であり、零戦が祖父・一曜から父・忠を経て九曜の世代に受け継がれた戦争の記憶――そして「人を幸せにする翼」という叶えられなかった願い――を象徴していることを示唆しているのだろう。

少し場面は戻るが、第1幕の「一族」は、九曜が二人の遺影を胸に抱きながら歌う。この場面では彼はガードマンの制服のままであり、次の第2場で「公羊」としての前生が明かされることへの伏線になっているのは初演の時と同様だ。が、それと同時にこの歌には、かつて「脱走兵」として謗られた――彼と同じ「曜」の字を名に持つ――祖父と、彼を匿った父の記憶を、「知られたくない」と願いつつも大切に守ってゆこうとする九曜の屈折した思いもまた表現されているのではないか――再演で付加されたこの演出は、「一族」のそのような両義性を示唆しているようにも思える。

天音の衣装、振り付け等について

ビジュアル面での変化としておそらく最も強い印象を与えるのが、豊洲天音 (中村 中) の姿と立ち居振る舞いだろう。

第1幕の「恋なんていつでもできる」では、彼女は二の腕や胸元も露な銀色のタイトなドレスで、九曜を誘惑する妖艶なダンスを披露する (ここがラッキィ池田氏による振り付けだろう)。

後の第2幕で、チンピラに襲われて怪我をした九曜を天音が介抱する場面についても、中島みゆきから「もっと濃厚にガードマンに迫るように」という指示があったとのことだ (パンフレットにある前田祥丈氏の「稽古ルポ・解説」より) 。

天音が九曜に寄せる想いは、おそらく九曜の亡き父・忠 (「呑んだくれのラヴレター」の送り主) への想いを引き継いだものであり、また前生のすあまが飼い主・公羊を慕う気持ちの再生でもあるように見えるが、それと同時に――あるいはそれ以上に――今生において天音が「生きること」へのポジティブなエネルギーの発露という印象を強く受ける。何と言ってもセクシュアルな事柄への情熱は、人あるいは生き物が生きてゆくエネルギーの重要な源泉なのだから…

また、第1幕の「大きな忘れ物」で、銀行強盗が抱えていた現金を人見と天音が横領(?)しようとするドタバタの直後に、九曜が現金の入っていたカバンの蓋を閉める音が大きく反響し、天音が激しくおびえる場面も――コミカル/シリアスのコントラストの強さという点を含めて――非常に印象的だ。

この大きな音の反響は、第2場ですあまが猫籠に入れられる場面で猫籠の蓋が閉じる音として再現され、天音のおびえが前生の記憶に由来することが明らかになる。

3人の関係性について

第1幕での「人見ちゃん、仕事中は名前で呼ばないでください。高橋です」という九曜の台詞に対応して、第2幕では「まだ仕事中ですので、橋元さんと呼んでくださいね」と橋元人見 (中島みゆき) が答える台詞が追加されている。初演では「人見ちゃん」という呼びかけはなく、これらの台詞は――前生で夫婦であった――九曜と人見のあいだもまた気の置けない関係であることを示唆している。

「仕事中」という言葉は、天明の場面で公羊が歌う「男の仕事」の伏線になっているのだろうか――いずれによせ、前生での名前「公羊」「人身」と同音の名前で呼ばれることをお互いが無意識のうちに忌避していることが、初演よりもさらに強調・明示されているのは明らかだ。

また、天明の場面では、最後にすあまを猫籠に入れる人物が、人身から公羊に変更されている。これは「捨て子選び」「男の仕事」の歌詞との整合性という意味もありそうだし、今生のシャッター街でと同様に、前生の天明の時代でもまた、3人相互の関係性がより緊密に描かれているという印象を与える。

水晶球と猫の眼の光

第1幕の「川の音が聞こえる」では、人見が手に持った水晶球と水晶宮の店内に置かれた水晶球とが、同期するかのように青白く光る。また第2幕の「一族」でも、人見が後ろ手に持った水晶球が青白く光り、九曜がそれに脅えながらも惹きつけられるかのように彼女の後に従う場面が、きわめて印象的だ。

これらの青白い光は、あたかも3人の前生の記憶が再生され始める前兆であるかのようで、前作『今晩屋』での消火栓の赤ランプの点滅とも似た役割を果たしているような気がした。

