荒野より (2) ――アルバム収録曲について――

アルバム『荒野より』の収録曲の曲名からは――アルバムのリリース前は、いつものことながら――いろいろと想像力を掻き立てられる。

「バクです」

第2曲「バクです」 (シングル「荒野より」のカップリング曲でもある) の「バク」とは、人の夜の夢を喰って生きるというあの想像上の動物、 「獏」のことなのだろうか。

だとすれば、この曲は前作『真夜中の動物園』の流れを引く (あるいは、前作の収録から漏れた?) 曲なのかもしれない。

が、「獏」といえば個人的に思い出すのは、瀬尾一三のかつてのソロアルバム (1973年) のタイトルである。

1990年のツアー「Night Wings」の千秋楽 (8/31 沖縄市民会館) のアンコールで、このアルバムのラスト曲「何時かのあの頃へ」を、中島みゆきが瀬尾一三とのデュエットで歌うというサプライズがあった。私にとって、初めての沖縄への「追っかけ」体験のときでもあったので、この出来事は非常に強く印象に残っている。

なお、このエピソードにはいろいろと伏線や後日談があるのだが、それらについては長くなるので、「中島みゆき研究所」の掲示板過去ログを参照されたい。

「彼と私と、もう一人」「帰郷群」

第6曲「彼と私と、もう一人」および第10曲「帰郷群」は、11月にスタートする夜会VOL.17『2/2』の新曲のようだ。

「帰郷群」というタイトルは、『24時着0時発』の、故郷を求めてさまよう「鮭」たちを思い出させるし、「もう一人」の「私」という表現も、やはり同じ夜会の「あかり」にとっての「かげ」を連想させる。

再々演となる『2/2』が、これらの新曲も含めて――またおそらくは、これまでの夜会の経験も踏まえて――どのような「完成形」を見せてくれるのかを、大いに楽しみにしたい。

「走」

第11曲 (ラスト曲) の「走」 (そう) は、来春放送されるTV時代劇「忠臣蔵~その義その愛」 (テレビ東京系) の主題歌として起用されるとのことだ。

中島みゆき自身が初めて歌う時代劇主題歌という話題性もあるが、それよりも、中島みゆきと「忠臣蔵」といえば思い出されるのは、映画「四十七人の刺客」 (市川崑監督、1994年) との関わりについてである。

この映画は、これまでもっぱら赤穂義士の視点から描かれてきた忠臣蔵の物語を、吉良家側の視点も含めた情報戦・謀略戦として、新たな角度から描いたことで注目された。

そのシナリオに感銘を受けた中島みゆきは、主題歌として「伝説」 (後に1996年のアルバム「パラダイス・カフェ」所収) を作曲、提供しようとしたが、すでに決まった主題歌があったために起用されず、この曲は「幻の主題歌」となったという。

「四十七人の刺客」 についてのエッセイの中で中島みゆきは、「復讐劇」がもっぱら「復讐する側」の視点から、真実を明かされないまま「美談」へと仕上げられることへの批判をこの映画から読み取っており、それは夜会「シャングリラ」などの内容にも反映されたと想像される (そのことについては、やはりかなり以前に、 「物語の物語」というエッセイで少し触れた)

「忠臣蔵」は、いうまでもなく1702年の赤穂浪士たちの吉良邸討ち入り事件という史実を素材とした物語である。

まだ事件の記憶が新しかったはずの江戸時代においてすでに、幕府を憚って時代や人物の設定を変えながらも、それは歌舞伎や人形浄瑠璃の人気演目として定着していた。

戦後、連合国軍による占領期には、「封建的価値観に基づく『仇討ち』の物語は、日本の民主化への妨げとなる」との理由で、上演や出版が禁止された一時期もある。

――そうした時代や政治による紆余曲折を経ながらも、「忠臣蔵」は現在に至るまで、最も日本人に人気のあるストーリーのひとつでありつづけてきた。

そのことは、現代の芸能界でも、主役の大石内蔵助を演じることが、役者として最高の誉れとされているということからも推察されよう (上記リンク先、Wikipedia記事より)。

