2月23日(土) 深夜 (正確には24日(日)の早朝) 3~4時に放送された「中島みゆきのオールナイトニッポン」。
「オールナイトニッポン」の45周年記念スペシャルに「伝説のパーソナリティ」の一人として登場した彼女の久しぶりの深夜ラジオ生放送を、多くの古参ファンは、懐かしい思いとともに耳にしたのではないだろうか――もちろん、私もその一人である。
とはいえ、30数年前の学生時代のように、この時間帯まで起きてリアルタイムでラジオを聴くのは、もはやとうてい不可能であり――やはり多くの同輩の方々もそうしたであろうように――インターネット放送をPCに録音しておいたのを、先ほど聴き終わったところだ。
30数年という時を隔てての「懐かしさ」への期待は、いい意味で裏切られた。
年齢とともに気力・体力の衰えを痛感する当方とはきわめて対照的に、中島みゆきのあのハイテンションのしゃべりは、まったく年齢というものを感じさせない。というよりも、30数年前のレギュラー時代以上のハイテンションぶりである。
2月23日はいうまでもなく彼女の61回目の誕生日だったわけだが、その話題がまったくスルーされてしまったのも、宜 (むべ) なるかな――という感がある。
その上、なんと4月からは、月1回ではあるが、日曜深夜 (月曜早朝) 3~5時に「中島みゆきのオールナイトニッポン」が復活するという「重大発表」には驚かされた。
かつて、1979年4月から1987年3月までの8年間、ほとんど毎週、月曜の深夜に放送されていたあの伝説の名番組は――現在ではコンサートツアーのMCか、たまのラジオ出演でしか触れることのできない――彼女のコミカルな側面が大きく前面に出ると同時に、シリアスな「最後の葉書」コーナーに代表されるように、ファンとのあいだの貴重なコミュニケーションの回路としても機能していた。
直接に彼女の歌からではなく、あのDJ――とりわけコミカル/シリアスの強烈なコントラスト――に魅かれ、いつの間にかファンになっていたという人も、おそらく少なくはないだろう――というか、私自身がその一人である。
4月から復活するオールナイトニッポンが、ふたたびそうしたコミュニケーションの回路としても機能するようになるのかどうか――できることなら、その可能性も含めて、放送の開始を大いに楽しみに待ちたいところだ (やはり、インターネット放送の録音で聴くことにはなるだろうが)。
――1時間はあっという間に過ぎてしまい、午前4時からの谷山浩子の担当時間にも、予想通りというか、中島みゆきが乱入した。交代時間の4時直前から始まったこの二人のやりとりは――30数年前のオールナイトニッポンでもそうだったように――長年の朋友どうしの気の置けない関係が、とてもよく伝わってきて楽しい。
2000年の夜会「ウィンター・ガーデン」で共演した時についてのちょっとした話題も、おもしろかった。ちなみに、この舞台は、谷山浩子にとっても非常に印象に残る仕事だったようで、彼女の当時の個人ホームページにも、多くの興味深い記述がある。
かつて、木曜深夜 (3~5時) に放送されていた谷山浩子のオールナイトニッポン第2部も、学生時代の私は、眠い目をこすりながら (時には半ば意識朦朧としながら) 楽しみに聴いていたものだった。
この人もやはり「年齢不詳」というべきか、谷山浩子のあの可憐な声も、その頃の記憶とまったく変わっていない。
今回の放送の録音を、ベッドに寝転びながらイヤホンで聴いていると、その頃、昼夜逆転生活を送っていた自堕落な学生時代の記憶が、思わずじわじわとよみがえってきた。
――と同時に、未来が見えない紆余曲折の中にいたその頃と比べて、今の自分は果たしてどれだけ「進歩」したのだろう――形の上では仕事を得、家族を得たとしても――本質的には何もあの頃と変わってはいないのではないか、などと、とりとめのないことを考えたりもした。
中島みゆきがコンサートツアー「縁会」で、「世情」の前のMCで語っていたように、30数年前と現在とでは、道具やシステムという面では、この国は別の国かと思うほどに変わってしまった。あの頃、深夜ラジオの彼女たちの声を伝えてくれた、ノイズの多いAM放送やカセットテープは過去のものとなり、ラジオもインターネットで聴く時代になった。
――しかし、「声」という唯一の回路を通じて、パーソナリティとリスナーとをつなぐラジオというメディアの本質は、今も変わらない。その独特の魅力を、久しぶりに再発見させられたような、二人の番組だった。