夜会工場VOL.2、12月11日と13日の大阪フェスティバルホールでの公演を観た。
叶うことなら初日、11月26日の府中公演に臨みたかったのだが、チケットは予想を超える大激戦であえなく連戦連敗。また12月上旬の福岡公演への遠征も諸般の事情でままならず、地元関西での11日の公演が私にとっての初日となった。
昨年1月の『一会』以来のフェスティバルホール――エントランスに足を踏み入れた瞬間に、かつての旧ホールの時代から変わることのない、ライブへの予感を秘めた華やかな空気感が、私の身をゆったりと包んでいく。
開場前から開演前、何人かのみゆきファン仲間たちと交わす会話は、ファン同士の絆を再確認する貴重なひと時だ。
開演15分前、客席に就く。舞台上は灰色の石造りの壁に囲まれ、両袖にはミュージシャンが陣取る黒い鉄骨の高い台、そして中央の床上では、薄明の中、工員――作業服姿のスタッフたち――が道具類を運びながら行き来しはじめる。日常から非日常への、緩やかな遷移――このプロローグは、4年前の夜会工場VOL.1とほぼ同様だ。
やがて開演ベルが鳴ると間髪を入れず、両袖のミュージシャンたちが、あの懐かしい「二雙の舟」のイントロを奏ではじめる。とりわけ、弦がしなやかに歌う主旋律が美しい。
――こうして私は、「夜会を作る工場」の現場を4年ぶりに訪れることになった。
以下、公式の上演台本と、いつもながらビジュアルな記憶の再現の鮮やかさに驚嘆させられる、ぴしわさんのブログ「夜会工場 vol.2 覚え描き」とを参照しながら、とりわけ強く印象に残ったことを中心にレビューしていきたい。
懐かしさと新鮮さとの相乗
夜会工場VOL.2の第一印象をあえて一言にすれば、懐かしさと新鮮さとの相乗、ということに尽きるだろうか。
これまで四半世紀を越える時間の中で、私の中に堆積してきた数々の夜会の舞台の記憶を、その熱量とともにありありと蘇らせられながら、それと同時に、それが単なる懐古ではなく、つねに清新な何かの発見をももたらしてくれている、という実感に、ずっと興奮させられ通しだった。
そうした印象はやはり、これまで同じ舞台に立ったことのないメンバーをも含む男女6人の共演者が、キャスト兼ヴォーカリストとして活躍したことによるものが大きいだろう。
男性キャストが宮下文一と石田匠の二人になったこと、またとりわけ石田匠は、夜会では中島みゆき自身が演じる女性役だった天文学者(『金環蝕』より「最悪」)やメイ(『シャングリラ』より「南三条」)をも演じ、彼のハイトーンのヴォーカルの魅力とも相まって、ジェンダー的な表現の幅が大きく広がり、夜会に潜在していた――これまで想像もしなかった――世界の新たな可能性を発見させられたことが、とても印象的だった。
宝塚出身の植野葉子、香坂千晶の二人は、今世紀に入ってからの――VOL.12以降の――夜会や夜会工場VOL.1では、もっぱら舞台上の演技に専念してきたが、今回は「愛から遠く離れて」「陽紡ぎ歌」「フォーチュン・クッキー」などで久々に美しいハーモニーを披露し、彼女たちの歌手としての実力をも大いに再認識させられた。
夜会工場には初登場となる中村 中は、夜会1990での若き日の中島みゆきを髣髴とさせるオフィスガール姿での「Maybe」の清新な健気さ、『花の色は…』秋の場の祭半纏姿で、中島みゆきよりもずっと高いキーで歌う「船を出すのなら九月」のフェミニンな魅力等々、『橋の下のアルカディア』でのあの鮮烈な歌と演技が、更なる多様な演目にも展開する潜在力を秘めたものであったことを実感させた。
そして――これはVOL.1の時も同様だったが――夜会では舞台下でヴォーカルを担当する杉本和世と宮下文一とが、舞台上のキャストとして登場することが、まさに「夜会工場」というコンセプトを正確に可視化していることに改めて注目したい。
『ウィンター・ガーデン』では能楽師が演じた〈槲〉役での詩「傷」の朗読や、『2/2』では男優が演じた矢沢圭役で力強く歌う「旅人よ我に帰れ」は、つねに「声の演技力」で夜会に貢献してきた宮下文一の、まさに面目躍如というべき見せ場であり聴かせどころだった。
