夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』中間報告――初演VOL.18との差異を中心に

201611221913

夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』の初日11月17日(木)、および11月22日(火)の2公演を観た。

初演を前提としたうえで再演を観ることの醍醐味は、初演とのさまざまな差異――それが大きなものであれ、微細なものであれ――を通じて、その演目に中島みゆきがこめたであろうメッセージの多層性、あるいは世界観の深みや広がりを、より大きな振幅の中で体感できるということに尽きるだろう。

この演目の初演VOL.18については、すでに (劇場版の感想も含めて) このブログに5本の記事を書いてきた。しかし、かなりの字数を費やしてもまだ、この作品の世界の隅々までを知りえたという実感はない。むしろ、思い出し考えるほどに、言葉にしえない謎が自分の中で深まってゆくような感覚があった、というのが正直なところだ。

が、今回の再演は、それらの謎のすべてとは言わないまでも、少なくともいくつかをより明瞭な光の中に照らしだし、そしてそのことによって、この『橋の下のアルカディア』という演目がはらむ魅力と衝撃力を、初演とはまた異なる新たな視角から発見させてくれたように感じる。

この記事では、千秋楽を1週間後に控えた現時点での「中間報告」として、初演との差異――それもとくに重要と思われる部分――を思いつくままにピックアップしながら、現時点での印象や考えをまとめておきたい。

なお、今回もまたビジュアル面では、ぴしわさんの『覚え描き』ブログに掲載されている見事なイラスト群が、私の視覚的記憶の不完全さを補ううえで大いに助けになった。ぜひあわせてご参照いただきたい。

「模型の高橋」および九曜とその父・祖父について

第1幕が始まってすぐに注意を惹かれるのは、舞台下手にある模型店――高橋九曜 (石田 匠) の実家――の外見である。初演では水色のシャッターに左横書きで「模型のタカハシ」と店名が記されていたが、今回は右横書き・漢字で「模型の高橋」と大書された看板が店の上部に掲げられている。さらに看板の「模型の」と「高橋」との間に大きな零戦のレリーフ(?)があり、プロペラ部分は看板からさらに上部に大きくはみだしている。

店名が左横書きから右横書きに変更されたことは何を意味するのだろうか。この地下壕が防空壕として建設された戦前ないし戦中からすでに、この模型店はここに店を開いており、店主の息子だった一曜は、その頃にパイロットを目指して予科練に志願した――といった時系列が想定されるのだろうか。

だが、こうした時代考証めいたディティールにこだわることには、おそらくあまり意味はないだろう。それよりも本質的なのは、この模型店が、3世代を通じて戦争の記憶が継承されてきた場所であり、そのことが看板の右横書きによってより強調されている、ということなのだと思う。

ついで、第2幕の「水晶球」の場面では、九曜が歌いながら、模型店内の父と祖父の遺影の傍らから、かなり大きな零戦の模型を取り出す。この模型は――ラストシーンで登場する零戦と同じく――翼端灯 (右が緑、左が赤) が輝いている。

看板に掲げられたレリーフとこの模型はともに、明らかにラストシーンへの伏線であり、零戦が祖父・一曜から父・忠を経て九曜の世代に受け継がれた戦争の記憶――そして「人を幸せにする翼」という叶えられなかった願い――を象徴していることを示唆しているのだろう。

少し場面は戻るが、第1幕の「一族」は、九曜が二人の遺影を胸に抱きながら歌う。この場面では彼はガードマンの制服のままであり、次の第2場で「公羊」としての前生が明かされることへの伏線になっているのは初演の時と同様だ。が、それと同時にこの歌には、かつて「脱走兵」として謗られた――彼と同じ「曜」の字を名に持つ――祖父と、彼を匿った父の記憶を、「知られたくない」と願いつつも大切に守ってゆこうとする九曜の屈折した思いもまた表現されているのではないか――再演で付加されたこの演出は、「一族」のそのような両義性を示唆しているようにも思える。

天音の衣装、振り付け等について

ビジュアル面での変化としておそらく最も強い印象を与えるのが、豊洲天音 (中村 中) の姿と立ち居振る舞いだろう。

第1幕の「恋なんていつでもできる」では、彼女は二の腕や胸元も露な銀色のタイトなドレスで、九曜を誘惑する妖艶なダンスを披露する (ここがラッキィ池田氏による振り付けだろう)。

