透きとおる高音――杉本和世さんについて

「夜会ステージアートスペース」 (2008年 赤坂TBS 1階ロビー) より、夜会VOL.5『花のいろは…』の舞台

夜会Vol.17『2/2』の初日の感想でも書いた通り、夜会Vol.17『2/2』のエピローグともいうべき第3幕「鏡の中の夏」は、杉本和世の美しい高音のスキャットによる「彼と私と、もう1人」とともに幕を閉じた。

初日は幸運にも、舞台の下で歌う彼女の姿がよく見える席だったこともあり、とりわけこのエンディングの歌唱は、強く印象に残った。

彼女のスキャットといえば、1993年の夜会Vol.5『花の色は…』のラスト「夜曲」のエンディング――中島みゆき演ずる〈時間泥棒〉が、上空に浮かぶ巨大な月に向かって、つづら折りの階段をゆっくりと登ってゆく場面――でのすばらしい絶唱が、それから18年経った今も、はっきりと私の耳と胸に残っている。今回の第3幕では、久々にその絶唱を思い出した。

夜会の多くのミュージシャンたちの中でも、杉本和世は、これまでVol.11『ウィンター・ガーデン』を除くすべての公演に参加してきた無二の存在である。

のみならず、1989年の夜会の開始以前から、コンサートツアーやレコーディングの大半で、彼女がサイドヴォーカリストとして中島みゆきをサポートしつづけてきたことは、年季の入ったみゆきファンなら、よくご存知のことだろう。

この記事では、その杉本和世――というよりも「和ちゃん」という愛称のほうがぴったりくるが――について、個人的な記憶をも交えながら、思い出すことをまとめておきたい。

リードヴォーカルとサイドヴォーカル

中島みゆきは、1986年に出版した『女歌』 (新潮社) の中の「コーラスガール物語」と題したエッセイで、彼女について書いている (この本の帯には「初めての書下ろし小説」というキャッチフレーズがあるが、実質的にはエッセイ集である)

このエッセイは、ヴォーカリストとして、また女性としての「和ちゃん」の人となりを鮮やかに描いていると同時に、中島みゆきが真に信頼しうる仕事仲間として彼女をみつめるまなざしが、よくうかがえる好篇になっている。

とりわけ次の一節には、中島みゆきが彼女にこれほど長きにわたって信頼を寄せつづけている理由が、端的に吐露されているように思う。

でも彼女に要望したのはサイドヴォーカルということ。お飾りやつけ足しじゃなくて、リードヴォーカルの向こうを張ってくる勢いがあること。
まかりまちがって、みゆきがいわゆるみゆきっぽい歌い方の御披露目に安住しようなんて企んだりしようものなら、ふん、てなもんでぽーんと飛び越えて、ここまでおいでとアカンベエをしてくれる人。こうでなくちゃ。

他方で、杉本和世が中島みゆきについて語っている、貴重な記事がひとつある。演劇雑誌『しんげき』 (白水社) 1991年12月号の中島みゆき特集に、「中島みゆき作品と存在をめぐって」と題して8人が寄稿している中の1篇である。その中の次のくだりは、上記の中島みゆきの文章と見事に好一対をなして、2人のあいだの心地よい緊張関係をよく伝えてくれる。

大抵はある程度一緒にやっていると手の内が見えてくるんですけど、これがね、みゆきさんの場合はね、なかなか見えてこないんですよ。あの手この手出してくるから楽しくて。そんなふうにみゆきさんはどんどん先へ先へと出て行こうとするから、私も「行きましょーう」って付いていくんです。

中島みゆきの「内なる声」

また同じ記事の中で彼女が、1989年の最初の夜会の本編ラスト「十二月」のエンディングで、中島みゆきが舞台後方にジャンプする衝撃的な場面について、次のように語っているのも興味深い。

私はその場面ではみゆきさんよりも舞台の前方にいて、落下していくみゆきさんの内なる声を歌うっていう役割だったのではっきりとは見られなかったんですけど、分るんですよ空気で、日一日と高く舞っていくのが、ふわぁーという気配でね。

夜会の本番の舞台で、中島みゆきとミュージシャンや共演者たちとのあいだに張り詰める「空気」がよく伝わってくるエピソードだが、それ以上に印象に残るのは、「みゆきさんの内なる声」という言葉だ。