また天明の場面、猫籠に入れられる直前で、すあまの両眼も同様に青白く光る。この演出は、第1幕の幕切れで彼女が歌う「人間になりたい」の「夜を映す青い目も…」という歌詞に対応しているが、さらに上述の水晶球の青白い光と呼応し、来生すなわち「次生まれるとき」へと悲しみの記憶を伝えようとする意志の表現でもあるかのようだった。

風鈴の音

第2幕では冒頭に風鈴が3回鳴り、「夏」という季節を印象づける。日本の「夏」は戦争の記憶と鎮魂の季節であり、風鈴の音は (仏壇のおりんの音にも似て) まず、そのことを暗示しているのだろう。

さらに第2幕の中盤では、「模型の高橋」の軒下に人見が5個の風船を吊るす。これらの風鈴の音は、この世にいない者たち、すなわち、それまでは遺影としてのみ登場していた忠と一曜――あるいは、もし5個という数字に意味があるとすれば、人身・公羊・すあまを加えた5つの魂――の思いを、この世に呼び戻すための「信号」の役割を果たしているかのように思えた (その点では、『今晩屋』での鐘の音の役割とも通じるものがあるのかもしれない)。

メロディーとアレンジの変更

第1幕の「恋なんていつもできる」は、初演でのアップテンポから、上述の天音の妖艶なダンスに合わせて、サックスのイントロで始まるミディアムテンポのアレンジに変更されている。

第2幕中盤の転換点となる「二隻の舟」のイントロでは、チェロが奏でる「水晶球」のメロディが挿入され、水晶球が時の流れを超えて過去を映し出すことを暗示しているようだった。

続く「水晶球」をはさんだ「一族」では、上述の水晶球の色の変化とも呼応しながら、前生の記憶の再生が始まることを予示するかのように、第1幕とは異なる低い音程のメロディ――おそらく主旋律に対する対旋律――を人見が歌う。

第2幕終盤近く、やはり人見が歌う「いらない町」は、第1幕とは異なる短調のメロディに変更され、地下街を襲う絶体絶命の危機が強調される (同じ曲が長調・短調の両方で歌われるのは『今晩屋』の「旅仕度なされませ」でも同様で、やはり悲劇的な運命への転換を印象づけていたことが思い出される)。

「呑んだくれのラヴレター」「国捨て」の歌詞追加、およびラストシーンについて

台詞に関しては、上記以外にも、かなり多くの箇所で追加や改変がおこなわれているが、歌詞の追加部分は、この終盤の2曲で繰り返して歌われる――パンフレットにも記載されている――4行のみである。この4行は、「緑の手紙」というこの物語の鍵となる謎めいたモチーフの意味を明確化するという、きわめて重要な役割を果たしている。

まず冒頭の

その手紙に鍵は無く その手紙に主は無く

というフレーズは難解だが、「鍵は無く」とは、その手紙はすべての受取人に対して開かれており、その意味は誰にでも自由に読み取れるはずだということを、また「主は無く」とは、その手紙の送り主は個人としての一曜なのではなく、「幸せにする翼」という願いを戦争によって奪われた――パイロットや技術者たちをはじめとする――すべての人びとなのだということを、それぞれ意味しているようにも思える。

それに続く

あるはずの銃も無く あるはずの武器もない
見るがいい その場所には 輝く何かが見える

という2行は、ラストシーンに登場する零戦の両主翼の20mm機銃のあるはずの場所に、眩い前照灯が点ることへの明らかな伏線だろう。この大道具の効果自体は初演と同様だが、「人を殺す道具ではなく……」という一曜の願いをさらに強調するための追加歌詞となっている。

そして、

暗い水の底から 空へ

という追加部分の最後のフレーズは、かつてこの地で人柱となった人身たちの魂が救済され、天空へ羽ばたくというラストシーンの意味を、より鮮明に表現する。

水底あるいは地上から天空へという垂直軸の上昇が、過去(前生)から未来(来生)への飛翔、すなわち過去の救済と重ね合わされるというビジョンは、『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』『今晩屋』という夜会の近作で繰り返されてきたパターンの反復でもあり、その意味でも『橋の下のアルカディア』がもつ集大成的な位置づけ――決してこれで「完結」ということはないにせよ――を再認識させられる思いだった。

