夜会VOL.20『リトル・トーキョー』――その1

夜会VOL.20『リトル・トーキョー』の初日1月30日、ついで中日 (なかび) 2月12日の公演を観た。

中日のカーテンコールの最後に、声だけの特別キャスト・泉谷しげるがこの日の客席に来ていることを中島みゆきが告げ、周囲から万雷のスタンディング・オベーションを浴びるという幸運なサプライズがあった。私は2階席だったので、1階席の興奮がよく見えた。

その喝采は、彼がこの作品の中のネガティブな要素を一手に引き受け、声と歌のみで堂に入った悪役ぶりを見事に演じきったことにも向けられていたように聴こえた。それは裏返してみれば、舞台に登場するメインキャストたちの演技が、総じてポジティブな善意に満たされていたこととの、強烈なコントラストの反映でもあったのかもしれない。

 

そのことからも示唆されるように、『リトル・トーキョー』は、とにかく、これまでになく「明るく愉しい夜会」というのが偽らざる第一印象だ。初日を観おわった時のわくわくした幸福感が、今も胸中にそのままに弾んでいる。

ただそれは、この演目がこれまでの演目に比べて、単純であるとか平板であるとかいうことを意味するわけではない。

「新しいのに懐かしい」――Twitterのフォロワーでもある長年のファン仲間のひとりは、初日の印象を的確にそう表現してくれたが、それに倣えば、「愉しいのに哀しい」「わかりやすいのに謎めいている」……というふうにも言えそうだ。もともと夜会にはそうした多面性があったが、それがもう一段更に高いレベルで実現された、というべきだろうか。

観終えたあと、なかなか言葉にしきれない千々の想いが胸の奥底に残るのは、これまでの演目でも同様だったが、今回はそうした明るく愉しい印象の分だけ、胸に残る余韻はむしろ深い。

 

公演はまだ折り返し点を過ぎたところであり、上記のような複雑な印象は、まだ私の中で十分には整理しきれていない。今は、とりあえず現時点での覚書として、とりわけ重要に思えることを中心に、その印象の内容を可能な限り言葉にしておくことにしたい。

なお以下の記述は、基本的には2回の公演を観た私自身の記憶に基づくが、パンフレットに記載された情報を適宜補完している。また、必ずしも舞台の進行順の記述にはなっておらず、ストーリーの説明は、文脈上最低限必要な範囲にとどめている。

 

「リトル・トーキョー」という場所

夜会VOL.20のタイトルが発表されたとき、その意味について、さまざまな想像をめぐらせて楽しんだ。「リトル・トーキョー」とは一般的には――最も有名なロサンゼルスのそれに代表されるように――海外各地につくられた日本人街の通称である。だとすれば今回は、海外に流浪した日本人の物語なのだろうか――そんな単純な予想は、少なくとも表面上は、見事に覆された。

 

初日の第1幕の緞帳が上がったとき、まず目に飛び込んできたのは、舞台中央に設えられたライブスポットの木造のステージ――その上部には、古典的な書体のアルファベットで “Little Tokyo” と書かれた大きな看板が掲げられている。

ステージの背後は、峨峨たる雪山が視界のすべてを覆う。

この場所、北海道に建つ「ホテル&パブ・オークマ」の女将である大熊杏奴[あんぬ] (中島みゆき) は――メインビジュアルのとおりの――ワインレッドのクラシカルな英国風ドレスを身にまとい、下手にある、これも古風で立派なデスクのあたりで3曲の新曲を歌ったあと、中央のステージに上がり、スタンドマイクの前に立つ。

その曲のイントロが始まった瞬間、私の背中に電流のような衝撃が走った。

――「野ウサギのように」!

VOL.7『2/2』以降、夜会の初演の演目は、テーマ曲「二隻の舟」を除くすべてが新曲で構成されてきた。この瞬間、その慣例に終止符が打たれたのだ。

ちょうど30年前のアルバムのタイトル曲を中島みゆきは、まるでアイドル歌手のような可憐な振付で、楽しげな笑顔を絶やさずに歌う。

野に棲む者は 一人に弱い
蜃気楼(きつねのもり)へ 駈け寄りたがる

このフレーズは、この場所が――パンフレットに掲載されたテーマ曲「リトル・トーキョー」の歌詞を借りていえば――「帰る先を失くした」人びとが集まってつくりだす仮初めの住処、あるいは「幻の場所」であることを示唆しているのだろうか。

だがそのこと以上に強く印象づけられるのは、この曲のアウトロでの振付、スカートの裾を両手でつまんでステップを踏みながら中島みゆきが踊る姿だ。それは否応なしに30年前のコンサートの記憶――1989年の『野ウサギのように』ツアーではなく翌年の『Night Wings』ツアーでの「野ウサギのように」だったかもしれないが――を、私の中にありありと蘇らせた。

もしかしたら、「帰らないすべてが ここだけに有る」リトル・トーキョーとは、私たちファンにとって、過去の中島みゆきのすべてのライブの記憶が保存され再生される場所でもあるのではないか――もちろんこれは、ファン目線からの深読みのしすぎだろうが、そのようにさえ錯覚させてくれるのも、この夜会の大きな愉しみのひとつとなった。

 

――ただ、それは深読みのしすぎとしても、このライブスポット「リトル・トーキョー」が、この夜会の中に設えられた一種の劇中劇のステージであることは明らかだろう。

セットリストの中で、「野ウサギのように」に始まる第1幕の5曲の既出曲は、いずれも「リトル・トーキョー」のステージ上で歌われる。更に、第2幕で宮下文一が歌う「紅灯の海」も、東京・新橋の料亭『華乃屋』の奥座敷という設定になってはいるが、そこは舞台装置の配置としては「リトル・トーキョー」のステージと同じ場所である。この事実は、上述の印象をより強める。

元ロックミュージシャンの農場主・「おいちゃん」こと笈河修身 (石田匠) がこのステージでギター片手に歌う姿は、はまり役として見事に決まっている。第1幕の後半で、「テキーラを飲みほして」を歌いおえての「サンキュー、リトル・トーキョー!」というノリの良い挨拶には――今回のセットリストでも最も初期、1983年のこの曲への懐かしさも相まってか――客席から間髪を入れぬ拍手が沸いた。

夜会の舞台進行の途中での拍手は、これまでにも例がなかったわけではないが、今回は明らかにその意味が違う。ライブスポット「リトル・トーキョー」とは、さまざまな夢が歌われ、演じられる舞台そのものの比喩であり、拍手はそのような夢の記憶への拍手でもあるのだ。

 

――劇中劇のステージ「リトル・トーキョー」の盛り上がりは、第2幕も中盤、舞台前縁の上のミラーボールが回転し、舞台も客席も華やかな光に包まれる中、5人のキャストが声を合わせて歌い舞うタイトル曲「リトル・トーキョー」で最高潮に達する。

そのアウトロが閉じたときの万雷の拍手の中、中島みゆきは――杏奴という役柄をあえて離れて――喝采に応え、「それでは、そろそろお話を進めてまいりましょう」と、舞台を物語の流れの中に引き戻す。このように、彼女が役柄から離れて客席に語りかけるのは、VOL.3『邯鄲』で演劇的形式が導入されて以来、夜会ではおそらく初めてのことだ。

それほどに、「リトル・トーキョー」という劇中劇のステージは、この夜会の舞台の全体を強い磁場によって意味づけているということだろう。

 

群像劇

さて、「リトル・トーキョー」は、杏奴の姉で、18歳のときにミュージカル歌手を目指して上京し、渡米したあと長く行方不明となっていた朝倉李珠[りず] (渡辺真知子) の帰りを待ち受けるための場所でもあった。

第1幕中盤、その李珠の思いがけぬ帰還によって、物語は動き出す。

――事実上の準主役である渡辺真知子の存在は、冒頭で強調したこの夜会の明るさ、愉しさの光源に位置している。彼女が登場しただけで、舞台はまるで暖色系の光に隈なく染められるかのように見えた。

李珠は修身と幼馴染だったようで、妹の杏奴さえすぐには気づかなかった彼女に、彼は一瞬で気づき「りっちゃん、おかえり!」と快活に告げる。その二人が第1幕の終盤で歌う「後悔はないけれど」の美しいハーモニーは、ともに音楽への夢を経めぐったあと、故郷での再会を果たした二人のあいだに交わされる想いの共鳴のようだ。

