夜会工場VOL.2――12月の大阪公演を観て

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夜会工場VOL.2、12月11日と13日の大阪フェスティバルホールでの公演を観た。

叶うことなら初日、11月26日の府中公演に臨みたかったのだが、チケットは予想を超える大激戦であえなく連戦連敗。また12月上旬の福岡公演への遠征も諸般の事情でままならず、地元関西での11日の公演が私にとっての初日となった。

昨年1月の『一会』以来のフェスティバルホール――エントランスに足を踏み入れた瞬間に、かつての旧ホールの時代から変わることのない、ライブへの予感を秘めた華やかな空気感が、私の身をゆったりと包んでいく。

開場前から開演前、何人かのみゆきファン仲間たちと交わす会話は、ファン同士の絆を再確認する貴重なひと時だ。

開演15分前、客席に就く。舞台上は灰色の石造りの壁に囲まれ、両袖にはミュージシャンが陣取る黒い鉄骨の高い台、そして中央の床上では、薄明の中、工員――作業服姿のスタッフたち――が道具類を運びながら行き来しはじめる。日常から非日常への、緩やかな遷移――このプロローグは、4年前の夜会工場VOL.1とほぼ同様だ。

やがて開演ベルが鳴ると間髪を入れず、両袖のミュージシャンたちが、あの懐かしい「二雙の舟」のイントロを奏ではじめる。とりわけ、弦がしなやかに歌う主旋律が美しい。

――こうして私は、「夜会を作る工場」の現場を4年ぶりに訪れることになった。

以下、公式の上演台本と、いつもながらビジュアルな記憶の再現の鮮やかさに驚嘆させられる、ぴしわさんのブログ「夜会工場 vol.2 覚え描き」とを参照しながら、とりわけ強く印象に残ったことを中心にレビューしていきたい。

懐かしさと新鮮さとの相乗

夜会工場VOL.2の第一印象をあえて一言にすれば、懐かしさと新鮮さとの相乗、ということに尽きるだろうか。

これまで四半世紀を越える時間の中で、私の中に堆積してきた数々の夜会の舞台の記憶を、その熱量とともにありありと蘇らせられながら、それと同時に、それが単なる懐古ではなく、つねに清新な何かの発見をももたらしてくれている、という実感に、ずっと興奮させられ通しだった。

そうした印象はやはり、これまで同じ舞台に立ったことのないメンバーをも含む男女6人の共演者が、キャスト兼ヴォーカリストとして活躍したことによるものが大きいだろう。

男性キャストが宮下文一と石田匠の二人になったこと、またとりわけ石田匠は、夜会では中島みゆき自身が演じる女性役だった天文学者(『金環蝕』より「最悪」)やメイ(『シャングリラ』より「南三条」)をも演じ、彼のハイトーンのヴォーカルの魅力とも相まって、ジェンダー的な表現の幅が大きく広がり、夜会に潜在していた――これまで想像もしなかった――世界の新たな可能性を発見させられたことが、とても印象的だった。

宝塚出身の植野葉子、香坂千晶の二人は、今世紀に入ってからの――VOL.12以降の――夜会や夜会工場VOL.1では、もっぱら舞台上の演技に専念してきたが、今回は「愛から遠く離れて」「陽紡ぎ歌」「フォーチュン・クッキー」などで久々に美しいハーモニーを披露し、彼女たちの歌手としての実力をも大いに再認識させられた。

夜会工場には初登場となる中村 中は、夜会1990での若き日の中島みゆきを髣髴とさせるオフィスガール姿での「Maybe」の清新な健気さ、『花の色は…』秋の場の祭半纏姿で、中島みゆきよりもずっと高いキーで歌う「船を出すのなら九月」のフェミニンな魅力等々、『橋の下のアルカディア』でのあの鮮烈な歌と演技が、更なる多様な演目にも展開する潜在力を秘めたものであったことを実感させた。

そして――これはVOL.1の時も同様だったが――夜会では舞台下でヴォーカルを担当する杉本和世と宮下文一とが、舞台上のキャストとして登場することが、まさに「夜会工場」というコンセプトを正確に可視化していることに改めて注目したい。

『ウィンター・ガーデン』では能楽師が演じた〈槲〉役での詩「傷」の朗読や、『2/2』では男優が演じた矢沢圭役で力強く歌う「旅人よ我に帰れ」は、つねに「声の演技力」で夜会に貢献してきた宮下文一の、まさに面目躍如というべき見せ場であり聴かせどころだった。

そして、実質的な1曲目の「泣きたい夜に」、実質的な本編ラスト曲の「あなたの言葉がわからない」という両端の2曲を、いずれも杉本和世とのデュエットで歌ったことは、この永年のパートナーへの中島みゆき自身のオマージュであるとともに、夜会そのものの記憶へのオマージュでもあるように思えた。

彼女たち、彼ら6人の活躍の反面として、中島みゆき自身の歌が相対的に少なくなったことに関しては様々な感想があるだろう。

だが、それぞれに多彩で存在感十二分な共演者たちの歌と演技には、中島みゆき自身の意思が強く反映していることがはっきりと感じられ、彼女たち・彼らを率いる「座長」としての彼女のパワーに圧倒させられる思いだった。それも、共演者たちが自らの個性を抑制するのではなく、むしろそれぞれの個性を存分に発揮することが、同時に中島みゆきの意思の正確な反映となっていることことが重要だ。

他者という「故郷」との出会い

夜会工場VOL.2全体のメッセージ的内容についても、とりあえずの印象を記しておこう。

VOL.1では、初日のレビュー に書いたとおり、未来→過去(→転生)という時間的な流れが全編を貫いているように感じたが、あえてそれとの対比で言えば――

VOL.2を貫いているのは、故郷(くに)の喪失→新たな故郷 (としての他者) との出会い、という空間的な流れ、とでもいうべきものなのではないか。

そのように直感した大きな要因は、セットリストの中でもとりわけ重要なポイントとなる――いずれも中島みゆき自身が歌う――次のような曲の流れにある。

第1幕中盤、3人のアメノウズメ――中島みゆき、植野葉子、香坂千晶――が舞い歌う「EAST ASIA」は、VOL.1での「泣かないでアマテラス」とも対になって『金環蝕』大詰めの神話的世界を鮮やかに再現し、「EAST ASIA」という自らの「くに」への愛を高らかに謳う。

しかし第1幕ラスト、故郷への遡上の道を閉ざされた〈鮭〉たちが声を合わせる「我が祖国は風の彼方」(『24時着0時発』) では、「時の彼方」「波の彼方」「空の彼方」にある祖国への遥かな思いが、「いつの日にか帰り着かん」と哀切な憧れをこめて歌われる ――この7人全員による大合唱は全身が震えるほどに感動的であり、中島みゆきが6人の共演者を起用したことの必然性が最も強く感じられる場面でもあった。

そして第2幕終盤で、それまでの演目時系列順の構成から離れて演奏される3曲――「思い出させてあげる」「旅人よ我に帰れ (幸せになりなさい)」「あなたの言葉がわからない」――が、新たな故郷との出会いへの道をかたちづくる。

