永遠の嘘をついてくれ

NHK BSハイビジョンの再放送で、中島みゆきが「吉田拓郎&かぐや姫 in つま恋2006」に飛び入りで登場して「永遠の嘘をついてくれ」 を歌ったときの映像を久しぶりに観た。

このライブについては、(中島みゆき自身のコンサートツアー2007でのMCも含め) 既に多くのことが語られているが、個人的に思い出すことを二つほど記しておきたい。

まず、私自身はこのライブに (当然というか、残念ながらというか) 接してはいないが、たまたまつま恋のその場にいたという知人の感想を聞く機会を得た。

拓郎ファンの先輩に連れられてつま恋に行ったという彼は、中島みゆきがステージに登場した瞬間、あたかもそこに「妖怪」が出現したかのような、異様などよめきを体感したという。

拓郎・かぐや姫とそのファンたちが、1975年のつま恋の伝説的ライブ以来、約30年ぶりに共有した時空間。

「永遠の嘘をついてくれ」は、まさにその「再会」への、中島みゆきからの――言葉の本来の意味での――オマージュだった。そのことの意味を、彼も含めて、その場にいた人びとは一瞬のうちに直感したのだと思う。

TV映像からも、そのときの中島みゆきの圧倒的な存在感の何分の一かは伝わってくる。とりわけ視覚面では――これはむしろライブで直接には経験できないメリットとして――ハイビジョンの鮮明な映像で、彼女の豊かな表情のディティールがわかるのがうれしい。

もうひとつは、もっと個人的な記憶である。

このライブがおこなわれた2006年9月23日の直後、たまたま私は香港に出張していた。

香港は、1995年5月、中島みゆきの今のところ唯一の海外公演 (LOVE OR NOTHINGツアーの番外編) が開催された地である。その当時、私は――新婚早々という立場にもかかわらず(^^;)――香港まで追っかけて、このコンサートに参加した。そのときの詳細は、同人誌の記事に書いた。

不思議な暗合に思えたのは、2006年9月、このつま恋ライブの映像を、香港のホテルでPCで (YouTubeで) 観たことである (その頃は最近のような高画質ではなく、かなり解像度の低い映像ではあったが)。

その時点から11年前の当地でのコンサートの記憶をも思い起こしつつ、ほぼリアルタイムの日本での映像をインターネットを通して、旅先の香港で観ているという事実に、不思議な時空感覚を覚えた。

仕事を終えた出張の最終日、私は当時を懐かしみ、香港島を望む海岸にあるコンサートホールを訪れた。

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1995年、中島みゆきコンサートの会場となった香港文化中心

その頃 (というか今もそうだが)、私は仕事でもプライベートでも、色々と困難な問題に直面していたが、

永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと

という一節は、一瞬のうちに、今自分がいる場所を (そのさまざまな困難をも含めて) 遥か上空から俯瞰し、そして遥か遠くを見はるかす視点へと自分を浮上させてくれたようにも感じた。

繰り返しになるが、「永遠の嘘をついてくれ」は、吉田拓郎への、彼の歌を聴きつづけた世代への――そして、その世代が「一度は見せてくれた夢」への――オマージュともいうべき作品である。

ライブという非日常の時空は、まさに「一場の夢」であるがゆえに、数十年の時を超えて、その「夢」を再生してくれる。

しかしそれは、ライブが幕を閉じ、オーディエンスたちが家路に就けば雲散霧消してしまうような、ノスタルジアの対象でしかないのだろうか――

「永遠の嘘をついてくれ」を吉田拓郎に提供した1995年――奇しくも、上述の LOVE OR NOTHINGツアー香港公演の年――当時のインタビューの中で中島みゆきは、この曲について、

事実に対する嘘はつかなければならない場合もあるが、
真実に対する嘘はついてはならない

という意味のことを語っていたように記憶している。

「真実に対する嘘」をつかないためにこそ、「永遠の嘘」をつきつづけることを諦めない人々へのリスペクト――

そのことこそ、一期一会ともいうべきこのライブに、中島みゆきが託したメッセージであるようにも思うのである。

「ホームにて」あれこれ (2)

「ホームにて」という曲を初めて耳にしたのは、30年ほど前の学生時代、かの伝説の名ラジオ番組「中島みゆきのオールナイト・ニッポン」でのことだった。

この曲は、彼女の他の有名曲と同様に、リスナーからの葉書のコーナーでしばしばBGMとしてネタにされ、冒頭のあの切々としたヴォーカルが流れると、みゆき自身、

私、これを歌ってる人と同一人物とは、自分でも信じられないんですけど・・・(笑)

