夜会工場VOL.1 千秋楽

2013年12月22日(日)、大阪シアターBRAVA!で、夜会工場VOL.1は千秋楽を迎えた。

初日、11月22日の東京公演から、あっという間のひと月だった。それはまるで、この夜会工場の1回の公演、2時間を全速力で駆け抜ける工場ツアーのトラムが、1ヶ月という公演期間全体の間も、私を乗せて走りつづけていたかのようだ。

この間、私は11月26日(火)の東京追加公演、そして12月4日(土)の名古屋公演最終日にも足を運んだ。そのたびごとに、それぞれに新たな発見、新たな思いがあったが、それらをゆっくりブログ記事にまとめる時間が持てないまま、千秋楽まで来てしまった。

これまで、夜会でもツアーでも、千秋楽を迎えた後にはいつも、「まつりの終わり」のような寂しさに襲われた。それは今回ももちろん例外ではないのだが、その寂しさ以上に、まだトラムに乗って走りつづけているかのような疾走感が、私の中には残っている。

その疾走感が薄れないうちに――千秋楽のレビューを兼ねて――夜会工場VOL.1について感じ、思い、考えたことをまとめておきたい。

――といいつつも、私ひとりの印象や記憶に頼る限り、書けることはごく限られる。

かつて同人誌に書いた記事や、このブログの記事もすべてそうであるように、ともに中島みゆきを見つめつづけてきた友人・知人たち、そしてネット上で縁あった――あるいは見知らぬ――多くの人びとが語ってくれる感想や情報、あるいは彼女たち・彼らとの対話を抜きにして、中島みゆきについて考え、書くことはほとんど不可能だ。

これはかつて――今から四半世紀前に――パソコン通信に参加した時以来、インターネット時代に入ってからも同様に、それらの人びとへの感謝の思いとともに、ずっと感じつづけてきたことだ。

今回の夜会工場VOL.1では、ぴしわさんという方の「夜会工場覚え描き」というブログを、そうした感謝の思いとともに新たに発見した。

中島みゆきやキャストたちの多彩な表情や動きや衣装、あるいは舞台装置のビジュアルを、正確に、鮮やかに再現してくれるその画力には――とりわけ私のような、ビジュアル面の記憶力が悪く、とくに衣装には疎く、いわゆる「絵心のない」人間は――驚嘆するばかりだ。

以下では、ぴしわさんの「覚え描き」を随所で参照 (リンク) させていただきながら、ビジュアル面を中心に、夜会工場VOL.1から私が受け取ったものについて書いていきたい。

ビジュアルの印象(1)――前半

まず全体を通じて重要なのは、「夜会工場」というコンセプトそのものを見事に可視化した舞台全体のセットだ。

頻繁な場面転換の必要上、夜会のように凝った舞台装置を使えないことをむしろ逆手に取り、「夜会を生産する工場」という――通常の意味では――舞台裏であるはずのラフな空間をあえて舞台に、前面に押し出すという発想の転換。

この発想の卓抜さゆえに、普通であれば「チープ」に見えてしまいかねない――夜会に比べれば簡易な――各場面の舞台装置も、むしろ独特のリアリティをもって見えてくる――その具体例は後で述べる。

初日のレビューに書いた、前半での悲しみからの再生と未来への希望、後半での過去への遡行と転生という「メタ物語」の構造は、基本的には修正の必要を感じなかった――というより、観るたびに、よりその印象を強くした。

このメタ物語の前半の核になる曲の中で、とりわけビジュアル面で強く記憶に残ったのは、「月の赤ん坊」である。

夜会1990でのこの曲の、膝を抱えた胎児のような中島みゆきのシルエットと、その上空に浮かぶ巨大な月も印象的だったが、夜会工場では彼女は、鉄の階段の上で青い月光を浴び、同様の姿勢を取りつつ――胎児を包む羊膜のような――半透明のシートに身を包んで歌う。

