小田和正と中島みゆき (1)

先日、中1の次男が使っている国語の教科書 (『伝え合う言葉』という、あまり教科書らしくないタイトルがついている) をパラパラと見ていたら、中島みゆきの「誕生」の歌詞が目に入ってきた。

隣のページには、小田和正の「僕等の時代」 (オフコースの1980年のアルバム「We are」の収録曲) が掲載されていて、この2曲の歌詞が、「歌の詞 (ことば) 」というコーナーの中にくくられている。

国語の教科書はふつう縦書きであり、この教科書ももちろん例外ではないのだが、このコーナーだけは横書きになっている。「詩」ではなく、「 (歌の) 詞」ということのゆえか。

そういえば、中島みゆきがかなり以前、何かのインタビューの中で「詩」と「詞」の違いについて、「テラとツカサ」という表現を使いながら語っていたのが思い出されたりもする。

ところで――国語教材としての中島みゆき云々、といった話をここでしたいのではない。

小田和正と中島みゆき、この――おそらく、あまり並べて語られることのない――二人のアーティストの関係について、この機会に、少々思うところを書いてみたくなったのだ。

風景の透明感

実を言えば、これをきっかけに、不意に久しぶりにオフコースの曲をどうしても聴きたくなり、十数枚のアルバム (リマスタ版のCD) を「大人買い」してしまった。それらを iPod に入れ、いま通勤途上などで聴きかえしているところだ。

私がかつて (若かりし学生時代) 、オフコースの音楽に浸っていたのは、1981~82年頃、中島みゆきのアルバムでいえば「臨月」「寒水魚」がリリースされた頃である。

その頃すでに、私はかなり「コア」な中島みゆきファンになっていたが、その一方で、彼女とは (少なくとも表面上は) まったく異質な音楽性――歌詞も含めて――をもつオフコースにも強く魅かれていた。

その魅力を一言で表現するのは難しいが――あえていえばそれは、「風景の透明感」ということだったように思う。

たとえば、同じく愛を――そしてその喪失の悲しみを――歌っても、中島みゆきがどこまでも求心的に、自らの内面に対して――幾重にも色を塗り重ねていくかのように――その経験の意味を問いなおしていくのに対して、オフコース (小田和正と鈴木康博) はどこまでも遠心的に、愛や悲しみの意味を、都市的風景の透明な広がりの中に――淡い水彩画のように――描き出してゆく。

愛といい悲しみといい、それらは――内的な心象としてではなく――あくまでも透明な風景の中の点景として、洗練されたガラス細工のようなきらめきを放つのだ。

この対称的な二つの力――内面への求心力と風景への遠心力――の両方を、おそらく当時の私は、自らの心のありようにバランスを保つために必要としたのだろう。

時代へのまなざし

対称的――とはいっても、この両者に共通項がないという意味ではもちろんない。

たとえば、冒頭に紹介した教科書にある「僕等の時代」の歌詞を読んでまず印象づけられるのは、時代、時の流れを見据えるまなざし、そしてそれらとともに歩いてゆこうとする意志――とでもいうべきものだ。

もうそれ以上 そこに 立ち止まらないで
僕等の時代が少しずつ今も動いている

あなたの時代が終わったわけでなく
あなたが僕たちと 歩こうとしないだけ

動いてゆく時代を見据え、それとともに歩いてゆこう――こうした視点やスタンスは、教科書の隣にある「誕生」にも共通するものを感じさせないではないし、他にもいくつかの中島みゆき作品が思い浮かぶが、中でも、最も鮮烈にそれが歌われているのは、おそらく「世情」だろう。

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて

時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

もちろん、「僕等の時代」と「世情」とでは音楽的な印象はまったく異なるが、その大きな差異を超えて、根底にある視点やスタンスの共通性をも同時に感じさせるのだ。

小田和正の「化粧」

さて、小田和正と中島みゆきとの数少ない接点のひとつとして、私がまず思い出すのは、小田が毎年末におこなっているTVライブ番組「クリスマスの約束」で、「化粧」を歌ったときのことである。2002年12月のことだ。

この番組では、小田は (オフコース時代も含めて) 自らの作品も歌うが、他のさまざまなアーティストの作品を彼自身が自由に選曲して歌うのが、ひとつの「売り」のようにもなっている。

しかし、中島みゆき作品を彼が歌ったのは、今までのところ、この1回だけのことである。

このときの「化粧」という選曲は、実際に彼の歌を聴くまでは、とても意外に思えた。

初期の中島みゆきのイメージをある意味で――とりわけ、アルバム「愛していると云ってくれ」での、あの泣きながら歌う声によって――代表する作品ともいえる「化粧」は、小田の音楽性とは対極に――上記の意味での、求心性と遠心性の両極に――位置するように思えた。