そして、実質的な1曲目の「泣きたい夜に」、実質的な本編ラスト曲の「あなたの言葉がわからない」という両端の2曲を、いずれも杉本和世とのデュエットで歌ったことは、この永年のパートナーへの中島みゆき自身のオマージュであるとともに、夜会そのものの記憶へのオマージュでもあるように思えた。
彼女たち、彼ら6人の活躍の反面として、中島みゆき自身の歌が相対的に少なくなったことに関しては様々な感想があるだろう。
だが、それぞれに多彩で存在感十二分な共演者たちの歌と演技には、中島みゆき自身の意思が強く反映していることがはっきりと感じられ、彼女たち・彼らを率いる「座長」としての彼女のパワーに圧倒させられる思いだった。それも、共演者たちが自らの個性を抑制するのではなく、むしろそれぞれの個性を存分に発揮することが、同時に中島みゆきの意思の正確な反映となっていることことが重要だ。
他者という「故郷」との出会い
夜会工場VOL.2全体のメッセージ的内容についても、とりあえずの印象を記しておこう。
VOL.1では、初日のレビュー に書いたとおり、未来→過去(→転生)という時間的な流れが全編を貫いているように感じたが、あえてそれとの対比で言えば――
VOL.2を貫いているのは、故郷(くに)の喪失→新たな故郷 (としての他者) との出会い、という空間的な流れ、とでもいうべきものなのではないか。
そのように直感した大きな要因は、セットリストの中でもとりわけ重要なポイントとなる――いずれも中島みゆき自身が歌う――次のような曲の流れにある。
第1幕中盤、3人のアメノウズメ――中島みゆき、植野葉子、香坂千晶――が舞い歌う「EAST ASIA」は、VOL.1での「泣かないでアマテラス」とも対になって『金環蝕』大詰めの神話的世界を鮮やかに再現し、「EAST ASIA」という自らの「くに」への愛を高らかに謳う。
しかし第1幕ラスト、故郷への遡上の道を閉ざされた〈鮭〉たちが声を合わせる「我が祖国は風の彼方」(『24時着0時発』) では、「時の彼方」「波の彼方」「空の彼方」にある祖国への遥かな思いが、「いつの日にか帰り着かん」と哀切な憧れをこめて歌われる ――この7人全員による大合唱は全身が震えるほどに感動的であり、中島みゆきが6人の共演者を起用したことの必然性が最も強く感じられる場面でもあった。
そして第2幕終盤で、それまでの演目時系列順の構成から離れて演奏される3曲――「思い出させてあげる」「旅人よ我に帰れ (幸せになりなさい)」「あなたの言葉がわからない」――が、新たな故郷との出会いへの道をかたちづくる。
『シャングリラ』でメイが歌う「思い出させてあげる」は、女主人・美齢(メイリン)への復讐の思いをこめた歌だった。その演出自体は、夜会工場VOL.2でも基本的には変わっていない。しかし、そのネガティブな意味は、驚くべきことに、それに続く場面の流れの中で、「忘れていた」記憶を「思い出す」ことによる救済を意味するものへと反転していく。
宮下文一が歌う上述の「旅人よ我に帰れ」で、「旅人」の「帰り道」を照らす「真実の灯」に導かれるかのように、舞台背面の大扉が開き、美しい緑の竹林の中からアオザイ姿の上田茉莉 (中島みゆき) が歩み出る――彼女が歌う「幸せになりなさい」によって、双子の妹・莉花は偽りの自責の記憶から解き放たれ、『2/2』は約分されて『1』として再生し、遂に自らの人生を歩み始めることが示唆される。
これまでの夜会のいくつかの演目でもそうだったように、舞台背面の大扉――最近では『橋の下のアルカディア』のあの零戦の格納庫が記憶に新しい――は異界との通路であり、救済への道を開く扉となるのだ。
第2幕の実質的な終曲「あなたの言葉がわからない」もまた、アイデンティティの再生への祈りの歌である。自らが操った言葉という武器の罪に苦しむアナウンサー綾瀬まりあ (中島みゆき) と、タイ人娼婦 “26000円” (杉本和世) との偶然の出会い――逆説的にも、言葉の通じない彼女との手探りのコミュニケーション、言葉という国境を越えた他者との出会いこそが、まりあの心を再生へと導くことが予感される。
――この場面の背景全面、街の灯と満天の星空とが溶け合いながら輝きを増していくさまは息を呑むように美しく、まるでそここそが、彼女たちの新たな故郷であるかのようだ。