 

その一方、第2幕ではもうひとつの再会が果たされる。

杏奴の夫「ふうさん」こと大熊文夫 (宮下文一) は、1年前、東京・新橋の料亭で、異母兄の不動産会社社長・権作 (声・泉谷しげる) から、朝倉家の広大な土地を乗っ取るため、杏奴を暗殺しようという謀略を聞かされ憤る――ここが、冒頭で触れた泉谷の声による名演技、迫真力ある悪役ぶりが見事に発揮される場面だ。

この密談を立ち聞きした芸妓・梅乃 (植野葉子) ――文夫と東京で暮らしていた愛人――は危険を察知して失踪し、北海道の笈河修身の農場で獣医助手として働きながら、杏奴の身辺の状況を探っていたようだ。

第2幕の中盤、杏奴の遺体が雪崩の下から見つかったという警察の情報を受けて「ホテル&パブ・オークマ」に戻ってきた文夫は、思いがけず梅乃と再会する。

 

――この二組の再会の外に、ヒロイン杏奴はいる。

文夫との結婚は、両親の死後――それも大熊家の陰謀であったことが上記の密談で示唆されている――広大な家屋敷の相続に窮した杏奴に、権作と文夫の父である大熊不動産の先代社長がもちかけたものだった。「動物好きな温和しい性格ですから、新しいホテルの代表に」と。

そうした計略結婚の経緯から、二人のあいだには、最初から大きな距離感が存在していたようだ。第1幕の冒頭、支配人に促されてしぶしぶ文夫と電話で話したときの杏奴の声は、およそ夫との会話とは思えぬ、よそよそしいものだった。

ところが――おそらくは電話が切れた後のひとり芝居で――「裏山の山犬の”つらら”が仔犬を産んだのよ! 三匹もよ~」と語りかける杏奴の声は、それまでとはうって変わって甘やかで親しげで、動物たちへの思いのみが二人の遠い距離をつないでいたのだろうか、とも思わせる。

後述する第2幕のラストで、既にこの世にいない杏奴は、「あたしだって、ふうさんのこと、ずーっと大好きだったんぞ」と想いを告げるが、それが今生で叶えられることはない。

 

――再会を果たした二組と、その外にいる杏奴、そして (後述する) 小雪の6人全員のキャストによって歌われる「二雙の舟」は、彼女たち、彼らのあいだでそれぞれに交錯する想いが響きあい、力強く胸に迫ってくる。

「二雙の舟」は、最初の2つの夜会でフルバージョンで歌われたのち、VOL.3『邯鄲』以降は、さまざまな物語の文脈の中で、さまざまな部分が取り出されて歌われてきた。今回、中島みゆきが「時流を泳ぐ海鳥たちは……」から歌い始め、やがて6人の大合唱となってエンディングに至るアレンジは、これまですべての「二雙の舟」の中でも、最も激しく心を揺さぶるものになった。

 

この「二雙の舟」に集約的に表現されているように、これまでの夜会でも最大の6人というメインキャストが起用され、その一人ひとりが個性を発揮する群像劇となっていることも、『リトル・トーキョー』の新境地のひとつだ。

そして、この群像劇の中心に位置し、それぞれに個性的なキャストたちを導いていく中島みゆきの強靭な求心力は、より力強さを増したと言うべきだろう。

 

「自然」の呼び声

「帰る先を失くした」人びとによってつくりだされた「夢の国」リトル・トーキョーとは、いわば「都市」という人工の世界の縮図であり、その外側には、舞台背景の雪山に象徴される「自然」が広がっている。

だが都市は、その背後にある自然なしには存立しえない。第1幕の中盤、修身が持ち込んだ血の滴る鹿のアラに杏奴は恐れをなし、「外に出して!」と叫ぶが、そのようにして血なまぐさい自然を視界の外に追いやり、かつそれに依存せざるをえないという矛盾によってはじめて、人工の世界は維持されているのだ。

 

――そうした都市と自然との対比は、この夜会全体の構成上は、第1幕と第2幕との対比に反映されているようにもみえる。

第1幕のラスト近く、雪山に響く密猟者の銃声を聞き、杏奴は「つらら!」と叫んで裏の雪山へ飛び出してゆく――その直後、地鳴りのような轟音とともに、雪山を襲う雪崩。

そして幕切れ寸前、「リトル・トーキョー」のステージの下という不思議な場所から彼女は突然姿を現し「つららが撃たれた!」と叫ぶが、この時の衣装は上述のワインレッドから純白に変わっていて、すでに彼女がこの世の者ではないことを鮮明に可視化する。

李珠が「いつ帰ってくるの」と歌い、ホテル&パブの人びとが杏奴の帰りを沈痛な様子で待つこのシーンは、第2幕の冒頭でもリピートされるが、床に敷かれた絨毯の色は、第1幕の暖色系から寒色系に変わり、そして舞台下手の窓や扉の枠には、多くのつららが下がっている――撃たれた山犬が自らの名によってこの世に思いを残そうとするかのように。

すでに自然は、第2幕の冒頭で、この人工の世界を侵食しはじめているのだ。

 

――その自然の世界からの使者として、杏奴はつららの忘れ形見の次女・小雪 (香坂千晶) を連れ帰る。

彼女は人間の女の子の姿をし、人間の言葉を話し、そして人間として「リトル・トーキョーのスター」を目指して「新人研修」を受ける。最初は歌の音程さえまったくの調子外れだった彼女が、やがて歌も踊りも上達し、成長していく様子は、自然・野生の世界から人間・文明の世界への移行を意味しているかのようにも見える。

前述の、ミラーボールが回転する「リトル・トーキョー」は、そんな彼女の最高の晴れ舞台となった。

 

――だが、第2幕の終盤、再び裏の雪山に地鳴りのような轟音が響く。雪山の下手側には何匹もの山犬の眼が光り、かすかな遠吠えが聞こえてくる――それは「自然」の呼び声でもあるかのようだ。それを耳にして、野生がよみがえったかのように、キャン、キャンと鳴きはじめる小雪。

父さんだ、父さんが迎えに来た!

「リトル・トーキョー」のステージに駆け上った小雪は、下手に向かって座りながら顔を上げ、魂の震えるような長い長い遠吠えで父犬に応える。

この小雪の見事な遠吠えは――おそらく前作『橋の下のアルカディア』での零戦の登場と同様に――今作の大詰めでの最大の転換点である。あるいはもっと以前、『花の色は……』の終曲「夜曲」のさらにアウトロで、月に向かって歌うかのような杉本和世のスキャットの絶唱とも、比肩しうるかもしれない。

 

――動物を擬人化して描くという方法は、演劇も含めてさまざまなジャンルで定番化した表現方法ではある。だが、この夜会での小雪の存在は、そうした演劇的表現という以上に、人間と動物、文明と自然との越えがたい境界線が、まるで奇跡のように越境されることを意味しているように見える。

そして、まさしくその越境――いったん雪山へ走り出たあと、「リトル・トーキョー」に駆け戻ってきて、山崩れの危険を告げる小雪――によって、人間たちもまた救済されるのだ。

山崩れによって半ば崩壊した「リトル・トーキョー」のステージで、杏奴が力強く歌う、終曲「放生」――

さあ悲しみを超えて
ゆくべき世界へ

解き放て 解き放て
輝いていてくれるように

――それは、文明と自然との境界を越えて、生きとし生きるものすべてが、あらゆる呪縛から解き放たれ、新たな世界で新たな輝きを獲得することへの讃歌だ。とりわけこの歌のエンディングで、「さあーーーーーーーー!」と4小節以上もつづく中島みゆきの素晴らしいロングトーンが、その解放の意味を再確認し、舞台は閉じられる。

 

追記1 「山犬」について

「山犬」という言葉について、少し補足しておこう。『日本国語大辞典』には、「山犬」は「にほんおおかみ(日本狼)の異名。また、野生化して山に住む犬」とある。

パンフレットのあらすじ「序」には、杏奴と李珠の祖父、英国人動物学者ヘンリー・アダムスは「狼の生きてゆける自然を護るため……この地に永住を決めた」とあるので、実質的には「山犬」は「狼」を意味しているとも取れる。

