「忘れられない歌」が呼び覚ます記憶――「りばいばる」をめぐって

前の記事の続編として予告した零戦のこともずっと心にかかってはいるのだが、たまたまひと月ほど前、Facebookの「中島みゆき」公開グループでの話題に加わって、あれこれ考えたり書いたりしたことを、とりあえず先にまとめなおしておきたい。

きっかけは、1979年のシングル「りばいばる」と、そのジャケット写真についての話題である。

その時グループメンバーの某氏が紹介してくださったのだが、リリース当時のインタビュー記事 には、次のような興味深いやりとりがある(『週刊セブンティーン』1979年9/11号)。

まず、歌詞について――

――この はやってた歌ってなに?
それは秘密。それいったらわかっちゃうもの

次に、セピア色のジャケット写真に写る幼女について――

――この子は?
ウン? あたしの2歳のときのよ。この服、お母ちゃんが自分の服を切って作ってくれたものなの

これらのやりとりから、「りばいばる」の「忘れられない歌」には、やはりモデルがあったのか――と、今更ながら気づかされたのだ。「秘密」の歌とは、いったい何だったのだろうか?
(なおジャケット写真については、この記事のもっと後のほうで触れる)

1976年から1972年へ

そこで、1970年代のヒット曲のリストをざっと眺めてみたところ、まず最も有力そうに思えたのが「ビューティフル・サンデー」(ダニエル・ブーン)である。

この曲は世界的には1972年に大ヒットしているが、日本では1976年にリバイバルヒットした (この年、オリコン年間2位)。私も、当時――高校生の頃――街角やテレビでしょっちゅうこの曲が流れていたのをよく覚えている。

「ビューティフル・サンデー」の底抜けに明るい曲調と「りばいばる」とは、そぐわないといえばそぐわないのだが、

When you said said said said that you loved me

という歌詞は、「りばいばる」のサビ

愛してる愛してる いまは誰のため

とも、なんとなく呼応しているような気がした。

 

もう1曲候補になりそうなのが――「りばいばる」と同じ1979年のアルバム『親愛なる者へ』収録の「タクシードライバー」にも「忘れたつもりの あの歌」として登場する――「アローン・アゲイン」である。

原曲は1972年、イギリスのシンガー・ソングライター、ギルバート・オサリヴァンのヒット曲だが、日本ではなんと ――調べてみて初めて知ったのだが――やはり1976年に草刈正雄が(日本語訳詞で)カバーしている。

もっとも、こちらはとくにヒットしたわけではないので、街角で思いがけず流れてくる、というシチュエーションは考えにくいのだが……

あるいは、さらに深読みをすると、たまたま原曲とリバイバルないしカバーの年が一致しているこれら2曲にまつわる記憶が、「りばいばる」では巧妙に合成されているのではないか――という可能性もありそうな気がした。

 

ところで、「タクシードライバー」と同じく『親愛なる者へ』に収録されている「根雪」でも、「やさしすぎて なぐさめすぎて」余計なことを思い出させる「古い歌」が町に流れる。

以前の記事では、この「古い歌」とは、札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」のことだったのではないか、と想像をめぐらせたが、札幌オリンピックの開催もやはり1972年だった。

つまり、1979年にリリースされた3曲「りばいばる」「タクシードライバー」「根雪」が、いずれも――中島美雪が20歳になった年――1972年の記憶を指し示している可能性がある、ということになる。もちろん複数の憶測を重ねたうえでの話なので、きわめて根拠はあやふやではあるが、魅力的な想像ではあろう。

更なる過去へ

さて、「りばいばる」の「忘れられない歌」問題に話を戻そう。

1970年代のリバイバルヒット曲といえば、二葉百合子の「岸壁の母」も目につく。

かつて1954年に菊池章子が歌って大ヒットしたこの曲は――実在の女性をモデルとして――大戦時にソ連に抑留された息子の帰りを舞鶴港の岸壁でひとり待ちつづける母の姿を歌い、まだ戦争の記憶が新しかった当時の人々に感涙を催させた。

二葉百合子がカバーしたシングルのリリースは1972年だが、4年後の1976年に――おそらくこの年に公開された中村玉緒主演の映画の影響もあってか――オリコン年間5位の大ヒット曲となっている。

――が、さすがにこれはないだろう、この曲のオリジナルがヒットした1954年といえば、中島美雪はまだ2歳だし……と最初は思っていた。

 

が、上述のインタビューでのやりとりを改めて読みなおし、私は愕然とした。

「りばいばる」ジャケット写真が中島美雪の2歳の時だとすると、「岸壁の母」オリジナルのリリースの1954年と正確に符合するのだ。

なぜ中島みゆきは、あえてこの古い写真を選んだのだろうか――

母が自分の服を切って作ってくれた、という発言からすると、もしかしたら、「りばいばる」には母の――さらには、父・眞一郎氏をも含めた家族の――記憶が、隠された構成要素として含まれているのでないか。

――ここで「家族の記憶」を持ち出すのは唐突に思われるかもしれない。が、日本でポピュラー音楽のジャンルが――ポップス、ロック、フォーク、「演歌」というふうに――それらのファン層とともに細分化したのは、おおよそ1960年代後半 (昭和40年代前半) 以降のことである。それ以前、つまり中島美雪の幼かった頃までは、流行歌というものは老若男女・家族みながともに耳にし、また口ずさむものだった。