それは、胎内への回帰と再生というこの曲の――ストーリーの中での――意味を、より鮮明に印象づける。

前半のハイライト「泣かないでアマテラス」では、エンディングで舞台背面の背の高い扉が――天岩戸のように――かすかに開き、眩い光がもれる。それは、未来への希望の光なのか。

この扉の使い方は――後の曲についても触れるように――とても効果的だ。

ただ、上記のメタ物語に必ずしもぴったり当てはまらない曲――とくに前半での「笑わせるじゃないか」、「SMILE, SMILE」、「女という商売」――については、そうしたストーリーにはこだわらず、もっと素直に、それぞれの夜会の場面と文脈を思い出しながら聴き、観たほうが大いに楽しめ、堪能できたのも確かだ。

とくに「SMILE, SMILE」での、中島みゆきの可愛らしくコミカルな恐竜の着ぐるみと、舞台後方の大きな一匹の恐竜、手前の三匹の小さな恐竜たちとの組み合わせは、なんとも言葉にしがたい強烈なインパクトを残した。

ついでながら、大きな恐竜と小さな恐竜のセットは、「昔、大きな恐竜も 昔、小さな恐竜も……」という、あの「昔から雨が降ってくる」の印象的な歌詞をも思い出させる。

「女という商売」では、花魁風の衣装を身にまとった香坂千晶と植野葉子の妖艶な動きもさることながら、その背後に降りてくる、遊郭の赤い格子窓をデフォルメしたような大きな枠組も印象的だ。

この曲と演出は、中島みゆきがこれまでさまざまなかたちでこだわり、歌ってきた〈娼婦〉という重要なモチーフ――これについて、ここで詳しく述べる余裕はないが――の、また新たなひとつの表現というべきだろう。

ビジュアルの印象(2)――後半

前半から後半への転換点――あるいは後半の出発点――となる「明日なき我等」では、2番の歌詞を舞台中央で歌う中島みゆきを真上から照らすライトの細長い円錐形が、まさに過去と未来との境目に立つ「やじろべえ」の軸のようにも見えて、きわめて印象的だった。

――もっともこれは、11月26日の東京追加公演で、たまたま2階最前列中央という、ビジュアルの全体を見渡すには最高の席に恵まれたがゆえの偶然だったのかもしれないが。

舞台背面に投影される、窓の向こうに広がる青く美しい海――「渦巻く時の波間」――といい、夜会工場VOL.1全体のストーリーの中での、この曲の重要な意味――それはおそらく、夜会全体の中で『海嘯』という演目のもつ意味でもある――を、回を重ねるたびに再認識させられた。

つづく「白菊」では、舞台背面のあの扉が、ふたたび重要な意味をもつ。

開かれた扉の中に立ち、大きなむく犬と一緒にこちら側(舞台)を眺めている、中国人医師・梁先生 (宮下文一) ――『海嘯』の物語の中で彼は、殺された妻子の姿を幻視しつつ、この曲を歌う。

――だとすれば、中島みゆきが演じ歌う舞台の上の世界は、死者の住む異界――あるいは、生者からみた「前生」の世界――なのではないか。

この見方は、「天使の階段」でも裏付けられる。

『ウィンター・ガーデン』でのこの場面は、中島みゆきが演じる〈犬〉が、唯一、前生の姿――GLASSHOUSEの主人の愛人――で登場する場面である。

あの場面の、真紅のドレスと赤い野球帽が、純白のウェディングドレスと紫の新郎の上着に置き換えられたのは、映像ソフトがリリースされていないこの演目、この場面の意味を、少しでもわかりやすく表現するという意図もあってのことかもしれない。

しかしこの置き換え――とりわけ、ウェディングドレス姿の中島みゆきの、息をのむような美しさ――によって、取り戻しようのない過去、喪われた前生の幸福の意味が、より深く痛切な哀しみとともに可視化されているのも間違いないのだ。

終盤近い「都の灯り」で、舞台背面の扉が三たび開かれる。

『今晩屋』の第1幕ラスト、僧形の厨子王が、炎上する縁切寺の扉の向こうへと脱出する場面の再現だ。だが今回、炎は舞台背面の全体に広がり、やがて戦火をも思わせる爆発が目を射る。