などと、やや照れ隠し気味にしゃべっていたのを思い出す。

中島みゆき自身にとっても「ホームにて」はお気に入りの曲のひとつなのか、ライブでもたびたび歌っている。最近では、 CONCERT TOUR 2007 での歌唱が記憶に新しい。あの時の、懐かしくたゆたうような繊細な歌も素晴らしかった (ライブDVD「歌旅」には残念ながら収録されていないが、ライブCDで聴くことができる)。

彼女は、基本的に「ライブの人」という印象が非常に強い。レコーディングされた歌に比べて、たとえ歌唱の完成度に問題があろうとも――さらに、彼女のライブでは決して珍しくないことだが、派手な歌詞間違いをやらかそうとも(^^;)――それでもライブでの歌のほうが、ほとんどの場合、遥かに感動的に迫ってくる。

 

ただ、「ホームにて」だけはその数少ない例外といってよい。

この曲に関する限り――上記の2007年ツアー版もさることながら――私にとって最も懐かしいのは、やはり1977年のサード・アルバム「あ・り・が・と・う」に収録されているオリジナル・バージョンなのである。

それは、このレコーディングでの中島みゆき自身のヴォーカル――故郷への遥かな想い、心の震えのすべてを、この上なくきめ細やかな表情とともに切々と伝えてくる歌声――によるところが、もちろん最も大きい。

が、そのヴォーカルをさりげなくサポートするシンプルで美しいアレンジも、この曲を語るときには欠かせない。 ( (1)でも触れた) アコースティックギターの弾き語りで始まり、やがてパーカッションとベースが控えめにリズムを刻み、そして2番の後半になると、ヴァイオリン、ついでチェロが、ヴォーカルに優しく優しく寄り添うように、懐かしさに満ちた歌を歌う。

「ホームにて」の編曲者である福井崚という人の名前を、私は中島みゆきのアレンジャーとしてしか知らないが、彼女の初期の、まだフォーク色が濃かった頃の素朴なサウンドの魅力は、この人に負う部分がとても大きかったのだと、今にして思う。

 

というわけで、「ホームにて」は、数ある中島みゆき作品の中でも、昔から私のとりわけ好きな曲のひとつでありつづけている。

が、今からちょうど2年前の年末頃、たまたまネット上で、この曲の魅力を再発見する機会があった。

それは、ニコニコ動画で、ヴォーカロイド・初音ミクに中島みゆきを歌わせた作品をあれこれ検索していていて、見つけた「ホームにて」である。

まるで田舎から都会に出てきたばかりの年端もいかぬ少女が歌っているかのような(?)、少し舌足らずなミクのヴォーカルも、これはこれでけっこう雰囲気がある。

それに何より、ニコニコ動画特有の画面に流れるコメント群を眺めていると、見知らぬ多くの人々がこの曲に寄せるさまざまな思いを垣間見るようで、思わず共感させられたりもする。

コメントの中にもあるように、初音ミクが歌う中島みゆきも玉石混交ある中で、これは間違いなく秀逸な作品だと思う。

 

大阪で生まれ育った私にとって、「ホームにて」に歌われているような、現実の生活の場としての都会と、鉄路の果ての故郷とのあいだの遥かな距離――青い空だけがその架け橋となっている距離――は、まったく空想上のものでしかない。

それでもこの歌を聴くとき、「走り続けたホームの果て、叩き続けた窓ガラスの果て」にある「ふるさと」のイメージは、現実の記憶よりも遥かに遥かに痛切な懐かしさで、私をいざなうのだ。

「ホームにて」あれこれ (1)


前の記事に引きつづき、もう少し鉄道がらみの話題を。

JR東日本が、その名も「ふるさと行きの乗車券」という、東北・信越方面への帰省向けの割引切符を発売している。同社のサイトで、中島みゆきの「ホームにて」が流れるラジオCM (Ch.4のボタン) を聴くことができる。

関西人である私にはそれを購入・使用する機会はまずないのだが、昨年、その存在を mixi の知人から教えてもらった。

この切符の商品名は、この曲の2番の最後の、

ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券

というフレーズから取られている (この2行は、エンディングでさらに2回も繰り返される) 。

 

長距離列車が発着する大都市の駅のホームは、これまで数え切れないほどの歌や映画や小説のなかで、「望郷」の物語の舞台装置として用いられてきた。

しかし、中島みゆきの「ホームにて」ほど、望郷という感情が、パターン化された記号を超えて、これ以上ありえないほど痛切かつ透明に、人間にとっての普遍的で根源的な郷愁として昇華されるまでに至った作品を私は知らない。

「ホームにて」の郷愁については、ずっと以前に活字媒体の同人誌に書いた 「異国から EAST ASIA へ――中島みゆきにおける「故郷」の変容――」という記事でも少し触れたことがある。また、都市を象徴する「ネオンライト」の意味については、「灯りが意味するもの」という記事で少し考察した。