『シャングリラ』でメイが歌う「思い出させてあげる」は、女主人・美齢(メイリン)への復讐の思いをこめた歌だった。その演出自体は、夜会工場VOL.2でも基本的には変わっていない。しかし、そのネガティブな意味は、驚くべきことに、それに続く場面の流れの中で、「忘れていた」記憶を「思い出す」ことによる救済を意味するものへと反転していく。

宮下文一が歌う上述の「旅人よ我に帰れ」で、「旅人」の「帰り道」を照らす「真実の灯」に導かれるかのように、舞台背面の大扉が開き、美しい緑の竹林の中からアオザイ姿の上田茉莉 (中島みゆき) が歩み出る――彼女が歌う「幸せになりなさい」によって、双子の妹・莉花は偽りの自責の記憶から解き放たれ、『2/2』は約分されて『1』として再生し、遂に自らの人生を歩み始めることが示唆される。

これまでの夜会のいくつかの演目でもそうだったように、舞台背面の大扉――最近では『橋の下のアルカディア』のあの零戦の格納庫が記憶に新しい――は異界との通路であり、救済への道を開く扉となるのだ。

第2幕の実質的な終曲「あなたの言葉がわからない」もまた、アイデンティティの再生への祈りの歌である。自らが操った言葉という武器の罪に苦しむアナウンサー綾瀬まりあ (中島みゆき) と、タイ人娼婦 “26000円” (杉本和世) との偶然の出会い――逆説的にも、言葉の通じない彼女との手探りのコミュニケーション、言葉という国境を越えた他者との出会いこそが、まりあの心を再生へと導くことが予感される。

――この場面の背景全面、街の灯と満天の星空とが溶け合いながら輝きを増していくさまは息を呑むように美しく、まるでそここそが、彼女たちの新たな故郷であるかのようだ。

そして付け加えるまでもなく、全編を締めくくる夜会工場のテーマ曲「産声」――産まれた国の違いを超えて「習いもせず歌える同じ歌」を聴くことへの希い――こそは、そのような他者という新たな「故郷」との出会いへの希いでもある。

――上述のような、故郷の喪失→新たな故郷 (としての他者) との出会いというストーリーの原型は、「旅を続ける人々は/いつか故郷に出会う日を……」という「時代」のよく知られたフレーズに見出すことができるかもしれないし、また中島みゆきが最初期のコンサートのMCで語っていた、「故郷 (ふるさと) は、場所なのかもしれないけれど、故郷は、人だったような気もして……」という意味の言葉にも遡ることができるのではないかと、懐かしく思い出したりもする。

「夜会工場」というライブ形式について

VOL.2で導入された、舞台上部の電光掲示板による演目の表示や、案内役としての中島みゆき自身による各演目のストーリーの解説は、必ずしも夜会に詳しくないオーディエンスにも、夜会の魅力を伝えるうえで大いに役立っていたように思う。このあたりは、VOL.1と較べての進歩というべきだろうか。

ただ、その一方で、ラストの「産声」を歌う前に、ファンサービス(?)として「慕情」の冒頭だけ――それも意味深にも「時に情けはない」まで――を歌い、「おわり。ストレスの溜まるサービスタイムでした」とオーディエンスを笑わせる演出は、単なる余興というよりも、むしろ、夜会工場という新たなライブ形式への中島みゆきの強烈な自負を踏まえた、オーディエンスに対する一種の韜晦であるように思えた。

今回のMCでも中島みゆき自身が語っているように、夜会は、コンサートとは異なる新たな文脈、新たな物語を設定することで、自らの作品に新たな意味、新たな生命を吹き込む試みだった――「言葉の実験劇場」という初期の夜会の別称は、まさにそのことを意味していた。

だとすれば夜会工場は、夜会に対して同じことを再帰的に試みる形式、いわば「言葉の実験劇場の実験劇場」とでもいうべきものなのではないか。あるいは――上述のVOL.1のときのブログ記事でも書いたように――夜会という物語についての物語、「メタ物語」とそれを呼んでもよい。

関西地域のイベンター「夢番地」の最近の会報に掲載されたインタビューの中で彼女は、「「夜会工場」は工場を作って、その中に夜会の舞台を作るわけですから夜会よりも大きいホールにしないと」と語っている。このようなホールの物理的規模への配慮もまた、上述のメタレベルの視点の存在を裏づけるものだろう。

初期の夜会がファンに――それも、永年の熱心なファンにこそ――多くの戸惑いを生んだように、夜会工場もまた、そうした戸惑いの源泉になっている可能性はある。

しかし、上述のような新たな発想と挑戦とに満ちた実験の数々は、夜会という世界が、これまでに実現してきた以上に遥かに豊かなパラレルワールドとしての可能性を孕んでいることに、はっきりと気付かせてくれる。そのような新たな数々の世界に出会うことへの希望が、夜会工場という新たな形式によって初めて開かれたのだ。

上述のVOL.1のときのブログ記事で、私は

異界への旅、転生、そして救済の物語としての夜会――
その旅はまだ未完であり、さらなる転生の物語を、これからもまた夜会は紡ぎ織りなしてゆくだろうという期待と予感を、「夜会工場」という「メタ物語」は、私に与えてくれるような気がする。

と書いた。夜会工場VOL.2は、それらの期待と予感を、より確実に力強く私の中に膨らませてくれる。

【セットリスト】

第1幕

  • 二雙の舟(Inst.)
  • 泣きたい夜に
  • Maybe
  • LA-LA-LA
  • 熱病
  • 最悪
  • EAST ASIA
  • 船を出すのなら九月
  • 南三条
  • 子守歌(Inst.)
  • 羊の言葉
  • 愛から遠く離れて
  • 谷地眼(詩)
  • 傷(詩)
  • 朱色の花を抱きしめて
  • 陽紡ぎ唄
  • 帰れない者たちへ
  • フォーチュン・クッキー
  • 我が祖国は風の彼方

第2幕

  • 百九番目の除夜の鐘
  • 海に絵を描く
  • 彼と私と、もう1人
  • ばりほれとんぜ
  • 1人で生まれて来たのだから
  • すあまの約束
  • 袋のネズミ
  • 毎時200ミリ
  • 思い出させてあげる
  • 旅人よ我に帰れ(幸せになりなさい)
  • あなたの言葉がわからない
  • 産声

『やすらぎの郷』と「慕情」

6月29日午後、中島みゆきファン仲間でつながっているSNSのタイムラインが一挙にどよめいた。

主題歌「慕情」を提供しているドラマ『やすらぎの郷』 64話の冒頭――老人ホームの入居者たちがサロンで「やすらぎ体操」をしている場面の手前を、車椅子をゆっくりと押しながら斜めに横切ってゆく、青いエプロン姿のすらりとした女性――中島みゆき!