実際、彼はこの曲の前のMCで、次のように語っている。

この曲は、男には絶対に書けないような詞です。
初めてこの歌を聴いた時には、本当に驚いてしまいました。
その曲に挑戦してみたいと思います。
前から僕は、陽水がやるみたいに、「あたい」とか「あんた」とかいう歌詞を
一度歌ってみたいなと思っていたので、とてもいい機会だなと…(笑)

このMCの後半で、彼は冗談めかして語ってはいるが、歌詞での一人称・二人称代名詞の選び方というのは、かなり本質的な事柄だったのではないかとも思う。

小田の (とりわけオフコース時代の) 歌詞には――「あたい」「あんた」はもちろんのこととして――男性シンガーソングライターがよく使う「俺」「おまえ」さえも、ほとんど登場しない。

その代わりにしばしば登場するのは、「私」と「あなた」である。もちろん、男性の視点から女性に向けて歌われる歌詞で、のことだ。

男性が自らを「私」と呼び、女性を「あなた」と呼ぶ――日常的・口語的表現からはかけはなれた、日本ではふつう、仕事などのオフィシャルな場面でしか使われないような――この代名詞の選び方も、恋愛というモチーフを、その内面的な意味の重さや息苦しさから解き放ち、透明で洗練された風景の中に描き出すことを可能にする条件のひとつだったのだと思う。

――小田和正が歌う「化粧」の話に戻ろう。

この記事を書くために、久しぶりに当時の録画をひっぱり出して、観なおしてみた。

この曲の魅力を再発見させてくれるような、見事な歌唱――この番組を最初に観たときのその印象が、変わることなくよみがえってきた。これが市販メディアとしてリリースされていないのは惜しい。

聴く前に感じていた意外感は覆され、彼があえてこの曲を、数ある中島みゆき作品の中から選んだことの必然性が、この上ない説得力をもって迫ってくる。

化粧なんて どうでもいいと思ってきたけれど
せめて 今夜だけでも きれいになりたい

ピアノの弾き語りともに、訥々とつぶやくような歌い出し。

ややゆっくりめのテンポと、静かなピアノの音、そして何よりも、あの彼独特の透きとおるような高音が、静謐で透明な風景の中に、この歌の世界を再現してゆく。

しかし小田和正は、この歌がもつ悲しみの意味を、透明な風景の中に雲散霧消させてしまうようなことはしない――むしろ逆である。

バカだね バカだね バカだね あたし
愛してほしいと 思ってたなんて
バカだね バカだね バカのくせに Ah…
愛してもらえるつもりでいたなんて

中島みゆきが慟哭とともに歌ったこのリフレインを、彼はどこまでも透明に伸びてゆく高音によって、限りなく誠実に、心をこめぬいて歌ってゆく。

――その音楽的な結晶度の高さゆえに、この曲の悲しみは、この上なく直截にストレートに、私の胸に届く。

かつて評論家の呉智英が指摘したように、中島みゆきの愛の歌の固有性は、他者とは決して共有されえないはずの〈この私〉の絶対的な悲しみを、それでも共有可能なものとして歌いえたことにある――それはほとんど、「宗教的な衝撃」というべきものだった (この指摘に関しては、かつて同人誌のエッセイで論じたことがある)

「化粧」は、そのような意味での中島みゆきの――とくに初期作品がもつ――固有性と衝撃力を、とりわけ代表する作品である。

小田和正が上記のMCで、「男には絶対に書けない」「本当に驚いた」と率直に語っているのも、そのゆえだろう。

私自身にとっては、「化粧」という曲は、まさにその衝撃力のゆえにこそ、ある意味で恐ろしく、近づきがたい作品でありつづけてきた――正直にいえば、アルバム「愛していると云ってくれ」に収録されている中島みゆき自身の歌を、私はこれまで――30数年ものあいだ――ほんの数回しか聴く勇気をもちえないでいるほどだ。

しかし小田和正の「化粧」は、そうした私の恐れを取り払い、中島みゆき自身とはまったく別のアプローチから、この曲の衝撃力の核心を再発見させてくれる。

それは、かつて中島みゆきとともにオフコースの音楽に浸っていたころに、私が自らを支えるために必要とした二つの力――風景への遠心力と、内面への求心力との、「幸福な再会」とでもいうべき経験だったのだと、今にして思う。

この記事も長くなってしまったので、以下は(2)につづけることにしたい。

夜会Vol.17「2/2」のキャスト

夜会Vol.17「2/2」の事務局サイトがオープンし、東京公演の先行予約受付がスタートした(締め切りは7/30(土) )