ただ、現実には、ニホンオオカミ (本州に生息) もエゾオオカミ (北海道に生息) も、20世紀前半には絶滅しているので、この夜会の時代設定、2000年12月に北海道に野生のオオカミが生息していたとは考えられない。もし「山犬」が「狼」を意味しているとすれば、それはやはりひとつのファンタジーとみるべきなのだろう。

舞台上の台詞でも、(上記のあらすじ「序」を除く) パンフレットの記述でも、「狼」ではなく「山犬」という言葉が使われているのは、そうしたリアリティとファンタジーとの微妙なバランスの上に立った表現なのかもしれない。

 

ちなみに、北海道標茶町には、アラスカから連れ帰ったオオカミが2017年まで生息していた「オオカミの森」という施設があるとのことだ。この記事の最後の方にある「オオカミの目を通して自然をみつめる」という言葉は、この夜会のメインビジュアルの画像を連想させる。

 

追記2 さまざまな気がかり

上記以外にも、『リトル・トーキョー』について語るべきことは、まだまだ数多くありそうだ。

形式上の新機軸については、30年の夜会の歴史の中で、VOL.3『邯鄲』での演劇的形式の導入、VOL.7『2/2』での全新曲による構成についで、VOL.20『リトル・トーキョー』は3度目の大きな飛躍をなした、というべきだろう。その理由の一端――とりわけ、既出曲の挿入――については、この記事でも少し触れた。

内容的には、VOL.11『ウィンター・ガーデン』以降ずっと踏襲されてきた「転生と救済」という基本モチーフのうち、「転生」が――少なくとも表面上は――外れたことは、やはり大きな転換であるように思う。しかし、上述のとおり、すべての生を新たな「ゆくべき世界」へと解き放つラストシーンの解放感はこれまでに比類がなく、まったく新たな次元での「救済」を感じさせてくれる。

 

ところで『ウィンター・ガーデン』といえば、この演目と今回の『リトル・トーキョー』のあいだには――表面上の印象はきわめて対照的であるにもかかわらず――いくつかの不思議な暗合のようなものが存在していることも気になる。一点だけ挙げれば、20世紀の終わりという『リトル・トーキョー』の時代設定は、VOL.11『ウィンター・ガーデン』がBunkamuraシアターコクーンで実際に上演されていた時期と、ほぼ重なっているのだ。

さらに、個々の曲――新曲、既出曲を含めて――や、個々の場面の演出の細部の意味については、私の記憶力や筆力の限界ということもあるが、この記事ではほとんど触れることができなかった。

そうしたさまざまな気がかりについては、次の記事――おそらく千秋楽よりも後になるだろうが――に譲ることとし、いったんこのあたりで記事を閉じることにしたい。

 

(「夜会VOL.20『リトル・トーキョー』――その2」につづく)

【コメントは、上記「その2」にお願いします】

空ゆく数多の翼には (2)――零戦のリアリティとファンタジー

零戦52型 (復元、海上自衛隊鹿屋航空基地史料館)

夜会VOL.20『リトル・トーキョー』の初日が目前に迫った。チケットもすでに手元にある。

そんな今になっても、すでに初演の初日から4年と少しが過ぎた『橋の下のアルカディア』の舞台の記憶は、新鮮で懐かしい。あの世界の隅々までは、まだまだ探索しきれていないのに……という焦燥感のようなものが胸に迫る (まあ、それを言ってしまえば、さらにそれ以前の数々の演目も、すべて基本的には同様なのだが)

だが、時間は有限だ。昨年8月の記事で予告したように――『橋の下のアルカディア』の多面的な構成要素の中でも、とりわけ重要でかつ個人的な気がかりでありつづけてきた――零戦をめぐるリアリティとファンタジーについて、これまで気づいたり考えたりしたことをいま可能な限りまとめておくことで、とりあえずの区切りとしよう。

なお、一部これまでに書いた記事と重複する部分もあること、また内容の性質上ややマニアックな記述を含まざるを得ないことは、ご容赦願いたい。

 

零戦――零式艦上戦闘機――は、よく知られている通り、第二次世界大戦期の日本海軍の主力戦闘機である。1万機以上が生産され、戦線に投入された。大戦初期にはその優れた空戦性能等によって敵機を圧倒したが、米英の新型機の開発・投入が進むとともに次第に劣勢となり、戦局全体が著しく悪化した大戦末期には、多くが特攻機としても使用されるという、悲劇的な運命を辿った。

その栄光から悲惨への道筋は、日本にとって、先の大戦の記憶そのものを象徴していると言っても過言ではないだろう。『橋の下のアルカディア』のラストシーン――破局からの脱出と救済への飛翔――に、零戦が登場する基本的な理由もそこにある。

 

4年前、初演の初日のレビューでも書いたように、『橋の下のアルカディア』は――とりわけ、あの巨大な逆説と衝撃に満ちたフィナーレは――究極的にはひとつのファンタジーである。

しかし同時に、その中心に位置する零戦の表現には、実は周到なリアリティへの配慮がなされてもいるということに、ここで注目したい。そのリアリティとファンタジーとの不思議な均衡こそが、戦争の記憶という、舞台の終盤になってようやく明かされる主題の重みを支えているのだ。

 

造形のリアリティとファンタジー

ラストシーンの零戦の造形については、以前、Facebookで知り合ったベテラン航空機技術者であり、零戦の復元にも携わったことがあるHさんというかたから、数々の貴重なご教示をいただいた。ずいぶん時間がたってしまったが、ここに深く謝意を表したい。

以下、本節の内容は、そのHさんからの示唆に基づき、まとめなおしたものである――

 

まずプロペラについて。プロペラブレードの臙脂色の塗色と、その先端の危険識別のための黄色のライン、そして3枚のブレードが反時計回りに回転するのは、いずれも実機の忠実な再現になっている。

機体前部のエンジンカウルの黒の塗色や、その下部にある吸気口の造形も同様だ。

主翼両端に輝くナビゲーションライト――左舷が赤、右舷が緑――は、実機や航空法に準拠したものである。再演VOL.19で追加された演出だが、第2幕で高橋九曜 (石田匠) が「水晶宮」を歌うところで、祖父・一曜と父・忠の遺影を収めた仏壇の脇から取り出す零戦の模型にも、このナビゲーションライトが印象的に輝いていた。

――Hさんは子どものころ、星を観察していると、この赤と緑のナビゲーション・ライトを灯した旅客機が上空を何機も通過するのを飽きずに眺め、空への憧れを抱いたという。

空ゆく数多の翼には 憧れ抱かせる光がある

という「国捨て」の歌詞は、そのようにして空に憧れた少年たちの記憶にも裏づけられているのだろう。

 

その両主翼の、胴体から1/3ぐらい離れたところに、実機では零戦の主兵装である20mm機銃が搭載されている。

――が、『橋の下のアルカディア』のラストシーンでは、エンジンが起動し上述のプロペラの回転が始まるとき、その位置に2つの前照灯が点る。さらにエンジンがフル回転し、いよいよ機体が上昇し始めるとき、前照灯はまばゆく輝きを増す。

あるはずの銃もなく あるはずの武器もない
見るがいい その場所には 輝く何かが見える

この『国捨て』の再演での追加歌詞は、リアリティからファンタジーへの上記の転換を正確に反映している。

 

さらに「武器」については、機体下部も見逃せない。零戦の実機では、下部に増槽 (航続距離を延ばすための追加燃料タンク、約400kg) がぶら下げられることがあり、また特攻機の場合は、500kg爆弾を搭載するのが一般的だった。

――『橋の下のアルカディア』で、それらの代わりに零戦がぶら下げるのは、いうまでもなく人見と天音の二人が乗ったケージである。垂直上昇はともかくとして――これはこの場面の最大のファンタジー要素であろう――機体が懸架しうる荷重という観点からみれば、零戦が二人の乗ったケージを吊り下げることには、十分にリアリティの裏付けがあるのだ。

私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった

初演時から歌われた『国捨て』の核心をなすこの歌詞もまた、そのようなリアリティからファンタジーへの転換――爆弾から人を乗せるケージへ、機銃から行く手を照らす前照灯へ――と正確に呼応している。