第2幕終盤近く、「猫にだけ見えるもの」の前後で、地下街の店が消えてゆくのに代わって、両袖に巨大な石の壁――クローズアップされた橋脚だろうか――が出現する。「India Goose」とともに零戦が飛び立つラストシーンでは、この巨大な石の壁あるいは橋脚が崩壊し、その崩壊後の巨大な瓦礫が、カーテンコールと舞台挨拶のあいだずっと、そのまま中空に残っている。

全体的印象

『橋の下のアルカディア』の物語の全体的な構造は、初演と大きく異なることはなく、ただ、「捨てられた」者たちの救済という基本的なメッセージが、上述のようなさまざまな変更点を通じて、より明瞭に力強く伝わってきた――というのが第一印象だ。

ただ、どちらかといえば初演では、そのメッセージが最終的には、一種の静謐な祈りのようなものとして胸の中に残ったのに対して、今回の再演では、もっとダイナミックな、今のこの現実を懸命に生きようとする衝動あるいは情熱のようなものとして、余韻を響かせているような気がする。

そうした印象の変化は、直接的にはおそらく、上述のように天音のセクシーな演技がより強調されていることや、ラストシーンでの橋脚の崩壊という視覚的効果のインパクトによるものかと思う。

静と動、祈りと情熱――それらの両面はいずれも、この『橋の下のアルカディア』という作品世界がもつ深さ、豊かさの反映であろう。

――以上、いささか箇条書き的な羅列が多くなってしまったが、千秋楽を迎えるまでは、まだ夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』という「作品」は完結していない。千秋楽を観た後に、この記事では書ききれなかったことを――上述のような細部のみならず、この作品全体に含まれた多層的な意味についても――改めて考えてみたい。

ボブ・ディランと中島みゆき

 

「いつか、みゆきさんにも!」

2016年10月、ボブ・ディランへのノーベル文学賞授与のニュースが世界を駆け巡ったとき、私も含めて多くの中島みゆきファンが――いくらかは冗談交じりに、いくらかは真剣に――SNSでこのようにつぶやいた。それは、ファンどうしの、ごく素朴な意味での「連帯感」のようなものを感じさせるできごとでもあった。

そうした素朴な願望の当否について、ここで語ることはやめておこう。その代わりに、これを機に、ディランと中島みゆきとの関係について――いささか断片的にではあるが――いくつか思い出すことを綴っておきたい。

 

「賞」を与えること/受けること

授賞側のスウェーデン・アカデミーがなかなかディラン本人と連絡が取れず、選考委員長が「無礼で傲慢だ。でもそれが彼ってものだ」と苦言を呈したり (『朝日新聞』電子版 2016/10/22) 、その後、ようやくディランがアカデミーに受賞の意志を伝え、自らの沈黙について「ノーベル賞のニュースに言葉を失っていた」と語ったといったニュースが話題を呼んだ (同 10/29)

こうした紆余曲折は、かつて1960年代、カウンター・カルチャーの旗手として称揚された彼に、約半世紀を経て世界で最も権威ある賞が与えられるという事実がはらむ、一種の逆説を象徴しているようにも思えた。

 

――と同時に、中島みゆきファンのひとりとして連想するのは、次のようなエピソードだ。

彼女がデビュー直前の時期、ポピュラーソング・コンテストの主催者ヤマハに対して、音楽に賞を与えることの意義を問う手紙を書き、それに対して「賞が欲しいのなら出ないで下さい」という返事を受け取ったという。彼女はその言葉に納得し、出場を決意する (こすぎじゅんいち『魔女伝説』、1982、90-91頁)

このエピソードの事実関係については、上記『魔女伝説』にも異説が併記されており、また他の資料も少なく、詳細ははっきりしない。が、おそらく本質的なポイントは、「賞を与える/与えられる」という関係が、「与える」権威をもつ側と、「与えられる」側がその権威に依存することとの、いわば共依存の関係に陥ることへの明確な拒否――ということだろう。

