「泣いてもいいんだよ」というメッセージ

いつも以上にブログ更新の間が空いてしまったが、いま中島みゆきにまつわる話題と言えば、やはりこれだろう。

「ももクロ」こと、ももいろクローバーZへの曲提供のニュースを目にした瞬間は、正直言ってかなり虚を衝かれる思いがした。

しかしふりかえってみれば、中島みゆきはこれまで数々の「アイドル」と呼ばれる歌手たちに多くのヒット曲を提供してきたし、またそれらの大半を中島みゆき自身がセルフカバーしていることも、みゆきファンには周知の事実だろう。

1970年代の桜田淳子、80年代の柏原芳恵、80年代末から90年代にかけての工藤静香――こうしてみると、提供曲一般の中でもとりわけアイドルへのそれは、中島みゆきのキャリアの中でもかなりのウェイトを占めてきたことに改めて気づく。

だが、実際に今回の提供曲「泣いてもいいんだよ」を耳にして、私は再び強く虚を衝かれた――というよりも、より正直に「胸を衝かれた」というべきか。

それは――とりわけマイナーのAメロ、Bメロ部分の――歌詞のもつ強烈なメッセージ性に対してである。それは、少なくとも歌詞だけを読む限り、およそアイドルへの提供曲にはそぐわない「重さ」をさえ感じさせた――その「重さ」が、Cメロ(サビ)での突き抜けるようなメジャーへの転調と、「そりゃ!」という陽気な掛け声(?)によって救われているのは確かなのだが。

そのメッセージは、最近のアルバム『常夜灯』に収録され、「縁会」ツアーでも歌われた「風の笛」と同質のものを感じさせなくもない。

言葉に出せない思いのために  お前に渡そう風の笛
言葉に出せない思いの代りに  ささやかに吹け風の笛

「大切な総てが傷つく」ことを恐れるがゆえに、言葉に出すことの許されない、ひとりひとりが孤独に抱え込むことしかできない悲しみ、苦しみ、痛み――そのひとりひとりへの共感を伝える「風の笛」の音色を、もっとストレートな表現に置き換えたときに出てくるのが、「泣いてもいいんだよ」というメッセージなのかもしれない。

ただ、「泣いてもいいんだよ」の場合、そのメッセージは聴き手に対して、あるいは歌っている彼女たち自身に対してのそれだけではなく、中島みゆきから彼女たちに寄せられたメッセージでもあるように聴こえてくる。

それはあえて強引に一般化すれば、「アイドル」という存在そのものに向けられたメッセージ、と言ってもいいかもしれない。

 

「アイドル」とはどのような存在なのか――

それを社会学者や評論家たちは、1990年代以降、アイドルに対するファンたちの「アイロニカルな没入」という言葉で説明してきた (大澤真幸『電子メディア論』1995 など) 。つまり、アイドルという存在の虚構性に対して、冷静な批評的まなざしを向けつつも、同時に――とりわけライブやイベントの場で――彼女たちに熱狂的に没入していく――ファンたちのそのような両義的なスタンスそのものが、アイドルという存在を成立させている、ということだ。

こうした議論をみると、私はどうしても――これはずっと以前、同人誌に書いた記事でも触れたことだが――情報人類学者・奥野卓司が著書『パソコン少年のコスモロジー』(1990)の中で、中島みゆきの作品世界の構造と、「パソコン少年」の世界観との共通性について、次のような指摘をしていたことを思い出す。

自分自身をだまして、自分の嘘の世界のなかに生きている。中島みゆきの歌の多くは、おおよそこのような仕組みでできている。
パソコン少年が、中島みゆきにひかれるのは……実はこの仕組みゆえではないだろうか。……パソコンのなかには、一般に嘘といわれる世界、仮構の世界がある。が、それを嘘の世界のことと突き放さないで、そのなかで自分を遊ばせる。自分の嘘に自分がだまされてみる。つまり、共犯で仮構世界を構築していく。

奥野自身は「元気ですか」や「悪女」を例に挙げて述べているのだが、ここで、かつて1977年に桜田淳子に提供された (最近では2010~11年のツアーで中島みゆき自身が久しぶりに歌ったことも記憶に新しい) 「しあわせ芝居」を思い出してみてもいいだろう。それは、まさにそのような「嘘」とその終焉を歌う歌だった。

私みんな気づいてしまった
しあわせ芝居の舞台裏

しかし、(「世情」に登場する「学者」のように) 「包帯のような嘘を見破ること」ではなく、あえて「自分の嘘に自分がだまされてみる」こと――それこそは、中島みゆきの作品世界と当時の「パソコン少年」に、そして (奥野自身は直接は触れていないにせよ) 「アイドル」とそのファンたちとにも通底する世界観だったのではないか――もちろん、没入や熱狂の対象はさまざまであるにせよ。

そのような世界観への中島みゆき自身の基本的な共感は、「世情」だけでなく、たとえば「永遠の嘘をついてくれ」にもはっきりと表明されている。

君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ

しかし、「永遠の嘘」をつきつづけること――「いつまでもたねあかしをしないで」いること――は、現実には決して容易なことではない。

その困難さは、「泣いてもいいんだよ」の歌詞の中でもひときわ重い、次のフレーズにも反映されている。

どんな幻滅も 僕たちは超えてゆく
でもその前にひとしきり痛むアンテナもなくはない

「ひとしきり痛むアンテナ」とは、「風の笛」にも歌われているように、この現実世界の中で「大切な総てが傷つく」ことを恐れ、「警戒」する心のアンテナにほかならないだろう。

もちろんこの困難さは、「自分の嘘に自分がだまされてみる」ことをあえて選ぶすべてのひとに共通するものではある。しかしとりわけ、生身の身体をもって「アイドル」という存在そのものを演じつづけなければならない彼女たち自身にとって、その困難さが常人を超えたものであろうことも、想像に難くない。

私がももクロの歌う「泣いてもいいんだよ」に胸を衝かれるのも、まさにその困難さへの共感――そして、「幻滅」を「超えてゆく」ことへの共感のゆえだ。


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