2019年5月1日から始まる日本の新元号「令和」の出典と発表されたことがきっかけで、万葉集がちょっとしたブームになっているという。
出典とされたのは、万葉集巻5の梅花の歌32首 (さらに6首を追加) の序。天平2年 (730) 正月、太宰帥・大伴旅人が邸宅に官人たちを招き、観梅の宴席を設けた様子を描いている (原文は漢文、訓読は佐竹昭広他校注『万葉集』(二)岩波文庫、2013年による) 。
時に、初春の令月、気淑(うるわ)しく風和らぐ。
この一文に基づく「令和」の考案者ともされる中西進氏は、かつて著書『万葉の秀歌』 (ちくま学芸文庫 2012年、原著は1984年) で、梅花の歌38首の中から、この宴の主催者・大伴旅人の歌[巻5 822]を選出し、次のように評している。
わが園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも
「ひさかた」は「はるかな久しい彼方」、空の無限のかなたをいう。……そこから雪がやってきたというのである。「雪」は「梅の花」を比喩したもの。雪は「散る」「降る」「積もる」がふつうだから、「流る」というのは、たいへん斬新な表現だった。……花を雪と見立て、その雪が流れるというのだから、二重の比喩をするのである。
旅人の眼前の落花の景は、やがて幻視のなかで、流雪に変わってゆく。
(上掲書、149-150頁)
「ひさかたの」は「天」や「雨」「月」「日」「光」など天空にあるもの、天空からくるものにかかる枕詞で、原義は未詳とされているが、この中西氏の評釈は、空間的な遠さに加えて時間的な遠さ――「久しい」――をもそこに読み込んでいる。そのことが、実は次に書くことのヒントになった。
――この評釈を読み、私はまだ記憶に新しい夜会『リトル・トーキョー』第2幕の「梅が枝」を思わず連想したのだ。
梅乃 (植野葉子) が小雪 (香坂千晶) に日本舞踊を教えるあの場面は、パンフレットによれば、「2001年1月30日 第5場 厳冬期休業終了直前」となっている。梅の開花には明らかにまだ早い。北海道では、梅は桜よりも遅く、5月頃に開花する。
もちろん、あの場面や歌詞が、現実の梅花の情景と対応していなければならない理由はない。梅乃の名に含まれる「梅」に、彼女の――文夫への――想いが託されているのも明らかだろう。だが、そうだとしても、あの場面で「梅」が歌われる理由は、まだ十分には明らかではない。
――しかし、上述の万葉集の歌とその評釈を手掛かりにすることで、その謎が解けるような気がした。
「梅」は――大友旅人の歌とはちょうど逆に、あの夜会の舞台の背景に降り積もり、そして小雪の名にも含まれる――「雪」の暗喩であり、さらには、彼女たちをつつんで未来へと流れる時間の暗喩でもあったのではないか。
前の記事でも書いたように、『ウィンター・ガーデン』と同様にこの夜会でも、地上から天空への空間軸は、現在から未来への時間軸と重ね合わせられる。「天から送られた手紙」としての雪は、未来からの手紙でもある。それは幻視のなかで、「はらりはらり」と散る白梅へと変容してゆく。
――もちろん、中島みゆき自身が「梅が枝」を書いたとき、本当に上述の大伴旅人の歌を意識していたかどうかはわからない。これはまったくの偶然に過ぎないのかもしれない。
ただ、夜会を含む中島みゆきの作品世界には、その遠く遥かな背景として、奈良時代に成立したとされるこの日本最古の和歌集がずっと存在してきたに違いない――と私は思っている。
中島みゆきと万葉集との接点らしきものについて私が最初に知ったのは、かつて朝日新聞夕刊に連載されていた「新人国記’82」という記事においてである。北海道出身のアーティストや芸能人を紹介した回 (1982年6月29日付) には、彼女について「藤女子大では国文学科に籍を置き、万葉の世界にあこがれる一方で、フォーク活動のとりこになった」と書かれている。