そして、公式サイト「でじなみ」の夜会ページでは、キャストも発表された。

CAST 中島みゆき 植野葉子 香坂千晶 コビヤマ洋一

この機会に、中島みゆきの共演者3人について、いくつか思い出すことを記しておこう。


植野葉子はVol.10「海嘯」 (1998) 以来の、久々の出演となる (とはいえ、出演回数としては4回目となり、後述のコビヤマ洋一と同じ) 

彼女の夜会初出演はVol.7「2/2」 (1995) であり、その再演のVol.9「2/2」 (1997) でも彼女は起用されているので、この演目ゆえの再登板ということなのかもしれない。

しかし、熱心な中島みゆきファンであれば、それよりも以前、夜会Vol.5「花の色は…」 (1993) のメイキングビデオで、アンダースタディとして登場していた彼女の姿を観て、その名を記憶した人も少なくないのではないだろうか――少なくとも私はその一人だった (ちなみに、このメイキングビデオはVHSとLDのフォーマットでのみリリースされ、残念ながら現在は市販されていない)

演劇用語としての「アンダースタディ」とは、一般的には、出演者に急病等の支障が生じたときのための (本番での)「代役」を意味するようだ。

が、このメイキングビデオでの植野葉子の役割は、むしろリハーサルの際に、主役の中島みゆきが登場する場面で主役に代わって演技し、それを演出家としての中島みゆきが客観的な視点から確認するための、いわば主役の身代わりとでもいうべきものだった。

夜会では、中島みゆきが主演と演出家を兼ねる以上、この意味でのアンダースタディは、リハーサルには絶対に欠くことのできない存在だろう。裏方とはいえ、この仕事をこなすには、相当の演技力やコミュニケーション能力、シナリオへの理解力が要求されるのは想像に難くない。

リハーサルにおける中島みゆきの「分身」ともいうべきこの仕事をこなしたことが、後に「2/2」の舞台上で、中島みゆき演ずるヒロイン梨花の「分身」ともいうべき双子の姉妹の役柄への起用につながったのでは――というのは、しかし短絡的過ぎる見方だろう。

事実、夜会の歴代アンダースタディの中で、これまでのところ本番の舞台にも立ったのは、他にはVol.8「問う女」のアンダースタディを務めた香坂千晶がいるのみである。

――そうした想像はおくとして、私は植野葉子の演技を、これまでは2つの映像ソフト (Vol.7「2/2」とVol.10「海嘯」) でしか観ていない。今回のVol.17で初めて、彼女の演技を生の舞台で観ることができるのを、まずは楽しみにしたい。


コビヤマ洋一は、Vol.14「24時着00時発」 (2006年) 以来4回連続の出演となり、夜会では早くも準レギュラー・メンバーとなった印象が強い。

初登場の「24時着00時発」での――コートを羽織り帽子を目深にかぶった宮澤賢治のよく知られた写真をモチーフとした――〈KENJI〉役も印象的だったが、何といってもまだ記憶に強く焼き付いているのは、「今晩屋」の〈元・画家のホームレス〉〈左官〉〈厨子王〉役での、大柄な体を存分に生かしたダイナミックな演技である。

とりわけ、第1幕ラストの「都の灯り」――僧形となった〈ホームレス〉(厨子王?) が、炎上する縁切寺の扉の中へと姿を消していく場面――は衝撃的で、強烈なインパクトを残した。あそこは、コビヤマ洋一の大柄で個性的な風貌と長身があってこその場面であったと思う。

「2/2」では――プロットが大きく変更されるようなことがなければ――キャスト中唯一の男優として、彼がヒロイン梨花の恋人・圭の役を演ずることになるはずだ。

それぞれ1回きりのキャストであったVol.7 の伊藤敏八 (惜しくも故人となってしまったが) 、Vol.9の藤敏也とは異なり、すでに夜会でその強烈な個性が印象づけられているコビヤマ洋一が、どのような〈圭〉を演じることになるのか――それも楽しみのひとつである。


香坂千晶は、初出演のVol.6「シャングリラ」 (1994年) から数えて9回目、Vol.12「ウィンター・ガーデン」 (2002年) 以来6回連続の出演で、もはや夜会には欠かせぬレギュラー・メンバーとなった印象が強い。

しかし、最初の「シャングリラ」での彼女の役柄――女主人メイリンの看護婦など――には台詞がなく、共演者というよりは、いかにも「助演」という印象が強かった。

その後、Vol.10「海嘯」では、植野葉子とともに彼女にも多くの台詞のある役柄――ハワイの結核療養所の入院患者――が割り当てられることになるが、なんといっても彼女にとって最大のブレークスルーとなったのは、Vol.12「ウィンター・ガーデン」の〈女〉役だったのではないだろうか。

