「龍馬伝」と中島みゆき (1)

明日、11月28日にいよいよ最終回を迎える、NHK大河ドラマ「龍馬伝」。

歴史ドラマとしてはいろいろ突っ込みどころもあったかもしれないが、主演の福山雅治を中心に、歴史の大きな転換点に関わりあってゆく人々の群像が、等身大のリアルタイムの感覚で生き生きと描き出されるのを、毎回楽しみに観てきた。

(中島みゆき関係を除けば) これが今年最大の「マイブーム」だったと思う。

少し前の話になるが、第41回「さらば高杉晋作」で、盟友・高杉の死を目前にして、龍馬と妻・お龍 (真木よう子) のあいだに次のような会話が交わされたのを思い出す。

「人はどういて死んでしまうがじゃろか?
天が、おまんの役目はもう終わったと思われちゅうきじゃろか?」

「そうかもしれませんね。
そやかて、人の死というものは終わりだけではないと思います。
その人の役目を・・・志を受け継ぐ者にとっては始まりどすさかい。」

「そうじゃのぉ・・・ そのとおりじゃ!
どんな時も、前に向かわんといかんがじゃき!」

龍馬自身を待ち受ける運命への伏線にもなっているこの台詞は、偶然ではあろうが、中島みゆきの夜会「24時着0時発」を鮮明に連想させた。

「終わり」は、同時に「始まり」でもある。
「その線はゴールも スタートも兼ねてる」 ( 「サヨナラ・コンニチハ」 )

だから、

この一生だけでは 辿り着けないとしても
命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ

と、 「命のリレー」に希望を託して「志を受け継ぐ」ことも可能になるし、さらにそれは、

生きて泳げ 涙は後ろへ流せ
向い潮の彼方の海で 生まれ直せ

という「サーモン・ダンス」の、「どんな時も前へ」向かえ、という力強いメッセージにもつながってゆくのだ。

主演の福山雅治が、 (「24時着0時発」の物語の原型になったともいえる、中島みゆき初期の名曲) 「ファイト!」のカバーをしていることは、みゆきファンなら先刻ご承知だろう。

また、 (龍馬と共に最終回、志半ばで斃れることになる) 中岡慎太郎役の上川隆也も、「熱狂的な中島みゆきファン」だと自ら語っているそうだ。

なんとなく「龍馬伝」と中島みゆきとの不思議な「縁」を感じさせないでもない。

# そういえば、これはネタ話だが、 「龍馬伝」OPのメロディが「うらみ・ます」と似ている
# というのも以前けっこう話題になったような…(^^;)

中島みゆき TOUR2010 初日

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中島みゆきの3年ぶりのコンサートツアー “TOUR2010” の初日、10月24日(日)大阪新歌舞伎座での公演を観た。

舞台の余韻が冷めやらぬ今のうちに、このコンサートについてどうしても書き留めておきたいという思いが抑えきれなくなり、久しぶりのブログ更新をすることにした。

思い出してみれば、中島みゆきのコンサートツアーの初日に出かけるのは、EAST ASIA ツアー (1993年2月21日、かつしかシンフォニーヒルズ) 以来、実に17年ぶりのことだ。

初日ならではの緊張感が早くも客席に高まってくるなか、席に就いた。3階の2列目、中央やや左寄りで、舞台を見下ろすかたちにはなるが、全体を見渡しやすい良席である。

 

定刻18:30に緞帳が上がると、ニューアルバム「真夜中の動物園」の第1曲でもあった「今日以来」のイントロがスタート。ミディアムテンポの引き締まったリズムが、非日常の時空の開始を告げる。

舞台奥へ向けて傾斜がつき、奥へ行くほど狭まっていく、黒っぽい雛壇状のステージ。その上方と左右を、白い枠 (よくみると所々ペンキが剥げている) が額縁のように3重に取り囲む。遠近法を強調したシンプルな構造だ。

ステージの左右にミュージシャンが並び、その中央を、手前から最上段に向けて、白い階段状の通路が一直線に伸びている。その道の先、最上段の舞台背景中央、つまり遠近法の消失点には扉のない出入口が開いているが、その内部は暗く、何も見えない。

純白のスーツに身を包んだ中島みゆきが上手から登場、鮮やかな青のアコースティックギターを抱え、白い道の上に立って、客席正面を向き、歌い始める。軽やかで明るく力強い歌声――

こうして幾度目かの彼女との再会を果たすことができた歓びに、胸が震えた。

 

第2曲「翼をあげて」 、第3曲「愛が私に命ずること」は、いずれもミュージカル「SEMPO」のために提供され、昨2009年のアルバム「DRAMA!」に収録された曲だ。

「SEMPO」は、第二次大戦時、ナチス・ドイツの迫害に追われたユダヤ人たちの亡命を助けるため、本国の命令に反して、日本経由での第三国への出国ビザを発給した日本の外交官、杉原千畝の物語である。この2曲は、劇中では、かれら・彼女ら、逃れゆく民の未来への希望をこめた歌として歌われる。

もちろんそうした歴史的文脈から離れても、苦難と不安のただ中にいても未来への希望を見失おうとはしない人びとの意志と勇気が、中島みゆきの歌声からは、十分に力強く伝わってくる。


コンサートツアーと夜会との再会

さて、今回のツアーは、アルバム「真夜中の動物園」の収録曲が中心になるだろうと予想され、またその予想は必ずしも誤ってはいなかったのだが、それ以上に、良い意味で意外な選曲に何度か驚かされた。まず、次の第4曲である。

記憶の底をかすかに揺するかのように、静かにピアノのイントロが流れ始める。

「二隻の舟」 ――

夜会のテーマ曲であるこの曲がコンサートツアーで歌われるのは、これが初めてのことだ。

夜会の最初の2回 (1989、1990年)にフルコーラスで歌われたオリジナルバージョン、ないしは1992年のアルバム「EAST ASIA」に収録されたバージョンに近いアレンジ。

ミュージシャンのうち、コーラスの杉本和世と坪倉唯子、そしてリズムを支えるドラムの島村英二とベースの富倉安生の4人は、初期の夜会において中島みゆきをサポートしつづけたメンバーでもある。とりわけ、坪倉唯子と島村英二の二人は、中島みゆきのライブにはずいぶん久しぶりの参加となる。

