空ゆく数多の翼には (1)――「模型」に託された記憶

陸自真駒内駐屯地内にあるサイロ館

中島みゆきの故郷、北海道を私はこれまで幾たびか訪れている。

とはいえ、純粋な「聖地巡礼」と呼べそうなのは――前回の記事でも少し触れたが――今からちょうど四半世紀前の独身時代、パソコン通信でのファン仲間と3人で道央から道東を旅した時ただ1度きりである。他は仕事上の出張であったり家族旅行であったり、いずれにしても私個人の趣味を全面的に旅程に反映させるというようなことは、残念ながら困難だった。

つい先日、8月24~26日の出張でもそれは同様だった――はずなのだが、その一方で、慌しい旅程を辿るふとした合間に、この清冽で透明な空気と風景の中を、中島みゆきもかつて歩いたのだろうな――というほのかな想像が私をひそかにときめかせる瞬間が何度か訪れた。

それは必ずしも具体的な「聖地」――彼女との直接の接点――につながるものとは限らず、それよりもむしろずっと広く、およそこの北海道という風土そのものにたゆたう清冽と透明の感覚こそがもたらしたものだったのだろう。

そうした気ままな想像のゆえに――と言うべきか、旅先で偶然に触れた風景の一齣が、まったく思いがけずも、中島みゆきの作品世界の重要な部分に接続する、という経験を今回は味わった。そのことを書きたい。

狸小路アーケード街にあった模型店

札幌の繁華街すすきのにほど近く、南二条と南三条とのちょうど中間、一丁目から七丁目までを東西に走る狸小路商店街。明治初期に開業し、札幌市民には古くから親しまれてきた商店街である。ここを訪れるのは初めてだが、いわゆる「昭和レトロ」な雰囲気の濃厚なアーケード街は、夜会『橋の下のアルカディア』の舞台を髣髴とさせる。

そのような感想をTwitterに書いたところ、フォロワーのかた――このブログの読者のお一人でもある――から、次のようなご教示をいただいた。

3年前に店を閉じた「中川ライター店」という、創業113年の有名模型店が狸小路4丁目にありました。戦闘機や軍艦のプラモデルが所狭しと並べられ、アルカディアの高橋模型店にちょっと雰囲気が似ている。みゆきさんは狸小路をアルカディアの舞台イメージに重ねたと推測するのですが。

大いに興味を惹かれて検索してみたところ、この店の閉店を惜しむ数多くのブログ記事がみつかり、ここが北海道のかつてのプラモデル少年たちにとって「聖地」のごとき場所だったことが強く実感された。中でもこの記事は、写真・文章ともに当時の雰囲気をよく伝えてくれる。

店内の写真、とくに天井から吊り下げた模型飛行機は、初演VOL.18の「模型のタカハシ」のシャッターに描かれていた絵を連想させる。さらに、この記事 (に引用されている2015年1月12日付の毎日新聞記事) には、次のような事実経過が記されている。

戦時中、海軍航空隊に所属し飛行機が大好きだった3代目の中川昌三さん(88)が復員後に店を継いだ際、それまでの喫煙具などに加え、飛行機の模型をたくさん仕入れ店に並べた。(中略)中川さんは2008年に店を次男功清(のりきよ)さんに引き継いだ。ところが功清さんは13年12月、50歳で急逝。体調がすぐれず入退院を繰り返していた中川さんだったが、「店と一緒に死んでもいい」と2本のつえで体を支えながら店に立った。だが、体力の限界を感じ昨秋、閉店を決意。「頑張ってきたよなあ」と、しみじみ周囲に漏らした。

――飛行機を愛するがゆえに模型店を営んだ、元航空隊員の復員兵。そして、若くして世を去ったその後継者の息子。この時系列は、『橋の下のアルカディア』の高橋一曜・忠の父子 (九曜の祖父と父) の設定と、あまりにも正確に符合する。これを「偶然の一致」と呼ぶのは、むしろ不自然だろう。

もちろん――以前の記事で『橋の下のアルカディア』との関連について触れた小説『緑の手紙』においてもそうだったように――こうした隠された背景は、私たちファンがただ想像するほかはなく、中島みゆき自身の口から、あるいは公式資料で明かされることは決してないだろう。

だが、むしろそうだからこそ、私たちは自由に気ままに想像をめぐらすことができる――その自由を、さらにもう少しだけ行使することにしよう。

「模型」というメディア

上述のTwitterフォロワーのかたからは、こんな趣旨のリプライもいただいた――かつて狸小路商店街のテレビCMは全道に流れており、中川ライター店もよく登場した。最も熱気があった戦闘機プラモデルブームの時代、中島美雪は、弟さんに付き添って店を訪れた可能性もあるのではないか、と。

プラモデルブームの最盛期は、1960年代の高度成長期にあたる。この時代、零戦は――戦艦大和と並んで――最も人気のあるスケールモデルであった。

個人的な述懐になってしまうが――おそらく中島みゆきの弟さんより少しだけ年下の――私自身も小学生の頃、当時暮らしていた大阪郊外の地方都市の商店街の模型店(なぜか帽子屋を兼業していた)で、たまに戦闘機や軍艦、戦車のプラモデルを買ってもらうのがとても楽しみだった。その頃のアーケード街の夢のような雰囲気を、狸小路で少しだけ思い出しもした(その地方都市の商店街も、今はすっかりシャッター街になってしまっているのだが)。

やや横道にそれるが、戦後のプラモデルブームの頃、中川ライター店にせよ、上述の私が知っていた店にせよ、他業種から兼業で模型を商うようになった店が結構あったのではないか、と想像される。プラモデルに詳しい知人からも、その可能性は大いにあるのではないか、との示唆をいただいた。

この当時のプラモデルブームの意味について、ある研究書には次のような記述がある。

戦後の模型メディアは、平和主義のなかで「趣味」の領域へと社会的な位置付けを移すとともに(中略)、すでに存在する〈実物〉の外観を再現する「ホビー」となってきた。こうした模型が媒介する対象は、時間的にはすでに存在する「過去」、空間的には「形状」が重視された〈実物〉である。すなわち、スケールモデルあるいはプラスチックモデルが中心となった戦後の「模型」は、〈過去の形状を再現するメディア〉とまとめることができる。
(松井広志『模型のメディア論――時空間を媒介する「モノ」』、青弓社、2017年、109-110頁)

もちろん、戦闘機や軍艦の模型が戦後の多くの少年たちの熱狂的な「趣味」の対象となりえたのは、それらが再現する形状の原型が〈実物〉として、すなわち「人を殺す道具」として存在していた過去から、そしてネガティブな戦争の記憶の全体から、自らを切断することができたがゆえである。

空間的な形状のリアリティと、時間的な記憶の切断――あるいは忘却――との、不思議な融合。それこそが――私自身も含めて――戦後のプラモデル少年の熱狂を支えた構造的条件だった。

戦争の記憶の再生

だが、『橋の下のアルカディア』では、まさにこの構造にある劇的な反転がもたらされる。

高橋一曜から忠を経て、九曜へと託された「緑の手紙」あるいは零戦は、先の戦争の記憶――最も巨大な「生贄」が捧げられた出来事の記憶――を再生させるがゆえに、九曜たち3人を、新たな「生贄」となる運命から救済することができるのだ。