Vol.11では谷山浩子が演じた〈女〉役に、Vol.12で当初予定されていた吉田日出子が突発性難聴のために降板し、急遽代役として香坂千晶が起用された。

「ウィンター・ガーデン」の〈女〉役は、中島みゆきが演じる〈犬〉と並んで、事実上のダブル主役といってもいいほどの「重い」役柄だ。台詞――正確には、詩の朗読――も非常に多い。さらに、大団円の「記憶」では、中島みゆきとのデュエットの歌唱もある。

私はVol.12の開演2日目、2002年11月27日の公演を観た。香坂千晶はこの大役を精一杯こなしてはいたが、どこか硬さが残る印象が拭えないのも事実だった。が、もっと後の日程の公演を (複数回) 観た知人の話では、彼女の演技は回を追うごとに硬さがほぐれ、表情の豊かさと伸びやかさを増していったという。

おそらくは、この大役をこなした経験が、それにつづく「24時着0時発」での〈かげ〉、そして「今晩屋」での〈縁切寺の庵主〉〈水族館の飼育員〉〈姥竹〉〈安寿〉という複雑かつ重要な役柄での充実した演技と、事実上のレギュラー・メンバーとしての定着につながったのではないかと思う。

「2/2」という演目に関しては、彼女はVol.9 (1997年) 以来の出演となる。Vol.9 を私は観ていないし、映像ソフトもリリースされていないので、この時と比較してどうこうと、予想めいたことを述べることはできない。

ただ、〈かげ〉といい〈安寿〉といい、いわば主役たる中島みゆきの分身ともいうべき役柄を演じた経験が、なんらかのかたちで今回のVol.17「2/2」にも反映されるのではないか――そのあたりに注目しながら舞台に接することにしたい。

なお、香坂千晶は自らのブログで、今回の夜会への抱負を語っている。

ふだんは軽妙でコミカルな語り口で楽しく読ませてくれるブログだが――そのあたり、中島みゆきのキャラクターとも一脈通じるものがあって興味深い――、この記事ではいつになくシリアスかつ率直に、夜会は「私にとって宝物」、「その宝物にまた関われるという……喜び、そうして不安・緊張……」と語っているのがとても印象深い。

多くの読者の、「香坂さんの出演を楽しみにしていました」というコメントにも思わず共感してしまう。

初日までまだ5ヶ月以上あるとはいえ、私の胸の中にも、今回の夜会への期待がふくらんでくるのを感じつつ――。

中島みゆきの漢字テスト

一時、「脳力大学 漢字テスト」というmixiのアプリに凝っていて、出題される難読漢字の中に、けっこう中島みゆきの歌詞などで見かけた言葉があることに気がついた。

このアプリには、ユーザーのオリジナル問題作成機能というのがあり、漢字の読みの問題を50題まで作成できたので、ふと思い立って、中島みゆき関係の漢字問題を作成してみた。

マイミクさんたちにも紹介したが、ややマニアックすぎたのか、あまり解いてはもらえなかったようだが…… それはともかく、中島みゆきの歌詞等、とくに夜会関係のそれは、難読漢字の宝庫(?)であることがよくわかったような次第である。

全50問を、Level 1 から Level 5 までの5段階、10問ずつに分けてみた。

――お暇な方は、ぜひ挑戦してみてください。

[Level 1]

  1. 桔梗
  2. 素面
  3. 駄洒落
  4. 海嘯
  5. 蕎麦屋
  6. 如月
  7. 硝子
  8. 梯子
  9. 慟哭
  10. 邯鄲

[Level 2]

  1. 御伽噺
  2. 茉莉花
  3. 独楽
  4. 騙り
  5. 嗚咽
  6. 元結
  7. 黒白
  8. 此処
  9. 気障
  10. 堅気

[Level 3]

  1. 彷徨う
  2. 不埒
  3. 今生
  4. 飛礫
  5. 梃子
  6. 抗う
  7. 衆生
  8. 女衒

[Level 4]

  1. 寿歌
  2. 澪標
  3. 経衣
  4. 羅刹天
  5. 輾転反側

[Level 5]

  1. 疾う
  2. 捩る
  3. 白闇
  4. 馬喰
  5. 尨毛
  6. 糸遊
  7. 谷地眼
  8. 身柱元

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初めての再々演――夜会Vol.17「2/2」

今日6月1日、でじなみからの号外メールを開くと、

中島みゆき 夜会Vol.17「2/2」

という文字列が目に飛び込んできた。

スケジュールは、今年2011年11~12月に東京公演、来年2012年2月に大阪公演とのことだ。

キャストや曲目などの内容詳細はまだまったく不明だが、タイトルから判断する限り、Vol.17は夜会で初めての「再々演」ということになる。

「2/2」は、約分すれば「1」である。

しかし、「2/2 = 1」 という、数学的には自明の等式が成り立たないという不条理――このタイトルは、この上なくシンプルに、その不条理を表現していたように思う。

今を去ること16年前、1995年のVol.7「2/2」は、それまでの基本的に既発表曲から構成されていた夜会のスタイルを脱し、基本的に新曲のみによって構成されるという――現在に至る――スタイルを初めて採用した。その意味で、大きな転換点になった公演である。