遥かな海をわたってゆく舟のような旋律を揺るぎなく支えつづける、着実なリズムと繊細なコーラスに、このメンバーが揃ってこその「二隻の舟」と感じずにはいられない。

おまえの悲鳴が 胸にきこえてくるよ
越えてゆけ と叫ぶ声が ゆくてを照らすよ

おまえの悲鳴が 胸にきこえてくるよ
越えてゆけ と叫ぶ声が ゆくてを照らす

曲を中間部からラストへ向けてつなげ、転調しながら盛り上がっていくこのフレーズは、オリジナルバージョンと同じように、杉本・坪倉の二人によって受け渡されるように歌われる。情感のこもった絶唱。曲がここに差し掛かると、思わずその頃の夜会にまつわる記憶が私の胸にあふれ、感極まるのを禁じえなかった。

舞台の背景には、曲が進むにつれて、モノクロームの夜会のステージ写真が次々と映し出されていく。

 

「歌を自由にしてやりたい」という中島みゆきの思いを実現させる場として、1989年にスタートした夜会は、演劇的スタイルの導入とさまざまな物語をモチーフとした独自の構成とによって、強いテーマ性とメッセージ性を打ち出しながら、昨2009年のVOL.16「~夜物語~本家・今晩屋」に至るまで、20年間にわたって上演されつづけてきた (夜会のスタートの経緯については、拙稿「物語の物語――折り返し点を迎えた「夜会」によせて――」を参照)

その一方でコンサートツアーは、よりシンプルかつストレートなエンターテインメントとして、そこで演奏され歌われる個々の楽曲と言葉とを通しての、中島みゆきと私たちとの交信・交感の場を提供してきたように思う。

この20年間、夜会とコンサートツアーとは、ライブでの交信・交感の場という点では共通しながらも、その方法論を大きく異にする二つの形式として、いわば「住み分け」られてきたともいえよう。

これまでのコンサートツアーでも、夜会のオリジナル曲が歌われることがなかったわけではない。しかし今回初めて、夜会を象徴するテーマ曲「二隻の舟」が歌われ、しかも共演ミュージシャンの再現やステージ写真の投影という演出がなされたことは、これまでと違った大きな意味をもつ。

この「二隻の舟」で初めて、コンサートツアーと夜会という二つの場は、「住み分け」を超えて、「再会」を果たしたといえるのではないか――


言葉とビジュアル――演劇的スタイルの再導入

コンサートツアーと夜会との「再会」は、夜会スタート以後のコンサートツアーにはあまりみられなかった演劇的スタイルが、 (MCとは明確に区別される) 台詞の導入や、ビジュアル面での演出を中心に、今回は随所に配されていることにも反映しているように思う。

まず、大きな時間的枠組として、コンサートツアーでは初めて、中間に休憩(15分)が設けられ、全体が実質的に第1幕と第2幕に分けられたことが重要だ。

これによって、第1幕のラストに向けての流れ、そして第2幕の開幕から始まる新たな流れが生まれてくる。

 

第1幕、第5曲の「サバイバル・ロード」で、中島みゆきは (同じく初日を観た知人女性いわく) 「ひらひらした雪の精のような」 白い衣装を身にまとい、脚を少し開いて立ちながら正面を見据え、微動だにしない姿勢で力強く歌う (ここを初めとして、中島みゆきの立ち姿の凛とした美しさ、そして表情の真摯さには、何度も強く印象づけられた)。

このとき、彼女が立つ舞台中央の白い通路が、まさにまっすぐに伸びるサバイバル・ロードのように鮮やかに照らし出され、曲の意味がビジュアルに再現される。ここで、今回の遠近法を強調した舞台装置の役割も理解されてくる。

 

「サバイバル・ロード」を歌い終えた中島みゆきは、白い通路の中央に静かに立ち、腕時計に視線を落として、時間を読む。

「19時XX分XX秒……XX分XX秒……」

そして、駅の時刻表を見上げるかのように彼女がすっと視線を上方に向けると、エレクトリックピアノのコードが、時の流れを刻むかのような静かなイントロを奏で始める。この曲の世界への見事な導入だ。

(中島みゆきが時間を読む場面で客席から少し笑いが漏れたのは計算外だろうが、それは、コンサートツアーでこうした演劇的スタイルが用いられることが、多くの聴き手にとって予想外だったためでもあろう。) 

第6曲「時刻表」は、懐かしい曲である。しかし、無数の人々が行き交う大都市という背景に、前曲「サバイバル・ロード」からの意味のつながりをも同時に感じさせる。

 

「時刻表」が終わると、コンサートツアー恒例の「お便りコーナー」がはさまる。ここはそれ自体は、かつてのラジオDJのスタイルを再現した軽い息抜きの時間には違いないのだが、同時に次の第7曲 (第1幕ラスト) への伏線をも兼ねていることに注目したい。

静かなハーモニカの音のイントロで始まる、第7曲「夜曲」。これも懐かしい曲だ。

月の光が 肩に冷たい夜には
祈りながら歌うのよ
深夜ラジオのかすかな歌が
あなたの肩を包みこんでくれるように

ここでおそらく、多くの (私も含めて、一定の年代以上の) ファンは、「中島みゆきのオールナイトニッポン」を、そしてその最後にたびたびかかったこの曲を思い出すだろう。都市の夜景を思わせる美しい照明。大都市という背景は、前曲からさらに引き継がれている。

曲がエンディングを迎えるとともに、その夜の番組が終了するかのように、第1幕の緞帳が降りる――


休憩をはさみ、第2幕の緞帳が上がるとともに、時を告げる鐘の音が静かに鳴り始める――22, 23, 24――深夜、24時 (なお、アルバム「真夜中の動物園」では、この鐘の音の回数は半分の12回だった) 。

第8曲「真夜中の動物園」

薄暗い舞台。中央の通路の奥の最上段近くに、鮮やかなピンク色の巨大な鳥 (フラミンゴ?) のような不思議な衣装に身を包んだ中島みゆきが、顔を下手側に向けて右膝をつき、タイツを穿いた左脚を露わにした姿勢で歌い始める (アルバム「DRAMA!」のジャケット写真の姿勢でもある) 。