後の第2幕で、チンピラに襲われて怪我をした九曜を天音が介抱する場面についても、中島みゆきから「もっと濃厚にガードマンに迫るように」という指示があったとのことだ (パンフレットにある前田祥丈氏の「稽古ルポ・解説」より) 。

天音が九曜に寄せる想いは、おそらく九曜の亡き父・忠 (「呑んだくれのラヴレター」の送り主) への想いを引き継いだものであり、また前生のすあまが飼い主・公羊を慕う気持ちの再生でもあるように見えるが、それと同時に――あるいはそれ以上に――今生において天音が「生きること」へのポジティブなエネルギーの発露という印象を強く受ける。何と言ってもセクシュアルな事柄への情熱は、人あるいは生き物が生きてゆくエネルギーの重要な源泉なのだから…

また、第1幕の「大きな忘れ物」で、銀行強盗が抱えていた現金を人見と天音が横領(?)しようとするドタバタの直後に、九曜が現金の入っていたカバンの蓋を閉める音が大きく反響し、天音が激しくおびえる場面も――コミカル/シリアスのコントラストの強さという点を含めて――非常に印象的だ。

この大きな音の反響は、第2場ですあまが猫籠に入れられる場面で猫籠の蓋が閉じる音として再現され、天音のおびえが前生の記憶に由来することが明らかになる。

3人の関係性について

第1幕での「人見ちゃん、仕事中は名前で呼ばないでください。高橋です」という九曜の台詞に対応して、第2幕では「まだ仕事中ですので、橋元さんと呼んでくださいね」と橋元人見 (中島みゆき) が答える台詞が追加されている。初演では「人見ちゃん」という呼びかけはなく、これらの台詞は――前生で夫婦であった――九曜と人見のあいだもまた気の置けない関係であることを示唆している。

「仕事中」という言葉は、天明の場面で公羊が歌う「男の仕事」の伏線になっているのだろうか――いずれによせ、前生での名前「公羊」「人身」と同音の名前で呼ばれることをお互いが無意識のうちに忌避していることが、初演よりもさらに強調・明示されているのは明らかだ。

また、天明の場面では、最後にすあまを猫籠に入れる人物が、人身から公羊に変更されている。これは「捨て子選び」「男の仕事」の歌詞との整合性という意味もありそうだし、今生のシャッター街でと同様に、前生の天明の時代でもまた、3人相互の関係性がより緊密に描かれているという印象を与える。

水晶球と猫の眼の光

第1幕の「川の音が聞こえる」では、人見が手に持った水晶球と水晶宮の店内に置かれた水晶球とが、同期するかのように青白く光る。また第2幕の「一族」でも、人見が後ろ手に持った水晶球が青白く光り、九曜がそれに脅えながらも惹きつけられるかのように彼女の後に従う場面が、きわめて印象的だ。

これらの青白い光は、あたかも3人の前生の記憶が再生され始める前兆であるかのようで、前作『今晩屋』での消火栓の赤ランプの点滅とも似た役割を果たしているような気がした。

また天明の場面、猫籠に入れられる直前で、すあまの両眼も同様に青白く光る。この演出は、第1幕の幕切れで彼女が歌う「人間になりたい」の「夜を映す青い目も…」という歌詞に対応しているが、さらに上述の水晶球の青白い光と呼応し、来生すなわち「次生まれるとき」へと悲しみの記憶を伝えようとする意志の表現でもあるかのようだった。

風鈴の音

第2幕では冒頭に風鈴が3回鳴り、「夏」という季節を印象づける。日本の「夏」は戦争の記憶と鎮魂の季節であり、風鈴の音は (仏壇のおりんの音にも似て) まず、そのことを暗示しているのだろう。

さらに第2幕の中盤では、「模型の高橋」の軒下に人見が5個の風船を吊るす。これらの風鈴の音は、この世にいない者たち、すなわち、それまでは遺影としてのみ登場していた忠と一曜――あるいは、もし5個という数字に意味があるとすれば、人身・公羊・すあまを加えた5つの魂――の思いを、この世に呼び戻すための「信号」の役割を果たしているかのように思えた (その点では、『今晩屋』での鐘の音の役割とも通じるものがあるのかもしれない)。

メロディーとアレンジの変更

第1幕の「恋なんていつもできる」は、初演でのアップテンポから、上述の天音の妖艶なダンスに合わせて、サックスのイントロで始まるミディアムテンポのアレンジに変更されている。

第2幕中盤の転換点となる「二隻の舟」のイントロでは、チェロが奏でる「水晶球」のメロディが挿入され、水晶球が時の流れを超えて過去を映し出すことを暗示しているようだった。