これまでも『橋の下のアルカディア』についての記事で何度か触れてきたが、この巨大な逆説こそが、この作品がもたらす強烈な衝撃力の根源にあるということは、何度強調してもし過ぎることはない。

『橋の下のアルカディア』の初演の初日、九曜に飛行帽を手渡した一曜が舞台裏に消え、格納庫の扉が一気に開き――「India Goose」のイントロとともに――零戦がその全貌を現したときの衝撃を、私は一生忘れることはないだろう。

 

「海軍航空隊に所属し飛行機が大好きだった」という中川昌三さんが、復員後、どのような思いで飛行機の模型を店に並べるようになったのかは正確にはわからない。だが、それらの模型が、かつて自ら最前線に身を置いていた現実の戦争の記憶を忘却させるようなものでは、少なくともありえなかっただろう。

中川さんに加えて、もう一人――あえて誤解を恐れずに言えば――高橋一曜の「モデル」と呼べそうな人物がいる。

陸軍特攻隊員として繰り返し9回も特攻を命じられながら、9回すべて生還したという佐々木友次さんについては、劇作家・演出家鴻上尚二の著書『不死身の特攻兵――軍神はなぜ上官に反抗したか』でよく知られるようになった。佐々木さんがなぜ生還できたのか、という問いに対して、鴻上は著者インタビューの中でこう応える――

突き詰めていくと空を飛ぶことが大好き、その思いなんじゃないかと。
生還すれば、また飛べるんですから

この言葉は、『橋の下のアルカディア』の大詰め、高橋一曜が飛行服姿で登場する場面で歌われる「国捨て」を、改めて想起させる。

空ゆく数多の翼には 憧れ抱かせる光がある
……
私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった

空ゆく数多の翼の光への限りなき憧れ――それこそが、あらゆる負の記憶を超えて、「幸せにする翼」へと人を誘うことを可能にする。

そのとき「模型」は、過去の負の記憶を託されることによってこそ、未来の人々を救済へと導く転生のメディアとなるのだ。

付記

独自ドメインに移転して最初の記念すべき(?)記事は、図らずも、またしても夜会『橋の下のアルカディア』にまつわる内容となった。この記事の続編となる(2)では、その舞台に登場した零戦について、リアリティとファンタジーとの融合という観点を中心に、少し書いてみるつもりである。

5年半続いたオールナイトニッポン月イチの放送終了や、来年1月にスタートする予定の夜会VOL.20のことなど、他にも気になる話題は色々あるのだが、また追い追い気が向いたら書いていきたい。

ひきつづき、気軽にお付き合いいただければ幸いです。

 

中島美雪の3人の師――藤の花咲く頃に――

 

藤女子大学 キノルド資料館

中島みゆきの母校、藤女子大学を、私はこれまで2回訪れている――「訪れている」といっても、正式に意を通じて訪問したという意味ではなく、単なる観光客・部外者としてキャンパス内を暫時散策したということに過ぎないが。

1回目は、もう四半世紀も前の1992年7月、パソコン通信でのみゆきファン仲間2人とともに北海道へ――今でいうところの――「聖地巡礼」に出かけたときのことである。札幌では、都心に近い南三条交差点から、北十三条のコーヒーハウス「ミルク」などを経て、北十六条にある藤女子大学へと足を運んだ。

赤い屋根とタマネギ形の尖塔が趣き深い木造三階建ての校舎「キノルド記念館」が、キャンパス外からもよく見えた。正門脇の受付のシスター姿の女性に「古い西洋建築に興味があるので、キャンパスを見学さていただけませんか」と――今から思えば少々わざとらしい理由で――許可を得て、「みゆきさんもこのキャンパスを歩いたんだなぁ」などと3人でたわいのない会話をしながら、美しい木漏れ日の下、キノルド記念館の側まで歩を進めた。

このキノルド記念館は1925年に建築され、札幌藤高等女学校の校舎として使われたのち、戦後の1961年からは文学部の校舎として使用されていた。だから、中島美雪もこの校舎で学んでいたことは間違いない。

ちなみに「キノルド」という名は、藤女子大学の設立者であるカトリック札幌教区初代教区長ヴェンセスラウス・キノルド司教に由来している。

残念ながらこの校舎は老朽化のため2001年に解体され、2003年、その外観の一部を再現して「キノルド資料館」へと改築された。この記事のトップの写真がそれである (以上の記述は、藤女子大学「キノルド資料館」のページ等による)

私が2回目に藤女子大学を訪れたのは、一昨年2016年9月にコーヒーハウス「ミルク」を訪問する途上でのことだった。この日は日曜のためキャンパスはほぼ無人で、上述の「キノルド資料館」の周囲を含め、キャンパス内をゆっくり散策することができた。四半世紀前と較べるとずいぶん新しい建物が増え、近代化された印象があった。

――さて、例によって前置きが長くなってしまったが、この記事では、中島美雪が1970年4月から1974年3月まで、藤女子大学文学部国文学科での4年間の学生時代に師事した (であろう) 3人の師について書くことにしたい。

基本的には公開されている情報に基づいているが、部分的に私の個人的な記憶に頼ったり、さらには自由に想像をめぐらせた箇所もあることはご了解願いたい。また、参照した資料の多くは、古くからの中島みゆきファン仲間のかたがたから提供していただいたものである。ひとりひとりお名前を記すことはできないが、ここに謝意を表したい。


家郷隆文氏――宗教的寛容と自律

「家郷先生お元気でしょうか!」――かつて「中島みゆきのオールナイトニッポン」で、藤女子大の学生つまり後輩からの葉書の中にその名があり、彼女が思わず懐かしそうにそうコメントしていたことを、よく覚えている。

家郷隆文氏は、中島美雪が所属するクラスの「担任」を4年間務めている。大学での「クラス担任」、それもひとりの教員が4年間担任を務めるという制度は――私の知る範囲では――かなり珍しいように思う。それだけに、氏は彼女にとって学生時代の記憶に強く結びついた存在だったのだろう。

家郷氏は1930年、浄土真宗本願寺派の隆王寺 (北海道、現岩見沢市) の住職の長男として生まれ、1956年に北海道大学大学院文学研究科を修了、1959年に藤女子大学に着任した。その後――後述するように――1984年に龍谷大学に異動したのち、1998年に定年退職、2013年9月16日に逝去している (藤女子大学『広報 藤』No.57 2014年)

著書『百人一首・その隠された主題―テキストとしての内的構造―』(櫻風社 1989年) などからみて、専攻は日本中世文学であったと思われる。

「いわゆる「秀歌撰」、秀歌百首の素朴な堆積としてみる見方、とは別の角度から、首尾一貫した、一つの主題をもつ「百首歌」としてみる見方」を提示し、「『百人一首』を、一つの完結した意味世界を構築する構造体として捉える」 (29頁) という同書のテーマも興味深いのだが、かなり専門的な内容と思われるので、ここではそれに代えて、短い文章を紹介したい。

