11月22日(金)、赤坂ACTシアターにて、夜会工場VOL.1の初日を観てきた。まだその興奮と余熱が冷めやらぬ今のうちに、第一印象を記しておきたい。
初日の数日前から――前の記事に書いたことの繰り返しになるが――ツアーとも夜会とも異なる新形式のライヴ、それもその初日を目撃するということへの胸騒ぎまじりの期待が、私の中でいやが上にも高まってきた。
私にとって初めての中島みゆきのライヴは1983年の「蕗く季節に」ツアーだったから、それからちょうど30年目になるわけだが、こんな感覚を味わうのは、もしかしたらその時以来、実に30年ぶりのことかもしれない。
開場後、ロビーでシャンパンを求め、ひとり祝杯をあげた後――何人か友人・知人が来ているはずだが、残念ながら見つからず――早めに席に着く。今回、この会場では初めての2階席、それも後方だが、幸いにもほぼセンターに位置しているため、舞台の全体をとてもよく見渡すことができる、その意味では良席である。
舞台はまだ暗いが、緞帳は降りていない。「工場」をイメージした灰色の石造りの壁面・床面と、黒い金属製の階段や機械類のオブジェで構成された、ラフでシンプルな舞台装置。
まだ開演前、1ベルが鳴り場内アナウンスが終わると、シンセの自動演奏 (録音?) による静かでゆったりとしたテンポの「二雙の舟」が流れはじめ、ミュージシャンたちが上手・下手に分かれたステージの上に登場し、黒い作業服姿のスタッフたちが、床の上にあった雑多な機械類(?)を片付け始める――
――この、日常から非日常への静かで段階的な移行は、私の中でいやが上にも高まってくる期待を確実に受け止め、やがて始まる異界への旅に、私を見事に誘ってくれた。
――さて、この調子で開演から終演までをフォローしてゆくときりがなくなるので、時系列順の流れはこの記事末尾の曲目表に、また演出や衣装等の詳細は他の方々が書かれているサイトやブログでのレポートに譲ることとする。
以下では、できるだけ簡潔に、私の印象や記憶の中でも、とくに重要と思われることだけに焦点を絞ってまとめておきたい。
全体的印象
まず、初日を観終っての全体的な印象として――やや月並みな表現ではあるが――「極上のエンターテインメント」を息つく暇もなく、これでもかというほどに体感し堪能しきった、という実感がある。
中島みゆき自身の歌の、どこまでも伸びてゆく声と言葉の力強さ、15着もの多彩な衣装も相まってのビジュアルの美しさ、共演者を含めたパフォーマンスの見事さ、ミュージシャンたちの繊細・柔軟かつパワフルなアンサンブル、上記のシンプルな舞台装置を巧妙に活かした演出――
それらのすべてが有機的に結合し、「猛スピードで駆け抜ける工場ツアーのトラム」に運ばれてゆく疾走感が、見事にひとつの流れとして構築されていた。最近の夜会やツアーのように休憩をはさまず、一気に駆け抜ける2時間の工場ツアーは、あっという間に過ぎ去ってしまった感もあった。
例によって歌詞忘れや歌詞間違いと思われる箇所は何度かあったが、それらは全体の感銘を傷つけるようなものでは決してなく、むしろそれさえも、初演という緊張感を高めてくれる要素となったような気さえした。
案内役の工員に扮した中島みゆき自身が冒頭のMCで述べていた通り、今回の「夜会工場VOL.1」は、これまでの17作の夜会を「制作年代順に一周する」、「初心者向けコース」とのことだ。
しかし、これが「初心者向け」だとすると、中島みゆきの私たちオーディエンスに対する要求水準は、かなり高いものだと言うべきかもしれない。