続く「水晶球」をはさんだ「一族」では、上述の水晶球の色の変化とも呼応しながら、前生の記憶の再生が始まることを予示するかのように、第1幕とは異なる低い音程のメロディ――おそらく主旋律に対する対旋律――を人見が歌う。

第2幕終盤近く、やはり人見が歌う「いらない町」は、第1幕とは異なる短調のメロディに変更され、地下街を襲う絶体絶命の危機が強調される (同じ曲が長調・短調の両方で歌われるのは『今晩屋』の「旅仕度なされませ」でも同様で、やはり悲劇的な運命への転換を印象づけていたことが思い出される)。

「呑んだくれのラヴレター」「国捨て」の歌詞追加、およびラストシーンについて

台詞に関しては、上記以外にも、かなり多くの箇所で追加や改変がおこなわれているが、歌詞の追加部分は、この終盤の2曲で繰り返して歌われる――パンフレットにも記載されている――4行のみである。この4行は、「緑の手紙」というこの物語の鍵となる謎めいたモチーフの意味を明確化するという、きわめて重要な役割を果たしている。

まず冒頭の

その手紙に鍵は無く その手紙に主は無く

というフレーズは難解だが、「鍵は無く」とは、その手紙はすべての受取人に対して開かれており、その意味は誰にでも自由に読み取れるはずだということを、また「主は無く」とは、その手紙の送り主は個人としての一曜なのではなく、「幸せにする翼」という願いを戦争によって奪われた――パイロットや技術者たちをはじめとする――すべての人びとなのだということを、それぞれ意味しているようにも思える。

それに続く

あるはずの銃も無く あるはずの武器もない
見るがいい その場所には 輝く何かが見える

という2行は、ラストシーンに登場する零戦の両主翼の20mm機銃のあるはずの場所に、眩い前照灯が点ることへの明らかな伏線だろう。この大道具の効果自体は初演と同様だが、「人を殺す道具ではなく……」という一曜の願いをさらに強調するための追加歌詞となっている。

そして、

暗い水の底から 空へ

という追加部分の最後のフレーズは、かつてこの地で人柱となった人身たちの魂が救済され、天空へ羽ばたくというラストシーンの意味を、より鮮明に表現する。

水底あるいは地上から天空へという垂直軸の上昇が、過去(前生)から未来(来生)への飛翔、すなわち過去の救済と重ね合わされるというビジョンは、『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』『今晩屋』という夜会の近作で繰り返されてきたパターンの反復でもあり、その意味でも『橋の下のアルカディア』がもつ集大成的な位置づけ――決してこれで「完結」ということはないにせよ――を再認識させられる思いだった。

第2幕終盤近く、「猫にだけ見えるもの」の前後で、地下街の店が消えてゆくのに代わって、両袖に巨大な石の壁――クローズアップされた橋脚だろうか――が出現する。「India Goose」とともに零戦が飛び立つラストシーンでは、この巨大な石の壁あるいは橋脚が崩壊し、その崩壊後の巨大な瓦礫が、カーテンコールと舞台挨拶のあいだずっと、そのまま中空に残っている。

全体的印象

『橋の下のアルカディア』の物語の全体的な構造は、初演と大きく異なることはなく、ただ、「捨てられた」者たちの救済という基本的なメッセージが、上述のようなさまざまな変更点を通じて、より明瞭に力強く伝わってきた――というのが第一印象だ。

ただ、どちらかといえば初演では、そのメッセージが最終的には、一種の静謐な祈りのようなものとして胸の中に残ったのに対して、今回の再演では、もっとダイナミックな、今のこの現実を懸命に生きようとする衝動あるいは情熱のようなものとして、余韻を響かせているような気がする。

そうした印象の変化は、直接的にはおそらく、上述のように天音のセクシーな演技がより強調されていることや、ラストシーンでの橋脚の崩壊という視覚的効果のインパクトによるものかと思う。

静と動、祈りと情熱――それらの両面はいずれも、この『橋の下のアルカディア』という作品世界がもつ深さ、豊かさの反映であろう。

――以上、いささか箇条書き的な羅列が多くなってしまったが、千秋楽を迎えるまでは、まだ夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』という「作品」は完結していない。千秋楽を観た後に、この記事では書ききれなかったことを――上述のような細部のみならず、この作品全体に含まれた多層的な意味についても――改めて考えてみたい。


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