純粋に技術的な問題として、杉本和世が、中島みゆきと似た声質をもちながら、遥かに高い音域をカバーできるヴォーカリストであることも、彼女を中島みゆきが選んだ理由の一つではあるのだろう――その点は、上記の「コーラスガール物語」にも書かれているとおりだ。

しかし、おそらくより本質的なのは、彼女が中島みゆきの「内なる声」を――いわば、もうひとりの中島みゆきの声を――表現しうるヴォーカリストとして、夜会に不可欠の存在でありつづけているということだろう。

『花の色は……』の「夜曲」のエンディングにせよ、今回の『2/2』の「彼と私と、もう1人」のエンディングにせよ、そのことを改めて強く実感させられる場面であり、歌唱であった。

2人の〈女〉役――『ウィンター・ガーデン』再演

その杉本和世が、これまでの夜会で最も重責を担ったのは、おそらくVol.12『ウィンター・ガーデン』 (再演、2002年) のときだろう。

このとき、〈女〉役に予定されていた吉田日出子が突発性難聴のために降板し、急遽キャストの代役として香坂千晶が起用されるとともに、〈女〉役の歌のほとんどは杉本和世が歌うことになった。

舞台上と舞台下での、この2人の〈女〉役の緊密な連繋なくしては、Vol.12の上演はありえなかっただろう。

このときの杉本和世の歌で、とりわけ私の記憶に強く残っているのは、序盤の「凍原楼閣」――この曲だけは〈女〉の視点ではなく、客観的・俯瞰的な視点から『ウィンター・ガーデン』全体の世界観を呈示する重要な曲――である。

風の渡る凍原では
人間 (ひと) のものは何もない
……
そびえるのは空鏡
望みの意味を解き明かす

「神話の解凍――『ウィンター・ガーデン』再考」でも書いたとおり、とりわけ「空鏡」と歌うときの彼女の透きとおるような高音は、その世界観を表現しきっていて忘れがたい。

――このときのパートナー、香坂千晶は自身のブログで、杉本和世を含め、夜会の共演者たちとの飲み会について何度か書いている。とりわけ、2006年の記事

あの大変な作品を一緒に乗り越えてきたから……
だからあたしにとって、ホント戦友のよーな方々。

というくだりは、彼女たちのあいだの絆を語った本音の言葉として、胸を打つ――

ライブハウスでの出会い

最後に、ジャズ系ソロヴォーカリストとしての杉本和世のライブに、1度だけ接したときのことを書きたい――今からちょうど20年前のことだ。

残念ながらその時のパンフなどの資料は残っていないので、当時のパソコン通信のログと、断片的な記憶だけに頼らざるをえないのだが……

1991年4月30日、東京・六本木の「ピットイン」という (今は閉館した) ライブハウス。

当時、パソコン通信「歌暦ネット」で知り合った――今は亡き――東京のみゆきファンの友人に誘われて、京都からこのライブに出かけて行った。

開演前、その友人と一緒に、杉本和世本人に挨拶する機会があった。一面識もない、にわかファンの私に、「遠くからありがとうございます」と声をかけてくれた彼女のにこやかな笑顔が忘れられない。

曲目は、洋楽スタンダードに加えて数曲のオリジナルという構成。

杉本和世はこれが初めてのソロライブとのことで、やや緊張していた印象もあったが、あの美しい高音を存分に堪能することできた。ベースの富倉安生をはじめ、ミュージシャンたちの演奏も、ライブハウスらしい乗りが愉しかった。

――そして、このライブの客席に、中島みゆきが斉藤ノブやエルトン永田と一緒に来ていたことは、やはり書き落としてはならないだろう。

コンサートホールではなく小さなライブハウスだから、最前列の私たちの席から振り向くと、ほんの数メートル後ろに、中島みゆきたちの姿が見えた。彼女の笑い声を生で聴いたのも、おそらくこれが最初で最後のことだろう。私にとって、忘れがたい記憶の一齣である――

中島みゆきが歌いつづける限り、「ここまでおいで」と杉本和世も歌いつづけるに違いない。これからも、夜会で、コンサートで、あの透きとおる高音を聴けることを楽しみにしつつ――

中島みゆきとクリスマス

中島みゆきには、クリスマスソングと呼べそうな曲が2曲だけある。

1986年のコンサート「歌暦’86」で初めて披露され、ライブアルバム『歌暦』にも収録されている「クリスマスソングを唄うように」と、2001年のアルバム『心守歌』の終曲「LOVERS ONLY」である。

