世界が違って見えた日――歌会VOL.1に寄せて

 

[注意]
このブログ記事は、2024年1月~5月に上演される、中島みゆきのコンサート「歌会VOL.1」の内容に関する「ネタバレ」を多く含みます。これからこのコンサートに行かれる予定のかたは、よくご注意ください。


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俱に走り継ごう――再始動する中島みゆき

2020年1月8日にリリースされたアルバム『CONTRALT』以来、約2年10ヶ月ぶりに、遂に中島みゆきの新曲が発表された。

現在放映中のフジテレビ系月9ドラマ『PICU 小児集中治療室』の主題歌『俱に』。第6話放映の2022年11月14日から、民放番組の配信用サイトTVerで全曲が公開されている。

『俱に』という曲名は、それを最初に聞いた時から、『with』や『二雙の舟』とも響き合うものを感じさせた。実際に全曲を耳にしても、その予想は裏切られない。

生きる互いの気配が ただ一つだけの灯火

『俱に』のラストのこのフレーズは、『二雙の舟』、とりわけ

おまえの悲鳴が胸にきこえてくるよ
越えてゆけと叫ぶ声が ゆくてを照らす

をはっきりと連想させる。生きる一人ひとりの存在の気配が、互いの灯火として、一人ひとりのゆくてを照らす。

と同時に、この新曲から強く印象づけられるのは、疾走への意志とでもいうべきものだ。

走り続けていなけりゃ 倒れちまう
自転車みたいな この命転がして

『断崖―親愛なる者へ―』(1979)でこう歌った、あの頃からずっと、中島みゆきは走り続けてきたのだろう。

――ただ、あの頃の彼女の疾走は、孤独な疾走という印象が強かった。今はそうではない。

俱に走り出そう
俱に走り継ごう

この歌は――中島みゆき自身を含めて――たとえ遠い距離、長い時間を隔てても、俱に走り続けようとする一人ひとりに向けて、互いにその意志を鼓舞しあうかのように歌われるのだ。

音楽的には、この曲には最近の中島みゆき作品によくある転調もないし、歌の音域もちょうど1オクターブにおさまる、きわめてシンプルな作りである。だがその旋律はどこまでも広やかで伸びやかで、一人ひとりの細やかな思いの数々を救い上げ、遙かに羽ばたかせるかのようだ。

後半の間奏のギターソロは、おそらく古川望が弾いているのだろうが、一人ひとりの思いの言葉にならないゆくてを、さらに空高く自由に飛翔させるかのような演奏。夜会『リトル・トーキョー』の終曲『放生』の間奏やアウトロでの彼の名演を、少し思い出させた。

医療ドラマというジャンル

ところで、『PICU 小児集中治療室』に限らず、医療ドラマ・映画と中島みゆきは、何かと縁がある。

産婦人科医であった父・眞一郎氏については、彼女自身による語りも含めて、すでに多くのことが語られていて、そのライフヒストリーがそうした「縁」の背景にあることは想像に難くない。

中島みゆき自身が産婦人科医・南雲律子を演じたフジテレビ系ドラマ『親愛なる者へ』(1992)や、脳外科の巌岳医師を演じた映画『サヨナラCOLOR』(2005)を思い出す人もいるだろう。

12月14日にリリースされるシングル『俱に』のカップリング曲『銀の龍の背に乗って』は、ファンには周知のとおり、2003年からフジテレビ系列で放映されていたドラマ『Dr.コトー診療所』の主題歌である。

このドラマ『Dr.コトー診療所』の久々の続編が、劇場用映画として、12月16日から上映される。

「医療もの」には――手塚治虫のマンガ『ブラックジャック』あたりを源流として――天才的・超人的な医師が大活躍するタイプの作品も多く、それらはそれらで、スリリングでエキサイティングな物語を大いに楽しませてくれる。

だが『Dr.コトー診療所』にせよ『PICU』にせよ、そこに登場する医師や医療スタッフたちは、決して天才でも超人でもなく、弱さや危うさを抱えたごく普通の人間である。そして、それぞれの地域社会の背景の中で、同じように弱さや危うさを抱えた人間である患者たち一人ひとりの命に向き合ってゆく。

――中島みゆきの歌は、そうした医療現場のリアリティとこそ共鳴する。

私の知人の熱心なみゆきファンたちの中にも――古くからの知人、最近の知人を問わず――なぜか医療関係者がかなり多い。根っからの文系人間である私などは、その理由は想像するしかないのだが、おそらくは一人ひとりの命と向き合う彼女たち・彼らの経験の意味が、同じように、彼女の歌と強く共鳴するのだろう。

 

ところで、少し脱線するが、『PICU』の主演・吉沢亮といえば、2019年度前期のNHK朝ドラ『なつぞら』で、アニメーターを目指すヒロイン・奥原なつ (広瀬すず) に絵を描くことの魅力を教える幼馴染、山田天陽を演じていたことを思い出す。あのドラマの序盤も、北海道・十勝の牧場を主な舞台としていた。

さらに、『PICU』で志子田武四郎 (吉沢) の上司、植野医師を演じる安田顕が、『なつぞら』では帯広の菓子屋「雪月」の店主、小畑雪之助を演じていたことも思い出される。

これらのキャスティングはもちろん偶然の結果なのだろうが、北海道という舞台の共通性もあって、中島みゆきとの間接的な「縁」のようなものを感じさせる。

そういえば『なつぞら』にはもう一人、中島みゆきともう少し近い接点をもつキャストとして、雪之助の妻・妙子を演じた仙道敦子――唐十郎作のNHKドラマ『匂いガラス』(1986)のヒロイン――も出演していた。

 

再始動への軌跡

中島みゆき2020ラスト・ツアー『結果オーライ』が、コロナ禍のために未完のままで中断して以来、『俱に』での再始動に至るまでには、いくつかの伏線があった。

まずは、2月2日の『結果オーライ』ライヴCDのリリース。初回特典のライヴ・ドキュメント映像とも相まって、この貴重な記録は、未完のツアーの記憶のひとつの節目となった。

 

それと前後して、1月21日からは、劇場版『ライヴ・ヒストリー 2007-2016 歌旅~縁会~一会』の上映があった。この映画は、あの3つのコンサートの記憶を鮮明によみがえらせるだけでなく、それらから現在に至るまでの時間の意味をも語り掛けた。とりわけ、2020年10月に世を去った名キーボード奏者・小林信吾の姿が映るたびに、この演奏をいつまでも記憶に留めたいと何度も思い直した。