また内容的にも、「誕生」ないし「再生」 という――近年の夜会につながる――基本的テーマを明確に前面に打ち出したという点でも、重要なステップとなる演目だった (そのことについては、当時、活字媒体の同人誌の記事に書いた)

そしてその翌々年、1997年の夜会Vol.9は「2/2」の再演となった。夜会で同一演目の再演がおこなわれたのも、この時が初めてのことだ。

その後、夜会は1998年のVol.10「海嘯」で毎年末の定期公演という形式を終え、

  • 2000年11-12月 Vol.11「ウィンター・ガーデン」
  • 2002年11-12月 Vol.12「ウィンター・ガーデン」(再演)
  • 2004年1月    Vol.13「24時着 0時発」
  • 2006年1-5月   Vol.14「24時着00時発」(再演)
  • 2008年11月
    -2009年2月   Vol.15「~夜物語~元祖・今晩屋」
  • 2009年11-12月 Vol.16「~夜物語~本家・今晩屋」(再演)

と、新演目→再演→…というサイクルを3度にわたり繰り返してきた。

このサイクルに従って、Vol.17はまた新演目になるだろうと予想したのは、おそらく私だけではないだろう。

が、この予想は見事に覆されたわけである――。

これまでの夜会の再演では――初演からわずか1年弱の間隔しかなかった「本家・今晩屋」はやや例外として――初演から2年後に再演された「2/2」「ウィンター・ガーデン」「24時着00時発」はいずれも、初演時とはキャスト、曲目、演出等にかなり重要な変更が施されていた (その意味では、「再演」という表現は厳密には正確ではないと言うべきかもしれない)

ましてや今回は、1997年のVol.9から14年という、これまで4回あった再演よりも、遥かに長い時間を隔てての「再々演」である。

Vol.17「2/2」にどのような新たな展開が用意されているのかは、予断を許さない。

なお蛇足ながら、個人的事情をあえて語れば、Vol.7/Vol.9の「2/2」にはいずれも――ちょうど子育て真っ最中の時期だったというのが最大の要因で――出かけることが叶わなかった。今回の再々演は、その意味では非常にありがたい。

が、上記のように新演目を予想していた私としては、現時点では、いささか肩透かしを食わされた感が否めないというのも正直なところだ。

中島みゆきが、どんな風にこの肩透かし感を――これまでの再演でもそうであったように――いい意味で裏切ってくれるのか――。

まずはそれを大いなる楽しみに、初日までの半年を待ちたい。

神話の解凍――『ウィンター・ガーデン』再考

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「神話する身体」

少々季節外れの話題になってしまうが、先日たまたま今年度の某国立大学の入試 (二次試験) の国語の問題を見ていて、能楽師・安田登氏の「神話する身体」という文章が目にとまり、とても興味深く読んだ。

出題部分を要約すると、おおむね次のような内容である。

新劇の人と一緒にやっていると、能との相違点の多さに驚く。

能の稽古の基本は「マネをする」ということで、メソッドは特にない。

それに対して近代演劇はさまざまなメソッドを生み出した。たとえばメソッド演技というものがある。悲しい場面の演技では、自分の体験の中から悲しい出来事を思い出し、これがうまくいくと本当に涙が流れたりする。

ただし、このメソッドには欠点がある。それは、役者の人生経験が演技の質を左右し、自分の人生経験以上の演技はできないということだ。

能では、稽古でも本番でも、解釈したり気持ちを入れたりはせずに、ただ稽古された通りの型を忠実になぞる。

が、師伝のとおりちゃんとできると、お客さんはそこに立ちあがってくる「何ともいえない感情」に心動かされる。それは、いわゆる演劇的な感情表現ではない。

[人間の] 「ココロ」の特徴は「変化すること」だ。昨日はあの人が好きだったというココロが、今日は違う人に移っている。しかし、能で立ち上がってくる感情は、そのようなころころ変化するココロではない。

対象がある「ココロ」は変化するが、そのココロを生み出す「思ひ」は変化しない。能で立ち上がってくるのは、この「思ひ」だ。

「思ひ」は演者の個人的な体験などは優に超越している。それが型によって実現される。

古人は舞や謡の「型」の中に、言葉にはできない「思ひ」を封じ込めて冷凍保存した。それは私たちの身体に眠る神話そのものである。神話というアイコンは、身体によるクリックを待っている。舞歌とは、その神話を目覚めさせ、解凍する作業である。