頭にも尻尾にもカラフルな羽根がついたその衣装を揺らしながら、ゆっくりと踊るように、彼女は通路を客席側に降りてくる。

今ではもう無い草原の はるか彼方から
滅びた群れが 連なってやって来る
Dada・・・・

壮大で幻想的なイメージを喚起するこのリフレインとともに、以後この曲を主導するリズムが、地響きのように鳴りはじめる。CDでは再生不可能な、ライブならではの力強い響きだ。

大地を踏みしめるかのように重々しく、果てしなく繰り返されるこのリズムは、「滅びた群れ」たちの足音なのか、真夜中の動物園に集うものたちの祝祭の響きなのか。

このリズムに乗せて “Dada・・・” と歌われる (歌詞のない) リフレインは、「言葉を持たない命」としての「動物」たちの歌、あるいは彼女ら・かれらと交信するための言葉のように、私たちに迫ってくる。

昨日と明日とのあわいにある真夜中(24時)という時間、そして、遠い過去に別れたはずの「逢えない相手」と再びめぐり逢える場所という、この歌の時空間は、近年の夜会、「24時着0時発」および「今晩屋」の世界とも明らかに共通するものである。

この曲は、これまでの中島みゆき作品や夜会とのそうした関係をも含めて、きわめて重要な意味をもつ作品になるものと思われる。ただ、そのことについては、近いうちに稿を改めて論じることにしたい。

 

第9曲「夢だもの」 、第10曲「しあわせ芝居」 、そして第11曲「銀の龍の背に乗って」は、このコンサートの流れの中では、ほっと息をついて純粋に彼女の歌を楽しめる時間だろう。とりわけ「しあわせ芝居」は懐かしく、かつ意外な選曲だ。

とはいえ、この3曲も、夢から醒めて現実へと帰ったあと、「夢が迎えに来てくれる」のをただ待つことから脱して、新たな夢へと自ら踏み出す――といった、意味の流れを感じさせる。

 

ミュージシャン紹介ののち、中島みゆきは手紙のような紙片を取り出し、歌詞を朗読しはじめる。そしてアカペラのゴスペル風コーラスから、曲がスタートする。第12曲「Nobody Is Right」。

争う人は正しさを説く 正しさゆえの戦争を説く

アルバムでは「争いを説く」と歌われていた歌詞の一部が、「戦争」という、より直接的な言葉に変更されている。それだけ強く差し迫った思いが、中島みゆきの中にあったということなのか。

ここでは、第1幕での「SEMPO」からの2曲のテーマ――「夢をねじる者」「明日を閉ざす者」への怒りと、「今ゆくべき空へ」向かってはばたこうとする意志――が、より切迫したリアルタイムの危機意識として、再提示されているともいえるだろう。

 

ついで、白いタンクトップとブルージーンズという、一切の飾り気のない衣装で再登場した中島みゆきは、青いアコースティックギターを抱え、アップテンポの軽快なリズムに乗り、第13曲「顔のない街の中で」を歌う。前曲からの流れを引き継ぐ、ストレートなメッセージソング。

ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ 顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で

――その道の行く手にのみ、私たちは「道具」ではない「正しさ」を探すことができるのだろうか。


命を超えて続く道へ

つづくMCで中島みゆきは、「としをとるのはステキなことです」という、かつて「傾斜」に書いた歌詞のことに触れ、次のような意味のことを語る。

「あのときはちょっと皮肉な意味で書いて……本当に、歳をとるのは素敵なことかな、そうじゃないことも多いんじゃないかな、とずっと思ってきました。……でも今、もしかしたら、ほんの少しだけど、本当に『歳をとるのは素敵なこと』ってこともあるのかもしれないな、と思っています。」

こう語り終えて、第14曲「鷹の歌」のイントロが静かに始まる。

「鷹と呼ばれていた人」が具体的に誰を指すのかについては、いろいろな想像が可能だろう。それについて私なりの考えもないわけではないが、そのことよりもずっと重要なのは、中島みゆきにとってその人とは、自らの命を超えて、生への揺るぎないまなざしを教え、受け継がせてくれる存在だったのだ、ということだ。

「怖れは消えはしない 生きる限り消えない」 (「翼をあげて」) ――それでも、「怖れるなかれ 生きることを」と、その遥かな高みから、自らの生を、そして世界を見はるかすまなざしを、後に続く者に託すことのできる存在。

この曲を歌っているときの、彼女自身に「鷹の目」が乗り移ったかのような真摯で強烈ななまなざしを、私は忘れないだろう。そのまなざしは、歌詞の意味以上に、はっきりとそのことを語っていた。

 

「鷹の歌」のあとのMCは、客席の聴き手へのメッセージ。「あなたの人生に」と、中島みゆきが私たち聴き手ひとりひとりへの拍手を贈ってくれた。

このとき、初日の客席は、彼女への拍手でそれに応えたが、この応え方が正しかったのかどうかはよくわからない。私自身もそうであったように、中島みゆきと我が身とを引き比べて「自分の安さを恥じる」あまりの照れ隠しとして、拍手で応えるほかはなかったのかもしれない。

しかしそれでも、自らを省みながら、彼女からの拍手に値する存在でありたいと願うことなら、私たちにも可能だろう――

 

さて、本編ラスト曲こそは、最も多くの聴き手にとって、良い意味で意外な選曲だったのではないか。

素朴な、少しクラシカルなデザインのアコースティックギターを抱えた中島みゆきが、澄んだアカペラで歌い始める――第15曲「時代」

彼女の最初期の「出世作」であり、しばしば代表曲としても語られてきたこの曲は、ライブでは長く――1989年の「野ウサギのように」ツアー以来――歌われることはなかった。しかし今回、「鷹の歌」に続けての本編ラストにこの曲があえて選ばれたことには、きわめて強い必然性を感じずにはいられなかった。

今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ

――「鷹の目」から受け継がれた、「命を超えて続くもの」を見出すまなざしこそが、彼女にこのリフレインを再び、より強い確信とともに、歌わせたのではないだろうか。

 