 

そして、リアリティとファンタジーとの均衡という点で、おそらく最も視覚的に重要な意味をもつのは、機体そのものの塗色だろう。

これも初演 (VOL.18) の初日のレビューで書いたことだが、零戦の機体上面が濃緑色、下面が灰白色という塗り分けが一般化するのは「52型」に代表される後期型からであり、初演ではこの塗色が再現されていた。機体上面の濃緑色が「緑の手紙」を可視化する一方で、下面の灰白色――この塗色は、下から見上げた時に空に溶け込む保護色の意味があったとも考えられる――は、リアリティを担保していた。

しかしながら、再演 (VOL.19) では――零戦が上昇してゆくにつれて必然的に目に入ってくる――機体下面もまた、上面と同じ濃緑色に塗装されていた。これは実機には存在しない塗色であり、リアリティからファンタジーへと大きく舵を切った転換とも言えよう。

そして言うまでもなく、破局からの救済へのメッセージである「緑の手紙」の意味は、この転換によって、より強烈かつ鮮明に表現されることになったのだ。

 

吹きつづける風

さて、『橋の下のアルカディア』で零戦のリアリティを支えているのは、上述のような機体の視覚的造形だけでは実はない。

艦上戦闘機の「艦上」とは、空母 (航空母艦) 上で運用される――空母の飛行甲板から発艦し、またそこに着艦する――という意味である。実際には陸上基地で運用されることもあったが、艦上で運用されることを前提として設計されている。

『橋の下のアルカディア』にはもちろん空母は登場しない――が、その代わりに艦上機であることの意味を示唆しているのは、終曲「India Goose」の全編を吹く「風」である。

 

第二次大戦期の空母の全長は、日米ともにおおむね200~270mぐらいであり、陸上基地の滑走路 (通常、最低でも1kmはあった) よりも遥かに短い。当時、アメリカ海軍の空母は、その滑走距離の短さを補うため、カタパルト――油圧等の強い力によって艦上機を前方に射出する装置――を装備しつつあったが、日本海軍の空母にはカタパルトはなかった。

そこで、戦争映画等でしばしば描かれるように、艦上機の発艦時には、日本の空母は風上に向かって全速で航行する――これを「艦首を風に立てる」という。向かい風と空母の速力、そして機自身の速力との合成風力によって、翼はようやく十分な揚力を得、甲板から飛び立つ。

いつの風か約束はされない いちばん強い逆風だけが
高く高く峰を越えるだろう 羽ばたきはやまない

「India Goose」のこの歌詞は、そのように逆風を突いて飛び立つ零戦の姿を彷彿とさせる。また、

小さな小さな鳥の列が なぎ払われる
小さな小さな鳥の列が 組み直される

このフレーズは、戦場の大空を舞い、闘い、そしてその多くが散っていった零戦の映像と二重写しになっては見えないだろうか。

 

――さらに、「India Goose」のイントロや間奏に繰り返される、弦による小刻みな三連符と大きな抑揚とが印象的なあの旋律もまた、強風にあおられる「小さな小さな鳥の列」を聴覚的に表現しているように、私には聴こえる。

『橋の下のアルカディア』の冒頭が、いきなりこのイントロで始まることを思い出したい。それはフェイントのように「なぜか橋の下」につながっていくのだが、もしかしたら「India Goose」の強風は、冒頭からフィナーレまで、この演目の全編にわたって吹きつづけていたのかもしれない。

再演で追加された風鈴の演出も、あえて深読みすれば、そのことを暗示していたようにも思える。「模型の高橋」の軒下に人見が吊るす5個の風鈴は、この世にいない者たちの思いをこの世に呼び戻すための信号であると同時に、「風」が過去から未来へ――あるいは、未来から過去へ――と絶えず吹きつづけていることを示す信号でもあったのではないか。

その「風」は、私たちの運命を翻弄してきた歴史の奔流でもあり、そして同時に、私たちを新たな未来へと飛翔させる揚力でもあるのだ。

 

追記: 映画『風立ちぬ』について

ところで零戦といえば、その設計者として有名な技師・堀越二郎を主人公のモデルとした宮崎駿監督のアニメーション映画『風立ちぬ』 (2013年) のことを思い出すかたもおられるかもしれない。

この映画では、冒頭の二郎の少年時代、大空を翔ける夢の中に、イタリアの航空技術者カプローニの姿を借りて、彼を誘惑する悪魔が登場する。

悪魔は二郎とどこかへ飛んでいく飛行機の編隊を見上げながら、「あの半分も戻ってこまい 敵の街を焼きに行くのだ」、「だが戦争はじきおわる」と語りかけ、「飛行機は戦争の道具でも商売の手立てでもないのだ」、「飛行機はうつくしい夢だ 設計家は夢に形をあたえるのだ」などと、甘い言葉で二郎を誘惑します。
(一ノ瀬俊也『昭和戦争史講義――ジブリ作品から歴史を学ぶ』人文書院 2018年, 23頁)

――「戦争の道具」という現実と、「空ゆく数多の翼」に憧れる少年の夢との両義性。

 

『風立ちぬ』という映画のタイトルは、サナトリウム文学の名作として知られる堀辰雄の同名の小説から取られており、そのモチーフは、二郎の婚約者・菜穂子の存在に投影されている。

残された僅かな生を愛とともに生きようとする菜穂子と、戦争へと突き進む歴史の中で「うつくしい飛行機」を創る夢にこだわり続ける二郎。ふたりの生を通して、個の生の意味と、その背後にある巨大な歴史の流れとが重ねあわされる。

繰り返し美しく呈示される風と飛行機とのイメージが、かれらの生きた風景を貫く時間の流れを可視化する。風に乗り、空を飛ぶこと――それは生の自由への希求なのか。

 

この映画と『橋の下のアルカディア』(2014年初演) との関係についても、確かなことは何も言えない。ただ、風と飛行機とのイメージ、そしてそれらに託される生の自由への希求は、文脈やジャンルの差異を超えて、両作品をつないでいるようにも思えた。

 

新たなるリアリティとファンタジーへ

「言葉の実験劇場」と銘打って30年前にスタートした夜会は、前作『橋の下のアルカディア』に至るまで、総じてファンタジーを基調としながらも、その背後には確固たるリアリティ――私たちが生きている、この現実の世界――への眼差しが存在してきた。

だからこそ、客席の私たちは、舞台上に構築され提示される世界が、劇場の外に存在している私たちの現実の世界を根底から揺るがし、そして「転轍」するかのような衝撃を、何度も味わうことができたのだと思う。

――30年目の演目、VOL.20『リトル・トーキョー』の初日は目前に迫った。

その舞台で、どのような新たなリアリティとファンタジーとに出会うことができるのか――とりわけ今回は、事前に公開されている情報がきわめて少ないこともあり――強い胸騒ぎにも似た期待とともに、今は待ちたい。

「忘れられない歌」が呼び覚ます記憶――「りばいばる」をめぐって

前の記事の続編として予告した零戦のこともずっと心にかかってはいるのだが、たまたまひと月ほど前、Facebookの「中島みゆき」公開グループでの話題に加わって、あれこれ考えたり書いたりしたことを、とりあえず先にまとめなおしておきたい。

 

きっかけは、1979年のシングル「りばいばる」と、そのジャケット写真についての話題である。

その時グループメンバーの某氏が紹介してくださったのだが、リリース当時のインタビュー記事 には、次のような興味深いやりとりがある(『週刊セブンティーン』1979年9/11号)。

まず、歌詞について――

――この はやってた歌ってなに?
それは秘密。それいったらわかっちゃうもの

次に、セピア色のジャケット写真に写る幼女について――

――この子は?
ウン? あたしの2歳のときのよ。この服、お母ちゃんが自分の服を切って作ってくれたものなの

これらのやりとりから、「りばいばる」の「忘れられない歌」には、やはりモデルがあったのか――と、今更ながら気づかされたのだ。「秘密」の歌とは、いったい何だったのだろうか?
(なおジャケット写真については、この記事のもっと後のほうで触れる)