――そうした「定番」の物語であるからこそ、 「四十七人の刺客」 のような批判的視点からの捉えなおしにも意義があった、とも言えるだろう。

1990年代前半、「邯鄲」「金環蝕」「花の色は…」とつづく夜会の演目で、中国や日本の古典の批判的な読み直しをモチーフとしてきた中島みゆきにとって、「四十七人の刺客」 は同様の批判的視点をもった作品として、心の琴線に触れたのかもしれない。

今回の新春ドラマは、サブタイトルや上記リンク先の記事から判断する限り、比較的オーソドックスな「忠臣蔵」像を基調としているようだ。

しかし、その映像に中島みゆきが歌う「走」が重ねられることで、そこにどのような新しい「意味」が生まれてくるのか――ファンとしては、まずはその意外性を楽しみにしたい。

荒野より (1) ――「荒野」の意味について――

しばらくブログ更新をさぼっているうちに、ニューシングル「荒野より」とニューアルバム『荒野より』のリリース、およびそれに関係したニュースが次々と舞い込んできた。

まったく同一タイトルのシングルとアルバムがリリースされるのは、中島みゆきにとって、意外にもこれが初めてのことだ。

――シングル「あした」のカップリング曲「グッバイガール」と、アルバム『グッバイガール』 (ただし、ややこしいことに「グッバイガール」は収録されていない) 、そしてシングル「時代」 (リメイク版) と、セルフカバーアルバム『時代―Time goes around―』という、2つのかなり変則的なケースは過去にあったにせよ――。

中島みゆきにとって、「荒野より」というタイトルに、それだけ強い思い入れがあったということなのだろうか。

シングルのタイトル曲「荒野より」は、TVドラマ「南極大陸」 (2011/10/16~、TBS系) の主題歌である。

ドラマの内容――日本の戦後復興の象徴として描かれる、南極越冬隊の物語――からすれば、「荒野」とは、敗戦後の日本の現実を意味すると同時に――中島みゆき自身が語っているように、南極に残された犬たちの視点からみた――極寒と不毛の地、南極大陸それ自体を指す言葉でもあるのだろう。

先行して公開されている歌詞からも、そうした印象を受けないではない。

しかし、「荒野」という言葉は――彼女の過去の作品も含めて――さらにさまざまなイメージの広がりを感じさせる。私が即座に連想するのは次の2曲だ。

Rollin’ Age 笑いながら
Rollin’ Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる
(「ローリング」)

荒野を越えて 銀河を越えて
戦を越えて 必ず逢おう
(「人待ち歌」)

いずれの場合も、「荒野」とは、これらの歌の主人公たちが、それぞれの視点から見つめ、そしてやがてそこから歩き出そうとする、「今、ここ」の世界の現実の風景としてある (そのことについては、ずっと以前に「回帰する歌たち」というエッセイでも少し触れた)

「荒野」とは、すべてが失われた場所であると同時に――そうであるからこそ――そこからすべてを新たに始めなおすことのできる「フロンティア」でもあるのだと思う。

この両義性は、「フロンティア」を終曲とする夜会『海嘯』や、「すべて失くしても すべては始まる」 (「無限軌道」) という夜会『24時着0時発』の世界観にも、明らかに通じるものである。

そうした「荒野」のイメージを思うとき、2011年の秋にリリースされる「荒野より」を、この年の春に東日本大震災という戦後最大の災厄を経験した日本の現実と、まったく結びつけずに聴くことは、今の私にとってはむしろ難しい。

――もちろん、歌からどのような意味を聴き取るかは、個々の聴き手の自由だし、中島みゆき自身がそれを意図していたかどうかは、まったく想像の及ぶところではないのだが。

アルバム『荒野より』については、次の(2)で書くことにしたい。

9.11の「サウンド・オブ・サイレンス」

2011年9月11日は、東日本大震災から半年目の日であると同時に、奇しくも、あの「9.11テロ」から、ちょうど10年目の日でもあった。

ニューヨークのいわゆる「グラウンド・ゼロ」でおこなわれた追悼式典で、ポール・サイモンが「サウンド・オブ・サイレンス」を歌う映像を観た。

率直に言って、彼も年を取ったな、というのが第一印象だった。おそらく初めて見るスーツ姿にも、違和感があった。

しかし、彼がギターでイントロを弾きはじめた瞬間、そうした些末なことはどうでもよくなり、久しぶりに聴くこの歌に、私は一気に引き込まれた。

ベトナム戦争の時代、1965年にサイモン&ガーファンクルが歌って大ヒットたこの曲が、21世紀の今なお――というよりも、むしろ今こそ――世界の現実を照らし出し、人びとの思いをつなぐ力をもっていることに、目を覚まされる思いだった。