 

9月には、サントリーの缶コーヒー『BOSS』のCMに「宇宙大統領」役で出演するというサプライズがあった。この大仰な役名は、まるで男子小学生の会話のようなノリさえ感じさせるが、「偉そう」な役という点では夜会『金環蝕』の天照大御神以来かもしれない。「働くの禁止スイッチ」が巻き起こす大混乱も、天照の岩戸隠れの伝説となんとなく似ているような気もした。

 

9月21日には、渡辺真知子のデビュー45周年シングル、『二雙の舟/カナリア』がリリースされた。夜会『リトル・トーキョー』でヒロイン・大熊杏奴 (中島みゆき) の姉・李珠を演じた彼女だからこそ歌い得た2曲と強く感じると同時に、「二雙の舟」としての「おまえと私」とは誰なのか、「あなた」に向けて歌を歌うことの意味は何なのか、といった根底的な問いについて改めて考えさせられた。

 

前後するが、8月に出た週刊誌のインタビュー記事では、「コンサート自体はもう予定が入っている」という大いに心躍らせる発言がまず注目される。また、「今はアルバムのレコーディング」中で、「出るのは来年の2月か3月」とのこと。「俱に」はこのアルバムにも収録される予定である。

そして最近、11月11日、このアルバムのレコーディングに吉田拓郎がギターとコーラスで参加していたことを、彼自身がラジオ番組「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で明らかにした。すでに報道されているとおり、彼は年内で芸能活動を終了する意向を表明している。が、

颯爽としたお姿もつやつやのお声もお変わりなく、うれしく、安心いたしました

という中島みゆきからの手紙の言葉、さらにこの歴史的なセッションそのものが、「俱に走り継ごう」という彼女からのメッセージであるようにも響いた。

 

最近、古くからのファン仲間とも、また若いファン仲間とも、久々に再会する機会があったが、当然ながら再始動した中島みゆきの来年以降の活動への期待の高まりが、話題の中心になる。

予定されているというライヴが、『一会』のような大都市コンサートなのか、夜会なのか、それとも夜会工場なのか――それはまだわからない。だが、いずれにせよライヴ会場での再会を期しつつ、私たちファンもまた「俱に走り継ごう」という思いを新たにする。

 

古関裕而と朝ドラ『エール』、そして中島みゆき

中島みゆきとNHK朝ドラといえば、多くのファンは、主題歌「麦の唄」を提供した『マッサン』(2014年度後期) のことをまず思い起こすだろう。2015年の紅白歌合戦――現時点では、この回が彼女自身の最後の紅白出演ということになる――で、主演の玉山鉄二とその妻を演じたシャーロット・ケイト・フォックスの二人をゲストに迎え、ドラマの名場面がバックに流れる中で、金色のドレスに身を包んた中島みゆきがこの曲を歌った姿は、まだかなり記憶に新しい。

ただ、このような直接的な接点はないにせよ、先日、コロナ禍のために2ヶ月遅れという異例の放送スケジュールで幕を閉じた『エール』は、いくつかの間接的な接点から、一中島みゆきファンとしても、個人的に印象深い作品となった。

 

古関裕而の記憶

『エール』の主人公・古山裕一のモデル古関裕而は、古賀政男・服部良一の二人と並んで、「昭和」を代表する作曲家である。

その古関作品に私が初めて触れたのは、小学校3年の時だった。

1960年代後半、校舎の大半は鉄筋コンクリートになっていたが、まだ一部に残っていた木造校舎、そしてその中にあった古びた音楽室とグランドピアノ――それらは独特のややかびくさい匂いとともに、セピア色がかった記憶として存在している。その音楽室で、担任の先生――まだ30歳ぐらいの若い男性の先生だった――が教えてくれたのが、古関の戦後の代表作のひとつ「高原列車は行く」だった。

音楽の教科書には載っていない、一般的には歌謡曲に属するこの曲を、なぜ先生が私たちに教えてくれたのか――今にして思えば、やや不思議ではある。「高原列車は行く」は1954年の曲なので、当時すでに「懐メロ」の域に入ってたはずでもある。よほど先生ご自身、お気に入りの曲だったのだろうか。

それはともかく、まるで――紺碧の空の下、アルプスの山嶺が美しく流れる車窓を愉しみながら、高速で駆ける高原列車に心地よく揺られるかのような――どこまでも明るく、異国情緒あふれる歌詞と流麗な旋律とに、私は強く魅せられた。それは、小学校の音楽の時間に習った多くの唱歌――そちらはそちらで好きな曲がたくさんあったけれども――ともかなり異質な、不思議なきらめきに満ちた記憶として、子どもの頃の私の中に残っている。

 

――もっともその時は、「高原列車は行く」の作曲者としての古関裕而の名前を、はっきりと記憶にとどめたわけではない。

その名をはっきりと意識するようになるのは、もう少し後、中学2年から3年の頃である。その頃、とあるきっかけから、大阪の朝日放送ラジオでプロ野球のシーズンオフの時期、毎週日曜の夕方に放送される『日曜懐メロ大行進』という番組を聴くのが習慣になり、またしだいに楽しみになっていった。

この番組ではたしか、曲をかける前に、曲名と歌手の名前だけでなく、作詞者と作曲者の名もアナウンスしていた。そのおかげで、古賀政男や服部良一と並んで、古関裕而という――独特の雅やかさが印象的な――作曲家の名を心に刻み、「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」などの軍歌、そして「長崎の鐘」「夢淡き東京」「イヨマンテの夜」などの戦後の数々のヒット曲が、とりわけ心に残った。

ついでに言えば、この番組で多くの懐メロの名曲を記憶にとどめ、日本歌謡曲史の豊かな堆積の中に身を浸したことが、後に私が中島みゆきファンになる下地のひとつを作ったのではないか、という気がしないでもない。

 

――そのような次第で、『エール』は子どもの頃からの私の音楽的記憶――それは、趣味としてはかなりの少数派だったに違いないが――を蘇らせ、まずその意味で、大いに楽しみながら観ることのできるドラマになった。

が、ここまでの個人的な昔語りだけなら、必ずしもこのブログに書くべき内容ではない。このあたりから、本題に近づいていこう。

 

『エール』の3人の出演者

このドラマには、中島みゆきと何らかの接点のある出演者が3人いる。「思い出だけではつらすぎる」(2003)を提供された柴咲コウ、「未完成」(1987)を提供され、また「時代」をカバーした薬師丸ひろ子、そして主題歌「銀の龍の背に乗って」(2003)を提供したドラマ『Dr. コトー診療所』の主演、吉岡秀隆である。