いささか長い紹介になってしまったが、中島みゆきの夜会VOL.11/12「ウィンター・ガーデン」 (2000年/2002年) の舞台に接したファンの方なら、私がこの文章に強い興味をひかれた理由を、直感していただけるのではないだろうか。

「ウィンター・ガーデン」では、その物語の舞台である、凍原に立つ GLASSHOUSE ――その傍らに立ち、そこに暮らした者たちをじっと見つめつづけてきた槲の〈樹〉の役を、能楽師/能役者が演じた (VOL.11では佐野登/波吉雅之/渡邊他賀男のトリプルキャスト、VOL.12では佐野登)

ちなみに、上記の文章の著者、安田登氏は、少し検索してみると、佐野登氏や波吉雅之氏とも何度か同じ舞台に立っているようだ。

私は、能――に限らず、日本の古典芸能一般――に関しては、恥ずかしながらまったく不案内な人間である。

また、中島みゆきが、『ウィンター・ガーデン』の上演当時のインタビュー等で、能楽師/能役者を共演者に招いた理由や意味について何か語っていたのかどうか、私は寡聞にして知らない。

が、上記の文章は、その理由や意味を考えるうえで、きわめて重大なヒントを与えてくれるような気がする。

この記事では、そのことを手掛かりにしつつ、『ウィンター・ガーデン』の舞台の記憶を辿りながら、上演から早や10年ほどが経つこの夜会の意味について再考してみたい。

 

「自然」と人間の生

『ウィンター・ガーデン』は、これまで16回にわたって上演されてきた夜会の中でも、おそらく最も特異で実験的な舞台である。

  • 台詞に代えて、約50篇もの詩を用いた朗読劇というスタイル
  • 中島みゆきが、普通の意味での物語の主役である〈女〉ではなく、最初は脇役のようにもみえる〈犬〉を演じたこと
  • そして上述のとおり、能楽師/能役者が共演者として招かれ、〈樹〉としてキャスティングされたこと

以上の3点だけをみても、他の14回の夜会には例をみず、この舞台の特異性が明らかに際立つ。

しかもVOL.11/12は、DVD「夜会の軌跡」に収録された数曲を除き映像化されていない。唯一の公式資料である詩詞集『ウィンター・ガーデン』 (幻冬舎) という手掛かりはあるにせよ、直接に舞台を観た者でなければ、きわめて全貌がつかみにくい。その意味でも、謎や神秘に包まれた夜会でありつづけている。

 

しかしそうした特異性の一方で、VOL.11/12『ウィンター・ガーデン』は、 それにつづくVOL.13/14『24時着0/00時発』、 VOL.15/16『~夜物語~元祖/本家・今晩屋』とともに、 明らかに「転生」を中心的なモチーフとした三部作をなしている。その三部作の劈頭をなすという意味でも、『ウィンター・ガーデン』はきわめて重要な作品なのである。

私自身は、VOL.11, 12 それぞれ1回ずつの観賞をしただけであり、10年ほど前のことでもあるので、舞台の細部の記憶は必ずしも鮮明ではない。しかし、その舞台から――とりわけ、初演のVOL.11で――受けた衝撃の核心部分は、今でも色褪せることなく、私の記憶の深層に響きつづけているように思う。

それは、人間の存在の意味が、そのすべてを無に帰すかのような圧倒的な自然――雪と氷におおいつくされた白色と透明の世界――の中で、根底から揺さぶられ、問い直されるという体験がもたらす衝撃である。

 

勤め先の漁協の金を横領し、北限の荒野に立つ GLASSHOUSE を手に入れて、そこでひとり暮らしながら、道ならぬ恋の相手である義兄――姉の夫――がやってくるのを待つ〈女〉 (VOL.11では谷山浩子、VOL.12では香坂千晶)

その GLASSHOUSE で〈女〉を出迎える、先住者の〈犬〉 (中島みゆき) ――かつて GLASSHOUSE の持ち主であった既婚男性とやはり道ならぬ恋に走り、その地を訪れて湖で命を落とした「愛人」の転生した姿である〈犬〉は、前生の記憶を失いながらも、ずっとそこで「誰か」を待ちつづけている。

――彼女たちの愛も哀しみも、希望も絶望も、人間としての心と記憶のすべては、時の流れとともに、雪と氷の世界、白色と透明の世界の中に吸い込まれ、「過去」という透明な層の中に沈んでゆく。