1976年から1972年へ

そこで、1970年代のヒット曲のリストをざっと眺めてみたところ、まず最も有力そうに思えたのが「ビューティフル・サンデー」(ダニエル・ブーン)である。

この曲は世界的には1972年に大ヒットしているが、日本では1976年にリバイバルヒットした (この年、オリコン年間2位)。私も、当時――高校生の頃――街角やテレビでしょっちゅうこの曲が流れていたのをよく覚えている。

「ビューティフル・サンデー」の底抜けに明るい曲調と「りばいばる」とは、そぐわないといえばそぐわないのだが、

When you said said said said that you loved me

という歌詞は、「りばいばる」のサビ

愛してる愛してる いまは誰のため

とも、なんとなく呼応しているような気がした。

 

もう1曲候補になりそうなのが――「りばいばる」と同じ1979年のアルバム『親愛なる者へ』収録の「タクシードライバー」にも「忘れたつもりの あの歌」として登場する――「アローン・アゲイン」である。

原曲は1972年、イギリスのシンガー・ソングライター、ギルバート・オサリヴァンのヒット曲だが、日本ではなんと ――調べてみて初めて知ったのだが――やはり1976年に草刈正雄が(日本語訳詞で)カバーしている。

もっとも、こちらはとくにヒットしたわけではないので、街角で思いがけず流れてくる、というシチュエーションは考えにくいのだが……

あるいは、さらに深読みをすると、たまたま原曲とリバイバルないしカバーの年が一致しているこれら2曲にまつわる記憶が、「りばいばる」では巧妙に合成されているのではないか――という可能性もありそうな気がした。

 

ところで、「タクシードライバー」と同じく『親愛なる者へ』に収録されている「根雪」でも、「やさしすぎて なぐさめすぎて」余計なことを思い出させる「古い歌」が町に流れる。

以前の記事では、この「古い歌」とは、札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」のことだったのではないか、と想像をめぐらせたが、札幌オリンピックの開催もやはり1972年だった。

つまり、1979年にリリースされた3曲「りばいばる」「タクシードライバー」「根雪」が、いずれも――中島美雪が20歳になった年――1972年の記憶を指し示している可能性がある、ということになる。もちろん複数の憶測を重ねたうえでの話なので、きわめて根拠はあやふやではあるが、魅力的な想像ではあろう。

更なる過去へ

さて、「りばいばる」の「忘れられない歌」問題に話を戻そう。

1970年代のリバイバルヒット曲といえば、二葉百合子の「岸壁の母」も目につく。

かつて1954年に菊池章子が歌って大ヒットしたこの曲は――実在の女性をモデルとして――大戦時にソ連に抑留された息子の帰りを舞鶴港の岸壁でひとり待ちつづける母の姿を歌い、まだ戦争の記憶が新しかった当時の人々に感涙を催させた。

二葉百合子がカバーしたシングルのリリースは1972年だが、4年後の1976年に――おそらくこの年に公開された中村玉緒主演の映画の影響もあってか――オリコン年間5位の大ヒット曲となっている。

――が、さすがにこれはないだろう、この曲のオリジナルがヒットした1954年といえば、中島美雪はまだ2歳だし……と最初は思っていた。

 

が、上述のインタビューでのやりとりを改めて読みなおし、私は愕然とした。

「りばいばる」ジャケット写真が中島美雪の2歳の時だとすると、「岸壁の母」オリジナルのリリースの1954年と正確に符合するのだ。

なぜ中島みゆきは、あえてこの古い写真を選んだのだろうか――

母が自分の服を切って作ってくれた、という発言からすると、もしかしたら、「りばいばる」には母の――さらには、父・眞一郎氏をも含めた家族の――記憶が、隠された構成要素として含まれているのでないか。

――ここで「家族の記憶」を持ち出すのは唐突に思われるかもしれない。が、日本でポピュラー音楽のジャンルが――ポップス、ロック、フォーク、「演歌」というふうに――それらのファン層とともに細分化したのは、おおよそ1960年代後半 (昭和40年代前半) 以降のことである。それ以前、つまり中島美雪の幼かった頃までは、流行歌というものは老若男女・家族みながともに耳にし、また口ずさむものだった。

あるインタビューによれば、中島みゆきの母も大陸からの引揚者であったという。もちろん彼女自身が属する世代は、「岸壁の母」よりはその息子に近かっただろう。が、立場は違えども、戦争の時代の記憶を共有するひとりとして、彼女も――そしておそらく眞一郎氏もまた――中島美雪の幼い頃から、「岸壁の母」を口ずさむことがあったのではないだろうか。

1976年は、眞一郎氏が世を去ったまさにその年でもある。「岸壁の母」のリバイバルヒットは、中島みゆきにとって、そうした家族の記憶を、思いがけずもよみがえらせる出来事でもあったのではないか――

 

以上の想像は、あくまでも状況証拠だけから半ば強引に組み立てたものであり、直接的な根拠はなにもない。が――前の記事での高橋一曜のモデルについての想像と同様に――このような自由な想像を楽しむことこそ1ファンの特権でもあろう、とあえてここでは開き直っておこう。

蛇足ながら付け加えると、「りばいばる」というタイトル自体――ひらがな表記にも意味がありそうだが――中島みゆき個人や家族の記憶にとどまらず、およそ歌が人の記憶を呼び覚ますという社会的現象の総体をもモチーフにしている、とも言えそうな気がする。

1976年の「岸壁の母」のリバイバルヒットは、多くの日本人にとって、過去に遠ざかりつつあった「戦争の記憶」を、改めて振り返らせる出来事であっただろう。

また「岸壁の母」のオリジナル歌手である菊池章子といえば、さらに以前、1947年のヒット曲「星の流れに」のことも思い起こされる。敗戦直後の社会の「夜の女」の悲哀を歌ったこの歌は、中島みゆき作品に繰り返し登場する「娼婦」のモチーフとも、どこか遠くでつながっているような気がする。

舞鶴引揚記念公園の「異国の丘」「岸壁の母」歌碑

――もはや言わずもがなのことだが、「岸壁の母」にせよ「星の流れに」にせよ、それらの大きな背景には、先の戦争という歴史が存在する。

それが近年、夜会『橋の下のアルカディア』で思いがけずクローズアップされたのも、中島みゆきの両親の世代からの記憶の継承と考えれば、それはむしろ自然なことだったのかもしれない。

 

追記: 夜会『花の色は……』の妊婦について

中島みゆきが最も最近にライブで「りばいばる」を歌ったのは、1993年の夜会VOL.5『花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に』の第1幕第4場「夏」でのことである。

この夜会全体のストーリーの下地には、知られれている通り、『雨月物語』の「浅茅が宿」――戦国時代、戦乱の地となった東国から帰らぬ夫を待ちつづけた妻、宮木の物語がある。それはもちろん、「夏」の場も例外ではない。

が、この場ではそれに重ねて、現代の戦地から帰らぬ夫を待ちつづける妊婦を、中島みゆきが演じた――夫からの手紙の末尾には、「1999年 夏、戦地にて」と記されていた。

 

――帰らぬ子を待ちつづける母と、帰らぬ夫を待ちつづける妻。後者は前者の変形でもあったのかもしれない――そう考えるのは不自然だろうか。

彼女たちの希いは、遂に叶えられることはなかった――だからこそ、中島みゆきは繰り返しさまざまなかたちで、それらの希いを歌いつづけなければならなかったのではないだろうか。

空ゆく数多の翼には (1)――「模型」に託された記憶

陸自真駒内駐屯地内にあるサイロ館

中島みゆきの故郷、北海道を私はこれまで幾たびか訪れている。

とはいえ、純粋な「聖地巡礼」と呼べそうなのは――前回の記事でも少し触れたが――今からちょうど四半世紀前の独身時代、パソコン通信でのファン仲間と3人で道央から道東を旅した時ただ1度きりである。他は仕事上の出張であったり家族旅行であったり、いずれにしても私個人の趣味を全面的に旅程に反映させるというようなことは、残念ながら困難だった。

つい先日、8月24~26日の出張でもそれは同様だった――はずなのだが、その一方で、慌しい旅程を辿るふとした合間に、この清冽で透明な空気と風景の中を、中島みゆきもかつて歩いたのだろうな――というほのかな想像が私をひそかにときめかせる瞬間が何度か訪れた。