この3人は、『エール』のストーリーの中で、それぞれに重要な役柄を演じた。

 

柴咲コウ演じるオペラ歌手・双浦環 [三浦環がモデル、以下[ ]内はモデル名] は、古山裕一 [古関裕而] (窪田正孝) の最初の大ヒット曲「船頭可愛や」を歌い、彼が作曲家として世に出るきっかけを作る。

コロンブス・レコードでは、環は西洋音楽(クラシック)専門の「青レーベル」、裕一は流行歌専門の「赤レーベル」に所属していた。したがってこの企画は、2つのレーベルの境界、つまり西洋音楽と流行歌との境界を超えることを意味し、経営陣や西洋音楽界の重鎮・小山田耕三 [山田耕筰] (志村けん) の強い抵抗を受ける。

その抵抗を押し切って発売された「船頭可愛や」の大ヒットに、もともと西洋音楽の作曲家を志し、小山田を尊敬し私淑していた裕一は、自らの音楽的アイデンティティを初めて承認される思いだったのではないだろうか。

 

薬師丸ひろ子演じる関内光子――裕一の妻・音 [古関金子] (二階堂ふみ) の母――は、1945年6月の豊橋空襲で、経営していた馬具店と家を失い、一面の瓦礫と化した焼け野原で、讃美歌「うるわしの白百合」を3分間にもわたってアカペラで――あの透明な声で――切々と歌う。

うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
百合の花 百合の花 ささやきぬ昔を

このリフレインに呼応するかのように、彼女は家族と共にした遠い日々を回想する――戦火はすべてを焼き尽くしたかに見えても、記憶は決して焼き尽くされることはない。この歌声は、むしろ戦争という破壊への限りない抵抗のように聴こえた。

『エール』のキリスト教考証を担当した西原廉太氏によれば、この選曲と演出は彼女自身のアイディアだったとのことであり、この場面に、「『死』から『復活』へという、神学的なメッセージ」を読み取っている。

 

吉岡秀隆演じる医師・永田武 [永井隆] は、自らの被爆体験と被爆者の救護を綴った随筆『長崎の鐘』の著者であり、同書をモチーフとした歌の作曲のため長崎を訪れた裕一と出会う。この場面について、吉岡はインタビューの中で次のように語っている。

自分の歌がきっかけで死んでいった人たちのために「長崎の鐘」を作りたい――。そう話す裕一に、「贖罪(しょくざい)ですか」「長崎の鐘をあなたご自身のために作ってほしくはなか」と返すのが印象的でした。

自らの音楽を通じて戦争協力をおこなったことへの裕一の苦悩――それはこのドラマの最も重要な核心であり、また、史実との関係も含めて、さまざまな角度から議論を呼ぶ点でもあろう。

ただ、「戦う人を音楽で応援したい」――その思いが純粋であればあるほど、それはむしろ、個人の心情を超えた国家の巨大な力学へと動員されてゆく――その矛盾の解き難さと酷烈さこそを、吉岡の台詞は鋭く指摘していたのではないか、とも思う。

 

「人を殺す道具」と「幸せにする翼」

――裕一を苦しめるこの矛盾は、戦時中の次の場面で、すでにはっきりと予示されていた。

裕一のかつての弟子、田ノ上五郎 (岡部大) は、作曲家としては芽が出ず、音の妹・梅 (森七菜) の婚約者として、馬具店の跡継ぎとなるべく、馬具職人の修行をしていた。その五郎が梅との結婚の報告のため、二人で久々に裕一を訪れる。彼は、馬具が陸軍に納入され、戦争に用いられることについての悩みを語る (この場面の台詞の引用は記憶に頼っているので、必ずしも正確ではない)

「馬具は人を殺す道具じゃない、人や馬の命を守るものだ」

裕一はこう応えるが、五郎は更に、

「先生には戦争に協力する歌ではなく、人を幸せにする歌を作ってほしいんです」

と、それまで抑えていた思いを遂に吐露する。戦争に動員された人びとが無駄に死んでいく、と言う五郎に対し、

「命を無駄と言うな!」

と裕一は激昂するが、それは彼自身が心の奥に抑え込んでいた自責の爆発でもあったのだろう。ふだんの温和な裕一しか知らない梅は、伏し目がちに「裕一さんの大声、初めて聞いた」とつぶやく。

 

――この一連の場面から、中島みゆきファンとしてはっきりと連想させられたのは、夜会『橋の下のアルカディア』の終盤で歌われる「国捨て」、とりわけ次のフレーズだった。

私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった

「脱走兵」高橋一曜の叶えられなかったこの願いは、三世代を超えた「緑の手紙」によって孫・九曜 (石田匠) たちに伝えられ、「二度と生贄にならぬよう」彼らを絶体絶命の危機から救済する。

『橋の下のアルカディア』のあのラストシーンは、過去の「戦争の記憶」を現在に、そして未来へと継承していくことの意味は何か、という問いに対する、中島みゆきなりのひとつの解答であった、と思う。

 

アルバム『ここにいるよ』

12月2日にリリースされた中島みゆきの2枚組セレクトアルバム『ここにいるよ』は、奇しくも、1枚目が「エール盤」、2枚目が「寄り添い盤」と名付けられている。

この名称は、いわゆる「企画もの」としての狙いも感じさせ、中島みゆき自身の意志がどの程度反映されているのかはよくわからない。

が、この2枚の選曲そのものには、彼女の意志の存在が明確に感じられる。たとえば、「エール盤」に収められた「ひまわり“SUNWARD”」と「空がある限り」は、いずれも洋の東西を隔てつつも、戦争の傷とそこからの回復を歌う歌として印象深い。

そして、ある意味ではそれらの選曲以上に強烈な意志を放射しているのが、初回特典版の付録DVDに収められた「Nobody Is Right」(『中島みゆき TOUR 2010』より) である。

争う人は正しさを説く 正しさゆえの戦争を説く

アルバムでは「争いを説く」と歌われていた歌詞の一部を、このコンサートでは「戦争」という、より直接的な言葉に変更させた思い――それは10年という時を経た現在、中島みゆきにとって、より強く差し迫ったものとなっているということなのだろうか。