「賞が欲しいのなら出ないで下さい」という返事を書いたのが、当時のヤマハのトップ川上源一氏本人だったのかどうかについても、明確な資料は存在しない。が、中島みゆき自身も何度か語っているように、彼女の才能を見出した川上氏と彼が率いるヤマハが、プロデビュー以降の彼女に、自由に創意を発揮しうる活動の場を提供してきたことは間違いない。その自由は、上述のような共依存からの自由を出発点としたものでもあったのだろう。

 

「多くのことがそこから始まった」世代

先月の記事「コーヒーハウス「ミルク」訪問記 」で、マスターの前田重和さんの言葉を通して少し触れた中島みゆきの学生時代について、珍しく彼女自身がシリアスに語っている小篇がある。「初めての書下ろし小説(ストーリイ)」と題して1986年に出版された『女歌』の中の一篇「もう一人のmiss M.」である。

8年ぶりに再会した札幌の旧友、中島みゆきの学生時代の音楽仲間のひとりで、当時は「とあるバンドのリーダーの女」との噂もあったという「M」との会話――

「……あたしは。男の影響でビートルズを歌ってたけど。あんたはボブ・ディラン歌ってたわよね」
「我ながら、あんなすさまじいジャパニーズイングリッシュでよく人前で歌えたもんだと思うわ。思い出すと赤面ものね」

いつも日本語のオリジナルしか歌わなかったという「M」が、唯一、ビートルズの Fool on the Hill を英語で歌っていたのと同じように、アマチュア時代の中島みゆきは、やはり多くのオリジナルに加えて、ボブ・ディランを英語で歌っていたようだ。

「中島みゆき研究所」のデータによれば、デビュー約1年前の1974年10月15日、北海道音更町でのコンサートの1曲目に「風に吹かれて」(Blowin’ in the Wind) を彼女は歌っている。

おそらくアマチュア時代としても例外的な、このカバーからもうかがわれるように、中島みゆきにとって――吉田拓郎をはじめ、その前後の世代の多くのフォーク・ロック系ミュージシャンたちと同様に――ディランがきわめて大きな存在だったことは間違いないだろう。

もし、あの時にボブ・ディランがいなかったら、と考える。
ボブ・ディランがいたから今日があるような気もする。
多くのことがそこから始まったと僕は思うのだ

吉田拓郎のこの談話 (『日本経済新聞』2016/10/14 など) は、おそらく中島みゆきも含めて、その世代の人々の共通の感慨でもあったのではないだろうか。

 

やはりディランから大きな影響を受けた「関西フォーク」の担い手のひとり大塚まさじは、「親戚が受賞したような喜び」と、より率直に自らの思いを語っている (『朝日新聞』大阪版 2016/10/14 朝刊)

その大塚まさじが率いたユニット、その名も「ザ・ディランII」の「男らしいってわかるかい」 (1972年のアルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』収録) は、ディランの I Shall Be Released の日本語カバーである。

この曲を中島みゆきが1980年頃、ラジオDJ番組 (おそらくMBSミュージックマガジン) で紹介し、それに強い印象を受けたことが、そもそも私が彼女とディランとの接点らしきものを知った最初のきっかけでもあった (その後も中島みゆきは、いくつかのラジオDJ番組で何度かこの曲をかけている)。

 

オマージュあるいは「本歌取り」

中島みゆきにおけるディランとの接点といえば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのが、1983年のアルバム『予感』に収録された「ばいばいどくおぶざべい」のことだろう。

オーティス・レディングが飛行機事故により26歳の若さで世を去る、そのわずか3日前に録音したという Dock of the Bay と並んで、ディランの Like a Rolling Stone が、同じくひらがな表記で、この曲の歌詞に登場する。

誰もおいらを覚えていないだろうな らいかろうりんすとうん

波止場に座り込み、船を眺めながら空しく時を過ごす男、帰る家を失くし「転がる石」のように落ちぶれた、かつての上流階級の女――それらの行き場のない思いは、自らの分身ともいうべきギターの弦を押さえる左手の力を奪われたロックシンガーの悲痛と共鳴しながら――いわば暗黙の曲中曲として――歌われる。

 