「時代」のエンディングで、中島みゆきは舞台中央の白い道を登ってゆき、一度客席を振りかえり手を振って、最上段中央の戸口から退場する。

この舞台上の白い道は、中島みゆき自身が、そして私たちが、これまで辿ってきた、そしてこれから辿っていくであろう道を象徴しているのだろうか。

喜びと悲しみを、別れと出会いを越え、利害と打算の渦巻く「顔のない街」を、正しさと正しさとが相容れない世界を越え、「越えてゆけ」と叫ぶ声がその遥かな行く手を照らす――やがて「命を超えて続くもの」へとつながってゆくだろう一筋の道――

ステージ最上段中央の出口の向こう側が客席から見えないのは、その道の行く先は、私たちひとりひとりが探すしかないからなのかもしれない。


アンコールの拍手とともに、ミュージシャンたちに続き、中島みゆきが下手から再登場する。赤のタンクトップに白いシャツを羽織り、黒のブーツという、コントラストの鮮やかな衣装。

第16曲「悪女」 は、これもまた懐かしい曲だ。ライブアルバム「歌暦」のアレンジに近い、乗りのいいロックバージョン。コーラスの宮下文一の煽りに、客席も解放感に満ちた手拍子で応える。

 

アンコールのラスト、第17曲「たかが愛」は、少し意外な選曲ではあったが、第1曲「今日以来」と呼応した見事な締めくくりだ。「二隻の舟」のラスト近くの、「風の中で波の中で たかが愛は木の葉のように」という一節も思い出される。

主旋律ではなく高音のコーラスパートを歌う最後のリフレインで、思いのすべてをこめて、どこまでも強く、果てしなく伸びていく声――

たかが愛に迷い そしてたかが愛に立ちどまらされても
捨ててしまえない たかが愛

――そのようにして「愛したがり」になること、「愛が私に命ずること」にためらないなく、戸惑うことなく従ってゆくこと――そのことこそが、遥かな一筋の道をゆく私たちの歩みを、これからもずっと力づけてゆくのだろう。

 

いつものことながら、中島みゆきのライブ (夜会も含めて) へ行くと、これまで自らが歩いてきた過去を振り返りると同時に、未来へとつづくはるかな道を見はるかし、そしてその俯瞰的な視点から、時間軸上の1点にしか過ぎない――日常的なあれやこれやに一喜一憂している――現在の自らの姿を再発見して、目が醒めると同時に励まされるような、不思議な感覚を味わう。

今回のツアーはとりわけ、その感が強い。それはおそらく――懐かしい曲や最新の曲、夜会やラジオDJも含めて――中島みゆき自身が歩んできた、そして歩んでゆく道への思いがコンサートを通じてこれまでになく鮮明に提示され、それを客席の私が、自らの「来し方、行く末」への思いと強く重ね合わせることを促されたからなのだろう。

これからあと幾たび、このような思いとともに、私は中島みゆきとの再会を果たすことができるのだろうか。


【曲目】

  1. 今日以来
  2. 翼をあげて
  3. 愛が私に命ずること
  4. 二隻の舟
  5. サバイバル・ロード
  6. 時刻表
  7. 夜曲
    (休憩)
  8. 真夜中の動物園
  9. 夢だもの
  10. しあわせ芝居
  11. 銀の龍の背に乗って
  12. Nobody Is Right
  13. 顔のない街の中で
  14. 鷹の歌
  15. 時代
    (アンコール)
  16. 悪女
  17. たかが愛

【ミュージシャン】

  • 島村英二 (Drums)
  • 富倉安生 (Bass)
  • 古川望 (Guitars)
  • 中村修司 (Guitars)
  • 矢代恒彦 (Keyboards)
  • 中村哲 (Saxophones & Keyboards)
  • 小林信吾 (Conductor, Keyboards)
  • 杉本和世 (Vocal)
  • 坪倉唯子 (Vocal)
  • 宮下文一 (Vocal)
  • 中島みゆき (Vocal)

「本家・今晩屋」 – 演出進行表

[演出進行表 (PDFファイル)

予定より遅くなってしまいましたが、夜会VOL.16「~夜物語~本家・今晩屋」の演出内容、および各曲・場面の解釈について、舞台の進行順に整理した表を作成しました。

  • 主として筆者自身の観賞時の記憶によりますが、友人・知人の方々のコメントや、いくつかのブログ・掲示板等の内容を参考にさせていただいた部分もあります。一人ひとりのお名前や個々のURLを記すことはできませんが、ここに厚く謝意を表します。
  • 記述内容はあくまで筆者の主観に基づくものですので、筆者の責任において、重要な欠落や間違いが含まれている可能性があります。気づかれたら、このブログでコメントいただければ幸いです。

「本家・今晩屋」 – 「元祖」と「本家」

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現在公演中の、中島みゆきの夜会VOL.16「~夜物語~本家・今晩屋」(赤坂ACTシアター)に、11/19(木)、22(日)、23(月・祝)、それに12/5(土)の4回、足を運んだ。

この夜会は、2008年11月から2009年2月にかけて上演されたVOL.15「~夜物語~元祖・今晩屋」の再演である。

再演ではあるが、「本家・今晩屋」は過去の夜会の再演とはかなり性格を異にし、外形的な――キャストや曲目などの――変化の少なさや、初演から再演までの間隔の短さということなどから考えると、これはむしろ2008年11月からつづく「今晩屋」ロングラン公演の後半篇として位置づけるべきなのかもしれない。

とはいえ、演出の細部や歌詞・台詞の一部には、やはりいくつかの重要な変更が施されていることも見逃せない。それらはまさに、「元祖」と「本家」というタイトルの差異が示唆しているとおり、(中島みゆき自身の言葉を借りれば)「隠し味」的な変化というべきなのだろう。

「元祖」のときに私が受けた言葉にしがたい衝撃――それがそもそも、このブログを書き始めた直接の動機でもあったのだが――が、「本家」ではやや薄らいだことは否定できない (それは、過去の夜会の再演でも同様であった)。しかしその代わりに、「今晩屋」という一見謎めいた物語と舞台の細部の意味をより深く玩味し、その魅力の核心に迫ることができたという実感も間違いなくある。

「元祖」との細かい変更箇所のすべてをここで列挙するとあまりに煩雑になるので、それは近日中に作成予定の演出進行表に譲ることとし、この記事では、とりわけ重要と思われる変更箇所を中心として、「本家・今晩屋」の意味するところ、そのメッセージの核心について、現時点での考えと印象をまとめておきたい。