この予期せざるカメオ出演のサプライズには、私を含め多くのファンが驚喜し興奮した。車椅子に乗っていた、サングラスをかけた高齢の男性は、このドラマの脚本家・倉本聰である。

同じ局の情報番組「ワイド! スクランブル」では、同日さっそくこのサプライズを取り上げ、

ドラマのスタッフに確認したところ、あのご夫婦は「やすらぎの郷」に5年前ぐらいから入居されてる方です。…今後も通り過ぎることがあるかも?

との、さらに気を持たせるレポートがあった。

この場面の中島みゆきは、上記の通りのすらりとした若々しい姿勢に加え、録画をよく観直すと、足元は高いヒールの靴。およそ老人ホームの入居者には見えないのだが、そこはまあご愛嬌ということだろう。

『やすらぎの郷』の辛辣さ

倉本聰は――おそらく詩人・谷川俊太郎に次いで――中島みゆきが若い頃から私淑してきた「言葉の使い手」である。二人の接点の詳細についてはここでは省くが、今回の主題歌提供にあたってのコメント、とくに

倉本さんがね。ひと言ひと言を、命を削るようにして紡いでいらっしゃるんですから。そこへ徒や疎かな歌詞など書いてはならない……

という言葉からは、彼女のリスペクトぶりがよく窺える。

ところで倉本聰の脚本というと、長期にわたってシリーズ化された『北の国から』(1981年~)に代表されるように、シリアスな人間ドラマの印象が強かった。

この『やすらぎの郷』にも――後述するように――シリアスなエピソードは登場するのだが、その一方で、悪趣味一歩手前と言ってもいいぐらいの痛烈なギャグやパロディが、この2クールという長丁場のドラマの所々にアクセントをつけるのが、当初はやや意外でもあり、かつ大いに楽しませてくれる要素にもなっている。

今回の二人のカメオ出演の場面にしてからが、同時に流れる、脚本家・菊村栄 (石坂浩二、このドラマの主役兼語り手) のナレーションの内容が――

「透析ブルース」「いぼ痔の親父」「糖尿だヨおっ母さん」「痛風の風に吹かれて」「前立腺と新幹線が豊橋の駅で恋をした」……

――これらの身も蓋もないタイトルは、かつて一世を風靡したお笑い系バンド「ファンキー・ドッグ」のただ一人の存命者で、朝の館内放送を担当している入居者のひとり中井竜介 (中村龍史、「やすらぎ体操」の作詞・作曲者でもある) が次々と世に送った、病気・自虐ネタの曲名なのである。

「やすらぎ体操」が、NHKのテレビ体操のパロディであることなどは、もはや言わずもがなの蛇足というべきだろうか…… (「やすらぎ体操第1」というからには、「第2」もあるのか、と期待させられもするが)

ここまでの前半のストーリーでも、かつての大スターたち、とりわけ絢爛たる老女優たちが繰り広げるドタバタが――時に、彼女たちの女優としての現実の人生とも二重写しになって――笑わされながらも、時に物哀しさを漂わせた。

ついでに言えば、このようなコミカルとシリアスとの落差の激しさも、主題歌を歌っている中島みゆきのキャラクターとよく符合しているという印象を受けないでもない。

 

さて、このドラマを語るときに何より重要なのは、その設定そのものが、テレビというメディアに対する辛辣な批判になっているということだ。

――かつてテレビ・芸能界に大きな貢献をなした人びとだけが入居できる、世間から隔絶されたユートピアともいうべき無料の超高級老人ホーム――ただし、テレビ局の元社員はその対象から外されている。

テレビ・映画関係の情報サイトのこの記事の、「テレビドラマによるテレビ界や芸能界に対する痛烈な批評」「並行世界ドラマ、メタ・ドラマ」という表現は、そうした意味できわめて的確だ。

中島みゆきがこれまでずっと、テレビというメディアに対して非常に慎重な距離を取り続けてきたことは、彼女の熱心なファンなら先刻ご承知のことだろう。

彼女の最初のエッセイ『伝われ、愛』(1984年) に綴られている、局の担当者ともめたテレビ収録の終了後、たまたま局スタッフたちが彼女を罵る言葉を立ち聞きしたというエピソード――

スタジオは、コンクリートの壁も床も、なんて冷たいんだろう、と、そのとき思った。

――こうした経験が、その慎重な距離の背景にあることも間違いないだろう。

上記のインタビューにもあるように、夜会公演中の多忙な時期でありながら、中島みゆきがこの主題歌の仕事を喜んで引き受けたのも、長年の倉本聰への私淑に加えて、テレビというメディアに対する辛辣なまなざしへの共感ゆえでもあったのではないか――と想像してみるのも、あながち突飛ではあるまい。

「過去の救済」、重層する問い

ところで、主題歌「慕情」のリリースが最近ようやく発表された。発売日は、ドラマもそろそろ終盤に差し掛かるはずの8月23日である。

番組のオープニングでは、当初はずっと1番だけが流れ、まだ聴けぬこの曲の全貌に対して大いに気を持たせてくれた。が、41話(5月29日)のエンディングで、ようやく待望の2番が流れた。

菊村の釣り仲間、「大納言」こと岩倉正臣 (山本圭) が涙ぐみながら語る痛切な台詞――亡き妻にもう一度逢えるなら、若く美しかった頃ではなく、死ぬ間際の彼女にもう一度逢いたい――やはり妻に先立たれてここに入居した菊村は、この言葉に深く共感する。

初めて聴く「慕情」2番の歌詞は、この場面に重層することで、より哀切にその意味を伝えてくる。中島みゆきがとくに近年、夜会を中心に追求してきた「過去の救済」というテーマが、ここではより切実に、一人ひとりの人間にとっての等身大の感覚で歌いこまれているという感が強まってくる。

2番の歌いだし――

海から生まれてきた それは知ってるのに

――から、私が反射的に連想したのは、初期の名曲「小石のように」の最後のフレーズ――

砂は海に海は大空に そしていつかあの山へ

――「海」はすべての生命が流れ着く先であると同時に、すべての生命の源でもある、という輪廻のモチーフだ。

しかし「慕情」では、

どこへ流れ着くのかを 知らなくておびえた

と、人生の行く末へのおびえ、迷いが歌われる。

それはおそらくは、私たち有限の生命をもつ人間のほとんどが、愛する人や自らの生命の終焉に近づく時に直面せざるをえない、おびえ、迷いなのだろう。

そして、そのおびえ、迷いを越えた向こう側にしか、おそらく私たちがたどり着ける場所としての「海」はない――そこへたどり着くことへの祈りのごときものが、「慕情」の歌詞とくに2番からは聴こえてくる。

 

その翌々日の43話(5月31日)には、インストルメンタルで「慕情」の旋律がほぼフルで流れた。

5月の連休、「やすらぎの郷」は時ならぬ来訪者――入居者の子や孫たち――で賑わう。待ちわびた再会の時を楽しむ入居者たち――しかし中には、誰も訪れる者のない孤独な老人、あるいは、束の間の再会を経た別れのあと、号泣する老女の姿も――

