出会いの記憶――「中島みゆきのオールナイトニッポン」のこと

Annこの記念すべき日には、この腰の重いブログも、やはり久々に更新しなければならないだろう。

私が中島みゆきファンになった最初のきっかけのことを書きたい――それは、私と同年代の多くのファンのご多聞に漏れず、かの伝説の名番組「中島みゆきのオールナイトニッポン」との出会いのことである。

大学2年の1979年秋頃――ということはこの番組がスタートして半年ぐらいの頃、ということになるが――手持ち無沙汰な深夜に、ラジオのチューニングをあれこれといじっていると、たまたま聞こえてきたハイテンションのけたたましい女性DJの声に、まず度肝を抜かれた。

やや茫然としながら、しばらくのあいだ聞くともなしに聞いていると、DJは「中島ぺったん」と自称――まさかと思って新聞のラジオ番組欄を見ると「中島みゆき」の文字が。

それまでは中島みゆきといえば「時代」ぐらいしか知らず、あまり若い女性らしくなく、真面目でしかつめらしい曲を歌う歌手というぐらいの漠然としたイメージしか持っていなかったので――その認識の浅さについては、まったく私の不明を恥じるしかないのだが――再び驚かされた。

番組の最後に読むシリアスな葉書と、その後にかかる彼女自身の曲とで、この番組のDJが中島みゆき本人であることは頭では理解できたが、それからもしばらくは、DJとしての彼女と歌手としての彼女とのあいだに存在する巨大なギャップに戸惑いつつも、どちらかといえば前者のコミカルな側面にしだいに惹かれて、私はこの番組を毎週、月曜深夜に聴くようになっていった。

 

歌手としての中島みゆきのシリアスな側面、その重みにも気づくようになったのは、翌1980年2月にシングル「かなしみ笑い」がリリースされた頃からである。

番組内で時々かかるこの曲の――タイトルの意味するとおり――自らの悲しみを徹底的に客観視しようとするアイロニカルなまなざしの鋭利さにも惹かれたし、またB面 (当時) 「霧に走る」の、限りなく繊細な心の震えと、その背景として広がる「深い霧」の抒情も印象的だった。

総じて、それまでの歌謡曲やフォークソング――その頃の私の年代では、まだこう呼ぶのが一番しっくりきた――と、表面上は連続していながら、しかし深層ではまったく異質な、本当に驚嘆すべき何かが、このひとには存在するのではないか――そんな漠然とした予感が、その頃の私の中で育ちつつあったような気がする。

そしてその予感は、その年の春にリリースされたアルバム『生きていてもいいですが』によって、予想を遥かに上回る巨大な衝撃として、実現されることになる。

ただ、私がこのアルバムを購入したのは、リリースの4月5日の1箇月少しあと、5月15日のことだった。その前後に、やはり「オールナイトニッポン」の番組中で、決定的に重要な2つのエピソードに、私は遭遇している――『生きていてもいいですか』については別の機会に譲り、ここではその2つのエピソードについて書きたい。

 

1つめのエピソードは1980年5月5日、この年の春のコンサートツアー中止のアナウンスを、中島みゆき自身が番組の最後におこなったときのことである。

いったん発表したツアーのスケジュールをキャンセルするのは、彼女にとって、非常な苦渋の決断であることは明らかだった。この夜の放送では、冒頭からいつものハイテンションが影を潜め、コミカルな葉書を読むときにさえも、声がとても沈んでいたのをよく覚えている。

そして、ツアー中止を知ったファンやリスナーからの葉書の数々――たとえば、「プロなんだろう?」と中止を非難する葉書、あるいは「失恋ぐらいで何だ!」といったキャンセル理由を憶測する葉書――をあえて読み、それらの辛辣な言葉に対して一切の言い訳も反論もせず、ただ――プロだからこそ、納得できないコンサートはやれない、納得のゆかない仕事でお金をもらうわけにはいかない――と、どこまでも真摯に答える彼女の言葉に、当時まだお気楽な学生だった私は、粛然とした。

 

2つめは、1980年5月19日の放送。最後の葉書のコーナーで、恋人を病気で失ったという少女の葉書が読まれ、「世情」がかかった時のことだ。

その彼とコンサート (1979年のツアー) に行き、ラスト曲「世情」を一緒に泣きながら聴いたという思い出が、葉書には綴られていた。

――私は、「世情」をその時初めて聴いたわけではなかったのだが、おそらくその時初めて、この曲の真の意味が胸の底に届いたという気がした。聴きながら、自分の世界が根底から変わっていくような感覚を味わったことを、今でもはっきりと思い出す。

その「世情」の意味は、とても単純なことのようで、簡潔に言葉にするのが難しい――

「世情」には最初は、学生運動の時代を歌った歌なんだろうな、という漠然とした認識と、私自身はその世代からは隔たったところにいる、という醒めた距離感しか感じられなかった――ここでもまた、私は自らの不明を恥じるしかないのだが。

が、その夜、今はこの世にいない恋人と二人で泣きながらコンサートで「世情」を聴いたという少女の言葉から、私はそうした自分の認識の浅薄さを徹底的に暴かれたような気がした。

そのとき気づかされた「世情」の意味とは――

「シュプレヒコールの波」に象徴される「社会」や「政治」の問題とは、結局は私たち一人ひとりの孤独な「心」の問題でしかありえないということ、私たち一人ひとりが、ほんとうに真摯に自らへの問いとして考えることによってしか、近づくことのできない問いなのだということ――とでも言えばいいのだろうか。

あるいは逆に、私たち一人ひとりの孤独な「心」の問題こそが、真の「社会」や「政治」の問題なのだ、と言っても同じことだ。

例の有名な『3年B組金八先生』の挿入歌としてのテレビ放送よりも、約1年前のことだが、私にとって、中島みゆきファンへの最後の決定的な一歩を踏み出させたのは、この夜の「世情」だったと言って間違いない。

昨年9月の記事で、「ミルク」のマスター前田さんの言葉に託して書いたこと――中島みゆきが私たちに投げかけつづける、容赦のない徹底的な問いかけ――は、そのようにして私たち一人ひとりの孤独な「心」と、「社会」や「政治」さらに「世界」とを、はるかにつなぎながら往還する、めくるめくような世界観によって基礎づけられているのだと思う。

 

――「オールナイトニッポン」の話に戻ろう。

おそらくこの時期、1980年の春頃に集中的に、上記のようなエピソードを通じて、中島みゆきの――あのコミカルなDJとバランスを取りながらでなくてはむしろ支えきれないような――限りなくシリアスな「重さ」を、私は本当に知ったのだと思う。

とりわけ、「最後の葉書」のコーナーで、口調や声のニュアンスからもはっきりと伝わってくる、私たち、顔の見えないリスナー一人ひとりに、徹底的に真摯に、誠実に関わってこようとする彼女の姿勢――その迫力に圧倒され、自らの世界観の根底的な変容を迫られ、そして自らの生への限りない励ましを受け取ったこと――それだけは、今も忘れようのない記憶として残っている。

あれから37年――

お気楽だった当時の学生は、今や中年も後期に差し掛かり、公私のあれやこれや――その中には、自らの子どもの受験などという頭の痛い懸案も含まれていたりする――に日々思い悩む、一職業人・家庭人となっている。

しかし、中島みゆきはこの37年間変わることなく、私に、究極的にはただひとつのこと――この私は、この世界の中で何処にいるのか、そして何処へゆくべきなのかということ――を歌い、語り、そして問いつづけてきた。

そのことへの限りない感謝をこめつつ――上記のような出会いの記憶を、今日この日に改めて噛みしめている。


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