植山哲男 写真展 「ひまわりの記憶」

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2011年3月に亡くなった、元「歌暦ネット」の管理人・植山哲男さんの写真展が、2012年1~2月、ちょうど夜会大阪公演の時期に開かれることになった。

[会期1]
会期:2012年1月30日(月).~2月4日(土) 11:00~18:00 (最終日は16:00まで)
会場:画廊シャノワール

住所:兵庫県川西市小花1-8-1
パレットかわにし横(ジョイン川西 1F)
TEL&FAX:072-758-0811
Web :http://www.geocities.jp/ntenugui/
アクセス:阪急電鉄宝塚線「川西能勢口」駅下車 東出口を南へ徒歩1分

[会期2]
会期:2012年2月12 13日(月)~2月26日(日) 11:30~22:00  (最終日は14:00まで)
会場:ギャラリーMORE

住所:大阪府豊中市待兼山町21-6
インド料理カフェ・レストラン「モア」内
TEL :06-6848-2120
Web :http://www.more–more.com/
アクセス:阪急電鉄宝塚線「石橋駅」下車、東へ徒歩約5分

「TOUR2010 千秋楽あれこれ」でも書いた通り、パソコン通信「歌暦ネット」は、中島みゆきファンのオンライン・ネットワークとしてはさきがけ的な存在であり、かつては孤独な1みゆきファンであった私を、多くのファン仲間たちとのディープで愉しく、かつ質的にも充実した交流へと誘ってくれた、懐かしく大切な場所である。

その管理人であった植山さん――というより「elaneさん」というハンドルのほうがいまだにぴったりくるけれども――とは、お互い独身だった頃、多くのメンバーたちと共に、飲み会に旅行に、そしてもちろんツアーや夜会にと、何度もご一緒したものだった。

「TOUR2010」の千秋楽で、同じホール (神戸国際会館) の客席にいた彼が、あの大震災の少し前のある日、突然に「逢えない相手」となったという報せを聞いたときは――月並みな表現だが――とても信じ難い思いがした。

あのひまわりに訊きにゆけ あのひまわりに訊きにゆけ
どこにでも降り注ぎうるものはないかと
だれにでも降り注ぐ愛はないかと
(「ひまわり “SUNWARD”」)

どこにでも、誰にでも降り注ぐ光へと、まっすぐに顔を向けて咲きつづけるひまわり――数々の美しい写真に焼きつけられたその記憶に、植山さんをよく知る方にも、あまり知らない方にも、触れていただける一期一会の機会になればと思う。

荒野より (5) ――アルバム感想――

 

夜会Vol.17『2/2』開幕の3日前、11/16にリリースされたニューアルバム『荒野より』  。

つねに新たな境地に挑戦しつづける「前のめりのラディカリズム」――それは、アルバムに限らず、夜会やコンサートツアーも含めて、中島みゆきの新作に触れるたびに感じてきたことではあるが――を、改めて強烈に印象づけられるアルバム、というのが第一印象だった。

その意味では、私にとっては、かつて彼女の初期 (1970年代後半) の作品に初めて触れた頃に受けた衝撃を――もちろん、内容的な印象はまったく異なるが――思い出させられる作品でもある。

 

夜会が中島みゆきのライフワークとして、事実上彼女の活動の中心となって以来、アルバムやツアーは、どちらかといえば周縁的な (やや軽めの) 位置づけになったかに思われた一時期もあった。

しかし、ここ数作のアルバム――とくに「I Love You, 答えてくれ」「DRAMA!」「真夜中の動物園」の3枚――や、2010~11年のツアーでは、彼女が夜会に注いできたエネルギーが、もはや夜会という枠組みにさえ収まりきれず、アルバムやツアーにまで溢れ出してきたかのような印象をしばしば受けた。

この新作では、そのエネルギーの波が今まで以上に強く高く、私の耳に、心に向かって押し寄せてくる。

 