式典に参加したジャーナリストのブログによれば、サイモンは公式プログラムでは「明日に架ける橋」を歌うことが予定されていたが、彼が実際に歌うことを選んだのは「サウンド・オブ・サイレンス」だった、という。

遺族たちの多くは泣いていた。声を合わせて歌う人々も多くいた。……
それはおそらく、ニューヨークのこの式典で、最も感動的な瞬間だった。
(上記ブログ記事より)

愛と未来への希望を歌う「明日に架ける橋」ではなく、「静寂 (沈黙) の響き」、すなわちコミュニケーションの空白が社会を覆ってゆくことへの恐怖と警告を歌う「サウンド・オブ・サイレンス」を、ほかならぬこの式典での演奏曲に選んだことに、私は彼のきわめて明確な意志を感じ取らざるを得ない。

 

この式典を中継するNHK BSの番組で、9.11の後、二組の対照的な道を辿った遺族が紹介されていた。

イスラム系移民を排斥する運動に身を投じた父親と、逆に、かれらとの対話と相互理解こそが平和と安全への道だとして、そのための運動に携わる叔父と――

この対比を、単純化されたステレオタイプと批判することは簡単だろう。しかし、ここで強調したいのは、ポール・サイモンの視点がどちらに近いのか、ということだ。

中島みゆきのファンであれば、9.11といえば、まだ記憶に新しい TOUR2010 で歌われた「Nobody Is Right」を思い浮かべる人も、少なくないかもしれない。

争う人は正しさを説く 正しさゆえの戦争を説く

アルバムでの歌詞の一部を変更してまで、「戦争」という、より直接的な言葉を彼女に歌わせた思い――そこに私は、ポール・サイモンとも共通する視点の存在を強く感じる。

 

3月にこの国を訪れた時に書いた記事でも触れたように、戦争の記憶――とりわけその犠牲者への「慰霊」というかたちで受け継がれる記憶――は、アメリカ合衆国という国家と国民のアイデンティティの根幹をなすものである。

9.11は、そのアメリカが記憶すべき犠牲者たちの列に、新たに3000人の名を書き加えた。

追悼という一点で、ここに集った人々の思いは一つであったようにもみえる。

しかし、上記の二つの対照的な遺族の歩みに象徴されるように、また、9.11以後のいわゆる「テロとの戦い」を主導したブッシュ前大統領がこの式典に参列していたことにも象徴されるように、9.11という記憶にいかなる意味を見出すか、そしてそこからいかなる未来への道筋を見出すかについては、人びとの思いは必ずしも一つではない。

むしろそこには、架橋しがたい深い亀裂――ひとりアメリカだけではなく、この国が「唯一の超大国」として君臨してきた20世紀後半以来の世界全体を大きく分断する亀裂――がある。

 

ポール・サイモンには、1973年――まさにベトナム戦争の末期――にリリースされた “American Tune” 「アメリカの調べ」という曲がある。

この曲に色濃く漂うのは、アメリカという共同体に無数の人びとが託してきた巨大な夢と、それが挫折するかもしれないという深い幻滅感とのアンビヴァレンスである。

私は夢を見た、空高くはばたく夢を
自由の女神が沖の彼方へと去ってゆくのを
はっきりと見おろしながら
夢の中で私は飛びつづけた
……
私達はメイフラワー号という名の船でやってきた
私達の乗った船は、月まで旅をした
最も不確かな時代に私達はやってきた
そしてアメリカの調べを歌っている……