同じく『予感』の収録曲「誰のせいでもない雨が」には、ディランの A Hard Rain’s A-Gonna Fall「はげしい雨が降る」に触発されたと思われる一節がある。

1962年のキューバ危機を背景に、核戦争への怖れを歌ったともいわれるこの曲では、

Oh, what did you see, my blue-eyed son?
「何を見たんだい、青い目の息子よ」

という父親の問いかけに対して、

I saw a black branch with blood that kept drippin’
「黒い枝から血がしたたりつづけるのを見たよ」

と子どもが答える。

黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく

という「誰のせいでもない雨が」の一節は、明らかに上記のディランのフレーズの「本歌取り」の如きものである。

ただしこの曲では、したたり落ちる「雨」は、現在の危機への怖れというよりも、かつて「怒りもて石を握」り「罪を穿った」闘いの時代の記憶を容赦なく過去へと遠ざけてゆく時間の流れの暗喩とみるべきだろう。そのような幻滅感に満ちた時間感覚は、上述の「もう一人のmiss M.」で語られているものとも同質である。

 

もう1曲、より初期にさかのぼるが、1977年のサード・アルバム『あ・り・が・と・う』に収録されている 「勝手にしやがれ」にも、ディランの Don’t Think Twice, It’s All Right「くよくよするなよ」と呼応しあう一節がある。

And it ain’t no use in turing on your light, babe
I’m on the dark side of the road
「そう、明かりをつけるなんて無駄なことさ
俺は道の暗がりを歩いてゆくのだから」

部屋を出てゆくなら 明かり消していってよ
後ろ姿を見たくない

「明かり」とは、いま袂を分かとうとする二人が、それまで共有してきた記憶の比喩なのか――そんなふうに考えてくると、「勝手にしやがれ」は、「くよくよするなよ」で男性の視点から歌われた別れの情景を、女性の視点から歌い直した一種のオマージュとも呼べるような気がするのだ。

 

――もとより、私が知っているディランは、膨大な彼の作品世界のごくごく一部に過ぎない。したがって、中島みゆきにおける彼の作品からの反響――あるいは、彼女からのディランへのオマージュと言っても同じことだが――は、実は私が知らないだけで、まだまだ多く隠れているのかもしれない。

 

熱狂からの距離

日本とは大きく異なり、ミュージシャンにも政治的な旗幟を鮮明にすることが常に求められるアメリカ社会にあっては、今回のディランの受賞もまた、メディアの言説によって、今まさしく終盤を迎えつつある大統領選の政治的対立に巻き込まれつつあるようだ。

しかしそうした渦中にありながら、受賞発表後のライブでもディラン自身はそれについて一切コメントすることなく――MCさえもなく――「声と曲が強調される「歌が全て」という演出」で一貫していたという (「ボブ・ディラン氏、ノーベル賞の熱狂と距離」、日経電子版 2016/10/14)

上述のように、かつてカウンター・カルチャーの旗手として称揚されたこととは裏腹に、むしろ彼自身には、「基本的には特定の思想信条や政党に深入りすることにはずっと懐疑的な立場を取り続けてきた一面」があり、それゆえに音楽的にも、「政治色の強いフォークを離れ、ロック、ブルース、ゴスペルなどが入り交じる音楽に、旧約聖書の詩篇、シェイクスピアなどエリザベス朝文学から影響を受けた抽象的なモチーフを乗せる独自の様式を築き上げてきた」という指摘がある (上記記事)

 

――熱狂から距離を置こうとする、こうした冷静な態度に、中島みゆきが長年にわたって貫いてきたスタンスと共通するものを感じるのは、おそらく私だけではないだろう。

また、とりわけ夜会の世界の構築において、記紀万葉から近代に至る日本語と日本文学の広大な世界から多様なモチーフを引き出し、自在に織り成す彼女のスタイルにも、ディランの独自の様式と通じるものがあると言えるかもしれない。

しかしその一方で、間もなく再演がスタートする夜会『橋の下のアルカディア』、そしてまだ記憶に新しいコンサート『一会』などでは、明確にラディカルな政治的メッセージが打ち出されているではないか――そこには、現代のこの国の現実に対する、彼女の切迫した危機意識が反映しているのではないか――そのように感じる向きもあるかもしれない (私も、そうした感じ方自体を否定するつもりはない)。