かつて1987年3月、『中島みゆきのオールナイトニッポン』最終回で彼女がリスナーに語り掛けたこのメッセージも、いま新たな意味を帯びてよみがえってくる。

あなたの望んでいる通りになってとは祈れないけれども
あなたにとって一番幸せな方へ行くように祈っています

さまざまな困難と闘う一人ひとりに「エール」を送ること――それは決して、一人ひとりの「正しさ」を鼓舞することではない。そのような鼓舞は、やがて「正しさゆえの戦争」へ、古山裕一が経験したような果てしない苦悩へと、人びとを追いやるだろう。

「エール」は、一人ひとりの思いを「幸せにする翼」に載せ、そしてその翼をより高く遙かにはばたかせるためにこそ送られるのだ。

未完の「結果オーライ」ツアーが投げかけるもの

2月26日(水)の大阪フェスティバルホールでの公演を最後に、新型コロナウイルス感染症の拡大の影響を受けて中断していた中島みゆき2020ラスト・ツアー「結果オーライ」は、4月中旬、ついに今後の全公演――いったん発表されていた札幌・大阪の振替公演を含む――の中止が発表された。

オフィシャルサイトの告知文は、「感染拡大が収束し、いつも通りコンサートを楽しめる日が一刻も早く戻ってくることを強く願っております」と結ばれている。その願いを、今はただ共有するほかはない。

同伴者としても含めて、私が行くことを予定していたいくつかの公演も「幻の公演」となった。が、開催された貴重な8公演のうち2つめの金沢公演 (本多の森ホール) に、私は幸いにも足を運ぶことができた。

まずは、そのかけがえのない記憶をいま蘇らせたい。

 

金沢公演の記憶

自らにとってのコンサート初日をできるだけ「まっさら」な状態で迎えたいとの強い思いから、1月12日の初日以降、ニュースやSNSでの「ネタバレ」情報を可能な限り遮断し、ニューアルバム『CONTRALTO』さえも聴かず、1月20日、私は特急サンダーバードに身を委ねて金沢へと向かった。

開場前、昔からのファン仲間の一人と、近況などを語り合いながら兼六園を散策。金沢はそう遠い場所ではないのに、この名所を訪れるのは初めてである。小雨交じりの天気ではあったが、起伏する空間と豊かな緑が、心を潤してくれた。

隣接する石川県立歴史博物館を訪れたのち、その向かいの本多の森ホールへ。

ロビーではさらに何人かのファン仲間たちと遭遇、しばしの語らいのひと時を過ごす。ツアーがスタートして2つめの公演なので、初日の東京公演のチケットが取れなかった人びとがかなり集まっていたようだ。

この会場を訪れるのは、2012年12月22日、「縁会」ツアーの公演以来である。席は奇しくもその時と同じL列左ブロック。かなり下手寄りではあるが、通路直後の見通しの良い席である。

ステージの中央部、中島みゆきが立つ場所は、銀色の天球儀のような舞台装置に取り囲まれている。コンサートツアーが経めぐる時空の表象なのだろうか。このセットの奥の方で天球の緯線・経線を斜めに横切る6本のラインは、流星群あるいは太陽か月の軌道の遷移――つまりは時間――を表しているようにも見える。

 

やがて、この舞台装置の中心に中島みゆきが登場し、コンサートは「一期一会」で幕を開けた――コンサートツアーという「旅」そのものへの彼女の思いを凝縮したかのような歌。

上記のように「ネタバレ」を遮断してきた甲斐あってか、開演してからの一曲一曲が、新鮮な驚きの連続だった。それは、私が初めて行った彼女のコンサート、1983年の『蕗く季節に』の富山公演で味わった感覚がよみがえったかのようでもあった。

ただ、そのことの裏返しとして、1曲1曲の歌い方や演出、あるいは衣装や立ち居振る舞いについての記憶は――いつものことながら――あまり鮮明ではない。とくに衣装や立ち居振る舞いについては、いつも頼りにさせていただいている、ぴしわさんの「覚え描き」ブログを今回も参照していただきたい。

1曲1曲の詳細な記憶は、2月、4月、そして5月に行く予定の公演で、徐々に補完していくはずだった――だが、それも今となっては叶わない。それだけになおさら、「新鮮な驚き」の印象は、今もそのままに、私の中に残っている。

 

――そのようなコンサート全体の印象をあえて一言に圧縮すると、これは「ラスト・ツアー」というより、まるで「ファースト・ツアー」のようだった、ということに尽きる。

これまでにも増して強い思いのこもった歌声、朗らかな笑顔、愉しいMC、そしてお便りコーナーでの客席からのポジティブな反応――それらのすべてが、「新鮮さ」の印象として凝縮された。お便りコーナーで、私の隣席、昔からのファン仲間のお一人のお名前が呼ばれたのも初めての経験で、コンサートの記憶に華を添えてくれた。

セットリスト(画像)を振り返ると、このツアーが、1977年から2013年までの中島みゆきのすべてのツアーの集大成にもなっていることがよくわかる。1979年春/秋のツアーと1981年の『寂しき友へ』を除くすべてのツアーで演奏された曲が、『結果オーライ』のセットリストには含まれている (もちろん、いくつかの新曲を除いて)。

1977年のコンサートは、正式に「ツアー」と銘打たれてはいなかったが、今回のラストツアーのパンフレットに掲載された “TOUR LIST” には、1976,77年のコンサートも掲載されているので、表に加えた。なお、1976年のコンサートはセットリストが不明のため省いた。

今回のコンサート本編セットリストを振り返ると――「あなたの笑顔を忘れないで」と歌う「一期一会」から、「そして覚えていること」で締めくくられるラスト「誕生」に至るまで――大切なすべての記憶を忘れずにいること、覚えていることへの希求が、繰り返し胸に迫る。

にもかかわらず、アンコールの1曲目「人生の素人」、2曲目「土用波」、そして何よりもラスト「はじめまして」は、いずれも過去と訣別し、未来へと真っ直ぐに足を踏み出そうとする歌である。このアンコールのゆえに、このコンサートの全体は――本編で、かけがえのない記憶たちへの愛惜を歌いながらも――過去へのノスタルジアではなく、未来へ歩み出そうとするエネルギーこそを、圧倒的に心に残した。

 

これまでも中島みゆきの短くないキャリアの中には、「過去の中島みゆき」との別れと、「未来の中島みゆき」との出会いという節目が、何度かあったように思う。

たとえば、1987年の「中島みゆきのオールナイトニッポン」降板は、今思い返しても、とりわけ大きな節目だった。それを発表した時の彼女の「私はやる気で辞めますから!」という限りなくポジティブな言葉を、久々に思い出したりもした。