この情景にかぶさる菊村のナレーション、

果たしてテレビは、かれらの夢かけた一生に報いることがあったのか
テレビは、かれらのために何かをしたのか

という言葉は、静かな憤りに満ちていて、容赦なく辛辣だ。

そしてこの場面で初めて、「慕情」の3番――中島みゆきお得意の鮮やかな転調による、いわゆる大サビの旋律――が流れる。

明日の行方は……たやすく翻るものだから

この歌詞は、さらにその翌週、48話(6月7日)のオープニングで、ようやく中島みゆき自身の歌によって明らかにされるのだが、43話の上記の場面ですでに、テレビという巨大メディアに翻弄されてきた一人ひとりの人生、そしてその救済への祈りが歌われていたことに、改めて気づかされる。

 

そして現在進行中のエピソードで、「過去の救済」というテーマは、より大きな文脈の中に位置づけなおされる。

入居者のひとり、大女優「姫」こと九条摂子 (八千草薫) が、戦時中の慰問活動の一環として、出撃間際の特攻隊員たちと「最後の晩餐」を共にしたというエピソード――しかし彼女はこの経験に深く傷つき、のちに戦死した特攻隊員の母から送られた手紙のこともあって、決して振り返りたくない記憶となっている。

この「最後の晩餐」をセッティングした当時の海軍軍令部の参謀、加納英吉が、戦後、大手芸能プロの会長となり、引退後「やすらぎの郷」の設立者となったという設定からみても、このエピソードがこのドラマの根幹をなす重要なものであることは明らかだ。

このエピソードを小説化しようとした、やはり入居者のひとりである覆面作家「濃野佐志美」こと井深涼子――この役を最近亡くなった野際陽子が演じていたのも、不思議な「縁」のような気がしないでもない――が、菊村の説得によって作品化を諦めたのち、破棄されずに残っていたゲラ刷りを素材として、国営テレビが終戦記念日用のドラマを企画する。

その企画の取材のため、主演を予定されている若手人気俳優・四宮道弘(向井理)が、プロデューサーとともに「やすらぎの郷」を訪れ、理事長夫妻と菊村の同席のもとで「姫」に会う――

――この先、ストーリーがどのように展開していくかは予断を許さない。ただ、このエピソードの真の当事者たち、すなわち、若き命を絶たれた特攻隊員たち、そしてかれらを座して見送らざるをえなかった「姫」の過去は、いかにして救済されるのか――

この問いは、図らずも、中島みゆきの近作、夜会『橋の下のアルカディア』の、あの悲痛かつ希望に満ちたラストシーンをも思い起こさせる。

「過去の救済」というテーマは、一人ひとりの生から、戦後日本を席捲したテレビという巨大メディア、そしてそのさらに背後に存在した「国」への問いにまで、重層しながら拡がってゆく。

――その問いがどのような方向にその答えを見出そうとするのか、その行く先を楽しみにしながら、ドラマの後半を見守ってゆきたい。

出会いの記憶――「中島みゆきのオールナイトニッポン」のこと

Annこの記念すべき日には、この腰の重いブログも、やはり久々に更新しなければならないだろう。

私が中島みゆきファンになった最初のきっかけのことを書きたい――それは、私と同年代の多くのファンのご多聞に漏れず、かの伝説の名番組「中島みゆきのオールナイトニッポン」との出会いのことである。

大学2年の1979年秋頃――ということはこの番組がスタートして半年ぐらいの頃、ということになるが――手持ち無沙汰な深夜に、ラジオのチューニングをあれこれといじっていると、たまたま聞こえてきたハイテンションのけたたましい女性DJの声に、まず度肝を抜かれた。

やや茫然としながら、しばらくのあいだ聞くともなしに聞いていると、DJは「中島ぺったん」と自称――まさかと思って新聞のラジオ番組欄を見ると「中島みゆき」の文字が。

それまでは中島みゆきといえば「時代」ぐらいしか知らず、あまり若い女性らしくなく、真面目でしかつめらしい曲を歌う歌手というぐらいの漠然としたイメージしか持っていなかったので――その認識の浅さについては、まったく私の不明を恥じるしかないのだが――再び驚かされた。

番組の最後に読むシリアスな葉書と、その後にかかる彼女自身の曲とで、この番組のDJが中島みゆき本人であることは頭では理解できたが、それからもしばらくは、DJとしての彼女と歌手としての彼女とのあいだに存在する巨大なギャップに戸惑いつつも、どちらかといえば前者のコミカルな側面にしだいに惹かれて、私はこの番組を毎週、月曜深夜に聴くようになっていった。

 

歌手としての中島みゆきのシリアスな側面、その重みにも気づくようになったのは、翌1980年2月にシングル「かなしみ笑い」がリリースされた頃からである。

番組内で時々かかるこの曲の――タイトルの意味するとおり――自らの悲しみを徹底的に客観視しようとするアイロニカルなまなざしの鋭利さにも惹かれたし、またB面 (当時) 「霧に走る」の、限りなく繊細な心の震えと、その背景として広がる「深い霧」の抒情も印象的だった。

総じて、それまでの歌謡曲やフォークソング――その頃の私の年代では、まだこう呼ぶのが一番しっくりきた――と、表面上は連続していながら、しかし深層ではまったく異質な、本当に驚嘆すべき何かが、このひとには存在するのではないか――そんな漠然とした予感が、その頃の私の中で育ちつつあったような気がする。

そしてその予感は、その年の春にリリースされたアルバム『生きていてもいいですが』によって、予想を遥かに上回る巨大な衝撃として、実現されることになる。

ただ、私がこのアルバムを購入したのは、リリースの4月5日の1箇月少しあと、5月15日のことだった。その前後に、やはり「オールナイトニッポン」の番組中で、決定的に重要な2つのエピソードに、私は遭遇している――『生きていてもいいですか』については別の機会に譲り、ここではその2つのエピソードについて書きたい。

 

1つめのエピソードは1980年5月5日、この年の春のコンサートツアー中止のアナウンスを、中島みゆき自身が番組の最後におこなったときのことである。

いったん発表したツアーのスケジュールをキャンセルするのは、彼女にとって、非常な苦渋の決断であることは明らかだった。この夜の放送では、冒頭からいつものハイテンションが影を潜め、コミカルな葉書を読むときにさえも、声がとても沈んでいたのをよく覚えている。

そして、ツアー中止を知ったファンやリスナーからの葉書の数々――たとえば、「プロなんだろう?」と中止を非難する葉書、あるいは「失恋ぐらいで何だ!」といったキャンセル理由を憶測する葉書――をあえて読み、それらの辛辣な言葉に対して一切の言い訳も反論もせず、ただ――プロだからこそ、納得できないコンサートはやれない、納得のゆかない仕事でお金をもらうわけにはいかない――と、どこまでも真摯に答える彼女の言葉に、当時まだお気楽な学生だった私は、粛然とした。

 