第一幕 「縁切寺」と「公界

「元祖・今晩屋 – 物語の構造 (1)」で考察したように、第一幕の舞台となる「縁切寺」とは、世俗的な世界において人びとを束縛する家族や主従の「縁」から人びとを解き放つアジール(避難所)であり、聖なる異空間であった。

安寿・厨子王たちは、前生において互いに「縁」ある者たちであったがゆえに、転生したのちも、互いへの罪責の記憶に苦しみつづけなければならなかった。「縁切寺」が彼女たちの再会の場となったのは、そこがまさに、苦しみの根源にある「縁」を断ち切る空間であったがゆえである。

この「縁切寺」の役割は、第一幕中盤で、寺の周辺に出没するらしい〈脱走した禿〉(土居美佐子)について、〈縁切寺の庵主〉(香坂千晶)が語る長い台詞――ここが第一幕最大の変更箇所である――に、より明瞭に表現されている。

売られた子どもは 苦界 (くがい) の淵に 禿となって身を沈め
前生 今生 来生と 逃げては戻る籠の鳥
一縷の糸は 縁切りの寺の内こそ 結界の掟によりて
生名を捨てて 身を捨てて 憂き世ばなれとなるほかはなし
……
あと少し あと一足で 縁切りの寺の内にというときに
あの子は憂き世を振り返り 前生 今生 来生と
当てにならない約束を 信じて待って 出るんです

〈禿〉は、あと一歩のところで「縁切寺」という「結界」にたどり着けず、前生の「縁」を断ち切ることができずに、前生・今生・来生のはざまを彷徨いつづけている存在だ、というのである。

「苦界」とは、一般的には遊女の境遇を意味するが、鴎外の「山椒大夫」にも、説経節「さんせう太夫」にも、安寿が遊女として売られたというくだりはない。ここは安寿の転生後の境遇を示すオリジナル設定とみることもできるし、あるいは「苦界」はより一般的に、「苦しみに満ちた (世俗的) 世界」すなわち「憂き世」を意味するとみることもできるだろう。

 

だが、「苦界」は「公界」とも書くことに、ここで注意しておきたい。

「公界」という言葉を人口に膾炙させた歴史家・網野善彦の著書『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』 (初版1978年) によれば、中世の遍歴する職人や芸能民――その中には遊女も含まれる――の世界には、世俗的な所有や支配から切り離されたという意味での「無縁」の関係原理が存在した。「公界」とは、そのような「無縁」の原理に基づく「自由と平和」の空間を意味し、それは近世の縁切寺にも痕跡をとどめているという。

それまで歴史の表舞台には登場することのなかった――それは、かれら彼女たちが近世以降、被差別民として排除されていった歴史と表裏一体をなしている――遍歴する職人や芸能民の世界、いわばそれまでの歴史像においてはネガティブでしかなかった存在をポジティブに反転し前景化させた点に、この研究の決定的意義があるといえる。

網野の研究によって明るみに出された「公界」という言葉のもつ両義性――世俗的世界からの排除と自由という両義性――を参照すれば、〈庵主〉の台詞にある「苦界の淵」は「公界の縁 (ふち) 」と読みかえることもでき、〈禿〉とは、まさにこの両義性の境界線上を漂泊する存在なのだ、とみることも可能であろう。

やがて〈禿〉は、「縁切寺」から転がり出てくる無数の手鞠 (赤白縦縞の紙風船) と戯れながら、その正面階段を自らの足で登り、「結界」に足を踏み入れ、 「憂き世ばなれ」を成就する――「禿は自ら駆け込んで 縁を切らねばなりませぬ」という〈庵主〉の台詞を裏書するように――。この点も、「元祖」での、〈禿〉が〈庵主〉に手を引かれて正面階段を登るという演出からの重要な変更点であり、「結界」としての「縁切寺」の意味を、より鮮明に浮かび上がらせている。

ところで、あの無数の紙風船が何を意味するかについては、「元祖」以来、多くのブログや掲示板でさまざまな解釈がみられたが、私には、あれらは「縁切寺」に駆け込んだ人びとが断ち切った過去の「縁」、あるいは封印された過去の記憶を意味するように思えた。

もしそうだとすれば、やがて紙風船が舞台手前の階段を転がり落ち、奈落へと消えていくのは――この演出は「元祖」でも同様だったが――、第二幕への伏線、すなわち山上の「縁切寺」から水底の「水族館」へという垂直軸の降下を予示していると考えられる (後述するように、この予示は、第二幕に新たに追加された演出によっても裏づけられることになる)。紙風船に封印された過去の記憶は、「縁切寺」の炎上を予知して脱出し、来るべき救済の日を待つための新たなアジールとして、未来の「水族館」に棲み処を移すのではないか。

「縁切寺」が炎上し燃え落ちる「都の灯り」のエンディングで、〈暦売り〉が――冒頭での舞台下手の奈落からの登場とは逆に――舞台上手の階段から奈落へ降りていくのも――これは「元祖」でも同様だったのか、正確な記憶がないのだが――同じく第二幕への伏線であることは明らかだろう。

「縁切寺」の炎上と、そこに身を投じることによる〈元・画家のホームレス〉=転生した厨子王の「都」への脱出という第一幕の結末の意味については、「元祖・今晩屋 – 物語の構造 (1)」で詳しく考察したので、ここでは繰り返さない。

ただ、あえて付け加えれば、上述の『無縁・公界・楽』でも述べられているように、ポジティブな意味での「無縁」の原理は、近世以降、中央集権的権力の浸透とともに、急速に衰退していく運命を辿る。「縁切寺」は、近世におけるその例外的な痕跡とでも呼ぶべき空間だったわけだが、過去を否定し未来へと突き進む「近代化」の象徴としての「炎」がその痕跡さえをも焼き尽くしてしまう結末は、まさに歴史が現実に辿った道筋を反映してもいるのである。

第二幕 記憶の保存装置としての「水族館」

第二幕の舞台となる水底の「水族館」は、 「元祖・今晩屋 – 物語の構造 (2)」で考察したように、人びとの過去の記憶――とりわけ、無意識の領域に抑圧された (「忘れてしまった」) 罪責と悔恨の記憶――を保存する装置である。