あるインタビューによれば、中島みゆきの母も大陸からの引揚者であったという。もちろん彼女自身が属する世代は、「岸壁の母」よりはその息子に近かっただろう。が、立場は違えども、戦争の時代の記憶を共有するひとりとして、彼女も――そしておそらく眞一郎氏もまた――中島美雪の幼い頃から、「岸壁の母」を口ずさむことがあったのではないだろうか。

1976年は、眞一郎氏が世を去ったまさにその年でもある。「岸壁の母」のリバイバルヒットは、中島みゆきにとって、そうした家族の記憶を、思いがけずもよみがえらせる出来事でもあったのではないか――

以上の想像は、あくまでも状況証拠だけから半ば強引に組み立てたものであり、直接的な根拠はなにもない。が――前の記事での高橋一曜のモデルについての想像と同様に――このような自由な想像を楽しむことこそ1ファンの特権でもあろう、とあえてここでは開き直っておこう。

蛇足ながら付け加えると、「りばいばる」というタイトル自体――ひらがな表記にも意味がありそうだが――中島みゆき個人や家族の記憶にとどまらず、およそ歌が人の記憶を呼び覚ますという社会的現象の総体をもモチーフにしている、とも言えそうな気がする。

1976年の「岸壁の母」のリバイバルヒットは、多くの日本人にとって、過去に遠ざかりつつあった「戦争の記憶」を、改めて振り返らせる出来事であっただろう。

また「岸壁の母」のオリジナル歌手である菊池章子といえば、さらに以前、1947年のヒット曲「星の流れに」のことも思い起こされる。敗戦直後の社会の「夜の女」の悲哀を歌ったこの歌は、中島みゆき作品に繰り返し登場する「娼婦」のモチーフとも、どこか遠くでつながっているような気がする。

舞鶴引揚記念公園の「異国の丘」「岸壁の母」歌碑

――もはや言わずもがなのことだが、「岸壁の母」にせよ「星の流れに」にせよ、それらの大きな背景には、先の戦争という歴史が存在する。

それが近年、夜会『橋の下のアルカディア』で思いがけずクローズアップされたのも、中島みゆきの両親の世代からの記憶の継承と考えれば、それはむしろ自然なことだったのかもしれない。

 

追記: 夜会『花の色は……』の妊婦について

中島みゆきが最も最近にライブで「りばいばる」を歌ったのは、1993年の夜会VOL.5『花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に』の第1幕第4場「夏」でのことである。

この夜会全体のストーリーの下地には、知られれている通り、『雨月物語』の「浅茅が宿」――戦国時代、戦乱の地となった東国から帰らぬ夫を待ちつづけた妻、宮木の物語がある。それはもちろん、「夏」の場も例外ではない。

が、この場ではそれに重ねて、現代の戦地から帰らぬ夫を待ちつづける妊婦を、中島みゆきが演じた――夫からの手紙の末尾には、「1999年 夏、戦地にて」と記されていた。

 

――帰らぬ子を待ちつづける母と、帰らぬ夫を待ちつづける妻。後者は前者の変形でもあったのかもしれない――そう考えるのは不自然だろうか。

彼女たちの希いは、遂に叶えられることはなかった――だからこそ、中島みゆきは繰り返しさまざまなかたちで、それらの希いを歌いつづけなければならなかったのではないだろうか。


「「忘れられない歌」が呼び覚ます記憶――「りばいばる」をめぐって」への2件のフィードバック

  1. いつものことですが、ひとつのことを契機に深い考察を試みるのは職業病のようなものでしょうか(別に揶揄しているわけではありません(汗))
    私も曲を聴いて、気になることはあるものの、みゆきさんがデビューしたのは私が小学生のころのこと、遡る時代があまりにも遠すぎて・・・。
    しかしながら『夜会VOL.5』は今でも自分のお気に入りです。
    「花の色は~」のサブタイトルを見て直観的に感じることができたのは、高校時代の国語の先生のおかげだと思っています。
    その先生は東大出身で、古文、漢文に詳しく、随分と鍛えられました。
    『雨月物語』か・・・と。
    「待つと待たないの間には何がある? 時間・・・」
    その台詞を聞いた時のショック(?)は今でも記憶に残っています。
    もっと早くみゆきファンだったら、と思うこともしばしばです。
    そういえばみゆきさんに関するブログ、随分ご無沙汰してしまっています。
    次回の『リトル・トーキョー』でがんばります。
    楽日にお目にかかれることを祈って・・・

    • 増田さん、コメントありがとうございます。
      たしかに遠い時代まで遡った記事なのですが、「岸壁の母」や「星の流れに」にまで言及しているのは、リアルタイムの記憶だけではなく、中高生ぐらいの頃たまたま当時の懐メロ番組(主にラジオ)にはまっていたためでもあります。 それで戦前~戦後初期の流行歌を色々覚えました。(もしかしたら、その経験も、みゆきファンになる下地の一つだったのかもしれません)

      それはそうと、高校時代の国語の先生との出会いは貴重ですね。私も中学時代の国語の先生(担任でもあった)には色々教えられたのですが、高校では受験一辺倒になってしまって、あまり深く学べなかったのが、今にして思うと少々残念ではあります。

      『リトル・トーキョー』千秋楽では、お目にかかれることを祈っております。

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