この歌をサイモンが歌った1973年よりも、さらに深い「不確かさ」の中に、2011年の私達はいるというべきだろう。

そしてこの「船」の行方は、いうまでもなく、遥か太平洋を隔てた対岸の島国に暮らす私達にとっても、決して無縁なことではないのだ。

果しなき流れの果に

2011年7月26日、SF作家・小松左京が世を去った。

ひとつの時代が終わったな、という思いが強くする。東日本大震災という、おそらくは戦後最大の災厄を日本が経験した年に、この人が世を去るのも、なんだかとても必然的なことのようにも思える。

私ぐらいの年代のSF好きのご他聞に漏れず、私も中学ぐらいの頃、小松左京の作品をきっかけにSFの洗礼を受けた一人である。

一般に代表作とされる長編『日本沈没』が世に出たのは、中2の時だった。カッパ・ノベルス版の初版本を父が買ってきたのを横取りして、熱中して読んだ。

『日本沈没』がその映画版とともに大ヒットした1973年は、第一次オイルショックによって日本の高度経済成長時代に終止符が打たれ、低成長時代に移行する歴史的転換点だった。その意味で、この時期にこの作品が、一種の終末論的世界観の表現として広く受け入れられたのも、とても象徴的で必然的なことだったように思う。

ただ、小松左京自身がこの作品に込めたテーマは、高度成長に浮かれた時代への反省を踏まえて、”日本とは、日本人とは何か、国土というハードウェアを失ってなお、日本というアイデンティティは存立しうるのか” という壮大な問いだったのだが――

この問いは今なお――というよりも、むしろ今こそ――問いなおされるべき問いだろう。

しかし私の場合、『日本沈没』よりも前、最初に読んだ小松左京の長編 『果しなき流れの果に』 (ハヤカワ文庫JA) で、めくるめくような “センス・オブ・ワンダー”の世界に一気に引きずり込まれたのが、決定的な体験だった。

全10章の長い物語の2章と3章のあいだ、まだ実質的なストーリーが始まる前にはさまれた「エピローグ(その2)」の末尾のこの文章で、おそらく私は、自己という矮小な存在を遥かに超えた、巨大な時間と空間の存在の意味を一瞬で体感したのだと思う。

――だが、時は、できごととは関係なく、さらにのびて行き、21世紀はやがて、
22世紀につながり、さらにその先には、はてしない等質の時間がひろがっていた……。

今から6年前の2005年、母校・京大で小松左京の講演会があり、それが私が直接、謦咳に接した唯一の機会だった。

その時すでに、外見はかなりお年を召した印象があったが、話しぶりは――しばしば脱線しつつも――楽しく快活で、貴重なお話が聴けた講演だった。

とりわけ、「文理の枠を超えた京大の学風から、文学と科学とが融合したサイエンス・フィクションの確立への影響を受けた」というお話が印象的だった。

 

上述の『果しなき流れの果に』に代表されるように、小松SFの究極のテーマは、”宇宙の中での人類の存在の意味” ということだ。

世界を認識し、世界を改造する力としての「科学」を手にしたことが、人類に、また人間に、いかなる可能性と限界を、夢と挫折を、ユートピアとディストピアをもたらすのか――

そのような問いが思想的・文学的問いとして成立しうるということ――そのこと自体への驚きが、私が小松SFから受けた “センス・オブ・ワンダー” の本質だったように思う。

――中島みゆきとは関係のない記事のように思われるかもしれない。

しかし私自身の中では、思春期の頃に小松左京たちのSFから受け取った上述のような意味での “センス・オブ・ワンダー” は、もう少し後に中島みゆきから受けた、世界観を揺さぶられるような衝撃の経験の基礎になったのではないかと思っている。

それは端的にいえば、”宇宙の中での人類の存在の意味” という問いが、”世界の中での自己の存在の意味” という問いへとつながっていったということだ。

「果しなき流れの果」への限りなき思いが、私の中で、この二つの問いを遥かにつないでいる――

小田和正と中島みゆき (2)

「あなたの言葉がわからない」

小田和正と中島みゆきとの数少ない接点のひとつとして、前の記事(1)では、小田和正がTVライブ「クリスマスの約束」で歌った「化粧」について書いた。

これと逆のケース、つまり中島みゆきが小田和正の作品を (ライブ等の公式の場で) 歌ったというケースは、今のところ残念ながら存在しない。

中島みゆきが、他のアーティストの作品をライブ等で歌うということ自体が、きわめてまれなケースなのだ。今のところそうしたケースとしては――最初期のコンサートでの余興などを別にすれば――、次の二つがあるだけである。 