よく知られているように、中島美雪が卒論のテーマとして選んだのは現代日本の詩人、谷川俊太郎であり、指導教員の藪禎子教授も近代日本文学の研究者だった。だが、以前の記事「中島美雪の3人の師」でも書いたように、学生時代すでに、彼女の関心は自らの専攻を超えて、古代から現代に至る日本語・日本文学の広大な世界へと広がっていたように思われる。万葉集はおそらく、記紀とともに、その世界の原初に位置している。
この記事では、そうしたことも念頭に置きながら、中島みゆきと万葉集との関係について、思うところを自由に綴ってみたい。例によって確たる根拠のない想像――妄想というべきか――も多く含むことになると思うが、どうかご容赦願いたい。
『相聞』
さて、中島みゆきと万葉集といえば、おそらく多くのファンが真っ先に連想するのが、2017年11月にリリースされた――現時点で最新のオリジナル・アルバム――『相聞』のことだろう。
「相聞」(恋の歌) は、「挽歌」(死者を悼む歌)、「雑歌」と並ぶ万葉集の三大部立 (ぶだて、ジャンルのこと) のひとつである。古代風の衣装をまとった中島みゆきのジャケット写真も、明らかにその時代をイメージしている。
このアルバムのリリース時の中島みゆきのインタビューをみてみよう。平原綾香への提供曲「アリア-Air-」のセルフカバーについて語っている部分である。
―― 一人で歌うパートなのに“一人では歌えない”と言っている。まさに相反する。二律背反、核心ですね。
中島:アリアをキチっと歌えるのはどこかで自分のアリアを歌っている人と出会った時でしょう。受け合うのね。受け合った時に波が生まれる。それが「相聞」ですよ。そのために歌わなきゃだめだ。それぞれの「アリア」が共鳴した時に人と人の関係が生まれる。それが「相聞」。
このインタビューからも明らかなように、ここでの「相聞」の意味は、狭義の「恋の歌」を遥かに超えている。そこにこめられていたのは、「孤独という冷たい闇」から解き放たれ、他者の声を聞くこと、互いの声を聞きあうことへの「希い」であったのだ。
このアルバムを初めて通して聴いたとき、まず圧倒されたのは、「私」という孤独な存在の意味を、遥かな宇宙の果てまでの無限の空間、遥かな過去から遥かな未来に至る無限の時間に向けて問いつづける、その問いかけの迫力のたゆみなさに対してだった。
――アルバム『相聞』は、いわばこの言葉の原義を経由して、そのように限りない問いかけへと開かれている。だが、そこに至る原点には、おそらく万葉集の (狭義の) 相聞歌から彼女が受け取ったなにかがあったはずだとも、私には思える。次項では、そのことについて考えたい。
『日本の恋歌』
中島みゆきと万葉集との関係について考えるには、彼女自身の編による『日本の恋歌 その3 涙が出ないのはなぜ』(作品社 1985年) は、絶対に欠かせない重要な資料のひとつである。
谷川俊太郎監修によるこの3巻本 (「その1」は谷川俊太郎自身の編、「その2」は吉行和子編) は、古代の和歌から現代詩、さらには現代のポピュラーソングに至るまでのさまざまな日本語の「恋歌」から、各編者がそれぞれ100篇を選出するという企画である。裏表紙の紹介文によれば、各巻は邂逅・相聞・別離と部立てされており、中島みゆき編の「その3」は別離の歌の巻だった。
その100篇の中に、中島みゆきは万葉集から9首を選んでいる。そのすべてについて触れる余裕はとてもないので、ここでは2首の相聞歌――ここでは万葉集内の部立としての――だけを取り上げよう (この2首は、この本の40-41頁に見開きで掲載されていて、訓読はこれに従う) 。
小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ別れ来(き)ぬれば
[巻2 133] 柿本人麻呂
人麻呂が石見の国から妻と別れて上京する途上で詠んだ10首 (うち2首は長歌) のうちの1首。吹きつける強風が無数の笹の葉をひるがえし、その響きが全山をどよもさせる――その壮絶な外界と、ひたすらに「妹思ふ」自らの心との対比。その対比の鮮烈さのゆえに、離別の哀しみは一直線に胸に迫る。
――このように、広大な外界へのまなざしと、孤独な自らの心とを対比させる、めくるめくような世界観は、多くの人麻呂の歌に共通するものである。それはまさに、多くの中島みゆき作品に共通する世界観でもある。