それは必ずしも具体的な「聖地」――彼女との直接の接点――につながるものとは限らず、それよりもむしろずっと広く、およそこの北海道という風土そのものにたゆたう清冽と透明の感覚こそがもたらしたものだったのだろう。

そうした気ままな想像のゆえに――と言うべきか、旅先で偶然に触れた風景の一齣が、まったく思いがけずも、中島みゆきの作品世界の重要な部分に接続する、という経験を今回は味わった。そのことを書きたい。

狸小路アーケード街にあった模型店

札幌の繁華街すすきのにほど近く、南二条と南三条とのちょうど中間、一丁目から七丁目までを東西に走る狸小路商店街。明治初期に開業し、札幌市民には古くから親しまれてきた商店街である。ここを訪れるのは初めてだが、いわゆる「昭和レトロ」な雰囲気の濃厚なアーケード街は、夜会『橋の下のアルカディア』の舞台を髣髴とさせる。

そのような感想をTwitterに書いたところ、フォロワーのかた――このブログの読者のお一人でもある――から、次のようなご教示をいただいた。

3年前に店を閉じた「中川ライター店」という、創業113年の有名模型店が狸小路4丁目にありました。戦闘機や軍艦のプラモデルが所狭しと並べられ、アルカディアの高橋模型店にちょっと雰囲気が似ている。みゆきさんは狸小路をアルカディアの舞台イメージに重ねたと推測するのですが。

大いに興味を惹かれて検索してみたところ、この店の閉店を惜しむ数多くのブログ記事がみつかり、ここが北海道のかつてのプラモデル少年たちにとって「聖地」のごとき場所だったことが強く実感された。中でもこの記事は、写真・文章ともに当時の雰囲気をよく伝えてくれる。

店内の写真、とくに天井から吊り下げた模型飛行機は、初演VOL.18の「模型のタカハシ」のシャッターに描かれていた絵を連想させる。さらに、この記事 (に引用されている2015年1月12日付の毎日新聞記事) には、次のような事実経過が記されている。

戦時中、海軍航空隊に所属し飛行機が大好きだった3代目の中川昌三さん(88)が復員後に店を継いだ際、それまでの喫煙具などに加え、飛行機の模型をたくさん仕入れ店に並べた。(中略)中川さんは2008年に店を次男功清(のりきよ)さんに引き継いだ。ところが功清さんは13年12月、50歳で急逝。体調がすぐれず入退院を繰り返していた中川さんだったが、「店と一緒に死んでもいい」と2本のつえで体を支えながら店に立った。だが、体力の限界を感じ昨秋、閉店を決意。「頑張ってきたよなあ」と、しみじみ周囲に漏らした。

――飛行機を愛するがゆえに模型店を営んだ、元航空隊員の復員兵。そして、若くして世を去ったその後継者の息子。この時系列は、『橋の下のアルカディア』の高橋一曜・忠の父子 (九曜の祖父と父) の設定と、あまりにも正確に符合する。これを「偶然の一致」と呼ぶのは、むしろ不自然だろう。

もちろん――以前の記事で『橋の下のアルカディア』との関連について触れた小説『緑の手紙』においてもそうだったように――こうした隠された背景は、私たちファンがただ想像するほかはなく、中島みゆき自身の口から、あるいは公式資料で明かされることは決してないだろう。

だが、むしろそうだからこそ、私たちは自由に気ままに想像をめぐらすことができる――その自由を、さらにもう少しだけ行使することにしよう。

「模型」というメディア

上述のTwitterフォロワーのかたからは、こんな趣旨のリプライもいただいた――かつて狸小路商店街のテレビCMは全道に流れており、中川ライター店もよく登場した。最も熱気があった戦闘機プラモデルブームの時代、中島美雪は、弟さんに付き添って店を訪れた可能性もあるのではないか、と。

プラモデルブームの最盛期は、1960年代の高度成長期にあたる。この時代、零戦は――戦艦大和と並んで――最も人気のあるスケールモデルであった。

個人的な述懐になってしまうが――おそらく中島みゆきの弟さんより少しだけ年下の――私自身も小学生の頃、当時暮らしていた大阪郊外の地方都市の商店街の模型店(なぜか帽子屋を兼業していた)で、たまに戦闘機や軍艦、戦車のプラモデルを買ってもらうのがとても楽しみだった。その頃のアーケード街の夢のような雰囲気を、狸小路で少しだけ思い出しもした(その地方都市の商店街も、今はすっかりシャッター街になってしまっているのだが)。

やや横道にそれるが、戦後のプラモデルブームの頃、中川ライター店にせよ、上述の私が知っていた店にせよ、他業種から兼業で模型を商うようになった店が結構あったのではないか、と想像される。プラモデルに詳しい知人からも、その可能性は大いにあるのではないか、との示唆をいただいた。

この当時のプラモデルブームの意味について、ある研究書には次のような記述がある。

戦後の模型メディアは、平和主義のなかで「趣味」の領域へと社会的な位置付けを移すとともに(中略)、すでに存在する〈実物〉の外観を再現する「ホビー」となってきた。こうした模型が媒介する対象は、時間的にはすでに存在する「過去」、空間的には「形状」が重視された〈実物〉である。すなわち、スケールモデルあるいはプラスチックモデルが中心となった戦後の「模型」は、〈過去の形状を再現するメディア〉とまとめることができる。
(松井広志『模型のメディア論――時空間を媒介する「モノ」』、青弓社、2017年、109-110頁)

もちろん、戦闘機や軍艦の模型が戦後の多くの少年たちの熱狂的な「趣味」の対象となりえたのは、それらが再現する形状の原型が〈実物〉として、すなわち「人を殺す道具」として存在していた過去から、そしてネガティブな戦争の記憶の全体から、自らを切断することができたがゆえである。

空間的な形状のリアリティと、時間的な記憶の切断――あるいは忘却――との、不思議な融合。それこそが――私自身も含めて――戦後のプラモデル少年の熱狂を支えた構造的条件だった。

戦争の記憶の再生

だが、『橋の下のアルカディア』では、まさにこの構造にある劇的な反転がもたらされる。

高橋一曜から忠を経て、九曜へと託された「緑の手紙」あるいは零戦は、先の戦争の記憶――最も巨大な「生贄」が捧げられた出来事の記憶――を再生させるがゆえに、九曜たち3人を、新たな「生贄」となる運命から救済することができるのだ。

これまでも『橋の下のアルカディア』についての記事で何度か触れてきたが、この巨大な逆説こそが、この作品がもたらす強烈な衝撃力の根源にあるということは、何度強調してもし過ぎることはない。

『橋の下のアルカディア』の初演の初日、九曜に飛行帽を手渡した一曜が舞台裏に消え、格納庫の扉が一気に開き――「India Goose」のイントロとともに――零戦がその全貌を現したときの衝撃を、私は一生忘れることはないだろう。

 

「海軍航空隊に所属し飛行機が大好きだった」という中川昌三さんが、復員後、どのような思いで飛行機の模型を店に並べるようになったのかは正確にはわからない。だが、それらの模型が、かつて自ら最前線に身を置いていた現実の戦争の記憶を忘却させるようなものでは、少なくともありえなかっただろう。

中川さんに加えて、もう一人――あえて誤解を恐れずに言えば――高橋一曜の「モデル」と呼べそうな人物がいる。

陸軍特攻隊員として繰り返し9回も特攻を命じられながら、9回すべて生還したという佐々木友次さんについては、劇作家・演出家鴻上尚二の著書『不死身の特攻兵――軍神はなぜ上官に反抗したか』でよく知られるようになった。佐々木さんがなぜ生還できたのか、という問いに対して、鴻上は著者インタビューの中でこう応える――