が、むしろそうであればこそ、彼女はそれらのメッセージの意味を、私たちの頭越しに「解説」するような態度からは、ますます慎重な距離を取っているように私には見える。

前の記事で、「ミルク」のマスター前田さんの言葉に託して書いたように、自己や人間や社会についての中島みゆきの問いかけは、最初から一貫して、根底的なものでありつづけてきた。そして、その問いかけが根底的なものであればあるほど、それに答えようとする私たちは、いかなる権威からも熱狂からも、より自由でいなければならないだろう。

――そのような自由への希求こそは、中島みゆきがディランから受け継いだ多くのものの中でも、最も貴重なものだったのではないかと、私には思える。

コーヒーハウス「ミルク」訪問記  ―中島みゆきからの「問い」の再発見―

昨年末の『一会』年内最終公演のレポート以来、またしても長らく開店休業状態が続いていたこのブログ――だが、その怠惰から私を覚醒させる不意の一撃ででもあるかのように、つい先日、私の30数年間にわたる中島みゆきファン歴の中でも真にエポックメイキングな出来事に遭遇した。そのことを書きたい。

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9月上旬、札幌への出張の最終日の日曜、幸い少しだけ時間ができたので、当地にお住まいのFacebookの友達Uさんのお誘いで、コーヒーハウス「ミルク」を訪れた。

今から24年前、みゆきファンの友人二人と北海道へ、いわゆる「聖地巡礼」をしたときにも、この店の前までは行ったのだが、そのときはまだ開店前で、シャッターの前に立った私の間抜けな写真が残っている。

中島みゆきの熱心なファンのあいだでは、このコーヒーハウスは、「ミルク32」 (1978年のアルバム『愛していると云ってくれ』収録曲) の舞台のモデルとしてよく知られているだろう。マスターの前田重和さんは、学生時代、宮越陽一さん (札幌の喫茶店、宮越屋珈琲の現社長) 、そして中島美雪と3人でフォーク・グループを組み、音楽活動をしていたかたである。

 

この日は、営業時間 (14時開店) を前もって調査し、Uさんと15時に現地で待ち合わせることにした。定刻少し前に到着すると、お店はまだすいていて、マスターに「長年の中島みゆきさんのファンなので……」と正直に打ち明けると、学生時代当時のことをはじめとして、色々な興味深いお話をゆっくり伺うことができた。

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それらの貴重なお話の中でも、とりわけ強く印象に残ったのは、中島みゆきは、40数年前のアマチュア時代からずっと変わることなく、心の奥底に直接に響くように、「あなたは、人は、社会はこのままでいいのか」という問いを鋭く突きつけてきた――ということ。

当時、「彼女の歌には社会性が足りない」などという批評もあったが、今から思えばそれはとんでもない的外れで、彼女ほど社会の本質を深く、鋭く捉えていた者はいなかった――というお話もあった。

前田さんご自身は、最近はあまり頻繁に彼女のライブに出かけるわけではないけれど、2,30年ほど前のコンサートで、学生時代と同様、中島みゆきと1対1で向き合っているかのように、その問いかけの迫力に圧倒され、客席にいながら、まるで飛行機が離陸するとき加速で座席に強く押し付けられるかのような圧迫感を感じた、と率直に語られた。

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この店は、隣接する「スタジオ・ミルク」と連携しながら、北海道・札幌の若いミュージシャンたちの活動拠点ともなっていて、私たちがいるあいだも、重そうな機材や楽器をかかえた人たちが時折、訪れていた。

前田さんは、そうした若いミュージシャンたちを育てることで、学生時代に中島美雪から突きつけられた問いに今も答えようとしているのかもしれない。

私自身、今から36年前に彼女の存在を最初に意識した時以来、まだ記憶に新しい夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』、そしてスペシャルコンサート『一会』に至るまで、中島みゆきからは幾度も、そうした――直ちに応えることの困難な――自己や人間や社会についての根底的な問いかけを突きつけられてきた。それらの記憶が、今も私にとって、中島みゆきという存在がもつ意味の原点になっている。