個々の曲についてきちんと感想を書くのは、もう少し聴きこんでからにしたいが、夜会との関係を中心に、とりあえず心にかかったいくつかのことについて、書き留めておきたい。

これまでは別冊になっていた歌詞の英訳が、今回はリーフレットの歌詞の右ページに印刷されている。タイトル曲「荒野より」の「荒野」は、Wilderness ではなく Icy reaches と訳されている――直訳すれば、「氷におおわれた地帯」ということか。

この曲が主題歌として使われているTVドラマの舞台である「南極大陸」を直ちに想起させる訳語ではあるが、最近のラジオ (福山雅治のANNなど) で、この曲の原型は14,5年前にできていた、と彼女自身が語っていたこととの関係が気にならないでもない。

もちろん、英訳は最近作られたものなのかもしれないが、ただ、10年少し前といえば、ちょうど夜会『ウィンター・ガーデン』が構想されていたであろう時期にあたる。

物語のシチュエーションはまったく異なるし、「荒野より」の曲調も、あの夜会の舞台にはあまりそぐわないのは事実だが、『ウィンター・ガーデン』もやはり、氷原の中で孤独に誰かの帰りをまちつづける〈犬〉を主人公とした物語だったということ――これはなんだか、偶然の一致とは思えないような気もするのだ。

「荒野」という言葉は、終曲「走」にも――1曲目とループをなすように――登場する (ここでの「荒野」の訳語には、より一般的な Wilderness が当てられている)

迎える声は風の中 ゴールは吹雪の中
どこまでもどこまでも荒野は続いている

前の記事でも触れたとおり、ここでも「荒野」は、目指すべき遥かな場所に辿り着くまでに越えてゆかねばならない、現実の世界の風景としてある。その「荒野」が果てしなく続くがゆえに、その中を駆け抜けてゆく「走」もまた、果てしがないのだ。

「帰郷群」は――「彼と私と、もう1人」「旅人よ我に帰れ」とともに――間もなくスタートする夜会Vol.17『2/2』で歌われる (であろうと思われる) 曲である。

「ひと粒の心」という、まさにひと粒の短い言葉を、何度も――音程を微妙に変えながら――繰り返してゆく、実験的とも言うべき曲構成。こういうところに、私はとりわけ、中島みゆきのラディカリズムを強く感じる。

ひと粒の心 ひと粒の心 ひと粒の心 ひと粒の心
ひと粒の心 ころがりだす

この冒頭を初めて耳にしたとき、私は反射的に、夜会『今晩屋』の第一幕で、縁切寺の中から転がりだしてくる、あの無数の紙風船を思い浮かべた。あの紙風船たちも、おそらくは、封印された過去の縁、過去の記憶という「故郷」へと帰ろうとする「群」だったのだと思う。

そのことは――やはり前の記事でも想像した通り――『24時着0時発』での、廃墟堰によって故郷への道を遮られていた〈鮭〉たちの場合も同様だった。

運んでゆく縁 (えにし) 運ばれてゆく縁
身の内の羅針盤が道を指す

産卵のため、生まれ故郷の河へと過たず遡上してゆく鮭たちの姿をも、この短くも力強いフレーズは、彷彿とさせずにはおかないではないか――。

「帰郷群」の後半では、夜会Vol.7『2/2』の曲「誰かが私を憎んでいる」が、さりげなく引用される。この手法は、 「旅人よ我に帰れ」ではより大々的に、やはりVol.7のオリジナル曲だった「幸せになりなさい」の――ほとんど唐突な印象さえ与える――長い引用というかたちで用いられている。

歌詞カードを見ると、この引用部分は、

(植えつけられた怖れに縛りつけられないで)
(ただまっすぐに光のほうへ行きなさい)
……

と、括弧でくくられて表記されているのが興味深い。

唐突な連想かもしれないが、宮沢賢治の詩にしばしば登場するこうした括弧つきの詩節について、天沢退二郎が、「もうひとりの賢治の声をそこに重ね合わせるポリフォニー」 (記憶に頼って書いているので正確な引用ではないが) というふうに呼んでいたのを思い出す。