扉の向こうの世界は、こちら側の世界、すなわち前生からみた今生なのか、それとも今生からみた来生なのか――

いずれにせよ、炎に包まれた未来を予示する「都の灯り」を、転生への希望を歌う「命のリレー」よりも後にあえて歌ったことの意味――

また、「泣かないでアマテラス」を、前半のハイライトの場面でいま改めて歌うことの意味 (アマテラスが象徴するものについては、説明するまでもないだろう) ――

そして新曲「産声」のこの歌詞の意味――

「産まれは何処の国」「心は何処の国」
それだけで聞き終える 何もかも聞き終える

これらの意味を考えれば考えるほど、この夜会工場VOL.1には、この時代への――あるいはこの国への――中島みゆきの強い危機感が反映しているのではないか、という思いが深くなる。

しかしこのことについては、これ以上具体的に想像を展開するのはやめておこう。中島みゆきがいつもそうするように、この種の問いへの答を探す作業は、私たちひとりひとりに委ねられるほかはないのだから。

エピローグ

ビジュアル面を中心に、と言いながら、肝心の中島みゆきの衣装を含めたビジュアルについては――上記のウェディングドレスのことを除けば――何も書いていないではないか、とのお叱りを受けるかもしれない。

それは、言い訳をすれば、(上に書いたように) 私が衣装に関する知識に疎いせいでもあるのだが、それ以上に、彼女のビジュアルについて、その歌や言葉や演技――あるいは彼女の存在そのもの――から切り離して語ることが、あまり意味がないように思えるせいでもある。

ネット上でしばしば話題となった、高いピンヒールを彼女が終始履きつづけていたことの意味についても、結局私にはよくわからない――というのが正直なところだ。

夜会の様々な役柄を演じる案内役の工員、そしてその工員を演じるひとりの女性――その女性を可視化しているのがピンヒール、という見方もできるかもしれないが、それがピンヒールである必然性はあまりないようにも思える。

 

と言いつつ――節操なく前言を翻すようだが――今回の夜会工場VOL.1では、中島みゆきのビジュアルの「力強い美しさ」とでも呼ぶべきものに、改めて何度も魅惑されたことを告白しておこう。

実年齢と比較して云々、といった下世話な話はあまりしたくはないが、7歳も年下の我が身と引き比べると――もちろん比べる方が間違っているのだが――やはり彼女の輝きには驚嘆するほかはない。

ただ、年齢とは別の問題かもしれないが、千秋楽では、彼女もまた生身の身体をもつひとりの人間であることも痛感させられた。

今回の夜会工場では、東京公演でも名古屋公演でも、限りなく力強く伸びてゆく声に圧倒され、彼女の声の調子は絶好調のように思えたのだが、最後の大阪公演に来て、不覚にも風邪をひいたのか――とくに高音がかすれ気味の――苦しそうな発声に、聴いている私も、心配交じりの声援を心の中で送りつづけずにはいられなかった。

後でネット上でも同様の感想をいくつか目にして、「保護者目線」のファンの思いが同じだったことに、意を強くしたりもした。

 

が、それにもかかわらず、舞台の上から放射されてくる彼女のエネルギーは――上述のビジュアルからくるものとも相まって――むしろ終盤になるほど力強さを増し、私を圧倒しつくした。

有限の生命を、時の流れを超えてゆくエネルギーとでもいうべきものを、私は今回の夜会工場VOL.1ではこれまでにも増して強く、彼女から受け取ることができたような気がする。

千秋楽のカーテンコールでの、1階席総立ちのスタンディングオベーションは、そのことへの心からの感謝のようにも、私には聴こえた。

終演後は、恒例の歌暦ネットを中心とした仲間たちとの飲み会。余韻に浸りつつ、中島みゆきによって結ばれた「縁」を実感する、懐かしくかつ愉しいひとときだ。

中島みゆきの最後のMCでのメッセージと同じく、「良いお年を」の挨拶とともに、次のツアーで、夜会で、あるいは夜会工場VOL.2で(?)の再会を約して、私たちは家路に就いた。