夜会のライヴや映像ソフトに接したことのない本当の「初心者」が、この「夜会工場」からどんな印象を受けるかはちょっと想像がつかない。が、これまでの大半の演目をライヴで――一部を映像ソフトで補完しながら――観てきた私にとって、各演目から抽出された1曲ないし2曲と、それぞれの場面との再現は、各演目のテーマやストーリー、さらにはそれらにまつわる個人的な記憶をも含めた、広い意味での「文脈」から切り離しては、決して聴くことの、また観ることのできないものだ。
事実、とくに冒頭の数曲、初期の夜会の曲目と場面の再現では、その頃の個人的記憶が思わず再浮上し、何度も感極まることを禁じ得ない瞬間があった。
だが、この「夜会工場VOL.1」は、これまでの夜会を単に回顧するための「総集編」でも「集大成」でもない。
「溶鉱炉に溶かしてさらに次のものを作る」、「集大成ではなくて別の子が1人生まれた感じ。区切りではない」という (下記、新聞記事の一覧にもある「スポーツ報知」の記事のインタビューでの) 中島みゆき自身の言葉も、そのことをはっきりと裏付けている。
――だとすれば、少なくとも、これまでの夜会の演目を記憶している (私を含めた) オーディエンスに今回要求されているのは、VOL.1からVOL.17までの夜会の物語群を――私たち自身のそれらにまつわる記憶をも含めて――俯瞰しつつ、それらの「原料」あるいは「部品」であった個々の曲目や場面を、さらに新たな物語――「製品」――へと組み立てなおすという作業なのだろう。
それは、夜会という物語についての物語――いわば「メタ物語」――を構築する想像力、と言い換えてもよいかもしれない。
さらなる転生の物語へ
以下では、私なりのその組み立て直し作業のひとつの試みとして、「夜会工場」VOL.1がその全体を通して私に語りかけてきた――あるいは語りかけようとしていた――物語を再構成してみたい。
ただしこれはあくまでもひとつの「試論」であり、後日の公演を観ることで修正される可能性もある。
今回の曲目を振り返ってみると、前半――夜会VOL.1からVOL.9まで――の流れが意味していたのは、あらゆる悲しみや挫折を超えて、「未来」へと向かってゆく希望であったように思う。
悲しみから希望への転換点となるのは、「地上に悲しみが尽きる日は無くても……それに優る笑顔がひとつ多くあればいい」と歌う、「泣かないでアマテラス」である。
植野葉子と香坂千晶の、あのアメノウズメの衣装での見事なパフォーマンス――やがてそこに中島みゆきが加わる――とも相まって、この曲と場面は、夜会VOL.4『金環蝕』の記憶を正確に再現しつつ、今回の「夜会工場」VOL.1前半の最大のハイライトともなっている。
そして、この前半の――未来の希望への――流れの到達点は、夜会VOL.9『2/2』からの「NEVER CRY OVER SPILT MILK」に置かれている。
クリスマスツリーを思わせる、電飾された機械のようなオブジェ――それは「幸福」の象徴でもあるのだろう――の前で、まず紫のタキシードのような上着を着た宮下文一がソロで歌い、ついで同じく紫のドレス姿の中島みゆきが加わり、デュエットとなる。
過去のすべてが私の邪魔をしても
あなたとならば明日がある気がしてくるの
――それは、『2/2』のヒロイン莉花の、過去と訣別して未来の幸福へと向かう決意を表明する歌だった。しかし、やはり『2/2』においてもそうであったように、莉花のその決意も、「過去」の呪縛を振りほどくことはできなかったのだ。
後半――夜会VOL.10からVOL.17まで――の視点は、その「過去」へと向かってゆく。
転換点となるのは、「過ぎた日々と明日とは支え合う弥次郎兵衛」と歌う、「明日なき我等」である。この場面で、背後の窓の向こうに広がる青く美しい海は、「我等」がさすらう「渦巻く時の波間」――過去と未来とのあわい――をも意味していたのかもしれない。
ついで、同じく夜会VOL.10『海嘯』の「白菊」では、取り戻すことの決して叶わない日々への、限りなく悲痛な想いが歌われる。