我が背子を大和へ遣(や)ると小夜更けてあかとき露にわが立ち霑(ぬ)れし
[巻2 105] 大伯皇女
「我が背子」は大伯皇女の同母弟・大津皇子。伊勢神宮の斎宮を務めていた姉をひそかに訪ねた弟の、都への出立を送る歌である。この後、大津は異母兄・草壁皇子への謀反の疑いにより、死を賜ることになる。
飛鳥時代の政治劇、それも悲劇の一幕として語られることの多いこの歌だが、その焦点は、暁の露に衣を濡らしながら立ちつくす大伯の限りない孤独にある――神にのみ仕え現世との交わりを絶たれた斎宮の孤独と、死へと赴く弟を救うことのできない姉の孤独とが、その姿には重ね合わされる。
この時代においても、同母の兄弟姉妹のあいだの恋は重大なタブーだった。だが、この本での青木健氏による解説も――さらに話は大きくそれるが、この時代を描いた里中満智子の漫画『天上の虹』も――この歌に、姉と弟という関係を超えた大伯の大津への想いを読み取っている。もちろん、それが史実かどうかは検証不可能だろうが、後世の私たちに、そのような想像をさせずにはおかない彼女の孤独の深さと想いの強さとが、この歌からは聞こえる。
この項の最後に、中島みゆき自身による、この本のまえがきから引用しよう (同書9頁) 。
見るがいい。
こんなに堂々とふりかざしてくる孤独を。嘆きを。愛を。これは言わば、しぶとい生命力である。自刃にだって、強い自力が必要なのだ。同情などせずに、せせら笑ってやるがいい。つき離してやるがいい。私が自分の痛みだけのために忙しいデクノボウになっても、彼らはきっと、まだまだ噛みつく相手をたくさん知っているだろう。
――この述懐は、上述の2首も含めて、古今の別離の歌がもつ「しぶとい生命力」へのきわめて率直なオマージュであると同時に、その生命力を自らの内に引き受け、それらの歌の問いかけに自らの歌で応えてゆこうとする、強かな覚悟の表明でもあるように、私には読める。その覚悟は、他者と共鳴しあう「アリア」としての「相聞」を歌わなければならないという現在の彼女の思いへと、遥かにつながっているはずだ。
『ウィンター・ガーデン』と蒲生野贈答歌
――ただ、作品世界の遠い背景として存在してはいても、万葉集が実際に中島みゆきの作品の中にモチーフとして登場した例は、実は今のところきわめて少ない。そのほとんど唯一の例外と言えそうなのが、この項で述べる夜会『ウィンター・ガーデン』である――それさえも、公式資料でそう明言されているわけではないのだが。
横領した勤め先の漁協の金で、北限の荒野に立つ GLASSHOUSE――透明なガラス張りの温室のような家――を手に入れ、そこでただひとり暮らす〈女〉 (VOL.11では谷山浩子、VOL.12では香坂千晶)。
そこで〈女〉を出迎える、その家の先住者の〈犬〉 (中島みゆき)。
そして彼女たちの生を、その家の傍らでただじっと見つめつづける槲の〈樹〉 (VOL.11では佐野登/波吉雅之/渡邊他賀男のトリプルキャスト、VOL.12では佐野登)。
――この3人のメインキャストが立ち替わり50篇の詩を朗読し、その合間に〈女〉と〈犬〉とが歌う13曲が差し挟まれる朗読劇。それは、30年にわたる夜会の歴史の中でも最も特異で実験的であり、そしてある意味で最も深い衝撃を残した舞台だった。
その全体像については、以前に書いた記事「神話の解凍――『ウィンター・ガーデン』再考」に譲ることとし、以下では、その記事では触れなかった万葉集との関係を中心にみていきたい (VOL.11に基づく詩詞集『ウィンター・ガーデン』[幻冬舎 2001年]を資料として参照する)。
第1幕第2場「花に覆われた湿原」――〈女〉の眼前には、地平線まで咲き乱れる朱色の花に覆われた広大な湿原が広がる。
朱色の花を抱きしめて 私いつまでも待っているわ
朱色の花に埋ずもれて みつからないかもしれないわ
(「朱色の花を抱きしめて」)