  • 1986年、甲斐バンドのファイナル・ツアー“PARTY”に飛び入りし、甲斐よしひろの作品「港からやって来た女」をデュエット 
  • 2007年、コンサートツアーの曲目として、吉田拓郎の作品「唇をかみしめて」を歌う

 この2つの例外的なケースは、中島みゆきの短くないキャリアのなかで、甲斐よしひろ、吉田拓郎それぞれの存在がもった特別な意味を示唆するものだろう。

しかしながら――これはまったくの私見だが――中島みゆき作品の中に、明らかに小田和正へのオマージュと呼べるものが、実は一曲ある。

それは、1996年の夜会Vol.8「問う女」で歌われたオリジナル曲、「あなたの言葉がわからない」である。

アナウンサー・綾瀬まりあ (中島みゆき) が、ふとしたきっかけっで知り合ったタイ人娼婦 (森上千絵) と二人で、夜のスキー場のゴンドラに乗り、遠い街明かりを眺めながら、言葉を手探りするようにコミュニケーションを図る重要な場面。

これはなぁに これはなぁに なんて言ったの
A,B,C,D,E,F,G, 小さい子みたいね

あなたの言葉がなんにもわからない
あなたに心がないのかと間違える

Photo_6

 

この曲のリフレイン (サビ) を最初に聴いたとき、反射的に連想したのが、小田和正の「言葉にできない」 (オフコースの1981年のアルバム「over」収録曲) だった。

誰のせいでもない
自分がちいさすぎるから
それがくやしくて 言葉にできない

Photo_7

 

シンプルで美しいメロディやコード進行にも、はっきりと後者から前者への反響を聴き取ることができる。しかしそれ以上に重要なのは、根底にあるテーマの共通性ということだ。

中島みゆきが繰り返しさまざまな機会に語ってきたように、彼女の最も基本的かつ究極的なテーマは、「言葉」である。

「言葉の実験劇場」と銘打ってスタートした夜会を含めて、彼女の表現活動は、いわば (音楽、舞台芸術、映像なども含めた広い意味での) 「言葉」によって、どうすれば「言葉にできない」ものを表現することができるのか――その可能性をつねに徹底的に追求してきたと言っていい。

「問う女」は、言葉を操る職業としてのアナウンサーを主人公に据えることで、逆説的に、言葉 (およびそれを伝えるメディア) がもつ暴力性やディスコミュニケーションを描こうとした作品である (そこに、HIVに感染した外国人娼婦を登場させることで、差別や排除といった社会的テーマが重ねられているのだが、そのことについては、ここでは触れない)

それは――作品全体としての完成度は別として――「言葉」という基本テーマへの彼女のこだわりが、おそらくは最も生のかたちで前面に出た夜会だったとも言えるだろう。「あなたの言葉がわからない」には、とりわけそのこだわりが集約的に表現されている。

小田和正の「言葉にできない」は――メロディやコード進行も含めて――彼としてはきわめてシンプルなつくりの曲である。前の記事(1)に書いたように、愛も悲しみも、透明な風景の中の点景として描き出すことを基本的なスタイルとしてきた彼の作品群の中にあって、この曲はやや異質でもある。ここにあるのは、より素朴で率直な内面の吐露とでもいうべきものなのだ。

「言葉にできる」風景ではなく、「言葉にできない」内面を歌うこと――そこに、中島みゆきは自らのテーマへの共振を感じたのだろうか。

「生まれ来る子供たちのために」

さて、オフコースの活動時期の後半 (1980年代) は、「中島みゆきのオールナイトニッポン」の放送時期とほぼ重なっている。オフコースの曲も――上記の「言葉にできない」も含めて――しばしば番組の中で流れたが、その中でもとりわけ私の記憶に強く残っているのは、 「生まれ来る子供たちのために」 (1979年のオフコースのアルバム「Three and Two」の収録曲)である。