クリスマスソング唄うように 今だけ愛してよ
雪に浮かれる街のように

と歌う「クリスマスソングを唄うように」は、2000年前のキリストの生誕を祝福するこの日が、なぜか恋人たちの愛を祝福する年中行事として定着してしまった戦後日本の都市の風景を背景とすることによって、むしろ愛の儚さ、移ろいやすさという現実を、残酷なまでにくっきりと浮かび上がらせる。

「LOVERS ONLY」の構図も、基本的にはそれと変わらない。ただ、この歌の次のフレーズは、この日が本来持っていた宗教的意味のうちの幾分かを、思い出させなくもない。

幸せにならなきゃならないように 人は必ず創られてると
あの日あなたに聞いたのに

私自身は、クリスチャンではないばかりか、普段はまったく宗教とは縁遠い、不信心な人間である。ただ――まったく私事にわたって恐縮だが――次男がこの春から通っているカトリック系の中学のクリスマスの恒例行事で、生徒たちが演じるキリスト降誕の無言劇があり、1保護者としてそれを観に行く機会を得た。

キリスト降誕の前夜、苦難の中にあったイスラエルの民を描く幕開けの場面で、意外にも聴き覚えのがある音楽――セザール・フランクの鍵盤曲「前奏曲、フーガと変奏曲」の前奏曲 (オルガン演奏) が聴こえてきた。

熱心な中島みゆきファンであれば、初期のアルバム『愛していると云ってくれ』の冒頭の詩の朗読、「元気ですか」の伴奏として使われていたこの曲を、よく記憶しておられることだろう。

この曲は純粋な器楽曲であり、直接に宗教的テーマをもっているわけではない。しかし、静謐なオルガンの音色と相まって、宗教的な敬虔に近い内省的な哀しみが、その旋律からは聴こえてくる。

 

――その後、劇はよく知られたキリストの降誕の物語を、聖書の朗読を交えながら再現していく。

その印象は、上記のような商業主義化された日本のクリスマスのイメージは論外としても、ヨーロッパ世界を中心として浸透した世界宗教としてのキリスト教の祝祭日という華やかなイメージからも、かなり隔たったものだった。

それはむしろ、苦難の暗闇に閉ざされていた古代イスラエルの人びとにとっての、ひとすじの希望の光の出現という、キリストの降誕という出来事が本来もっていたであろう意味を――私のように、キリスト教とも宗教一般とも無縁な者に対しても――真摯に、鮮やかに再現してくれる物語だった。

苦難の暗闇の中に灯る、ひとすじの希望の光――このモチーフのもつ、宗教的・歴史的文脈を越えた普遍性は、中島みゆき作品の中では、たとえば (以前の記事でも書いたように) 第二次大戦期を舞台としたミュージカル「SEMPO」への提供曲、とりわけその終曲「NOW」からも、はっきりと聴き取れる。

日本が、そして世界が、これまでにも増して多くの苦難を経験した2011年が閉じようとしている今、クリスマスという日がもつそのような意味を、改めて思い起こすことができれば、と思う。

夜会Vol.17『2/2』 2夜目

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初日の感想と同様に1週間遅れの記事になってしまったが、12/10(土)、夜会Vol.17『2/2』 2夜目の鑑賞をした。

やはり初日よりも全体にこなれてきた印象で、1階最後列から要所要所でオペラグラスを覗きながらの鑑賞ではあったが、中島みゆきをはじめ、共演者・ミュージシャン一体となっての「熱」が、客席にひしひしと伝わってくる舞台だった。

初日には気づかなかった (あるいは、気づいてはいても言語化できるほど明瞭に意識できていなかった) いくつかの点について、書いておきたい。

「竹」というモチーフ

まずビジュアル面で、 映像化もされている1995年のVol.7『2/2』 (初演) の時以上に、「竹」というモチーフがくりかえし強調されていることが、改めて強く印象に残った。

第1幕の開幕前から、最後のカーテンコールまでずっと、舞台両袖に存在しつづける竹林。

それは、日本とベトナムとをつなぐ、この物語全体の世界観の外枠をなす風景であると同時に、天空へ――未来へ、「まっすぐに光のほうへ」――伸びてゆこうとする生の象徴でもあるのだろう。

そして、いうまでもなくそれは、「竹の歌」に歌われているとおり、「吹きつける風にひれ伏しながらけして折れはせぬ」――大叔母の声に象徴される社会的抑圧に屈することのない――勁くしなやかな生の象徴でもある。