夜会工場VOL.2での中島みゆき自身による歌唱も記憶に新しいこの歌を、〈女〉はその広大な朱色の風景のただなかで、道ならぬ恋の相手である義兄――姉の夫――がやがて訪れるのを待ちながら歌いはじめる。そして〈犬〉が、彼女の想いを反復するかのように――あるいは自らの前生の記憶の反復でもあるかのように――その歌を引き継ぐ。
つづく第3場「犯罪」――夏のあいだ朱に染まっていた湿原は、季節の移ろいにつれて、少しずつ色褪せ、紫色の野へと変わってゆく。
朱 (あけ) を奪う色は いつの世も紫
(「朱を奪う紫」)野守が見てるよ
捕ってはいけない動物を
こっそり捕りに来る奴を
昼も夜も 見張ってるよ
(詩「野守草」)
〈犬〉が歌い語るこの2篇は、朱から紫への色彩の移ろいと重ね合わせて、〈女〉が過去に犯した罪と、未来に犯そうとする罪とをしだいに浮かび上がらせる (ここでも、それは〈犬〉の前生の記憶の反復でもあるのかもしれないが、そのことついてはこれ以上触れないでおこう) 。
――ここで、モチーフとしての万葉集の存在が暗示される (訓読は斎藤茂吉『万葉秀歌』(上) 岩波新書、1953年改版による) 。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
[巻1 20] 額田王紫草 (むらさき) のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑにあれ恋ひめやも
[巻1 21] 天武天皇
668年5月、天智天皇が蒲生野 (現滋賀県) に薬 (薬草) 狩りに行幸したとき、額田王と天智の弟・大海人皇子 (後の天武天皇)とが歌い交わしたという2首であり、「蒲生野贈答歌」としてよく知られる。
万葉歌人として著名な額田王は、かつて大海人の妃であったが、この当時は兄・天智 (中大兄) の寵愛を受けていたという。そのことからこの2首は、大海人と兄の妻・額田との許されぬ恋を歌ったものである、というのが長らく通説であった。
後に天智の死後、大海人は天智の長子・大友皇子との戦 (壬申の乱、672年) に勝利し、権力を掌握して即位するに至る。そうした歴史的文脈もあって、この2首も、この時代の政治劇の一幕として語られることが多い。
――万葉集では兄の妻と弟、夜会では姉の夫と妹の恋。「紫」はその罪を象徴する色であり、「標野」――立入禁止の薬草の占有地――の番人である野守は、その罪の目撃者・証言者でもある。
だが、そのように明白な形式的対応関係以上に、さらに深い印象を残すのは、遥かに時代を隔てた両作に共通する、色彩感覚や空間感覚の鮮烈さだ。とりわけ額田王の歌は、私が初めてそれに触れた子どもの頃から変わることなく、鮮やかな情景を幻視させてきた。ただ一度観た夜会VOL.11の千秋楽の舞台は、私の中にその記憶を思いがけず蘇えらせた。
「あかねさす」は枕詞という形式上の意味を超えて「紫」の風景を美しく照り染め、その風景の中を――「紫野行き標野行き」――ためらわず進んでゆく、その自らの視線の遠景には、野守のまなざしを恐れることもなく「袖振る」君の姿が見える。
この鮮やかな色彩と動きとに彩られた情景の中に照り映える額田の想いに、大海人は「憎くあらば」「恋ひめやも」という二重の反語の強調によって、いささか直截に応えるしかなかったのか――
――もっとも、この2首は相聞歌ではなく雑歌の部立に含まれていることから、現在では、宴席での余興のために詠まれた歌として解釈されることが一般的であるともいう。
だが、ここでも私が思い出すのは、里中満智子の『天上の虹』での描き方である。そこでは、たしかにこの2首は、薬狩りの日の夜、天智の主宰する宴席で額田と大海人とが歌い交わすのだが、それは余興に見せかけた二人の真情の表現でもあった、という解釈がなされていた――私も個人的には、このさらに穿った解釈に共感したくなる。
――万葉集の解釈問題はこのあたりで置くとして、夜会VOL.11の舞台の記憶でもう1点鮮やかなのは、上述の「朱を奪う紫」の後送が奏でられる中、中島みゆきが詩「野守草」を語り始めたとき――「野守が見てるよ」――の独特の節回しともいうべき不思議な抑揚である。率直にいえば、それは詩の朗読というよりも、まるで歌の続きででもあるかのようなメロディアスな抑揚として、耳に入ってきた。