それは、家郷氏が1984年、藤女子大学から龍谷大学に異動したとき、龍谷大学宗教部報『りゅうこく』34号 (1984年6月) に寄せた「私と宗教 これまでとこれから」という一文である。

その冒頭近くに、「中島美雪は、昭和49年3月国文学科を卒業、4年間私の担当クラスの一人でした」とある。が、個人的により興味をひかれるのは、氏の藤女子大学への着任時の面接の様子について書かれた、次のような一節である――

僧籍をもち現職の副住職である身分、いわば「異教徒」の聖職者であることが障りになるのではないかと、私自身少なからず気にしておりました。面接時にそのことを再確認しましたら、当時の学長H修道女は、「お西のお坊さまならば、ぜひお願いしたい」と申されました。「でもよい」ではなくて、「ならばぜひ」という文脈なのです。この一言が以後25年間の私の、教職者としての行動すべてを完全に拘束してしまうことになります。

――この後、H修道女自身も富山の西本願寺門徒の信仰厳しい家に生まれたという来歴や、財物の私有がほとんど許されないという修道女たちの厳しい規律、そして「このような他律的な掟が私自身の場合にはないということは、掟が定められてある以上に、自律的な自己規制が厳しく要請されてくる」という述懐へと展開して、文章は閉じられる。

私がこのエピソードに強く興味をひかれたのは、藤女子大学という環境がもつ――カトリックの修道女たち自身の厳しい規律と表裏一体ともいうべき――「宗教的寛容と自律」を端的に示唆しているように思われたからである。「異教徒」への寛容と、それゆえの自律。

藤女子大学中庭のマリア像

中島みゆきと宗教――というのはあまりにも大きすぎ、かつセンシティブなテーマなので――ここでそれを本格的に論じることはとてもできない。ただ、たとえば夜会『今晩屋』で物語の骨格をなしている――「十二天」に象徴される――仏教的世界観の壮大さ、そしてそこからもたされる転生と救済のイメージの力強い包容力の少なくともひとつの源泉は、彼女が学生時代に享受したであろう「宗教的寛容と自律」にあったのではないか、とあえて想像してみたくもなるのだ。


藪禎子氏――品格と健全な批判精神

藪禎子氏の名が中島みゆき関係の資料に登場するのは、私が知る限りでは、『ラジオマガジン』1983年10月号の「中島みゆき青春の軌跡」という特集においてのみである。この記事は――現在では掲載困難かとも思われる――彼女の少女時代から学生時代にかけての種々のプライベートなエピソードに触れているのだが、その資料のひとつとして、中島美雪が提出した「昭和48年度卒業論文題目」の写真が掲載されている。そこには、彼女の手書き文字による次のような記載が読み取れる。

昭和48年5月11日提出
学生氏名 中島美雪  担任氏名 家郷隆文
題目   現代詩 ――谷川俊太郎――

摘要  おだやかな変化を見せる谷川俊太郎のいくつかの作品群
その生命観の推察と 音の聞き取り
谷川俊太郎の「今」 そして 今の谷川俊太郎
その他 谷川俊太郎にみる 現代詩の現代性

指導者(希望) 藪 禎子

中島美雪が谷川俊太郎に私淑するに至った経緯は――「谷川俊太郎とプロテストソング(2)~中島みゆきにデビューのチャンスを辞退させた詩「私が歌う理由」」という音楽サイトの記事などにも書かれているとおり――ファンのあいだではよく知られたエピソードなので、ここでは省略しよう。

ただ各種資料によると、彼女が最終的に提出した卒論のタイトルは「現代詩 ――谷川俊太郎と日本語――」となっているので、サブタイトルに「日本語」というキーワードが追加されたという事実は、注目してよいことかもしれない。

その卒業論文を指導した (であろう) 藪禎子氏は、1930年、北海道・芦別に生まれ、1960年3月に北海道大学大学院文学研究科博士課程を単位修得中退、同年4月に藤女子短期大学国文科専任講師に着任した。その後、文学部国文学科専任講師などを経て、1973年――ちょうど中島美雪が上記の卒業論文題目を提出した年――教授に昇任し、1996年に退職、2008年10月26日に逝去している (以上は、遺作と思われる著書『野上彌生子 (女性作家評伝シリーズ3) 』(新典社 2009年) による)。専攻は日本近代文学である。

藪氏は定年退職後の1997年以降、北海道の地域誌『月間クオリティ』にエッセイを連載しており、それらは没後、『十字路 女の視角』(2009年 くま文庫 全4巻)にまとめられている。

その第1巻の巻頭に、「リラの花咲く頃」と題したエッセイが収録されている。

家ごとにリラの花咲き
札幌の人は楽しく生きてあるらし

この吉井勇の短歌を冒頭に、リラの花の咲き香る五月への想い、そして「人と自然の和み」を日々の生活の中に感じさせる札幌という街への想いが、詩情豊かに綴られる。

中島みゆきの「リラの花咲く頃」を収録したアルバム『常夜灯』がリリースされたのは2012年である。「馴染みなき異郷」にありつつ「時が来れば花は香る」と、リラの花に託して遥かな祖国への想いを歌うこの歌は、もしかしたら亡き恩師へのオマージュでもあったのではないか――と想像をふくらませたくもなる。

『十字路 女の視角』は、そのように札幌の街角の風景を――時にはその無秩序な都市化を憂いながら――描く一方で、政治情勢や経済問題といった世情への、きわめて率直かつ辛辣な批判をつらねている点も興味深い。それも、その種の言説がともすれば囚われがちなイデオロギー的磁場の歪みを感じさせることがまったくなく、むしろ健全な生活感覚と現実感覚に根ざした批判になっていることが心地よい。

総じて、近代文学研究者らしい品格ある言葉の運び、そして健全な批判精神から世界を見つめるまなざしが印象的なエッセイ群である。こうした美質はやはり、中島みゆきの言語的世界にも遥かに共鳴するものを感じさせる。


青木正次氏――言語表現への飽くなき探求

「大学の頃、とってもおもしろい雨月物語の解釈をする先生がいた」と、中島みゆきは何かのラジオ番組で語っていたという――これは私自身の記憶ではなく、かつてのパソコン通信のログでの友人の書き込みからの引用である。

この「先生」が青木正次氏である。藤女子大学の機関リポジトリを検索すると、青木氏は1973年から1978年まで5回にわたって、『藤女子大学・藤女子短期大学紀要』に「「雨月物語」:その闇と光」と題した論文を連載している。その第1回は中島美雪が4年のときであり、この連載はおそらく、それまでの講義内容をベースとしているものと思われる。

青木正次氏は、1935年横浜に生まれ、1965年に東京大学大学院人文科学研究科を中退したのち、藤女子大学助教授・教授を経て2006年に定年退職、2008年12月9日、海外 (タイ) でロッククライミング中の転落事故により逝去している (はてなダイアリー等)

専攻は日本近世文学であるが、上述のリポジトリに収録されている論文のタイトルをみると、たとえば「プロト・タイプ論 : 自己表出の史的段階像」と題した連載では『楚辞』『荘子』『論語』に、プラトン『国家』やソポクレス『オイティプス王』など東西の古典が縦横に論じられ、その一方で、森鴎外『高瀬舟』についての論文もある。