「元祖」との明らかな違いとしてまず目に入るのは、 その「水族館」の背後に位置する、舞台天井まで達する巨大なパイプやバルブらしき装置だろう。「元祖」でも同種の装置はあることはあったが、はるかに小さなものだった。

この巨大な舞台装置は、「水族館」が水底深くにある人工的な構築物であることを強調する役割を果たしているのだろうが、あるいはそれと同時に、地上の世界から水底の「水族館」の扉へとつながる「通路」を意味しているとも考えられる。第二幕中盤、「水族館」が魚の住まないより深い水底へと降下し始めるとき、〈暦売り〉は必死に扉を開こうとするが、押しても引いても開かない。この場面は、彼女の地上への退路が断たれたことを意味するのではないだろうか。

それより前、第二幕の2曲目、 「幽霊交差点」の後半で、舞台下手階段下の奈落から、海草を表現していると思われる緑色の布――あの赤白の紙風船がいくつか貼りついている――が風に吹き上げられて出現する。これは、時間的には短いが、やはり強く印象に残る新演出である。

紙風船が上述のように、かつて「縁切寺」に駆け込んだ人びとが断ち切った「縁」、あるいは封印された過去の記憶を意味するとすれば、この「水族館」は、やはり周囲の水中空間をも含めて、4人の登場人物だけでなく、かつて「縁切寺」に駆け込んだすべての人びとの記憶を保存しているのだろう。

「幽霊交差点」は、「元祖」では私にとってそれほど強く印象に残る曲ではなかったのだが、「本家」では――「百九番目の除夜の鐘」「暦売りの歌」「ほうやれほ」と並んで――歌詞が追加されたただ4曲のうちの1曲であることや、ニューアルバム「DRAMA!」にも収録されたこと、そして上記の新たな演出を考え合わせると、その意味をもう少し深く考えてみるべきかもしれない。

幽霊交差点は 名残の化身
幽霊交差点は 移ろい知らず
逃げた後ろに置き去りの眺め
進む行く手に待つのが見える

「移ろい知らず」、すなわち長い時間を経ても変わることなく、過去に置き去りにしたはずの記憶が、行く手に繰り返し再浮上してくる空間、そしてその空間を漂いつづける、おそらくはこの世の者ではない存在たち――このイメージは、夜会の前作「24時着0[0]時発」での、故郷に辿り着けない鮭 (魚) たちの仮の住処であった「ミラージュ・ホテル」とも相似的である。

そのこととあわせて、とくに「幽霊」という言葉から連想されるのは――これは「元祖」のときに気づいていてしかるべきだったのだが――宮沢賢治の「春と修羅・序」の冒頭の詩節である。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電灯の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電灯は失はれ)

第二幕序盤から中盤にかけての視覚的イメージ、とりわけ「水族館」の丸みを帯びた半透明の屋根に灯るあの照明の意味は、この詩節が喚起するイメージとオーバーラップする。

冒頭で〈暦売り〉が灯すその照明こそは、そこで彼女との再会を果たす〈飼育員〉〈花嫁〉〈左官〉という「透明な幽霊の複合体」を「現象」させるための装置だったのではないか。「百九番目の除夜の鐘」の途中で、突然「水族館」の屋根の照明が消え、〈暦売り〉が「おぉ~」と驚いて歌を中断する新演出の意味も、あの照明こそが〈飼育員〉たちの「有機」的あるいは「因果」的な存在の前提だったとすれば、納得できるものがある。

「春と修羅・序」のもう少し後には、次のような詩節もある。

これらについて人や銀河や修羅や海膽 (うに) は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

「有機体は過去を喰らふ」の歌詞、とりわけ中島みゆき自身が歌う二番とこの詩節は、見事に共鳴しあう。

そういうものなんじゃないですか 新たなるものってなんですか
水を残して 石を残して 風を残して 旅に出る
水を喰ろうて 石を喰ろうて 風を喰ろうて 旅を継ぐ
新しき赤子たちの 掌には昔がある

「有機体」としての人間の生、およびその累積としての人類の歴史を、それをとりまく無限の宇宙の中に、また過去から未来へと積み重なってゆく透明な時間の集積――「新世代沖積世の/巨大に明るい時間の集積」――の中に、「せはしくせはしく明滅」する「現象」として見はるかすまなざし。この世界観こそは、賢治から中島みゆきに継承されたものであるように私には思われる。

さて、第二幕で――というより全編を通じて――「元祖」から「本家」への最も重要な変更箇所は、第二幕最後の台詞、すなわち〈左官〉と〈飼育員〉とが、「逃げる手筈を企てし者…」と、彼女たちの前生の「裏切り」を告発するところから始まる場面である。

このとき、〈脱走した花嫁〉 を含む3人が、赤い布の巻物を広げて告発文を読むかのような身振りをするが、彼女たちが声を合わせて叫ぶ「額を灼かれよ、十文字!」という最後の台詞の直後、 「十文字」の激しいイントロが始まる瞬間に、彼女たちが手にしていた赤い巻物が翻るようにして体に巻きつき、3人は苦しみ悶えながら階段下の奈落に転がり落ちてゆく。

「元祖」では、3人の告発は最終的に〈暦売り〉=〈母〉に向けられ、〈母〉がすべての罪責を一身に負う一方で、3人はいったん消火栓の扉の中に消えてゆくのだが、「本家」でのこの衝撃的な新演出は、登場人物たちが等しく罪責を負った存在であることを、より明瞭に示している。

さらにこの場面は、大詰めの「赦され河、渡れ」で3人が再登場する場面への伏線ともなっている。奈落から這い上がってくる白装束の3人は、「ほうやれほ」に始まる直前の場面での〈母〉と同じく赤い目隠しをしており、それを外してから、やはり白装束の〈母〉に促されて、「赦され河」を渡る船によじ登るのだ。

4人の眼をひとしく覆っていた赤い目隠しは、彼女たちが過去の自責の念に苦しむあまり、それ以外のすべての世界、とりわけ未来へのまなざしをひとしく閉ざされいてた状態を意味するのだろう。「元祖・今晩屋 – 物語の構造 (2)」 で考察したように、「赦され河、渡れ」の場面が、過去の罪責の記憶の最深部 ( 「ほうやれほ」 ) から――「十二天」「紅蓮は目を醒ます」での救済を経て――未来へと出帆する船が浮かぶ水面への急浮上を意味すると考えれば、目隠しを外すという行為の意味も、より鮮明になる。