コンサートツアーの終了というのは、おそらくそれ以上に大きな、もしかしたらこれまでの彼女のキャリアで最大の節目かもしれない。そこに、ただ一度とはいえ立ち会うことのできた幸運に、今は感謝するほかはない。

 

「結果オーライ」という言葉

その後、開催が危ぶまれる中で実施された最後の公演、2月26日の大阪フェスティバルホールでのコンサートに、私は残念ながら足を運ぶことはできなかった。が、この公演の様子については、Facebookでの畏友のおひとりAさんが、ブログで詳細なレポートをしてくださっている。

中島みゆきはMCで、この後に予定されていた28、29日の公演――それらには私も足を運ぶはずだった――の見送りを発表したのち、これから起こるであろう事態を見据えて、私たちファンを気遣い、励ますメッセージを送ってくれたという (具体的には上記ブログ記事を参照)。

こうした社会的危機に遭遇するたびに発せられる彼女からのメッセージは、4年前に札幌のコーヒーハウス「ミルク」を訪れたときにマスターの前田重和さんから伺ったこと――アマチュア時代から、彼女ほど社会の本質を深く、鋭く捉えていた者はいなかった――という言葉を、私に思い出させる。

あるいはより以前、彼女が高校卒業時の寄せ書きに書いたというこの言葉も、いま新たな意味をもって響くだろう。

この世で一番醜いのは人の心、そして、この世で一番美しいのも人の心です。

 

コンサートツアーの中断という――おそらくは中島みゆき自身にとって最も――思いがけない事態――そして、それを余儀なくさせた社会状況――によって、「結果オーライ」というツアータイトルには、はからずも新たな深い意味が加わることになった。

まったく状況は違うけれども、1980年春のコンサートツアー中止についてオールナイトニッポンで語った時の彼女の、重苦しく苦渋に満ちた声を思い出したりもした (その放送については、以前、この記事でも少し触れた)。

 

ツアーメンバーの一人、文さんこと宮下文一さんがTwitterでつぶやいてくれたように、いつの日か、「結果オーライ・リターンズ」と題してのツアー再開を期待したい――私もその気持ちに偽りはない。

そして、「まるで真っ白な霧の中」のように見通しがたい状況の中にあるからこそ、未来へと「真っ直ぐに空を見て、足を踏み出す」ことへの勇気を、未完の「ラスト・ツアー」の記憶から――そして、そこに至る中島みゆきのすべての活動が、過去から未来へと時間軸を貫いて描いてきた限りない軌跡から――今はただ、受け取りたい。

 

追記 (2020/5/5)

1月20日の金沢公演からこの記事を書くまでに3ヶ月以上――さらに、前の記事「万葉集と中島みゆき」からは、なんと1年以上も――かかってしまった。それは、未完の「結果オーライ」ツアーについて、どのような視点・角度から書くべきなのか、ずっと迷いつづけていたのが大きな理由だった。

おそらく、その迷いを解いてくれたのは、今回も――半ば偶然ながら――昔からのみゆきファン仲間たちとの再会だったように思う。

つい先日、1990年頃にパソコン通信『歌暦ネット』で出会って以来のファン仲間たちと、私にとっては初めてのオンライン呑み会を開催した。通信環境のせいもあって、必ずしもスムーズなやりとりとはいかない場面もあった――が、それ以上に、現在の状況の中で、気の置けない仲間たちと語り合う時間の貴重さを愉しんだ。それはある意味、30年前に初めてパソコン通信のオフ会に参加した時を思い出させるような、新鮮な感覚でもあった。

私たちの話題は必然的に、未完の「結果オーライ」ツアーのことへと向かう。とりわけ、アンコールのラスト「はじめまして」が、ファンの予想の遥か斜め上を行く選曲だったこと――そして、そこにこそ、まぎれもない「中島みゆき」らしさが最も強く感じられたこと。

はじめまして 明日
はじめまして 明日
あんたと一度 つきあわせてよ

実はこのリフレインには、36年前に初めて聴いた時からずっと、少し不思議な印象を抱きつづけてきた。

「あんた」という二人称は――「中島みゆきのオールナイトニッポン」の、とりわけ最後の葉書のコーナーでそうだったように――彼女にとって、おそらく最も飾り気なく「素」の状態で相手に語り掛けるときに選ばれる言葉なのだろう。

ただ、この歌詞の「あんた」は、普通に解釈すれば「明日」という時間のことを指しているのだろうが、それと同時に、私たち聴き手への呼び掛けであるようにも聴こえる――その両義性のゆらぎが、ずっと不思議だった。

だがおそらくは、「あんた」への呼び掛けがそうした両義性をはらんでいるからこそ、このリフレインは、まだ見ぬ「明日」と「つきあう」ことへの躊躇いのない勇気を、私たちに鼓舞するのではないか――古い仲間たちとの語らいは、はからずも私にそう気づかせてくれたような気がする。

その鼓舞を胸に、今はこの未完のツアーの記憶を心にとどめつづけたい。

 

万葉集と中島みゆき

2019年5月1日から始まる日本の新元号「令和」の出典と発表されたことがきっかけで、万葉集がちょっとしたブームになっているという。

出典とされたのは、万葉集巻5の梅花の歌32首 (さらに6首を追加) の序。天平2年 (730) 正月、太宰帥・大伴旅人が邸宅に官人たちを招き、観梅の宴席を設けた様子を描いている (原文は漢文、訓読は佐竹昭広他校注『万葉集』(二)岩波文庫、2013年による)

時に、初春の令月、気淑(うるわ)しく風和らぐ。

この一文に基づく「令和」の考案者ともされる中西進氏は、かつて著書『万葉の秀歌』 (ちくま学芸文庫 2012年、原著は1984年) で、梅花の歌38首の中から、この宴の主催者・大伴旅人の歌[巻5 822]を選出し、次のように評している。

わが園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも

「ひさかた」は「はるかな久しい彼方」、空の無限のかなたをいう。……そこから雪がやってきたというのである。「雪」は「梅の花」を比喩したもの。雪は「散る」「降る」「積もる」がふつうだから、「流る」というのは、たいへん斬新な表現だった。……花を雪と見立て、その雪が流れるというのだから、二重の比喩をするのである。
旅人の眼前の落花の景は、やがて幻視のなかで、流雪に変わってゆく。
(上掲書、149-150頁)

「ひさかたの」は「天」や「雨」「月」「日」「光」など天空にあるもの、天空からくるものにかかる枕詞で、原義は未詳とされているが、この中西氏の評釈は、空間的な遠さに加えて時間的な遠さ――「久しい」――をもそこに読み込んでいる。そのことが、実は次に書くことのヒントになった。