研究者データベース researchmapの「研究キーワード」欄――研究者自身が入力する項目――には、「自己表出史」「日本文学表現史」「言語表現を含む<表現>一般」とあるので、おそらく青木氏の学問的営為は、時代と洋の東西とを超えて、およそ言語による「表現」の可能性そのものへの飽くなき探求に導かれていたのではないか、と思われる。

そのような探求のひとつの結実が『雨月物語』全訳注 (1981年 講談社学術文庫 全2巻) である。一般的な古典への訳注の域を大きく超え、この異界の物語の言語的世界の奥の奥、裏の裏までを抉り出そうとするかのような、詳細で丹念な語注や考釈の迫力に圧倒される。

中島みゆきは、夜会VOL.5『花の色は…』のシナリオ本 (1994年 角川書店) で、師のこの労作を参考文献として明記している。夜会の多くの演目の中でも、とりわけ複雑な構造をもったこの作品には、そのような恩師の言語表現への飽くなき探求が反映されているのだ。

その反映のひとつひとつをここで取り上げることはとてもできないので、象徴的な一例だけを挙げよう。

第5場「時間泥棒」の終盤、「逢うを待つ」ことから「逢いに行く」ことへの、重大かつ劇的な転換点、「愛よりも」の伴奏に乗って、椅子――「待つ」ことの象徴――に片足をかけた時間泥棒が決意と確信とをこめて語り始める長台詞――

銀河は秋を告げ、冬を待ち、春を迎えて
旅人は、わすれ草にからめとられ
宵待ち草は、萱原に埋もれても

逢おうがための約束ならば
『逢ふを待つ間に恋ひ死』にに死んでなど、なるものか。

――この冒頭の5行だけで6箇所の語文注釈を中島みゆきはつけている。そのうち5箇所が『雨月物語』の「浅茅が宿」からの引用であり、それらの注釈には、青木氏による語注がほぼ正確に反映されている。

なかでもとりわけ重要なのが、上記引用の5行目、『逢ふを待つ間に恋ひ死』にに……と、二重鍵括弧で「浅茅が宿」からの引用が強調されている箇所である。ここへの中島みゆき自身の注釈を――少々長くなるが――みてみよう (上掲シナリオ本 178頁)

「逢を待間に恋 (ひ) 死なんは人しらぬ恨みなるべし」 (「浅茅が宿」) をさす。宮木のこの言葉は、「人知れず逢ふをまつ間に恋ひ死なば何に代へたる命とかいはむ」 (『後拾遺』巻11・平兼盛) を基にして、「人知れず」を「人知れぬ」に変えることによって、恋い死にをしようとも相手は知りようもないという隔絶を表わし、また「死なば」を「死なんは」に変えることによって、仮定ではなく死ぬことそのものに直接的にかかわっていることを表わしている。

――後拾遺集の平兼盛の元歌からの差異によって上田秋成が際立たせ、青木氏が抉り出した、宮木の絶対的な孤独と隔絶、そして死の現実性。それらの闇を踏まえてこそ、『逢ふを待つ間に恋ひ死』ぬことへの明確な拒絶、「荒野を越えて、銀河を越えて」「逢いに行く」ことへの決意という、中島みゆきがこの夜会の結末にこめたメッセージの光は、より鮮やかなコントラストをなして際立つのだ。


藤の花咲く頃に

上述の家郷隆文氏の「私と宗教 これまでとこれから」には、藤女子大学の「創立当時の現在地一帯は、まだ人家まばらな石狩平野の一角、あたりに野生の藤の花が咲いていたところから、学園名を「藤」と名づけ」たという一文がある。

この5月は、リラとともに、藤の開花する季節でもある。

――少々マニアックな内容になってしまったかもしれないが、中島美雪が3人の師から学んだものについて、上記のようにあれこれと想像を巡らしてみると、現在の中島みゆきの作品世界がもつ、途方もない深みと広がりとに、改めて瞠目させられる思いがする。

藤の花咲く頃は、そうした想像を巡らすのにふさわしい季節なのかもしれない――

夜会工場VOL.2――12月の大阪公演を観て

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夜会工場VOL.2、12月11日と13日の大阪フェスティバルホールでの公演を観た。

叶うことなら初日、11月26日の府中公演に臨みたかったのだが、チケットは予想を超える大激戦であえなく連戦連敗。また12月上旬の福岡公演への遠征も諸般の事情でままならず、地元関西での11日の公演が私にとっての初日となった。

昨年1月の『一会』以来のフェスティバルホール――エントランスに足を踏み入れた瞬間に、かつての旧ホールの時代から変わることのない、ライブへの予感を秘めた華やかな空気感が、私の身をゆったりと包んでいく。

開場前から開演前、何人かのみゆきファン仲間たちと交わす会話は、ファン同士の絆を再確認する貴重なひと時だ。

開演15分前、客席に就く。舞台上は灰色の石造りの壁に囲まれ、両袖にはミュージシャンが陣取る黒い鉄骨の高い台、そして中央の床上では、薄明の中、工員――作業服姿のスタッフたち――が道具類を運びながら行き来しはじめる。日常から非日常への、緩やかな遷移――このプロローグは、4年前の夜会工場VOL.1とほぼ同様だ。

やがて開演ベルが鳴ると間髪を入れず、両袖のミュージシャンたちが、あの懐かしい「二雙の舟」のイントロを奏ではじめる。とりわけ、弦がしなやかに歌う主旋律が美しい。

――こうして私は、「夜会を作る工場」の現場を4年ぶりに訪れることになった。

以下、公式の上演台本と、いつもながらビジュアルな記憶の再現の鮮やかさに驚嘆させられる、ぴしわさんのブログ「夜会工場 vol.2 覚え描き」とを参照しながら、とりわけ強く印象に残ったことを中心にレビューしていきたい。

懐かしさと新鮮さとの相乗

夜会工場VOL.2の第一印象をあえて一言にすれば、懐かしさと新鮮さとの相乗、ということに尽きるだろうか。

これまで四半世紀を越える時間の中で、私の中に堆積してきた数々の夜会の舞台の記憶を、その熱量とともにありありと蘇らせられながら、それと同時に、それが単なる懐古ではなく、つねに清新な何かの発見をももたらしてくれている、という実感に、ずっと興奮させられ通しだった。

そうした印象はやはり、これまで同じ舞台に立ったことのないメンバーをも含む男女6人の共演者が、キャスト兼ヴォーカリストとして活躍したことによるものが大きいだろう。

男性キャストが宮下文一と石田匠の二人になったこと、またとりわけ石田匠は、夜会では中島みゆき自身が演じる女性役だった天文学者(『金環蝕』より「最悪」)やメイ(『シャングリラ』より「南三条」)をも演じ、彼のハイトーンのヴォーカルの魅力とも相まって、ジェンダー的な表現の幅が大きく広がり、夜会に潜在していた――これまで想像もしなかった――世界の新たな可能性を発見させられたことが、とても印象的だった。