雪よ返せ すべてを真白きあの日々に
雪よ返せ 私を別れの前の日に
夜会VOL.11/12『ウィンター・ガーデン』の舞台となったのは、まさに真白き雪と氷の世界であった。
『天使の階段』で、純白のウェディングドレスにつつまれて登場する中島みゆきの姿は、思わず息をのむほどに、そして哀しいほどに美しい。
その哀しみは、『ウィンター・ガーデン』でのこの場面――〈犬〉の前生、GLASSHOUSEの主人を訪ねてきて、氷の湖で命を落とした愛人――の記憶からくるものでもある。あの時、彼女が大事そうに抱えていた彼との思い出の赤いCAP (野球帽) は、今回の場面では、紫色の男性の上着――上記の「NEVER CRY OVER SPILT MILK」で宮下文一が着ていたのと同じもの(?)、あるいは披露宴の新郎の衣装(?)――に変わっている。
ウェディングドレスと紫の上着は、喪われた過去――あるいは前生――の幸福の、まさに象徴なのであろう。
そして、やはりあの赤いCAPと同じように、紫の上着も強風で氷の上に飛ばされ、それを追ったウェディングドレスの中島みゆきは、氷の間に姿を消す――
取り戻しようのない過去――あるいは前生――の救済への希望は、夜会VOL.13/14『24時着0時発』『24時着00時発』の「命のリレー」で歌われる、「次の宇宙」すなわち「来生」への転生へと託される。
しかし、いま私が生きているこの生――「今生」――も、もしかしたら、忘れてしまった「前生」からみた「来生」だったのかもしれない――夜会VOL.15/16『今晩屋』の不思議な手鞠歌「らいしょらいしょ」は、この、さらにめくるめくような視点の転換をもたらす。
――だとすれば、いまこの「今生」を生きている私は、自らの「前生」の願いを引き継ぎ、その救済への希望を、果たして叶えることができるのだろうか。
『今晩屋』第1幕の終曲であった「都の灯り」――炎の中に崩れ落ちる「来生」への、僧形の厨子王の、絶望的とさえ思える脱出――は、この答の出ない問いを改めて思い出させ、私に突きつける。
夜会VOL.17『2/2』の「竹の歌」は、「ただまっすぐに光のほうへ」伸びてゆく、勁くしなやかな生の象徴として、この問いへの答を、私に与えてくれているのだろうか――
異界への旅、転生、そして救済の物語としての夜会――
その旅はまだ未完であり、さらなる転生の物語を、これからもまた夜会は紡ぎ織りなしてゆくだろうという期待と予感を、「夜会工場」という「メタ物語」は、私に与えてくれるような気がする。
「産声」を歌うこと
終演後、玄関前で再会した、古くからのみゆきファン仲間の知人から、「最後に、これまでの夜会のような、もう一段上のどんでん返しがなかったことが物足りなかった」という意味の感想を聴いた。
その感想は――各演目のラスト曲やそれに準ずる代表曲をもっと聴きたかったとか、中島みゆき自身の歌をもっと堪能したかったとかの、ネット上に散見される不満よりも――はるかに正確に、「夜会工場」という新たな試みの本質を射抜いているような気が、私にはした。
「もう一段上のどんでん返し」は、これまでの夜会では、個々の夜会の中で語られる物語の全体をさらなる高みから俯瞰し意味づけなおすような曲や場面――たとえば最近では、VOL.17『2/2』の第3幕や、VOL.13/14『24時着0時発』『24時着00時発』のラストの「サーモンダンス」「命のリレー」――として、基本的には中島みゆき自身が、私たちに提示してくれていた。
だが、「夜会工場」ではその作業は、基本的には私たちオーディエンスに委ねられているのではないだろうか――
そのように感じる大きな理由のひとつは、冒頭とラストの2度歌われる――「夜会工場」のテーマ曲とも思われる――新曲「産声」にある。