またそれと関連して、ヒロイン梨花 (中島みゆき) の恋人である圭の役柄が、初演・再演でのイラストレーターから日本画家に変更されたのも、コビヤマ洋一のキャラクターに合わせてというよりは、むしろ、彼が描く竹や朝顔に代表される日本的風景を、物語全体をつつむ世界観の表現の一環として位置づけるという発想が、おそらく先にあってのことではないかと思われる。

だからこそ、まず第1幕第1場で、美術誌編集部から流行遅れとして没にされるのが竹の絵であることも、後半への効果的な伏線ともなるのだ。

母と娘、姉と妹

初演・再演からの大きな変更点のひとつとして、小説版『2/2』と同様に、旅先のベトナムで莉花が身を寄せる家族――ホア母さん (植野葉子) とトァン (香坂千晶) の母娘――の登場がある。

第2幕第1場 (ベトナム・竹工場) でホア母さんは莉花に、トァンと「姉妹になるがいい」と歌う。この母娘は、莉花にとって、すでにこの世にいない母と、この時点ではまだその存在すら知らない姉とを代替する存在となるのだ。

ずっと以前、『2/2』の初演当時に書いたエッセイ「生まれる前にみた夢」でも考察したように、第2幕の舞台としてベトナムが選ばれた本質的な理由は、「竹」と「紅い河」という、物語全体の鍵となる2つの風景をあわせもつ国という点にあったのだと思われる。

「竹」の意味についてはすでにみたとおりであり、また「紅い河」とは、莉花を無意識のうちに縛りつづけてきた「血縁の流れ」を遡り、自らのアイデンティティを探そうとする旅の暗喩である。

もちろん、莉花を縛ってきた過去への現実の探索は、圭によっておこなわれることになるのだが、それと同時に、莉花のベトナムへの旅は、「竹」と「紅い河」という風景に加えて、母と姉とを代替する母娘の登場という点でも、彼女の失われた過去を探そうとする、いわば無意識的な帰郷という意味をもつのだ。

第1幕のラストと第2幕のオープニングで歌われる「帰郷群」も、そのことをはっきりと裏づけている。

なお、「帰郷群」の歌詞は、『今晩屋』や『24時着0時発』の世界観とも、強い連続性を感じさせる。そのことについては、アルバム『荒野より』の感想の中でも書いた。

厳冬の日本海

さて、圭が莉花の故郷を訪ね歩く第2幕第2場 (福井県・厳冬) では、ホリゾント全面に映し出される、吹雪が舞う海の風景が、なんといっても強烈な印象を残す。

白色と灰色とに覆いつくされるこの荒涼とした日本海の風景は、おそらくは、岩内で過ごしたという少女時代以来、中島みゆき自身の原風景のひとつでありつづけてきたのだろう。

厳冬の日本海といえば、中島みゆきが主題歌「愛だけを残せ」を提供した映画『ゼロの焦点』 (2009年) にたびたび登場し、エンディングロールの背景ともなった能登半島の海の風景もまた、印象的だった。

失踪した夫を探す旅の途上、ヒロイン禎子はその暗い海をみて、不意に、学生時代に読んだ英詩の一節を思い出し、涙を流す。

In her tomb by the sounding sea!
とどろく海辺の妻の墓!

――圭が吹雪の中、 (おそらくは) 莉花の母の墓前に花を供える場面もまた、この一節を思い浮かべさせずにはおかない。

第3幕「鏡の中の夏」

初演・再演と同様、誕生の前に世を去った莉花の姉・茉莉の――異界からの――登場によって物語が大団円を迎えた後に、いわばエピローグとして追加された第3幕第1場「鏡の中の夏」は、とても短いけれども――初日の感想でも書いた通り――美しく暖かな余韻を深く胸に残す場面だ。

暗い舞台の中央にぽっかりと浮かぶ明るみの中、母・綾子 (香坂千晶) の膝に仲良く甘えるようにもたれる茉莉 (中島みゆき) と莉花 (植野葉子) の姉妹――それはやはり、(すでに多くの方が指摘しているとおり) 母の胎内の記憶の再生なのだろう。

第1幕からたびたび登場した、歪んだ台形の不思議な鏡は、莉花の幸福を許そうとしない、少女の頃のもうひとりの莉花がそこから現れ出てくる通路――いわば過去と現在とをつなぐ通路だった。