 

――この評釈を読み、私はまだ記憶に新しい夜会『リトル・トーキョー』第2幕の「梅が枝」を思わず連想したのだ。

梅乃 (植野葉子) が小雪 (香坂千晶) に日本舞踊を教えるあの場面は、パンフレットによれば、「2001年1月30日 第5場 厳冬期休業終了直前」となっている。梅の開花には明らかにまだ早い。北海道では、梅は桜よりも遅く、5月頃に開花する。

もちろん、あの場面や歌詞が、現実の梅花の情景と対応していなければならない理由はない。梅乃の名に含まれる「梅」に、彼女の――文夫への――想いが託されているのも明らかだろう。だが、そうだとしても、あの場面で「梅」が歌われる理由は、まだ十分には明らかではない。

 

――しかし、上述の万葉集の歌とその評釈を手掛かりにすることで、その謎が解けるような気がした。

「梅」は――大友旅人の歌とはちょうど逆に、あの夜会の舞台の背景に降り積もり、そして小雪の名にも含まれる――「雪」の暗喩であり、さらには、彼女たちをつつんで未来へと流れる時間の暗喩でもあったのではないか。

前の記事でも書いたように、『ウィンター・ガーデン』と同様にこの夜会でも、地上から天空への空間軸は、現在から未来への時間軸と重ね合わせられる。「天から送られた手紙」としての雪は、未来からの手紙でもある。それは幻視のなかで、「はらりはらり」と散る白梅へと変容してゆく。

 

――もちろん、中島みゆき自身が「梅が枝」を書いたとき、本当に上述の大伴旅人の歌を意識していたかどうかはわからない。これはまったくの偶然に過ぎないのかもしれない。

ただ、夜会を含む中島みゆきの作品世界には、その遠く遥かな背景として、奈良時代に成立したとされるこの日本最古の和歌集がずっと存在してきたに違いない――と私は思っている。

中島みゆきと万葉集との接点らしきものについて私が最初に知ったのは、かつて朝日新聞夕刊に連載されていた「新人国記’82」という記事においてである。北海道出身のアーティストや芸能人を紹介した回 (1982年6月29日付) には、彼女について「藤女子大では国文学科に籍を置き、万葉の世界にあこがれる一方で、フォーク活動のとりこになった」と書かれている。

よく知られているように、中島美雪が卒論のテーマとして選んだのは現代日本の詩人、谷川俊太郎であり、指導教員の藪禎子教授も近代日本文学の研究者だった。だが、以前の記事「中島美雪の3人の師」でも書いたように、学生時代すでに、彼女の関心は自らの専攻を超えて、古代から現代に至る日本語・日本文学の広大な世界へと広がっていたように思われる。万葉集はおそらく、記紀とともに、その世界の原初に位置している。

この記事では、そうしたことも念頭に置きながら、中島みゆきと万葉集との関係について、思うところを自由に綴ってみたい。例によって確たる根拠のない想像――妄想というべきか――も多く含むことになると思うが、どうかご容赦願いたい。

 

『相聞』

さて、中島みゆきと万葉集といえば、おそらく多くのファンが真っ先に連想するのが、2017年11月にリリースされた――現時点で最新のオリジナル・アルバム――『相聞』のことだろう。

「相聞」(恋の歌) は、「挽歌」(死者を悼む歌)、「雑歌」と並ぶ万葉集の三大部立 (ぶだて、ジャンルのこと) のひとつである。古代風の衣装をまとった中島みゆきのジャケット写真も、明らかにその時代をイメージしている。

このアルバムのリリース時の中島みゆきのインタビューをみてみよう。平原綾香への提供曲「アリア-Air-」のセルフカバーについて語っている部分である。

―― 一人で歌うパートなのに“一人では歌えない”と言っている。まさに相反する。二律背反、核心ですね。

中島:アリアをキチっと歌えるのはどこかで自分のアリアを歌っている人と出会った時でしょう。受け合うのね。受け合った時に波が生まれる。それが「相聞」ですよ。そのために歌わなきゃだめだ。それぞれの「アリア」が共鳴した時に人と人の関係が生まれる。それが「相聞」。

このインタビューからも明らかなように、ここでの「相聞」の意味は、狭義の「恋の歌」を遥かに超えている。そこにこめられていたのは、「孤独という冷たい闇」から解き放たれ、他者の声を聞くこと、互いの声を聞きあうことへの「希い」であったのだ。

このアルバムを初めて通して聴いたとき、まず圧倒されたのは、「私」という孤独な存在の意味を、遥かな宇宙の果てまでの無限の空間、遥かな過去から遥かな未来に至る無限の時間に向けて問いつづける、その問いかけの迫力のたゆみなさに対してだった。

――アルバム『相聞』は、いわばこの言葉の原義を経由して、そのように限りない問いかけへと開かれている。だが、そこに至る原点には、おそらく万葉集の (狭義の) 相聞歌から彼女が受け取ったなにかがあったはずだとも、私には思える。次項では、そのことについて考えたい。

 

『日本の恋歌』

中島みゆきと万葉集との関係について考えるには、彼女自身の編による『日本の恋歌 その3 涙が出ないのはなぜ』(作品社 1985年) は、絶対に欠かせない重要な資料のひとつである。

谷川俊太郎監修によるこの3巻本 (「その1」は谷川俊太郎自身の編、「その2」は吉行和子編) は、古代の和歌から現代詩、さらには現代のポピュラーソングに至るまでのさまざまな日本語の「恋歌」から、各編者がそれぞれ100篇を選出するという企画である。裏表紙の紹介文によれば、各巻は邂逅・相聞・別離と部立てされており、中島みゆき編の「その3」は別離の歌の巻だった。

その100篇の中に、中島みゆきは万葉集から9首を選んでいる。そのすべてについて触れる余裕はとてもないので、ここでは2首の相聞歌――ここでは万葉集内の部立としての――だけを取り上げよう (この2首は、この本の40-41頁に見開きで掲載されていて、訓読はこれに従う)

小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ別れ来(き)ぬれば
[巻2 133] 柿本人麻呂

人麻呂が石見の国から妻と別れて上京する途上で詠んだ10首 (うち2首は長歌) のうちの1首。吹きつける強風が無数の笹の葉をひるがえし、その響きが全山をどよもさせる――その壮絶な外界と、ひたすらに「妹思ふ」自らの心との対比。その対比の鮮烈さのゆえに、離別の哀しみは一直線に胸に迫る。