突き詰めていくと空を飛ぶことが大好き、その思いなんじゃないかと。
生還すれば、また飛べるんですから

この言葉は、『橋の下のアルカディア』の大詰め、高橋一曜が飛行服姿で登場する場面で歌われる「国捨て」を、改めて想起させる。

空ゆく数多の翼には 憧れ抱かせる光がある
……
私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった

空ゆく数多の翼の光への限りなき憧れ――それこそが、あらゆる負の記憶を超えて、「幸せにする翼」へと人を誘うことを可能にする。

そのとき「模型」は、過去の負の記憶を託されることによってこそ、未来の人々を救済へと導く転生のメディアとなるのだ。

付記

独自ドメインに移転して最初の記念すべき(?)記事は、図らずも、またしても夜会『橋の下のアルカディア』にまつわる内容となった。この記事の続編となる(2)では、その舞台に登場した零戦について、リアリティとファンタジーとの融合という観点を中心に、少し書いてみるつもりである。

5年半続いたオールナイトニッポン月イチの放送終了や、来年1月にスタートする予定の夜会VOL.20のことなど、他にも気になる話題は色々あるのだが、また追い追い気が向いたら書いていきたい。

ひきつづき、気軽にお付き合いいただければ幸いです。

 

中島美雪の3人の師――藤の花咲く頃に――

 

藤女子大学 キノルド資料館

中島みゆきの母校、藤女子大学を、私はこれまで2回訪れている――「訪れている」といっても、正式に意を通じて訪問したという意味ではなく、単なる観光客・部外者としてキャンパス内を暫時散策したということに過ぎないが。

1回目は、もう四半世紀も前の1992年7月、パソコン通信でのみゆきファン仲間2人とともに北海道へ――今でいうところの――「聖地巡礼」に出かけたときのことである。札幌では、都心に近い南三条交差点から、北十三条のコーヒーハウス「ミルク」などを経て、北十六条にある藤女子大学へと足を運んだ。

赤い屋根とタマネギ形の尖塔が趣き深い木造三階建ての校舎「キノルド記念館」が、キャンパス外からもよく見えた。正門脇の受付のシスター姿の女性に「古い西洋建築に興味があるので、キャンパスを見学さていただけませんか」と――今から思えば少々わざとらしい理由で――許可を得て、「みゆきさんもこのキャンパスを歩いたんだなぁ」などと3人でたわいのない会話をしながら、美しい木漏れ日の下、キノルド記念館の側まで歩を進めた。

このキノルド記念館は1925年に建築され、札幌藤高等女学校の校舎として使われたのち、戦後の1961年からは文学部の校舎として使用されていた。だから、中島美雪もこの校舎で学んでいたことは間違いない。

ちなみに「キノルド」という名は、藤女子大学の設立者であるカトリック札幌教区初代教区長ヴェンセスラウス・キノルド司教に由来している。

残念ながらこの校舎は老朽化のため2001年に解体され、2003年、その外観の一部を再現して「キノルド資料館」へと改築された。この記事のトップの写真がそれである (以上の記述は、藤女子大学「キノルド資料館」のページ等による)

私が2回目に藤女子大学を訪れたのは、一昨年2016年9月にコーヒーハウス「ミルク」を訪問する途上でのことだった。この日は日曜のためキャンパスはほぼ無人で、上述の「キノルド資料館」の周囲を含め、キャンパス内をゆっくり散策することができた。四半世紀前と較べるとずいぶん新しい建物が増え、近代化された印象があった。

――さて、例によって前置きが長くなってしまったが、この記事では、中島美雪が1970年4月から1974年3月まで、藤女子大学文学部国文学科での4年間の学生時代に師事した (であろう) 3人の師について書くことにしたい。

基本的には公開されている情報に基づいているが、部分的に私の個人的な記憶に頼ったり、さらには自由に想像をめぐらせた箇所もあることはご了解願いたい。また、参照した資料の多くは、古くからの中島みゆきファン仲間のかたがたから提供していただいたものである。ひとりひとりお名前を記すことはできないが、ここに謝意を表したい。


家郷隆文氏――宗教的寛容と自律

「家郷先生お元気でしょうか!」――かつて「中島みゆきのオールナイトニッポン」で、藤女子大の学生つまり後輩からの葉書の中にその名があり、彼女が思わず懐かしそうにそうコメントしていたことを、よく覚えている。

家郷隆文氏は、中島美雪が所属するクラスの「担任」を4年間務めている。大学での「クラス担任」、それもひとりの教員が4年間担任を務めるという制度は――私の知る範囲では――かなり珍しいように思う。それだけに、氏は彼女にとって学生時代の記憶に強く結びついた存在だったのだろう。

家郷氏は1930年、浄土真宗本願寺派の隆王寺 (北海道、現岩見沢市) の住職の長男として生まれ、1956年に北海道大学大学院文学研究科を修了、1959年に藤女子大学に着任した。その後――後述するように――1984年に龍谷大学に異動したのち、1998年に定年退職、2013年9月16日に逝去している (藤女子大学『広報 藤』No.57 2014年)

著書『百人一首・その隠された主題―テキストとしての内的構造―』(櫻風社 1989年) などからみて、専攻は日本中世文学であったと思われる。

「いわゆる「秀歌撰」、秀歌百首の素朴な堆積としてみる見方、とは別の角度から、首尾一貫した、一つの主題をもつ「百首歌」としてみる見方」を提示し、「『百人一首』を、一つの完結した意味世界を構築する構造体として捉える」 (29頁) という同書のテーマも興味深いのだが、かなり専門的な内容と思われるので、ここではそれに代えて、短い文章を紹介したい。

それは、家郷氏が1984年、藤女子大学から龍谷大学に異動したとき、龍谷大学宗教部報『りゅうこく』34号 (1984年6月) に寄せた「私と宗教 これまでとこれから」という一文である。

その冒頭近くに、「中島美雪は、昭和49年3月国文学科を卒業、4年間私の担当クラスの一人でした」とある。が、個人的により興味をひかれるのは、氏の藤女子大学への着任時の面接の様子について書かれた、次のような一節である――

僧籍をもち現職の副住職である身分、いわば「異教徒」の聖職者であることが障りになるのではないかと、私自身少なからず気にしておりました。面接時にそのことを再確認しましたら、当時の学長H修道女は、「お西のお坊さまならば、ぜひお願いしたい」と申されました。「でもよい」ではなくて、「ならばぜひ」という文脈なのです。この一言が以後25年間の私の、教職者としての行動すべてを完全に拘束してしまうことになります。

――この後、H修道女自身も富山の西本願寺門徒の信仰厳しい家に生まれたという来歴や、財物の私有がほとんど許されないという修道女たちの厳しい規律、そして「このような他律的な掟が私自身の場合にはないということは、掟が定められてある以上に、自律的な自己規制が厳しく要請されてくる」という述懐へと展開して、文章は閉じられる。

私がこのエピソードに強く興味をひかれたのは、藤女子大学という環境がもつ――カトリックの修道女たち自身の厳しい規律と表裏一体ともいうべき――「宗教的寛容と自律」を端的に示唆しているように思われたからである。「異教徒」への寛容と、それゆえの自律。

藤女子大学中庭のマリア像

中島みゆきと宗教――というのはあまりにも大きすぎ、かつセンシティブなテーマなので――ここでそれを本格的に論じることはとてもできない。ただ、たとえば夜会『今晩屋』で物語の骨格をなしている――「十二天」に象徴される――仏教的世界観の壮大さ、そしてそこからもたされる転生と救済のイメージの力強い包容力の少なくともひとつの源泉は、彼女が学生時代に享受したであろう「宗教的寛容と自律」にあったのではないか、とあえて想像してみたくもなるのだ。


藪禎子氏――品格と健全な批判精神

藪禎子氏の名が中島みゆき関係の資料に登場するのは、私が知る限りでは、『ラジオマガジン』1983年10月号の「中島みゆき青春の軌跡」という特集においてのみである。この記事は――現在では掲載困難かとも思われる――彼女の少女時代から学生時代にかけての種々のプライベートなエピソードに触れているのだが、その資料のひとつとして、中島美雪が提出した「昭和48年度卒業論文題目」の写真が掲載されている。そこには、彼女の手書き文字による次のような記載が読み取れる。

昭和48年5月11日提出
学生氏名 中島美雪  担任氏名 家郷隆文
題目   現代詩 ――谷川俊太郎――

摘要  おだやかな変化を見せる谷川俊太郎のいくつかの作品群
その生命観の推察と 音の聞き取り
谷川俊太郎の「今」 そして 今の谷川俊太郎
その他 谷川俊太郎にみる 現代詩の現代性

