中島みゆきとクリスマス

中島みゆきには、クリスマスソングと呼べそうな曲が2曲だけある。

1986年のコンサート「歌暦’86」で初めて披露され、ライブアルバム『歌暦』にも収録されている「クリスマスソングを唄うように」と、2001年のアルバム『心守歌』の終曲「LOVERS ONLY」である。

クリスマスソング唄うように 今だけ愛してよ
雪に浮かれる街のように

と歌う「クリスマスソングを唄うように」は、2000年前のキリストの生誕を祝福するこの日が、なぜか恋人たちの愛を祝福する年中行事として定着してしまった戦後日本の都市の風景を背景とすることによって、むしろ愛の儚さ、移ろいやすさという現実を、残酷なまでにくっきりと浮かび上がらせる。

「LOVERS ONLY」の構図も、基本的にはそれと変わらない。ただ、この歌の次のフレーズは、この日が本来持っていた宗教的意味のうちの幾分かを、思い出させなくもない。

幸せにならなきゃならないように 人は必ず創られてると
あの日あなたに聞いたのに

私自身は、クリスチャンではないばかりか、普段はまったく宗教とは縁遠い、不信心な人間である。ただ――まったく私事にわたって恐縮だが――次男がこの春から通っているカトリック系の中学のクリスマスの恒例行事で、生徒たちが演じるキリスト降誕の無言劇があり、1保護者としてそれを観に行く機会を得た。

キリスト降誕の前夜、苦難の中にあったイスラエルの民を描く幕開けの場面で、意外にも聴き覚えのがある音楽――セザール・フランクの鍵盤曲「前奏曲、フーガと変奏曲」の前奏曲 (オルガン演奏) が聴こえてきた。

熱心な中島みゆきファンであれば、初期のアルバム『愛していると云ってくれ』の冒頭の詩の朗読、「元気ですか」の伴奏として使われていたこの曲を、よく記憶しておられることだろう。

この曲は純粋な器楽曲であり、直接に宗教的テーマをもっているわけではない。しかし、静謐なオルガンの音色と相まって、宗教的な敬虔に近い内省的な哀しみが、その旋律からは聴こえてくる。

 

――その後、劇はよく知られたキリストの降誕の物語を、聖書の朗読を交えながら再現していく。

その印象は、上記のような商業主義化された日本のクリスマスのイメージは論外としても、ヨーロッパ世界を中心として浸透した世界宗教としてのキリスト教の祝祭日という華やかなイメージからも、かなり隔たったものだった。

それはむしろ、苦難の暗闇に閉ざされていた古代イスラエルの人びとにとっての、ひとすじの希望の光の出現という、キリストの降誕という出来事が本来もっていたであろう意味を――私のように、キリスト教とも宗教一般とも無縁な者に対しても――真摯に、鮮やかに再現してくれる物語だった。

苦難の暗闇の中に灯る、ひとすじの希望の光――このモチーフのもつ、宗教的・歴史的文脈を越えた普遍性は、中島みゆき作品の中では、たとえば (以前の記事でも書いたように) 第二次大戦期を舞台としたミュージカル「SEMPO」への提供曲、とりわけその終曲「NOW」からも、はっきりと聴き取れる。

日本が、そして世界が、これまでにも増して多くの苦難を経験した2011年が閉じようとしている今、クリスマスという日がもつそのような意味を、改めて思い起こすことができれば、と思う。


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