9.11の「サウンド・オブ・サイレンス」

2011年9月11日は、東日本大震災から半年目の日であると同時に、奇しくも、あの「9.11テロ」から、ちょうど10年目の日でもあった。

ニューヨークのいわゆる「グラウンド・ゼロ」でおこなわれた追悼式典で、ポール・サイモンが「サウンド・オブ・サイレンス」を歌う映像を観た。

率直に言って、彼も年を取ったな、というのが第一印象だった。おそらく初めて見るスーツ姿にも、違和感があった。

しかし、彼がギターでイントロを弾きはじめた瞬間、そうした些末なことはどうでもよくなり、久しぶりに聴くこの歌に、私は一気に引き込まれた。

ベトナム戦争の時代、1965年にサイモン&ガーファンクルが歌って大ヒットたこの曲が、21世紀の今なお――というよりも、むしろ今こそ――世界の現実を照らし出し、人びとの思いをつなぐ力をもっていることに、目を覚まされる思いだった。

式典に参加したジャーナリストのブログによれば、サイモンは公式プログラムでは「明日に架ける橋」を歌うことが予定されていたが、彼が実際に歌うことを選んだのは「サウンド・オブ・サイレンス」だった、という。

遺族たちの多くは泣いていた。声を合わせて歌う人々も多くいた。……
それはおそらく、ニューヨークのこの式典で、最も感動的な瞬間だった。
(上記ブログ記事より)

愛と未来への希望を歌う「明日に架ける橋」ではなく、「静寂 (沈黙) の響き」、すなわちコミュニケーションの空白が社会を覆ってゆくことへの恐怖と警告を歌う「サウンド・オブ・サイレンス」を、ほかならぬこの式典での演奏曲に選んだことに、私は彼のきわめて明確な意志を感じ取らざるを得ない。

 

この式典を中継するNHK BSの番組で、9.11の後、二組の対照的な道を辿った遺族が紹介されていた。

イスラム系移民を排斥する運動に身を投じた父親と、逆に、かれらとの対話と相互理解こそが平和と安全への道だとして、そのための運動に携わる叔父と――

この対比を、単純化されたステレオタイプと批判することは簡単だろう。しかし、ここで強調したいのは、ポール・サイモンの視点がどちらに近いのか、ということだ。

中島みゆきのファンであれば、9.11といえば、まだ記憶に新しい TOUR2010 で歌われた「Nobody Is Right」を思い浮かべる人も、少なくないかもしれない。

争う人は正しさを説く 正しさゆえの戦争を説く

アルバムでの歌詞の一部を変更してまで、「戦争」という、より直接的な言葉を彼女に歌わせた思い――そこに私は、ポール・サイモンとも共通する視点の存在を強く感じる。

 

3月にこの国を訪れた時に書いた記事でも触れたように、戦争の記憶――とりわけその犠牲者への「慰霊」というかたちで受け継がれる記憶――は、アメリカ合衆国という国家と国民のアイデンティティの根幹をなすものである。

9.11は、そのアメリカが記憶すべき犠牲者たちの列に、新たに3000人の名を書き加えた。

追悼という一点で、ここに集った人々の思いは一つであったようにもみえる。

しかし、上記の二つの対照的な遺族の歩みに象徴されるように、また、9.11以後のいわゆる「テロとの戦い」を主導したブッシュ前大統領がこの式典に参列していたことにも象徴されるように、9.11という記憶にいかなる意味を見出すか、そしてそこからいかなる未来への道筋を見出すかについては、人びとの思いは必ずしも一つではない。

むしろそこには、架橋しがたい深い亀裂――ひとりアメリカだけではなく、この国が「唯一の超大国」として君臨してきた20世紀後半以来の世界全体を大きく分断する亀裂――がある。

 

ポール・サイモンには、1973年――まさにベトナム戦争の末期――にリリースされた “American Tune” 「アメリカの調べ」という曲がある。

この曲に色濃く漂うのは、アメリカという共同体に無数の人びとが託してきた巨大な夢と、それが挫折するかもしれないという深い幻滅感とのアンビヴァレンスである。

私は夢を見た、空高くはばたく夢を
自由の女神が沖の彼方へと去ってゆくのを
はっきりと見おろしながら
夢の中で私は飛びつづけた
……
私達はメイフラワー号という名の船でやってきた
私達の乗った船は、月まで旅をした
最も不確かな時代に私達はやってきた
そしてアメリカの調べを歌っている……

この歌をサイモンが歌った1973年よりも、さらに深い「不確かさ」の中に、2011年の私達はいるというべきだろう。

そしてこの「船」の行方は、いうまでもなく、遥か太平洋を隔てた対岸の島国に暮らす私達にとっても、決して無縁なことではないのだ。


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