――このように、広大な外界へのまなざしと、孤独な自らの心とを対比させる、めくるめくような世界観は、多くの人麻呂の歌に共通するものである。それはまさに、多くの中島みゆき作品に共通する世界観でもある。

 

我が背子を大和へ遣(や)ると小夜更けてあかとき露にわが立ち霑(ぬ)れし
[巻2 105] 大伯皇女

「我が背子」は大伯皇女の同母弟・大津皇子。伊勢神宮の斎宮を務めていた姉をひそかに訪ねた弟の、都への出立を送る歌である。この後、大津は異母兄・草壁皇子への謀反の疑いにより、死を賜ることになる。

飛鳥時代の政治劇、それも悲劇の一幕として語られることの多いこの歌だが、その焦点は、暁の露に衣を濡らしながら立ちつくす大伯の限りない孤独にある――神にのみ仕え現世との交わりを絶たれた斎宮の孤独と、死へと赴く弟を救うことのできない姉の孤独とが、その姿には重ね合わされる。

この時代においても、同母の兄弟姉妹のあいだの恋は重大なタブーだった。だが、この本での青木健氏による解説も――さらに話は大きくそれるが、この時代を描いた里中満智子の漫画『天上の虹』も――この歌に、姉と弟という関係を超えた大伯の大津への想いを読み取っている。もちろん、それが史実かどうかは検証不可能だろうが、後世の私たちに、そのような想像をさせずにはおかない彼女の孤独の深さと想いの強さとが、この歌からは聞こえる。

 

この項の最後に、中島みゆき自身による、この本のまえがきから引用しよう (同書9頁) 。

見るがいい。
こんなに堂々とふりかざしてくる孤独を。嘆きを。愛を。これは言わば、しぶとい生命力である。自刃にだって、強い自力が必要なのだ。同情などせずに、せせら笑ってやるがいい。つき離してやるがいい。私が自分の痛みだけのために忙しいデクノボウになっても、彼らはきっと、まだまだ噛みつく相手をたくさん知っているだろう。

――この述懐は、上述の2首も含めて、古今の別離の歌がもつ「しぶとい生命力」へのきわめて率直なオマージュであると同時に、その生命力を自らの内に引き受け、それらの歌の問いかけに自らの歌で応えてゆこうとする、強かな覚悟の表明でもあるように、私には読める。その覚悟は、他者と共鳴しあう「アリア」としての「相聞」を歌わなければならないという現在の彼女の思いへと、遥かにつながっているはずだ。

 

『ウィンター・ガーデン』と蒲生野贈答歌

――ただ、作品世界の遠い背景として存在してはいても、万葉集が実際に中島みゆきの作品の中にモチーフとして登場した例は、実は今のところきわめて少ない。そのほとんど唯一の例外と言えそうなのが、この項で述べる夜会『ウィンター・ガーデン』である――それさえも、公式資料でそう明言されているわけではないのだが。

横領した勤め先の漁協の金で、北限の荒野に立つ GLASSHOUSE――透明なガラス張りの温室のような家――を手に入れ、そこでただひとり暮らす〈女〉 (VOL.11では谷山浩子、VOL.12では香坂千晶)

そこで〈女〉を出迎える、その家の先住者の〈犬〉 (中島みゆき)。

そして彼女たちの生を、その家の傍らでただじっと見つめつづける槲の〈樹〉 (VOL.11では佐野登/波吉雅之/渡邊他賀男のトリプルキャスト、VOL.12では佐野登)

――この3人のメインキャストが立ち替わり50篇の詩を朗読し、その合間に〈女〉と〈犬〉とが歌う13曲が差し挟まれる朗読劇。それは、30年にわたる夜会の歴史の中でも最も特異で実験的であり、そしてある意味で最も深い衝撃を残した舞台だった。

その全体像については、以前に書いた記事「神話の解凍――『ウィンター・ガーデン』再考」に譲ることとし、以下では、その記事では触れなかった万葉集との関係を中心にみていきたい (VOL.11に基づく詩詞集『ウィンター・ガーデン』[幻冬舎 2001年]を資料として参照する)

 

第1幕第2場「花に覆われた湿原」――〈女〉の眼前には、地平線まで咲き乱れる朱色の花に覆われた広大な湿原が広がる。

朱色の花を抱きしめて 私いつまでも待っているわ
朱色の花に埋ずもれて みつからないかもしれないわ
(「朱色の花を抱きしめて」)

夜会工場VOL.2での中島みゆき自身による歌唱も記憶に新しいこの歌を、〈女〉はその広大な朱色の風景のただなかで、道ならぬ恋の相手である義兄――姉の夫――がやがて訪れるのを待ちながら歌いはじめる。そして〈犬〉が、彼女の想いを反復するかのように――あるいは自らの前生の記憶の反復でもあるかのように――その歌を引き継ぐ。

 

つづく第3場「犯罪」――夏のあいだ朱に染まっていた湿原は、季節の移ろいにつれて、少しずつ色褪せ、紫色の野へと変わってゆく。

(あけ) を奪う色は いつの世も紫
(「朱を奪う紫」)

野守が見てるよ
捕ってはいけない動物を
こっそり捕りに来る奴を
昼も夜も 見張ってるよ
(詩「野守草」)

〈犬〉が歌い語るこの2篇は、朱から紫への色彩の移ろいと重ね合わせて、〈女〉が過去に犯した罪と、未来に犯そうとする罪とをしだいに浮かび上がらせる (ここでも、それは〈犬〉の前生の記憶の反復でもあるのかもしれないが、そのことついてはこれ以上触れないでおこう)

 

――ここで、モチーフとしての万葉集の存在が暗示される (訓読は斎藤茂吉『万葉秀歌』(上) 岩波新書、1953年改版による)

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
[巻1 20] 額田王

紫草 (むらさき) のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑにあれ恋ひめやも
[巻1 21] 天武天皇

668年5月、天智天皇が蒲生野 (現滋賀県) に薬 (薬草) 狩りに行幸したとき、額田王と天智の弟・大海人皇子 (後の天武天皇)とが歌い交わしたという2首であり、「蒲生野贈答歌」としてよく知られる。

万葉歌人として著名な額田王は、かつて大海人の妃であったが、この当時は兄・天智 (中大兄) の寵愛を受けていたという。そのことからこの2首は、大海人と兄の妻・額田との許されぬ恋を歌ったものである、というのが長らく通説であった。