宝塚出身の植野葉子、香坂千晶の二人は、今世紀に入ってからの――VOL.12以降の――夜会や夜会工場VOL.1では、もっぱら舞台上の演技に専念してきたが、今回は「愛から遠く離れて」「陽紡ぎ歌」「フォーチュン・クッキー」などで久々に美しいハーモニーを披露し、彼女たちの歌手としての実力をも大いに再認識させられた。

夜会工場には初登場となる中村 中は、夜会1990での若き日の中島みゆきを髣髴とさせるオフィスガール姿での「Maybe」の清新な健気さ、『花の色は…』秋の場の祭半纏姿で、中島みゆきよりもずっと高いキーで歌う「船を出すのなら九月」のフェミニンな魅力等々、『橋の下のアルカディア』でのあの鮮烈な歌と演技が、更なる多様な演目にも展開する潜在力を秘めたものであったことを実感させた。

そして――これはVOL.1の時も同様だったが――夜会では舞台下でヴォーカルを担当する杉本和世と宮下文一とが、舞台上のキャストとして登場することが、まさに「夜会工場」というコンセプトを正確に可視化していることに改めて注目したい。

『ウィンター・ガーデン』では能楽師が演じた〈槲〉役での詩「傷」の朗読や、『2/2』では男優が演じた矢沢圭役で力強く歌う「旅人よ我に帰れ」は、つねに「声の演技力」で夜会に貢献してきた宮下文一の、まさに面目躍如というべき見せ場であり聴かせどころだった。

そして、実質的な1曲目の「泣きたい夜に」、実質的な本編ラスト曲の「あなたの言葉がわからない」という両端の2曲を、いずれも杉本和世とのデュエットで歌ったことは、この永年のパートナーへの中島みゆき自身のオマージュであるとともに、夜会そのものの記憶へのオマージュでもあるように思えた。

彼女たち、彼ら6人の活躍の反面として、中島みゆき自身の歌が相対的に少なくなったことに関しては様々な感想があるだろう。

だが、それぞれに多彩で存在感十二分な共演者たちの歌と演技には、中島みゆき自身の意思が強く反映していることがはっきりと感じられ、彼女たち・彼らを率いる「座長」としての彼女のパワーに圧倒させられる思いだった。それも、共演者たちが自らの個性を抑制するのではなく、むしろそれぞれの個性を存分に発揮することが、同時に中島みゆきの意思の正確な反映となっていることことが重要だ。

他者という「故郷」との出会い

夜会工場VOL.2全体のメッセージ的内容についても、とりあえずの印象を記しておこう。

VOL.1では、初日のレビュー に書いたとおり、未来→過去(→転生)という時間的な流れが全編を貫いているように感じたが、あえてそれとの対比で言えば――

VOL.2を貫いているのは、故郷(くに)の喪失→新たな故郷 (としての他者) との出会い、という空間的な流れ、とでもいうべきものなのではないか。

そのように直感した大きな要因は、セットリストの中でもとりわけ重要なポイントとなる――いずれも中島みゆき自身が歌う――次のような曲の流れにある。

第1幕中盤、3人のアメノウズメ――中島みゆき、植野葉子、香坂千晶――が舞い歌う「EAST ASIA」は、VOL.1での「泣かないでアマテラス」とも対になって『金環蝕』大詰めの神話的世界を鮮やかに再現し、「EAST ASIA」という自らの「くに」への愛を高らかに謳う。

しかし第1幕ラスト、故郷への遡上の道を閉ざされた〈鮭〉たちが声を合わせる「我が祖国は風の彼方」(『24時着0時発』) では、「時の彼方」「波の彼方」「空の彼方」にある祖国への遥かな思いが、「いつの日にか帰り着かん」と哀切な憧れをこめて歌われる ――この7人全員による大合唱は全身が震えるほどに感動的であり、中島みゆきが6人の共演者を起用したことの必然性が最も強く感じられる場面でもあった。

そして第2幕終盤で、それまでの演目時系列順の構成から離れて演奏される3曲――「思い出させてあげる」「旅人よ我に帰れ (幸せになりなさい)」「あなたの言葉がわからない」――が、新たな故郷との出会いへの道をかたちづくる。

『シャングリラ』でメイが歌う「思い出させてあげる」は、女主人・美齢(メイリン)への復讐の思いをこめた歌だった。その演出自体は、夜会工場VOL.2でも基本的には変わっていない。しかし、そのネガティブな意味は、驚くべきことに、それに続く場面の流れの中で、「忘れていた」記憶を「思い出す」ことによる救済を意味するものへと反転していく。

宮下文一が歌う上述の「旅人よ我に帰れ」で、「旅人」の「帰り道」を照らす「真実の灯」に導かれるかのように、舞台背面の大扉が開き、美しい緑の竹林の中からアオザイ姿の上田茉莉 (中島みゆき) が歩み出る――彼女が歌う「幸せになりなさい」によって、双子の妹・莉花は偽りの自責の記憶から解き放たれ、『2/2』は約分されて『1』として再生し、遂に自らの人生を歩み始めることが示唆される。

これまでの夜会のいくつかの演目でもそうだったように、舞台背面の大扉――最近では『橋の下のアルカディア』のあの零戦の格納庫が記憶に新しい――は異界との通路であり、救済への道を開く扉となるのだ。

第2幕の実質的な終曲「あなたの言葉がわからない」もまた、アイデンティティの再生への祈りの歌である。自らが操った言葉という武器の罪に苦しむアナウンサー綾瀬まりあ (中島みゆき) と、タイ人娼婦 “26000円” (杉本和世) との偶然の出会い――逆説的にも、言葉の通じない彼女との手探りのコミュニケーション、言葉という国境を越えた他者との出会いこそが、まりあの心を再生へと導くことが予感される。

――この場面の背景全面、街の灯と満天の星空とが溶け合いながら輝きを増していくさまは息を呑むように美しく、まるでそここそが、彼女たちの新たな故郷であるかのようだ。

そして付け加えるまでもなく、全編を締めくくる夜会工場のテーマ曲「産声」――産まれた国の違いを超えて「習いもせず歌える同じ歌」を聴くことへの希い――こそは、そのような他者という新たな「故郷」との出会いへの希いでもある。

――上述のような、故郷の喪失→新たな故郷 (としての他者) との出会いというストーリーの原型は、「旅を続ける人々は/いつか故郷に出会う日を……」という「時代」のよく知られたフレーズに見出すことができるかもしれないし、また中島みゆきが最初期のコンサートのMCで語っていた、「故郷 (ふるさと) は、場所なのかもしれないけれど、故郷は、人だったような気もして……」という意味の言葉にも遡ることができるのではないかと、懐かしく思い出したりもする。

「夜会工場」というライブ形式について

VOL.2で導入された、舞台上部の電光掲示板による演目の表示や、案内役としての中島みゆき自身による各演目のストーリーの解説は、必ずしも夜会に詳しくないオーディエンスにも、夜会の魅力を伝えるうえで大いに役立っていたように思う。このあたりは、VOL.1と較べての進歩というべきだろうか。