しかしこの第3幕で初めて鏡は、抑圧された忌まわしい過去ではなく、茉莉花の姉妹が母の胎内で寄り添っていた幸福な過去へと、莉花の記憶を誘う通路に変貌するのだ。

二人がともにこの世界に生まれ出るはずだった7月――その夏の記憶を誘う通路に。

そういえば (これは『2/2』の初演のときから漠然と思っていたことではあるが)、第2幕の大詰めで茉莉が莉花に向けて歌う「幸せになりなさい」の最も印象的な一節、

ただまっすぐに光のほうへ行きなさい

の「光」とは、産道の向こうにある世界――彼女たちが生まれ出ようとする世界――の明るみの暗喩であると同時に、「まちがった怖れ」から解き放たれた莉花の、新たな生への希望をも意味するのだろう。

だとすれば、この胎内回帰は、莉花の記憶以前の過去――生まれる前にみた夢――への遡行であると同時に、彼女が新たな未来の生へと、もう一度「生まれなおす」ためのステップでもある、ということになる――

このような両義性――過去への遡行が、同時に未来への跳躍でもあるという両義性――には、やはり、『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』そして『今晩屋』という、これまでの夜会3作を通じて追求されてきた「転生」というテーマからの強い連続性を感じざるをえない。

ところで胎内回帰といえば、21年前の『夜会1990』の「月の赤ん坊」の場面――巨大な月を背景として、中島みゆきが膝を抱えたシルエットで登場する場面――も思い出される。

『2/2』では明示的に登場することはないが、夜会『花の色は……』や『今晩屋』をはじめとして、月は中島みゆき作品ではたびたび、きわめて重要な象徴として登場してきた。それはおそらく、月こそはさまざまな意味で、生――誕生、再生、そして転生――を象徴する天体だからなのだろう。

奇しくも、この12月10日、夜会の終演後に劇場を出ると、空では皆既月蝕が始まりつつあった (この記事末尾の写真の右のほうにも、それを見上げているらしい人影が映っている)。

まったくの偶然とはいえ、それはあたかも、ヒロイン梨花の再生の物語を反復する天の悪戯のような気もして、私もずっと、欠けてゆく月を見上げていた――

『2/2』というタイトル

最後に――再々演の今になって言うのも今更という気もしないでもないが――『2/2』という、この夜会のきわめてシンプルなタイトルについて。

以前の記事「初めての再々演」でも書いたように、夜会『2/2』は、「2/2 = 1」という、数学的には自明の等式が成り立たない不条理の世界から始まる物語である。

しかし、それは同時に、その不条理の解消という形式をとった、救済の物語でもあるのだ。

私たちはジャスミン 茉莉花の2人
1人と1人 半分ずつじゃない

この「幸せになりなさい」の歌詞に端的に表現されているように、茉莉と莉花の姉妹は、「1/2」と「1/2」の和としての「2/2」なのではない――茉莉によって莉花は、そのことを知る。

――このときはじめて、「2/2」は約分され、莉花は「1」となり、茉莉からも、自らを苦しめてきたもうひとりの莉花からも離れ、自らの生を歩み始めるのだ。

再び「竹」について

この記事の冒頭で述べたように、「2/2」の世界観の視覚的象徴ともいうべき「竹」の表現は、舞台上の美術だけにはとどまらない広がりをもみせる。

たとえば、赤坂ACTシアター周辺には、美しい竹のオブジェ (この記事冒頭の写真) がちりばめられ、会場を訪れる私たちを出迎えてくれる。

また終演後には、会場のガラス壁面一面に、こんな竹模様のカーテンが降ろされ、舞台の余韻に浸る私たちを見送ってくれるのだ。

今回の夜会・東京公演の鑑賞は、私はこの12月10日が最終で、次は来年2月、大阪公演の初日に出かける予定だ。大阪公演の会場シアターBRAVA! では、どんな風景が私たちを出迎えてくれるのか、それをも楽しみにしながら、その日を待ちたい――

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夜会Vol.17『2/2』初日

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11/19(土)、赤坂ACTシアターにて、中島みゆきの夜会『2/2』初日を観てきた。

帰ってきてから諸事多忙のため、この記事を書くまで1週間以上も経ってしまったが、初日ならではの緊張と興奮は、まだ体の底に燠火のように残っている。

具体的で詳細なレビューは、2回目以降の鑑賞の後にしたいが、まずは第一印象を――それが薄れないうちに――簡単にまとめておきたい。

 