鉄道がかきたてる郷愁のイメージという点では、上記のフレーズよりも前、一番の後段と二番の冒頭に繰り返される次のフレーズも、とても印象的で痛切だ。

振り向けば 空色の汽車は
いま ドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰りびとが 笑う

どうせなら切符だけでなく、「空色の汽車」という愛称で、(後述の青色の客車を用いた) 帰省用臨時列車でも運転してもらえれば、などと勝手な願望をJRに対して抱かないでもない。

 

この曲を始めて聴いたときから、「空色の汽車」という言葉で私がもっぱらイメージしてきたのは、青色に塗装された客車列車である。

ここでいう「客車」とは、電車やディーゼルカーとは異なり、自らは動力を持たず、もっぱら機関車によって牽引される旅客用車両のことだ。

客車列車といえば、近年、「ブルートレイン」と呼ばれる寝台列車の度重なる廃止が、それらへの鉄道ファンのノスタルジアとも絡めて何度もニュースに取り上げられたことが記憶に新しい。しかし、青色の客車は必ずしも寝台車だけではなく、旧国鉄の12系客車14系客車など、座席車もかつては多く存在し、急行あるいは特急列車として、日本の各地を結んでいたのだ。

「灯りともる窓の中では 帰りびとが笑う」というシチュエーションにぴったりくるのは――これは多分に私の主観が入っているだろうが――寝台車よりもむしろ座席車のほうである。さらにいえば、かつての急行型、乗客が向かい合わせに座る、ボックスシートの12系客車が最もふさわしい。

 

また、やや蛇足ながら、ここでいう「汽車」は、必ずしも蒸気機関車 (SL) が牽引する列車を意味するわけではない。

この曲を収録したアルバム「あ・り・が・と・う」がリリースされた1977年にはすでに、SL牽引の定期列車は、日本の鉄道からは完全に姿を消していた。ちなみに、SL旅客定期列車のラストランは、1975年12月14日、C57が牽引し、北海道・室蘭本線を走った列車だということである (『鉄道ファン』2001年7月号による) 。1975年は、奇しくも、中島みゆきのデビューの年である。

しかし「汽車」という言葉は、SLが郷愁の対象となった後も、長距離の旅客列車を一般に意味する言葉として――おそらく中島みゆきも含めて――一定の年代以上のひとびとのあいだで長く用いられてきたものと思われる。ちなみに、「汽車」という言葉は「ホームにて」以外にも、「踊り明かそう」「03時」「さよならの鐘」など、中島みゆきの初期の作品にしばしば登場する。

いずれにせよ、「空色の汽車」のイメージの中心が、機関車ではなく、「窓の中では 帰りびとが笑う」客車のほうにあるのは間違いないだろう。

 

少々細かい話になってしまった。「ホームにて」の内容に話を戻そう。

「空色の汽車」と、「空色の切符」。

なぜ、 汽車の色も切符の色も――「青色」とか「ブルー」とかではなく――「空色」なのか。

それは、その色こそは、いまこの曲の主人公が暮らす都会の上から、鉄路の彼方の――しかし、そこに辿りつくことの叶わない――「ふるさと」の上へと遥かにつづいているはずの「空」の色だから、なのではないだろうか。

だから、都会と「ふるさと」とを結ぶ汽車と切符とは、やはり都会と「ふるさと」とをつなぐ遠い架け橋としての「空」の色でなければならなかったのではないだろうか。

 

中島みゆき自身が弾くこの曲のイントロ、アコースティックギターのアルペジオで、1弦の高音と6弦の低音とが2オクターブを隔てたまま平行して、G→F#→E (実音では B♭→A→G) と下降していくのが、初めて聴いたときから、とても印象的だった。

私自身、かつて中島みゆきの曲を弾きたくてアコースティックギターに手を出した頃、このイントロを何度も弾こうとして、なかなかきれいなハーモニーを出せずに苦労したことを懐かしく思い出す。

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2オクターブを隔てて響きあう1弦の高音と6弦の低音は、「ふるさと」に向かって遥かな高みに広がる空と、「ふるさと」へとつながるレールが敷かれた地上とを、それぞれ象徴していたようにも思う。

空とレールとが出会う地平線――さらにその彼方に、「ふるさと」はあるのだ。

少し長くなってしまったので、この記事は(2)に続けることにしたい。

耳から歌、眼に車窓風景

私はそれほど熱心な「鉄ちゃん」というわけではないが、子どもの頃からの鉄道好きを、ゆるゆると引きずりながら現在に至っている。

せいぜい、旅行先で乗った列車の写真を (コンデジで) 撮ったり、ときどき鉄道関係の本を手に取ったりする程度ではあるが。

先日、そんな本の一冊、宮脇俊三のエッセイ『旅の終りは個室寝台車』を読んでいると、 「飯田線・天竜下りは各駅停車」というくだりの中にこんなエピソードが目についた。

同行する編集者・藍孝夫氏が車内でウォークマンで聴くために持ってきた 中島みゆきのカセットテープ (自作ベスト) を、「ちょっと聴いてみませんか」と、 宮脇氏も聴かされる羽目に。

