「龍馬伝」がとうとう最終回を迎えてしまい、いま自分でも少し意外なほどの虚脱状態の中にいる。
暗殺者の刃に倒れながらなお、 「わしの船は、どんな嵐やち沈まん!」と、世界の海を渡る夢を、ともに倒れた盟友・中岡に叫ぶ瀕死の龍馬。
残された妻・お龍が、太平洋の波が広々と打ち寄せる龍馬の故郷・土佐の浜辺で、 「この海の向こうには、広い広い世界があるがじゃぞ!」と語る彼の姿を幻視するラストシーン。
龍馬にとって海の向こうに広がる世界とは、帝国主義的な権謀術数が渦巻く当時の現実の世界というよりは遥かに、彼が夢見た理想――「みんなが笑うて暮らせる国」――が体現される世界であったに違いない。
そうした夢想家としての龍馬像は、歴史的なリアリティからは多分に逸脱したものであったかもしれないが、むしろそうであるからこそ、現代のわれわれにもなお、彼の夢と志とを受け継がせようとする存在でありつづけているのだ。
前の記事で書いた、中島みゆきの夜会「24時着0時発」の主人公は、自らのささやかな生の幸福を犠牲にすることによって、世界を転轍し、救済へと導く。
それと同じように、――かつての司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や、今回の「龍馬伝」のようなフィクションによる構築を多分に経たものではあれ――坂本龍馬という形象がわれわれにとってもつ魅力の本質は、まさにそのような意味での、 「歴史の転轍手」としての形象にあったのだと、改めて思う。