2つめは、1980年5月19日の放送。最後の葉書のコーナーで、恋人を病気で失ったという少女の葉書が読まれ、「世情」がかかった時のことだ。

その彼とコンサート (1979年のツアー) に行き、ラスト曲「世情」を一緒に泣きながら聴いたという思い出が、葉書には綴られていた。

――私は、「世情」をその時初めて聴いたわけではなかったのだが、おそらくその時初めて、この曲の真の意味が胸の底に届いたという気がした。聴きながら、自分の世界が根底から変わっていくような感覚を味わったことを、今でもはっきりと思い出す。

その「世情」の意味は、とても単純なことのようで、簡潔に言葉にするのが難しい――

「世情」には最初は、学生運動の時代を歌った歌なんだろうな、という漠然とした認識と、私自身はその世代からは隔たったところにいる、という醒めた距離感しか感じられなかった――ここでもまた、私は自らの不明を恥じるしかないのだが。

が、その夜、今はこの世にいない恋人と二人で泣きながらコンサートで「世情」を聴いたという少女の言葉から、私はそうした自分の認識の浅薄さを徹底的に暴かれたような気がした。

そのとき気づかされた「世情」の意味とは――

「シュプレヒコールの波」に象徴される「社会」や「政治」の問題とは、結局は私たち一人ひとりの孤独な「心」の問題でしかありえないということ、私たち一人ひとりが、ほんとうに真摯に自らへの問いとして考えることによってしか、近づくことのできない問いなのだということ――とでも言えばいいのだろうか。

あるいは逆に、私たち一人ひとりの孤独な「心」の問題こそが、真の「社会」や「政治」の問題なのだ、と言っても同じことだ。

例の有名な『3年B組金八先生』の挿入歌としてのテレビ放送よりも、約1年前のことだが、私にとって、中島みゆきファンへの最後の決定的な一歩を踏み出させたのは、この夜の「世情」だったと言って間違いない。

昨年9月の記事で、「ミルク」のマスター前田さんの言葉に託して書いたこと――中島みゆきが私たちに投げかけつづける、容赦のない徹底的な問いかけ――は、そのようにして私たち一人ひとりの孤独な「心」と、「社会」や「政治」さらに「世界」とを、はるかにつなぎながら往還する、めくるめくような世界観によって基礎づけられているのだと思う。

 

――「オールナイトニッポン」の話に戻ろう。

おそらくこの時期、1980年の春頃に集中的に、上記のようなエピソードを通じて、中島みゆきの――あのコミカルなDJとバランスを取りながらでなくてはむしろ支えきれないような――限りなくシリアスな「重さ」を、私は本当に知ったのだと思う。

とりわけ、「最後の葉書」のコーナーで、口調や声のニュアンスからもはっきりと伝わってくる、私たち、顔の見えないリスナー一人ひとりに、徹底的に真摯に、誠実に関わってこようとする彼女の姿勢――その迫力に圧倒され、自らの世界観の根底的な変容を迫られ、そして自らの生への限りない励ましを受け取ったこと――それだけは、今も忘れようのない記憶として残っている。

あれから37年――

お気楽だった当時の学生は、今や中年も後期に差し掛かり、公私のあれやこれや――その中には、自らの子どもの受験などという頭の痛い懸案も含まれていたりする――に日々思い悩む、一職業人・家庭人となっている。

しかし、中島みゆきはこの37年間変わることなく、私に、究極的にはただひとつのこと――この私は、この世界の中で何処にいるのか、そして何処へゆくべきなのかということ――を歌い、語り、そして問いつづけてきた。

そのことへの限りない感謝をこめつつ――上記のような出会いの記憶を、今日この日に改めて噛みしめている。

夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』中間報告――初演VOL.18との差異を中心に

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夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』の初日11月17日(木)、および11月22日(火)の2公演を観た。

初演を前提としたうえで再演を観ることの醍醐味は、初演とのさまざまな差異――それが大きなものであれ、微細なものであれ――を通じて、その演目に中島みゆきがこめたであろうメッセージの多層性、あるいは世界観の深みや広がりを、より大きな振幅の中で体感できるということに尽きるだろう。

この演目の初演VOL.18については、すでに (劇場版の感想も含めて) このブログに5本の記事を書いてきた。しかし、かなりの字数を費やしてもまだ、この作品の世界の隅々までを知りえたという実感はない。むしろ、思い出し考えるほどに、言葉にしえない謎が自分の中で深まってゆくような感覚があった、というのが正直なところだ。

が、今回の再演は、それらの謎のすべてとは言わないまでも、少なくともいくつかをより明瞭な光の中に照らしだし、そしてそのことによって、この『橋の下のアルカディア』という演目がはらむ魅力と衝撃力を、初演とはまた異なる新たな視角から発見させてくれたように感じる。

この記事では、千秋楽を1週間後に控えた現時点での「中間報告」として、初演との差異――それもとくに重要と思われる部分――を思いつくままにピックアップしながら、現時点での印象や考えをまとめておきたい。

なお、今回もまたビジュアル面では、ぴしわさんの『覚え描き』ブログに掲載されている見事なイラスト群が、私の視覚的記憶の不完全さを補ううえで大いに助けになった。ぜひあわせてご参照いただきたい。

「模型の高橋」および九曜とその父・祖父について

第1幕が始まってすぐに注意を惹かれるのは、舞台下手にある模型店――高橋九曜 (石田 匠) の実家――の外見である。初演では水色のシャッターに左横書きで「模型のタカハシ」と店名が記されていたが、今回は右横書き・漢字で「模型の高橋」と大書された看板が店の上部に掲げられている。さらに看板の「模型の」と「高橋」との間に大きな零戦のレリーフ(?)があり、プロペラ部分は看板からさらに上部に大きくはみだしている。

店名が左横書きから右横書きに変更されたことは何を意味するのだろうか。この地下壕が防空壕として建設された戦前ないし戦中からすでに、この模型店はここに店を開いており、店主の息子だった一曜は、その頃にパイロットを目指して予科練に志願した――といった時系列が想定されるのだろうか。

だが、こうした時代考証めいたディティールにこだわることには、おそらくあまり意味はないだろう。それよりも本質的なのは、この模型店が、3世代を通じて戦争の記憶が継承されてきた場所であり、そのことが看板の右横書きによってより強調されている、ということなのだと思う。

ついで、第2幕の「水晶球」の場面では、九曜が歌いながら、模型店内の父と祖父の遺影の傍らから、かなり大きな零戦の模型を取り出す。この模型は――ラストシーンで登場する零戦と同じく――翼端灯 (右が緑、左が赤) が輝いている。

看板に掲げられたレリーフとこの模型はともに、明らかにラストシーンへの伏線であり、零戦が祖父・一曜から父・忠を経て九曜の世代に受け継がれた戦争の記憶――そして「人を幸せにする翼」という叶えられなかった願い――を象徴していることを示唆しているのだろう。