藍氏は、「これは人気のある曲ですが、すこししつこいという人もいます、いちばん好きなのは最後の曲です」などと一曲ずつ宮脇氏に解説する。

ふだん列車の中で音楽など聴くことはないという宮脇氏の、次のような感想はなかなか興味深い。

女は「今夜だけでもきれいになりたい」と唄い、飯田線は伊那谷を走る。……
耳から歌、眼に車窓風景、尻からは線路の振動、いわば超総合芸術で、
それなりに面白くないこともなかったが、テープ一本聴き終わったときは、
少々うんざりした。
「どうですか、中島みゆきのファンになりそうですか」
と藍君が訊ねる。
「大丈夫、ファンにならないですみそうです」
「ああそうですか」

……このあっさりしたオチがなんとも良い。(^^;)

藍氏のいう「人気があるが、少ししつこいという人もいる」曲というのは、宮脇氏も引用している「化粧」のことだったのだろうか。あの泣きながら歌う中島みゆきの声は、初めて聴く人にはかなり衝撃的だろう。

ちなみにこの旅は1982年12月、 「寒水魚」が最新アルバムだった頃なので、藍氏の 「いちばん好きな最後の曲」というのは「歌姫」だったのかもしれない。


ところで私自身は、通勤電車や出張の新幹線の中では、(中島みゆきだけとは限らないが) 携帯オーディオプレイヤーの音楽なしではいられないほうであり、(線路の振動はともかくとして) 音楽と車窓、聴覚と視覚とのハーモニーが、時には思いがけず新たな「意味」を作り出してくれるのを、楽しみにしている。

たとえば先日のこと。

東京への日帰り出張への往路で、新幹線の車窓から、久々に富士山がくっきりと見えた (これを楽しみに、往路はいつも山側の席を取ることにしている)。

トンネルを出た途端、車窓の快晴の空をバックに、広く裾野を引く富士が姿を現したとき、耳に聴こえていたのは「昔から雨が降ってくる」

悠久の時の流れ、生命の流れに思いを馳せるこの歌の世界観と、古来変わらぬ雄大な富士の風景とが、 (歌の世界の雨と現実世界の快晴という表面的な天候のギャップなど超えて) あまりにも見事にシンクロした瞬間だった。

また同じ日の復路、広々とした空に鮮やかな夕焼けが広がる車窓と、イヤホンから流れる「鷹の歌」

人生の黄昏を迎え、老いさらばえようとも、「怖れるなかれ 生きることを」と、その遥かな高みから生を、世界を見晴るかすまなざしを教え、伝えつづける存在。次第に濃くなってゆく夕闇をバックに、そのイメージは私の中でさらに鮮やかになった。

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「龍馬伝」と中島みゆき (2)

「龍馬伝」がとうとう最終回を迎えてしまい、いま自分でも少し意外なほどの虚脱状態の中にいる。

暗殺者の刃に倒れながらなお、 「わしの船は、どんな嵐やち沈まん!」と、世界の海を渡る夢を、ともに倒れた盟友・中岡に叫ぶ瀕死の龍馬。

残された妻・お龍が、太平洋の波が広々と打ち寄せる龍馬の故郷・土佐の浜辺で、 「この海の向こうには、広い広い世界があるがじゃぞ!」と語る彼の姿を幻視するラストシーン。

龍馬にとって海の向こうに広がる世界とは、帝国主義的な権謀術数が渦巻く当時の現実の世界というよりは遥かに、彼が夢見た理想――「みんなが笑うて暮らせる国」――が体現される世界であったに違いない。

そうした夢想家としての龍馬像は、歴史的なリアリティからは多分に逸脱したものであったかもしれないが、むしろそうであるからこそ、現代のわれわれにもなお、彼の夢と志とを受け継がせようとする存在でありつづけているのだ。

前の記事で書いた、中島みゆきの夜会「24時着0時発」の主人公は、自らのささやかな生の幸福を犠牲にすることによって、世界を転轍し、救済へと導く。

それと同じように、――かつての司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や、今回の「龍馬伝」のようなフィクションによる構築を多分に経たものではあれ――坂本龍馬という形象がわれわれにとってもつ魅力の本質は、まさにそのような意味での、 「歴史の転轍手」としての形象にあったのだと、改めて思う。

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