ただ、その一方で、ラストの「産声」を歌う前に、ファンサービス(?)として「慕情」の冒頭だけ――それも意味深にも「時に情けはない」まで――を歌い、「おわり。ストレスの溜まるサービスタイムでした」とオーディエンスを笑わせる演出は、単なる余興というよりも、むしろ、夜会工場という新たなライブ形式への中島みゆきの強烈な自負を踏まえた、オーディエンスに対する一種の韜晦であるように思えた。

今回のMCでも中島みゆき自身が語っているように、夜会は、コンサートとは異なる新たな文脈、新たな物語を設定することで、自らの作品に新たな意味、新たな生命を吹き込む試みだった――「言葉の実験劇場」という初期の夜会の別称は、まさにそのことを意味していた。

だとすれば夜会工場は、夜会に対して同じことを再帰的に試みる形式、いわば「言葉の実験劇場の実験劇場」とでもいうべきものなのではないか。あるいは――上述のVOL.1のときのブログ記事でも書いたように――夜会という物語についての物語、「メタ物語」とそれを呼んでもよい。

関西地域のイベンター「夢番地」の最近の会報に掲載されたインタビューの中で彼女は、「「夜会工場」は工場を作って、その中に夜会の舞台を作るわけですから夜会よりも大きいホールにしないと」と語っている。このようなホールの物理的規模への配慮もまた、上述のメタレベルの視点の存在を裏づけるものだろう。

初期の夜会がファンに――それも、永年の熱心なファンにこそ――多くの戸惑いを生んだように、夜会工場もまた、そうした戸惑いの源泉になっている可能性はある。

しかし、上述のような新たな発想と挑戦とに満ちた実験の数々は、夜会という世界が、これまでに実現してきた以上に遥かに豊かなパラレルワールドとしての可能性を孕んでいることに、はっきりと気付かせてくれる。そのような新たな数々の世界に出会うことへの希望が、夜会工場という新たな形式によって初めて開かれたのだ。

上述のVOL.1のときのブログ記事で、私は

異界への旅、転生、そして救済の物語としての夜会――
その旅はまだ未完であり、さらなる転生の物語を、これからもまた夜会は紡ぎ織りなしてゆくだろうという期待と予感を、「夜会工場」という「メタ物語」は、私に与えてくれるような気がする。

と書いた。夜会工場VOL.2は、それらの期待と予感を、より確実に力強く私の中に膨らませてくれる。

【セットリスト】

第1幕

  • 二雙の舟(Inst.)
  • 泣きたい夜に
  • Maybe
  • LA-LA-LA
  • 熱病
  • 最悪
  • EAST ASIA
  • 船を出すのなら九月
  • 南三条
  • 子守歌(Inst.)
  • 羊の言葉
  • 愛から遠く離れて
  • 谷地眼(詩)
  • 傷(詩)
  • 朱色の花を抱きしめて
  • 陽紡ぎ唄
  • 帰れない者たちへ
  • フォーチュン・クッキー
  • 我が祖国は風の彼方

第2幕

  • 百九番目の除夜の鐘
  • 海に絵を描く
  • 彼と私と、もう1人
  • ばりほれとんぜ
  • 1人で生まれて来たのだから
  • すあまの約束
  • 袋のネズミ
  • 毎時200ミリ
  • 思い出させてあげる
  • 旅人よ我に帰れ(幸せになりなさい)
  • あなたの言葉がわからない
  • 産声

『やすらぎの郷』と「慕情」

6月29日午後、中島みゆきファン仲間でつながっているSNSのタイムラインが一挙にどよめいた。

主題歌「慕情」を提供しているドラマ『やすらぎの郷』 64話の冒頭――老人ホームの入居者たちがサロンで「やすらぎ体操」をしている場面の手前を、車椅子をゆっくりと押しながら斜めに横切ってゆく、青いエプロン姿のすらりとした女性――中島みゆき!

この予期せざるカメオ出演のサプライズには、私を含め多くのファンが驚喜し興奮した。車椅子に乗っていた、サングラスをかけた高齢の男性は、このドラマの脚本家・倉本聰である。

同じ局の情報番組「ワイド! スクランブル」では、同日さっそくこのサプライズを取り上げ、

ドラマのスタッフに確認したところ、あのご夫婦は「やすらぎの郷」に5年前ぐらいから入居されてる方です。…今後も通り過ぎることがあるかも?

との、さらに気を持たせるレポートがあった。

この場面の中島みゆきは、上記の通りのすらりとした若々しい姿勢に加え、録画をよく観直すと、足元は高いヒールの靴。およそ老人ホームの入居者には見えないのだが、そこはまあご愛嬌ということだろう。

『やすらぎの郷』の辛辣さ

倉本聰は――おそらく詩人・谷川俊太郎に次いで――中島みゆきが若い頃から私淑してきた「言葉の使い手」である。二人の接点の詳細についてはここでは省くが、今回の主題歌提供にあたってのコメント、とくに

倉本さんがね。ひと言ひと言を、命を削るようにして紡いでいらっしゃるんですから。そこへ徒や疎かな歌詞など書いてはならない……

という言葉からは、彼女のリスペクトぶりがよく窺える。

ところで倉本聰の脚本というと、長期にわたってシリーズ化された『北の国から』(1981年~)に代表されるように、シリアスな人間ドラマの印象が強かった。

この『やすらぎの郷』にも――後述するように――シリアスなエピソードは登場するのだが、その一方で、悪趣味一歩手前と言ってもいいぐらいの痛烈なギャグやパロディが、この2クールという長丁場のドラマの所々にアクセントをつけるのが、当初はやや意外でもあり、かつ大いに楽しませてくれる要素にもなっている。

今回の二人のカメオ出演の場面にしてからが、同時に流れる、脚本家・菊村栄 (石坂浩二、このドラマの主役兼語り手) のナレーションの内容が――

「透析ブルース」「いぼ痔の親父」「糖尿だヨおっ母さん」「痛風の風に吹かれて」「前立腺と新幹線が豊橋の駅で恋をした」……

――これらの身も蓋もないタイトルは、かつて一世を風靡したお笑い系バンド「ファンキー・ドッグ」のただ一人の存命者で、朝の館内放送を担当している入居者のひとり中井竜介 (中村龍史、「やすらぎ体操」の作詞・作曲者でもある) が次々と世に送った、病気・自虐ネタの曲名なのである。

「やすらぎ体操」が、NHKのテレビ体操のパロディであることなどは、もはや言わずもがなの蛇足というべきだろうか…… (「やすらぎ体操第1」というからには、「第2」もあるのか、と期待させられもするが)

ここまでの前半のストーリーでも、かつての大スターたち、とりわけ絢爛たる老女優たちが繰り広げるドタバタが――時に、彼女たちの女優としての現実の人生とも二重写しになって――笑わされながらも、時に物哀しさを漂わせた。

ついでに言えば、このようなコミカルとシリアスとの落差の激しさも、主題歌を歌っている中島みゆきのキャラクターとよく符合しているという印象を受けないでもない。

 

さて、このドラマを語るときに何より重要なのは、その設定そのものが、テレビというメディアに対する辛辣な批判になっているということだ。

――かつてテレビ・芸能界に大きな貢献をなした人びとだけが入居できる、世間から隔絶されたユートピアともいうべき無料の超高級老人ホーム――ただし、テレビ局の元社員はその対象から外されている。