「赤」は罪責を象徴する色である。そのことは「元祖」「本家」を通じて、第一幕で〈禿〉がおびえる崖の上の赤い光で予告され、第二幕では、消火栓の赤ランプの点滅 (先述の「水族館」が降下しはじめる場面) にはじまり、舞台上にライティングされる赤い十文字、そして「ほうやれほ」での〈母〉の赤い目隠しとその背後の灯篭によって、何度も繰り返し強調されていた。上述のような、「本家」での赤い巻物と赤い目隠しの新演出は、「赤」という色のもつ意味を、さらに鮮明に可視化したといえる。

「赦され河、渡れ」のエンディングが確信に満ちたメジャーコードで締めくくられると――これも注目すべき新アレンジのひとつである――、暗転の中、二度の拍子木の音が響き、物売りの口上のような節回しで〈今晩屋〉が「夜いらんかいね」とゆっくりと語り始める。

この第二幕最後の新演出も、〈今晩屋〉の上演した劇中劇が「赦され河、渡れ」で幕を閉じ、それと同時に、今度は客席にいるわれわれが、彼女から「夜いらいかいね」と呼びかけられているのだということを、より鮮明に印象づける。

 

「天鏡」の後半で舞台から客席に向けて流れる河は、「元祖」のときよりもさらに心なしか水量を増したようだ。その流れは、私たちの過去に存在したすべての「愚かさ」や「哀しみ」や「愛しさ」の記憶を、それらが沈んでいた水底――抑圧されていた無意識の奥底――から救い出し、遥かな未来へと運びながら流れつづけるのだろう――幕が閉じてからもなお、私たちの生きてゆく時間の中で。

「元祖」から「本家」への「隠し味」的変化の方向性は、総じて、第一幕での「過去 (前生の記憶) からの逃走」から、第二幕での「記憶の再生」を経て「過去の救済」へという物語の大きな流れを、より鮮明に表現することに向けられていたように思う。

個々の公演の印象としては、私が最初に観た11/19(木) [公演二日目] では、キャストの演技にもミュージシャンの演奏にもまだ緊張感からくる硬さが感じられたが、日を追うごとにその硬さはほぐれてきた。とりわけ12/5(土)の公演は、中島みゆきをはじめ、各キャスト、ミュージシャンの乗りが非常に良く、舞台と客席がまさに一体となった感動的な一夜となった。

以上、とくに印象に残った点を中心に、思いつくままに「本家・今晩屋」のレビューを記してきたが、まだまだ書き残したことも多い。

そのなかでもとくに重要なのは、主として第一幕で、舞台背景のホリゾントに、さまざまな位置、大きさ、形、色で映し出される「月」の意味である。

終曲として歌われる「天鏡」が、「十二天」の最後の「月の天」の化身であり、救済されるべき過去と未来のすべてを映し出す鏡であるとすれば、それが第一幕から、さまざまな場面で登場人物たちを見下ろしてきたと考えるのは自然であろう。

ただ、「月」の意味については、過去の夜会やその他の中島みゆき作品との関係も含めて、考えるべきことがあまりに多い。このテーマについては、他日、別稿に譲ることにしたい。

「灯り」が意味するもの

街路樹は都会のクリスマス・ツリー
冬も夏も灯りを身につけて
街路樹は都会の澪標
寄せて返す人の流行りを見送って
(「街路樹」)

日本中の都市のメインストリートの街路樹がイルミネーションで飾られるようになったのは、いつの頃からだっただろうか。

夜会VOL.11/12「ウィンター・ガーデン」 (2000/2002年) で、北限の荒野に立つグラスハウスの中で「あの人」を待ちつづける〈女〉が、彼と都会で過ごした日々を回想しながら、部屋にクリスマスの飾りつけをする場面で歌われる「街路樹」は、彼女とその記憶とを隔てる時間的・空間的距離のゆえにこそ、なおさら眩い記憶として、灯りをまとう街路樹のイメージを美しく浮かび上がらせていた。

中島みゆきの作品において、都市の夜景を彩るさまざまな灯りは、つねにそうした距離の彼方に、都市という空間がかきたてる夢や希望や憧れの表象として、瞬きつづけてきたように思う。

この記事ではそれらの「灯り」の意味について、いくつかの作品を辿りながら再考してみたい。

ネオンライトの瞬き

たそがれには 彷徨う街に
心は 今夜も ホームに たたずんでいる
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券

中島みゆき初期の代表作のひとつ「ホームにて」 (1977年) の主題は、いうまでもなく「空色の汽車」と「空色の切符」に象徴される「ふるさと」への断ち切りがたい――しかし決して実現されることのない――思いにある。「ネオンライト」はその思いと対比されつつ、この歌の主人公が現実に暮らしてゆこうとする都市の表象として、背景に浮かび上がる。

「ネオンライト」という日本語としてはあまりなじみのない言葉の採用は――これは「ホームにて」を初めて聴いたときから漠然と思っていたことだが――もしかしたらサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」 (1965年) からヒントを得たものかもしれない。

When my eyes were stabbed by the flash of
A neon light
That split the night
And touched the sound of silence.

夜を切り裂くネオンライトの閃きが私の目を射たとき、私は静寂の響きに触れた――

「サウンド・オブ・サイレンス」の主題は――一般的な解釈としては――「静寂の響き」すなわちコミュニケーションの空白の拡大への警告にあり、だとすれば「ネオンライト」とは、その眩い光の乱舞の裏側でコミュニケーションの空白が拡大してゆく空間としての大都市の禍々しい表象なのであろう。

しかし「ホームにて」での「ネオンライト」は、「サウンド・オブ・サイレンス」の文脈と決して無関係とはいえないにせよ、そうした禍々しい表象というよりははるかに、主人公を――「ふるさと」への断ち切りがたい思いにもかかわらず――都市という空間になおひきとめつづける魅力の表象として、優しく美しく瞬いているようにみえる。

「ふるさと」へ向かう「空色の汽車」とその「灯りともる窓」が過去への郷愁の表象であったとすれば、「ネオンライト」は、未来への希望の表象であった――といえるかもしれない。