この曲に括弧つきで引用される「幸せになりなさい」も――夜会Vol.7のストーリーから類推する限り――まさにそうした意味で、「我に帰れ」と呼びかける恋人・圭の声と、莉花のもうひとりの自分――より正確には、姉・茉莉が異界から呼びかける声――とのポリフォニーというべきものなのだろう。

なお、こうした引用手法が初めて用いられたのは、おそらく夜会Vol.12『ウィンター・ガーデン』 (再演) の1曲目、「騙りの庭」でのことだ。

ずっとずっと信じて待ってる
誰を誰を待つのかだけ忘れてるのは 何の罰なのだろう

思い出すなら 幸せな記憶だけを
楽しかった記憶だけを

固く約束した人を

太字は、Vol.12では終曲となる「記憶」の一節である。

上記の〈犬〉 (中島みゆき) が歌うこの一節こそは、その前生の記憶が再生されるエンディングへの伏線であり、その意味で、それはやはり異界からの声とのポリフォニーだった。

アルバムの最後を飾る上記の3曲を通じて言えることだが、中島みゆきのヴォーカルの、おそらくは最もベーシックなスタイルともいうべき、地声に近いストレートなアルトが、とても魅力的だ。

とりわけ、「旅人よ我に帰れ」の、

真実の灯をかざして 帰り道を照らそう

の最後の「う」の確信に満ちた力強い低音は、「帰る」べき場所へと心を誘う、限りない懐かしさに満ちた声として、私の胸の底に響いた。

――他の曲についても書くべきことは多いが、夜会初日の前日という、慌しく気もそぞろな時でもあるので、とりあえずはここまでにしておき、残りは他日に譲りたい。

荒野より (4) ――シングル感想――

発売日から1日遅れで、ニューシングル「荒野より」を入手。

ネット配信が音楽コンンテンツの流通経路の主流となりつつある現在では、CD (それもシングル) というメディアは、もはや趣味的なコレクターズ・アイテムに近くなった感がある。

もちろん、圧縮データではなく、CD規格 (16bit/44.1kHz) のデータを手元に置けるというメリットはあるが、実際には、PCへのインポートを経て iPod に入れたデータを、 外部ノイズの多い通勤中の電車内などで聴くというケースが大半なので、そのメリットもかなり気分的なものというべきだろう。

――それはともかくとして、ラジオやTVでの断片ではなく、ゆっくり全曲を通して、それも比較的クリアな音で聴けるという満足感は、やはり大きい。

「荒野より」

タイトル曲「荒野より」は、マイナー→メジャー→マイナーという――中島みゆきが好んで使う――転調の反復がまず印象的だ。

プログレッシブ・ロック風の――このあたり、瀬尾一三の音楽的志向がよく出ている――シンセの沈んだマイナーコードによるイントロから、一転してパッと希望の陽が射すかのように、「♪望みは何かと訊かれたら……」とメジャーのメロディでの歌い出し。

つづけてメジャーのBメロ、「♪僕は走っているだろう……」での加速を経て、跳躍するかのように、同主調マイナーのサビ「♪荒野より君に告ぐ……」への転調。

同じくメジャー→マイナーの転調でも、平行調ではなく同主調への場合、そこでパッと風景が切り替わるという印象が強くなる。

この曲では、とりわけその切り替えが効果的だ。ここで、「僕」がいる場所――そこから、遥か彼方の「君」へと呼びかけている場所――としての「荒野」の風景が、一気にクローズアップされ眼前に広がる。

さらに、2番が終わった後のギターソロによる間奏でも、同じマイナー→メジャーの転調が二度も繰り返される――まるで、「僕」と「君」とのあいだの遥かな距離と時間を一瞬で飛び越え、映像が切り替わるかのように。