後に天智の死後、大海人は天智の長子・大友皇子との戦 (壬申の乱、672年) に勝利し、権力を掌握して即位するに至る。そうした歴史的文脈もあって、この2首も、この時代の政治劇の一幕として語られることが多い。

 

――万葉集では兄の妻と弟、夜会では姉の夫と妹の恋。「紫」はその罪を象徴する色であり、「標野」――立入禁止の薬草の占有地――の番人である野守は、その罪の目撃者・証言者でもある。

だが、そのように明白な形式的対応関係以上に、さらに深い印象を残すのは、遥かに時代を隔てた両作に共通する、色彩感覚や空間感覚の鮮烈さだ。とりわけ額田王の歌は、私が初めてそれに触れた子どもの頃から変わることなく、鮮やかな情景を幻視させてきた。ただ一度観た夜会VOL.11の千秋楽の舞台は、私の中にその記憶を思いがけず蘇えらせた。

「あかねさす」は枕詞という形式上の意味を超えて「紫」の風景を美しく照り染め、その風景の中を――「紫野行き標野行き」――ためらわず進んでゆく、その自らの視線の遠景には、野守のまなざしを恐れることもなく「袖振る」君の姿が見える。

この鮮やかな色彩と動きとに彩られた情景の中に照り映える額田の想いに、大海人は「憎くあらば」「恋ひめやも」という二重の反語の強調によって、いささか直截に応えるしかなかったのか――

 

――もっとも、この2首は相聞歌ではなく雑歌の部立に含まれていることから、現在では、宴席での余興のために詠まれた歌として解釈されることが一般的であるともいう。

だが、ここでも私が思い出すのは、里中満智子の『天上の虹』での描き方である。そこでは、たしかにこの2首は、薬狩りの日の夜、天智の主宰する宴席で額田と大海人とが歌い交わすのだが、それは余興に見せかけた二人の真情の表現でもあった、という解釈がなされていた――私も個人的には、このさらに穿った解釈に共感したくなる。

 

――万葉集の解釈問題はこのあたりで置くとして、夜会VOL.11の舞台の記憶でもう1点鮮やかなのは、上述の「朱を奪う紫」の後送が奏でられる中、中島みゆきが詩「野守草」を語り始めたとき――「野守が見てるよ」――の独特の節回しともいうべき不思議な抑揚である。率直にいえば、それは詩の朗読というよりも、まるで歌の続きででもあるかのようなメロディアスな抑揚として、耳に入ってきた。

いうまでもなく万葉集以来の日本の和歌とは、本来は文字通り「歌われる」ものだった――その名残りは、現在でも宮中の歌会始などで聴くことができる――が、夜会VOL.11での「朱を奪う紫」から「野守草」への流れは、「歌」と「詩」とが切れ目なく連続するものであることを、より原初的な感覚として、私に知らしめてくれたような気がする。

 

結びにかえて――柿本人麻呂と中島みゆきの世界観

以上、思いつくままに書いてきて、これまで以上にとりとめのない記事になってしまったような気もする。とりとめのなさついでに、『日本の恋歌』でも触れた柿本人麻呂と中島みゆきの世界観の共通性について、もう1首だけ人麻呂の歌をひいて付け加えておこう (訓読は斎藤茂吉『万葉秀歌』(上) 岩波新書、1953年改版による)

ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
[巻1 48] 柿本人麻呂

軽皇子 (後の文武天皇) が阿騎野 (現・奈良県宇陀郡) に行啓し旅寝したとき、同行した人麻呂が詠んだ4首のうちの1首として、とりわけ著名な歌である。

東天に立ち初める「かぎろひ」(暁の光)と、振り返って西の空に傾く月との、壮大な対比。天空を振り仰ぐように往還するこのまなざしは、中島みゆきの「十二天」に共通する――どちらがどちらを連想させる、ということではなく。

この曲についても、以前「十二天の世界像」という記事で詳しく考察したので、ここでは繰り返さない。ただ、日から月へという視線の往還は、空間軸の往還であると同時に時間軸の往還でもあり、そのようにして時空を見はるかす遠心的な世界像の開示こそが、夜会『今晩屋』では救済への扉を開く転換点となったことだけを想起しておきたい。

広大な外界と、その中の1点としての孤独な自己の存在とを対比し、包摂するまなざし。人麻呂に代表されるそのような壮大な時空感覚こそは、つねに中島みゆきの作品世界を取り囲む遠景として存在しつづけてきたような気が、私にはしている。

 

――もとより、私が知っている万葉集は、その広大な世界のほんの一隅に過ぎない。まだまだ私が気づいていない中島みゆきとの接点が、至るところに潜んでいる可能性は十分にある――第一、上述の『日本の恋歌』に収められた残り7首についてさえ、まだ視野の外にある。だからこの記事は、現時点でのとりあえずのつたない中間報告とでも言うしかないものである――と最後に言い訳をしておこう。

だが、むしろそのように、どこまでも探索しつくすことのできない世界の広大さと奥深さのゆえにこそ、中島みゆきを通して万葉集を再発見するという――私の力量にとってはいささか壮大にすぎる――企ては、きっとこれからも私を魅了し続けてくれるのだろう。

 

追記 斎藤茂吉『万葉秀歌』について

万葉集と中島みゆきとをつなぐ媒介者として、近代日本を代表する歌人の一人、斎藤茂吉の存在も重要だったのではないかと私は想像している。

未確認情報だが、大学時代の彼女が斎藤茂吉研究ゼミに参加していたという話もあるし、また彼女の世代であれば、茂吉の名著として知られる『万葉秀歌』(上・下、岩波新書旧赤版)が、万葉集への入門書のひとつだった可能性も十分に考えられる――まったく余計なことだが、彼女から7つほど年下の私自身もそうだった。

『日本の恋歌 その3 涙が出ないのはなぜ』に選出された9首の万葉集の歌のうち――上述の2首を含む――7首は『万葉秀歌』に選出されていた歌でもある。

さらに想像をたくましくすると、夜会『ウィンター・ガーデン』のモチーフのひとつである中谷宇吉郎博士の『雪』も、岩波新書旧赤版の最初期の名著として知られている (ともに原著は1938年だが、戦後もロングセラーとして長く読まれてきた)蒲生野贈答歌を、中島みゆきがこの夜会の隠されたモチーフとして取り込んだのも、もしかしたらそこに両書をつなぐ無意識の連想のようなものが働いていたのではないか、という気さえしてくるのだ。