少し場面は戻るが、第1幕の「一族」は、九曜が二人の遺影を胸に抱きながら歌う。この場面では彼はガードマンの制服のままであり、次の第2場で「公羊」としての前生が明かされることへの伏線になっているのは初演の時と同様だ。が、それと同時にこの歌には、かつて「脱走兵」として謗られた――彼と同じ「曜」の字を名に持つ――祖父と、彼を匿った父の記憶を、「知られたくない」と願いつつも大切に守ってゆこうとする九曜の屈折した思いもまた表現されているのではないか――再演で付加されたこの演出は、「一族」のそのような両義性を示唆しているようにも思える。

天音の衣装、振り付け等について

ビジュアル面での変化としておそらく最も強い印象を与えるのが、豊洲天音 (中村 中) の姿と立ち居振る舞いだろう。

第1幕の「恋なんていつでもできる」では、彼女は二の腕や胸元も露な銀色のタイトなドレスで、九曜を誘惑する妖艶なダンスを披露する (ここがラッキィ池田氏による振り付けだろう)。

後の第2幕で、チンピラに襲われて怪我をした九曜を天音が介抱する場面についても、中島みゆきから「もっと濃厚にガードマンに迫るように」という指示があったとのことだ (パンフレットにある前田祥丈氏の「稽古ルポ・解説」より) 。

天音が九曜に寄せる想いは、おそらく九曜の亡き父・忠 (「呑んだくれのラヴレター」の送り主) への想いを引き継いだものであり、また前生のすあまが飼い主・公羊を慕う気持ちの再生でもあるように見えるが、それと同時に――あるいはそれ以上に――今生において天音が「生きること」へのポジティブなエネルギーの発露という印象を強く受ける。何と言ってもセクシュアルな事柄への情熱は、人あるいは生き物が生きてゆくエネルギーの重要な源泉なのだから…

また、第1幕の「大きな忘れ物」で、銀行強盗が抱えていた現金を人見と天音が横領(?)しようとするドタバタの直後に、九曜が現金の入っていたカバンの蓋を閉める音が大きく反響し、天音が激しくおびえる場面も――コミカル/シリアスのコントラストの強さという点を含めて――非常に印象的だ。

この大きな音の反響は、第2場ですあまが猫籠に入れられる場面で猫籠の蓋が閉じる音として再現され、天音のおびえが前生の記憶に由来することが明らかになる。

3人の関係性について

第1幕での「人見ちゃん、仕事中は名前で呼ばないでください。高橋です」という九曜の台詞に対応して、第2幕では「まだ仕事中ですので、橋元さんと呼んでくださいね」と橋元人見 (中島みゆき) が答える台詞が追加されている。初演では「人見ちゃん」という呼びかけはなく、これらの台詞は――前生で夫婦であった――九曜と人見のあいだもまた気の置けない関係であることを示唆している。

「仕事中」という言葉は、天明の場面で公羊が歌う「男の仕事」の伏線になっているのだろうか――いずれによせ、前生での名前「公羊」「人身」と同音の名前で呼ばれることをお互いが無意識のうちに忌避していることが、初演よりもさらに強調・明示されているのは明らかだ。

また、天明の場面では、最後にすあまを猫籠に入れる人物が、人身から公羊に変更されている。これは「捨て子選び」「男の仕事」の歌詞との整合性という意味もありそうだし、今生のシャッター街でと同様に、前生の天明の時代でもまた、3人相互の関係性がより緊密に描かれているという印象を与える。

水晶球と猫の眼の光

第1幕の「川の音が聞こえる」では、人見が手に持った水晶球と水晶宮の店内に置かれた水晶球とが、同期するかのように青白く光る。また第2幕の「一族」でも、人見が後ろ手に持った水晶球が青白く光り、九曜がそれに脅えながらも惹きつけられるかのように彼女の後に従う場面が、きわめて印象的だ。

これらの青白い光は、あたかも3人の前生の記憶が再生され始める前兆であるかのようで、前作『今晩屋』での消火栓の赤ランプの点滅とも似た役割を果たしているような気がした。

また天明の場面、猫籠に入れられる直前で、すあまの両眼も同様に青白く光る。この演出は、第1幕の幕切れで彼女が歌う「人間になりたい」の「夜を映す青い目も…」という歌詞に対応しているが、さらに上述の水晶球の青白い光と呼応し、来生すなわち「次生まれるとき」へと悲しみの記憶を伝えようとする意志の表現でもあるかのようだった。

風鈴の音

第2幕では冒頭に風鈴が3回鳴り、「夏」という季節を印象づける。日本の「夏」は戦争の記憶と鎮魂の季節であり、風鈴の音は (仏壇のおりんの音にも似て) まず、そのことを暗示しているのだろう。

さらに第2幕の中盤では、「模型の高橋」の軒下に人見が5個の風船を吊るす。これらの風鈴の音は、この世にいない者たち、すなわち、それまでは遺影としてのみ登場していた忠と一曜――あるいは、もし5個という数字に意味があるとすれば、人身・公羊・すあまを加えた5つの魂――の思いを、この世に呼び戻すための「信号」の役割を果たしているかのように思えた (その点では、『今晩屋』での鐘の音の役割とも通じるものがあるのかもしれない)。

メロディーとアレンジの変更

第1幕の「恋なんていつもできる」は、初演でのアップテンポから、上述の天音の妖艶なダンスに合わせて、サックスのイントロで始まるミディアムテンポのアレンジに変更されている。

第2幕中盤の転換点となる「二隻の舟」のイントロでは、チェロが奏でる「水晶球」のメロディが挿入され、水晶球が時の流れを超えて過去を映し出すことを暗示しているようだった。

続く「水晶球」をはさんだ「一族」では、上述の水晶球の色の変化とも呼応しながら、前生の記憶の再生が始まることを予示するかのように、第1幕とは異なる低い音程のメロディ――おそらく主旋律に対する対旋律――を人見が歌う。

第2幕終盤近く、やはり人見が歌う「いらない町」は、第1幕とは異なる短調のメロディに変更され、地下街を襲う絶体絶命の危機が強調される (同じ曲が長調・短調の両方で歌われるのは『今晩屋』の「旅仕度なされませ」でも同様で、やはり悲劇的な運命への転換を印象づけていたことが思い出される)。

「呑んだくれのラヴレター」「国捨て」の歌詞追加、およびラストシーンについて

台詞に関しては、上記以外にも、かなり多くの箇所で追加や改変がおこなわれているが、歌詞の追加部分は、この終盤の2曲で繰り返して歌われる――パンフレットにも記載されている――4行のみである。この4行は、「緑の手紙」というこの物語の鍵となる謎めいたモチーフの意味を明確化するという、きわめて重要な役割を果たしている。

まず冒頭の

その手紙に鍵は無く その手紙に主は無く

というフレーズは難解だが、「鍵は無く」とは、その手紙はすべての受取人に対して開かれており、その意味は誰にでも自由に読み取れるはずだということを、また「主は無く」とは、その手紙の送り主は個人としての一曜なのではなく、「幸せにする翼」という願いを戦争によって奪われた――パイロットや技術者たちをはじめとする――すべての人びとなのだということを、それぞれ意味しているようにも思える。

