果しなき流れの果に

2011年7月26日、SF作家・小松左京が世を去った。

ひとつの時代が終わったな、という思いが強くする。東日本大震災という、おそらくは戦後最大の災厄を日本が経験した年に、この人が世を去るのも、なんだかとても必然的なことのようにも思える。

私ぐらいの年代のSF好きのご他聞に漏れず、私も中学ぐらいの頃、小松左京の作品をきっかけにSFの洗礼を受けた一人である。

一般に代表作とされる長編『日本沈没』が世に出たのは、中2の時だった。カッパ・ノベルス版の初版本を父が買ってきたのを横取りして、熱中して読んだ。

『日本沈没』がその映画版とともに大ヒットした1973年は、第一次オイルショックによって日本の高度経済成長時代に終止符が打たれ、低成長時代に移行する歴史的転換点だった。その意味で、この時期にこの作品が、一種の終末論的世界観の表現として広く受け入れられたのも、とても象徴的で必然的なことだったように思う。

ただ、小松左京自身がこの作品に込めたテーマは、高度成長に浮かれた時代への反省を踏まえて、”日本とは、日本人とは何か、国土というハードウェアを失ってなお、日本というアイデンティティは存立しうるのか” という壮大な問いだったのだが――

この問いは今なお――というよりも、むしろ今こそ――問いなおされるべき問いだろう。

しかし私の場合、『日本沈没』よりも前、最初に読んだ小松左京の長編 『果しなき流れの果に』 (ハヤカワ文庫JA) で、めくるめくような “センス・オブ・ワンダー”の世界に一気に引きずり込まれたのが、決定的な体験だった。

全10章の長い物語の2章と3章のあいだ、まだ実質的なストーリーが始まる前にはさまれた「エピローグ(その2)」の末尾のこの文章で、おそらく私は、自己という矮小な存在を遥かに超えた、巨大な時間と空間の存在の意味を一瞬で体感したのだと思う。

――だが、時は、できごととは関係なく、さらにのびて行き、21世紀はやがて、
22世紀につながり、さらにその先には、はてしない等質の時間がひろがっていた……。

今から6年前の2005年、母校・京大で小松左京の講演会があり、それが私が直接、謦咳に接した唯一の機会だった。

その時すでに、外見はかなりお年を召した印象があったが、話しぶりは――しばしば脱線しつつも――楽しく快活で、貴重なお話が聴けた講演だった。

とりわけ、「文理の枠を超えた京大の学風から、文学と科学とが融合したサイエンス・フィクションの確立への影響を受けた」というお話が印象的だった。

 

上述の『果しなき流れの果に』に代表されるように、小松SFの究極のテーマは、”宇宙の中での人類の存在の意味” ということだ。

世界を認識し、世界を改造する力としての「科学」を手にしたことが、人類に、また人間に、いかなる可能性と限界を、夢と挫折を、ユートピアとディストピアをもたらすのか――

そのような問いが思想的・文学的問いとして成立しうるということ――そのこと自体への驚きが、私が小松SFから受けた “センス・オブ・ワンダー” の本質だったように思う。

――中島みゆきとは関係のない記事のように思われるかもしれない。

しかし私自身の中では、思春期の頃に小松左京たちのSFから受け取った上述のような意味での “センス・オブ・ワンダー” は、もう少し後に中島みゆきから受けた、世界観を揺さぶられるような衝撃の経験の基礎になったのではないかと思っている。

それは端的にいえば、”宇宙の中での人類の存在の意味” という問いが、”世界の中での自己の存在の意味” という問いへとつながっていったということだ。

「果しなき流れの果」への限りなき思いが、私の中で、この二つの問いを遥かにつないでいる――


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