夜会VOL.17「2/2」大阪公演の千秋楽 (2012年2月21日) から、早くも1年9ヶ月近くが経った。
できれば現在ロードショー中の劇場版を観に行きたいところだが、残念ながらその時間が取れそうになく、自宅で――家族が出かけた休日の午後、大型TVでじっくりと――ブルーレイディスクを鑑賞することにした。
評判どおり、映像ソフトとしての完成度は非常に高い。舞台の記憶が忠実に、鮮明に再現されるだけでなく、ライヴでは観ることが困難な細部のクローズアップがうまく挿入され、記憶を補完してくれるのは、映像ソフトならではの大きなメリットだ。
自宅に居ながらにして、ワインのグラスを傾けながら、夜会の舞台を堪能する贅沢な時間を過ごすことができた。
この演目の内容や解釈に関しては、一昨年に書いた東京公演のレビューに付け加えるべきことは、基本的にはあまりない。
ただ、とくに第1幕第2場、コビヤマ洋一演ずる日本画家・矢沢圭のアトリエの場面を観ていてふと思い出したのは、もうひとつ前の夜会、VOL.15/16「今晩屋」で、同じく彼が演じた〈元・画家のホームレス〉(転生した厨子王) のことだ。
「海に絵を描く」の場面での、意志に反して動く右手の絵筆 (VOL.16では左官のコテ) に引っ張られるかのように、苦しげに空中に絵を描く身振り。それは――この夜会のすべての登場人物が苦しめられることになる――前生の記憶による呪縛の表現のひとつだった。
VOL.17「2/2」では、中島みゆき演ずる上田莉花が、やはり鏡の中のもう一人の莉花に操られるかのように絵筆をとり、圭が描いた自らの肖像画を描き変えてしまう。
――いずれの場合も、「絵を描く」ということは、自らの生を自らの意志によって生きるということの暗喩なのだろう。
そのように考えると、このVOL.17で追加された新曲「遠近法」の次のような歌詞も――この段階では、まだそのことをはっきりと認識できているわけではないが――抑圧された過去の記憶に苦しめられている莉花を目の前にして、どうすることもできない圭の焦燥の表現として聴こえてくる。
遠くにある 過去にある 遠すぎて描けない
そこにある 傍にある 近すぎて描けない
だとすれば、第2幕での「真実の灯をかざして」莉花の過去を明るみに出そうとする彼の旅は、ひとりの画家として、愛する者の真実の生を描き出すための旅でもあった、ということになるのだろう。
――さて、夜会工場VOL.1の初日まで、いよいよ1週間を切った。
キャストやミュージシャン、スタッフもすでに発表され、「――何の工場だろうか……」で始まる思わせぶりなコピーも気を持たせる。
厳密にはこれまでの夜会ともコンサートとも異なる、この新形式のライヴの具体的な内容については、まったく予断を許さないというほかはない。
「夜会VOL 17 2/2劇場版」公開記念トークショーに出演した香坂千晶と植野葉子のお二人も――当然のことながら――夜会工場については、リハーサル中という以上のことは何も語っていない。
ただ、ヴァイオリンの牛山玲名さんのブログ記事での、「五感のみならず第六感までを駆使するのが役者ならば、私も六感までを表現する奏者になろう」という言葉は、胸騒ぎ交じりの期待を大いに高めてくれる。
――その胸騒ぎを楽しみながら、初日を待ちたい。