それに続く

あるはずの銃も無く あるはずの武器もない
見るがいい その場所には 輝く何かが見える

という2行は、ラストシーンに登場する零戦の両主翼の20mm機銃のあるはずの場所に、眩い前照灯が点ることへの明らかな伏線だろう。この大道具の効果自体は初演と同様だが、「人を殺す道具ではなく……」という一曜の願いをさらに強調するための追加歌詞となっている。

そして、

暗い水の底から 空へ

という追加部分の最後のフレーズは、かつてこの地で人柱となった人身たちの魂が救済され、天空へ羽ばたくというラストシーンの意味を、より鮮明に表現する。

水底あるいは地上から天空へという垂直軸の上昇が、過去(前生)から未来(来生)への飛翔、すなわち過去の救済と重ね合わされるというビジョンは、『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』『今晩屋』という夜会の近作で繰り返されてきたパターンの反復でもあり、その意味でも『橋の下のアルカディア』がもつ集大成的な位置づけ――決してこれで「完結」ということはないにせよ――を再認識させられる思いだった。

第2幕終盤近く、「猫にだけ見えるもの」の前後で、地下街の店が消えてゆくのに代わって、両袖に巨大な石の壁――クローズアップされた橋脚だろうか――が出現する。「India Goose」とともに零戦が飛び立つラストシーンでは、この巨大な石の壁あるいは橋脚が崩壊し、その崩壊後の巨大な瓦礫が、カーテンコールと舞台挨拶のあいだずっと、そのまま中空に残っている。

全体的印象

『橋の下のアルカディア』の物語の全体的な構造は、初演と大きく異なることはなく、ただ、「捨てられた」者たちの救済という基本的なメッセージが、上述のようなさまざまな変更点を通じて、より明瞭に力強く伝わってきた――というのが第一印象だ。

ただ、どちらかといえば初演では、そのメッセージが最終的には、一種の静謐な祈りのようなものとして胸の中に残ったのに対して、今回の再演では、もっとダイナミックな、今のこの現実を懸命に生きようとする衝動あるいは情熱のようなものとして、余韻を響かせているような気がする。

そうした印象の変化は、直接的にはおそらく、上述のように天音のセクシーな演技がより強調されていることや、ラストシーンでの橋脚の崩壊という視覚的効果のインパクトによるものかと思う。

静と動、祈りと情熱――それらの両面はいずれも、この『橋の下のアルカディア』という作品世界がもつ深さ、豊かさの反映であろう。

――以上、いささか箇条書き的な羅列が多くなってしまったが、千秋楽を迎えるまでは、まだ夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』という「作品」は完結していない。千秋楽を観た後に、この記事では書ききれなかったことを――上述のような細部のみならず、この作品全体に含まれた多層的な意味についても――改めて考えてみたい。

ボブ・ディランと中島みゆき

 

「いつか、みゆきさんにも!」

2016年10月、ボブ・ディランへのノーベル文学賞授与のニュースが世界を駆け巡ったとき、私も含めて多くの中島みゆきファンが――いくらかは冗談交じりに、いくらかは真剣に――SNSでこのようにつぶやいた。それは、ファンどうしの、ごく素朴な意味での「連帯感」のようなものを感じさせるできごとでもあった。

そうした素朴な願望の当否について、ここで語ることはやめておこう。その代わりに、これを機に、ディランと中島みゆきとの関係について――いささか断片的にではあるが――いくつか思い出すことを綴っておきたい。

 

「賞」を与えること/受けること

授賞側のスウェーデン・アカデミーがなかなかディラン本人と連絡が取れず、選考委員長が「無礼で傲慢だ。でもそれが彼ってものだ」と苦言を呈したり (『朝日新聞』電子版 2016/10/22) 、その後、ようやくディランがアカデミーに受賞の意志を伝え、自らの沈黙について「ノーベル賞のニュースに言葉を失っていた」と語ったといったニュースが話題を呼んだ (同 10/29)

こうした紆余曲折は、かつて1960年代、カウンター・カルチャーの旗手として称揚された彼に、約半世紀を経て世界で最も権威ある賞が与えられるという事実がはらむ、一種の逆説を象徴しているようにも思えた。

 

――と同時に、中島みゆきファンのひとりとして連想するのは、次のようなエピソードだ。

彼女がデビュー直前の時期、ポピュラーソング・コンテストの主催者ヤマハに対して、音楽に賞を与えることの意義を問う手紙を書き、それに対して「賞が欲しいのなら出ないで下さい」という返事を受け取ったという。彼女はその言葉に納得し、出場を決意する (こすぎじゅんいち『魔女伝説』、1982、90-91頁)

このエピソードの事実関係については、上記『魔女伝説』にも異説が併記されており、また他の資料も少なく、詳細ははっきりしない。が、おそらく本質的なポイントは、「賞を与える/与えられる」という関係が、「与える」権威をもつ側と、「与えられる」側がその権威に依存することとの、いわば共依存の関係に陥ることへの明確な拒否――ということだろう。

「賞が欲しいのなら出ないで下さい」という返事を書いたのが、当時のヤマハのトップ川上源一氏本人だったのかどうかについても、明確な資料は存在しない。が、中島みゆき自身も何度か語っているように、彼女の才能を見出した川上氏と彼が率いるヤマハが、プロデビュー以降の彼女に、自由に創意を発揮しうる活動の場を提供してきたことは間違いない。その自由は、上述のような共依存からの自由を出発点としたものでもあったのだろう。

 

「多くのことがそこから始まった」世代

先月の記事「コーヒーハウス「ミルク」訪問記 」で、マスターの前田重和さんの言葉を通して少し触れた中島みゆきの学生時代について、珍しく彼女自身がシリアスに語っている小篇がある。「初めての書下ろし小説(ストーリイ)」と題して1986年に出版された『女歌』の中の一篇「もう一人のmiss M.」である。

8年ぶりに再会した札幌の旧友、中島みゆきの学生時代の音楽仲間のひとりで、当時は「とあるバンドのリーダーの女」との噂もあったという「M」との会話――

「……あたしは。男の影響でビートルズを歌ってたけど。あんたはボブ・ディラン歌ってたわよね」
「我ながら、あんなすさまじいジャパニーズイングリッシュでよく人前で歌えたもんだと思うわ。思い出すと赤面ものね」

いつも日本語のオリジナルしか歌わなかったという「M」が、唯一、ビートルズの Fool on the Hill を英語で歌っていたのと同じように、アマチュア時代の中島みゆきは、やはり多くのオリジナルに加えて、ボブ・ディランを英語で歌っていたようだ。

「中島みゆき研究所」のデータによれば、デビュー約1年前の1974年10月15日、北海道音更町でのコンサートの1曲目に「風に吹かれて」(Blowin’ in the Wind) を彼女は歌っている。

おそらくアマチュア時代としても例外的な、このカバーからもうかがわれるように、中島みゆきにとって――吉田拓郎をはじめ、その前後の世代の多くのフォーク・ロック系ミュージシャンたちと同様に――ディランがきわめて大きな存在だったことは間違いないだろう。