この遥かなまなざしの往還こそは、「この星」の上で共に走り、笑い、歌い、そして生きている「君」と「僕」とをつなぐ、遥かな思いの往還でもあるのだろう。

「バクです」

カップリング曲「バクです」は、「荒野より」とは対照的に、静かで素朴な、そしてどこかせつない懐かしさを感じさせる、童謡風の歌である。

「あんた」の「悪い夢」「怖い夢」「つらい夢」「泣いた夢」を喰ってくれるというバク。しかし、そのバクもまた、夢を見るという――「笑ってるあんたの夢」を。

人がレム睡眠時に見る夢は、心理学的には、無意識下に抑圧された願望や記憶の表現とされる。

それらの夢 (とりわけ悪夢) のもつ重み――無意識という海の底へ沈んでゆこうとする重み――を、逆に浮力へと変換してくれる力を、バクはどうやら持っているらしい。

腹いっぱいになりすぎたなら ふわりふわりと浮きそうだ

――この印象的なフレーズを聴いたとき、私は思わず、夜会『今晩屋』の第二幕、「幽霊交差点」の場面で、舞台の上空にふわりふわりと浮かぶ、不思議な透明な魚を思い出した。

そういえばあの水底の「水族館」も――安寿、厨子王たちの前生の罪責や悔恨を含めて――抑圧された記憶が保存されている無意識の世界の暗喩とも思われる空間だった。

しかしそれらの記憶は、やがて水面へと浮上し、「赦され河」を渡る舟によって救済されるのだ――

 

「バクです」に話を戻すと――この歌では、中島みゆきの歌ではかなり久しぶりに、「あんた」という二人称が使われているのも印象的だ。

(「あなた」ではなく) 「あんた」という二人称は、おそらくは中島みゆき自身にとって、いわゆる「素」のレベルで相手に呼びかけるときに、最も自然に出てくる表現なのではないかと思う。

かつて、オールナイトニッポンの「最後の葉書」コーナーで、リスナーのさまざまな思い、とりわけ悩みや悲しみを訴える言葉に応えるとき、彼女はしばしば「あんた」と呼びかけていたのを思い出す。

最近のラジオ番組 (10/28、FM802 “FRIDAY WEEKEND BASH” ) でも、この曲について中島みゆきは、「こうありたいな、なんてね」と、短く――しかし彼女にしては珍しく率直に(^^;)――コメントしていたのが印象深かった。

自分がすでに「バク」だというのではない、

今の今からバクになる
バクになることにしたんです

というストレートな意志表明は、「こうありたいな」という彼女の思いの、おそらくはきわめて正直な反映なのだと思う。

福山雅治のANN

福山雅治のANNへのゲスト出演は、初対面とはいえ、中島みゆきにとっては「昔取った杵柄」、ニッポン放送のANNのスタジオという「地の利」もあってか、例のハイテンションのしゃべりも復活。息の合った楽しいやり取りだった。

内容的に興味深かったのは、やはり曲作りや歌についての話題である。

  • 曲のストックはたくさんあるが完成形はほとんどなく、大半がスケッチ
  • 「荒野より」も、原型ができたのは14,5年前
  • 完成形に至るまでには何度も試行錯誤を経ているので、ライブで歌う時には思わず古いバージョンの歌詞が出てきて、結果的に「歌詞間違い」になる
  • 一か月後に迫った夜会も、なかなか歌詞や台詞が覚えられないので、成田から海外へ逃走しようかと思っていたが、福山さんも覚えられないのは同じと聞いて、とても安心した

等々、年季の入った「保護者目線」(^^;)のファンの一人としては、思わず「やっぱりな」と、うなずかされる話が多かった。

それと、書き落としてはならないのは、 (私自身もデータを調べるときなどにいつも大変お世話になっている) 「中島みゆき研究所」管理人さんからの切実なメール。

ファン仲間でいつも話題になり、心配しているのは、みゆきさんのライブは夜会が中心になって、コンサートツアーはやらなくなってしまうんだろうか、ということです。特に地方のファンにとっては、ツアーはみゆきさんに会える貴重な機会なので……