――が、若き日の彼女を直接に知る前田さんの言葉で、改めてそれが彼女の変わらぬ姿勢であると証言されたことは、私にとってきわめて重く、その原点を鮮明に、新たな光の中に再発見させられる思いだった。1対1の関係の中で、中島みゆきから渡された問いというバトンを、未来へと引き継いでゆこうとする意志を――まるで中島みゆき自身の肉声で呼びかけられたかのように――これまでになく強く鼓舞される思いでもあった (Uさんも同じ思いだったと、後から聞いた)。

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なお、少し補足しておくと、前田さんと私たちは、何も上記のようなシリアスで重い話ばかりをしていたわけではない。前田さん――そして、コーヒーハウスとスタジオを共同で切り盛りされている奥さんの彰子さんも、途中で話に加わっていただいたが――ご夫妻お二人とも、とても気さくで明るく、かつ穏やかな方々だった。

そういえば、中島みゆきの、あのシリアスな歌とコミカルなトークでバランスを取ろうとする独特のスタイルも、学生時代からまったく変わっていない――というのも、前田さんの貴重な証言のひとつであった。

私もUさんも、中島美雪がいつも坐っていたというカウンター席に坐らせてもらい、その頃から降り積もった時間が堆積しているこの空間の心地よさと懐かしさの中に、ひとときのあいだ身を委ねることができた。

――このような貴重な、まさに一期一会の機会をつくっていただいた前田さんご夫妻とUさんに心より感謝するとともに、いつか再びこの場所を訪れる時がめぐってくることを、強く願っている。

『橋の下のアルカディア』劇場版を観て

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すでにライブで5回、BDでも数回は観ている夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』だが、奇しくもロードショー4日目に当たるこの日――2016年2月23日――に、どうしても劇場版で改めて観なおしてみたくなり、最寄りのMOVIX京都へと足を運んだ。

やはり大画面の迫力は素晴らしく、とりわけあの大詰めのシーン (第2幕第2場) では――高橋一曜を演じる宮川崇を含めた――4人のキャストそれぞれの全力の歌唱と演技、ミュージシャンたちのうねりと滾りに満ちた演奏、舞台装置と照明の美しいビジュアル、そしてそれらすべてが織りなすことによって具現される世界観の衝撃力の深さと激しさに、改めて圧倒されつくしてしまった。

この日、新たに気づかされたのは、「思い出す」ということのもつ意味について――

VOL.11『ウィンター・ガーデン』で〈転生〉というモチーフが前面に出てきて以来、夜会では、前生の記憶の再生ということが、しばしば物語の重要な転換点をなしてきた。しかし『橋の下のアルカディア』では、それに加えて、もっと近い――いわば〈今生〉の中での――記憶の再生ということもまた、重要な意味をもっている。

たとえば、「一夜草」から (2度目の) 「呑んだくれのラヴレター」にかけて、天音 (中村 中) が高橋忠 (宮川崇) から送られた何通もの手紙を読みながら、何か重要なことを思い出してゆく、劇的な表情の変化――そしてその直後、九曜 (石田匠) が天音から、忠の紙飛行機の手紙を見せられ、やはり何かを思い出したように店の奥に駆け込む場面――それらはいずれも、あのラストシーンの救済へと物語を導くための、重要なステップになっている。

思い出しかけてる 誰かが呼んでいる

「ペルシャ」のこの歌詞のように――あるいは昨年秋のNHK『SONGS』での中島みゆきの、「時の流れが落っことしていったものを、一番後ろから拾いながらトボトボと行く」という言葉のように――時の流れの中で忘れられ、捨てられかけた記憶の一片一片を拾い上げ、愛おしんでゆくこと。

そのようにして「思い出す」べき記憶とは、「人柱」「生け贄」として集団の犠牲になった者たちのことは言うまでもなく、それよりももっと些細な――またそれゆえに忘れられがちな――一人ひとりの無名の人間や生き物たち、あるいはそれらが存在していた町の記憶といったものまでをも含んでいる、とみるべきだろう。

そのような中島みゆきの視点こそが、あの橋の下の捨てられかけたシャッター街を、幸福な記憶に彩られた「アルカディア」として想起させ、現出させてくれるのだろうし、第2幕で、乱入してきたチンピラたちを店が動き出して追い払う、痛快かつユーモラスな「シャッター街は生きている」の場面もまた、そうした視点の反映であるように思う。