ポール・サイモンの怜悧な知性とシニカルな批判的まなざしの対象としての「ネオンライト」とは対照的に、中島みゆきにおける都市の「灯り」は、つねにそうしたアンビヴァレンスに揺れ動くまなざしの中に見いだされるのだ。

このようなアンビヴァレンスを秘めた都市の「灯り」は、ずっと最近の作品、とりわけ2000年以降の夜会にも、印象的な場面でくりかえし登場する。

作業灯

冒頭でふれた「街路樹」につづく場面で、「ウィンター・ガーデン」の〈女〉は、やはり都会で「あの人」と過ごした日々を回想しながら、「作業灯」という詩を朗読する。

あの人に逢いにゆく 夕暮れの高速道路から
建築中の大きなビルが見えたの
鉄骨の中に 作業灯がまぶしく幾つも並んでいて
すごく いきいきと見えたの

無限に発展してゆくかのようににみえる大都市、その未来へと突き進むエネルギーの象徴としての「作業灯」に、〈女〉は「あの人」との未来への希望を重ね合わせる。

しかし、その「大きなビル」の向こうには、「どの階の窓にも灯りはひとつも点っていない」暗く古いマンションも見えた。まぶしい作業灯とその暗闇――都市の光と闇――とのコントラストは、「あの作業灯は今、いったい何のためにあんなに輝いているんだろう」という疑いを、〈女〉の心に兆させた。その疑いはやがて、〈女〉の心を全面的に支配する。

私たち  ついにはどこへゆくのだろう
私たち  結局どこへも着かないんじゃないのかしら
そんなふうに疑ってしまったの

どこへも着かないのに  身を焦がしている灯りなの

どこへも着かないのに、身を焦がしている灯り――それはまさに、都会から遥かに離れた北限の荒野で、今もなお「あの人」を待ちつづけている〈女〉自身の姿でもあった。

パーティー・ライツ

遠い灯りは いつだって輝いていた
届かぬ夢は いつだって輝いていた

夜会VOL.13「24時着0時発」/VOL.14「24時着00時発」 (2004/2006年) の第1幕で、主人公あかりが海外旅行先のホテルで歌う「パーティー・ライツ」もまた、「届かぬ夢」を歌う歌である。

この夜会は、主人公「あかり」とその分身である「かげ」の名前からも示唆されるように、光と影、現実と虚構という二つの世界が表裏一体をなし、互いにねじれ、反転しながら織り成す物語である。主人公あかりは、かつて自らが生きていた世界を――そこでともに暮らした人の記憶とともに――犠牲にすることによって、世界を転轍し、もうひとつの世界の救済を成就する。

この物語においても、「パーティー・ライツ」はやはり、あかりにとって最終的に辿り着くことのできない未来への憧れの象徴だったのだ。

都の灯り

辿り着くことのできない未来への希望の象徴としての「灯り」――このモチーフは、2008-2009年の夜会VOL.15「夜物語~元祖・今晩屋」で、第1幕の終曲「都の灯り」において、物語全体の重要な転換点をなすモチーフとして展開されることになる。

都の灯りが彼方で招く 姿を隠せとさだめが示す
踏み捨てて 振り捨てて 忘れの衣を身にまとい
急かされて あおられて 眩きものに身を任せ
都の灯りが彼方で招く 都の彼方で来生が招く

「今晩屋」 – 物語の構造 (1) で述べたように、〈元・画家のホームレス〉すなわち前生における厨子王が脱出しようとした「都」とは、過去を振り捨て、忘却することによって、絶えず急かされるように未来へと突き進んでゆく世界であり、それゆえに、姉・安寿を犠牲にしたという前生の罪責と悔恨から解放される「来生」へとつながるはずの世界でもあった。

「眩きもの」とは、そうした意味での未来、すなわち過去からの切断の先にある未来への希望の象徴である。

そして――やはり「ウィンター・ガーデン」や「24時着0時発」と同様に――その希望は成就されることはなかった。「今晩屋」 – 物語の構造 (2) で述べたとおり、第2幕の終曲「天鏡」では、「都の灯り」へのアンチテーゼとして、すべての過去を――罪責も悔恨も含めて――あるがままに未来へと運んでゆく川の流れによって、救済が表現された。

「ウィンター・ガーデン」「24時着0時発」そして「今晩屋」の三作は、「転生」を中心的なモチーフとしている点で共通している。

それは、最終的な救済が、舞台の登場人物たちが生き、観客席の私たちが共有した世界という意味での「現世」あるいは「今生」ではなく、もうひとつの新たな世界――「今晩屋」ではそれが「来生」という言葉でとりわけ明示的に表現されていた――の中で、はじめて成就されるということを意味していたとも解釈できる。

これらの夜会のメッセージを、私たちはどのように受け取ればいいのだろうか。もし、救済は「来生」においてしかなされないとすれば、私たちが今生きている世界としての「今生」には意味はないのだろうか。

――決してそうではないだろう。

 

夜会が幕を閉じ、劇場を後にして、私たちは「都会のネックレス」のごとき街路樹のイルミネーションの下を歩きながら、現実の世界へと帰ってゆく。

厨子王が脱出しようとした「目もくらむ眩きところ」とは、おそらくは私たちが今現実に生きているこの現代社会そのものであり、そこで私たちは、時にはパーティー・ライツに憧れながら、時には建築現場の作業灯に未来への夢を重ね合わせながら、やはり日々の生を送ってゆくのだろう。

「どこへも着かないのに身を焦がしている灯り」とは、その意味で、私たち自身の姿なのかもしれない。

さらには、「サウンド・オブ・サイレンス」に歌われた、禍々しい未来の表象としてのネオンライトも、私たちを取り巻く無数の光の中には含まれているのかもしれない。

それでも私たちは、それらの灯りの彼方に、未来を探しつづけるほかはない。そこにどのような未来を見いだすことができるのかという問いは、この現実の生の中で応えてゆくべき問いとして、私たち一人一人に委ねられたままである。

そして、その問いを問いつづけ、新たな未来を探しつづけることこそが、この現実の生の中で私たちが新たな生へと「転生」してゆくことを意味するのではないだろうか。都会の夜にさざめく無数の灯りは、その意味での「転生」への希望の灯でもあるのだ。