中島みゆきのお答えは (いつものごとく) 韜晦気味ではあったが、まずは コンサートツアーも、夜会に対し、自由なMCがしゃべれる「宴会」として必要ということのようで、安心した方も多かったのではないだろうか。

さしもの福山雅治も、大先輩(?)を前にしてやや緊張していた感も否めなかったが、以前に「『龍馬伝』と中島みゆき (1)」でも少し書いたように、この二人の間には、世代やキャリアの内容の違いを超えた共感とでもいうべき、不思議な「縁」の存在を感じさせないでもない。

荒野より (3) ――『南極大陸』と『ゼロの焦点』

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「船の科学館」(本館は2011年10月より休館) に併設展示されている南極観測船「宗谷」

中島みゆきが主題歌「荒野より」を提供したTVドラマ『南極大陸』の第1回を観た。

敗戦国・日本が、戦勝国に伍して、南極観測という「夢」に向かって立ち上がってゆく物語。やや演出にあざとさを感じる部分もなくはなかったが、脇役陣――そして、中島みゆきにこの主題歌を書かせる動機となったらしい樺太犬たち――の熱演もあり、まずは見ごたえのある、また今後の展開を大いに期待させる滑り出しだったように思う。

多くの人々の「夢」を乗せて、南極観測船「宗谷」が出港してゆくラストシーンで流れる「荒野より」も、その映像と相まって、強く心を揺さぶられるものがあった。

 

それはそうと、匿名掲示板やブログを読んでいると、「プロジェクトXの拡大版」といった感想がいくつかあり、思わず苦笑してしまった。

例のNHK『プロジェクトX』と主題歌「地上の星」の大ヒットによって、戦後復興期?高度成長期の物語と中島みゆきという組み合わせには、一種の刷り込み効果が生まれたということなのかもしれない。

とはいえ、実際にその時代を描いたドラマや映画に中島みゆきが主題歌を提供したのは、他には、共に松本清張原作のドラマ『けものみち』 (テレビ朝日系、2006年、主題歌「帰れない者たちへ」) と、映画『ゼロの焦点』 (東宝、2009年、主題歌「愛だけを残せ」) があるだけである。

『けものみち』の方は私は観ていないが、『ゼロの焦点』は、夜会VOL.16『~夜物語~本家・今晩屋』のために上京したついでに、六本木ヒルズの映画館に観に行ったのを思い出す。

映画では、敗戦後の混乱期から日本社会の再生へと向かい始める昭和30年代前半の時代背景が、女性たちの新たな未来の希求というテーマと (松本清張の原作以上に) より強く重ねあわされている。

副主人公である金沢の社長夫人が、市長選候補者の女性の後援会長として、日本初の女性市長誕生をめざして奮闘する。その社長夫人を演じる中谷美紀の鬼気迫るといっていいほどの熱演が、とりわけ強く印象に残った。

だが――夜会『今晩屋』でも強調されていたように――新たな未来の希求は、過去の忘却、あるいは過去からの逃走によっては達成されえない。

忘却し、あるいはそこから逃走しようとした過去は、あるとき不意に逆襲の牙をむく――あまり具体的には、いわゆるネタバレになるので書けないが――『今晩屋』と同様に、『ゼロの焦点』も、そうした物語である。

「過去からの逃走」と「過去の救済」という根底に潜むテーマにおいて、この2作品には、深く共通するものがあるのだ。

「荒野より (1) ――「荒野」という言葉について――」で書いた、「荒野」という言葉への中島みゆきのこだわりも、そのこと――過去という時間のもつ意味――と深くかかわっているように、私には思われる。

すべてが失われた場所――そして、そうであるがゆえに新たな出発への「フロンティア」となりうる場所――としての「荒野」の記憶。

その原点の記憶を決して忘却することなく、未来へと、「夢」へと歩んでゆくこと――その歩みの先にのみ、いつか「荒野」という過去が救済される日は訪れうるのではないだろうか。