指導者(希望) 藪 禎子

中島美雪が谷川俊太郎に私淑するに至った経緯は――「谷川俊太郎とプロテストソング(2)~中島みゆきにデビューのチャンスを辞退させた詩「私が歌う理由」」という音楽サイトの記事などにも書かれているとおり――ファンのあいだではよく知られたエピソードなので、ここでは省略しよう。

ただ各種資料によると、彼女が最終的に提出した卒論のタイトルは「現代詩 ――谷川俊太郎と日本語――」となっているので、サブタイトルに「日本語」というキーワードが追加されたという事実は、注目してよいことかもしれない。

その卒業論文を指導した (であろう) 藪禎子氏は、1930年、北海道・芦別に生まれ、1960年3月に北海道大学大学院文学研究科博士課程を単位修得中退、同年4月に藤女子短期大学国文科専任講師に着任した。その後、文学部国文学科専任講師などを経て、1973年――ちょうど中島美雪が上記の卒業論文題目を提出した年――教授に昇任し、1996年に退職、2008年10月26日に逝去している (以上は、遺作と思われる著書『野上彌生子 (女性作家評伝シリーズ3) 』(新典社 2009年) による)。専攻は日本近代文学である。

藪氏は定年退職後の1997年以降、北海道の地域誌『月間クオリティ』にエッセイを連載しており、それらは没後、『十字路 女の視角』(2009年 くま文庫 全4巻)にまとめられている。

その第1巻の巻頭に、「リラの花咲く頃」と題したエッセイが収録されている。

家ごとにリラの花咲き
札幌の人は楽しく生きてあるらし

この吉井勇の短歌を冒頭に、リラの花の咲き香る五月への想い、そして「人と自然の和み」を日々の生活の中に感じさせる札幌という街への想いが、詩情豊かに綴られる。

中島みゆきの「リラの花咲く頃」を収録したアルバム『常夜灯』がリリースされたのは2012年である。「馴染みなき異郷」にありつつ「時が来れば花は香る」と、リラの花に託して遥かな祖国への想いを歌うこの歌は、もしかしたら亡き恩師へのオマージュでもあったのではないか――と想像をふくらませたくもなる。

『十字路 女の視角』は、そのように札幌の街角の風景を――時にはその無秩序な都市化を憂いながら――描く一方で、政治情勢や経済問題といった世情への、きわめて率直かつ辛辣な批判をつらねている点も興味深い。それも、その種の言説がともすれば囚われがちなイデオロギー的磁場の歪みを感じさせることがまったくなく、むしろ健全な生活感覚と現実感覚に根ざした批判になっていることが心地よい。

総じて、近代文学研究者らしい品格ある言葉の運び、そして健全な批判精神から世界を見つめるまなざしが印象的なエッセイ群である。こうした美質はやはり、中島みゆきの言語的世界にも遥かに共鳴するものを感じさせる。


青木正次氏――言語表現への飽くなき探求

「大学の頃、とってもおもしろい雨月物語の解釈をする先生がいた」と、中島みゆきは何かのラジオ番組で語っていたという――これは私自身の記憶ではなく、かつてのパソコン通信のログでの友人の書き込みからの引用である。

この「先生」が青木正次氏である。藤女子大学の機関リポジトリを検索すると、青木氏は1973年から1978年まで5回にわたって、『藤女子大学・藤女子短期大学紀要』に「「雨月物語」:その闇と光」と題した論文を連載している。その第1回は中島美雪が4年のときであり、この連載はおそらく、それまでの講義内容をベースとしているものと思われる。

青木正次氏は、1935年横浜に生まれ、1965年に東京大学大学院人文科学研究科を中退したのち、藤女子大学助教授・教授を経て2006年に定年退職、2008年12月9日、海外 (タイ) でロッククライミング中の転落事故により逝去している (はてなダイアリー等)

専攻は日本近世文学であるが、上述のリポジトリに収録されている論文のタイトルをみると、たとえば「プロト・タイプ論 : 自己表出の史的段階像」と題した連載では『楚辞』『荘子』『論語』に、プラトン『国家』やソポクレス『オイティプス王』など東西の古典が縦横に論じられ、その一方で、森鴎外『高瀬舟』についての論文もある。

研究者データベース researchmapの「研究キーワード」欄――研究者自身が入力する項目――には、「自己表出史」「日本文学表現史」「言語表現を含む<表現>一般」とあるので、おそらく青木氏の学問的営為は、時代と洋の東西とを超えて、およそ言語による「表現」の可能性そのものへの飽くなき探求に導かれていたのではないか、と思われる。

そのような探求のひとつの結実が『雨月物語』全訳注 (1981年 講談社学術文庫 全2巻) である。一般的な古典への訳注の域を大きく超え、この異界の物語の言語的世界の奥の奥、裏の裏までを抉り出そうとするかのような、詳細で丹念な語注や考釈の迫力に圧倒される。

中島みゆきは、夜会VOL.5『花の色は…』のシナリオ本 (1994年 角川書店) で、師のこの労作を参考文献として明記している。夜会の多くの演目の中でも、とりわけ複雑な構造をもったこの作品には、そのような恩師の言語表現への飽くなき探求が反映されているのだ。

その反映のひとつひとつをここで取り上げることはとてもできないので、象徴的な一例だけを挙げよう。

第5場「時間泥棒」の終盤、「逢うを待つ」ことから「逢いに行く」ことへの、重大かつ劇的な転換点、「愛よりも」の伴奏に乗って、椅子――「待つ」ことの象徴――に片足をかけた時間泥棒が決意と確信とをこめて語り始める長台詞――

銀河は秋を告げ、冬を待ち、春を迎えて
旅人は、わすれ草にからめとられ
宵待ち草は、萱原に埋もれても

逢おうがための約束ならば
『逢ふを待つ間に恋ひ死』にに死んでなど、なるものか。

――この冒頭の5行だけで6箇所の語文注釈を中島みゆきはつけている。そのうち5箇所が『雨月物語』の「浅茅が宿」からの引用であり、それらの注釈には、青木氏による語注がほぼ正確に反映されている。

なかでもとりわけ重要なのが、上記引用の5行目、『逢ふを待つ間に恋ひ死』にに……と、二重鍵括弧で「浅茅が宿」からの引用が強調されている箇所である。ここへの中島みゆき自身の注釈を――少々長くなるが――みてみよう (上掲シナリオ本 178頁)

「逢を待間に恋 (ひ) 死なんは人しらぬ恨みなるべし」 (「浅茅が宿」) をさす。宮木のこの言葉は、「人知れず逢ふをまつ間に恋ひ死なば何に代へたる命とかいはむ」 (『後拾遺』巻11・平兼盛) を基にして、「人知れず」を「人知れぬ」に変えることによって、恋い死にをしようとも相手は知りようもないという隔絶を表わし、また「死なば」を「死なんは」に変えることによって、仮定ではなく死ぬことそのものに直接的にかかわっていることを表わしている。

――後拾遺集の平兼盛の元歌からの差異によって上田秋成が際立たせ、青木氏が抉り出した、宮木の絶対的な孤独と隔絶、そして死の現実性。それらの闇を踏まえてこそ、『逢ふを待つ間に恋ひ死』ぬことへの明確な拒絶、「荒野を越えて、銀河を越えて」「逢いに行く」ことへの決意という、中島みゆきがこの夜会の結末にこめたメッセージの光は、より鮮やかなコントラストをなして際立つのだ。


藤の花咲く頃に

上述の家郷隆文氏の「私と宗教 これまでとこれから」には、藤女子大学の「創立当時の現在地一帯は、まだ人家まばらな石狩平野の一角、あたりに野生の藤の花が咲いていたところから、学園名を「藤」と名づけ」たという一文がある。

この5月は、リラとともに、藤の開花する季節でもある。

――少々マニアックな内容になってしまったかもしれないが、中島美雪が3人の師から学んだものについて、上記のようにあれこれと想像を巡らしてみると、現在の中島みゆきの作品世界がもつ、途方もない深みと広がりとに、改めて瞠目させられる思いがする。

藤の花咲く頃は、そうした想像を巡らすのにふさわしい季節なのかもしれない――