かつて GLASSHOUSE の持ち主が妻に殺害される(?)という惨劇のあった1階が、今は凍原の地下に沈んでいることに象徴されるように、この世界では、「過去」という時間の層は、地上に対する「地下」――地上からは隠された、目に見えぬ場所――という空間的層として沈下し、堆積してゆくのだ。

 

過去を地下へと堆積させてゆく、悠久の「自然」の営み――

その「自然」のいわば代弁者として、繰り返す季節と時の流れの中で、変転してゆく人間の生をその傍らからじっと見つめつづけ、記憶しつづける役目を果たしてきたのが、槲の〈樹〉である。

この「樹」の視点――それは「自然」の視点でもある――は、終盤で朗読される詩「空からアスピリン」に、とりわけ集約的に表現されている。

この辺りでは 空からアスピリンが降るので
すべての痛みの上に アスピリンが降るので
山も谷も真っ白に掻き消されて
……
一生は本当だったのか 嘘だったのか 何があったのか 何もなかったのか
なんにもわからなくなる
……
何を哀しんでいたのだろう 何を痛んでいたのだろう

この辺りでは 空からアスピリンが降りしきるので
すべての痛みの上に アスピリンが降りしきるので

変わりゆく人間の心が生み出す哀しみも痛みも、そしてその繰り返しとしての一生も、すべてを癒し鎮めるアスピリン――純白の一面の雪によって浄化され、忘却されてゆく。

能楽師・佐野登による朗読――VOL.11を私が観賞したのは千秋楽で、その公演での〈樹〉のキャストは、VOL.12と同じく佐野氏であった――は、一切の演劇的感情移入を排して客観的に、ゆっくりと穏やかに、この詩を語ってゆく。

そしてそれゆえにこそ、この詩は限りないやすらぎと優しさをもって、私の胸の奥底に響いた。

ちなみにこの詩を〈樹)が朗読するのは、VOL.11では〈犬〉の前生の記憶――湖で最期を遂げるまで――が再現され、中島みゆきと谷山浩子のデュエットで「記憶」が歌われた後である。

しかし再演のVOL.12では、この詩はより終盤、〈女〉が義兄から電話で別れを告げられ、グラスハウスが氷の中に沈んでゆく場面、中島みゆきが義兄の視点で歌う新曲「氷を踏んで」につづき、ロックバージョンにリアレンジされた「六花」を歌った後に移されている。

VOL.11とVOL.12の差異について論じるとあまりに煩雑になるので、その詳細についてはこの記事では省略するが、この「空からアスピリン」の位置づけの変更に関しては、明らかにこの詩の意味――雪という「自然」による、哀しみや痛みの浄化――が、物語全体の中でより重きをなすように意図されている、とみることができる。

この詩の意味が、さらに終盤で歌われる「粉雪は忘れ薬」によって、反復・強調されていることは、言うまでもない。

 

空からの/空への「透きとおった手紙」

前節で述べたように、『ウィンター・ガーデン』の世界では、「過去」という時間的層は、「地下」という空間的層として表象されている。

だとすれば「未来」は――そう、地下とは逆の垂直軸の上方、「天空」として表象されるのだ。

 

『ウィンター・ガーデン』の物語は、通常の意味では――〈女〉にとっても〈犬〉にとっても――決してハッピーエンドの物語ではない。

彼女たちの望みが現生で叶えられることは決してない――〈女〉がグラスハウスで待ちつづけた義兄は決してそこを訪れることはなく、すべての過去を記録した帳簿を持ち出し、自らの罪を暴露しつつ彼に復讐を遂げようという絶望的な試みも成就することはなく、結局彼女は、〈犬〉の前生と同じ運命――雪と氷の世界の中で最期を遂げるという運命――を辿ることになる。

しかし、『ウィンター・ガーデン』は――『24時着0時発』や『今晩屋』とまったく同じく――最終的には、「救済」の物語である。

ここで救済されるのは――冒頭の文章での安田登氏の言葉を借りれば――対象によって変わってゆく人間の心ではなく、その心を生み出す根源にあるものとしての、変わることのない「思い」である。

そしてこの救済は、垂直軸の上方としての「未来」=「天空」の方向から、もたらされる。

VOL.11での、〈犬〉が天使の階段を登ってゆこうとしながら「粉雪は忘れ薬」を歌うラストシーンは、VOL.12では、〈犬〉と〈女〉が天空近くの槲の樹の枝に腰掛け、手を携えて「記憶」を歌うラストシーンへと変更されていたが、いずれにせよ、天空からもたらされる救済という結論を強調していることには変わりはない。

 