もし、あの時にボブ・ディランがいなかったら、と考える。
ボブ・ディランがいたから今日があるような気もする。
多くのことがそこから始まったと僕は思うのだ

吉田拓郎のこの談話 (『日本経済新聞』2016/10/14 など) は、おそらく中島みゆきも含めて、その世代の人々の共通の感慨でもあったのではないだろうか。

 

やはりディランから大きな影響を受けた「関西フォーク」の担い手のひとり大塚まさじは、「親戚が受賞したような喜び」と、より率直に自らの思いを語っている (『朝日新聞』大阪版 2016/10/14 朝刊)

その大塚まさじが率いたユニット、その名も「ザ・ディランII」の「男らしいってわかるかい」 (1972年のアルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』収録) は、ディランの I Shall Be Released の日本語カバーである。

この曲を中島みゆきが1980年頃、ラジオDJ番組 (おそらくMBSミュージックマガジン) で紹介し、それに強い印象を受けたことが、そもそも私が彼女とディランとの接点らしきものを知った最初のきっかけでもあった (その後も中島みゆきは、いくつかのラジオDJ番組で何度かこの曲をかけている)。

 

オマージュあるいは「本歌取り」

中島みゆきにおけるディランとの接点といえば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのが、1983年のアルバム『予感』に収録された「ばいばいどくおぶざべい」のことだろう。

オーティス・レディングが飛行機事故により26歳の若さで世を去る、そのわずか3日前に録音したという Dock of the Bay と並んで、ディランの Like a Rolling Stone が、同じくひらがな表記で、この曲の歌詞に登場する。

誰もおいらを覚えていないだろうな らいかろうりんすとうん

波止場に座り込み、船を眺めながら空しく時を過ごす男、帰る家を失くし「転がる石」のように落ちぶれた、かつての上流階級の女――それらの行き場のない思いは、自らの分身ともいうべきギターの弦を押さえる左手の力を奪われたロックシンガーの悲痛と共鳴しながら――いわば暗黙の曲中曲として――歌われる。

 

同じく『予感』の収録曲「誰のせいでもない雨が」には、ディランの A Hard Rain’s A-Gonna Fall「はげしい雨が降る」に触発されたと思われる一節がある。

1962年のキューバ危機を背景に、核戦争への怖れを歌ったともいわれるこの曲では、

Oh, what did you see, my blue-eyed son?
「何を見たんだい、青い目の息子よ」

という父親の問いかけに対して、

I saw a black branch with blood that kept drippin’
「黒い枝から血がしたたりつづけるのを見たよ」

と子どもが答える。

黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく

という「誰のせいでもない雨が」の一節は、明らかに上記のディランのフレーズの「本歌取り」の如きものである。

ただしこの曲では、したたり落ちる「雨」は、現在の危機への怖れというよりも、かつて「怒りもて石を握」り「罪を穿った」闘いの時代の記憶を容赦なく過去へと遠ざけてゆく時間の流れの暗喩とみるべきだろう。そのような幻滅感に満ちた時間感覚は、上述の「もう一人のmiss M.」で語られているものとも同質である。

 

もう1曲、より初期にさかのぼるが、1977年のサード・アルバム『あ・り・が・と・う』に収録されている 「勝手にしやがれ」にも、ディランの Don’t Think Twice, It’s All Right「くよくよするなよ」と呼応しあう一節がある。

And it ain’t no use in turing on your light, babe
I’m on the dark side of the road
「そう、明かりをつけるなんて無駄なことさ
俺は道の暗がりを歩いてゆくのだから」

部屋を出てゆくなら 明かり消していってよ
後ろ姿を見たくない

「明かり」とは、いま袂を分かとうとする二人が、それまで共有してきた記憶の比喩なのか――そんなふうに考えてくると、「勝手にしやがれ」は、「くよくよするなよ」で男性の視点から歌われた別れの情景を、女性の視点から歌い直した一種のオマージュとも呼べるような気がするのだ。

 

――もとより、私が知っているディランは、膨大な彼の作品世界のごくごく一部に過ぎない。したがって、中島みゆきにおける彼の作品からの反響――あるいは、彼女からのディランへのオマージュと言っても同じことだが――は、実は私が知らないだけで、まだまだ多く隠れているのかもしれない。

 

熱狂からの距離

日本とは大きく異なり、ミュージシャンにも政治的な旗幟を鮮明にすることが常に求められるアメリカ社会にあっては、今回のディランの受賞もまた、メディアの言説によって、今まさしく終盤を迎えつつある大統領選の政治的対立に巻き込まれつつあるようだ。

しかしそうした渦中にありながら、受賞発表後のライブでもディラン自身はそれについて一切コメントすることなく――MCさえもなく――「声と曲が強調される「歌が全て」という演出」で一貫していたという (「ボブ・ディラン氏、ノーベル賞の熱狂と距離」、日経電子版 2016/10/14)

上述のように、かつてカウンター・カルチャーの旗手として称揚されたこととは裏腹に、むしろ彼自身には、「基本的には特定の思想信条や政党に深入りすることにはずっと懐疑的な立場を取り続けてきた一面」があり、それゆえに音楽的にも、「政治色の強いフォークを離れ、ロック、ブルース、ゴスペルなどが入り交じる音楽に、旧約聖書の詩篇、シェイクスピアなどエリザベス朝文学から影響を受けた抽象的なモチーフを乗せる独自の様式を築き上げてきた」という指摘がある (上記記事)

 

――熱狂から距離を置こうとする、こうした冷静な態度に、中島みゆきが長年にわたって貫いてきたスタンスと共通するものを感じるのは、おそらく私だけではないだろう。

また、とりわけ夜会の世界の構築において、記紀万葉から近代に至る日本語と日本文学の広大な世界から多様なモチーフを引き出し、自在に織り成す彼女のスタイルにも、ディランの独自の様式と通じるものがあると言えるかもしれない。

しかしその一方で、間もなく再演がスタートする夜会『橋の下のアルカディア』、そしてまだ記憶に新しいコンサート『一会』などでは、明確にラディカルな政治的メッセージが打ち出されているではないか――そこには、現代のこの国の現実に対する、彼女の切迫した危機意識が反映しているのではないか――そのように感じる向きもあるかもしれない (私も、そうした感じ方自体を否定するつもりはない)。

が、むしろそうであればこそ、彼女はそれらのメッセージの意味を、私たちの頭越しに「解説」するような態度からは、ますます慎重な距離を取っているように私には見える。

前の記事で、「ミルク」のマスター前田さんの言葉に託して書いたように、自己や人間や社会についての中島みゆきの問いかけは、最初から一貫して、根底的なものでありつづけてきた。そして、その問いかけが根底的なものであればあるほど、それに答えようとする私たちは、いかなる権威からも熱狂からも、より自由でいなければならないだろう。

――そのような自由への希求こそは、中島みゆきがディランから受け継いだ多くのものの中でも、最も貴重なものだったのではないかと、私には思える。