「橋」と「アルカディア」の意味

今更ながらだが、この夜会の題名でもあり、物語の舞台をも意味している、「橋 (の下)」と「アルカディア」という二つの言葉の意味について、改めてここで考えてみたい――なお、以下の考察は、Facebookでの友達のひとり、Hさんから投げかけられた問いへの答として考えた内容を、まとめ直したものである。貴重な問いを与えてくれたHさんに、この場を借りて謝意を表したい。

第1幕冒頭で、いきなり提示される「なぜ橋の下」という、物語の背景そのものへの問いかけ――その答を探ることから始めよう。

「橋の下」という場所の設定については、公式サイトに掲載されたインタビューで中島みゆき自身が明言していたように、最初の発想としては、「捨て子が捨てられる場所」という通俗的なイメージが出発点ではあったのだろう。

その上で――第1幕第2場の「人柱」でとりわけ強調されているとおり――「橋」には、いわば「個」の上位に存在し、君臨するものとしての集団、社会ないしは国家の象徴という意味が、明らかに付加されている。

ただ重要なのは、集団や社会から「捨てられた」者たちが暮らす場所、あるいはその暮らしの記憶に対して、理想郷を意味する「アルカディア」という言葉が、逆説的にも与えられていることだ。

そこで暮らしてきた者たちの「歴史」ともいうべき時間的な意味を、この言葉が含んでいることは、

優しいあなたの側にいて
すべての月日はアルカディア

という『呑んだくれのラヴレター』冒頭の歌詞でも表現されているとおりである。

この「アルカディア」は――「貧しいながらも幸福な生活」といった、やや通俗的なイメージも含んでいるのかもしれないが、おそらくそれ以上に――「優しいあなた」が側にいた懐かしい過去の時間が、いつの日か、「捨てられた」者たちが救済されるべき未来へとつながっていくという予感、あるいは希望を含んだ言葉でもあったのではないだろうか。

言うまでもなく、この予感ないし希望は、ラヴレターの送り主であった高橋忠の父、「脱走兵」高橋一曜が、格納庫の中に隠されていた零戦とともに登場し、3人を救済するラストシーンで成就されることになる。

過去への遡行から新たな未来の発見を経て、救済に至るという道筋は、これまでの多くの夜会――『2/2』『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』『今晩屋』――でもストーリーの根幹をなしていた。が、(以前の記事で書いたとおり) 『橋の下のアルカディア』では、その道筋が、近現代日本が辿った現実の歴史を背景として再提示されている点が、決定的に重要だ。

そのように考えてくると、「橋」のもつ意味もおそらくは大きな逆説を含んでいて、かつて「個」を「生け贄」として捨てた集団・社会あるいは国家が、いつか遠い未来には、「生け贄」を必要としないものへと変容していくことへの遥かな希望もまた、そこには含まれていたのではないか、と思われてくる。

あの零戦が――かつて人身が人柱に立てられた――「橋脚の根元」の格納庫に隠されていたことは、まさにその変容への希望を象徴しているのではないだろうか。

思い出してみれば、「橋」のもつそのような時間的イメージ――いわば「未来の救済への懸け橋」というイメージ――は、 (まだ記憶に新しい、コンサート『一会』でも歌われた) 初期の曲「友情」の

時代という名の諦めが
心という名の橋を呑み込んでゆくよ

というフレーズにも――ネガティブな文脈においてではあるが――すでに予示されていた。

「橋の下」に「アルカディア」が存在する (存在した) という設定は、上述のような意味で、常識的に考えれば、きわめて逆説的である。

しかし、「捨てられた」者たちこそが、新たな未来への希望を見出すという、その逆説こそは――かつて「人を殺す道具」として造られた零戦が、「捨てられた」3人を救済するという、もうひとつの大いなる逆説とも呼応しあいながら――この夜会が私たちに与える衝撃の根底に存在しているのではないだろうか。

『橋の下のアルカディア』は、まさにそのような意味で、忘れられ、捨てられかけた記憶の数々を「思い出す」ことによって、私たちを新たな未来へと導く物語なのだ。