追記

今回の夜会工場では、夜会唯一の男性ヴォーカリストである「文さん」こと宮下文一の大活躍――事実上の男性キャストとしてのそれも含めて――が特筆に値する。このことについては、単独の記事として別に書きたい。

公演期間中に、夜会の振り付けをずっと手がけてきた演出家、竹邑類さんの訃報が飛び込んできた。この夜会工場のスタッフでもあるので、事実上、これが遺作となるのではないだろうか。これまでの夜会のさまざまな演目での、中島みゆきやキャストたちの多彩な身体動作が目に浮かぶ。心よりご冥福をお祈りしたい。

最後に、この夜会工場VOL.1を観たことで、これまでの17回の夜会を、新たな視点から捉えなおすというテーマも浮上してきた。が、それを実行に移すのは、もちろん今後の課題である。


「夜会工場VOL.1 千秋楽」への2件のフィードバック

  1.  おじゃまします。夜会や夜会工場についてのご考察には、いつも感心し、参考にさせて頂いております。
     今回も私の知らない言葉「メタ物語」、早速調べました。みゆきさんの夜会、夜会工場、楽曲を深く理解しようと思うと、「メタ物語」の解釈が役立つと教えてもらい感謝します。
     以前、あるファンのブログ「真夜中にようこそ」(今は閉鎖)で夜会の説明に「メタファ」(暗喩)という言葉が使われていたことを思い出しました。
     千秋楽に行かれたファンの方々のネットでの感想は、それこそ保護者目線、ビジュアルの良さを訴えたものが、数多くありました。
     独特な視点から、かつ客観的に言葉を選んで書かれるこの転轍のブログは、そういうことには縁遠いと思っていました。だから、いささか驚いております。それだけ千秋楽のみゆきさんの体調不良が、JUNさんの奥深くに突き刺さったのかと。
     さて、ぴしわさんのブログには私も助けられています。ぴしわさんのすごい点は、アップされている描画ではなく、観察力、それこそ洞察力です。天使の階段11月26日のアップ記事で
    「ただ、例によって足元はスパンコールのボトムスとピンヒール。
    この全体におよぶちぐはぐさが妙な世界観を生み出してていいですね。」
    簡潔な言葉で、夜会工場の意味を言い当てていると思います。
     JUNさんが言われた「最後に、この夜会工場VOL.1を観たことで、これまでの17回の夜会を、新たな視点から捉えなおすというテーマも浮上してきた。」とありますが、いつも大切なときに現れ、JUN さんも課題と言われていた「月」の意味と共に楽しみにしております。

  2. めんとれさん、コメントありがとうございます。
    「メタ物語」、つまり「物語(について)の物語」というのは、思い出してみれば初期の夜会、とくに「邯鄲」「金環蝕」「花の色は…」の3作のコンセプトでもあり、そのことについては昔、同人誌の記事にも書きました。
    https://soiree.belle-neige.net/miyukologie/miyukologie20
    もっともこれらの場合は、再構成の対象となる「物語」は、中島みゆき自身によるものではなく、中国や日本の古典であったわけですが。
    千秋楽では、彼女もまた「生身」の存在であるという事実を、ずいぶん久しぶりに突きつけられたような気がして、その意味でも忘れられない一夜になりました。
    ぴしわさんのブログ、たしかにご指摘のように、描画だけでなく言葉にも、鋭い観察力――視覚情報からその本質を見抜く力――が反映されているように思います。私の場合、眼で見たものを、既成の抽象概念というフィルタを通さなければ認識できないようで、そのことに気づかされたという意味でも、「夜会工場覚え描き」には眼を開かされる思いでした。
    過去の夜会の捉えなおし、そして「月」の意味については、今後の課題です。どうか気長にお待ちいただければ幸いです。m(__)m

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