テレビ・映画関係の情報サイトのこの記事の、「テレビドラマによるテレビ界や芸能界に対する痛烈な批評」「並行世界ドラマ、メタ・ドラマ」という表現は、そうした意味できわめて的確だ。

中島みゆきがこれまでずっと、テレビというメディアに対して非常に慎重な距離を取り続けてきたことは、彼女の熱心なファンなら先刻ご承知のことだろう。

彼女の最初のエッセイ『伝われ、愛』(1984年) に綴られている、局の担当者ともめたテレビ収録の終了後、たまたま局スタッフたちが彼女を罵る言葉を立ち聞きしたというエピソード――

スタジオは、コンクリートの壁も床も、なんて冷たいんだろう、と、そのとき思った。

――こうした経験が、その慎重な距離の背景にあることも間違いないだろう。

上記のインタビューにもあるように、夜会公演中の多忙な時期でありながら、中島みゆきがこの主題歌の仕事を喜んで引き受けたのも、長年の倉本聰への私淑に加えて、テレビというメディアに対する辛辣なまなざしへの共感ゆえでもあったのではないか――と想像してみるのも、あながち突飛ではあるまい。

「過去の救済」、重層する問い

ところで、主題歌「慕情」のリリースが最近ようやく発表された。発売日は、ドラマもそろそろ終盤に差し掛かるはずの8月23日である。

番組のオープニングでは、当初はずっと1番だけが流れ、まだ聴けぬこの曲の全貌に対して大いに気を持たせてくれた。が、41話(5月29日)のエンディングで、ようやく待望の2番が流れた。

菊村の釣り仲間、「大納言」こと岩倉正臣 (山本圭) が涙ぐみながら語る痛切な台詞――亡き妻にもう一度逢えるなら、若く美しかった頃ではなく、死ぬ間際の彼女にもう一度逢いたい――やはり妻に先立たれてここに入居した菊村は、この言葉に深く共感する。

初めて聴く「慕情」2番の歌詞は、この場面に重層することで、より哀切にその意味を伝えてくる。中島みゆきがとくに近年、夜会を中心に追求してきた「過去の救済」というテーマが、ここではより切実に、一人ひとりの人間にとっての等身大の感覚で歌いこまれているという感が強まってくる。

2番の歌いだし――

海から生まれてきた それは知ってるのに

――から、私が反射的に連想したのは、初期の名曲「小石のように」の最後のフレーズ――

砂は海に海は大空に そしていつかあの山へ

――「海」はすべての生命が流れ着く先であると同時に、すべての生命の源でもある、という輪廻のモチーフだ。

しかし「慕情」では、

どこへ流れ着くのかを 知らなくておびえた

と、人生の行く末へのおびえ、迷いが歌われる。

それはおそらくは、私たち有限の生命をもつ人間のほとんどが、愛する人や自らの生命の終焉に近づく時に直面せざるをえない、おびえ、迷いなのだろう。

そして、そのおびえ、迷いを越えた向こう側にしか、おそらく私たちがたどり着ける場所としての「海」はない――そこへたどり着くことへの祈りのごときものが、「慕情」の歌詞とくに2番からは聴こえてくる。

 

その翌々日の43話(5月31日)には、インストルメンタルで「慕情」の旋律がほぼフルで流れた。

5月の連休、「やすらぎの郷」は時ならぬ来訪者――入居者の子や孫たち――で賑わう。待ちわびた再会の時を楽しむ入居者たち――しかし中には、誰も訪れる者のない孤独な老人、あるいは、束の間の再会を経た別れのあと、号泣する老女の姿も――

この情景にかぶさる菊村のナレーション、

果たしてテレビは、かれらの夢かけた一生に報いることがあったのか
テレビは、かれらのために何かをしたのか

という言葉は、静かな憤りに満ちていて、容赦なく辛辣だ。

そしてこの場面で初めて、「慕情」の3番――中島みゆきお得意の鮮やかな転調による、いわゆる大サビの旋律――が流れる。

明日の行方は……たやすく翻るものだから

この歌詞は、さらにその翌週、48話(6月7日)のオープニングで、ようやく中島みゆき自身の歌によって明らかにされるのだが、43話の上記の場面ですでに、テレビという巨大メディアに翻弄されてきた一人ひとりの人生、そしてその救済への祈りが歌われていたことに、改めて気づかされる。

 

そして現在進行中のエピソードで、「過去の救済」というテーマは、より大きな文脈の中に位置づけなおされる。

入居者のひとり、大女優「姫」こと九条摂子 (八千草薫) が、戦時中の慰問活動の一環として、出撃間際の特攻隊員たちと「最後の晩餐」を共にしたというエピソード――しかし彼女はこの経験に深く傷つき、のちに戦死した特攻隊員の母から送られた手紙のこともあって、決して振り返りたくない記憶となっている。

この「最後の晩餐」をセッティングした当時の海軍軍令部の参謀、加納英吉が、戦後、大手芸能プロの会長となり、引退後「やすらぎの郷」の設立者となったという設定からみても、このエピソードがこのドラマの根幹をなす重要なものであることは明らかだ。

このエピソードを小説化しようとした、やはり入居者のひとりである覆面作家「濃野佐志美」こと井深涼子――この役を最近亡くなった野際陽子が演じていたのも、不思議な「縁」のような気がしないでもない――が、菊村の説得によって作品化を諦めたのち、破棄されずに残っていたゲラ刷りを素材として、国営テレビが終戦記念日用のドラマを企画する。

その企画の取材のため、主演を予定されている若手人気俳優・四宮道弘(向井理)が、プロデューサーとともに「やすらぎの郷」を訪れ、理事長夫妻と菊村の同席のもとで「姫」に会う――

――この先、ストーリーがどのように展開していくかは予断を許さない。ただ、このエピソードの真の当事者たち、すなわち、若き命を絶たれた特攻隊員たち、そしてかれらを座して見送らざるをえなかった「姫」の過去は、いかにして救済されるのか――

この問いは、図らずも、中島みゆきの近作、夜会『橋の下のアルカディア』の、あの悲痛かつ希望に満ちたラストシーンをも思い起こさせる。

「過去の救済」というテーマは、一人ひとりの生から、戦後日本を席捲したテレビという巨大メディア、そしてそのさらに背後に存在した「国」への問いにまで、重層しながら拡がってゆく。

――その問いがどのような方向にその答えを見出そうとするのか、その行く先を楽しみにしながら、ドラマの後半を見守ってゆきたい。

出会いの記憶――「中島みゆきのオールナイトニッポン」のこと

Annこの記念すべき日には、この腰の重いブログも、やはり久々に更新しなければならないだろう。

私が中島みゆきファンになった最初のきっかけのことを書きたい――それは、私と同年代の多くのファンのご多聞に漏れず、かの伝説の名番組「中島みゆきのオールナイトニッポン」との出会いのことである。

