しばらくブログ更新をさぼっているうちに、ニューシングル「荒野より」とニューアルバム『荒野より』のリリース、およびそれに関係したニュースが次々と舞い込んできた。
まったく同一タイトルのシングルとアルバムがリリースされるのは、中島みゆきにとって、意外にもこれが初めてのことだ。
――シングル「あした」のカップリング曲「グッバイガール」と、アルバム『グッバイガール』 (ただし、ややこしいことに「グッバイガール」は収録されていない) 、そしてシングル「時代」 (リメイク版) と、セルフカバーアルバム『時代―Time goes around―』という、2つのかなり変則的なケースは過去にあったにせよ――。
中島みゆきにとって、「荒野より」というタイトルに、それだけ強い思い入れがあったということなのだろうか。
シングルのタイトル曲「荒野より」は、TVドラマ「南極大陸」 (2011/10/16~、TBS系) の主題歌である。
ドラマの内容――日本の戦後復興の象徴として描かれる、南極越冬隊の物語――からすれば、「荒野」とは、敗戦後の日本の現実を意味すると同時に――中島みゆき自身が語っているように、南極に残された犬たちの視点からみた――極寒と不毛の地、南極大陸それ自体を指す言葉でもあるのだろう。
先行して公開されている歌詞からも、そうした印象を受けないではない。
しかし、「荒野」という言葉は――彼女の過去の作品も含めて――さらにさまざまなイメージの広がりを感じさせる。私が即座に連想するのは次の2曲だ。
Rollin’ Age 笑いながら
Rollin’ Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる
(「ローリング」)
荒野を越えて 銀河を越えて
戦を越えて 必ず逢おう
(「人待ち歌」)
いずれの場合も、「荒野」とは、これらの歌の主人公たちが、それぞれの視点から見つめ、そしてやがてそこから歩き出そうとする、「今、ここ」の世界の現実の風景としてある (そのことについては、ずっと以前に「回帰する歌たち」というエッセイでも少し触れた) 。
「荒野」とは、すべてが失われた場所であると同時に――そうであるからこそ――そこからすべてを新たに始めなおすことのできる「フロンティア」でもあるのだと思う。
この両義性は、「フロンティア」を終曲とする夜会『海嘯』や、「すべて失くしても すべては始まる」 (「無限軌道」) という夜会『24時着0時発』の世界観にも、明らかに通じるものである。
そうした「荒野」のイメージを思うとき、2011年の秋にリリースされる「荒野より」を、この年の春に東日本大震災という戦後最大の災厄を経験した日本の現実と、まったく結びつけずに聴くことは、今の私にとってはむしろ難しい。
――もちろん、歌からどのような意味を聴き取るかは、個々の聴き手の自由だし、中島みゆき自身がそれを意図していたかどうかは、まったく想像の及ぶところではないのだが。
アルバム『荒野より』については、次の(2)で書くことにしたい。