そして付け加えるまでもなく、全編を締めくくる夜会工場のテーマ曲「産声」――産まれた国の違いを超えて「習いもせず歌える同じ歌」を聴くことへの希い――こそは、そのような他者という新たな「故郷」との出会いへの希いでもある。
――上述のような、故郷の喪失→新たな故郷 (としての他者) との出会いというストーリーの原型は、「旅を続ける人々は/いつか故郷に出会う日を……」という「時代」のよく知られたフレーズに見出すことができるかもしれないし、また中島みゆきが最初期のコンサートのMCで語っていた、「故郷 (ふるさと) は、場所なのかもしれないけれど、故郷は、人だったような気もして……」という意味の言葉にも遡ることができるのではないかと、懐かしく思い出したりもする。
「夜会工場」というライブ形式について
VOL.2で導入された、舞台上部の電光掲示板による演目の表示や、案内役としての中島みゆき自身による各演目のストーリーの解説は、必ずしも夜会に詳しくないオーディエンスにも、夜会の魅力を伝えるうえで大いに役立っていたように思う。このあたりは、VOL.1と較べての進歩というべきだろうか。
ただ、その一方で、ラストの「産声」を歌う前に、ファンサービス(?)として「慕情」の冒頭だけ――それも意味深にも「時に情けはない」まで――を歌い、「おわり。ストレスの溜まるサービスタイムでした」とオーディエンスを笑わせる演出は、単なる余興というよりも、むしろ、夜会工場という新たなライブ形式への中島みゆきの強烈な自負を踏まえた、オーディエンスに対する一種の韜晦であるように思えた。
今回のMCでも中島みゆき自身が語っているように、夜会は、コンサートとは異なる新たな文脈、新たな物語を設定することで、自らの作品に新たな意味、新たな生命を吹き込む試みだった――「言葉の実験劇場」という初期の夜会の別称は、まさにそのことを意味していた。
だとすれば夜会工場は、夜会に対して同じことを再帰的に試みる形式、いわば「言葉の実験劇場の実験劇場」とでもいうべきものなのではないか。あるいは――上述のVOL.1のときのブログ記事でも書いたように――夜会という物語についての物語、「メタ物語」とそれを呼んでもよい。
関西地域のイベンター「夢番地」の最近の会報に掲載されたインタビューの中で彼女は、「「夜会工場」は工場を作って、その中に夜会の舞台を作るわけですから夜会よりも大きいホールにしないと」と語っている。このようなホールの物理的規模への配慮もまた、上述のメタレベルの視点の存在を裏づけるものだろう。
初期の夜会がファンに――それも、永年の熱心なファンにこそ――多くの戸惑いを生んだように、夜会工場もまた、そうした戸惑いの源泉になっている可能性はある。
しかし、上述のような新たな発想と挑戦とに満ちた実験の数々は、夜会という世界が、これまでに実現してきた以上に遥かに豊かなパラレルワールドとしての可能性を孕んでいることに、はっきりと気付かせてくれる。そのような新たな数々の世界に出会うことへの希望が、夜会工場という新たな形式によって初めて開かれたのだ。
上述のVOL.1のときのブログ記事で、私は
異界への旅、転生、そして救済の物語としての夜会――
その旅はまだ未完であり、さらなる転生の物語を、これからもまた夜会は紡ぎ織りなしてゆくだろうという期待と予感を、「夜会工場」という「メタ物語」は、私に与えてくれるような気がする。
と書いた。夜会工場VOL.2は、それらの期待と予感を、より確実に力強く私の中に膨らませてくれる。
【セットリスト】
第1幕
- 二雙の舟(Inst.)
- 泣きたい夜に
- Maybe
- LA-LA-LA
- 熱病
- 最悪
- EAST ASIA
- 船を出すのなら九月
- 南三条
- 子守歌(Inst.)
- 羊の言葉
- 愛から遠く離れて
- 谷地眼(詩)
- 傷(詩)
- 朱色の花を抱きしめて
- 陽紡ぎ唄
- 帰れない者たちへ
- フォーチュン・クッキー
- 我が祖国は風の彼方
第2幕
- 百九番目の除夜の鐘
- 海に絵を描く
- 彼と私と、もう1人
- ばりほれとんぜ
- 1人で生まれて来たのだから
- すあまの約束
- 袋のネズミ
- 毎時200ミリ
- 思い出させてあげる
- 旅人よ我に帰れ(幸せになりなさい)
- あなたの言葉がわからない
- 産声