大学2年の1979年秋頃――ということはこの番組がスタートして半年ぐらいの頃、ということになるが――手持ち無沙汰な深夜に、ラジオのチューニングをあれこれといじっていると、たまたま聞こえてきたハイテンションのけたたましい女性DJの声に、まず度肝を抜かれた。

やや茫然としながら、しばらくのあいだ聞くともなしに聞いていると、DJは「中島ぺったん」と自称――まさかと思って新聞のラジオ番組欄を見ると「中島みゆき」の文字が。

それまでは中島みゆきといえば「時代」ぐらいしか知らず、あまり若い女性らしくなく、真面目でしかつめらしい曲を歌う歌手というぐらいの漠然としたイメージしか持っていなかったので――その認識の浅さについては、まったく私の不明を恥じるしかないのだが――再び驚かされた。

番組の最後に読むシリアスな葉書と、その後にかかる彼女自身の曲とで、この番組のDJが中島みゆき本人であることは頭では理解できたが、それからもしばらくは、DJとしての彼女と歌手としての彼女とのあいだに存在する巨大なギャップに戸惑いつつも、どちらかといえば前者のコミカルな側面にしだいに惹かれて、私はこの番組を毎週、月曜深夜に聴くようになっていった。

 

歌手としての中島みゆきのシリアスな側面、その重みにも気づくようになったのは、翌1980年2月にシングル「かなしみ笑い」がリリースされた頃からである。

番組内で時々かかるこの曲の――タイトルの意味するとおり――自らの悲しみを徹底的に客観視しようとするアイロニカルなまなざしの鋭利さにも惹かれたし、またB面 (当時) 「霧に走る」の、限りなく繊細な心の震えと、その背景として広がる「深い霧」の抒情も印象的だった。

総じて、それまでの歌謡曲やフォークソング――その頃の私の年代では、まだこう呼ぶのが一番しっくりきた――と、表面上は連続していながら、しかし深層ではまったく異質な、本当に驚嘆すべき何かが、このひとには存在するのではないか――そんな漠然とした予感が、その頃の私の中で育ちつつあったような気がする。

そしてその予感は、その年の春にリリースされたアルバム『生きていてもいいですが』によって、予想を遥かに上回る巨大な衝撃として、実現されることになる。

ただ、私がこのアルバムを購入したのは、リリースの4月5日の1箇月少しあと、5月15日のことだった。その前後に、やはり「オールナイトニッポン」の番組中で、決定的に重要な2つのエピソードに、私は遭遇している――『生きていてもいいですか』については別の機会に譲り、ここではその2つのエピソードについて書きたい。

 

1つめのエピソードは1980年5月5日、この年の春のコンサートツアー中止のアナウンスを、中島みゆき自身が番組の最後におこなったときのことである。

いったん発表したツアーのスケジュールをキャンセルするのは、彼女にとって、非常な苦渋の決断であることは明らかだった。この夜の放送では、冒頭からいつものハイテンションが影を潜め、コミカルな葉書を読むときにさえも、声がとても沈んでいたのをよく覚えている。

そして、ツアー中止を知ったファンやリスナーからの葉書の数々――たとえば、「プロなんだろう?」と中止を非難する葉書、あるいは「失恋ぐらいで何だ!」といったキャンセル理由を憶測する葉書――をあえて読み、それらの辛辣な言葉に対して一切の言い訳も反論もせず、ただ――プロだからこそ、納得できないコンサートはやれない、納得のゆかない仕事でお金をもらうわけにはいかない――と、どこまでも真摯に答える彼女の言葉に、当時まだお気楽な学生だった私は、粛然とした。

 

2つめは、1980年5月19日の放送。最後の葉書のコーナーで、恋人を病気で失ったという少女の葉書が読まれ、「世情」がかかった時のことだ。

その彼とコンサート (1979年のツアー) に行き、ラスト曲「世情」を一緒に泣きながら聴いたという思い出が、葉書には綴られていた。

――私は、「世情」をその時初めて聴いたわけではなかったのだが、おそらくその時初めて、この曲の真の意味が胸の底に届いたという気がした。聴きながら、自分の世界が根底から変わっていくような感覚を味わったことを、今でもはっきりと思い出す。

その「世情」の意味は、とても単純なことのようで、簡潔に言葉にするのが難しい――

「世情」には最初は、学生運動の時代を歌った歌なんだろうな、という漠然とした認識と、私自身はその世代からは隔たったところにいる、という醒めた距離感しか感じられなかった――ここでもまた、私は自らの不明を恥じるしかないのだが。

が、その夜、今はこの世にいない恋人と二人で泣きながらコンサートで「世情」を聴いたという少女の言葉から、私はそうした自分の認識の浅薄さを徹底的に暴かれたような気がした。

そのとき気づかされた「世情」の意味とは――

「シュプレヒコールの波」に象徴される「社会」や「政治」の問題とは、結局は私たち一人ひとりの孤独な「心」の問題でしかありえないということ、私たち一人ひとりが、ほんとうに真摯に自らへの問いとして考えることによってしか、近づくことのできない問いなのだということ――とでも言えばいいのだろうか。

あるいは逆に、私たち一人ひとりの孤独な「心」の問題こそが、真の「社会」や「政治」の問題なのだ、と言っても同じことだ。

例の有名な『3年B組金八先生』の挿入歌としてのテレビ放送よりも、約1年前のことだが、私にとって、中島みゆきファンへの最後の決定的な一歩を踏み出させたのは、この夜の「世情」だったと言って間違いない。

昨年9月の記事で、「ミルク」のマスター前田さんの言葉に託して書いたこと――中島みゆきが私たちに投げかけつづける、容赦のない徹底的な問いかけ――は、そのようにして私たち一人ひとりの孤独な「心」と、「社会」や「政治」さらに「世界」とを、はるかにつなぎながら往還する、めくるめくような世界観によって基礎づけられているのだと思う。

 

――「オールナイトニッポン」の話に戻ろう。

おそらくこの時期、1980年の春頃に集中的に、上記のようなエピソードを通じて、中島みゆきの――あのコミカルなDJとバランスを取りながらでなくてはむしろ支えきれないような――限りなくシリアスな「重さ」を、私は本当に知ったのだと思う。

とりわけ、「最後の葉書」のコーナーで、口調や声のニュアンスからもはっきりと伝わってくる、私たち、顔の見えないリスナー一人ひとりに、徹底的に真摯に、誠実に関わってこようとする彼女の姿勢――その迫力に圧倒され、自らの世界観の根底的な変容を迫られ、そして自らの生への限りない励ましを受け取ったこと――それだけは、今も忘れようのない記憶として残っている。

あれから37年――

お気楽だった当時の学生は、今や中年も後期に差し掛かり、公私のあれやこれや――その中には、自らの子どもの受験などという頭の痛い懸案も含まれていたりする――に日々思い悩む、一職業人・家庭人となっている。

しかし、中島みゆきはこの37年間変わることなく、私に、究極的にはただひとつのこと――この私は、この世界の中で何処にいるのか、そして何処へゆくべきなのかということ――を歌い、語り、そして問いつづけてきた。

そのことへの限りない感謝をこめつつ――上記のような出会いの記憶を、今日この日に改めて噛みしめている。