再々演とはいえ、事前に (中島みゆき本人のインタビューなどで) 予告されていた通り、構成・曲目・演出などは初演 (VOL.7) ・再演 (VOL.9) とはがらっと変わり、半分以上新作といっていい内容。

テンポ良く、心地よい緊張感に満ちた見事な舞台だった。

とくに第1幕は、ここ数作の夜会では、もっぱら第2幕でのクライマックスを準備するための周到な伏線張りに終始するという印象が強かったのだが、今作では、第2幕への伏線の役割を果たしつつも、単独でも十二分に楽しめる舞台になっている。

ヒロイン莉花 (中島みゆき) の職場 (出版社) の風景からスタートし、恋人・圭 (コビヤマ洋一、役柄は日本画家に変更されている) との出会い、そして二人の幸福を破壊しようとする「もう1人の莉花」の出現という、初演版でおなじみのストーリーが、初演・再演とは異なり、ほぼ時系列順に進む。

その点で、より「わかりやすい」ストレートな構成になっているのは間違いない。台詞をほとんど用いず、歌だけで進行するスピード感あふれる展開も効果的だ。

 

第1幕がこのように初演・再演とは大きく変わっているのに対して、第2幕の後半、肝心の大詰めの部分はあまり変わっていないな、と思いながら観ていたら、ラストの第3幕 (この第3幕には、「鏡の中の夏」という意味深なタイトルがついている) で意表を突かれた。

杉本和世の美しい高音のスキャットによる「彼と私と、もう1人」 (アルバム『荒野より』では、この曲のエンディングに収録されている部分) に乗せて、鏡の中の世界で、莉花 (植野葉子) と茉莉 (中島みゆき) が、母 (香坂千晶) に抱擁される。

杉本のスキャットによるエンディングは、VOL.5『花の色は…』の「夜曲」以来で、その意味でも懐かしい。

莉花を除く二人は、すでにこの世にはいない存在だ。さまざまな解釈が可能な場面ではあるが、いずれにせよ、「もう一人の自分」に苦しめられてきた莉花にとっても、この世にいない二人にとっても、これが最終的な「救済」を意味する場面であることは間違いない。

美しく暖かな余韻の残るエンディングだった。

 

中島みゆきが事前にインタビューで語っていた、初演や再演で「やり残していたこと」というのは、主としてこの第3幕のことを意図しているのだろうが、もう1箇所、第2幕のラストで、「もう1人の莉花」が悪役のままで終わるのではなく、姉・茉莉に抱きしめられて救済され、静かに消えてゆく場面 (これも感動的なシーンだ) もそこに含まれているような気がする。

この場面、そして第3幕を思い返してみると、今回の「完結編」たる『2/2』には、やはり最近の夜会――とくに「転生」3部作ともいうべき、『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』『今晩屋』――のモチーフが、色濃く反映しているという印象が強い。

それは、前の記事で書いた言葉をあえて繰り返せば、やはり「異界と出会う」ことを通じての救済の物語、ということだったのではないだろうか。

なお、初日の客席には、「中島みゆき研究所」の管理人さんはじめ、みゆき関係のサイトやブログでおなじみの方々が勢揃いされていたようだ。それと――これは後から友人から聞いた話だが――中島みゆきの母上も客席におられたとのこと。

終演後は、歌暦ネット関係の20数年来の仲間たちと、久々の徹夜宴会。 さすがに若い頃とは違い、徹夜は少々体にこたえたが、あっという間に時間が過ぎてしまった、楽しいひと時だった。