開演の挨拶の後、「Aトーンが聴こえてきます。あらゆる民族の新生児が、産声として最初に発する声が……」という中島みゆきの言葉が導入となり、ピアノのA (ラ) の単音の繰り返し――オーケストラやバンドの最初のチューニングの時に使われるあの音――が、この曲のイントロへとつながってゆく。
それは、「誕生」あるいは「再生」という、これまで中島みゆきが、夜会も含めたさまざまな作品の中でくりかえし歌い語ってきたテーマ――そのことについては、ずいぶん昔にも同人誌の記事に書いた――の反復であるようにもみえる。
また、同時にこの曲は、中島みゆき自身がこれまでの夜会のために産み出してきた、さまざまな歌たち――あるいは、それらを通じて語られた物語たち――に寄せる想いを歌った歌でもあるのだろう。
――しかし、その二重の意味を踏まえたうえで、さらにこの歌は、私たちオーディエンスへの中島みゆきからの希望と期待をこめたメッセージであるようにも聴こえてくる。
誰か私のために あの歌を歌ってください
まだ息をするより前の 産まれながらに知っていた歌を
誰か私のために あの歌を歌ってください
産まれくる総ての人が 習いもせずに歌える同じ歌
産まれながらに知っていた「産声」を、もう一度歌いなおすこと――
それは、私たち自身が自らの生の中で新たな生へと「産まれなおす」こと――そしてそのことによって、転生の物語としての夜会を、私たち自身がさらに新たな転生へと導くための力になるということ――を意味しているようにも、私には聴こえた。
【キャスト】
- 中島みゆき
- 植野葉子
- 香坂千晶
【ミュージシャン】
- 小林信吾 (Conductor, Keyboards)
- 矢代恒彦 (Keyboards)
- 中村哲 (Keyboards, Saxophone)
- 古川望 (Guitars)
- 富倉安生 (Bass)
- 島村英二 (Drums)
- 杉本和世 (Vocal)
- 宮下文一 (Vocal)
- 牛山玲名 (Violin)
- 民谷香子 (Violin)
- 友納真緒 (Cello)
【曲目】
- 二雙の舟 Inst.
- 産声
- 十二月
- 月の赤ん坊
- キツネ狩りの歌
- さよならの鐘
- 泣かないでアマテラス
- 笑わせるじゃないか
- シャングリラ
- TOURIST
- SMILE, SMILE
- 女という商売
- NEVER CRY OVER SPILT MILK
- 明日なき我等
- 白菊
- 街路樹
- 天使の階段
- ミラージュ・ホテル
- 命のリレー
- らいしょらいしょ
- 都の灯り
- 竹の歌
- 産声
- 二雙の舟
おじゃまします。ご無沙汰しております、めんとれです。私は今夜、25日に行きました。観戦後にこの記事を読ませていただきました。いつもながら、ふむふむと感心してしまいました。みゆき教全開モードの夜会工場という印象です。
ところで、みゆきさんの、あのハイヒールとパンツ姿ですが、怪獣の着ぐるみ以外は15変化?のときも変わらずでした。何か意味でもあるのでしょうか。Vol.5では、裸足に拘っていたみゆきさんですから。
視覚的には、単純に考えると、あのハイヒールで、みゆきさんの本来とても美しい筈の立ち姿、それに伴う所作が、いかされず、滑稽な格好のみゆきさんを舞台上で観ることとなり、涙しました。
では、また。
めんとれさん、お久しぶりです。コメントありがとうございます。
今回、非常に動きの多い舞台であるにもかかわらず、靴がずっとハイヒールであることには、たしかに何か意味がありあそうですね。
初日は、そこまで注意力を振り向ける余裕がありませんでしたが、今日の追加公演も(初日よりはやや前の席で)鑑賞しますので、そのあたりもじっくり観察してきたいと思います。