いうまでもなく万葉集以来の日本の和歌とは、本来は文字通り「歌われる」ものだった――その名残りは、現在でも宮中の歌会始などで聴くことができる――が、夜会VOL.11での「朱を奪う紫」から「野守草」への流れは、「歌」と「詩」とが切れ目なく連続するものであることを、より原初的な感覚として、私に知らしめてくれたような気がする。
結びにかえて――柿本人麻呂と中島みゆきの世界観
以上、思いつくままに書いてきて、これまで以上にとりとめのない記事になってしまったような気もする。とりとめのなさついでに、『日本の恋歌』でも触れた柿本人麻呂と中島みゆきの世界観の共通性について、もう1首だけ人麻呂の歌をひいて付け加えておこう (訓読は斎藤茂吉『万葉秀歌』(上) 岩波新書、1953年改版による) 。
ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
[巻1 48] 柿本人麻呂
軽皇子 (後の文武天皇) が阿騎野 (現・奈良県宇陀郡) に行啓し旅寝したとき、同行した人麻呂が詠んだ4首のうちの1首として、とりわけ著名な歌である。
東天に立ち初める「かぎろひ」(暁の光)と、振り返って西の空に傾く月との、壮大な対比。天空を振り仰ぐように往還するこのまなざしは、中島みゆきの「十二天」に共通する――どちらがどちらを連想させる、ということではなく。
この曲についても、以前「十二天の世界像」という記事で詳しく考察したので、ここでは繰り返さない。ただ、日から月へという視線の往還は、空間軸の往還であると同時に時間軸の往還でもあり、そのようにして時空を見はるかす遠心的な世界像の開示こそが、夜会『今晩屋』では救済への扉を開く転換点となったことだけを想起しておきたい。
広大な外界と、その中の1点としての孤独な自己の存在とを対比し、包摂するまなざし。人麻呂に代表されるそのような壮大な時空感覚こそは、つねに中島みゆきの作品世界を取り囲む遠景として存在しつづけてきたような気が、私にはしている。
――もとより、私が知っている万葉集は、その広大な世界のほんの一隅に過ぎない。まだまだ私が気づいていない中島みゆきとの接点が、至るところに潜んでいる可能性は十分にある――第一、上述の『日本の恋歌』に収められた残り7首についてさえ、まだ視野の外にある。だからこの記事は、現時点でのとりあえずのつたない中間報告とでも言うしかないものである――と最後に言い訳をしておこう。
だが、むしろそのように、どこまでも探索しつくすことのできない世界の広大さと奥深さのゆえにこそ、中島みゆきを通して万葉集を再発見するという――私の力量にとってはいささか壮大にすぎる――企ては、きっとこれからも私を魅了し続けてくれるのだろう。
追記 斎藤茂吉『万葉秀歌』について
万葉集と中島みゆきとをつなぐ媒介者として、近代日本を代表する歌人の一人、斎藤茂吉の存在も重要だったのではないかと私は想像している。
未確認情報だが、大学時代の彼女が斎藤茂吉研究ゼミに参加していたという話もあるし、また彼女の世代であれば、茂吉の名著として知られる『万葉秀歌』(上・下、岩波新書旧赤版)が、万葉集への入門書のひとつだった可能性も十分に考えられる――まったく余計なことだが、彼女から7つほど年下の私自身もそうだった。
『日本の恋歌 その3 涙が出ないのはなぜ』に選出された9首の万葉集の歌のうち――上述の2首を含む――7首は『万葉秀歌』に選出されていた歌でもある。
さらに想像をたくましくすると、夜会『ウィンター・ガーデン』のモチーフのひとつである中谷宇吉郎博士の『雪』も、岩波新書旧赤版の最初期の名著として知られている (ともに原著は1938年だが、戦後もロングセラーとして長く読まれてきた)。蒲生野贈答歌を、中島みゆきがこの夜会の隠されたモチーフとして取り込んだのも、もしかしたらそこに両書をつなぐ無意識の連想のようなものが働いていたのではないか、という気さえしてくるのだ。