コミカルなDJだけでなく、ある意味ではそれ以上に、「最後の葉書」コーナーでのシリアスな語りによって、この番組を記憶している人も少なくないだろう。しかし、たまにではあるが「最後の葉書」コーナー以外でも、リスナーからの葉書に応えてシリアスな語りが入ることがあった。

おそらくは中島みゆき自身の選曲で「生まれ来る子供たちのために」が流れたのも――残念ながらその葉書やコメントの内容は記憶していないのだが――そうしたシリアスな語りの後だった。

彼女がこの曲に寄せた共感の理由は、何だったのか――

多くの過ちを 僕もしたように
愛するこの国も 戻れない もう戻れない

あのひとがそのたびに 許してきたように
僕はこの国の 明日をまた想う

小田和正はこの曲がリリースされた当時のインタビューの中で、「僕自身のテーマ」として、「日本はどうなっちゃうんだろう、という危機感」が背景にあったと、きわめて率直に語っている。「公害どうのこうのっていっても、そんな騒ぎはすぐ下火になっちゃう。日本人って、そういう部分で飽きちゃうんだ」と (上記、曲名リンク先の Wikipedia 記事による)

中島みゆきは――小田和正ほど率直に作品の背景を語ってくれることはあまりなく、もっぱら作品そのものにおいて、それも象徴的で難解な隠喩を通じてではあるが――同様の危機感を繰り返し表明している。とりわけ、その代表と言える作品は、(1988年のアルバム「グッバイ・ガール」のラスト曲) 「吹雪」である。

恐ろしいものの形を ノートに描いてみなさい
そこに描けないものが 君たちを殺すだろう
……
どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち
どこにも残らぬ島なら 名前は言えない

「君たちを殺すだろう」「恐ろしいもの」とは、「どこにも残らぬ島」とは、いったい何を指すのか――それらの問いへの明解な答を、中島みゆきは与えることはしない。それらは、聴き手の中に、自らへの問いとして残されるのみである。

記事(1)で比較した「僕等の時代」と「世情」と同様に、「生まれ来る子供たちのために」と「吹雪」の2曲も、与える印象はまったく異なる。しかし、根底にあるテーマ――「この国」の未来への危機感――は、やはり共通しているのだ。

疑うブームが過ぎて 楯突くブームが過ぎて
静かになる日が来たら 予定どおりに雪が降る
どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち
何もない闇の上を 吹雪は吹くだろう

1989年のコンサートツアー「野ウサギのように」でこの曲を歌ったとき、彼女はそのテーマについて一言だけ、「ブームってやつに気をつけな、ってこと」とだけコメントしていた。

疑いも楯突きも、「ブーム」が過ぎれば雲散霧消してしまう。しかし、疑いや楯突きの原点となった問いを、自らへの問いとして、自らの中で問いづけることの先にしか、真に「恐ろしいもの」に立ち向かいうる道はない――そう「吹雪」は私たちに語っているかのようだ。

「吹雪」にせよ、「生まれ来る子供たちのために」にせよ、2011年3月11日の東日本大震災と、それに伴う原発事故を経験した現在の時点で、これらの曲を聴きかえしてみると、ある意味での先見性――あるいは、私たちの経験の意味を新たな光のもとに照らし出す力――に、驚かざるをえない。

この国の中に、そこに暮らした人びとが――少なくともはっきりと見通しうる未来には――もはや帰ることを許されぬ場所が生まれてしまったことの意味は、限りなく重い。その土地は――そこに暮らした人びとが積み重ねてきた記憶とともに――奪われてしまったのだ。

この経験とそれがもたらした問いが、10年先、20年先、30年先――「生まれ来る子供たち」の未来に、どのようなかたちで反映され、その答が見出されるのか――そのゆくえは、まだ見通し難い遥かな先にある。

しかし、「ブーム」としてではなく、自らへの問いとして、それをたゆみなく問いつづけること――その力と勇気をもちつづけることへの励ましこそを、今はこれらの歌から受け取りたい。

真白な帆を上げて
旅立つ船に乗り
力の続く限り
ふたりでも漕いでゆく
その力を与え給え
勇気を 与え給え