この天空と地上――未来と現在――とをつなぐメディアは、「雪」である。

「雪」は「自然」の使者として、人間のすべての哀しみと痛みを鎮め浄化する「アスピリン」、「忘れ薬」として、この地上に降り積もる――それはすでにみたとおりだ。

しかし、それと同時に「雪」は――中島みゆきが詩詞集『ウィンター・ガーデン』の「まえがき」で、物理学者・中谷宇吉郎博士の言葉を引用して述べているとおり――「天から送られた手紙」でもある。

広い空の上では 手紙がつづられる
透きとおる便箋は 六つの花びらの花

「六花」のこの詩節で歌われる「透きとおる便箋」としての「雪」のイメージは、さらに (VOL.12では終曲となった) 「記憶」の最も印象的な次の詩節へとつながってゆく。

1人で生まれた日に 誰もが掌に握っていた
未来は透きとおって 見分けのつかない手紙だ

――もちろん「記憶」では、直接に「雪」のイメージが歌われているわけではない。しかし、ここで歌われる「未来」という「透きとおった手紙」が、「雪」という「天から送られた手紙」の、より純化されたイメージであることは明らかだろう。

地上と天空――現在と未来――とを往還する、この「透きとおった手紙」に書かれているのは――再び、安田氏の言葉を借りれば――変わりゆく人間の「心」の根源にあるものとしての、変わることのない、そして言葉にはならない「思い」である。

だからこそ、その手紙の文面は「透きとおって」読み取ることができないのだ。

 

それらの「思い」の基層は、過去の中にある。

「記憶」に歌われているとおり、人間は、過去/前生の記憶を忘却するほかはない。

しかし、忘却するということは、消滅するということではない。変わりゆく「心」は消滅したかにみえても、その根源にあった、変わらぬ「思い」は消滅しない。

『ウィンター・ガーデン』の舞台が、水の上、あるいは氷の上に浮かぶ湿原に設定されている理由は、ここにある。地下に沈んでゆく過去の層は、しかし永遠に光の届かない暗黒の中にではなく、水/氷の透明な層の中で、いつか再び、光を当てられる日を待っている。

――「大切なものから順にみんな 氷室に隠されてしまう」 (「氷室守」) としても、氷室に隠された「大切なもの」はいつか再び必ず、氷室守の手によって明るみに出される時を待っているのだ。

だからこそ、「転生」は「救済」へとつながってゆくことができる――

 

「空鏡」に映るもの

以上のように『ウィンター・ガーデン』を振り返ってみれば、この記事の冒頭で触れた問い――中島みゆきがこの舞台の共演者として、能楽師/能役者を招いた理由や意味――も、すでに明らかだろう。

「転生」と「救済」の物語としての夜会――この2つのモチーフは、VOL.10以前の夜会でもたびたび予示されてはいたが、VOL.11以降、中心テーマとしてはっきりと前面に出ることになる――を紡いでゆくためには、演者個人の人生経験に制約された演劇的表現だけでは不十分だった。

――そのためには、個人の人生経験を超えた表現、すなわち変わってゆく心の基層にある、変わることのない「思い」を表現しうる形式が必要だった。

そのような表現形式として選ばれたのが、「能」だった――ということだ。

『ウィンター・ガーデン』でこの挑戦に成功することによって、中島みゆきは、「24時着0時発」を経て「今晩屋」へとつづく、「転生」と「救済」の物語をスタートさせることができた――とみることができるかもしれない。

 

VOL.16までの夜会を観た現在の視点から振り返ってみると、改めてクローズアップされてくるのは、『ウィンター・ガーデン』の基本的な世界観を表現する詩である「凍原楼閣」、とりわけ次の詩節である。

そびえるのは空鏡
望みの意味を解き明かす

この詩は、VOL.11の舞台では朗読されることなく――同じ題名のインストルメンタル曲として演奏されはしたが――公演パンフレットの最後に、第50番目の詩として収録されていた。が、VOL.12では歌詞付きの曲として、杉本和世によって歌われた。この歌唱での、とりわけ「空鏡」の部分の透きとおるような高音は、今も私の耳にはっきりと残っている。

すでにみたように、『ウィンター・ガーデン』における「空」とは、「未来」の表象である。

「未来」へと向けられた人間のすべての「望み」の意味を解き明かす「空鏡」――このイメージは、「今晩屋」の終曲「天鏡」に、直接につながってゆく。

その鏡は 人の手には 触れることの叶わぬもの
その鏡は 空の彼方 遥か彼方
涙を湛えた瞳だ

人の手が触れることの叶わぬ、空の遥か彼方にある「鏡」――

――「神話」とは、その「鏡」に映し出される、世界の始原から遥かな未来へとつながる永遠の旅路を、そしてその中で無限に受け継がれてゆく「思い」を、紡ぎつづける物語である。

『ウィンター・ガーデン』は、そのような意味での「神話」を解凍し、夜会という形式を借りて、この現代によみがえらせたのだ。