曲目

第1幕
第1場 出版社編集部

  1. 旅は始まる
  2. 新しい風
  3. 笹舟
    第2場 圭のアトリエ
  4. 遠近法
  5. ささやかな花
  6. Last Scene
  7. 奇妙な音楽
  8. 鏡の中の他人
  9. Never Cry Over Spilt Milk
  10. ギヴ・アンド・テイク
  11. 奇妙な音楽
  12. 彼と私と、もう1人
  13. 誰かが私を憎んでいる
  14. 夢中遊行
  15. ばりほれとんぜ
  16. 暗闇のジャスミン
  17. 誰かが私を憎んでいる
  18. 暗闇のジャスミン
    第3場 ベトナム・安ホテル
  19. 1人で生まれて来たのだから
  20. 市場は眠らない
  21. 途方に暮れて
  22. この思いに偽りはなく
    第4場 ベトナム・市場
  23. 帰郷群第2幕
    第1場 ベトナム・竹工場
  24. 帰郷群
  25. 竹を渡る風の中で
  26. 姉妹になるがいい
  27. 鶺鴒
    第2場 福井県・厳冬
  28. 緘口令
  29. 旅人よ我に帰れ
    第3場 新潟市・病室
  30. 茉莉花
    第4場 ベトナム・水上市場
  31. 竹の歌
  32. 紅い河
    第5場 ベトナム・安ホテル
  33. 7月のジャスミン
  34. 海のカルテ
  35. 自白
  36. 目撃者の証言
  37. 7月のジャスミン
  38. 目撃者の証言
  39. 暗闇のジャスミン
  40. 幸せになりなさい
  41. 二雙の舟
  42. 幸せになりなさい(旅人よ我に帰れ)第3幕
    第1場 鏡の中の夏
  43. 彼と私と、もう1人

キャスト

  • 中島みゆき  上田莉花 上田茉莉
  • 植野葉子    上田莉花 ホア母さん 上田綾子(母) 元・産科婦長
  • 香坂千晶    上田莉花 ホテルフロント係 トァン 上田綾子(母) 看護師
  • コビヤマ洋一  矢沢圭

  • 阿知波悟美
        大伯母の声
  • 井上裕朗      編集・杉沢の声

ミュージシャン

  • 小林信吾 (Conductor, Keyboards)
  • 友成好宏 (Keyboards)
  • 中村哲 (Keyboards, Saxophone)
  • 古川望 (Guitars)
  • 富倉安生 (Bass)
  • 島村英二 (Drums)
  • 杉本和世 (Vocal)
  • 宮下文一 (Vocal)
  • 牛山玲名 (Violin)
  • 民谷香子 (Violin)
  • 友納真緒 (Cello)

植山哲男 写真展 「ひまわりの記憶」

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2011年3月に亡くなった、元「歌暦ネット」の管理人・植山哲男さんの写真展が、2012年1~2月、ちょうど夜会大阪公演の時期に開かれることになった。

[会期1]
会期:2012年1月30日(月).~2月4日(土) 11:00~18:00 (最終日は16:00まで)
会場:画廊シャノワール

住所:兵庫県川西市小花1-8-1
パレットかわにし横(ジョイン川西 1F)
TEL&FAX:072-758-0811
Web :http://www.geocities.jp/ntenugui/
アクセス:阪急電鉄宝塚線「川西能勢口」駅下車 東出口を南へ徒歩1分

[会期2]
会期:2012年2月12 13日(月)~2月26日(日) 11:30~22:00  (最終日は14:00まで)
会場:ギャラリーMORE

住所:大阪府豊中市待兼山町21-6
インド料理カフェ・レストラン「モア」内
TEL :06-6848-2120
Web :http://www.more–more.com/
アクセス:阪急電鉄宝塚線「石橋駅」下車、東へ徒歩約5分

「TOUR2010 千秋楽あれこれ」でも書いた通り、パソコン通信「歌暦ネット」は、中島みゆきファンのオンライン・ネットワークとしてはさきがけ的な存在であり、かつては孤独な1みゆきファンであった私を、多くのファン仲間たちとのディープで愉しく、かつ質的にも充実した交流へと誘ってくれた、懐かしく大切な場所である。

その管理人であった植山さん――というより「elaneさん」というハンドルのほうがいまだにぴったりくるけれども――とは、お互い独身だった頃、多くのメンバーたちと共に、飲み会に旅行に、そしてもちろんツアーや夜会にと、何度もご一緒したものだった。

「TOUR2010」の千秋楽で、同じホール (神戸国際会館) の客席にいた彼が、あの大震災の少し前のある日、突然に「逢えない相手」となったという報せを聞いたときは――月並みな表現だが――とても信じ難い思いがした。

あのひまわりに訊きにゆけ あのひまわりに訊きにゆけ
どこにでも降り注ぎうるものはないかと
だれにでも降り注ぐ愛はないかと
(「ひまわり “SUNWARD”」)

どこにでも、誰にでも降り注ぐ光へと、まっすぐに顔を向けて咲きつづけるひまわり――数々の美しい写真に焼きつけられたその記憶に、植山さんをよく知る方にも、あまり知らない方にも、触れていただける一期一会の機会になればと思う。